ずるりと、隙間が広がった。
無理に繋いでいた境界に、ぎちぎちと強大な力がかけられて、その役目を果たそうと蠢く。つっかえ棒で無理矢理に止められた楕円が、内から現れた何かによって強引に真円へと近づけられ――ほんの一時だけ、元の姿を取り戻す。
けれど。
期日を過ぎた力はその全て発揮することはなく、歪んだ形でそれは僅かに覗くだけ。蝋灯の最後と似たように、儚げな光が膨れ上がり、夜に慣れた目を眩ませて――。
「――あ……」
待て。せめて、見届けてから。
ぼやけた視界の中、叫びは中途に閉じる。
わずかに残った繋がりの、その最後に残った一本が失われる光が訪れて――どさりと落ちて、ばちりとそれが切れる。
それで、おしまい。
ふらりと傾ぐ身体と大きな疲労。
引き伸ばした期限は、私の内に大きな淀みを残してどこかへ消える。重い開放感が圧し掛かる。
「……これ、は」
前触れもない。前兆もない。
それは突然弾けてしまった。
主が残した力はそれで最後であり、私独りのものだけがそこへと残る。式神としての自分が消えて、一匹の妖獣としての己と戻る――久方ぶりの、独りだけの自分。
「……」
可能性があったのは、先ほどまで。
露と消えて、霧は晴れていく。
残るは答え……その結果。乱暴に乱雑に、投げ渡される、その終わり。
――私の苦労は……徒労だったのか。
最初で最後の機会。そこで終わる希望。
そこにある影は……一つだけ。
――それとも……。
結果がある。答えがある。
可能性は三分の一。欠けないのは一人だけ。
それも確実ではない未来。
――私がこの先どうなってしまうのか。
わからない。けれど、唯一つを望む。
残酷だと、残忍だと罵られようとそれを、たとえ、それで誰かが傷つくこととなっても――己が苦しみ、後悔に膿むこととなってしまっても、一番欲しい答えを描く。
――紫様……。
失いたくないと。
その唯一つを、願う。
薄汚れた希望。その願いを踏みにじるようにして――視界が戻る。
焦点が、合う。
「あー、ぎりぎりだった」
「――本当、危なかったわね」
「……」
気の抜ける声がした。
いつも通りの声がした。
あるのは、こんがらがった男女が三人。
見えるのは、一つに絡まった三つの影。
「もっとちゃんと開けてくださいよ……尻が痛い」
「あなたの鍵が悪いのよ。拒絶される寸前だったじゃない」
「……!!」
泥だらけ。煤まみれ。
変わらぬ調子で文句を言い合う二人。
ちゃんと、五体満足で――何も欠けずにそこにいる。
「あれ、侍さんは……」
「あら? 置いてきちゃったのかしら」
首を傾げて、周りを見回す男。
口に手を当て、空を見上げる主。
ゆるり、ふわり、と。のたのた、どたどた、と。
あと、一歩手前で命を失っていたというのに、欠けている緊張感。暢気にきょろきょろと見回して、ふと、気づいたように下を見る。
「――き、きさまら」
一人潰されている侍。
やっとのことで、それに気がついて。
「おや、そんなとこで何してるんですか?」
「女の下に潜りこむなんて、下種な真似するわねぇ」
意地の悪い表情で、くすくすけたけたと、愉しそうに笑う。自分達の代わりに痛みを食らった相手に追い討ちかける。
性質の悪い二人組。
「――貴様ら」
生真面目な侍は、それに袋を膨らまし、ぴくぴくと眉を寄せる。
潰されたまま、何とか抑えようと深く息をして――
「演技も下手だし」
「そうですねぇ。妙に過剰で面白かった」
「よくばれなかったものね」
「いやいや、冷や汗と笑いでまったく」
我慢が大変でしたよ。
まったくね。
笑う男女。震える侍。
我慢しようとした所で緒が切れる。
ぷつりぷつんと堪忍ならぬ。
「――そこになおれ! 成敗してくれる!」
すらりと抜かれた刀が輝き、主人と男に刃を向けられた。
逃げ出し、追いかけ――一つの影が三つとなった。
――……。
気が抜ける。力が抜ける。
息が、こぼれる。
「ふふ……ふふふっ」
声が出た。
腑抜けた明るい声。
力の抜けた、笑い声が――。
「はははっ!」
己の内から。
わきおこる温かさと、その温かさと同時に腰から力が抜ける。
ふらりと身体が傾いで、膝をつく。
「ははっ……あははっ……!」
それでも、笑いは止まらない。
お腹の底から込み上げる。
重い何かが、抜けていく。
心安らかに。
休まるために、棘抜けて。
「――ね。大丈夫だったでしょう」
ふわりと肩に置かれた、ひんやりとした手。
振り返ると、同じように笑んだ顔。
安らかに、待っていた少女。
「ええ、そうです、ね」
私以上に、二人を信じていた。
信じきれていた少女に、やはり、この人も紫様の友人なのだと、改めて実感する。
敵わない、と。
――私は、揺れてしまった……。
疑って、怖がって。
恐ろしく、怯えてしまって。
――諦めかけて、しまったというのに。
一度命を失った。
一度諦めてしまった少女は――心を繋いで、強くなっていた。
私よりも、ずっと成長していた。
「貴女の言うとおり、安心して――」
死んでも死にそうにない己の主。
殺しても殺せそうにないその友人。
半分は死んでいる友人の従者。
それだけのものが揃っていて、何を怯える必要があったのか。
「ただ、待っていればよかった」
それだけで、良かった。
それさえ出来ていればよかったのだ。
目の前にあるのは、決まりきっていた光景。
なるべくしてなった、必然の形なのだから。
――私はそれを信じ切れなかったから、失いたくなかったから。
だから、こんなにも、安心している。
心が揺れたからこそ、その安堵の訪れにほっとして……安心して、力が抜けてしまっている。
「ああ……」
息が漏れた。空気が抜けた。
誰かの力を借りる――信じた相手に全てを預ける覚悟が、私にはなかったのだろう。それを弱さだと断じて、独りで生きていた
だから、こんな弱さを晒してしまっているのだ。
年月を重ねて、時間を過ごして、様々な経験と記憶を得てきたというのに……それを足していくことができていなかった。
――勘定を間違っていた。
どれだけ、その釣りを受け取り忘れていたのか。
いや、もしかしたら、それはずっと昔からだったのか。長い長い時間をこの身で過ごしていたというのに、その様々を、ずっと見過ごしてきてしまったのか。
――随分と、勿体ない。
だから、こんなことに動けなくなってしまうのだ。
初めての行いに、なけなしの勇気を使い切ってしまうようなことに。
随分と疲れて、身体も重い――ひどく疲れて、しっかりと立ち上がることすらできないほどに。
情けない。
「ああ、でも……」
そのために、私はここにいるのかもしれない。ここにいれるのかもしれない。
失敗したから、私は紫様の式となった……弱かったから、そうなれたのだから。
――あの時間も……。
訪れた出会い。引きずられるように連れていかれた先。
それまでの全て。
――誰かに……何かに救われる今も。
ここにいる私があるのは、昔の私《弱さ》があったからこそで、たどり着けたのは、全てがあったから、偶然に……失敗に囲まれてここまできたのだ。
ならば、そうであるならば――それは、そんなにも、悪いことではないのかもしれない。悪くはないのかもしれない。
「……」
初めて、そんなことを思った。
そんな、可笑しな心持ちが胸に落ちた。
不思議と、軽く――しっくりと、そこへと嵌る。
「――さあ」
優しく肩が叩かれた。
笑みと共に、幼子を包むような声で。
「お帰りなさいって言いにいかないと」
そういって、茶目っ気たっぷりに笑う亡霊の姫。
それに笑顔を返して、足に力を込める。
――こんな顔をしていたら、また紫様にからかわれるな。
けれど。
それも悪くない。
その気持ちが、ひどくむず痒かった。
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こちらの隙に差し込まれるように迫る鋭い剣閃。
流れるような二刀の動きは、熟練の体と技によって、まるで、それ自体が男の腕そのものであるように振るわれる。
以前のものとは段違い。一皮どころか、三段飛ばしにと化けてしまったかのような冴え渡りぶりだ。
あの時あった迷いが晴れ、そこからさらに多くの経験と鍛錬を重ねたのであろう。人ではたどり着けない段階――どころか、妖や神ですら簡単にはいかない段階にまで高められている。あの月人の技術で作られた壁を真っ二つにしてしまえるほどなのだから、もはや、斬れぬものはほとんどないといったぐらいのものだろうか。
それほどに、鋭く過ぎる。
――本気でこられちゃ、今度は危ないですかねぇ……。
前の段階でもそれなりに梃子摺ったのだ。
今はふざけているだけだからいいものの、本気でこられるとなると恐ろしい――というか、今目の前でどんどんと剣速が増している。
「あれ、ちょっと……侍さん?」
その視線には、恨み辛みと腕試しが混じり、昔の仕返しやら所々の鬱憤やら――ふと、今まで掛けてきた細かな面倒やらじゃれ事やらが頭を過ぎり――ここでちょっくらそれを返してやろうなんて気合が見え隠れする。
いろいろと自業自得な藪をついてしまったのか。
「――っち……惜しい」
前髪が僅かに散らされた。面の皮を刀がなぞっていった。
らんらんと瞳が輝いて、一心込めた太刀がこちらの四肢を狙っている。もはや、当初の目的など忘れている。
危ない。とても危ない。
「ちょっ、ちょっと待っ……ゆか」
一応の配慮か、急所は外して飛んでくる斬撃を避けながら、一緒に藪を突いた仲間を振り返る。
どちらかというと、この侍殿をからかっていたのはそちらが主犯、上手くなすり付けて抜け出してやろう。
なんて、小ずるい思考を働かせながらの行動は――。
「おかえりなさい」
「ええ、ただいま」
そそくさとその喧騒を抜け出して、感動の再会と洒落込んでいる相棒に先を越されている。
手早く、裏切られていた。
――……。
なるほど。
いつも自分が行っている行為はこんな気分になるのか。
押しつける側に立ってはそれなりにほくそ笑んで楽しめるものだが――久しぶりにこちら側からと味わってみれば、なんとも物悲しい。
心に恨みが染み入る。
――いやいや……。
首を振って迫る剣劇を避けながら思い直す。
何でここで危機一髪を味合わねばならないのだ。
――一体どんな。
どういうことなのだ。あまりにおかしい。
折角、命からがらの絶体絶命を無傷で逃げ出してきたというのに、目的地に辿りついておいて味方になますにされるなど……喜劇にしても笑えない。笑うやつもいるだろうが己が笑う側に立てていないのは駄目だ。
「いい加減に……」
納得がいかない。
せめて状況を打開しなければ。
そういう意志を込めて化けの皮を――小道具を脱ぎ捨ててから使っていた変化の札を引き剥がし、そこにある残りかすを結集する。
力として、それを放つ。
「ぬ……!?」
浮き上がる火の玉。触れられない形だけの幻。
牽制のために放ったそれは、実体どころか幻にもなりきれず、一瞬で消えるもの。だからこそ、斬ることも蹴散らすことすらできない薄さで現れる。
――目眩まし。
その隙に逃げ出す。
そういう算段を弾く誤魔化しの技。
しかし――
「――甘い」
苦もなく、当たり前のように斬り捨てる。
不定形、形無きものすらも斬ってしまうその極みの技。力と変化させられたはずのそれは、ひらひらと真っ二つとなって散ってしまう。
その己の想像を超えた光景に。
「……と」
驚いた所に、刃が首筋に。
寸の処で止められて、冷やりとした空気がふれる。
「――本当に、腕上げましたね」
「儂も無為な時間を過ごしていたわけではない」
斬って、知る。
斬ってしまえるものだと、理解している。
それは頭でというよりも、何千何万と振るい、魑魅魍魎を切り捨ててきた経験。年月を重ねて身体に染みこませてきた熟練の技。
それをちゃんと発揮している。
どんな場面でも、完全に扱える。
「歳を重ねて、少しはましになったということだ」
侍の刃はもはや陰ることはない。
忌みを経て、達した境地。
己を知った――取り戻したという意味合いでもあるのかもしれない。
――合縁奇縁……。
苦行となる悪縁も乗り越えてしまえば一つの結果としてその身に刻まれている。
得た強さ。築いた力。どうにも気の抜ける場面での感慨ではあるが、それもまた腕を上げたということ。どんなに揺らいでも、揺らがぬ芯をその腕に宿す。
「――強い、ですねぇ」
何千と生きてなお、己には難しかったものを、たかが数十年で。たかが数十年といってしまえる己には、手に入らない太さで生きている。
余程に――己よりもずっと
――……。
込み上がる。浮きすさむ。
少しの濁り。自業自得の感慨。若者への眩しさと失いものねだり。
今考えるものでもなし、この場面に合うものでもなし。
ただ、見せつけられるもの――少々の、過去への微睡み。
――……それより、今のことを。
閉じる。埋める。蓋をする。
考える意味などない。そんな見るまでもないことなど――呑み込んでしまえと。
「――ま、こうやって一本とられたところで」
己に立ち戻る。
どうせ、からかいから始まった一悶着だ。
一端、空気は落ち着いた。ならば、ここでとるべき行動は。
「誠心誠意謝りますので、刀を下ろしてください」
すかさず謝ること。
首を動かすと不味そうなので、言葉と目線を持って心込め、涙ながらに訴える。いや、この場合涙まで流すと胡散臭いのでなるべく必死に見えるように。
にこりとにこやかに微笑んで。
――流石に疲れた……。
正直さっさと家に帰って眠りたいのだ。
よく考えれば、地底に行ってからぶっ続けで動きっぱなしである。気を張ってよくわかっていなかったが、自覚すれば身体も重くなってきている。
集中が切れてしまったのだろう。
「――ああ、わしも少しやり過ぎたと思ったところだ」
ふっと――息を吐き、侍さんは肩を落とした。
刀は引かれて、命の危機が去る。
こちらも安心と息を吐く。
よくよくと見ていれば、当の本人も随分疲れた表情だった。あまり頭が働いてないようにも見え、動きにも精彩がなくなっている。
――徹夜明けというか……疲れすぎて浮かれてたんですかねぇ。
自分と同じ、気を張っての動き詰め。
慣れない小芝居にも付き合わされたことだし、疲れ過ぎたというのも無理はない。ちょっくら自制心が弱っていただけ、決して、隙あらば切り刻んでやろうだなんて野望を日頃から抱いていたのではない――はずだ。そうであってほしい。
「あらあら、もう見世物は終わりかしら」
「つまらないわねぇ。お団子もなくなっちゃったし」
平和そうな声。
月見の団子を挟んだ緩い声。
ちょっとした小競り合いの、その元凶となった性悪は、人を簡易的な地獄巡りに付き合わせといて……すでに、のほほんといつもの調子を取り戻していた。
ちゃんと式神も張り直したようで、狐さんの方も多少力を回復したようである。
落ち着いた――和んだ表情で、その主の後ろに控えている。
――お疲れさんですね。
それを眺めて思う。
ある意味、一番消費しているのは彼女なのだ。負荷と不安に圧し掛かられながら、先の見えぬまま、縁の下で力を発揮し続けなければならなかった。
随分と頑張ったもので、一番の功労者ともいってしまってもいい。
労ってやらねば――
「――まあ、汗臭そうな男連中は放っておいて何か食べにいきましょうか。お腹が空いたわ」
「そうねぇ、ずっとここにいて身体が冷えちゃったから――何か温かいものでも食べに行きましょうか」
ならないのだが。
きゃっきゃっうふふ。ふふふにららら。
こちらを放っておいての算段づけ。
呑気に勝手なお二人様。
――まったく。
頭を抱えてしまうようないつもと同じ加減。どうにも、もう少しは人を労わってやれと呆れてしまう。
今回は色々と思うところもあることだし、一つ説教でもしてやろうかとも思うが――今、それをつっつくのはまずい。随分と時間と労力を食う。今の体力では己の全てを発揮はできない。だから、今は止めておくしかない。
今は、好きにさせておいて――後の楽しみとしておく。
嫌味に嫉み。意地の悪さに老人のしつこさ。
全てを発揮できる調子を整えてから、じっくりと長話につき合わしてやる。日頃も鬱憤も八つ当たり込めて――そう企む。
そして、にこりと笑い――
「それじゃ、あちらのお二人さんはこの後一緒に食事ってことで――侍さんはどうするんです?」
「ああ、姫……幽々子様に用事があるなら、しばらく何処かで時間を潰しておくつもりだが」
女二人――三人かしましく食事をするという中に混じるというのも、やはり気が進まないのだろう。疲れている分、何処かで休んでおきたいというのもあるかもしれない。
土地勘がない分、案内がなければ、人里の適当な辺りでぶらぶらしているだけになりそうだが――
「……それじゃ、うちで一杯やりませんか? 地底でいい酒見つけたんですよ。たまには男同士の話も悪くない」
その場合、後で待ち合わせるのも面倒になる。
同じ何処かで時間を潰すなら、わかりやすい方がいい。
「ふむ……」
その提案に思案して、侍さんは幽々子の方へと視線を向ける。
そちらは何やら歓談中。幾分時間がかかりそうなものと見える。
それを踏まえて。
「……わしも遠方の地酒を土産に持ってきている。甘えさせてもらう代わりに、それを振舞うとするか」
「そりゃ、いいですねぇ」
からからと、男同士に意気を高めあう。
若干むさ苦しくもあるが、まあ、悪くもない。
たまには、そういう日もあるだろう。
「流石に疲れてるでしょうし、しばらく休んで夕方ごろからにでも……まあ、煎餅布団ぐらいなら用意しますよ」
そういうと、「すまんな」と返される。
この辺りは、やはり歳を重ねた大人の対応というものだ。
若干頭に血が上りやすいきらいはあるが、それは性根が真っ直ぐだということだろう。普段の余裕があれば、噛み付きなどしない。
少なくとも――
「それじゃ、私たちはごはんにいってくわね」
「夜にいくから、私達の分のお酒とお肴も用意しておいてくれると嬉しいわ」
にゅっと後ろから囁かれる声。
空に開いた隙間越しに届く、この調子のいいことを言い放つ若者たちよりはずっとましというものだ。
近づいてくることすら横着して、向こうの方で手を振っている。後ろについている真面目な従者殿が申し訳なさそうにしているのが何だか不憫だ。
「――あっちは招待した覚えがないんですがね」
地獄耳に嗅ぎつけて、勝手なままに入り込む。
何も言わずとも、いつの間にやら聞きつける。
――まあ、それもまた……。
いつもの調子。
いつも通りの、繰り返し。
一回転後の恒常談。
それも、日常と。
「ふはあ……」
欠伸を一つ。疲労に澱んだ身体を伸ばす。
うーんと一声の呻きと共に吐き出したのは、溜息めいた諦め調。
すっかり慣れた一連仕草。
そして――
――案外、何も感じないもんだ。
もう少しだけ、揺れると思っていた己の胸に手を当てる。
覚悟して、後悔込みを決意しての大泥棒であったが、結局の残ったのは薄い感慨のみで、なんとも後に引くこともない。いつも通りと変わりなく、煙に巻いただけの日常譚で終わってしまう。
――これも歳をとったってことですかね。
若い時分にはあったわだかまり。
それもまた、長く生きる中で、随分と小さく目立たぬほつれに混ざりきってしまったのか。
どうりで爺臭くなったものである――まあ、
大切であったはずのものまで、薄っぺらに感じてしまうほどに、抱いたものがガラクタのように思えてしまうほどに生きて、過ぎて……磨耗して――
「ああ」
からんからんと空になる。がらんがらんと空虚が響く。
ずぶずぶと沈んで。だくだくと過ぎて。
己の底にあるもの――抜けた穴。
ただ、それだけが――
「もう一つだけ忘れてたわ」
そこに差し込む声がする。
顔を見せぬままの、友人の声。
「助けてくれて、ありがとう」
平坦に響く、感情を滲ませない声。
さっと撫でるだけの隙間風。
「……かか」
顔を見せぬその心裏が、可笑しく感じて笑んでしまう。
らしい態度に、笑ってしまう。
――ああ、違う。
その感慨が、すとんと落ちる。空いた穴にゆるりと過ぎる。
納得のいく答えが浮かび、間違った方へと回りそうだった何かが、まともといつもの音を鳴らす。
――そうだな。そういうことだ。
疲れに、少しぼうっとした身体。
それでも回っている頭にあるのは、自宅に残していた備蓄の食材――どんな肴を用意するか算段に、思考が傾いている。
それが己の恒常で、いつもの調子。
「――まったく、苦労のかかる娘さんたちで」
可笑しならしさ。
苦労に苦労を重ねる生活感。
一息はいての世話焼き性分。
――それが、今の自分。
随分と形となった。随分と凝り固まった。
そういうものと得てしまったのだ。
そちらの方が、本性となってしまうほどに過ごしたのだ。
ならば、昔より選んでしまっても仕方がない。
昔を忘れられないまま、今を楽しめるというのも仕方がない。
――そういう、ことだろう。
笑う。
ゆるりと――飄々と。
「
きたけりゃどうぞ。
そんなことを言ってしまえる。
そういう日々。
――それが、昔を想い出にしてしまった。
そういうことだろう。
そういうことだったのだろう。
それに気づいて――己の後を知る。
後に続いた先を見る。
________________________________________
笑い飛ばせる綿毛の軽さ。
風に吹かれた塵と同じ。
重ねた年月も。
通り過ぎた想い出も。
今、生きている時間とは代えられない。
どんなに大きな出来事あろうと。
どんなに恐ろしき歴史であろうと。
それは溜まった過去なのだ。
過ぎ去った終わりなのだ。
繋がってはいても、動かせはしない。
記憶の亡霊は、ただ見守っているだけ。
生かすも殺すも、今次第。生きるも死ぬも、今現状。
昔の夢にまどろんで、それを眺めて振り返る。
その残骸に宝物だと印をつけて、奥へ奥へと仕舞い込む。大切な過去を心に留める。
それが出来るのも、今を生きているから。
歳をとった自分が、心を留めているから。
――記憶で遊ぶ。これも長く生きた特権だ。
愉しくも恐ろしい。
悲しくも懐かしい。
――忘れていても、どうせ、時々思い出す。
歴史と記憶の積み重ね。
また増え続ける想い出たち。
昔と今の優劣は、その時々に入れ替わる。
それでいいのだと、そう思う。
――両方とも、大事なものには変わりない。
時折襲い掛かる懐郷も、一度眠れば元通り。
日常続く生活も、一度眠れば想い出に。
それでも残るが、己の形。
____________________________________
「んあ?」
「だ、大丈夫ですか?」
ぼんやりとした頭。
手に持った感触。
「うん……?」
のぞき込むのは救護係の野暮ったい覆面。
妙な感触に頭に手をやれば、巻かれている清潔な布。
「何かで堅いものにぶつけたようですね……少々こぶになっていますが、すぐに治ります」
「ん……ああ、そうか」
頭が回る。
起こったことを思い出す。
「そうだ。命乞いをしていた奴らを見逃してやったのだった」
「は?」
素っ頓狂とあがった声。
私はにこりと笑んで、その顛末を語る――ついついと、勝手に口が滑る。
「女を守るために命を差し出すというのでな……慈悲深い私のことだ。ついつい、片方の命を見逃してしまったよ」
くくっと喉が鳴る。
その場面が思い浮かぶ。
「なあに、価値もないただの下賤の者だ。地上に飛ばしてしまうのが一番良いだろうよ――あの、罪人の世界にな」
「はあ……そうですか」
地べたに頭を擦りつける男。
似合いの姿だ。
男は、塵一つ残ることなく消えてしまったけれど、あの女はそれを気にすることもなく、喜びいさんで逃げ出していった。
やはりと、愚かで醜い地上の民だ。
もう、目にしたくもない。
「……」
それで全て。
それで終わりである。
けれど――
「なあ」
「はい?」
呼びかける。
問いかける。
「私は何かを忘れていないか?」
「は?」
少しと何かが引っかかっている。
私は――私は何かに気づいたような気がするのだけれど、それは一体なんだったか。何かとても重大なことだった気がするのだけれど、いったい何だったのだろうか。
それがわからない。
靄でもかかったように思い出せない。
「……頭を打った後遺症ではないでしょうか」
「そうか……いや、まあいい」
忘れている。
ということは、きっとどうでもいいことだったのだろう。それよりも、もっと私の頭は有益な方向へ使わなければならない。
こんなところで眠っている暇はない。
「さて……」
そうだ。早く、研究所に行こう。
そこから、月の進歩は始まるのだ。
私はにこりと笑って――立ち上がる。
「大丈夫。私は大丈夫だ」
そう呟く。
そのころには、妙な感覚はなくなっている。
何を考えていたのかも、忘れてしまった。
それで、おしまい。
私は『いつも』へと戻った。
いつもへ戻る日常譚。
とりあえずは、後へ引くことは後回しにと。
読了ありがとうございました。