東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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積もり巡りて

 

「何を、悪巧みしているのかしら」

「なあに。ただ、外の酒が呑めなくなると困るんでね。その予防策といったもんですよ」

 

 己専用の出入り口ということだろうか。

 男の痕跡として塗り重ねられた箇所。凝らしてみればそこは私のものとは僅かにだが違う。混ぜ込むように、薄く足すようにして男の力がそこへと継がれている――まるで、最初からそうなっていたように、ごく自然のままだと見えてしまうように。

 

「そんなことをしなくても大丈夫よ。完全に閉じたわけでもないんだから」

「確かに。随分易い、薄い壁だ」

 

 入り込みやすく、見つけやすい。

 隠すようにではなく、むしろ目印としての大きさで。

 

「寄せるにゃ十分、止めるにゃ及ばず……随分とまあ」

 

 百鬼流入。魍魎跋扈。

 数えて足らぬ幻想縁者で溢れて沈む――そうしてしまうには、存分にやりやすい。

 格好の巣窟根城と、大当たりだと狙う空間。

 

「――隙間風厳しく、吹き溜まる場所ですねぇ」

「……」

 

 映った影は、揺れているのか、歪んでいるのか。

 通った光は、儘の真なのか、濾過された偽なのか。

 創った己ですら把握し切れはしない。

 嘘と本当。常と非常。当然と必惑。

 

 わからないで出来た壁。わかっていると抜ける隙。

 

「だからこそ、何があってもおかしくないでしょう?」

「まったくもって、とですね」

 

 呆れたように。それでいて愉しそうに笑う。

 疲れたように。それでいて楽しそうに笑う。

 

 そんな複雑怪奇を混ぜたもの。心の隙こそ好むもの。

 私たちのような、私たち総てと違う。

 知っている知らないもの。知ったかぶりの知らない秤。

 器こぼれの、おこぼれの。

 

「置いていかれた迷いが、置き捨て浮ぶ」

 

 そんな居場所と。幻想と。

なるのだろうか。なれるのだろうか。

 私の創った、この箱庭は。

 

「まあ、おそろしすぎて目を放せやしない……それだけ以上と、手前は思います、とね」

 爺心でそういっておきますか。

 

 そう呟く人の形――だからこその、型くずれ。

今、隣に並ぶこの異形は、似たものを――同じものを見たことがあるのだろうか。

 

 その未来(過去)を、知っているのだろうか。

 

 

 

 

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「……」

 

 吐いた息がまるでたなびく煙のように、細く長く空へと昇っていく。

 それはもしかすると、葬火に上がる紫煙と同じもの。そのモノを構成する要素が燃え上がることで熱を残し、僅かに死んでいった部分が空気よりも軽い重さで先へと昇っていく。

 乾いた風、不純が除かれた冬空にはそれが映りこみやすい。いつもは見えていないものさえもみえることがあるということなのかもしれない、と。

 

「……はてさて」

 

 そんな、いつも通りの四方山ごと。

 冷えた頭に熱を巡らせながら、白く吐き出す。

 丸く空いた氷面から垂らした糸は、差した光に僅かな灯りを放ち、きらきらと涼しげに。

 眺める空と彼方向こう、同じく白の反光染めで。

 眩しさに瞼を絞り、ぼやかした視界は幻想的に彩られる。視界を潤す美しき凍えはしんしん積もり、しんしん染みて――眺めながら、つと、またぽつり。

 

「釣れないねぇ」

 

 振るわず揺れずの腕と竿。

 この寒空に坊主とは、芯まで響く極寒だと落胆に嘆息する。

 

――花は匂えど、腹は膨れず、か。

 

 文句をいうように、ぐうと鳴いた腹の虫。

 「絶景絶景」と(はら)を膨らませてはみても、肉の身体は満足とはいかない。そういうところで、未だに己は人間の範疇ではあるのだろうと思い起こして――たまには忘れてしまうほどには生きてきたということなのか。ただたんに惚けてきただけなのか。

 何度も何度も繰り返してはきたことをまた一回り積んでいく。

 どちらとしても花には団子との結論に変わりはない。俗な己は芯から変わらぬものだ。

 ああ、今日は塩焼きの気分だったのに、と。

 

「やっぱり鈍ってる、か」

 

 鳴らしたはずの腕もとんと鳴かずに――いや、ならしたといっても外海に出ての一本釣りだったか。確かに川釣りなんぞもよく嗜んでいたようないなかったような、己でも怪しいかぎり。

 日がな一日糸を垂らす、そんな時間は確かに十年以上はあったはずだが……だというのにこんな有様とは。

 才がないのか気迫が足りぬのか、その両方か。

 

「――どう思います、そこなお嬢さん」

「……」

 

 一度引いて、針を確かめる。餌はついたまま、水面に浮かぶ薄氷を巻き込んで。

 そろそろ変えた方がよいだろう――後ろに立っている少女に滴がかからぬように、丁寧にそれを操ってまた結ぶ。手間は慣れて、一瞬のこと。

 

「餌の種類が悪かったかねぇ」

「……知らないわよ、そんなこと」

 

 返ってきた声は、冷ややかだった。

 込められた感情だけでなく、その吐き出された空気が白くさえ染まらないほど、周り以上の寒さでそれはすでに透き通って(凍りついて)いる。

 蒼白の少女を飾るのは終の寒さ――深く、突き刺す寒風で。

 

「それよりあなた……こんなところで釣りなんて、寒くないの?」

 

 厚着と重ねた外套に隙間風。

 優しく包み込むような……温かく抱きしめるような凍えが身体の芯へと刺していく。まるで、その熱さを明け渡せとでもいっているように――言われたような気がして、襟巻きに仕込んだ護符へと力を込めた。

 寒波を防ぐ、その浸入を塞ぐための微かな護りが己に向いた季節の寒波を追い払い、元にあった乾いた寒さだけが元へと戻る。

 

――……ふむ。

 

 それでもやはりと、一杯くらいはひっかけたい寒さである。

 確かに、どうしてこんな日に、とは思ったが腹が減ったからだという他はないのだと息を吐き。

 

「……なんだ。ちゃんと防寒具ももっているのね」

「使い捨ての、ですがね。池にはまった(どじを踏んだ)ときに、せめてそれが乾くまでの時間分ぐらいの、とね」

 

 その旨を伝える前にがっかりしたという言葉が返った。

 火を熾す時間を保たす程度、身体を温めるよりも空いた穴をしばらく塞いでおくための簡易品。

 そんなもので、妖怪の力を防ぐことはできないだろうが――まあ、気づかなければ大丈夫だろう。一つ強めの風が吹くだけで粉微塵な気休めも……端から見れば立派な額の紙の盾。

 しめたものだ、とほくそ笑む。

 

「せっかくいい獲物を見つけたと思ったのに」

 

 意味ありげに笑ってみせると、少女はすらりと伸びた指を引いた。

 それだけで忍び寄っていた寒さが和らいで……つまりは、そういうもの。

 別に隣でじっと眺めていただけではないということで。

 

「……あんまり物騒なことはしないでくださいよ。こちとら、しがなくか弱い老人なんですからね」

 

 糠に釘を刺すような感覚で一応の嘆願。

 いくら感覚の鈍い老人といえど、だからこそと寒さは身に染みる。

 運動不足に体力不足、骨まで染みてしまえばあっという間に仏様に仲間入りだ。

 凍死は楽だとも聞くが――まあ、寒さに震え続ける苦行など成したくはない。

 折角この前の大事からは生き残ったというのに、ここでぽっくりいってしまっては笑い種にもならぬだろう……いや、大笑いしそうな連中も幾人かも想像できてしまうが。

 

――まあ、似合いの話ではありそうですがねぇ……。

 

 その幸せに一役食うのも善行かもしれないが――いやまあ、気づいてしまったのだからそうは素直にはいけないものだ。性根の悪い老人であるからこそ、と。

 

こんな(・・・)にも妖怪さんなんぞに襲われちゃ、命がいくつあっても足りません。そろそろ、悪運ってのも尽きそうですし」

 

 この前、大運を使いきったばかり。

 あれでもぎりぎり足りぬぐらいだったというのに。

 

「なんだか、妙なにんげんねぇ。変なの見つけちゃったわ」

 

 失礼な言葉を吐いて、呆れたように一息。

 そして、じっとこちらを見つめて――何やら聴こえぬ声で呟いて。

 

 

「でも、そうね――私は妖怪。妖怪、なのよね」

 

 うんと頷くようにして、少女は目を閉じる。

 何を考えているのか――わかりはしないが、何かを感じたように胸に置いた手をぎゅっと。

 握って、開き、瞑って、開き。

 合わせ直された視線は少し深さを増し――ひやりと、人の胆に向く。

 

「なら、何でこんな所にいるのかしら――この辺りに妖怪が出やすいということはよく聞いているでしょうに」

 

 落ち着いて、鋭く尖らせた声。

 こちらの非を責める様に。それでいて、それを釈してくれるというように。

 

「まあ、そういわれれば気紛れにとしかいいようはないんですが、ね」

 

 こんなところにいるのだから、もし何かあったとしても己に責がある――それは、そうだろう。

 微妙な表情でこちらを見つめる少女の瞳。

 そこにあるのは愚かな人間だという蔑みか、この老人惚けているんじゃないか、という呆れの色か。

 どちらとしても、少々心外なものである

 

「年寄りの僅かながらの愉しみなんですよ。散歩に釣りに、短き日の下のんぼり洒落込む、というのはね」

 

 己としては平和に気ままに行動しているだけ、棒の方がわざわざこちらめがけて飛んでくるのだ。

 ただ、旨い魚と酒に舌を打ち、豊かな絶景眺望に簡単の息をはき……美味しい道楽とありつきたいだけであるというのに。

 そんな無害な道楽に手を出す輩の方がご無体というものだろう。

 余命僅かとも知れぬかどうかわからないくらいの年寄りの、その道楽にまで口を出すなんて、随分とまあ心が狭い。

 少しくらい見逃してくれたっていいだろうに。

 

「お爺さんだっていうのなら年甲斐ってものも考えなさいよ――そもそも、そんなに歳をとっているようにも見えないのだけど」

 

 そんな勝手都合のいい考えに疑問調、吐いた息が白く濁って空気を揺らす。

 冷えて、凍えて、空気さえも止めおくように――これではもう、寒さに縮んで魚は潜んでしまうだろう。さらにと、まる坊主の色が濃くなってきた。

 

――こりゃ、別の献立を考えなきゃいけませんかねぇ。

 

 手を擦らせながら、今日の晩餐を。

 色々と動きすぎていた分、心許ない蓄えの内からそれなりのものを整えねば、と。

 

「……さてさて」

 

 考えながら息を吐く。

 下手に考え、休みは終わり。

 向き合うものはしがない現実――見目麗しい雪の少女で。

 

「雪女さんで、よろしいですかね」

「まあ、違うといえば違うけど、似たようなものなのかしらね」

 それを聞いてどうするの、と意味ありげに微笑む少女。

 まだ幼いながらも、確かにそれは妖しを含み。

 

「何も、といいたいとこですが」

 

 なんともはやと、人と妖。

 出会ってしまえばまた一つ。

 

「……流石にこのままでは凍えてしまうので、ちょっくらそれ(・・)をゆるめてくれやしませんかね」

「あら、楽しんでいるみたいだったからもっと深めてあげようかと思ったのだけど」

 

 悪戯めいて緩やかに。

 悪びれもなく、幼さもすぎ――妖しき精が化けて怪。

 純粋無垢から己を混ぜて。

 

「冬を親しむなら、やっぱり寒さが一番でしょう?」

 

 雪がそのまま溶け込んだ――溶け固まったような白い笑みが広がった。

 冷たく、暖かく、そのまま眠らされてしまいそうな冬の具象――けれど、それはまだ完全な深みにはまったようには見えず。

 手探りはじめ、好奇のままに。なんとなくそうしてみよう、といったような初々しさが透ける。

 まだまだおぼつかなそうな、手の切り方に。

 

「いえいえ、そんなことはありませんよ。お若い(・・・)お嬢さん」

 

 元々そうなりかけていたのか。それとも、今回の影響によってそう成ったのか。もしかすると、ただ流れてきただけなのかもしれない。

 それでも、多分まだ浅いのだろうと予断して。

 若い少女と侮って、爺臭い煙を息と巻く。

 騙し騙して、どう逃れるか――先達の意地の悪戯を語るため。

 

「冬だからこそ、それ以外もよく染みるってものですよ」

 

 片手に取り出した仕掛け用のあれやこれ。

 さっぱり釣れぬ坊主な駕篭はさておいて。

 心算巡らし、詭弁を交わし――ありえそうな机上をこねて。

 

「試してみますかい、お嬢さん」

 

 空論めいた餞別餅を。

 

 

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「さてさて、どうなることやら」

 

 軽い調子と回る声。

 いつも加減とゆるり侭。

 

「鬼がでるか蛇がでるか……はたまた、つついた天が地異()となりてと暴れ回るやら、とね」

 

 遙か高見で眺めるような――というには、いささか安き衣に賎しき冠。花見に酒呑み愉しみ眺め、肴がてらの気安さで、空を見つめる若翁。

 真剣なのか雑なのか。

 私の創ったその境界に興味深げと触れ叩き、その強度を確かめるようにして呟く。「なるほどなるほど」と、好奇のまま。「ほうほうやあやあ」と、旺盛な目で。

 知識欲を満たしているのか。いつかの記憶(もの)と重ねて懐かしんでいるのか――はたまた、いつもの意趣返しにと何か悪戯でも仕込もうとしているのか。

 

「……どうかしらね」

 

 どちらとしても放っておくことにしていた。

 こちらの思惑に逸れぬよう、主目は外さぬように、僅かに我欲(あそび)を混ぜ込まれるということもあるかもしれないが――なんだかんだとそういうことは得意な男だ。きっと邪魔はしないだろうと高をくくって……信頼して。

 結界の穴を目ざとく見つけては、胡散臭げに微笑む姿。そこに仕込まれた思惑にも、もしかしたらきづいているのかもしれないけれど、元あるものへ、型と決まっているものへの細工はきっとこの男には慣れたもの。

 己も携わったその結果を、わざわざ崩すことはしないはずである。

 

「少なくとも、鬼程の大物なんていうのは、早々にはでてきそうにないでしょう?」

 誰かさんが何かをしたようだから。

 

 多少の感を混ぜた言葉に。

「そうですねぇ」と悪びれもなく、顎に手を。

 こちらに振り向きすらせず、目を細めて。

 

「確かに、あれだけの縄張りを得たってのなら、あっちはしばらく動かないだろうな」

 いろいろな意味で。

 そう頷く男……そのはみ出し加減は出会ったときから変わらない。

 

 約束として。落ち着けるまで。

 少なくとも、それだけの時間はあるのだと。

 そう、恐ろしさに語ってしまえる人間。

 

「格に見合った居場所を得たからこそ、その守護に手を取られることとなる」

「よくある話だが。まあ、だからこそ、か」

 あちらも古い輩であることだ、と。

 

 そういって見下げた視線は、遙か地底の奥深く。

 

 まま当然としてあることだろう。新たに得た新居に対しての代整理とご近所周り。その存在が小さきにしろ大きしにしろ、いや、むしろ強大であるからこそ、その落着には手を焼くことになる。

 自重があるほど、地固めには時間がかかるものだ。だからこその交渉であり、気の重い駆け引きを繰り返してそれを得たのだから――そして、最大の問題はどうやってそれを誘導するかではあったのだが……それはもう、解決した話。

 

――いつの間にか、道は整えられて。

 

 種蒔く居場所は出来ていた。

 

「……あれはどこの働き者の妖精さんの仕業だったのかしら――それとも、(あれ)に敵うくらいに性根の悪い何かだったのかしらね」

「妖精なんてものは勝手に沸くものですよ。それと同じに、桶屋が儲かる程度になら事象は気ままに起こるもの……まあ、底意地悪い大妖怪か何かが神出鬼没と隙間に差し込んだって可能性もなきにしに、だが」

 

 それぞれ、ままあることだと。

 互いに互い、曲げた本音に笑いながら、あの騒動の種どものことを思う――他にも多くの障害はあるだろうが、一際以上に大きな存在だったあの巨悪。

 それだけでも先に治められたなら随分と余裕はできた――これで、内政に気をわずらわされることもない。

 

「まあ、あとは流れまかせか」

「ええ、風の吹くまま、ね」

 

 投げやりですねぇ、と呆れる男に。

 何もかもが決まりきっているなんてつまらないものですわ、と笑みを吐く。

 確約ならぬ曖昧模糊な先行き。一寸先も、天地かしこも知れぬ暗中。懐に込めた先の行灯がこのまま消えずに進むかどうか。

 

――不安とするか。趣向とするか。

 

 己次第のその道先。

 対すは永き生を飾る妖しの怪と……永久の人の形。ならば、答えはわかりきっている。

 適度な刺激は命にとっては必要不可欠であり、不死の大敵(退屈)を殺すには幻想が必要だ。

 

「囲いはできて、隙間は空いている」

 

 溜まりやすい場所に導きやすく穴がある。

 興味本位で、目的込み、偶然気まま、旧友仇敵……何を求めて現れるのも自由勝手な舞台は整ったのだ。

 あとは想い。願いの強さと心の在処。

 

「幻に囚われるのも生のうち。時に猛々しい風を受け、大水に触れることもなければ耐えうる柔軟さをも失うことになる――求めるならば、水月にも手を伸ばす、その欲にまみれた幻もまた……」

 あなたならよく御存知でしょう。

 

 

「覚えてることと知っていることは違うといいますよ――見えていても、忘れることはある。捨て忘れてしまった方が生きるによくて、埋めてしまった方が平穏を得られるという時もある……そう、満足する生もあるだろう」

 大風大雨曝され、雷親父に尻尾が火の手。呑まれた先は蛇の腹底。そんな生など誰も望みはしないだろう。

 

 そういって――いってしまって、笑う男。

 そんなまでのやつはもう御免ですよと、かかと笑う。

 嘘か誠か、そんな体験でもあるように――あるのかも知れないと思わされるその生き様に。

 

「まあでも、眺める側ってなら悪くなさそうだ」

 

 老獪なのは互い様だけれど。

 その笑みの方向はきっと違っている……何処へ向いているのかすら、自身でわかっていないのかもしれない。

 平和を尊びながらも、その実刺激についついと首を突っ込んでしまうその性分。人間らしく人間らしい、人間にしては少々その触れ幅が歴然すぎる。

 

「……そう」

 

 そんな永老は、複雑怪奇に、単純楽観に。

 それはそのままの意味での笑みなのか――そもすれば、私たち(幻想)の側に立ってしまったという本来の()への罪悪を含むのか。

 外れはぐれて、それでもなおに宙ぶらりんと人と在る、在ろうとする男の……それもまた捨てきれぬ未練。

 在るかぎり重くなり続けるはずのもの。

 

――……。

 

 重なるものは、確かに己の底にもある。

 沈んだはずのその過去が泥となって、濁りと舞って、ずっと、積もり続けているのだけど。

 人の器に、それはどこまで溜められるというのだろうか。どこまで人いられるというのだろうか。

 その器が壊れてしまうまで――いや、壊れていてもなお、そうなのか。

 

「あなたは、ずっと変わらないし――」

 

 私の記憶。『わたし』の記録。

 薄れはしても居場所は空いている。掠れはすれど在ったことを忘れている(覚えている)――その穴がひゅうひゅうと、憧憬に鳴くことも。

 比べられるものではない。わかるものではない。

 それは絶対に共有できない私というべきもの――自他を分ける境界が描く根幹。

 識ることはできても、解ることはできない。

 隙間の割れる世界の違い。

 

「――変わるつもりもない、のね」

 

 在り続けることは、きっととても簡単で――地獄のように苦しいのだろう。すべてを捨てず、呑んだままの重さの底は。

 

「――はて、ね」

 

 よくわからなかいと、男は笑う。

 くるくると、指で描いた力を障壁に差し込みながら――底の抜けた器で息を継ぐ。

 

「これでも随分揺れてるもんですが……まあ、こちとら爺さんですから」

 もう変わる柔軟性なんて欠片も持っていないのやもしれませんねぇ。

 

 けたけた、かたかた、留め金の狂った古道具のよう。

 がたがた、からから、空回り続けるからくり歯車のよう。 

 笑うそれは随分間の抜けた音。

 

「あるとすれば」

 

 塵が積もりて、底ごと抜けた。

 塵塚大王が赤子以下にも思えてしまいそうな、その年月染み形。暗い底など突き抜けて、墓穴というには深すぎる。周回遅れと抜き返して、さらに最後尾へと延着する。

 てんやわんやとわからない。

 やんややんやと流される。

 人のまま。人の殻。人の形の永劫は。

 

「いつまでも捨てれないっていう貧乏性くらい、かね」

 

 境界のうちにて、未だなお。

 非常識というなら、それこそありえない(幻想)と。

 

 

 

 

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『かかってきなさい。人間さん』

『退治してくれよう。妖怪めが』

 

 

 展開としてはそんなものだろう。

 妖怪と人。化け物と人間。化かし化かされ……襲われ攫われ、退治されるが常のこと。

 人聞き又聞き語りに調べ、物語にも説話にも、伝えて説くのはそればかり。だから、そういうもの。そういうことなのだと――そう、思っていた。

 成ったときから、そうするものだと思っていた。

 

 けれど、それは。

 

「ま、一杯と」

 

 差し出されるのは冷えた器。凍えて冷ました透明の液。

 向かいにたった湯気のそれ……ぐいと一口、一気と消えて。

 

「あー、染みわたる……こういう日にはやっぱり熱めの燗でぐいとやるのが醍醐味だ」

 そう思いませんか、妖怪さん。

 愉しそうに男が問う。

 片手には湯煎で温められた瓢――固められた雪の塊の中にて差し向かい、置かれた盆を間に置いた。

 

「……熱いのなんて呑んだことないわよ」

 ただでさえ、暑さというものは苦手だったのだから。

 そう答えて、私のためにと出された冷やを呑む。

 砕氷が浮かんだ冷たさは程良く呑みやすい。するりと喉をくぐり、嫌みのない熱を残して身体にとけるようだ――多分、よいお酒なのだろう。

 

――……。

 

 お尻の下に置いているのは男が用意していたという座布団。直接雪には触れぬように間にもう一つ板がかまされていて湿っているということはない。前に置かれた盆にはお猪口と盃。塩の利いた干菓子と干し物を軽く炙ったものがのっている。

 雪の降り出した天気も、その雪を固めた屋根に積もるのみ。障らぬ程度に離れた位置に焚かれた火が丁度いい

 あからさまにここで一杯やるつもりだったのだと――さっきの釣りはその調達だったのか。

 

「身体に障りでもあるんですかね?」

「そんなことはないと思うけど……あんまり気が進まないわ」

 

 温められた方の酒を指しての問いにそう答える。

 一応、そういう話はあるものだと聞いていたので警戒はしていたのだけれど、味見だと称してそれが暖まるまでの間も二、三杯ほど男は呑み続けていて……どうにも毒気抜ける旨そうな表情についつい、と。

 妖怪にだけ効く酒もあるというけれど、入れ物に描かれた蔵印は人里のもの。一度、山に納めるという名目で置かれていったそれと同じもので――悪戯で手を出した時と同じ香りがしていた。

 だから、大丈夫だと。

 

――なんてのは、いいわけにもならないわね。

 

 自分でもそれははっきりと自覚していて妙な笑いが込み上げる。そんなもの、何の信用にもならないのに。

 どうして、釣られて(・・・・)しまったのだろう、と。

 

「ふむ、呑まず嫌いですかね」

 そりゃあ、もったいない。

 

 けらけら。からから。軽い調子に笑う男。

 こちらの複雑な心中などお構いなしのままで、美味しそうに酒を呑む……少し油断すれば、すぐに呑まれてしまう恐いもので溢れた場所で、人間独りで笑んでいる。

 その度量はとても、深いものにもすばらしいものにも見えないのだけど。

 

「せっかくの冬なんだ。その醍醐味を味合わないなんて」

「……」

 

 冬の権化である私に対して、『冬』を語る。

 そのどうしようもなく浅い様――だからこそ、裏などないと思ってしまったのだろうか。

 

「……熱さが訪れれば寒さは溶けてしまうものでしょう。私はこの世界()から生まれたものだから、そんなものは苦手なのよ」

 世界が凍えるからこそ、空が凍って落ちてくる。冬の象徴を描くのはあくまで寒さという季節の風なのだ。

 北風木枯らし冬寒風荒ぶ冬将軍。

 寒さがやってくるからこそ、冬は吹く。

 全てが止まり、眠るその常識を起こすもの――その暑さなど、そこには存在しない。冬は冬らしく、凍えて冷えるが正しいはずなのだから。。

 

「苦手、ですか――その方が冬らしいと」

「違うの?」

 

 告げた言葉に対して、男はくすりと笑う。

 まだ湯気の立つ燗の器を持ち上げて、ちゃぽんちゃぽんと音を立てて揺らす。熱すぎるそれを冷ますよう、辺りの冬を取り込むように。

 熱は冷まして、湯気を払って、瓢箪ごとぐいと。

 

「違いませんが……だからこそ、っていうのも思いましてね」

 

 その口元を袖で拭いながら男はそういった。

 乱暴に、乱雑にその中身を身体の中へと――ぐびぐびと喉を鳴らし吐いた息は、真っ白と酒臭い。酒臭く、空気に暖かさ()を巻き込んで。

 

「夏に冷やが旨いように、冬には熱燗がうまい」

 そういうのも季節の醍醐味というもんですよ。

 殻になった入れ物を隣に置いて、男はのそりと立ち上がる。

 片手には盆の上に置かれていた干物……芋だろうか。それを持って、外に火に近づいていく。

 

――……。

 

 ぱちぱちと、焦げた薪が崩れて火花――明々と、周りの白に映える華。

 今までずっと……ずっとが続いている間は、気にしていなかったものが不思議と目に残る。

 そのまま、ただただ、まっすぐであった感覚がゆやんと歪曲されて、視界が広がったの絞られたのか――わからないけれど、色々なこと考えるようになったような気がする。

 それは私が成長したからなのか……それとも、自然()から外れてしまったというのだろうか。

 

「溶けるからこそ、氷柱はできる」

 そういうのも、冬の美しさの一つでしょう。

 語る男は枝に指したそれをくるくると回しながら語る。香るのは乾した甘味が燻され、溶けた風。

 冬に見るもの。冬と繋ぐもの。冬を浮かべるもの。

 季節を越えて、寒さの中だからこそ余計にそそり、くうくうとお腹がないた気がして――そんなもの、必要とはしていないのに。

 

「寒いからこそ、温かさが必要です、とね。美味しいものを口として、布団の熱から起きあがるのにも一苦労……熱を求める日々もまた冬」

「……寒さに備えて食太る。寒さに凍えて食を案ずる――全てが眠っているからこそ、起きているためには震えていなければ(熱を発さねば)ならない」

 

 それもまた、冬のこと。

 冬を語るに外せぬものなのだと。

 

「……この世界にはね。冬のない場所ってのもあるそうですよ」

 

 日常の冬を語っておいて、そんなことを語りだす。

 繋がっているのかいないのか。振り子のように向こうへこちらへ。

 近づき触れて、遠のき揺れて。

 

「暑さばかりの空気。熱すばかりの太陽に、焦げ付いてばかりの火の肌に……そこに生きる全ては冬の寒さも、雪の白さも知ることがなく、その積もり続ける音を聞くこともない」

 

 遠い世界のこと。外側の何かのこと。

 私が産まれることのない何処かのことを――想像すら届かない、私の知らないものを。

 

「人の常識に、冬という暦が存在しない世界もある」

 

 男が語るのはそんなこと。私にはそれが本当のことなのかすらわからない。

 常識から外れた何か。そこにある常識には存在しない寒さという季節。

 

 幻想すらも生まれない世界。

 それは大層――それは大変。

 

「……それは、そんなか弱い季節だとでもいいいたいのかしら?」

「――判ってていってんでしょう」

 

 ふっと笑って見せた私に、白々しいと男が笑う。

 そうなのだ。そんなにも外れたもの――()を知らない世界なんて、とても。

 

「随分と残念な話ですよ。知っているこちらとしてはね」

 

 かかかっと男は軽い調子に。

 世辞か賛辞か。本音か戯言か。

 すべてを混ぜた人の言葉か。

 

「冬の醍醐味を知らずに逝くのは残念だ……眺めて美し、語って麗し、心地よさは微睡みながら死ねるほど」

「それを見ることも感じることもできないなんてとても残念な話だわ……こんなにも、あまりの美しさに目を閉じてしまうほどきれいなのに」

 

 ふっと息を吐いてみる――残ったお酒の表面が薄く凍る。

 しゅっと手首を返してみる――柔らかく振っていた雪が、ますます丸く。

 強まって……深まった、私の力。美しい世界の、一筆加える私の色。

 

「……いつかは、この寒さすら人の世は克服してしまうのかもしれない」

 

 その目はどこをみているのか。

 ただ中空を眺めているようで、はっきりと何かを見ているようにも見えて。

 震えるように首に巻いた厚めの布をぎゅっと締めなおした男の姿に――温かそうだ、となんとなく思い浮かんだ。冬の凍えのなかでこそ、感じられるもの。

 

「それはとても快適なのかも知れないが……寒さに震えることがなくなるというのも、それはそれでつまらない」

 年寄りは昔は良かったとばかりいうもんですしね。

 

 そういって、こちらに投げ渡されたのは程よいくらいに焼けた干し芋。

 指した木の枝の先で、じわりと湯気をたてている。

 甘いのだろう。温かいのだろう。

 

――きっと、美味しい。

 

 そう、食べる前から知っている――その温かさ(美味しさ)

 それを知らなくなってしまうのかもしれないと。

 

「……それなら、また思い出させてあげればいいのよ」

 

 語られたのはそんな先。

 先のことなどわからないけれど……それは、とても馬鹿げたことだと思うから。

 

「雪の重みも、風の冷たさも……冬の恐ろしさも」

 

 備えを忘れているずぼらな人間は、相応以上に報いを受けるもの。

 ちゃんと畜え、きちんと貯めて、それだけの分だけ幸せが訪れる。

 積んだ雪。差し込む風。凍った居場所。知っているから、備えておける。

 支度を忘れたならば、しっぺ返しは食うものだ。

 子供でも知っていることを忘れてしまったのだから――忘れるほど遊んでしまったのだから。

 それに、もし最初から知らないものがいるのなら、私を教えてあげるのも面白いかもしれない。

 きっと、とても愉しくて、笑えて笑えてお腹が一杯になってしまうほど。

 

「知らないものを知ったとき、誰かさんはいったい何を思うのかしらね」

 

 初めてそれを見たとき、いや見たことがないからこそ、その存在を知ったとき――そこに描かれるものは。

 訪れた突然に、一体何を想うのか。

 

「その非常識()に、何を」

 

 伝えて聞いた妖と怪。

 それこそまさに幻想と。 

 

 当たり前から逃れたそれを、知るのかもしれない。

 そんなことを考えるのは、私もいつか消える存在と成ったから――外れてしまったのだから。

 無駄な重さを得て、無駄の楽しみを覚えて、私は私となっていく。

 雪が積もって、雪あそびをして――巡った先で溶けて消える。

 そういうものなのだから仕方無い。仕方無いから愉しむしかないのだ。

 それが妖怪というもので。

 

「そりゃまた、驚きでしょうねぇ」

「ええ多分、肝が固まり割れ落ちてしまうくらい」

 

 心底冷えて、涼と響く。

 そんな音を愉しむ存在――冬の化生の私が笑う。

 はっきりとした私を持って。

 

「私も一杯、もらってもいいかしら」

「おや」

 

 大丈夫なんですか、という疑問の目。

 それは私もわからない。

 けれど。

 

「それもまた『冬の醍醐味』の一つなんでしょう?」

 

 なら、私は大丈夫。

 そう想う。想ってしまえるから大丈夫。

 

 そう頷いて――

 

 

 つがれた酒香をくいと一口。

 じんわり染みて、ほっこり安んで。

 

「あちっ」

 

 猫舌少し火傷して。

 

 

 

 

 

____________________________________

 

 

 

 

 しんしんと、何から何まで積もるもの。

 塵も衣も布団も山と。雪も雨も嵐も海と。

 

 海千山千。千軍万馬。

 終わらぬ限り、縁は積む。

 

 白と透明の深色。

 積もり重なり、互い冷やして塵積もの。

 まさっらな白と、透明重ね塗りて。

 

 

「どたばた騒ぎには慣れているでしょう」

「祭りは、見物だけでも存分ですよ」

 

 

 黒幕。垂れ幕。

 白黒巡る視界の果てに。

 

 咲く花も、あるのだろうか。

 




読了ありがとうございました。
……遅れすぎですね。

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