東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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今昔懐旧談

 

 

 湖に映る欠けた皿。

 半分以上は閉じてしまった扉の前。

 

「なるほど……そりゃまた面倒な」

 

 事情と状況、それの大方を簡略化しながらも、男に説明した。

 全てを語るというには、あまりに不足しているものではあるが、ある程度の部分は道中妖忌に話を聞いているはずだ。

 男はすんなりと頷いてくれた。

 

「ああ、だから……紫様は生死すらも不明だということだ」

「まあ、そう簡単にはくたばりそうにもない奴ですし」

 多分、大丈夫でしょう。

 

 そう言って、男は口角を持ち上げる。

 軽く笑んで、飄々と受け止めてみせる。

 いつものように。

 

 そのはずだ――なのに。

 

――なんだ……?

 

 少しの違和感。

 いつも通りに男の表情に、何ともいえない妙なものが混じっている。

 平時と違う、普段と違う――わからないけれど、ずれているものだが、日常(いつも)通りの様子で、平常(いつも)と違うものが――一点だけが、欠けている。

 そんな気がする。

 

「――さてはて、どうしますかねぇ」

 

 このおちゃらけた男が、『らしく』ない。

 いつもの『らしい』おかしさを感じない。

 

 おかしいけれど、おかしくない。

 

「……」

 

 そんな、男の姿。

 変だ。おかしい。間違っている。

 寸分の違いもない二つの絵画に、ただ一点だけ――少しのすげかえがあったような。とても目立つのに、見つけにくい。違うと解っているのに、判らない。

 

 ひどくむず痒い。気持ちが悪い。落ち着かない。

 

――私が……。

 

 紫様の式として――紫様の分身として、その精神に影響を受けてきた部分。昔には存在していなかった自分が囁く。

 

『見つけてやれ』と、『■ってやれ』と疼く。

 

「あ……」

 

 口を開く。何かを話そうとして、何も言葉がでない。

 わからないから、何を尋ねたいのかすら判断できない。

 

――落ち着け……。

 

 そんなことを考えてる場合ではない。

 そんなものに気をとられている暇はない。

 

 そう考えて息を吐く。

 

「しかし、難しいもんですね」

 

 するとそれは――瞬く間と、消え去った。

 確かにあったはずの違和感は、何故感じていたのかもわからないくらいに露へと消えた。何もなかったように、薄れて混ざり、失くなった。

 そこにあるのは、いつもどおり。

 いつも以上にらしい姿。

 

――気のせい。

 

 そう思ってしまうくらい。

瞬きと平常へ戻った。息を吐く間に――。

 

――……。

 

 だからこそ、余計に気になった。

 余計なことへと、思考が逸れた。

 

「月ってのはまた……」

 

 困ったように眉を寄せて考える。

 それは紫様を助けるための手段を模索しているため。

 蕩然の佇まいのはず。ただ、友人を助けるために頭を回しているだけの――いつか見たの(幽々子様の時)と同じもの。

 

 けれど――

 

あれに(・・・)ちょっかいを出す、か」

 

 男は空を見上げて呟く。

 僅かに円から欠けた空白に向けて、目を細め――目を瞑る。

 

――そうだ。

 

 それ(・・)を聞いたとき、確かにそれはずれたのだ。

 必要ではない部分、けれど、とても重要な部品が、男の根幹(らしさ)に、皹が入った。すぐに治ってしまったけれど、確かにそれは見えたのだ。

 

 見たことのない、何か、とても気になるものが。

 

「月の都……」

 

 見上げた先。そして、見上げた湖面に映るもの。

 式神が剥げ、そのほとんどの力を失いながらも、緊急用にと残された主人の力が込められた符によってぎりぎり繋ぎとめている――その入り口の先のことを考える。

 

 予想以上に、予想とかけ離れた姿をした都。想像以上に、想像とかけ離れた力持った人間たち。

 私たちを破り去ったもの。私達を届かせなかったもの。

 決して届かない頂の先。

 

――そういえば……。

 

 紫様は、何故この男に声を掛けなかったのか。

 いくら地獄庁か任された仕事があったのだとしても、それは後回しにしても十分なものだったはず。

 なのに、それをしなかった。

 

――姿を消す寸前までは、幽々子様と一緒にいた。

 

 そう聞いている。ならば、こちらの友人にも声を掛けておくのがいつもの例だろう。

 この辺り一体のほとんどの強豪妖怪たちに声を掛け、戦力の充実を図っていたというのに、この使い勝手の良いだろう男に呼びかけるということをしなかった。たとえ、それを嫌だと当人が断ろうしても、勝手に巻き込んでしまうことぐらいはできたはずである――むしろ、それがいつもの手というものだろう。

 

――もしか……。

 

 何か。

 紫様は何かを知っていたのかもしれない。

 そこに――

 

――あの月の都に。

 

 この男に関わる何かがある。

 それを知っていた。

 

 だから――

 

 

「……はどうですか」

「――え?」

 

 その声に、空へと向かっていた視線が下がる。

 視界が戻ると同時に、惑っていた思考に焦点が合う。

 

 思考が止まり、想像が萎み――今を思い出す。

 

「え……あ」

 

 何かを私に聞いた男。

 必要なことを尋ねられていたのだろう私。

 

 今という――緊急事態。

 

「――す、すまない。少しぼうっとしていた」

「……大丈夫ですか?」

 力も使いっぱなしのようですし、疲れてるならそっちに集中してもらっても。

 

 そういって気遣う男に「大丈夫」だと返す。

 これでも私は、個体としても大妖程度の力は有しているのだ。そう簡単に困憊するほど、やわな存在ではない。

 

――そうだ。何を考えている。

 

 集中を欠いていただけ。愚かな勘ぐりに気を取られていた。

 何を無駄なことをしているのだと――自らを叱咤する。

 

――今はそんなことをしている場合じゃない。

 

 もう一度、強く思い直す。

 確かに、このいくら付き合っても覗けない男の底については、私も気になっている。もし、それが探れるというのなら大きな興味も出る。けれど、今は行方知れずの、おそらく動けない状況にあるだろう主人の救出という大きな難題が目の前にとあるのだ。

 それを最優先と、全力を傾けねばならない。何かに気をとられている暇はない。

 

「――もう、あまり時間もないだろう」

 

 夜が明ける。月が沈む。

 その前に決着をつけなければ、僅かに残った可能性すら閉じてしまう。

 入り込む隙間がなくなってしまう。

 

「何か、手がないのか?」

 

 私に出来ること。主を手助けするための手段。

 それを知るためにこの男を呼んだのだ。

 私の知らぬことを知っているかもしれない男に、何か自分が出来ることはないのかと教えを請うために。

 

「あるなら早く……」

 

 忘れていた焦りが込み上げる。

 もしかしたら、別の思考に浸ることでそれを忘れようとしていたのかもしれない。それほどに、私は混乱している。怯えて、惑っている――そのことに、今、気がついた。

 

「……」

 

 男は何も語ろうとしない。

 無駄話ばかりの軽い口を、少しも動かそうとはしない。

 

 それに、一つ可能性を連想してしまうほど。

 

――紫様を……。

 

 私はどうすればいい。私は何をすればいい。

 教えて欲しい。使ってほしい。

 早く、間に合ううちに。

 

「今更……」

 

 失ってしまったら。

 

 得てしまった何か。積み上げてきた年月。

 それが全てと崩れ去って。

 

――わからない。

 

 私はどうなってしまうのだろう。

 私はどうすればいいのだろう

 怖い。恐ろしい。

 失いたくない。

 

 想像が加速する。

 暗い何かが込み上げる。

 

「……」

 

 底が抜ける。蓋が開く。

 私独りで抱えていた不安――脆い弱さが、溢れて出していく。なかったものが、空っぽなものへと化ける。

 

――こんなものは知らない……。

 

 激流に心が沈む。激情に喉が焼ける。

 味わったことのない何かが身体中を這い回っているようだ。自分がわからなくなってしまうほどに、己が揺れている。

 無力が悔しい。不足が惜しい。情けない。苦しい。

 

――嫌だ……。

 

 縋るように、男に手が伸びる。

 助けてくれと、叫び出しそうになる。

 

 けれどそれでも――

 

――大丈夫だ。紫様ならきっと……この男ならきっと。

 

 言い聞かせる。押し留める。

 最後の柱が折れないように。

 

「……」

 

 それでも、口は開かれない。

 

 先ほど見た、あの一瞬の姿が過ぎる。

 いつものように上手くはいかないと、誰かが囁く。

 もう終わり。これで最後。

 どうにもならない。

 

『幕引きは、いつも突然と訪れる』

 

 そう呟いた。そう聞こえた。

 

 そんな気がして――

 

 

 

________________________________________

 

 

 

「何をしている」

 

 白衣の男がその男へ向けて蔑むように言った。

 私の方へ向いていた金槌が、くるりとそちらへ向き直る。

 

「いえ、なんでもありません」

 

 姿勢を正し、整った口調で金槌は答えた。

 先ほどまでの楽しそうな様子は消え、何処か無機質で、感情のこもっていない声。

 己を殺し、己を均している――心の抜けた声。

 

「――観察対象に余計な刺激を与えるな。それらは全て私が管理する」

 

 貴様は黙ってそれを見張っていればいいのだ、とそれだけを命じる。それ以上、話したくないと端的に。

 その目は、私を見てすらいない。

 

――会話すら……実験だとでもいうのかしら。

 

 実験体。

 ただ、何かの刺激を与え、それを計測する。

 その作業を繰り返すためだけの対象。

 

 その程度のものとして、私はここにいる。

 

「――了解です」

 

 男が応える。

 何も浮かんでいない。

 まるで、人形か何かのような姿。

 

――糸でもついているのかしらね。

 

 先ほどの様子をみていなければ、この兵隊が生きて、ちゃんと感情を持っているのだということすらも忘れてしまいそうだ。命令どおりに動き回る、絡繰か何かだとでも思った方がしっくりとくる。

 

「……」

 

 何かが欠けているように見えた。何かが足りていないように見えた。

 大切なものが何も入っていない、空っぽの箱。

 

「――何か文句でもあるのか?」

 

 真っ直ぐに見つめる人形の視線。

 何を勘違いしたのか白衣の男はそれを敵意と受け取ったらしい。その何も考えていないだろう視線にどんな言いがかりでもつけるというのだろう――もしくは、その玉に跳ね返る自らの蔑視に中てられたのか。

 どちらにしても、馬鹿な勘繰りであることには違いない。

 

「いいえ?」

「ふざけるな!  何かいいたいことでもあるのか!」

 

 首を傾げる男に荒げられる声。

 その小さな器では自らを御することすら出来ぬのか、その癇癪に従って自分勝手に熱くなる。その相手は、熱さという感覚すら未だ覚えていない、温められたこともない卵のままだというのに。

 

――子ども……なんていったら子どもに失礼ね。

 

 それほどの愚かさ加減。

 己が愚鈍であることにすら気づいていない――こちらもまた、別の意味で幼いままで。子供は成長するのだという、有意点すら見当たらない――自覚だけが大きくなったもの。

 

「いいえ、何もありません」

 

 それに真っ直ぐに返答する人形(子供)

 その行為もまた、大人になれなかった子供(相手)の鼻につくだけ。余裕のない人間は、余裕のある人間に嫉妬する。

 頭が沸いてしまっている時は特に、というもの。

 

「きさ……」

 

 火事場に油瓶を放り込む。

 そんなことをしてしまうのが、何も知らないまま子供だ。

 無自覚に。無邪気に。

 失敗をする。

 

――それも残酷なことだけれど……。

 

 それで傷つくのは、自らに確固としたものがないため。

 芯を築き上げられていないから。

 純粋さ(何もない)を捨ててまで成長したはずなのに、大人という器に何も詰め込んでいない己に反響するから。

 自業自得の騒音を聞く。

 

「……」

 

 そんな愚か者、普段なら相手になどしない。

 けれど、今は――

 

「――あらあら、騒がしいことですこと」

 

 売っておくのに、絶好の機会。

 

 

「……なんだ?」

 

 言葉を交わすのすら汚らわしいという様子で、白衣の視線がこちらに向いた。

 男に向けていた分の怒りをそのままと。結局、それを晴らせるならば何でもいいのだという厚顔無恥さを込めて、私を睨む。

 

――そうやって簡単に。

 

 その程度の、軽薄な感情。

 相手は誰でもいい。自らの自尊心を満足させ、その勘違いした実力(能力)を見せつけられる上下の差を実感できるなら。

 

「騒がしい、といいましたの……季節も感じ分けられない無粋な鳥が、五月蝿く喚き散らしているようですので」

 それでは(つがい)も見つけられないでしょうに。

 

 そういって、くすくすと笑う。

 そうやって、からからと笑う。

 

「……」

 

 そんな言葉に、愚者の目は落ちていく。

 自らが見下す者に見下されるという――その状況すら理解できない。ただの虫けらの戯言に、怒りを覚えていることすら認められない。

 

――これは小鳥の囀り、何の意味もない。

 

 そう思いこもうとする。

 しかし、それでも――。

 

「それとも――」

 

 私が続ける言葉。

 それがは勝手に訪れて、その内側をかき乱す――空っぽだからこそ、よく響く。

 

「まだまだ、誰かに甘えたい年頃(一人では何もできない)雛鳥なのかしら。身体ばっかり大きくなって……随分と不格好なものですわ」

「……!」

 

 唇に片手を添えて、薄らな笑みをこれ見よがしにと隠して。

 その隙間のうちの僅かな支えの柱を揺らす――いや、ただ少し擽るだけで、それは自ずと崩れ始めるのだ。

 握りしめた拳の震えに従って、薄く張った矜持が剥がれて落ちる。やわく軽い薄っぺらが、風にと吹き飛ぶ。

 

――……。

 

 地金を晒して、本音を晒して。

 言葉に黙り、ただただ睨みつける――そのことすら隠そうとしている姿。

 

 そして――

 

「――実験を始める」

 

 五月蝿いから、黙らせよう。

 そう変換してしまってもいいだろう言葉を吐いた。

 己を誤魔化し、正当な理屈を使い――ただ、それを終わらせるため。自らの怒りを発散させるだけの行為を高尚なものへと置き換える。

 ちっぽけな矜持を守るためにそんな理論武装まで施して――手に取るように透けてみえた、浅はかな行動基準。

 

――きっと……。

 

 色々と理屈付けながらも、この男は苦痛を与えるものを選ぶのだろう。これは実験だと言い聞かせ、技術を進めるための贄なのだとして――私の、苦しむ姿に悦を得る。

 

 そして、それを見せられる。

 

「実験……」

 

 小さく呟いた件の金槌。

 よく理解できていないのだろう下っ端の男。

 判っていないうちにそれは始まってしまう。

 非道な行為、痛みを伴う実験……子供には刺激の強い光景が、己の責で訪れるのだ。

 

――そう。

 

 判官贔屓。

 その同情心引き起こすには格好の場面。

 痛みさえ我慢すれば、勝手にその心は私に寄ることになる。乱暴な大人の理屈は、純粋な子供には通じず、言葉の通じる痛みに、己を重ねて怯えてしまう。

 

「――まずは、肉体的な強度の調査だ」

 

 指示を出す男。

 理によっているようで、その実、自らの欲に生きているだけのも。ただ、思い込んでいるだけの愚鈍な――矜持だけを手に入れた、張りぼての大人。

 

――少しの間、耐えるだけ。

 

 それだけで生きる可能性が生まれることとなる。

 子供が小鳥を逃がしてしまう同情を得る。

 

 これほど、割りの良い賭けはない。

 

――私の居場所へ帰る。

 

 失いたくないもののためならば、痛みに耐えることが出来るだっろう。どれだけ傷を負おうと、どれだけ傷が残ろうと――誰かに、それを遺していく終わりにはしたくない。

 だから、私は生きようとしている。

 

「妖怪は精神で生きるというが。肉体に痛みにはどのような反応を示すのか」

 

 笑う白衣の実験者。

 精々、笑って私を苦しめるといい。その苦しみ痛む姿の分だけ、子供にそれを見せる時間だけ、私に傾く感情が生まれることとなる。

 

――空っぽの人形……それでも、幼い子どもが残っているのなら。

 

 ならば、痛みに動くのだ。

 まだ定まりきっていない芯は、単純な想いに従おうとする。

 

――これは私の愚かさからの失敗……。

 

 痛みという罰なら甘んじて受け入れる。

 その罰を利用してみせる。

 

 刑期が終わる前に、看守を誑かした囚人として。

 

「……」

 

 人形は不思議そうに首を傾げるばかり。

 何も知らずに佇むばかり。

 

――酸いも甘いも知らぬを、誘い落とす。

 

 何とも背徳的な考え。

 けれどもそれは仕方がない。

 

――子どもを攫うのは、妖怪の本分というもの。

 

 心に呟くのは、いつもと聞いたことがある理論回し。あの男(・・・)がよく行っている言い訳騙りと同じ。

 

 そういうことをしてしまっている。

 そんな己に気づいて――

 

「……ふふ」

 

 込み上げた笑いをどうにか殺す。

 やはりとおかしいのは、あの妖怪にまで悪影響を与えてしまうあの人間なのだ。

 

――こんな時でも笑ってしまう。

 

 その毒され具合。

 私もとっくにおかしくなって――馬鹿げて狂い、壊れて乱れてしまっているのかもしれない。

 

 畏れ忌み、おどろと怯えにまみれ、どうしようもない異端だとされるはずの存在。いつか消え去り、必要の無いものだと唾棄されるはずの、破滅へと向かう妖怪というものへと落ちたはずの私が――今更にと何かを得て、それを守ろうとしている。

 

――面倒な……何かを持ってしまった。

 

 まるで、何かを思い出したように――誰かが戻ってきたように。おかしな感覚が流れこみ、いつの間にかと、その流れに呑まれてしまっている。

 おかしくなってしまった。

 『らしさ』が狂ってしまった自身の姿。

 

 とても面倒で――それでも捨てらない。

 

――まったく……。

 

 私は食中りでも起こしてしまったのか。

 本当に、おかしなことばかり。調子が狂って、計算が乱れて――まるで、人間みたいに失敗を。

 それを繰り返してでも、成功を。

 そう願ってしまう。

 

 それはきっと――何かを食べたから。

 懐かしい味を知ってしまったから。

 

――本当に、甘く。

 

 『らしくない』。

 その引き出しから浮き上がるのは、既に忘れてしまったはずにものだというのに。

 

――まあ……。

 

 それでも、それがずっと続いて――永遠となって。

 

「――ああなってしまうよりは」

 

 悪くないのかもしれない。

 昔の何も持っていない軽さよりも――あの、空っぽのまま、今目の前にあるもの(あんなふう)になってしまうよりは。

 

――ずっと……。

 

「ましだった」

 

 

 そう、呟いた。

 何となくと、思ったことを。

 

 

「――ってことかね」

 

 

 私ではなく、目の前の人形が。

 

 

 

「――え?」

 

 それは歩きだした。

 不意の言葉を発して。

 

――……?

 

 人形が勝手に。私が糸を切る前に。

 

「すいません――ちょっと質問なんですが」

 

 何かが宿ったように言葉を回す。

 命令あらずに動き出す。

 

 その操り主へと、金槌の先を振り上げて――

 

「こんなお嬢さんにどんな実験を?」

 問う。尋ねる。

 

 まだ感情は溶けていない。まだ心情は宿っていない。

 それでも、何かが剥がれていくように表れるその地金。温度のない言葉に――火が通っていくのがわかる。

 

「貴様に話す必要はない」

「そんなことを言わずに教えてくれませんか?」

 こんなにも高貴な実験の端にでも関わりたいのです。

 

 そう、おべっかを使うことを学んでいる。

 だんだんと子供が大人になっている(成長している)

 それに誰も気づかない。

 

「ふん……貴様のような卑俗なものでも知識を求めるのだな」

 

 周りにいるものたちは己の作業に没頭するのみ。

 それを聞いているのは、鼻を鳴らして傲慢な笑みを浮かべる男のみ。

 あんなあけすけな言葉が通じているのだ。それに気づけるはずもない。「まあ、いいだろう」と語りたがって勝手に転がる。

 

「まずは、この妖怪を教育する――いや、調教というべきか」

 動物に芸を仕込むように、と言い放つ。

 その手にある痛みを与えるための機械()を使い、それを教え込むのだと舌を舐めずる。

 

「こんな程度の低い輩ならすぐに根を上げるだろう――そうすれば、上手く使ってやるのだ」

 この高貴な私が。

 

 そう言いたげに、楽しそうにぺらぺらと語る。

 自慢するように、自らが考えた遊びの計画を――それに返るのが「へー」だとか「ほー」だとか「はー」なんて生返事だということには全く気づかない。

 

 いつまでも、誰にもわからない高尚な話を続けている。

 その奥で。

 

――あれは……。

 

 部屋に入ってくる人間が見えた。

 細長い二つの入れ物を大事そうに抱え、何気ない様子でこちらの真向かいにある壁際へと歩いていく……そう装っているけれど、随分となれない様子でおっかなびっくりと歩く――白髪の男。

 

 忙しそうに動く研究員たちは、それに気づかない。

 

「……なるほど、色々考えているんですね」

「当たり前だ。私の研究によって世界は進歩するのだから」

 

 自慢げに微笑む男。

 世界の先端に立つという研究者。

 

 けれど、目の前の生物の成長には興味がないらしい。

 

「そりゃ重畳だ――しかし、使い終わったらどうするんです?」

 

 もはや、常人と変わらない熱を持った声――すら過ぎていく、その急速に大人びていくことに、まったく気づかない。

 そのままに、高貴な研究者は首を傾ぐ。

 

「どうする、だと?」

 

 意味のわからない。何の意味もない。

 決まりきったことだろう、と。

 

「捨てるだけだろう」

 

 そういう感情を伴った答え。

 それに対して――

 

「……」

 

 目を瞑る。

 口元に手を当てる。

 

 沈黙する。

 

 そして――

 

「――……!」

 

 ぶるぶると震えて、ふっと吐き出した。

 だんだんと大きくなって、どんどんと激しくなって――何かが堪えきれなくなったように、妙な感じで。

 

「かかかかっ!」

 

 はっきりと色を宿して、笑う。

 笑いはじける。

 

「――変わらないなぁ、まったく」

 

 低い声――落ち着き錆びた音。

 若さと老いが半々と、混ざって重なり濁って沈み。

 

――変わっていく。

 

 知らないものが、知っているものへと変化する。

 知らなかったものが、知っているものに重なっていく。

 

 空っぽが見渡せないぐらいに――広がっていく。

 

 

「幾千……万、億。まあ、なんでもいいでしょう」

 

 からからと。けたけたと。

 その変化に――居るもの全てが固まってしまう。

 それもそうだろう。

 

――それがそうなるだなんて、誰も思わない。

 

 直立不動だった身体が、のびやかに緩まっていく。真っ直ぐな表現しかできなかった表情筋が、胡散臭げにと歪んでいく。

 

 成長して、学習して――年老いて、忘却して。

 手に入れて、埋め続けて――失って、空となって。

 もはや、それが何であるのかすら掴めなくなった。

 

 その、底の抜けてしまった器、そこに溜まった何かでできたもの。

 

「それだけあれば、何も知らない子どもも無駄話好きの爺さんになる――そういうことも、あるってのに」

 頑固にもほどがある。

 そういって下を向く。

 

――ふ……。

 

 それは私の良く知るものだ。

 それは私を良く知るものだ。

 

 だからこそ、その登場に驚いてしまう。

 『らしく』ない演出と『らしい』行動に――笑ってしまう。

 

「全く、いつまでも若者気分で羨ましい限り……こっちは随分と苦労して、若作りをしてきたってのにねぇ」

 

 手を添えて、金槌の先がはずれる。

 文字通り、兜を脱いだ。

 

「――はあ、きつかった」

 

 緩い嘆息。 

 それは適当な感じに放り投げられて、からんからんと乾いた音を立てて転がって、部屋の真ん中に。

 大きく響く音。

 

「……正装なんて何年ぶりでしょうねぇ」

 

 黒い髪がばさりと落ちて、真新しい頬の傷が晒された。痕に残るほどの深いものでもないが、何やら鋭い刃物ですぱっといかれたような傷――どうせ、地底のどこかでいざこざにでも巻き込まれたのだろう。

 そういうことに出会ってしまうのが、この男の天命だ。だからこそ、こんな面倒ごとにも巻き込まれ――己からも首を突っ込む難儀な性格をもっている。

 

 本人は認めていない、端からみれば瞭然のお人好し。

 面倒見のいい、説教臭い老人だ。

 

「――ふふっ……」

 

 もう我慢できない。

 どれだけ身体を張った芸なのか。

 笑って――笑い転げてしまう。

 

「ははっ……あはは!」

 

 可笑しくてたまらない。

 思いっきりと捩れてしまう。

 

「――な、なんだ、貴様――一体何……所属はどこだ!?」

 

 混乱の極みと上擦る研究者の声。

 未だに上位に立っているという自分を保っているのは感心するが、何だかもう、ちゃんちゃらおかしい。

 ちょっと前まで真面目だった自分も含めて、全てがおかしい……おなかが痛い。

 

「ちょっと笑いすぎでしょうよ……まあ、いいですがね」

 元気なら。

 

 そういって、身体を九の字と曲げる私に、呆れた視線を向ける男。心配してくれていたのか、まあ、それでもこれは己のせいだということを自覚してもらわねば。

 どうにもこちらも真面目になれない。

 いや、それもいつものことなのか。

 

――まったく……。

 

 いつものように、それはいる。

 いつも以上に、吹っ切れている気すらする。

 

 それは、研究者に方へと向き直った。

 その眼差しに怯み、後ずさってしまう高慢ちき。

 

「えっと、所属でしたね……確か、ね」

 

 それに向かってにこりと男は微笑んで、緩くと答える。

 多分、なんとなく、きっと。

 朧気にだが、微かにではあるが、そんな気も。

 

「特殊観察対象第零号から極秘捜索対象三番、くらいか……それから改め、地上部隊見習い第一号。いや、二号?」

 

 それくらいのうろ覚えな調子にそこまでいって、一呼吸。一拍置いて息を吸い――愉しそうにと。

 

「ただいま、名前募集中の老翁――ただの長生き爺さんです。以後、思い知り……おかないでくださいね」

 どうぞ忘れてください。

 

 

 そう告げた。

 とんだ食わせもの。

 

 

________________________________________

 

 

 

 

「大丈夫」

 

 私を落ち着かせるように、静かな声で男は言った。

 

「……」

 

 言ってしまってから、腕を組む。

 深く息をし、目を瞑る。

 

 そして――

 

「――なんとか、する」

 

 強く呟いてから――ゆるりと笑んだ。

 片目を開けて、がらりと軽い調子。

 

「なんとか……かんとかなるでしょう」

 

 そう呟いて手を懐に。

 取り出して、くるくると指にて回し、ぱんっと開いて鳴らしてみせる。

 

「手伝ってくれる奴も――十分にいることですし」

 

 飄々と。ゆるゆると。

 木組みの扇子を掲げ、月を透かして無地へと通し――また閉じて。

 

 

「酒が不味くなるのは――勘弁だ」

 

 

 浮かぶ月を見上げて――そういった。

 

 

 

 辺りに立ちこめた靄が流れ、まるで吸い込まれるように湖面を揺れて――何かが飛び込んだように、鏡月が歪む。

 

 

 生温い風が吹いた。

 

 

 





 今と昔と旧き懐かし。
 実感するは古里に訪れて。
 故郷を過ぎて、居場所を知って。


 とかとかなんやらと。
 改訂終わりまであと少し。


 読了ありがとうございました。

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