東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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古今国郷談

 

 

 月の都への侵入。

 幾重にも張りめぐらされた結界を渡り、隙間なく散りばめられた罠をすり抜け、何者をも見通す番人の目を盗み、その内側へと忍び込む。

 

――誰にも気づかれず。誰にも見つからず。

 

 何者とも理解させぬままに、目的を果たし切る。

 それとは気づかれぬ間に、目標を盗み取る。

 

 そんな大泥棒の極み。巧みと決める快刀乱麻。

 

――そんなことが……。

 

 出来るはずがない。

 相手は最先端以上の技術を持って、最高基準を通り越した能力を持つ――最新最古の知識と力を持つ月の住人。

 その中でも、一際跳び抜けた者達が作り上げた防御網だ。

 

――まず、入り込めるはずがない。

 

 それに僅かにでも穴をあけられた紫の能力の方が異様なものだといえるのだ――異端といってしまってもいいかもしれない。

 月の者達からすれば、あまりに過ぎた、危険すぎる力を持った妖怪だ。ありえないはずのものだとさえいってもいい。

 

――そんな想定外の能力。

 

 己は、そんな便利な力など持って居ない。

 そんな海と山をつなぐような真似、どうやったってできるはずがない。

 

 だから。

 

「――まったく」

 

 その中に居たことにした。

 最初からそこに居たことにして、ただ、帰ってきたことにした。幸い、合うかどうかはわからぬものの、旧い合い鍵が隠されている場所は知っていた――その裏口の戸も、見えていた。

 

――一度も訪れたことのない……帰るかもしれなかった場所。

 

「ただいま」という相手は居ない。

「おかえり」といってくれる相手は居ない。

 それでも、空っぽの場所は待っていた。

 笑ってしまうほど、何もない空間が待っていた。

 

 帰ってこれるように、していてくれた。

 

「お人好し、だねぇ……あの人も」

 

 僅かに蘇る古い記憶。

 何の感慨もわかない己の原始。

 

 無表情に。無感動に。

 ただ、息をしていた頃のこと。

 

――哀れみか……同情や後悔の類か。

 

 ずっと、思っていたのかもしれない。

 あとで、思い返したのかもしれない。

 

 それがあったからこそ、感傷としてそれがあったという

可能性もあるだろう。

 

――今度、聞いてみますかね。

 

 もしかしたら、ただ忘れていただけ。そういうだけかもしれない。

 そこにいた彼女の表情は、既にうろ覚え、正しい推理などできるはずもない。

 再会した今なら、その時何を思っていたかという話が聞けるかもしれない。そんな考えが頭に過ぎる――が、まあ、それも今となってはどうでもいいことだと思い直す。

 もう、随分変わってしまったことなのだからと、思い直る。

 

「――餓鬼の頃のことなんて、久しぶりに思い出す」

 

 起こすのは記憶と姿。想い返るのは器と形。

 だからこそ、感傷もこみ上げるもの。

 

――そのままの、変わらなかった己の先。

 

 目を瞑って描く。

 その幻を。

 

 

 そして――

 

 

「……■■」

 

 

 昔は使っていた一つの言葉。

 ただ、寝起きする場所に出入りするためのもの。

 

 古い旧い言葉を思い出す。

 今は失われてしまったものを思い紡ぐ。

 

 舌足らずに呟いて――扉を開く。

 

 

 あとは、その家の子に(ばれぬように)化けるだけ。

 

 

 

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 気だるい身体。

 澱んだ重さが、鈍くその身に圧し掛かる。

 

――それでも、眠るわけにはいかない。

 

 正直、目を閉じてしまいたい気分。

 気を抜けば、勝手に身体が傾いでしまうほど。

 

――もう、身体もないはずなのに。

 

 精神的疲労。

 亡霊としての姿しか持たない己が、早く休みたい、眠りこけてしまいたいと願うほど、その精神を消費してしまっている。残っている記憶の中でも、これほどに擦り切れてしまったのは初めてだ。

 

 それでも――

 

「紫……」

 

 数少ない、積み上げてきた時間の中にある姿。

 大事で、大切で――ずっと共にいたい親友。

 

 それを、失いかけている。

 

――もし、それを失ってしまったら。

 

 ここまで疲れ切っている自分。

 その上に、さらにそんな悲報が降りかかるとすれば、どうなってしまうのだろうか。

 精神のみで生き延びて――在り続けているというのに、その精神が死んでしまったら。

 

――私は『何』になるのだろう。

 

 消えてしまえれば、楽なのかもしれない。

 けれど、もし、私という殻だけがそこに残ってしまったなら――そこに吹き込まれたものが、私の形を持った『何か』となる。

 

――きっと、もっと暗いもの……救われない、壊れたものに。

 

 堕ちてしまう。

 

 そんなこと。

 そんなことを……いつかも、考えていた気がする。

 覚えていないけれど、そんな気がする。

 

「……でも、今は」

 

 見上げる月は欠けている。

 唯一の扉は閉じかけている。

 

 それでも

 

――安心して待っていればいい。

 

 そこにいるのは、信じられる友人。

 そこにあるのは、信じられる希望。

 

 私はそれを待っていればいい。

 

――大丈夫だと、言っていた。

 

 なら、その約束を果たしてくれる。

 昔も今も、私の心はそう言っている。

 

 私は、それを笑って迎えてやればいい。

 

 だから――

 

「――まだ、眠っちゃだめよね」

 

 ちゃんと、それを言うまでは。

 当てにはならないけれど――こういうときには頼りになる友人を信じて、待っている。

 

 

 

 

「……」

 

 信じていても――少しだけ、締めつけられる時間。

 待つしかない、その隙間を埋めるため、親友の従者に呼びかける。

 

 互いの不安を埋めるために。

 

 

 

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「――ふざけているのか?」

 

 沸点ぎりぎりまで煮え立った声。

 誰もが押し黙り、沈黙していた部屋の中でそれは大きく響き渡る。

 

「貴様は何者だと問うたのだ。そんな馬鹿げた戯言を……」

 

 怒鳴り飛ばすことで、僅かにでもその圧迫を吐き出せたのだろう。徐々に落ち着きを取り戻し、こちらを平静に睨みつける男――取り戻せた理由は、その後ろに並ぶ警備兵達もまた理由の一つだろう。

 今はまだ十にも届かない数だが、すぐに大勢が武器を携え駆けつけてくる。

 それほど、手の空いた者が多い連中だ。

 

――随分と訓練されているようで……羨ましいばかり。

 

 今駆けつけてきた者の中にも、何か別のことをしていたのか、慌てて兜を被りなおす者や武器を取り出せていない者もいる。

 人によっては何が起こっているのかすらも理解せず、ただ見物にきたといった様子の者さえいるくらいだ。なかなかに油断と隙だらけの連中である。

 こちらも怠け心がくすぐられる――なかなかに良い手だ。多分、天然のものではあるのだろうが。

 

「――気が抜けるわね」

 

 ぼそりと背中側から声が聞こえるが、それは聞こえない。

 確かにどうとでもなりそうな連中だが……その手に持った武器は本物。向けられた武器の中には、一振りするだけでこちらを戦闘不能にしてしまうような威力の物だって混ざっている――しかも、担い手に関係がなく、自動で相手を追尾する様な代物だ。

 いくら馬鹿げてはいても、気を抜いてしまうわけにはいかない。

 

――さて……。

 

 それを放たれるまでに姿を消す。

 その程度には煙に巻かねばならない。

 

 そのためにも。

 

「――ちゃんと質問に答えただけなんですがね。何か気に障りましたか?」

 

 一歩前に踏み出して、その注目を集める。

 広げた両手は、何も持っていないという脆弱さを示すため。

 

「――それをふざけているといっている。大方その化け物と一緒に紛れ込んだ化生の類だろうが……そんな見たことも聞いたこともないような世迷い事を、よくもまあ、堂々と話すものだ。そんなことで動揺するとでも?」

 

 馬鹿にしたように、そう吐き捨てるお偉いさん。

 こちらの存在を否定して、見下し嘲る選良種。

 

 その虫を見るような目は、こちらを見ているようで見ていない。己の威光に罅が入らぬように、後ろに立つ者へと意識は向いている――その、さらに背後に立つ者達へと、向いている。

 

「貴様程度のものが侵入したところで、何の不備にもならん――ただ、実験動物が増えただけのことだ」

 

 付け入る隙を見せぬよう。順列に割り込まれぬよう。

 己の居場所を失わぬように、必死に立っている。

 焦りも惑いも呑みこんで……それだけしかない矜持を守るため。

 

――格好つけなきゃいけない……。

 

 転べば終わる。傾げば崩れる。

 杖など持っては馬鹿にされる。

 

「さあ、選べ――大人しく捕まるか。それとも、一度踏み潰される方がお望みなのか?」

 

 傲慢に笑う。高らかに笑う。

 弱音を殺して笑う。

 

――そうしていないと……。

 

 全てを失ってしまう。

 そう信じている。

 

 そこに立つ者たちが持つ世界の常識を――盲目と。

 

「……」

 

 己を信じて疑わない。

 己を刻んで揺らさない。

 それは立派なものだ。

 天晴れだと褒めてやるべきものだ。

 

――深くて狭い……。

 

 限られた青空を必死に望む。

 跳ねられるだけの上を望む。

 

 それだけしかない中で、蛙は一所懸命と生きている。

 

「そう出来れば――一番楽だったんでしょうが、ね」

 

 ぽつりと零すのは、己の弱さ。

 抱えてしまったものの苦さに揺れる――僅かの感傷。

 

 ただの可能性の話。

 

「――いや、勿体無い」

 

 己の中で全てが終わる。周知の世界で事足りる。

 満ち足りた世界で生きた――可能性。

 

「知らないものはない……あっても、それを下賎な地上の者が知っているはずがない」

 

 矮小な虫の羽ばたきが自らの存在に影響を及ぼすことなどあろうわけがない。完璧な己に、間違いなど訪れるはずがない。

 

 そう、信じきる。

 

「自らの過去を振り返らず、立っている場所すら知らず――己が積み上げてきたものすら忘れても、己を信じぬける」

 

 思い上がりも甚だしい。勘違いもそこまでいけば傑作だ。芸術といってしまってもいい。突き抜けてしまった底抜けだ。底なしに明るい、理想を超えた絵空世界だ。

 

「笑ってしまう」

 

 くすくすとこみ上げる。からからと湧き上がる。

 そんな衝動は、きっと――そうなれなかったから。そうなるには、井の外を歩きすぎたから。

 

「何をいっている……?」

 

 羞恥に含羞。

 恥辱に慙愧。

 自責に痛恨。

 

 どうとでも取れる恥の上塗り。

 加えて――少しの懐郷か。

 

「いえいえ――」

 

 目の前に並ぶ者達。

 ずっとあそこにいれば、自分もそうなっていたのだろうか。空っぽな部屋に積み上げたものは、その程度になっていたのだろうか。

 

 隙間風もわずかなままで。空いた穴も小さなままで

 

――もし、そうなら。

 

 大層楽だったろう。滑稽なものである。

 どうやら、思った以上に自分は色んなものを拾ってきてしまったらしい。目の前にある幸せが、とても幸せなものには見えないくらいに――今の自分を嫌いにはなれないくらいに、欲の皮の突っ張った人間になってしまったらしい。

 

「昔の日記帳なんて読み返してられない」

 

 目の前のものが昔の自分。なっていたかもしれない可能性。

 それを赤っ恥と思ってしまうほど、過ぎてしまった。穢れに浸かって生きてしまった。

 

「年寄りは、美化した記憶だけを探って……その証拠なんて掘り返さない方がいい、ということですよ」

 

 そんなはっきりとしたものを見せ付けられては――割腹ものだ。

 

 どうにもこうにも拷問で。どうにもならない傑作で。

 笑い転げて、笑い死に。

 悶えに悶えて、恥死をくらう。

 

「――狂っているのか?」

「ええ、もだえ狂いそうです」

 

 もはや、見ていられない。

 それは双方共だろう。

 

――喜劇にしても、客層が狭すぎる。

 

 ゆらりとあげた両手と乾いた笑い。

 びくりと兵士達が揺れる。

 いくら力を持っていても、度胸ばかりは身につかないというものだ。そんな所も、口ばかりで経験のない自分を思い出す。

 

――なんともはや……。

 

 

「皆さん……」

 

 変わらない素晴らしさに乾杯し、歳をとってしまった自分をしみじみと。完成された理想郷に賛辞を送り、精一杯の野次を吐き出す。

 

――本当に……羨ましいくらいに。

 

 嫉妬にまみれた。錆びてしまった。

 惚けた戯言。

 

 長く生きた年長者としての精一杯を込めて――

 

 

「お若い、ですねぇ」

 

 

 

 そう、しみじみいった。

 

 

 

 

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 返る声はない――というよりも、意味が判らず首を傾げるしか出来ない。どんな方向に思考が飛べばそんな言葉が出てくるのか、わけがわからな過ぎる。

 

 そんな感じに訪れた沈黙。

 

 私ですら、一体この男は何をしにきたのだろうかと本気で心配になってきた空間。

 それに――

 

「……どんな感想よ」

 

 こみ上げる何かどうにか押し込めて、なんとか皹を入れる。この男の気分に付き合っていては疲れるだけだと、付き合いの長い私は、よく知っている。

 

 私がどうにかしなければ……、なんて決意をしたわけでもないが、心なしか向こうに並ぶ兵隊達も私が空気を動かしてくれたことで安堵しているようにも見えた――よっぽど混乱していたのだろう。

 上手い具合に混沌と、場が荒れている。

 

――本当に何をしにきたのかしら……。

 

 うろちょろしていて、たまたま入り込んだとかそんなのではないだろうか。

 いやまあ、そんなことありえないのだけれど――そう思わされてしまう。

 

「楽しんでいるところ悪いけれど……そろそろ出してくれない?」

「ああ、そうだ」

 

 この状況のままで待たされているのは、流石になんともいえない気分になってきたので、せめて扉を開けてくれるように要求する。

「忘れてたな」だとかなんとか……私には聞こえない戯言を呟きながら懐にある鍵を取り出した。どうやって手に入れたのかと疑問も過ぎったが――仕事を代わってやるといったら喜んで差し出されたものだと答えられた。

 そんなざる警備に私は捕まったのかなんて、少し考えてしまう。いや、簡単で良かったということで喜んでおくこととしよう。そうしよう。

 

「……ま、待て!」

 

 鍵を外そうとした所で、流石に待ったの声がかかる。

 どうやら兵隊の一人がやっと我に帰ったらしい。

 一人の声にはっとしたようで、全員が慌てて武器を向け直す。

 

――流石にそこまで惚けてはいないのね。

 

 当たり前のことではあるのだが、あと少しだった。

 流れ作業で誤魔化せれば楽だったのにと心中で舌を打つ。

 

 けれど――

 

 

「――構わん」

 

 予想外の声で、それは許可される。

 

 

「は?」

「開けさせてやれ」

 

 命じる声。

 低く放たれた声に感情は見えない。

 けれど、その声の主は、先ほどまで私達をまともな生物としてすら見ていなかった者――実験の責任者。

 

「し、しかし……」

「このような狂人ども、まともに相手にするのは面倒だといっているんだ――何、好きにさせてやろう」

 

 片側だけが吊り上げられた厭らしい笑み。

 そこに含まれる憐憫の情か。可哀想なものを見るようなこちらを見つめるその表情には――怪しさばかりしか感じない。

 

――まさか、この、頭がなんだか可哀想な老人に同情するでもあるまいし……。

 

 虫けら程度に扱っていた者に急に哀れなどと言われても、何かあるとしか思えない。

 ちょっとは懐の広い大物感を出してやろうというか、それを狙ってやろうとしているというか、どうにも締まらない感じのする――というよりも、この老人が本性を表してから、なんだか先ほどまでの雰囲気が霧散してしまっているような気もしてくる。

 

――緊張感がなさ過ぎるというか……日常に浸りすぎるというか。

 

 なんだか、いつもの感じになってしまう。

 気が抜けて、気を抜いて、どうとでもなるだろうなんて楽観が生まれてしまう。

 まだ、命が助かったわけでもないのに――

 

「それじゃお言葉に甘えて――」

 

 がちゃりと、扉の鍵が回される。

 にこりと笑んだ男の顔が目に入る。

 

――安心してしまう。

 

 まだ、自由は手に入っていない。

 相手の掌の上で踊らされているような状況だ。

 たった一つの合図で、簡単に消されてしまう。

 

――けれど、多分。

 

 大丈夫。

 

 向けられる視線。微笑むにやけ面。

 いつも通りと緩い顔。

 

「――おめでとう」

 

 閉じられた檻が開く。

 命令どおり、誰も手出しはしない。

 

「よくやったものだ」

 

 外に踏み出した。

 歩き辛いことこの上ないが、ちゃんと隣に並んだ。

 それをにこりと嗤って迎える天上人。

 ぱちぱち両手が打ち鳴らされる。

 

「檻の外への脱出は成功だ」

 

 片手が振り上げられた。

 それに反応して、ぱらぱらとまとまりない兵士達が動く。

 

「こりゃまた壮観、か……?」

 暢気に呟く男。

 

 確かに、動きは全く揃ってはいない。

 付け入る隙が多分とありそうな陣形だ。

 

――それでも……。

 

 訓練不足の兵士の列に。訓練要らず兵器の群れ。

 いくら罠に嵌っていたとはいえ、凄腕揃いの妖怪達を一気になぎ払うような凶器がそこに並んでいる。

 

「さて――」

 

 死神の鎌を揺らす指揮者は、両手を広げて見下ろした。

 二匹の愚鈍な生物を、慈愛に満ちた暖かな眼で見下ろした。

 

 その勝利を疑わず。その成功を疑わず。

 己の価値に確信を持って問う。

 

「――それからどうする?」

 

 通路は全て塞がれている。辺りは敵で満ちている。

 命令一つでおじゃんの命。

 

「どうするのかしら?」

「どうしますかね?」

 

 立ち向かうのは、気の抜ける友人と枷の嵌った自分。

 

 能力(ちから)も使えぬまま。

 両腕もままならない。

 

 そういう状況での、正面突破と脱獄劇。

 不利に不利を重ねた逆境向かい坂。

 

――……。

 

 広い部屋の両端に並ぶこちらとあちら。

 化かす側と見抜く側。

 

 その中心に落ちた兜。

 

 

「さてさて――」

 

 窮屈な鎧を脱いで、男が笑う。

 何の緊張感もなく、飄々と――

 

「どうにかこうにか、やりましょうか」

 

 そういってのける。

 

 

「……そうね。ゆっくり休んだし」

 

 私はうんと頷く。

 

 窮屈な両手を精一杯に伸ばしての伸び。

 身体の痛みは取れないが、少しは楽になった気がした。目の前の檻がなくなった分、精神的にも随分と。

 

 そして今度は。

 

「お願いしますわ」

 

 こちらも笑んで、隣に立つ。

 道案内人が歩き出すのを――余裕を持って、優雅と待ちわびる。

 

 

 もはや、負けの目はないと。

 

 

 

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 それは絶対に切れない糸。

 何の不純物も混ざらぬ、殺せるはずのない純粋な結晶。

 

――なら、混ぜるだけ。

 

 含まれないなら、流し込む。

 混ざっていないなら、無理矢理と溶かし込む。

 

――固く、堅く……閉じられていようと。

 

 美麗な死が吹き込まれた末期の涼風。

 清廉な潔癖さを写しながら、触れゆく先に穢れが落ちる。

 込められたのは、そんな祈り。

 

――堕ちていくのは、楽なもの。

 

 死した人は、もっとも清純に近く。

 死に際の人間は、もっとも汚濁に塗れている。

 穢れは死に寄って、清めによって生を得る。

 穢れは死を与え、死を過ぎることで清めを得る。

 

 最も清らかさに近く。最も穢れを多く含む。

 

 際の際。枷から開放される最期。

 捨て去る寸前。

 

――導きを得る。

 

 穢土と浄土。

 その橋渡し。

 

 








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