鬼哭劾―朱天の剣と巫蠱の澱―   作:焼肉大将軍

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悪鬼の王

 †††

 

「大江の山の鬼の王、“大山鬼王”酒呑童子」

 

 葵達が退出した後、一頻りバーサーカーから説明を聞き終え、雁夜は呟く様に言った。話の間、彼は再び正座させられている。結局、誤解が解けたのかどうかは分からず仕舞いであったが、雁夜は深く考えない事にした。葵に桜や凛に近付くなと言われると立ち直れる自信が無かった。

 

「ふむ、どうにも信じられないな。かの日本の鬼種の頂点が、こんなちんちくり――ッ!?」

 

 その言葉途中に、雁夜が目を見開く。その視界に映るは恐るべき速度で空を切って飛来する大鉈だ。先程よりも猶迅く投擲(とうてき)されたそれは、およそ人間に反応を許さぬ速度であった。しかし、

 雁夜は難なく迫り来る大鉈の柄を空中にて掴み取る。

 

「お見事」

 

 バーサーカーが手を叩く。

 

「成る程、こりゃあ凄まじい……。これがその酒の力か」

 

 雁夜は自らの手をまじまじと見詰める。力が満ち満ちているのが分かった。

 雁夜はふと宙を舞う虻を見とめると、握った大鉈を無造作に振るう。雁夜の腕から先がその速さ故に掻き消えた。だと言うのに、その体幹に一切のブレは無い。雁夜は自らの変化に一瞬戸惑い、次いで笑みを浮かべる。

 

“成程、これが宝具の力か。

 最早、臓硯など恐るるに足りない。

 死なぬと言うなら、死ぬまで殺してやる”

 

 最大の問題であり、此度の聖杯戦争の目的でもあった臓硯の討滅が自らの手で可能になった事を雁夜は確信する。自然と雁夜は凄絶な笑みを浮かべていた。

 雁夜の一振りが生んだ旋風に翻弄(ほんろう)され、(アブ)がふらふらと飛び去った。

 

「酔ってはいるんだが、普通の酒を呑んだ時とは随分違うな。何だか、不思議な感じだ」

 

 雁夜は虻から大鉈の刃先へと視線を映す。雁夜は刃先に微かに付着した汚れを指で拭う。その直後、宙を飛んでいた虻の身体がゆっくりとズレ、二つに分かれて床へと落ちた。

 

「そう。これが私の宝具。人を超人へと変える御神酒よ。マスターには特に効果的みたいね。今のアンタの膂力は英霊にも比肩するわ」

 バーサーカーはその手の赤い瓢箪(ひょうたん)を揺らす。恐るべき魔力と酒気がそこから迸っていた。

 英霊を伝説足らしめているのは、その英雄の人品、気骨だけでなく、逸話や武装といった“象徴”の存在にある。その象徴こそが、伝説の具現たる英霊の現身、サーヴァントが備える切り札にして、究極の一。俗に“宝具”と呼ばれる武装である。

 

 この赤瓢箪に入った酒こそがバーサーカーの宝具『神便鬼毒酒』。

 一口呑めば人には超人的な膂力を与え、悪鬼羅刹の類には毒と成りてその能力を封じる神酒である。神道における武神、海神、豊穣神の三柱が、酒呑童子討伐に赴いた頼光一派にその加護と共に授けた代物であった。

 

「成程、使えるな。で、今は伝承通り、これでお前の能力を封じ込めてる訳か?」

 

 雁夜が言った。

 この御神酒こそがバーサーカー、狂戦士が理性を持つと言う矛盾、そのカラクリの種である。

 

 バーサーカー、狂戦士のクラスとして召喚されたサーヴァントは如何なる英霊であれ狂化のスキルを持ち、強力なステータスを誇る代わりにマスターとの意志の疎通が困難となる。また、マスターを度々枯渇死させる程、非常に多くの魔力を消費する様になる為、真っ当な術者からは嫌厭(けんえん)されがちなクラスである。

 

 真っ当な、と言ったのは、脆弱な英霊しか召喚出来ぬ魔術師が狂化の属性を付加させる事でその能力を底上げする為に、バーサーカーのクラスを狙う事が(まま)あるからだ。

 ともあれ、通常狂化しているバーサーカーと意思疎通が取れる筈は無い。

 

「ええ、その通りよ。と言っても、それだけじゃあ無いんだけど。ともかく、腹立たしい事にこの御神酒は私みたいな反英霊に対しては毒として働くわ。とても美味しいんだけどね。ステータスが下がるだけじゃなく、スキルも封じられる。難しいでしょうけど、反英霊が敵として召喚されていたら呑ませるのも手よ。弱体化させられるわ」

 

 バーサーカーが言った。

 今、バーサーカーは酒の力によって狂化のスキルを封じる事で、その理性を取り戻しているのである。無論、万能では無い。代わりに彼女はその能力の大半を失う上、酔っ払っている。戦闘能力の殆どを失っているのだった。

 

「酔いが醒めると力も戻るのか?」

 

 雁夜はふと思った事を聞いた。バーサーカーの事と、彼自身の事だ。

 バーサーカーは頷くと、雁夜の手に宿った令呪を指差す。

 

「ええ、段々とね。だから、細かい調整は無理だと思ってくれた方が良いわ。基本的に私はこの状態でいるから、切替が必要になった時は、令呪を使いなさい。それで私は逸話通りの力を振るう事が出来る」

「俺の魔蟲を使えば、血中のアルコール位操作出来る。入れてやろうか? そうすれば令呪だって使う必要は――」

「絶対イヤ!! 気持ち悪い。勝手に食事に蟲の卵とか混ぜたら殺すわよ!!」

「わ、分かったよ」

 

 雁夜は良い手段だと思ったのだが、バーサーカーは赤ら顔を更に赤くして激昂した。常人が間桐の魔術に対して生理的険悪感を抱くのは無理からぬ事であろう。彼女の台詞は尤もである。

 雁夜はバーサーカーの気迫に押されてたじたじになった。

 

「と言うか、これはそんな魔術で操作出来る類の物じゃないわ。一つ忠告するけど」

 

 バーサーカーは雁夜をビシッと指差す。

 

「この御神酒を呑む時は、舌を湿らせる程度に止めなさい。一度醒めて酔いが抜けるまで、絶対に続けて呑んじゃダメ!!」

「何故だ? 呑めば呑むほど強くなれそうだけど」

 

 雁夜は頓狂な口調で首を捻る。

 バーサーカーは呆れたとばかりに額に手を当てる。

 

「アンタ、人間でいられなくなるわよ。今のアンタは一口呑んで豊穣神の加護を得た状態。全身に力が漲り、魔力が迸ってる。そこで止めときなさい。それ以上は、戻れなくなるわ」

「……分かったよ。忠告として受け取ろう」

 

“つまり、最後の手段、とっておきって事か……”

 

 雁夜は全く理解していなかった。否、理解した上で、そう考えている。

 雁夜は自らの手を見る。

 全身から溢れんばかりの魔力は魔術回路を淀みなく流れ、全身に寄生した魔蟲群をその限界を超えて活性化させている。酒気による多幸感は恐れを消し去り、酔っ払っている筈なのに精神が研ぎ澄まされていくのが分かる。脳のリミッターは麻痺していた。

 

 成程、確かにバーサーカーの言葉は頷ける。

 これは戻れなくもなるだろう、という直感があった。

 雁夜は苦笑し、話を変える。

 

「しかし、バーサーカー、お前、もうちょっと試し方という物があるだろう?」

 

 先の投擲、もし掴み損ねていれば、今頃雁夜の頭部は真っ赤な柘榴(ザクロ)となっていたに違いない。しかし、バーサーカーは冷やかに言い放つ。

 

「口は災いの元よね」

 

 顔はあどけない少女その物だが、酒を片手に大鉈を投げ付ける様は如何にも凶悪その物である。雁夜は何か文句の一つも言おうと暫し言葉を探したが、溜息を一つ溢して両手を上げた。

 

「あー、分かった、悪かったよ」

 

 嘆息している様で、その口角が釣り上がるのを彼は止めれなかった。どうしようもなく浮かび上がる喜悦の笑みだ。彼は一刻も早く自らの力を試したくて仕方が無かった。

 来たるべき臓硯との対決に、心が打ち震えているのが分かる。

 

「よろしい。ま、気持ちは分からないでは無いわ。私の伝説は大分湾曲されちゃっているから……」

 

 バーサーカーの言葉はその最後は呟きとなって聞こえなかった。しかし、彼女のその横顔に雁夜は昂っていた気持ちがひゅっと冷え込むのを感じた。憎悪と諦念の混じった瞳。つい最近見た瞳と同種の物だ。とてもそれは歳相応の少女の物では無い。

 

 事情を知っている訳では無い。

 それでも、雁夜は胸が締め付けられるのを感じた。

 会って間もない、何処かの誰かの不幸を悼む。

 

 それは恐らく、闇に属し、真理の探究に耽溺(たんでき)する魔術師には適さない感情だ。しかし、間桐雁夜という一個を形作る欠かせない要素である。間桐の魔術を修め、魔蟲の巣窟と化した雁夜に、未だ人間と言う物が残っているとすれば、それはその精神をおいて他に無い。

 雁夜は努めて力強く言った。

 

「じゃあそれも正そう。本来、聖杯は俺とお前の二つの願いを叶えられる筈だ。なら、俺の分はそれに回すよ。聖杯が真に万能なら、その程度何て事ない筈だ」

「なによ、それ。アンタには何も叶える願いが無いって言うの?」

 

 バーサーカーは目を細め、まるで信じられないという表情で言った。喜怒哀楽を隠す事の無かった目の前の少女が、ハッキリと警戒しているのが分かる。

 

「ああ、その通りだ。俺は特に聖杯に掲げる望みは無い。聖杯戦争を諸々の決着に利用したいだけだからね。悪いけど、それには付き合ってもらう。その代わり、聖杯はお前が望みを叶えるのに使えば良い」

「何よ、その諸々の決着ってのは?」

「因縁の清算さ。それ以上は言えない。言いたくない。話して愉快な内容じゃないから聞かないでくれると助かる」

 

 雁夜は首を振った。

 腐り切った間桐の因習を語る気にはならなかった。葵を巡る時臣との一方的な因縁を話す気にはなれなかった。それは気軽に話すには、雁夜の内側に深く根を張り過ぎていた。

 

“望みは無い……。

 それはきっと嘘じゃあ無い。

 だが、真実でも無い。

 本当は、俺はきっとあの日をやり直す事を望んでいる”

 

 それは雁夜の偽らざる本音である。

 ここ数日、葵達と暮らして雁夜はそれを悟っていた。

 結局の所、雁夜は諦め切れて等いなかった。望みは無いなど大嘘だ。彼はあの日の続きを望んでいる。桜の事で時臣をぶん殴るなど良く言ったものだ、と雁夜は思った。

 

 自分は嫉妬に狂っている。

 自分の欲しい物を全て持っていて、それを投げ捨てようとしている時臣を許せないでいる。それは彼女達の為でも何でもない、雁夜の私怨だ。

 だが、と雁夜は思う。

 

“だからこそ、俺は時臣と雌雄を決しなくてはならない。

 桜ちゃんの為に、彼女の父親である時臣を殴り付けねばならない。

 葵さんの為に、彼女の夫である時臣を殴り倒さねばならない。

 嘘を真実に変えてしまわねばならない。

 薄汚い俺の精神が、どす黒く淀んだ理想が、尊い過去を塗り潰してしまう前に。

 あの日の誓いを嘘にしてしまわない為に”

 

 我知らず握り締めた拳がミシリと音を立てた。

 すーっと回っていた酔いが醒めていく。

 そんな雁夜の表情を見て、バーサーカーは言った。

 

「分かった、聞かないわ。ただし、一つだけ約束しなさい。貴方の戦いには付き合ってあげる。でも、聖杯戦争で敗北する事は許さない。その時は死んでもらうわ」

 

 バーサーカーの瞳は真剣で、切羽詰まった物を感じさせる。

 彼女は雁夜が蟲蔵に入った時と同じ目をしていた。

 それは何かを決意した者の目だ。

 聖杯戦争に招かれる英霊は皆、願望を抱き、聖杯の奇跡を求めている。否、それは英霊だけでは無い。マスターもだ。皆、渇望の果てに奇跡に(すが)る。

 

 大江山酒呑童子伝説。

 それは武将、源頼光が極悪非道を尽くす悪鬼を討伐するという英雄譚。

 大江山に集った悪鬼の頭領、酒呑童子は妖術を操り、多くの人々を攫って喰らい、都を恐怖のどん底に陥れる。これに対して立ち上がったのは源頼光とその配下。

 

 頼光四天王の筆頭にして無双の剣豪、渡辺綱。都一の弓の名手にして占術にも長じた傑物、卜部季武。観音菩薩の加護と怪力で知られる大鎌使い、碓井貞光。雷神の子であり、剛勇で知られる武人、坂田金時。武芸百般は元より、あらゆる芸事にも通じた笛の名手、藤原保昌。

 

 総勢六名。いずれ劣らぬ英雄、英傑である。彼等のいずれもが、それぞれ各地の鬼や妖怪等の魔性の類を討滅した逸話を持っている事からもその実力は想像に難くない。

 間違い無く、日本最高の退魔の英雄達である。

 

 頼光は三神より授かった神便鬼毒酒を酒呑童子に呑ませ、源氏の重宝童子切によって酒呑童子の首を斬り落とした。酒呑童子はその最期、首だけになっても猶、頼光へと喰らい付き、遂に敵わぬと悟ると呪詛の念を吐き出したと云う。

 

 英雄に斬り殺された鬼の王。

 そんな反英雄が望む事。

 自らに従う鬼共の復権か。自らを殺した英雄への復讐か。

 ぱっと思い付くのはそんな所だったが、それでも、雁夜は目の前の少女を信じる事にした。雁夜には、どうにも目の前の少女が伝説で語られる悪鬼の王とは思えなかった。

 雁夜は自らの胸板を叩いて頷いた。

 

「分かった。なぁに、大丈夫さ。俺は、いや、俺達は強い」

 

 雁夜は獰猛な笑みを見せる。

 

“そうだ。負ける訳にはいかない。

 如何なる英雄が相手でも、俺は死ぬ訳にはいかない。

 俺には帰る所がある。

 連れて帰らなきゃいけない奴がいる。

 待っている人がいる”

 

 雁夜は遠坂葵の事を考えると力が湧いてくるのを感じた。

 バーサーカーは彼から視線を外し、一つ嘆息した。

 

 

 †††

 

 

「いやに、静かだな……」

 

 雁夜はそう吐き捨てる。

 間桐邸へと忍び込んだ彼等を待ち受けたのは、ただの静寂であった。侵入者に対して結界が反応した感覚すら無い。腑に落ちぬ話ではあったが、足踏みしている訳にはいかない。雁夜は警戒しつつ間桐邸の最深部、臓硯の工房である蟲蔵を目指して歩みを進める。

 

 一頻り召喚したバーサーカーとの遣り取りを交わした後、雁夜は直ぐに彼女を連れて、臓硯を討つべく間桐邸へと侵入した。英霊を召喚し、宝具によって強化された今、最早雁夜が臓硯に後れを取る理由は皆無である。

 

 臓硯が雁夜の英霊召喚を察知して逃げを打つ前に、仕留める腹積もりであった。

 雁夜の予想では、間が開いた事で臓硯は以前に増して間桐邸の護りを強化しているものと思っていた。しかし、新たに敷設された結界は愚か、防衛の為に設置された魔蟲の一匹すらいない。

 

「随分、辛気臭い所ねぇ……。気が淀んでる」

 

 間桐邸内部を見てバーサーカーが言った。

 

「奥に行く程、淀みは酷くなる。気を抜くな」

 

 そうは言ったものの、崩れ落ちた梁、床や壁に染み込んだ血の跡、臓硯との死闘の痕跡を見て、期を逸した事を雁夜は悟る。

 

“遅かった……。

 この反応の無さは間違いない。

 臓硯は既に間桐邸を離れている”

 

 恐らくは雁夜の報復を(おそ)れたのだろう。令呪が宿り、英霊を召喚した事を悟られたのかも知れない。そもそも先日、雁夜が暴れ魔蟲共が壊滅した事で蟲蔵に拘泥する理由が無くなったのだろう。

 

「ハイハイ、そっちこそ仏頂面で考え込まないでよ。ここは仇敵の塒なんでしょ?」

 

 どこ吹く風とばかりにバーサーカーは瓢箪の酒を一口煽る。

 

「ああ、その筈だ。その筈だったが、気配が無い……」

 

 ギリ、と雁夜は奥歯を噛み締め、腰に差した太刀を強く握り締める。

 その様子を横目に、バーサーカーは躊躇いがちに聞く。

 

「うーんと、ねぇ、聞いて良い? その、臓硯って奴の事。さっきこの家の表札に間桐とあったわ。ねぇ、雁夜、アンタの名字も間桐だったわよね」

「言いたくないって言っただろう?」

 

 雁夜は仏頂面で答える。すると、その態度を不服とバーサーカーは口を尖らせた。

 

「協力する以上は、聞いておくべきだと思うんだけど。ほら、私、アンタの私闘に巻き込まれてる訳じゃない」

「あー、ああ……、そうだな。その通りだ」

 

 雁夜はガリガリと頭を掻くと、前を向いて歩きながらポツポツと話し始めた。バーサーカーの顔は見なかった。こちらの顔も見えない様に前に出た。口調も変えぬ様に努める。

 召喚したばかりのサーヴァントに対し、誰にも話した事の無い心中を吐露する。

そんな時どんな顔をすれば良いか、彼には分からなかった。

 

「実家だよ。ここは俺の生家だ。俺はここで生まれ、ここで育った。ここ、間桐の家は蟲を操る魔術の家柄でね。この奥にある蟲蔵には数え切れない程の魔蟲が蠢いてた。魔術回路の拡張の為、俺がこの蟲蔵に入ったのは十を数える前だったな……。地獄の日々だったよ」

 

 間桐の魔道という名の腐った因習。

 繰り返される肉体と精神への蹂躙と凌辱。

 蟲に(なぶ)られ続ける日々。

 

 それを語る雁夜の暗い精神に呼応して、体内の吸孔蟲が俄かに活性化を始める。

 廊下を突き当たると彼等は蟲蔵への階段を下りていく。周囲に人の気配は無かった。蟲蔵に未だ残っているのだろう少数の魔蟲の気配のみが在る。

 やはり臓硯は既に身を隠してしまったらしい。

 雁夜はショックを受けつつも、確認の為に階段を下りながら、話を続けた。

 

「間桐の家に生まれた者にとって親父は、臓硯は絶対者だった。ここは奴自身の不老不死の為の手駒を育てる養殖場だった。俺は才能があったらしく、色々と仕込まれた。兄貴は才能が無かったから捨て置かれた。間桐の財産目当てに、まだこの家で臓硯の使い走りをやらされているみたい――」

 

「使い走りとは酷い言い草じゃあないか」

 

 不意に蟲蔵の奥の闇の中から声が響いた。

 掠れた様な声だった。どこか危うい物を含んだ声色だ。

 聞き覚えのある声だった。声の主を雁夜は知っていた。

 

 雁夜は即座に腰の太刀の柄へと手を伸ばす。同時にバーサーカーも大鉈を抜き放ち、神便鬼毒酒の入った赤瓢箪を雁夜へと放って寄越す。受け取った雁夜が即座に一口煽ろうとすると、バーサーカーがジト目で釘を刺した。

 

「言っとくけど、舐めるだけだからね。絶対にがぶ飲みしないでよ」

「ッ、はいはい、分かったよ」

 

 雁夜は一口、御神酒を嚥下する。

 即座に全身から溢れんばかりに魔力が迸り、体内に巣食った魔蟲共が限界を超えて活性化する。魔力が魔術回路を淀みなく流れ、全身の筋肉が脈動し、そこへ酸素を送り込むべく鼓動が加速していく。戦闘への予感に闘争心が沸き立ちつつも、脳の血管に冷却材を直接ぶち込まれたかの様にその思考は冴え渡り、恐怖心は酩酊していた。

 

 雁夜の全身に青黒い罅の如く怒張した魔蟲の経絡が浮かび上がり、彼は完全に臨戦態勢へと移行する。

 

「使い走りだと思ったが違ったのか? それとも、気に障ったか? ああ、この間は殴って悪かったな、兄貴」

 

 雁夜の言葉に、蟲蔵の奥、闇の中から一人の男が進み出る。

 

「全くだ。不意打ちなんて酷いじゃあないか。それと言葉には気を遣えよ。今の私は間桐の魔術の正当後継者だ」

 

 病人の様に白い肌と白髪に全身に浮き出た青白い血管模様。

 現れたのは幽鬼の如き形相、風体の男であった。

 間桐鶴野。

 雁夜の実兄である。

 

「まさかとは思ったが、間桐の術を学んだのか?」

「ああ、そうさ。何処かの誰かが失踪したせいでな。俺に御鉢が回ってきた」

 

 鶴野の顔が歪む。

 瞬間、雁夜の背に冷たい物が奔った。

 

 蠢いていた。

 

 鶴野の皮下で数え切れぬ程の魔蟲が蠢動(しゅんどう)し始めたのだ。鶴野の全身が歪み、その肌が不規則な隆起を繰り返す。同時に僅かばかり感じていた魔蟲の気配が爆発的に増大する。

 

「グ、ガ、痛ェ、痛ェンだよ、クソが。グ、ギャ、ガァアアア、糞、痛ェ。痛ェよ、畜生!!」

 

 鶴野が悲鳴を上げ、気が触れたかの如くその身体をビクビクと震わせる。発作の如き震えはやがて収まり、鶴野は雁夜を見据える。

 

「お、お前……」

「俺がこんな事になったのはお前のせいだ。お前が失踪なんてしたから、今になって帰ってきて、親父に逆らうから。お前、お前がッ!! お前のせいだッ!! 雁夜ァ!!」

 

 鶴野は狂気を剥き出しにして増悪の視線を雁夜へと向ける。

 視線は鶴野の物だけでは無かった。

 その皮膚を貫いて無数の魔蟲が顔を出していた。無数の魔蟲の複眼が雁夜を捉えていた。

 

「な、何よ、この化け物……」

 

 バーサーカーが絶句する。

 彼等の前に立つ男は最早人間では無かった。

 不規則に蠢動する全身。不意に肌を突き破って生える節足に顎。

 臓硯と、雁夜と同じ魔蟲の巣窟と化した怪物が立っていた。

 

「バーサーカー、悪い。手を出すな。コイツは……俺がやる」

 

 雁夜が一歩前に進み出る。

 その時だった。

 

「カカカッ、どうじゃ雁夜。ワシの作品は?」

 

 臓硯の声が蟲蔵に響いた。

 雁夜は咄嗟に周囲を見渡すが、その姿は無い。

 

「臓硯、貴様……」

「カカッ、凄んでも無駄じゃ、そこにはおらんよ。それよりどうじゃ鶴野は。貴様が消えて十年。ワシが手塩にかけて改造した自身作よ。刻印蟲を大量に寄生させ、一応は間桐の魔術師として作っておったのじゃがな。

 桜が手に入って用済みになってからは方向を変えてのぉ。どうじゃ、体内の魔蟲の孵化から爆発的に変質し、僅か一週間でここまで至る。想像すらしていなかったじゃろう?

 カカッ、やれ、鶴野。雁夜を万一殺せれば、解放してやるぞ」

 

 臓硯の言葉が終わると同時に、鶴野が跳び上がり、反転して蟲蔵の梁へと逆さまに着地する。そして、その背を突き破った巨大な蜘蛛の物に似た脚が梁へと突き刺さった。

 鶴野だったモノの全ての眼が頭上から雁夜を捉える。

 底冷えする声が蟲蔵へと響いた。

 

「雁夜、お前もぶっ壊れるべきなんだよ。安心しろ、兄ちゃんがちゃんとぶっ壊してやるからなァ。頭潰して、腸引きずり出して、喰ってやる。カカッ、殺してやるぞ、雁夜ァ」

 

 間桐鶴野が頭上より襲い掛かる。

 戦闘が開始した。

 


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