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鶴野は幼い頃は雁夜と同じ様に間桐の魔術を学んでいたが、その才が雁夜に著しく劣ると判断されると捨て置かれる様になった。父である臓硯は彼に興味を失った。
鶴野は醜悪な間桐の魔術から逃れられる事に安堵し喜んだが、同時に彼の小さな自尊心は砕け散った。彼は今まで自分が凡俗と、世界の真実を知らぬ愚か者と馬鹿にしていた人々と同じになった。何より、虐待された子供がそれでも親を求めるのと同じように、幼い彼には父親が必要だった。
鬱屈した感情の矛先は自分からそれを奪った雁夜へと向かった。
それが変化したのは、雁夜が蟲蔵に入った日の事だった。
魔蟲が蠢く蟲蔵の醜悪さは鶴野も知っていた。そこで人が蟲に喰い殺される所も見た事があった。鶴野はそんな場所に自ら踏み込んだ雁夜の事が理解出来なかったし、彼も喰い殺されてしまえば良いと思っていた。
魔蟲に蹂躙されボロボロにされて蹲る雁夜の姿を見るまでは、彼はそう思っていた。
気付けば彼は蟲蔵へと踏込み、雁夜を担ぎ出していた。
雁夜を廊下に寝かせ、毛布を取りに行く段になってから、恐怖で全身が震えたのを覚えている。鶴野はようやく間桐の魔道について心根から理解した。
その日を境に、雁夜は鶴野に良く懐く様になった。
鶴野も雁夜に対する鬱屈した感情は薄れていた。
しかし、雁夜はいなくなった。
高校生になり、外の世界を知って鶴野は魔術からは目を逸らした。幸い彼は優秀で、何をやってもそこそこの成果を出した。彼の事が好きだという人間も現れた。鬱屈した感情は消え去って、彼は人生を謳歌しようとしていた。
だが、間桐の血は彼を逃しはしなかった。
要らないと言われていたのに、悍ましき魔術の世界へと再び引き摺り込まれた。
今度は幼い頃の様な生易しい物では無い。
蟲蔵で蹂躙され、延々と続く苦痛に苛まれ、
桜は心を空っぽにする事で心が壊れない様にした。
雁夜は魔蟲に脳を弄らせ、苦痛をシャットアウトした。
そして、鶴野は全てを呪う事にした。
間桐を、魔術を、何より自分を置いて逃げ出した雁夜を呪った。
桜が現れ、臓硯の興味がそちらへ向いた時、彼は心底安堵した事を覚えている。
桜の教育係になり、間桐の技を使って、彼女を蹂躙する事にも躊躇は無かった。
蹂躙する側に回れば、自分が蹂躙される事は無い。
何より、雁夜が葵に惚れている事を知っていた鶴野にとって、彼女の娘である桜を凌辱する事は――。
†††
「本気? 笑わせるな。バラバラにしてやるよ!!」
鶴野の絶叫と共に無数の糸が雁夜へと奔った。
咆哮に呼応するかの如く上空から不可視の斬撃が降り注ぎ、
「無空」
同時に雁夜は半歩横へと身を躱す。回避した糸が数センチ雁夜の横を通過し、石畳を切り裂いた。しかし、即座に次の斬撃が迫る。
迫る糸だけではない。周囲には剃刀の如き糸が無数に張り巡らされているというのに、雁夜はただの一つも傷を負う事無く躱し切る。
不可視の糸を回避する。
雁夜はこの離れ業をその魔と武、そして知恵を以て可能としていた。
蟲の複眼で、風切音で、鶴野の漏らす殺気で、魔力の揺らぎで、雁夜の六感の何れかが攻撃を捉えたならば、その身体は無意識的に攻撃を回避する。不可視の糸とて無空を修めた雁夜にとっては例外では無い。外界からの刺激全てに反応し、雁夜の身体はその思考さえ置き去りに全方位から迫り来る斬糸の嵐を躱し切る。
何より今、不可視の糸は見えていた。
血だ。
周囲に張り巡らされた斬糸は先の雁夜の返り血で真っ赤に染め上げられている。
であれば、雁夜が糸を躱し損ねる事は万が一にも有り得ない。
雁夜の動きに遅れて不可視の糸が空を切り、格子状に裂かれた石畳が宙を舞った。斬糸の嵐を潜り抜け、雁夜は踵を地へと落とす。
「震脚」
蟲蔵が大きく揺れた。
そしてその振動は、糸を通して鶴野へと伝播する。一瞬、鶴野の糸を繰る手が止まり、その視線が雁夜へと釘付けになった。
「な、何だそりゃァ――」
鶴野が驚愕の呻きを漏らす。同時に鶴野へと影が落ちた。落下したのは血色の巨大な蛭。雁夜の操る魔蟲、
丸々と太った大人の腕程もある蛭が、鑢の様な歯を獲物に向けて鶴野へと跳び掛かった。しかし、
「ッ、その程度で、不意討ったつもりかァ!!」
鶴野が即座に腕を振る。凡そ三百六十度に及ぶ鶴野の複眼の視界に死角は無い。空を切った斬糸が蛭血蟲を四つに切り裂き、鶴野の背より奔った節足が魔蟲を串刺しにした。
その時である。
蛭血蟲が爆発した。
正確には蛭血蟲が俄かに膨らみ、その切断面から噴出した大量の鮮血が周囲へと迸ったのである。蛭血蟲がぶち撒けた血液は、当然目の前の鶴野へと降り注いだ。
「ガッ、この――」
降り掛かった真っ赤な血が鶴野の視界を一瞬塞ぐ。鶴野が反射的に節足で顔を庇い、
「鞍馬金剛流体術・
鶴野の頬を雁夜の蹴りが捉えた。鶴野の浮かぶ空中も、雁夜にとっては一投足の間合いである。一瞬の隙に合わせ、張り巡らされた糸を潜り抜けて雁夜は数メートル跳び上がると、鶴野の顔を蹴り込んだのだ。その蹴り足が不可解な軌道を描いて糸と節足の防御をすり抜けた事に、視界を奪われていた鶴野が果たして気付いたかどうか。
蹴り飛ばされた鶴野の身体が木の葉の様に宙を舞う。しかし、壁に叩き付けられる直前、鶴野は咄嗟に背の節足を丸めて壁への激突の衝撃を吸収した。硬直は無い。鶴野は即座にその八本の節足で張り巡らせた糸を掴み、空中を蜘蛛の如く移動する。
「縮地・八双」
その影を追って雁夜が跳ねた。
空中に張り巡らされた糸を足場に跳躍を繰り返し、鶴野へと迫る。
反転を繰り返し、恐るべき速度で縦横無尽に跳び回る雁夜の姿は鶴野の複眼を以てしても、その影すら捉える事は容易では無い。何より彼が足場とし反動を利用しているのは、触れただけで肉を裂き、括れば容易く骨をも断つ魔糸である。それを蹴っての跳躍など最早人間業では無い。
しかし、斬糸を張り巡らせた空中は、間桐鶴野の領域である。
「カッ、空中でこれが避けれるか!?
鶴野が腕を横に薙ぐ。同時に空中に張り巡らせた無数の糸が鶴野を中心に横薙ぎに回転した。石壁を格子状に切り裂きながら編み上げられた斬糸の壁が横合いから雁夜へと迫る。
宛らそれは全てを切り裂く削岩機である。空中においては逃げ場は無い。
しかし――遅い。
事此処に至り、漸く鶴野は気付く。
自らの張り巡らせた斬糸に無数の糸が絡まり付いている事を。
同時に、ニヤリと雁夜が笑い、腰の脇差へと手を添えた。
「結界糸が使えるのはこちらも同じ」
先程、雁夜が足場としていたのは鶴野の張った斬糸では無い。雁夜の張り巡らせた別の糸である。十年の修練で結界糸を修得したのは雁夜も同じ。彼はより強靭で柔軟性に富む糸を、鶴野に気付かれぬ内に周囲へと張り巡らせていたのである。
「い、いつの間に――」
「最初からだ。鞍馬金剛流抜刀術・
雁夜の全身の筋肉が隆起する。奥歯がギリと鳴った。踏込と同時に身体を丸め、腰を切る居合の構え。一瞬の緊張と解放の相克。練り上げられた力は体幹へと集い、一刀へと注がれる。鞘走りによって加速した神速の一斬が瞬いた。
雁夜の脇差。その刃渡り、凡そ二尺。
しかし、その一刀は空を切って奔った。
迫り来る斬糸の壁を両断し、空を切った刃はそのまま間合いの遥か外にある鶴野の節足を貫いて蟲蔵の石壁へと突き刺さる。
投擲であった。
この技は縮地から連なる太刀と脇差を用いた神速の抜刀術であり、同時に刃を飛ばす飛刀術である。縮地にて先を取り、抜刀の刹那、相手が受けに回れば太刀の抜刀術で敵を刃ごと両断し、距離を取ったなら脇差の飛刀で貫く。
先の先を取る事に特化した抜刀術。そして、雁夜の攻撃はそれで終わらない。
鶴野が切断された節足に目をやった瞬間に接近し、前蹴り。鳩尾を捉えた蹴りは鶴野の身体を壁まで軽々と跳ね飛ばし――そこからは滅多打ちであった。
眉間、水月、天突、胸尖、人中、蟀谷、電光、中府、腕訓、妙見、脛向、石門。
接近と同時に十二の連撃が正確に人体の急所を貫き、身体を庇う節足を掴み取って下へと投げ落とす。鶴野は強かに地面へと叩き付けられ悶絶した。雁夜はそれを追って飛び降りる。
猶も足掻く鶴野が立ち上がり、
「ぐ、ガッ、ま、まだだ――」
「いや、終わりだよ。そろそろ効いてきた筈だ」
その正面に降り立った雁夜が告げた。鶴野は咄嗟に節足を振るおうとして、それが全く動かない事に気付く。
「な、何をした? 一体、何をしやがった!? 蟲共が――」
「俺の体内に巣食う吸孔蟲は魔蟲に寄生する魔蟲だ。アンタの体内に入り、そこに巣食う魔蟲共に取り付いた」
雁夜は事も無げに告げる。鶴野は信じられぬと頭を振った。
「な、馬鹿なッ!! 一体どうやって!? 予兆は何も――」
「血だよ。派手に攻撃を至近で受けたからな。吸孔蟲の潜む俺の血をアンタは浴び過ぎた。傷口から染み込み、全身に行き渡るのに少々時間は掛かったが、最早、アンタの体内に巣食う魔蟲は俺の命令無しには動けない。臓硯の命に従う事も、その身体を蝕む事も無い。
だから、これで終わりだ。もう戦う必要は無い」
終わり。
その言葉に鶴野は一瞬狼狽え、そして、理解する。
「な、か、雁夜、お前、まさか俺を助けようと――」
鶴野の顔が安堵に緩み、次いで引き攣る。
怜悧な刃の様な雁夜の眼光が鶴野を射抜いていた。
「兄貴、アンタは自分がそうなったのは俺のせいだと言ったな。確かにそうだ。アンタが臓硯に弄ばれ、そうなっちまった原因は逐電した俺にあるんだろう」
雁夜は拳を握り締め、続ける。鶴野が喚く様に言った。
「そ、そうだ。お前が出て行ってからは、俺が代わりに臓硯に魔蟲を植付けられたんだ。仕方なかったんだ。俺は被害者なんだよ。だ、だから――」
「だから、間桐の家と本来無関係の幼い桜ちゃんを凌辱したのか? 彼女まで蟲の苗床になれと呪ったのか? ああ、きっとアンタの言う通りなんだろう。俺に怒る資格は無い。だが、ふざけるなよ、馬鹿野郎!!」
雁夜は鶴野の言葉を遮り、その拳を振り上げ、
「歯ァ喰いしばれ!!」
渾身の右ストレートを鶴野へと撃ち込んだ。
†††
「死んでないでしょうね?」
蟲蔵の床に倒れ伏す鶴野を横目にバーサーカーが言った。
雁夜は床に落ちた太刀と脇差を拾いながら答える。
「加減はしたから大丈夫だ。それに、寄生させた
「しかし、随分と時間を掛けたわね。倒そうと思ったら一瞬だったでしょ? ボロボロじゃない」
バーサーカーは雁夜を見る。
彼の全身は戦闘の傷痕でボロボロだった。雁夜の治癒魔術の腕はかなりの物だが、節足で貫かれた大きな傷は未だに塞がっていない。
「吸孔蟲を気付かれない様に体内に入れなきゃならなかったし、魔蟲の制御を乗っ取るまで時間が必要だったからな。下手にやると吸孔蟲の存在に気付かれるから仕方ない」
「殺そうとは思わなかったの?」
バーサーカーは雁夜の方を見なかった。
雁夜も彼女の方を見なかった。
彼は頷く。彼は殺さなかったし、殺せなかった。
「ああ、ムカついたからブン殴りはしたが、兄貴も臓硯の被害者だ。兄貴は確かに弱い人間だったが、こんな姿になった挙句、殺されなきゃならない
「いいえ、何にも。ほら、処置するから傷見せなさい」
バーサーカーは妙に嬉しそうな表情で雁夜の上着を掴む。雁夜は妙に気恥ずかしくなってその手を取った。彼は上半身とは言え女性に裸を見せた経験は無い。蟲蔵に入ってからは海水浴や公共浴場とも一切無縁であった男である。
「平気だって、それより――」
「カカッ、随分と梃子摺った様じゃの、雁夜。とっとと殺せば良いものを。まさか、蟲から解放するとは思わなかったぞ。しかし、些か、待ちくたびれたのォ」
その時、蟲蔵の中に臓硯の声が響き渡った。
その声を聞いた瞬間、雁夜の太刀を掴む腕が怒りで震えた。
「臓硯、貴様、どこに居る!!」
「カカッ、凄んでも無駄じゃ。ワシはそこにはおらんと言うておろうに。じゃが、何処に居るかは答えてやろう。ワシは今――」
臓硯の言葉は雁夜が想像した中で、最悪の物だった。
「遠坂邸の前におるぞ」
“馬鹿な――。
出し抜かれた!?
いや、だが、時臣は冬木の管理者だ。魔術協会にも顔が利く。
盟約を裏切って主の留守を良い事に遠坂の親族に手を出した等と知れたら、冬木の魔術師達どころか魔術協会すら敵に回す事になるだろう。
それだけじゃあ無い。
間桐の魔術刻印を奪う大義名分が出来た魔術協会の執行者共が、血の臭いを嗅ぎ付けた鮫の様に群がって来るだろう。
臓硯が如何に耄碌しようともその程度の事が分からぬ筈は無い。
ハッタリだ。そうに決まっている。
だが、もし―― ”
頭ではそう考えていても、雁夜の身体は震えていた。
最悪の展開が頭を過ぎる。
「血迷ったか、臓硯。魔術協会が黙っていないぞ」
「カカッ、横紙破りは遠坂が先であろう? 大事な間桐の後継者を誑かし、盟約に基いて迎え入れた間桐の養女を奪わんとする女狐に、間桐の長として相応の誅を下すに何の問題がある?」
「そんな理屈が通用すると思っているのか?」
「通用するとも。カカッ、そもそも弁明など必要が無いからのォ。じき聖杯戦争が始まる。遠坂の小倅は生き残れぬ。そして、当事者は皆行方不明で訴え出る者がいない、となれば、協会とて動けまい?」
雁夜は絶句する。
頭の中で無数の疑問が反芻され、そして、葵達の顔が脳裏を過ぎる。
“こちらは陽動だった?
遠坂との盟約はどうなる?
臓硯は一体何を知っている?
コイツの余裕は何だ?
否、否、否、そんな事はどうでも良い――”
「臓硯、殺してやる!! そこを動くな!! 殺してやるぞ、臓硯!!」
取り乱す雁夜の様子に、臓硯は心底愉しそうな嗤いを返す。
「カカッ、出来ると良いのォ? そやつらを倒してここまで走るとなると、少々時間は掛かりそうじゃが、精々足掻くが良いわ」
臓硯の言葉と共に蟲蔵の天井が砕け、巨大な影が落下する。落下の衝撃に石畳が砕け、同時に何かが空を切って奔った。バーサーカーは咄嗟に後方に跳び退き、雁夜は倒れ伏す鶴野を掴んで横へ跳ぶ。
空を切った何かは彼等の居た位置を通過し、壁へと突き刺さった。同時に、ジュウと音を立てて、石壁が熔けた。鼻を突く嫌な臭いが辺りに充満する。
強酸だ。
同時に背後の壁が砕け、瓦礫が周囲へと飛び散る。その奥に真っ赤な光が点り、巨大な節足が蟲蔵の中へと伸ばされる。
「こ、コイツ等……」
雁夜が呻く様に言った。
蜘蛛だ。
天井と壁を砕いて現れた二体の巨大な蜘蛛が、彼等の前へと立塞がったのである。体高凡そ三メートル。大柄な雁夜が遥か頭上を見上げる程の巨体であった。
臓硯の操る魔蟲。その中でも最強の物である。
「このッ!! 邪魔立て――」
咆哮と共に跳び掛かろうとした雁夜を、前に立つバーサーカーが止める。
「こっちは任せて、アンタは行きなさい」
彼女は二振りの大鉈を両手に構え、優しく微笑む。
「大切な人なんでしょ? 間に合わなかったら承知しないわよ」
雁夜は即座に頷く。
「すまない、ここは任せた!!」
それだけ言うと、雁夜は跳び上がり、大蜘蛛の開けた穴から身を躍らせる。大蜘蛛の一体がそれを追おうとして、やめた。
蟲蔵内を覆う恐るべき殺気の渦に、彼等の本能が反応したのである。
「愛する女を救いに走る。邪魔は無粋よ。って、化け蜘蛛に言ってもしょうがないか。それにしても、アンタ達、運が悪かったわねェ」
殺気の主である鬼面の少女は大鉈を肩に担ぎ、言い放つ。
「ちょっと酔いが醒めてきちゃったわ」
†††
複数の魔術結界に覆われた城塞の如き遠坂邸も、それを操る魔術師が不在とあればどうと言う事は無い。増して、相手は数百年を生きる妖怪、間桐臓硯である。
遠坂邸の庭園に佇む臓硯は悍ましい笑みを浮かべていた。
庭園に張り巡らされている結界の起点となる要石も既に破壊した。女子供を攫うだけなら数分と掛からない。雁夜の足を以てしても、間に合うまい。
臓硯は間に合わなかった雁夜が絶望する顔を思い浮かべると、その邪悪な笑みを深くする。
自らに逆らった雁夜には地獄を見せると彼は決めていた。
邪念に耽っていた為だろうか、臓硯は庭を横切ろうとして、ふと彼の前に立塞がる様に立つ男に気付いた。
黒尽くめの男だった。
頭から被った
しかし、男が真っ直ぐにこちらを見ている事は分かる。
真っ黒な襤褸が闇に隠れ、その輪郭を曖昧としていた。そして、その腰には一振りの太刀を佩いている。
男が言った。
不可思議な声だった。
男の物とも、女の物とも判然としない、それらの混ざり合った様な不自然な声色である。そして、その声には怖い物が混じっていた。
「前回の聖杯戦争以来、となると、凡そ六十年振りか。久方振りだな、臓硯」
「貴様、何者じゃ?」
臓硯は男を睨むと身構える。
男の声に聞き覚えは無い。
「ああ、記憶を手繰っても思い出せないだろうぜ。前回は七枚舌の手伝いに奔走してたからなァ。だが、もう待つ必要は無くなった」
男は太刀を抜き放ち、切っ先を真っ直ぐに構えた。
その姿に臓硯は顔を顰める。
それは先程まで使い魔を通して視ていた、雁夜の構えと酷似していたのである。
男が凄絶な笑みを浮かべた。
「ここで会ったが百年目だ。ようやく、アンタを殺せる」