東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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晩成滑稽談

 

 

「さて、お散歩の時間は御終いだ。そろそろ、その檻の中に戻ってもらおうか。今度はお友達も一緒……これで寂しくないだろう」

 

 気取った声が響いている。

 閉じた目ではそれを発した者の表情は伺えないが、さぞや、良い笑顔を浮かべていることだろう。

 

「それとも、その足手まといを背負ってここから逃げ出すかね……ああ、心配せずとも、ここの防御網は完璧だ。君達には傷一つなく帰ってきてもらうこともできる――まあ、痛みに打ち震えながらとなる可能性もあるということだが」

 

 そんな強い言葉を耳に流しながら、紫を縛る糸に触れる。幾重にも重ねられ、他の物質一切を含まぬよう、繊細に組み合わされた粋の糸。

 決して腐らぬ、最高強度の純物質に向けて――振り上げる。

 

「おいおい、無駄な努力は止めておきたまえ。その糸は、神ですら一筋縄とはいかぬ物質で出来ている。不浄の者がいくら力を込めようが、決して解けることはないのだから」

 

 くすくすと、笑い声が聞こえる。

 けれど、それを気にしている余裕はない。

 今振り上げているのは、『死』そのものの具現化とも呼べるもの。『死を操る』能力を持った者が全力で力を注ぎ込み、あり得ぬ可能性を無理矢理に押し込めた結果として、存在する力。

 

――助けられる側はあべこべだが……。

 

 それは、友を想う心によって造られた。

 その想いによって、己が完成任された。

 

 その道具が介すもの。

 

――全力を、そのままで……。

 

 発揮するための。

 担い手ではないけれど、作り手ではある自分。

 使い手ではないけれど、運び手となった自分。

 暴発させるわけにはいかない。外すわけにはいかない。

 己の手に余る力の、一度きりの賭け。

 

「――動くなよ」

「ええ」

 

 入念な計算で、それを撃ち放つ。

 細心の注意で、それを吐き出させる。

 

――死を堕とす。

 

 穢れと祓いの混ざった扇。

 無地に描かれた見えない絵像。

 

 彼女を苦しめた最大の力を持って――

 

「さて――」

 

 にこりと笑って、力を抜いた。

 一息入れて、力みを解いて――。

 

「失敗したらすまん」

 

 目を開く。

 ぼそりといった言葉に、びくりと揺れる身体。

 見開かれた瞳に込み上げる可笑しさを噛み殺しながら――ゆるりと、それを振り下ろす。

 

 

「よっこらしょっ、と」

 

 掛け声は軽いもの。

 右手と左手の隙間。それら繋ぎとめる枷の外周を擦るようにして通り抜ける。元々切れぬその形では、それは決して分かたれるはずはない。

 

 けれど――

 

「……っ」

 

 多少の動揺も見せながらも、何とか動きを止めていた紫の両手の間をすり抜けたそれ。

 繋ぐ糸には何の影響も与えなかったように、その外周をなぞっただけのようで。

 

 何の変化も、見えない。

 

「――は、はははっ! だから言っただろう、 無駄な行為だと」

 

 見えない(・・・・)それに、高らかに笑う男と兵隊。やはり、多少は気にしていたのだろう、ほっと胸を撫で下ろす代わりに大仰に笑って見せて、その焦りを覆い隠そうとしている。

 

――まあ……。

 

 誰でもあれだけおおげさに見せれば怯む。

 その驚きは仕方がない――それが早合点の安心だとしても、仕方がない。

 

「もう、びっくりさせるわね」

 

 不満顔で紫が文句を呟く。

 後ろ手に繋がれた手をごそごそと動かして、こちらに視線を向ける。

 

 そして――

 

「――でも、ありがとう」

 囁かれる言葉。

 

 天衣無縫の糸が欠け、完璧であったものが崩れ落ちる。 僅かに含んだ穢れによって、天座す浄土から転がり落ちる。

 

 その始まりは、ほんの小さな綻びから。

 

「隙間は空けた……後は慣れたもんだろう」

 

 ぷつりという僅かな音が聞こえた気がした。

 それは彼らには聴こえなかっただろう。

 

 純粋な彼らは、それを知らない。

 穢れなき誇りを纏う人。汚れぬ衣を纏う純白。

 唯一つの他が混ざるだけで、それは唯一ではなくなることを、僅かに混ざるだけで、それは用をなさなくなることを――純白の脆さを、彼らは知らない。

 

「ええ、もう大丈夫」

 

 その細い指先が、何かを描くように動く。

 一つだけほつれた糸が、ぷつりぷつりと連鎖する。

 

「な、な……!?」

 

 須臾の密度で組まれた糸。

 決して切れるはずのない禁じ――そこに挿まれた混ざり物。白に混ぜた、黒の一滴。

 

「混ぜてしまえば、ただの糸とね」

 もしくはそれ以下か。

 

 丈夫なだけになってしまった縄は容易くと切れる。

 開いた隙間を広げるだけで、真っ二つに断ち切れる。

 

 それは、ぱさりと床へと落ちる。

 

「まあ、礼はどっかの姫様にでもいってください――あと、酔いどれと堅物と……ご神木とその栄養分と」

「まあまあ、随分の人に心配されていましたのね」

 

 事実に唖然とする月の人。

 それを前にし軽口を。

 

「これも日々の研鑽の賜物。今までの私に感謝しますわ――あと、あなたにも」

「己を省みてのそれなら……否定はしないがね。まあ、お粗末さまです」

 

 いつも通りに言葉を投げ合い。

 日常通りに語りを交わす。

 

「それじゃ、帰りましょうか――といっても、ここじゃ転移はできないみたいね」

「それくらいの結界はあるだろう。いつも通り(・・・・・)にのんびりと帰ればいい」

 

 笑いを交えて一呼吸。視線交わして小休止。

 ほっと一息ついて、仕切と直す。

 

「さてさて――」

 

 くるくると、手に持った骨組みを回す。

 そうしただけで、かろうじて形となっていた扇の形は崩れ、塵芥へと。長い年月かけたものが、消えるは一瞬。

 使い捨ての大道具。

 

――お役目ご苦労。

 

 九十九までも使ってやれぬ物使いの荒さだが、物は活かして潰すもの。使える限りに役立たせ、使い潰して失くすもの。

 

――役目を失ったものが新たな役目を得て逝った。

 

 それも、一つの本懐だろう。

 付喪神になるまでもなく、己の役目を使い切った。

 満ち足りて、道終えて――最期となった。

 

 道具としては、天寿全うの大金星。

 

「――あとは主人が活かすだけ」

 

 そんな人の勝手で手に入れた機会。

 結果と成果。

 

 続きを描くは残った己。

 

――いい具合の混乱模様……。

 

 目の前にあるのは、ありえない自体に惑う集団。

 目くらまし食らった烏合の衆。

 

 見慣れた、泥臭い戦場である。

 

 

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 まだ口火が開かれていないのは、相手が実戦という状況を知らぬ輩であるからだろう。己の武器もよく知らぬから、生きたまま捕まえるなんて手加減などわからない。そんな作法は習っておらず、何をすればいいのかがわからないのだ。

 

「――は、早く奴らを捕らえろ! 何もさせるな!」

 

 相手方の総大将は、男が前に出たと同時に退いて、金切り声で命令を下す。

 もはや、そこに冷静さは感じられない。

 

 急げ、急げと急かす声。

 危険分子だと叫ぶ声。

 異分子だと喚く声。

 

 飛び交う者は混乱ばかり。誰も指揮者は存在しない。

 ばらばらの集団が、ばらばらに動き、ばらばらに敵を討とうとしている。

 いつ誰が爆発してもおかしくない。

 

 そんな状況。

 

「――落ち着け!」

 

 一人が叫ぶ。

 鋭い声で、その場の全員を一喝する。

 

「決して逸るでない! 」

 振り下ろされる長大な円筒。

 一人の兵隊がこちらに向かい合うようにして前にでる。

 

「わしの合図で一斉にかかるのだ――よいな!」

 

 老成した野太い声が、混乱に惑っていた全員の意識を惹きつけている。誰もがどうすればいいのかと迷っている状況で、その一筋の強光が全員の意識が集めている。

 

 一丸と、それに従っていく。

 

「そ、そうだ!」

「全員でかかればなんてことないはずだ」

「や、やるぞ……あんな数だって追い返してやったんだから」

「よ、よし、やってやるぜ」

 

 蔓延していた不安感。

 それは先ほどまでとは逆方向に皆をまとめていく。

 

 恐慌の中でこその狂信。恐怖の中でこその依存。

 経験不足の素人集団がきりきりと引き絞られた一つの鏃と化し、一本の槍として固まっていく。誰かに使われることに慣れている者達だからこそ、薦んでその方向を決めてくれるのものに盲目に従っている。

 揺れるつり橋に立つ者達が、頼りとなる一人に縋り、全ての不安が方向付けられた敵意へと変わり――こちらに切っ先を向けているのだ。

 

「――あれは」

 

 それをまとめているのは、先ほど見かけた白髪の男。

 長い方の円筒をこちらにむけて、短いほうの円筒を背に負っている。

 老練の、強者たる風格を持つ男。

 

――厄介ね。

 

 混乱していた状況を一まとめに――いや、混乱していたからこその状況を利用して、集団の意識を一つとした。崩れかけた軍勢を立て直すどころか強化して見せたのだ。

 この烏合の衆をまとめられるだけの経験と胆力を持ち合わせている者を相手取るとすれば……今はあまりに制限がありすぎる。

 

――隙間も開けない……できるのは、僅かな操作くらい。

 

 長距離の移動は出来ない。

 多分、この建物自体に何かの仕掛けしてあるのだろう。

 能力に封がされている。

 

「ふん、下郎どもが……某が剣を持って散切りになましてくれようぞ!」

 

 大仰に、大げさな仕草を持って構える指揮官。

 まるで演劇か何かでもやっているかのように大きく円筒を振り回し、正眼に構え直す。ちょっとどうかと思うような仕草だが、なぜか皆が呼応して士気を挙げ、いまかいまかと気勢を発する。

 単純な兵。襲い来るのも、時間の問題。

 それを前にして――

 

「――そろそろだ」

 

 ぽつりと呟く男。

 呟きながら、一瞬だけこちらに視線を送り、一歩前に出る。

 

「それじゃあ、一手と交わしてみますか」

 

 言葉と共に姿勢を変える。

 右手を前方に上げ、左手を背中に回した見たこともない構え。相手に見せ付けるようにして掲げられた右手は、かかってこいというように、くいくいっと相手を挑発する。

 

 そして――

 

「……」

 

 背中に回された左手。

 その五本の指がこちらからははっきり見える。

 それが一本一本(・・・・)閉じられていく様が、はっきりと見える。

 

「いい覚悟だ。敵として不足は無い!」

 

 呼応するように啖呵を切る指揮官。

 その長い円筒がまっすぐと掲げられる。

 

――あと、四本……。

 

「全員構えろ!」

 

 響き渡る号令。

 恐れに振り切られた意志を持って、兵達が構える。

 

――あと、三本。

 

「――よし!」

 

 そう叫んだ大将。

 一歩前に踏み出して。

 

――あと、二本。

 

「い……!?」

 

 鬨の声。

 合戦開始の合図。

 

 それが叫ばれる寸前で――

 

「な、なんだ?」

「おい……なんだ、どうなってる!?」

 

 反響した爆音。地面が揺れる。

 轟音と何かが崩れる音が辺り中へと響く。

 

「――研究課第二閉鎖区画で原因不明の爆発発生、現場近くにいる者は速やかに退去せよ」

 

 鳴り響く警笛音と無機質な声。

 連鎖するように通路に金属製の扉が落ちて、通路を塞いでいく。

 

 開くのは、たった一つの非常口。

 一直線の通路が開ける。

 

――あれが……。

 

 出口に繋がる通路。

 兵達の向こう側に出現した最短路。

 それさえ突っ切れれば逃げ切れる。

 喉から手が出るほどに、明るく見える希望の光。

 

――でも……。

 

 まだ、その指が一本残っている。

 合図はまだ、鳴っていない。

 

「だ、大丈夫だ。ここからはかなりある」

「こっちまで被害は無い……落ち着くんだ!」

 

 口々に叫ぶ烏合。

 ぶり返す混乱。

 

 そんな中、それでもこちらを見つめ続けていた指揮官の姿が目に入った。誰もが後ろに目を向けている状況で、視線をぶらせていない。

 にやりと好戦的に笑い、その長い円筒状の武器を振り上げて――

 

「――いくぞ!」

 

 円筒から飛び出す鋭き形。

 それと同時に最後の指が折られ、拳の形となる。

 

 その合図と頬がつり上がる。

 

「――あばよ。とっつぁん方ってね」

 

 走り込み、振り下ろされる。

 長刀が振りかぶられて、頭へと落ちる。

 

 金槌のような兜の、その天辺へ。

 

 

「……!」

 

 

 白い煙が噴き出した。

 

 

 

________________________________________

 

 

 

「――な!?」

 

 視界が白と包まれる。

 埃一つないこの研究所に、灰煙が一面と巻き上がる。

 

――煙幕か……!?

 

 部屋の中心から巻き起こったそれは、またたくまにこの場にいる全員を呑みこみ、混乱の渦へと引きずり込んだ。

 

「な、なんじゃこりゃー!」

「うわー!?」

「馬鹿者! 武器を使うな、同士討ちになるぞ!」

「た、助けて……」

 

 呻き、喚き、助けを呼ぶ声。

 何が起こっているか全く判らない。

 そこら中で怒声と悲鳴が飛び交っている。

 

――くそっ……。

 

 最後に見えた侵入者の表情。

 こちらを笑っているのが見えた。

 

「……舐めるなよ」

 

 下賎の者が調子づいている姿。

 高貴な己を嘲っている様子。

 

 そんなものを断じて許せるはずがない。

 

「第二、第三外壁を操作! 研究所内の煙を排気し、外気と交換しろ――非常口を進む者があればそちらの隔壁も閉鎖だ。出入り口全て、誰も通すな!」

 

 主任研究員の権限での音声操作。

 研究所の内の機能を呼び出し、間髪いれずに指令を下す。

 

「全員その場から動くな! 命令なしに動くものは全て侵入者とみなす」

 

 そのまま混乱する兵どもに命令。

 動くもの全てを標的として捕縛の命を下す。

 

 それで、ほとんどの騒ぎは収まった。

 

――出口まではある程度時間がかかる。

 

 晴れていく視界。落ち着いていく惨状。

 冴えていく思考。いつもと回る頭脳。

 いつもの落ち着きを取り戻し、その中で高速と回転させる。

 

――奴らが研究所内から逃げ出すまでの時間は無い。必ず、何処かに閉じ込められているはずだ。

 

 己が固まっていたのはほんの数秒でしかない。

 その時間で逃げ出せるなら、そもそもあの爆発の時点で逃げ出しているだろう。不浄に対する結界も発動させている、能力も制限されているはずだ。

 たとえ、最短距離を逃亡したとしても逃げ切れるはずがない。

 

「お、おい、ありゃなんだ?」

「うそだろ……」

 

 ほとんどの煙が排出された所で、視界の先に一つの疵痕が発見された。

 奴らが立っていた側、自分達の向かい側の隔壁……隣室とこちらを隔ているはずの壁が真っ二つに切り開かれているのだ。

 

 その真ん中には、人一人が通れるほどの空間。

 

「なるほど……少しは頭を使ったらしい」

 それを眺めて、冷静と呟く。

 

 どうやら、一つだけ開いている出口に真っ直ぐに群がるほど単純ではなかったらしい。どうやったのかは判らないが、壁を切り裂き、別の岐路を作り出して逃走を図った。

 確かに、こちらの予想を超えたことではある。

 

「――しかし、所詮地上の者の浅知恵だ」

 

 完全に煙が晴れた。

 研究所内の情報を調べてみても、誰も脱出していない。

それもそのはず――奴らが逃げた方向は、一番出口からは遠い方角だ。たとえ隔壁を切り裂き、まっすぐとずっと進んでいったとしても、この短時間では外に出るまでの半分の行程も進めていないだろう。

 

――どうやら、運にも見放されているらしい。

 

 散々手古摺らせてくれたが、やはり、祝福を受けた自らと穢れた地上の者では大きな違いがあるのだ。

 むしろ、ここまでよく上手くいったものだと褒めてやってもいい……無論、これほど矮小な者に己の手を煩わせるほどの幸運を与えた悪戯心をもった神に対してだが。

 

「――おい、そこの兵隊。ここにいる半分の者を連れてあの先を探ってこい……もう、遠慮はいらん。穢れを残さぬよう死骸ごと始末してしまえ」

 

 全員が落ち着き始めたところで命を下す。

 勿論、半分は非常口の方へと向かわせる。あの切り裂かれた壁が囮だという可能性も考えられる。

 そこは侮らない。

 手抜かりなく手を下す。

 

「十人は私の護衛と辺りの探索だ。そこらに隠れて隙を覗っているかもしれん」

「了解しました!」

 

 手早く指示を飛ばす。

 的確に、正鵠に。

 

――間違いは許されない……。

 

 これは事故で終わらせなければならない。

 ただ、実験中におきた不幸な事故。

 原因不明の爆発――先の担当者の不始末による自然発火による事故。

 その騒ぎにおいての実験体の逃亡だ。

 

 そういう筋書き――そういう事実であった。

 

「――まったく、運のない」

 

 ただの不幸な出来事。

 自分は巻き込まれただけの被害者――それを治めた苦労人の功労者でもある。

 

――そのためにも。

 

 辺りを見回すと、何人かの兵が辺りを調べているのが判る。ここにいる者達含め、数十人といったところか。

 

――口止め……いっそ始末してしまうか。

 

 世のためにならない人間。

 世界のための己に傷をつける人間。

 そんな者は、ただのごみ。

 不必要な不良品である。

 

――まあ、それは後々考えることにしよう。

 

 記憶を奪ってしまえば何とでもなることだ。

 罪人として地上に落としてしまってもいい。

 

「――研究課第二閉鎖区画の消火作業終了。被害は軽微です」

 

 無機質な音声連絡が流れる。

 どうやら、先にあった方の爆発はすぐに処理されたらしい。

 

――ん……?

 

 そこで、少し気にかかった。

 

「第二閉鎖区画……あそこは月都最初期の時代に閉鎖された区画だぞ、完全に封鎖されていたはずだ」

 

 何の研究がなされていたのかすら記録に残っていない。

 月の都が出来た当初に作成され、そのまま放置されていたはずの場所。その場所を訪れるものなど今更いようはずがない。

 

――ということは、あの侵入者共か……。

 

 そう考えられる。

 しかし、それでは説明できない部分がある。

 

――確か、あそこの責任者は……。

 

 その封鎖は絶対に解かれるはずがないのだ。

 月の賢者たちであろうと簡単に解けるものではないほどのものであり、たとえ、どんな高位の神に愛されていようともどうにかなるものではない。

 

 それほどの規模の封が為されていたはず。

 

「――まさか」

 

 万が一。

 もし、それにあの罪人が関わっているというなら……あの御方が手を貸しているとするならば、この月の都に侵入されたという事実にも全て説明がついてしまうのだ。

 全てが一つの策として、一人の頭の中で考えられた筋書き通りのことである。

 そう判断することができる。

 

――……。

 

 それは天啓であるのか。

 気づいてはならない禁断であったのか。

 

 どちらとしても、それは月を揺るがす大事であるには違いはない。

 

――これは、利にも害にも……。

 

 己の進退を決める。

 英雄にも大罪人にもなれる。

 

 この世界(月の都)を揺るがす鍵――それが、己の手に。

 

「――くくくっ」

 

 笑う。

 笑いが込み上げある。

 やはり、己は選ばれたものであったのだと。

 神に愛され、神をも凌駕する存在なのだと実感する。

 

――もし……。

 

 周りにいる兵たちを見回す。

 始末することに決めた者達を見下す。

 

――あの月の賢者が反乱を企てているだとすれば……。

 

 それは世界を変える情報だ。

 決められた価値をひっくり返す真実だ。

 

 新たな世界の始まり、といってしまってもいい。

 

「はははっ!」

 

 世界は己に何をさせたいのか。

 吹き込んできた風は――とても心地がいい。

 そう、背中が押されている。

 

「世界を統べろとでもいうのかな? いやだなぁ、そんなの趣味じゃない」

 

 己はあくまで探求者だ。

 あらたな理、知識の深淵を覗くもの。

 

――しかし……。

 

 それを望まれるなら、それが世界の意志ならば。

 そうしなければならないなら、私は立とう。

 

 それが、この世界のためで全ての存在のための救済ならば、喜んでこの身を差しだそう。

 己自身の価値を――

 

 

 

 

 

「――えい!」

 

 そこまで思考が及んだところで、言葉が飛んだ。

 ぶつりと視界が真っ黒に閉じられて、手足がしびれて動かなくなった。

 

「こんなものかしら」

「気絶させるだけにしてはちょっと強いですが……まあ、いいか」

 

 くぐもった声がわずかに聞こえる。

 けれど、随分遠い。

 

「き、きさまら、何を!」

「悪いが、眠っていてもらおう」

 

 誰かのうめき声。地面に伝わる振動。

 どすんどすんとぶつかった音。

 

「さて、あとは――」

 

 どんどんと遠くなる。

 きこえなくなる。

 

「―――」

 

 あれ、なにもきこえない。

 ねむくなってきた。

 

 

「さて、と――」

 

 

 

 それだけ、すべてがとじた。

 ねむってしまった。

 

 

________________________________________

 

 

 

 

「どけー! 怪我人だー!」

「侵入者が潜んでいたぞ、何人かやられた!」

「全員研究所に向かいなさい!」

 

 

 叫ぶ。叫ぶ。

 眠り込んだ男を担架に乗せて。

 振り向く兵隊全員に指示伝え。

 

 出口に向かってひた走る。

 

――ああ……。

 

 暑苦しくて息苦しい。

 肩っ苦しくて、息が詰まる。

 

――さっさと……。

 

 とても、毎日なんて被ってられない。

 ご勘弁な、面の皮。

 

――この被りもんを脱いじまいたいもんですねぇ。

 

 正装など似合わない。

 よれよれの古着が一番と。

 

 

 なんともなしに、そう思う。

 

 

 





 歳を食って性質悪く。
 格好でごまかす老人。

 短めですので、早くに更新。
 あと少しで改訂終了。

 
 読了ありがとうございました

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