向日葵と呼ばれる植物。
日に向けて花を咲かせる、ということで向日葵と呼ばれるが、実際には太陽の向きへと花が回るわけでもなく。多くの場合、開花後は日の昇る方向である東へと向きが固定される場合が多い。
全体の部位が様々な薬効を持ち、食用としても扱いが可能、花弁は染色に、種は絞って油、絞りかすは蝋燭や石鹸の材料としても使用することもできる。非常に価値の高い植物といえるだろう。
原産は北米国の西部とされ、欧羅巴から中国へと渡り、日本には江戸時代初期になってからやっと紹介されたという、当時は『
そう、伝わったのはずっと先。名前がついたのはもっと先のことだ。
けれど、それよりもずっと昔。まだその存在すら知られていない頃。
名も知られぬままに、誰にも気づかれないままに、その花が持ち込まれていたとしたら。
そして、奇しくもそれが一つの園として芽吹いていたとすれば――
それは、幻想と呼んでしまっても良いのかもしれない。
誰に気づかれても、誰に知られても、その花の名は無く。
ただの景色として、ただの花の一つとして眺められた場所。
いつの間にか、それがなくなっていたとしても
誰もその名を知らないのなら、誰もその花を知らないのなら――誰も気づくことは無い。
在るはずのない。在ったことすら忘れられた場所。
幻想の花畑。
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それは一面の輝きだった。
緑の世界が広がる中に、ぽつんと広がった鮮やか色。
濃く香る匂いは、その生命力の強さを示す。
――随分と、まあ……。
真っ直ぐに突っ切ろうとした森の中、急に現れた一面の色に目が眩む。
大きく、丸く、明るい。鮮やかで、強く、真っ直ぐで。
どうにも――
「眩しいな……」
現れた瞬間に、眩んで足が止まってしまった。
それほどに明るい。長い年月によってくすんでしまっている己の姿とは正反対に、鮮やかに色濃い命を宿している姿。思わず見惚れ、魅入られてしまった。
その一色に染まった花の園は、それだけの美しさを持っている。
今だけを、短い時の中を精一杯生きる故の、命の強さを覗かせている。
「――こりゃあ、珍しい」
綺麗な、随分と珍奇な花園である。
こんなものが誰にも触れられず、何の手も入らぬままに自生しているなど、奇跡にも等しいことだ。己の長い人生においても、これほどに立派な自然物など、数える程度にしか見たことがない。
不自然で、それでいて超自然的な――天然に成された奇跡というものだろうか。
偶然に偶然が重なり、上手く符合した上で起こった幻の具現だろうか。
――……。
黄色に染まる大地。
陽に映える花。
「――この一色ってのなら、綺麗にも思えるだろうに、な」
背の高い花。中心に蓄えられているのは種だろうか。
円状に橙と黒色を混ぜ、外輪を黄色で囲う。まるで、空にある天体の一つをなぞったようなその形は――象徴的で、何かそのあり方を示しているようにも思えてしまう。
どうにも連想させて、重ねてしまう姿である。
明るい強靭さ。それが、なんとも面白い。
「何て、名前の花なんだろうな」
妙に興味がわいてしまう。
惹かれてしまう。
――妙に、強そうだ。
自分にはないものを持つ花。天然の強さ。
散らさぬように気を配りながら、それに触れてみようと手を伸ばす。
その健康的な姿にあやかるように、ゆっくりと――。
「名前なんて人間が勝手に呼ぶものよ」
ぞくり、震える声がした。
伸びていた手は中途に止まる。
「人のいない場所では、そんなものは意味を成さないもの」
堂々と、力強い。その花と同じ強さを持つ声。
振り向くと、花畑の中に立つ少女が一人。
翠色の髪と赤色の衣装を纏い、幽然とした姿で花畑の中心に立っている。その姿は、どうにも眩しく――恐ろしい。
「……」
その顔は、背筋が凍るような美しい笑顔で彩られている。
どうにも歓迎されているようには思えない。
――というより……。
何も言えずに妙な格好をして固まって、視線だけを返す。
その姿に、少女はにこりと強く笑う。
「―――花はそのままの姿でこそ美しい」
咲き誇る花を避け、ゆっくりと歩みを進める少女。
少しずつ、少しずつ、こちらに近づく。
まるで、自らの姿を誇るような堂々とした振る舞いで、前に立つ。
「この子達に名前などいらない。その必要も無い」
今のままで十分。
周りに広がるその姿をいとおしむように語る。
優雅に微笑むその姿は、どこか威厳を発しているように――他を排する頑なさにも見える。
「そうは思わない?」
その視線の先にあるのは、咲き誇る黄色の花林。
まるで幼子か何かのように、愛おしそうに見守りながら問われる答え。
――これは……。
ぴりぴりと、感じる感覚。
ぞくぞくと、背筋に触れるもの。
尻尾は丸まり、逃げろと叫ぶ。
「――そう、ですねぇ」
それでも、にこりとそれを押し殺す。
吐き出すのは強さを乗せない脳天気な言葉。
「名前が無くとも美しい、ってのはよくわかりますよ。 ――何も知らずとも、このまま眺めているだけで、それがよくわかる」
姿勢を正して向き直り、軽い調子で。
にこにこと笑う相手ににこりと笑みを返し、互いに視線を交わす。
その中に含む意味――笑みの裏は、随分と違っているのだが、それを鏡のように。
「なかなか、見ていて飽きませんよ」
「でしょう。気に入ったのなら、もう少し見ていけばいいわ。 ――のんびりとしていきなさい。」
交わすのは、非常に安穏な会話。
言葉に甘えて、腰を下ろす老人とその隣に立つ少女。
そういう構図。
「しかし、誰もいないと思ってたんですが……お嬢さんはこんなところで何を?」
「この子達の様子を見にきたの。丁度、満開の季節。 ――この子達が自らを一番に美しく飾り立てる時季だから」
「ほう。そりゃいい時にこれたもんですね。ここに来たのは偶然だったんですが……」
それは運がいいわね、緑色の髪を揺らして、少女が笑う
幸運の加護でもありましたかね、からからと微笑んで、己が答える。
平和な言葉。
凡庸なやり取り。
そういう態度で――外交し、頭の中で非常時を考える。
水面下での建策。
「ここは、お嬢さんの持ち物――ってわけじゃなさそうですね。天然の自然物、誰の手も入っていない感じだ」
「あら、よくわかるのね。そうよ、ここは自然に出来上がった天然の園――人の手など一切入っていない花だけの里」
「それはそれは……随分、貴重なものだ」
混じり気のない純粋な姿。人為に晒されない隠れ里。
のんびりと言葉を紡ぎながら、眺めるのはそんな幻想の形。
触れれば、薄まってしまうだろうもの。
――もし、それに手を出そうとすればどうなるか。
その答えは、なんとなくだが想像がついている。
きっと、少女が現れた時から感じる、この剣呑な雰囲気そのままのことになるのだろう。
花園自体は純粋に出来上がったのだとしても、それを乱すのを嫌うものが、どこかにきっといたということである。多分、その不可侵を守るものが――。
――花見は無礼講といきたいもんだが……。
そうして罷り通すには、少々高すぎる垣根がある。この絶景をゆるりと眺めていたいというのに、どうにも覗くに難いのだ。
せめて、酒の一つでもあれば、ちょっとはましだったろうに、己としたことが、安酒の一つも用意していない。
――こりゃ、不覚だ。
酒とつまみに花やら団子……祝いの席だとでもいうわけでもないが、そういう愉しみの仕立ての中でなら、少しは場も緩むというものだろう。こんな
そういう席ならば、同じように崩すに惜しいと思ってくれるかもしれないというのに、手抜かりもいいところである。絶品の酒を呑む機会を減らしてしまった。
「まったく、残念だ」
恣意駄々洩れに溢れる言葉に、怪訝に首を傾げる少女。
変に零してしまった呟きにはっとして、逸れた思考を継ぎ直す。
現実逃避にはまだ早い。
「どうかしたのかしら?」
「いや――」
ただ、酒が呑みたかった。
そんなことがいえるはずもない。
――酔いに任せて誤魔化せりゃあ楽なんですが……。
そんな垣根の境を緩くする、潤滑に役立つ品は存在しない。今は、今手に持っているもののみで煙に巻くしかない。
無いものねだりは頭の中のみ。現実に向き直って、手八丁に口八丁。老人のうろ覚えの知識と知恵を結集し、どうにかこうにか道を確保する。
それが、己のやり方だ。
「――ちょっと、似合いの言葉でも、とね」
無駄に語彙と経験だけは豊富にあるのだから、相手にやる気をなくさせるほどの昔話は得意技――己の身の上の長話なら、いくらだって話せるというのもの。
うんざりするような薀蓄語り、問いだけを置いて逃げていく。
胡散臭い戯言語りは老人の常。
「似合いの言葉?」
底抜けを底なしに見せかける。
興味の惹かれる話のつぼを探す。
――はてさて……。
一息はいて、記憶を廻り――
「ちょっとした、お遊びですよ」
老人は、口は達者に滑らせる。
その程度しか、出来はしない。
――なら、それを最大限に。
努力することが、長く生きるための方策である。
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妙な人間だった。
おかしな男だった。
「美しい、綺麗だ、素晴らしい――どうにも、しっくりこない」
男は、顎に手を置いて、考え込むようにしながら話す。
ゆるゆると、思いつくままに口に出していくというように、それを語る。
「こんなもの見たことがない。生きてきた中で最高の景色だ……それも合ってはいるが、ちょっと定型過ぎますか」
思い浮かんだ言葉が、そのまま外へと零れでていくように。こちらを置き去りにして、勝手に流れを進めていく。
勝手な語りが続いていく。
「――さて、どんなものが似合いだろうか」
その視線の先にあるのは、私の大切な友人達の姿。
美しく咲き誇る、そのままの形の花畑。
それを眺めながら、男は考え込んでいる。
面白そうに。楽しそうに。
悩んでいる。
――一体、なに?
悩み続ける男。
滔滔と呟き続けるその姿に、沸く疑問。
『似合いの言葉』
男はそういった。
その美しさを表すための、似合いの言葉はないだろうか、と。
――わけがわからない。
一体何をしたいのだろうか。何を考えているのだろうか。
私の大切なものに現れた、妙な人間を追い払おうかと近づいてみただけなのに、その人間の妙なちくりんな言に惑わされている。
「絶景かな絶景かな。善き哉善き哉――ふむ、微妙に外れてる気がするな」
ぶつぶつと、よくわからないこと呟き、妙に真剣な様子で考えている。
そののらりくらりとした態度に、調子が狂わされる。
――しかも……。
「――お嬢さんなら、どう表しますかね?」
目を細め、柔和に微笑みながら、こちらに問う男。
泰然とした態度で――気づいていながら、動かない。
私の正体、ひょっとすると思惑にすら気づいていながら、全く動じていないのだ。
むしろ、いっそうに緩んだ態度で、言葉をかけてくる。からからと、軽い調子で微笑んでいる。
――変な……人間、ね。
本当に人間なのだろうか。少々そう考えてしまう。それくらい、男の対応は妙なものだ。
私に気づいた瞬間、その一瞬だけ見せたわずかな力の片鱗。傍から見れば妙な姿ながらも、確かに、私に対応しようとはしていた。その実力がどの程度のものかはわからないが、少なくとも、私のことをただの小娘ではないと見抜く程度の眼力は持ち合わせているはずなのである。
――それなのに。
私など有象無象の一つとしてでも考えているように、当初からの態度を崩さない。
ゆるりと構えたまま、まるで、ただの世間話でもしているかのようにこちらを相手する――それが、少々癪に障る。
「――そうね」
私のことを侮っているように見えて、苛々とする。
普段なら、すぐに吹き飛ばしてしまうかもしれない。けれど、そんな存在が仕掛けている問いは、己が友人に関するもの。この幻想的な美しさを、どう似合った形に表すかという言葉の探索。
それを遊びと称して問うている。
「――私なら……」
普段なら長く交わすことのない会話。
けれど、それは私が大切にするものに関することならば、答える必要があるだろう。
少なくとも、
――少し付き合ってあげても、結果は変わらない。
せめて、我が友人達を褒めた分だけは優しくもしてあげよう。そう考えて、己が友人達に視線を向ける。
雲ひとつない空の下、太陽の光を吸い込んだようにして輝く花々の姿。
明るく、堂々とした生命力溢れる強さの体現に向けて――。
「ただ、美しい。――それだけよ」
そう言葉にする。他に言葉は要らない。
それ以上に、感じるものがある。感じるままの想いがある。
それを、そのまま表せばいい。
「……ふむ、潔い」
確かにそれが一番似合いですかね。
男は、私が放った言葉を受け止めて、ゆるりとそう吐いた。
視線は私と同じ。咲き誇る花々の方向。
眩しそうに目を細め、片手を庇のように上げながら――
「――しかし、ちっと不便ですね」
ぼそりと不満気に呟いた。
「――不便?」
聞こえた言に疑問を覚える。
不便とは、一体何を持っていっているのか。
よくわからない。
「いえね……美しい、とだけじゃ、それを伝えるには難しいと思いましてね」
座り込んだ膝に肘をつき、それを支えに頬を置きながら、のんびりと語る。
そこには、ただ、思ったことを話しているだけといった、物臭な自然さが覗いている。
「ただ、この場で見ているだけならば、それはそれだけでいい。――けど、それを誰かに伝えるなら、もう一つ、何かないと」
視線だけをこちらに向けて、ついた手とは逆の手で、花園の方を指す。
だらりと上げられた手で、今、目の前にある存在を指し示される。
「――例えば、その似合いの呼び名とか」
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「似合い呼び名とか――」
その言葉に、少女の気配が少し濃くなった気がした。
美しさを保っていた表情が変わらぬままにすり替わり、その間から先程までは押さえられていた圧力が覗く。重かった空気が、今度は棘をはらむ。
――……。
それは、一度否定されたもの。
彼女はきっと、この世界が乱れるのを嫌っている。外敵は――雑音は許さない、異物は排除し、潰しておかねばならない。そう思っている。だからこそ、頑ななのだろう。
もう一押しで、自分もその対象になるのだろうか。いや、それが早まるだけなのか。
――どっちにしても、ぞっとしない。
この話を続ければ、きっと刃は振るわれる。害を成す羽虫として払われる。
口を閉じるなら今のうち――だが。
「――例えば、名前とか、ね」
あえて、言葉は止めなかった。
「どういう――意味かしら」
いくらか低くなった、真意を探る声が響く。
それは最早寸前のものだろうか。
――さてさて……。
煙に巻いての誤魔化し論。化かし騙しの逃げ口上。
そのつもりで始めたものだったが、随分と思いつきに話しすぎてしまった。
語るに落ちて、触れないでおこうと思っていた藪まで、既に突いてしまっていたのだ。蛇に気を取られたところに逃げ出してしまおうとしていたのに、その蛇に見蕩れて留まってしまっていた。目を移して、群れに囲まれてしまった。
――ちょっと気を多くしすぎたかね……。
今更どう話そうと、もう言い訳は聞かない状況となってしまったのだ。
随分とまあ、馬鹿な失敗をしでかしたものである。逃げ出したいと考えていたというのに、興が乗って意味もなくだらだらと話し続けてしまった。つい、老人の話好きだといった面が出てしまったのだ。
己に抑えが利かなかった。どうにも、自業自得で馬鹿な行いである。
――しかし、我慢は身体に良くはない。
話したいことは我慢してし続ければ、いつか言葉を忘れてしまう。そうならないように、話せる時はなるべく話しておく。随分、昔に覚えた教訓である。
加えて、こうなってしまってはもう、好き勝手に語ることぐらいしかすることはないだから、どうせなら、すっきりできるように、流れのままに語ってしまおうという考えもある。
これも健康のため。それを言い訳に開き直るしかない。
「――どうせ特別にするなら、特別を表すなら、言葉としてもいいとね」
名前ってのも捨てたものじゃない。
そういうことで、老人は自分に言い訳をする。
歳を食っているから仕方がない。話好きなのだから仕方がない。そういう者が染み付いてしまった偏屈翁だ。
それを理由に勝手をする悪い癖。
――自覚がある分なおさらだ。
そんな自分を笑う。
笑ってしまいながら、言葉を連ねる。
「そこに形が出来て、そこに場所があって――そこに世界がある。 とても大切な存在が、ある」
考えてはいない。けれど、考えてきたことではあるのかもしれないことを呟き流す。
自然に、というわけではなく、積み重ねた人間としてのものから染み出した持論。泉に投げ入れられた小石の波紋によって、僅かに浮かび上がった考えのうちの一つ。
ただ、それを語ってみたいだけ。
「――その世界を眺めるものがいて、その大切を愛するものがいて、その世界を守ろうとするものがいる」
何度も何度も繰り返してきたことで、何度も何度も手に入れて――失くしたもので。
けれども、その時々に大事なものであった。大事にしてくれたものであった。
ならば、それは己にとって誇るべきものだ。
どれだけ歳をとっても、それだけは変わらずに言える。
「自分の好きなもの、特別に思っているものに、『名前をつける』のは、それを大切にするということでもある、とね」
失っても、残ったもの。
失っても、置いてあるもの。
その記憶は――想い出は変わらない。
「それが、一方的に押しつけた身勝手なものであっても?」
「自分のことを伝えたい。相手のことを知りたい。たとえ、勝手に押し付けた名前だとしても、それは、大切なものに触れたいという想いからくるものだ。 ――そういう考え方もあるでしょう?」
名前など、人間が勝手にそう呼ぶもの。
つまりは、呼びたいものがなければありえない。
「その他大勢ではない。 ――今、そこにある、限られたものだけに呼びかけるもの」
それが、名前というもの。
特別なものとして置かれた存在。
――そして……。
「――随分、自分本位な話ね」
「都合のいい記号の一種ですから――まあ、それでも」
紅い双眸。
値踏みするような目が、こちらを見据えている。
それを真っ直ぐに見つめかえして――そこにいる存在を感じる。
固有の誰かの姿を認める。
「――いつか、きっと」
己の存在。誰かの存在。
言葉を交わす。出会った相手。
先へと続く縁。再び呼びかける声。
「その名を呼ばれるのが嬉しく思うときがくる」
その名を大事に思える。
いつかの自分を想い出す。
大切な言葉として――
「誰かが呼んでくれた名前が、似合いのものとなる」
かもしれないと。
そうなれたなら、その人は幸せに生きたということだろう。
そう思う。
________________________________________
「これは、個人的な意見ですがね」
ただの昔語りとも言う。
男はそういって茶化すように笑う。
先ほどまで帯びていた憂いはどこへやらといった様に、軽い調子に態度を崩し、眠たそうに大あくびをしながらの伸び。
そして――
「まあ、綺麗な花は幾つもあって、それぞれに美しさが違う。 ――なら、別の名で呼ばなけりゃ、みんな同じようにも感じてしまうでしょう?」
違う色だって持っているのに。
ゆるりと、けれど、響くような芯を持っての低い声。
細められた目は、何かを思い出しているのだろうか。
「大切なものをもっと知ろうとするために――名前を呼ぶってのもその一つの方法ですよ」
そういって、からから笑って立ち上がる。
その表情は――どこか、寂しそうにも見え――。
――名前、ね……。
僅かに刺さる言の葉。
視線は、自然とそちらへ方向へと向かう。
――あなた達は……。
親子のような、姉妹のような、そんな愛しさを抱える花の里。
巡るたび、時が流れるたびに、顔を会わせてきたものたち。季節ごとに訪れた花々の場所。
全てを知っていると思っていた。全てを知られていると思っていた。
呼び合うことなど必要ないほどに、大切だった。
「名前……」
何度も出会い、別れてきた四季の巡り。
それぞれの性格を持ち、それぞれの美しさを持っていた花々たち。
それらを、私は区別しなかった。
その美しさを認めることは忘れなかったけれど、美しいものとして一まとめに感じていた。
――それぞれの色……それぞれの性質。
姿形。性格や性質。
美しさや映える場所。季節に見せる表情。
それぞれに違いがあった。
けれど、それを呼びわけることはしなかった。
「――名前は記号。けれど、家族や友達、恋人ってのも一種の記号だといえる」
男はまた語る。
「なら、その時だけでも、特別なものをつくってもいい。その場限りのものでも、記憶には残る。 ――大切な時を思い出すための印ともなる」
どこか寂しそうな眼で、同じく一面の色を眺めながら彼は呟く。
おそらく、自らの大切だったもの、特別な名前をもっていたものを思い返しているのだろう。
懐かしく、美しく胸に残り、もう絶対に届かない過去の記憶。
その名を思い出すたびに巡る、追憶の旅。
――私も、いつか忘れていくのだろうか。
長く生きる妖怪。
目の前にいるほんの僅かな時を生きてきただけに見える若者が、それだけの忘却を重ねているのだ。ならば、私もこの大切な姿達を忘れてしまうのかもしれない。その年それぞれにでも、僅かに違った姿を見せていたのに。それも全て同じものに感じてしまうのだろうか。
季節が巡るたびに足を踏み入れた友人たちのことを。季節が巡るたびに散っていく家族たちのことを。
巡るのが自然なことだとして――。
「名前……」
もう一度呟いた。それは私が否定していたものだ。
人間が作った身勝手な概念だと、貶し、認めなかったもの。
けれど、それがあれば、私はもっとあの子達のことを知ることができるのだろうか。
もっと、近くに寄れるのだろうか。
――……。
わからない。けれど、否定はできない。
しかし、それでは――
「――しかし、あれですね」
割り込むようにして、男が声を出す。
今度は腕を組み、また考え込むようにして同じ花畑を眺めて――
「こりゃあ、確かに、美しいとしか言いようがない。名前を決めるのなんて無理がありますかねぇ」
「……」
そんな今までの語り全てを否定するようなことを言い出した。
思わず訝しげな顔をするこちらに、悪戯っぽく笑いながら視線を返す。
「いやいや、まったく迷いどころだ。随分に時間でもかけないと、呼び名の一つも考えようがない。 ――決断が遅いってのは年寄りの悪いところなんですがねぇ」
また、妙なことを話し出す。
一回りして最初の悩み戻る。
わけが、わからない。
それに――
「――年寄り?」
少々引っかかる言葉に、疑問を覚える。
首を傾げる私に――
「――ああ、言ってませんでしたね」
男がにこりと笑んで――ざわりと、妙な感覚がした。
今まで人間だと思い込んでいたものが、まったく別の何かなのではないか。
そんな疑念が込み上げる。いや、実感する。
「これでも、随分と長生きしてましてね」
それは人間などではなく、長い年月を生きた何かが人の皮を被ってそれに化けているような、外見と中身の妙なずれ。達観を覗かせるその表情が、やっとその印象と一致する。
最初から感じていた違和感がその姿へと重なっていく。
――本当に、人間?
ただの人の気配であるはずなのに、その内に含まれる何かが、それを否定していた。
最初と中途、今とほんの少し前。印象が安定しない。妙な感覚が、見ているはずの相手の姿を歪ませる。まるで、どれだけの年月を生きたかもわからない大木でも相手にしているような、妙な違和感。遠近感の狂わせる、おかしな雰囲気を醸す――。
おかしな人間なのだ。
妙な生き物なのだ。
「まあ、そうはいっても――」
男は笑う。
若者の姿で、老人の歴史を呑み込んで――深く、浅く笑う。
混ざり物に微笑む。
「ただの人間――何の変哲もない、ただの長く生きた年寄り翁みたいなもんです」
そういってしまうには無理がある。
おかしく、狂って、一回転してまともに見える。
姿だけが、ただの人。
「あなたは――」
浮き上がる疑問。
最初からもっていて、結局は見抜けなかったもの。
「一体、何者なの?」
その答えは――
「――ちょっと惚けてきた、少しだけ若作りの老人です」
そんなふざけた調子で括られた。
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「まあ、だから、こんな老人の戯言なんて、聞き流しても結構。 ――ただ、若いヒトと話せるのが愉しくて、口を滑らしてるだけなんだから」
そう締めくくる。
それは正直な感情だ。
ここまで話しておいてなんだが、結局のところ、それは自分が培ってきた歴史で積み上げたもの。己以外に、それを実感として感じられず、また同じ意見に行き着くはずもない。
これはただ、老人一人だけが得ただけの、個人的な答え。
「参考にしてもいいし、無視してもらってもいい。 ――ただ、俺はそう思っているから、それを見つけたいだけってこと」
わざわざそれに合わせる必要もない。
今まで大事にしてきた理屈があるなら、それを否定することもない。
――足して、引いて……上手いことに重ねて、着こなしていけばいい。
それが、生きていくということだろう。
「――その程度で、考えて下さい」
重さは含ませず、ただ吐き出すだけといったように。
軽い調子に――
無責任の道楽翁の顔で。
「……」
返るのは無言の睨み。
ここまでだらだらと話し続けておいて、最期を放り投げた己に刺さる強い視線。
――おやおや……。
これはまずったかな、と僅かな後悔。
けれど、もう仕方がないことだろうと開き直り。
ゆるりと笑んで、先を待つ。
「あなた――」
響くのは、いくらか緩んだ声。
これ以上、話し続けるのが疲れたというように、いい感じに疲れ果てた声。
「――ここまで話しておいて、それはないんじゃない?」
張っていた糸が切れ、もはやどうでもいいといった感じに息を吐く。
洩れるのは僅かな、呆れた笑い。
――あー……。
これは駄目な老人だと思われた。
そんな感じがする。
――まあ、いいか。
ぼそりと呟いて、こっそりと荷物を持ち上げる。
ここまで空気が廃れたならば、どうにか見逃してもらえるだろう。
そう思い、片手を上げて――
「……まあ、参考にはさせてもらうわ」
ぼそりと呟かれた言葉に、「うん?」と首を傾げる。
それに「なんでもないわ」と顔を背ける少女。
――……。
妙な感じに、空気が変わっている。
当初の予定通り……のような、全く違っているような、まあ、多分、助かったのだ。ならば、 良しということにしておこう。
「――では、そういうことで」
「待ちなさい」
その流れのままに歩き出そうとしたところに声が掛かる。
背中を向けて、よそを向いた隙に放そうとした距離は、いつの間にか掴まれた肩によって固定される。
――……。
少し痛い。
「何か?」
「まあ、いいんだけど……」
少々恥ずかしそうに――慣れていないという感じの声で、彼女は尋ねる。
それは、一度試してみるといったものなのかもしれない――
「ここまで語っていったのなら――あなたの名前ぐらいは教えていきなさい。今度来たときに思い出してあげるかもしれないから」
惑いながらも、自分の大切なものに近づくための努力は欠かさない。
そんな少女の純粋さ――強い、想いの深さ。
その実験に付き合わされる。それは悪い気分ではない。
けれど――
「すいません――」
そういえば、今は名無しであるのは自分も同じことだった。
区切りの一つが、また始まっていないところ。
「今ちょっと事情がありまして、名乗れる名前がないんですよ」
それに、もうここにはこないかもしれない。
元より、ここに訪れたのは偶然のこと。
幸運の悪戯兎によって誘い込まれた結果。
「あら――」
それを聞いて、彼女は笑う。
自信を持って、堂々とそれを語る。
「来ないつもりなのかしら、こんなに美しい景色を一度見るだけで満足できるの?」
この絶景をまた見たいとは思わないのか。
再び、この色と香に触れてみたくはならないのか。
花畑を背にするように立ち、両手を広げていわれた誘い。
「それに――」
指されるのは、咲き誇る花々。
まだ名前もない特別にされてきた特別なものたち。
それに向けて――
「今度は、この子達の名……この場所に名づけられた名前を、聞けるのかもしれないわよ」
似合いのものを。その姿を現すものを。
言い放たれる。
次回の特典。
それに、くすりと笑いが込み上げる。
「――ああ、そりゃ確かに勿体ない」
意外な対応に、思い切り笑い声を上げてしまいそうになりながら、腹の中で笑う。
くつくつと込み上げるそれを愉しくそれをかみ締める。
「――このたくさんの太陽を眺めになら、遠い道のりも吝かじゃない」
綺麗なお嬢さんもついていることですしね。
冗談めかしてそういうと、「そうね」と自身ありげに微笑まれた。
随分と、堂々としたものである。
なんとも、似合いの笑みだ。
そう思った。
________________________________________
太陽。
この花々の姿を指したものだろう。
たしかに、この強く雄大で、美しい姿は空に浮かぶ日輪のようにも見える。悪くない表現だ。
こんなことを、この会話をする前の自分が聞くと、他のものに例えた時点で怒っていたような気もするが――本当に、悪くない。
そんな自分に可笑しさがこみ上げて、同じように笑みがこぼれる。
――訳がわからない人間だったわね……。
本当にそう感じた。
どうにも可笑しなものだと思った。
また、眺めてみてもいいかと思ってしまうくらいに。
「……」
風が吹いて、黄色い、太陽を模した様な姿が揺れる。
大事に、特別にされた花々が揺れる。
その色を眺める。
気分は悪くない。
「貴方達の――私の名前」
私の中に生まれたものを――新しい愉しみを考えて、花を愛でる。
たしかに、これは遊びといえるのかもしれない。
そう考えて、私は笑っている。
出きるうちに更新を。
長くなりましたが、一応の改訂版というか作り直し。
もはや、初期プロットなど捨ててしまったほうがいいのかもしれません。
読了ありがとうございました。
ご批評・感想お待ちしております。