東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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素兎と祖人

 

 

 ばれた。

 それはもう、簡単に――間抜けに最悪な形で、それは失敗してしまった。

 

「まったく」

 

 息を吐く。

 どうやら私は……仕返しというものにてんで向いていないらしい。いつもいつもと運が巡ってこずに失敗に悪策ばかりと、駄目な方向ばかりへと向かってしまう。

 幸運の兎が、聞いて呆れる有様だ。

 

――まさか、ね……。

 

「まさか、こんなところにいるのが……ここまでの大物だなんて」

「あら」

 

 くすりと、笑い声。

 けれど、ちっとも笑っていない目が――私を見下ろす。

 

「詳しいのね……ただの兎にしかみえないのに」

「そうよ、ただの可愛い兎ちゃん。だから、逃がしてくれないかなー」

 

 なんていって、微笑んでみる。

 向こうも微笑み返す――片手に、いつでも狙えるようにつがえた弓を持って。

 

――……。

 

 先ほどの私への対応を考えて……私が脱兎と背中を向けた瞬間には、もう既に打ち抜かれてしまっているだろう。連れてきた子分たちも、まるで、檻にでも入れられるような形で突き刺さった矢に囲まれている。

 動きようがない。

 

「兎……そうね、どれくらいがいい焼き加減なのかしら」

「生が一番、火になんて当てたら台無しになっちゃうわ」

「でも、寄生虫が多いでしょう?」

 

 のらりくらりと――生殺与奪の握られた会話。

 背中に汗をかきながらも、どうにか相手の隙を探ろうと。

 

「私はきれい好きだからね――ほら、こんなにきれいな目をしてるでしょう」

「……地上に暮らす動物に『穢れ』を持たないものなんていないわ――貴女のお腹は真っ黒そうじゃない」

 

 地上。

 やはりと、この女はそうなのだ。

 想像通り……そして、同時に疑問。

 

「――まあね。私も長くここで生きているから」

 

 それを突っつくべきか、という迷い。

 下手すれば、藪をつついて蛇を……鬼より怖い、障るべきでないものを呼ぶことになる。

 けれど、このままでは――

 

「でも、それじゃあ……何故なんでしょう」

 

 どうしようもない。

 何か手がかりを……利用できるでっぱりを見つけなければ、このまま底まで落とされてしまう。

だから、そこに賭けてみようかなんて――そんなことを考えてしまう。

 

「……何かしら?」

 

 目を細め、値踏みするように私を見つめる女。

 その銀の髪に、独特の雰囲気……加えて、まるで隠れ潜むようにして作られた空間とそこにある屋敷。

 こちらに留まるための場所。

 

「あんただって、ここ(地上)で暮らしているんでしょう?」

 

 そこにある疑問。

 私はそれを賭けとして――穢れなき者へとぶつけることとした。

 

 

____

 

 

 長く生きる者。長大な時間を生きる私たちのような存在はその時に感じたもの・見聞きしたものといった記憶をそのままの感覚として眠らせておく、ということが多い。

匂いや味、雰囲気や好み、そんなものをきっかけとしてなんとなくに蘇えるくらいの、いつもは忘れていて、ずっと思い出せずにいて――ふとしたきっかけで、ほんの少しと。

余程の印象が残っていなければ、はっきりと思い浮かぶことはない。

その程度のものだ。

ただ、覚えておかねばならぬことは忘れない、というものもいる。

 貸しや借り、後々遺恨になってきそうなこと、利用できそうなもの――そういうものを覚えておくのは、長く生きていくためには肝要で、私はそういうものを大事ととっておく。忘れないようにしている。

 だから、この男のことを思い出しておけたのもそういうこと。

 意趣返しという言葉と、そこにある独特の雰囲気に、少しとあの時のことを連想していたために――いささか、それがはっきりと思い浮かべられた。

 

――まあ、変な奴ではあったから、会えば思い出したとは思うけど。

 

 先手を打てた……先周りして罠をしかけられた。

 そうすることができたおかげで、なかなかな優位な立場に立てたのだ。

 

 まったく、それもこれも私の日頃の行いの賜物。幸運を呼ぶ兎としての当然の結果――つまり、私の実力だ。運も不運も実力のうち。私にはあって、あの男には巡らなかった。

 

 ただ、それだけのこと――だった、のだけれど。

 

「足の怪我はすっかり良いようで」

「――ええ、おかげさまでね」

 

 やはりそのままと、一筋縄ではいってくれない相手であるらしい。

 

 すっかりと酔いの匂いがこみ上げる空間で、男は私に徳利を向けている。

湯で温められ、程良く湯気のあがる程度に暖められたその燗は、私が差し出したお猪口に、とぽとぽと気持ちの良い音を立てて注がれた。

 

「……」

 

 強い香り――一口含めば、荒々しい味が舌を熱して喉を焼く。

 きつい、並大抵の者では呑めぬ酒。

 妖怪である私ですらそう感じるのだから……ただの人間が呑むのなら、一口でどうにかなってしまうかもしれない。

 そのくらいにきつくて――

 

「こりゃ、姫さまももたないはずだ」

 

 古臭い。

 古の……まだまだ酒ができて間もない頃に感じた、初めの味がする。

 本当に美味しいのだけれど、呑み慣れてものが呑めばすぐに出来上がってしまう。そんな苦みと悪さを含んだ味がする――あくどい味というのだろうか。

 

「そうですかね? なかなか懐かしくて暖かい……美味い酒だと思いますが」

 

 男はとぼけて笑う。

 それはそうだ。これは、私たちならよく知っている、大事な味。記憶に留まる基礎の部分、最初の最初あたりに刻まれた大切な記憶(もの)に確かに留まっている味だ。

 だからこそ、こうやって普通に呑めて、愉しめている。

 けれど……もし、それを飲んだことがない者ならば。ましてや、それが最上に洗練された美しき酒ばかりしか呑んだことがない者なんかだとしたら――きっと、どうしようもなくやられてしまうだろう。がつんとくらって呑まれてしまうだろう。

 

「まあ、確かに……癖は強いですがね」

 

 男は淡々とそれを口に運ぶ。

 それは強さや味などでなく、ただ単純に経験の話。つまりは、私たちにとっての易き場所ということ。

 

――私と同じくらいか……それ以上。そりゃ、一筋縄じゃいかないよ。

 

 改めて思い直す、この相手の面倒くささ。

 正面から相手にするにはこの酒と同じ、ひどく癖の強すぎる相手だと――向こうに眠る、そのお姫様を眺めながらに思う。

 長い耳に届くのは、くぅくぅと小さな寝息。

 

「しかし……見事に眠っちまいましたねぇ。何かかけるものでも持ってこないと」

「ああ、いいよ――あんたたち!」

 

 一声かけて、たたたっという駆け音が廊下に響く。

 開け放しの襖から飛び出してくるのは、何匹かの兎たち。それがそのまま奥で寝転がっている姫さまの所まで駆けていき……寄り集まって、丸い形にその身体を包みこむ。

 いや、何か布団のようなものを持ってこいという意味だったんだけれども――まあ、いいか。

 

「……これで寒くないでしょう」

「何やら獣臭くなりそうですがねぇ――まあ、確かにあったかそうだ」

 

 そういって、ふっと笑った。

 ずずっと一口、酒杯を啜る音。

 

「……」

 

「ううっ」となんだかうなされるような声を上げて姫が寝返りを打ち、兎一匹が捕まった。枕代わりにぎゅっと抱き締められて……一応、手加減はしているようだから大丈夫だ。潰されることはないだろう。

 ついでに、外にいる他の何匹かも呼び出して、空になった皿を片づけるように命じておく。多少危なっかしいが……まあ、いいや、と放っておいて。

 

 手を伸ばし、残った皿から漬物を一口。

 

――うん、塩味が効いている。

 

 そうやって、ほっと一息。

 男も私も微睡んだ――そういう一歩の間を空けて。

 

「――何が、そんなにいやなのかねぇ」

「うん……?」

 切り出した。

 そうやって眠る……眠らされた姫。

 古き地上の酒――けれど、確かに逸品であり、珍重な価値を持つ逸品。確かに、あの姫さまならば手を出してしまうだろう珍奇なものを、わざわざと用意していた。

 その理由。

 

自分()のことを話すのが、だよ――あんなやり方までしてね」

 

 わざわざ、合わないだろう酒を持ってきた男に対して、疑問を呈する。

 最初からそのことを話す気がなかった、誤魔化して、なかったことにしてしまおうとしていた――それを狙う土産を持ってきたことについて。

 

「さて、ね」

 

 男はふっと笑んで、目を瞑る。

 また一口と酒を含む――私たちには、慣れきったものである古酒の……そのままではとてもきついが、暖め少しの水を加えれば、随分と口当たりのよい逸品。

 呑みすぎ注意な、その味を。

 

「……嘘は言ってませんよ。一杯呑むたびに一つずつ質問に答えていくってのは本当だったでしょう?」

 ぐいと呑み込んで、笑う。

 悪気のない――性根の曲がった爺の顔で。

 

――まったく、質の悪い……。

 

 確かに、男は正直だった。

 姫が上げた問いにはきちんと答え、一つ一つと重ねていった。ただ、そのために姫は、自分に呑みやすいように酒に手を加えねばならなかった――勘違いした舌が、きつい酒を随分と早く減らしてしまった。

 だからこそ、すぐにと瞼は落ちたのだ。

 

「まあ、本当なら始めのうちに、その重要な問いは済ませておくべきだったんだろうけどね」

 私は笑う。

 その詰めの甘さ――幼さに。

 

 これで、この姫さまは随分と奥ゆかしいのだ。

 貴族の社会……あの天上のものであっても、それは随分と回りくどく、遠回りと遠回りと、長い息をつくようにできているために。

 たわいなきから徐々に。垣の隙間から僅かずつに。

 無駄を楽しみ、経過を愉しみ、その僅かな距離を縮めるまで、応えを返すまでに、ゆっくりと長大な時間をかける。最後の最後にまで花を隠すようにして、終着にてやっと美しきを飾る。それが姫として、長き日々を優美に生きるものとしての作法――そう、身に着けている。

 

「仕方ない、か」

 

 彼女は箱入りなのだ。

 いくら頭が回ろうと、いくら能力が優れていようと――そういうことは泥にまみれた経験がなければ、知らない(・・・・)ものだ。

 騙されるのは、最初の授業料。そこから生きるのが、土に生きる私たち。

 それが、この世界で生きるということで――生き残るということだと、私は思っている。

 だから、負け。まだまだ世の中を知らなかったということだ。

 それはそれでいい。私には何の損もないから。

 

――……ただ、ね。

 

 少しと引っかかること。私にも気になることができてしまった。

 わざわざそこまでして隠すこととは、効かせたくないこととは一体――。

 

「――なんなんだろうね」

 

 そういう疑念。

 姫の持っていた興味が、私にも少しと感染ってしまった――だから、今度は私の手番、としてその役割を。

 

「その、話していないことってのはさ」

 

 そんなことを考えながら、ちらりと、横目に男を見上げた。

 そこにいるのは、私よりもずっと優しい(・・・)はずの人間だ。ひねくれ具合はともかくも、芯の所で甘さをもっている、妙なところで詰めの甘い男。

 馬鹿正直にもこの場所へと謝罪に訪れ、私にうまく利用されている。その腕なら、ここから逃げ出すこともできただろうに――ここにくる必要すらなかっただろうに、わざわざその道を通るようなへまをする。

 

――……苦労を抱え込む質かな。

 

 私の時と、また同じ。

 そういうことばかりを繰り返していそうな感じがする人間だ。

それが――そんな間の抜けた人間が、そこまでして隠そうとすることとは。

 

「……さて」

 

 見つめる私に、男は息を吐く。

 杯に残っていた酒をぐいっと飲み干して――確認するように、そのすやすやと眠る姿へと視線を向けた。兎に埋まっている。

 

「……まあ、そこまでして隠すようなことでもないんですがね」

 呆れたように息を吐き、男はこちらに向いた――それと同時に、ひゅんっと何かが打ちあがった。

 ついと釣られて見上げると、落ちてくるのは男が持っていた酒杯。空となったそれが、ぴんとたてた人差し指の上に水平に受けとめられて――くるくると、回りだす。

 

「ただ……それを話してしまうとどうしても、一人分の話じゃなくなってしまう」

 

 そういいながら、くるくると。

 手慰み。なんとなく。ゆるゆると回される円錐形。

 慣れた調子の軽業とその滔々とした拍子に添うように、ぼうっとした語りでそれは続いていく。

 

「自分のことだけじゃない。違う誰かのことも……誰かが話していないことまで、話さないといけなくなる」

 

 掘り起こすように、沈んでいくように――その目が静かに曇っていく。

見ているようで見ていない。ただ、まっすぐと眺めている。

 追憶。懐古。

 その奥の、その向こうの――記憶の色を、過ぎた世界を。

 

「それは語るべきものなのかも――わざわざ、知らない誰かに知らせて……背負わせるようなものなのかもわからない」

 

とつとつと語られる。とくとくと響いていく。

 灯りが揺れて、滲む何か。古臭い香りがする――古い古い、大昔の匂いが見える。

 酒に混じって、酔いに惑って……何かを思い出してしまいそうな懐かしいものが、私の記憶(素兎)を刺激する何かが――。

 

 男の語りから漏れ出そうになって。

 

「――っと」

 

 少し、焦ったような声。

 びしりと、それが崩れ落ちた。

 

「……」

 

 くるくると回転していた杯がふっと落ちて、男は手を開いてそれを受け止める――それと一緒に何かが収まった気がした。感じていたものが、仕舞われた。

 すっかり消えて、すっぱり霧散。

 

元の時間へと――ぐるりと戻る。

 

「――まあ、そんな責任を負うのは、この爺にゃあ重すぎるとね」

 そういうことです。

 

 男は笑う。

 冗談っぽく、軽い口調でそう。

 すっかりと慣れた調子で――それを片づけて。

 

「……さて、話はこれくらいにして」

 

 沈黙した私にちらりとした視線を送ってから、男は膝に手をおいて「どっこいしょ」と立ち上がった。手には先ほどの杯と……そこらに置かれていた空になった器たち。

いつの間にやら増えていた兎たちが残って分の料理もほとんども片づけてしまったらしい。

 

「そろそろ、残りの洗い物も運んでおきますよ」

 兎さんたちも忙しそうですし。

 

 そういって指された先には、眠る姫と――その懐で寝息をたてる手下たち。

いい気分で寝っ転がって、しばらくは役に立ちそうにないものばかり。

 

「……はあ、まったく」

 

 その惨状に溜め息を――そして、少しの安心。

 何やら、厭な(・・)ものでも聞こえてきそうな、そんなものに出会ってしまいそうな雰囲気だった。妙なものを感じて、何かが溢れ出してきそうな気がした。

 私のものでないのに、私のものと感じてしまうような何かが這い出てきそうな――

 

「……」

 

 そんな空気。

 どうやら、それはいなくなってくれた。

 これで、無用な面倒を聞かなくてすむ……抱えなくて、すむ。

 そう安心して、息を吐く。

 

――そんなの、私のがらじゃないからね。

 

 気になりはしても、首は突っ込まない。精々、片足を伸ばして触ってみる程度。必要以上にのめり込まない。

 それが、長生きするための秘訣――私の秘訣。

 

「ああ、そうそう」

 

 私はそんな面倒な生き方はしたくない。

 そう考えて、ほっと胸をなで下ろしたところに、再びの声。

いくつもの器と杯を器用に両手に抱え、こちらに向いた背中が――

 

「こちとら、下っ端の経験しかありませんので……どうせ聞くなら、その当人から話してもらったほうが詳しい話を聞けるでしょうよ」

 

 ぼそりとそういって、部屋の外へと出ていった。

 その足音が遠ざかるまで、じっと聞いていた。

 

 そして――

 

「――いやいや」

 

 男がいなくなった部屋。

 その静かになった空間で、ぽつりと口にする。

 

「まったく、面倒な相手だねぇ」

「本当に、よ」

 

 返る声は、今まで寝息だったもの。

 もふもふとした白の塊を押し退けて、美麗な姫がむっくりと身体を起こす。

ぼとりぼとりと、寝ぼけたのが落っこちる。

 

「ほとんど、何もわからなかったわね」

 

 盗み聞き。いや、途中までは本当にまどろんでいたのだろう……ただ、目を覚ましてからも、しばらくそのままの体勢でいただけ。兎に埋もれてうまく動けなくて、ずっと目を瞑っていただけ、そういうことらしい。

 なかなか見込みがある箱入りだ。

 

「ありゃ、面倒くさい相手ですよ」

 

 そのまだ多少眠そうに頭を抱えている。

「そうよねぇ」なんて呟いて、なんだかもう面倒くさそうに。

 

「あーあ、何だか疲れちゃったわねぇ」

 今日はもうこのくらいでいいか。

 

 懐にいた兎を一匹ぐにぐにと弄びながら、お姫さまはそんな言葉を口にする。

 諦めの早い、根気のない言葉を吐いて――それより、さっさと眠りってしまいたいとでも思っているふうに。

 

「……それじゃ、素直にあの賢者殿に話を聞けばいいんじゃないですか?」

 

 男の言っていた通り。きっと、その方が万倍早くて簡単だ。

なのに、なんでそうしないのかと、私の呆れ半分不思議半分の嘆息に。

 

「それじゃあ、つまらないじゃない」

 

 姫は笑う。

 優美に、楽しそうに。

 呆れ果てた言葉を吐く。

 

「難しくて、どれだけ時間がかかるかもわからない問題……だからこそ、そこには価値がある」

 

 その時間を、どこまでも続く永遠をこれでもかと振りかざして、とても無駄な時間の使い方を――只人にはもったいないと思えてしまう、優美な暇つぶしを語る。

 それは遊びで、退屈しのぎ。気分に任せての気まぐれ道中だと――猫殺しを倒すための方策として。

 

「私も――」 

 

 その理由として、語られたもの。

 

「――」

 

 

 私はそれに呆れて笑った。

 笑ってしまって、どうでもよくなった。

 

――まあ、いいか。

 

 なんて。

なんとなくと、うまくやっていけそうな気分になった。

 しばらくは、退屈しないですみそうだと――これからの巣穴を見直した。

 

 

―――

 

 

 

 賢者はいった。

 それに私は――

 

 

「どうせなら、私を使ってみない?」

 

 

 会話は契約の始めとなった。

 それぞれに利用し合うという新たな関係の、その初めとなった。

 

 

 

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 洗い物を終え、月の見える場所。

 何事か(・・・)があったのだというそれを見上げて、何かを考えていた――いや、何も考えていないのだろうか。

 ただ、縁側に座って、それを眺めていたのだ。

 

「なかなか、いい月ですねぇ」

 望月でなくとも、それもまた。

 

 そんなことを宣いながら一人の男は現れた。

 その何事か、月での事件に関わったという下手人が――客人として訪れている。

 

「あら、もう話は終わったのかしら、姫さまは?」

「ええ、ちょっと……」

 

 刺激が強すぎたようで、とそういって男は笑った。

 手には、勝手所からもってきたのだろう酒器と先ほどの酒瓶。

ちゃぷちゃぷと鳴っている音からして、残りは三分の一といったところか。

 

「まあ、あの姫さんは良い酒ばかりを飲んできたんでしょう? これはちょっと色が違いますからねぇ」

 勝手が違うのも仕方がない。

 

 いいながら、その瓶の栓を抜く。

 ふわりと香る。

 

「……なるほど、懐かしい香りがするわね――小慣れていない、古き(しゅ)の香り」

 

 嗅ぐだけで熱さを感じてしまうような粗さ。

 丸い白に黒の筆。その簡素な入れ物は、確かにそれに見合ったものなのだ。きっとその中身は、あちら(・・・)のものよりもずっと古臭い味。洗練されず、精錬されず、土と水、大地の灰汁がそのままと残る、とても苦みに満ちたもの。

 とても懐かしき、思い出せないくらい太古の色を宿す。

 

「まさに『お酒』というべきもの――なのかしらね、その中身は」

「ええ、そりゃもうね」

 

 ちゃぽん。とぽん。

 まったりと音が揺れる。

 香しい匂いが飛ぶ。

 

「酒にとらわれ、酒に呑まれて、酔って笑って、怒って泣いて……楽しみ、騒ぐための酒」

 

 差し出される杯。

 受け取れば、そこに注がれるとろりとした透明。

 

「鬼の腑を焼く、雑酒です――お付き合いいただけますか?」

「……いただくわ」

 

 ふっと笑んで、代わりにと男の手から瓶を受け取る。

 杯に傾け、同じようにとくとくと。

返礼交わし、応答を交わして――。

 

「では――」

「ええ」

 

 きんっとぶつけて、口に運んだ。

 月を見上げて――それが完成する前のことを眺めながら、その懐かしい味に舌を打った。

 美味しい。けれど、それ以上に感じる昔々の、泡の味。

 息を吐いて、しばらくと黙り込み、それを感じる。

 思い浮かべていることは違うのだろうけれど――けれど、思い出しているということは同じ。

 はるか旧世の日々のこと。遠い昔の匂いと景色。

 それに僅かと戯れてから――。

 

「さて――」

 

 題は今へと変わる。

 

 

「――しかしまあ、おもしろいものを引き込んだもんですねぇ」

 男が口を開いた。

 話題としたのは――あの兎。因幡てゐと名乗る新しい住人のこと。

 

「……勝手に引き込まれたのよ。なぜかは、私にもよくわからないけれど」

 

 私にもわかっていないこと。

 この閉じられた空間に侵入し、あまつさえ、この竹林の所有権は自分たちにあるのだと、談判するという暴挙をなした大きな兎。

 とても単純で――利に聡い妖怪兎。

 

「……まあ、いい取引相手ではあるわね」

 

 私はそれと契約を結んだのだ。

 言うことを聞いてくれない兎たちの統率を彼女がとってくれる代わりに、私はそれらに知恵と知識を与える。安全な居場所として、この場所を提供する。そういうこととしてまとまった……利害の関係。

 

「そりゃ、いいことだ……こんなしょぼくれた爺さんだけじゃ、客としてつまらないでしょうしね」

 兎なら可愛いものだ。

 

 男はそう言って、くっくっと、含みを込めて笑う。

 確かに、あれを制御するのはなかなかに面倒そうだと、私も思っているのだけれど、それ以上に実りはあるはずなのだ。

今回も、私の仕事が随分――

 

「……まあ、兎は兎。統率者の命には従っても、それを全部こなせるとは限らない――だから、まだ訓練はしないとだめなんだけど……」

「ああ、なるほど。だから洗い物を」

 

 うなずく男。

 ちらりと後ろを見たのは――先ほど、勝手所の洗い物の様子を見てきたからだろう。一応、だいたいのところは終わらせてきたが、兎たちに任せた部分の惨状は……残骸として、確かに残っていた。

 しばらく時間をかけて、もっと馴らすように訓練していかねばならない。

あの洗い物のほとんども実際は私が一人でしたようなものなのだから。

 

「洗い物にも随分慣れてきたから、随分と私も手早くなったわ」

「いいことです――続けていれば、案外、そういうのも面白く感じてくるもんですよ」

 何事も。

 

 男はそういってからからと笑い、すっと、右手を中空へと伸ばした。

 拳を広げ、開いた手のひらの上に酒杯をのせて。

 

「……?」

 

 何をするのかと見ていれば、男はその杯を握りこんで、こちらに見えないように包みこみ――そのままぐっと力を込めた。

 何かがあったはずの大きさがぎゅっと縮み、ただ、拳を握っただけの形となる。

 酒杯が消えて、空をつかんで――開いたそこには何もない。

欠片も塵も、影も形もなくなって。

 

「こういうことを覚えてみるのも……暇つぶしにはもってこいです」

 

 そういって、開かれた手。

 左の手のひらのに、いつの間にか先ほどの杯がのっていた。

内にはなみなみと、光が揺れている。

 

「――本当に、色々なことができるのね」

「手慰み程度ですが……まあ、時間だけは山ほどありましたし」

 それこそ、塵が山となるほどに。

 

 そういいながら、くるくると、器用に酒の入った杯を指に弄ぶ。

 こぼれそうでこぼれない。溢れそうで溢れない。ぎりぎりのところでずっと揺れている。

 くるくると回りながら、回ることで安定しながら。回り続けることで、それを保つ。回っていなければ、保てない。

そうしていなければ、どうしようもない。

 

「色々と、様々と――覚えて、教えてもらって」

「……」

 

 何かを思い出すようなそんな目をしながら、それを続ける。

 ずっと反芻して、思い起こす。

 

「忘れちまうもんもありますがね……こういう身体に刻んだことなら、思ったよりも忘れずに残る」

 経験が生きているってことですかね。

 

 男はそういって笑む。

 笑んで――くるくると、からからと。

 

「そう、ね」

 

 生きている。生き続けている。

 忘れない。忘れたくないと、続けている。

 

――彼は……。

 

 過ぎ去ってしまう時の中、次々と崩れ去っていく刻の内で、一つ一つと区切りを決めた――何か一つのことだけを考え続けることで、その場へと留まった。

 同じ時。同等の時間。等しき命。

 そんなものを持つことも――見下ろすことすらもできずに、ただ、同じものを見ている振りをして、その隣に。

 見続けて、知り続けた。

 そこに積もったもの――そこで拾い上げていった。

 誰かを見習って、誰かの真似をして、誰かと同じことをできるようになって……そこに思い出すもの。そこまでして忘れたくないもの。

 

 ただ、そう言い張るだけのものなのだったとしても、それを。

 

「――まあ、久しぶりにしてみれば……失敗だってよくやるもんですが」

 そこらへんはご愛嬌。

 

 言った瞬間――「あっ」と声を上がって、器の回転が歪むのが見えた。

 男は身体全体で動いて、そのこぼれそうになった中身を何とか安定させようとする。慌てて、ふためいて、両手を使ってどうにか立て直して――。

 

「――ぐあ!」

 

 痛めていたのだろう。

 びきりという擬音が聞こえてきそうな体勢で固まった――多分、腰。何処か硬い地面の上ででも眠ったのか、ただたんに冷やしてしまったのか、もしくはその両方か。

 どうだったにせよ、その両手を上げて何かを差し出すような形で固まった体勢は――

 

「……」

 

 思わず、笑ってしまいそうになる姿。

 ぴくぴくと痛みに耐えて震えているのが余計に笑いを誘う。

 そんな間抜けな姿で――

 

「――いやあ、危ない危ない」

 

 先ほどまでの調子はどこへやらと、ゆるりとゆるんでそれは軽く、ふっと何かが抜けてしまったように雰囲気は消し飛んだ。

 

「まったく、年ですねぇ……近頃は身体の節々が」

 

 そういってとんとんと、腰をたたいて身体を起こす。

 当たり前の老人らしく、当然の年寄り振りで――あくまで自然と、不自然な身体を揺らす。

 昔のまま――昔よりもずっと、重そうな何かを肩に背負って。

 

「――」

 私はそれを見た。

 そこにはあるのは、決して不幸なものだけではない。大切な何かがあるからこそ、それを守るためにそれを続けているのだと。

 嘘であろうが本当であろうが、それを否定することは誰にも出来ない。男はそうやって、精一杯に笑って生きている――わざわざそこに私の後悔を上塗りして、それが悲しいものだと考えるなど。

それこそ、自分勝手な愚かなこと。

 

「――ただの、運動不足でしょう? 普段身体を動かしていないからそういうことになるのよ」

 ふっと息を吐いて、軽く吐き出す。

 

 自己満足の想いに他人まで巻き込む、一緒に不幸になってほしいだけの寂しがり屋。独りが怖いと、自分のせいで独りになってしまったのだと泣きわめく――そうしてしまうほど、私は若くない。

 自分の荷物を自分で背負うくらいには、ちゃんと生きてきた。

 

「あとで、湿布でもあげるわ――どうやら、生傷も絶えない様子だし」

「――助かります」

 

 私の言葉に、男が目尻を下げた。

 対等に――変わらずに私を見ている変わり者。

 昔は知人。今は友人……のようなものへと変わった人間。

 おかしなおかしな、違う流れを生きた人。

 

――ああ、そういえば……。

 

 視点があって、今のことを思い出す。 

 古いところから、やっと今へと戻ってくる。

 

 それは先ほどのこと。

 

「輝夜がごめんなさい……私は止めたのだけど、少し、あなたのことを探って見たかったらしくて」

 

 悪気はなかったのだと説明しておく。

 いや、あったのかもしれないが、そう悪いものではなかったのだと――恨まないでやってほしいと。

 

「いやいや、構いませんよ。こっちもすぐに報告するのが筋だった――なるべく機嫌をとってからなんて誤魔化した、こっちの手落ちです」

 

 気にしないでくれ、というよう片手を振る。

 けれど――それでも、それは男の罪ではないのだから。

 

「元々あれは貴方のために……貴方たちのために用意したもの、それをどう使おうと私たちには文句をいう筋合いなんてないのよ?」

「いえいえ、必要のなかったものをわざわざと置いといてくれた――それだけ、十分感謝にゃ値することです」

 

 言ってから、こちらに向いた。

 酒杯を置いて、酒瓶寄せて、真っ直ぐと私を見てから――

 

「本当に、ありがとうございました――お陰で、悪友を失わなくてすんだ」

 

 そう、真面目に告げられた。

 丁寧に、頭を下げられた。

 

 一瞬惑い――そして。

 

「……ふふ」

 

 その相変わらずの調子。

 その読めない行動基準に――何だか、笑いが込み上げる。

 おかしくて、おかしいと。

 

「何か、妙な調子ねぇあなた」

 いつもと同じように変だけれど、今日はなんだか方向性が違うような気がした。

 なんだか、ちぐはぐに。

 

「……ちっとね」

 

 自覚があったのだろう。男は頭を掻いた。

 いつもの年寄り臭い姿が抜けて、微妙に子供っぽいような気がする表情で。

 

「よく考えりゃ、誰かにちゃんと謝るってのは久しぶりでね……少し、緊張でもしましたか」

 

 幼い子供のようにそんなことをいった。

 ますます、笑いがこみ上げた。

 

 男は気まずそうにそっぽを向く。

 

「確かに、何だか可笑しかったわ」

 

 そういってやると「やっぱりですか」と顔を蹙めた。

 

 

――ああ、おかしい。

 

 

 どうにもおかしな調子の狂い。

 ずっと昔に見たような、見ていないような――今は、初めて知ったもの。 

 それを眺めて――

 

 

「まったく、どこまで生きても失敗は憑き物ですねぇ」

「ええ、そうね」

 

 互いに互いと、間抜けに笑う。

 互いと互いと、間抜けさを笑う。

 

 そして

 

「世の中、わからないことだらけだわ」

 

 

 そんなことを笑いあった。

 

 

 あとにしたのはただの世間話。

 たとえば、こんな――

 

 

「そういえば、なぜ、姫さんは直接それを聞かないんです?」 

「ああ、それは」

 

 私は笑って、それを言う。

 自慢するようにしてそれを語る。

 

「あの子は――」

 

 

 その、少しの成長を、笑いと変えて。

 

 

____________________________________

 

 

 

 

「たまには、私も解いてみようかと思ったの――私自身に課した難題というものを」

 

 

 

 





 遅刻ですね……申し訳ありません。

 閑話的な話だった、はずなんですが……急いだ分、なんだか微妙になったやもと。
 あまりに違和感があれば、ご指摘ください。もしかしたら、この回は書き直すかも、と。


 読了ありがとうございました。

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