東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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経験談

 

 

「へぇー」

 

 声がした。

 

「こんな可愛らしいお嬢さんが件の侵入者なのか」

 

 顔を上げれば、そこにいるのは一人の男がいた。

 巨大な部屋の片隅に造られた堅牢な檻。その中心に座る私に対して視線を合わせるようにしゃがみ込み、何か珍しいものでも眺めているような様子で。こちらを見つめている。

 

「よくもまあ、こんな空彼方の都まで、わざわざやってきたもんだ」

 

 大陸風の鎧に身を包み、顔全体を囲うような頭でっかちな形状の兜をつけた低い声の男。細長い体躯に、丸く楕円状に膨らんだ頭頂部は、まるで金槌か何か、といったような外見である。

 様子からして、私の監視に借り出された下っ端といった具合だろうか。

 

「何か……特別な狙いでもあったのか?」

 

 被り物によってくぐもった声。

 その声音には、先ほどまで私を見世物のように観察していた人間たち――今もまだ、視界の隅で何かの装置を操っているのが見える――のような、下賤な輩を見下しているといった色は見られない。

それとは違った好奇。ただ、珍しいものに対する興味といったものが浮いている。

 そう見えた。

 

「ねえ、お嬢さん」

 

 こちらに呼びかける。

 その声。

 

――これは好機だろうか。

 

 ほとんど諦めかけていた思考が回り始める。

 

 武装した兵隊。私を見張る存在――ただの、受け渡すまでの管理人。

 

――けれど。

 

 それは、可能性を持っている。

この檻から抜け出すための、私を逃がしてしまう(・・・・・・・)鍵を持った可能性。

 

「――話せない、のか?」

私に興味を向けて、それ(感情)を握る。

 

 自らが圧倒的優位に立っているという驕り。

 警戒する必要すらないという立ち位置が、こちらをより矮小な存在だと見せて――今の状況がただの退屈な消化作業だと、男に判断させてしまっているのだ。

 だから、退屈しのぎに監視対象(わたし)へと話しかけるようなことをしてしまう。それが危険なものだということが解っておらず、考えてもおらず……いつも通りの、少しだけいつもと違っただけの仕事というだけだと見做す。

 ただの、日常の延長。

そう理解して(間違って)いる。

 

「――さあ、どうかしら」

 

 ずっと、閉じておくつもりだった口、それを開くこととした。

にこりと、慎み深く微笑む形に。

 

「お?」

 

 面白そうに、兜からわずかに覗いた男の頬が持ち上がる。

緩んだ調子に一筋の皺を刻んで……既に、己の役目のほとんどを忘れてしまった様子で楽しげに。

 

――これほどに、腑抜けているのなら……。

 

 私の言葉に耳を傾ける隙だらけの愚か者。私を塵芥ではなく、話の通じる生き物だと判断している人間。妖怪と――悪いものと出会ったことがない、空っぽのままの純粋な心。

 

「――お話を聞いてくださるのかしら」

 

 話の通じる相手。言葉の通しやすい相手。

 こちらの讒言に耳を貸す、とても利用しやすい(良い)人間だ。

身内が優れすぎているというのも考えもの、ということだろう。

 

――このような人間は……。

 

 愉しそうに、嬉しそうに、何も知らないままに間違いを犯す。

 誰かが作り上げた成果を見上げ、その内にいる己もまた優れたものだという思い込み、自分は絶対に間違えていないという想い(間違い)を抱いている。

 退屈に続いた日常の中――自らの特別が世界を作っていると信じ込んでいる。

何の努力もないままに。何の苦しみもないままに。

 

「――話してみろよ」

 

 その可能性に手を伸ばす。犀を振るという覚悟も知らない素人が、何かを賭けるということを知らぬ箱庭の人間が――何かを成すことができるのだと、その退屈から簡単に抜け出すのに、何も恐れる必要がないのだと。

 

『それを教える――気づかせてやるのが、大人というものですよ』

 

 あの男なら、きっとそう言う。それに気づくように導いていく。

 けれど、私はそんな優しさなど持ち合わせていない。

 

「なら、もう少しだけこちらに」

 

 火遊びには、火傷で負わして思い知らせる一番の薬。泳ぎを覚えさせるためには背中を押して水の中へと――それが私たりのやり方だ。

それが恐怖とこびりつき、夜半の灯りにも近寄れぬ夜泣き子となったとしても、水に潜れぬ金槌に化けたとしても、それはそれ。

 

――だって……。

 

 夜の家鳴りは、本当に何かの仕業なのかもしれない。

水の底には、本当に誰かが潜んでいるのかもしれない。

それを探した人間に――『大丈夫』などと確言してしまうなど、とても怖くてできはしない。それこそまさしく、信用ならない讒言だ。

 

――それは猫をも殺す毒と譬えられるもの。

 

 踏み入れるのは、誰かの意思で動いた足。

 ならば、自業自得で、寄せた災厄。自らで償うのが世の常――人の常。

 

 運悪ければ、時季が悪ければ、機を誤れば――もう遅い。

気づいた時には訪れる。おしまいなのだと、思い知る。

 

 そんな闇にて、薄らと笑う。

 

 それが。

 

――妖怪というものですわ。

 

 

 

 くすりと、笑う。

 

 

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 仕事をやり終え、土産を手に入れ、なかなかに面白い良縁を経て、鼻歌交じり。珍しくも上手くいった流れに乗って、悠々と。

 上機嫌に歩く。

 

 揺れるのは、背に負った荷の中身。

 無色透明に近い純粋な水からの加工品。

 粗末を通り越した水の酒。

 

「……そういや、外は月満ちの頃なんだったかな」

 

 ふと思い出したのは、地底に入った暦の上。

 今刻の月齢を考えれば、その辺り。

 

――月見酒ってのもまた乙だ。

 

 月の満ち欠け――外に出るのは、その最高潮を過ぎたころとなるだろうか。多分、真ん丸と肥えきったものをみることはできない。けれど、花の散り際を楽しむように、沈んでいくそれを肴に酒を呑むのもまたいいものである。盛りを過ぎた老人としては、それはそれで己と重ねて見せて、なかなか似合いの席ともいえる。

 

「……」

 

 しみじみと酒を舐め、月を独りと眺める。

 ここ最近にはなかった趣向。

 

 たまには、独り酒。

 

「……そういうのも、ね」

 

 静かに酒水を舌に染みさせ、月の光に透かして色を親しむ。

過ぎる風香に鼻を利き、含んだ空に万変する酒味を愉しむ。

 

 そんな風靡な酒の席。それだけでしかない、酒の味。

 

――一昔前ならば、そんなことばかりだったっていうのに。

 

 最近はとんと無縁な呑み方だ。

 とてもとても、酒のみで愉しむだけの時間など取れてはいない。

 

 相手するのは酒一つ。

 変わらぬ相手を前にして、己の感覚のみで探求する。

 深く、暗く、覗き込めるものはそこにあるもののみ――己と酒の味のみ。

 

「――そういう時間も必要だ」

 

 そう。そう思う。

 けれど――。

 

『あら、いいお酒もってるじゃない』

『それじゃ、宴会にしましょうか。おつまみはお願いね』

 

 その光景には、きっと横槍が入ることになる。

 そんな情景に浮かぶ――そして。

 

『……はいはい。それじゃ、この前うちに棚から持ってったあれも一緒に空けてくださいよ』

『あら、ばれてたの』

『紫様……この前持ってきたお酒の話ですか?』

『もう半分しか残ってないわね』

『……追加は主犯がすること』

 

 そのように受け入れる自分。

 そうやって笑っている自分。

 

 思い浮かぶのは、そういう空気。

 誰かが集まり、緩くと笑いあう。

 

 嫌々と己は顔を眉を顰めて、口は三日月と。

 

「――騒がしくなったもんだ」

 

 月の満ち欠けでいえば、一体どれほどの数となるだろう。

紫一人で言えば、もう千年以上の付き合いにもなる。思い出す記憶も多くなり、思い出せない記憶も多くなった。

 それだけ、長く――深く付き合っている。

 

「……」

 

 長く。とても長く続いている繋がり。

 広がりこそすれ、閉じていく様子はない。

 終わりの見えぬ縁。

 

「……ふむ」

 

吐き出した息。

 何やら、そう考えてみれば感慨深くもあるものだ。

 この長い人生でも、それは一番か二番目に長く続いていて――それがさらに繋がり広がって、もう今までにないほどの広さを持った長い糸。一つの命をそのままに編まれているものとしては、かつてないほどに。

 

――本当に、珍しい。

 

 それは良縁であったのか。

言いきりたくないのは、随分とあの紫の妖怪にはちょっかいをかけられたからだろう。どうにも釈然としないので、腐れ縁と言い換えやっても、まだ余るほど……まあ、その先に繋がっているものは、そうはいいきれない良縁奇縁が鈴生りと咲いており、その大元は私のおかげなのだと囁いている気もするが――手放しで認めてやる性分でもない。

調子付かせれば、厄介な毒を放つのが、この紫の花の常。褒め言葉を贈るより、言ってしまうが野暮を贈るのが意地の悪い老人()というもの。

 

――精々、上手い肥料でも挿しいれて。

 

 腹を満足させて、喉を酔わせて――満腹として、何もしないまま礼として終わらせる。

 それくらいで、丁度いい。

 

そういう、関係と――。

 

「――まあ、こんな良い酒を独り占めするのは勿体無い」

 

 水を与える代わりに御裾分けとしておこう。

味を占めた誰かさんがまた土産にでも持ってきてくれるかもしれない。

そんな打算を働かせておけば、安いもの。

 

――あれで、なかなかに義理堅い連中ですしね。

 

 独り酒はいつでも出来る。

 酒はまた買いに通えばいい。

 

 

――前は……。

 

 そう言い訳て、己を誤魔化す――その癖に。

 

「……」

 息を吐く。

 

 また、己に戻るため。思い出して、思い出さぬため。

 くるりと回して確認し、ぐるりと巡って元へと返る。

 

「いつか終わるのだとしても――」

 

 今の繋がり。

 今生きている友人たち。

 今は今呑める酒を愉しむ。

 それを捨てたくはない――失いたくはない。

 

「――悪くない」

 

 そう思えている。

 あの時と同じように。

 

 だから――

 

 

 

 

「見つけたぞ」

 

 どこか聞き覚えのある声がした――したと同時に、二つとずれた。

 

 

 

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 土埃が舞い上がる。

 視界のほとんどを覆っていた灰色の半分が地面へとずり落ちて、がしゃりと音をたてる。

 見通しが良くなり、その姿が現れる。

 

「――やっと見つけた」

 

 その向こう側に存在する人間。

 片手にぶら下げた荷を大事に抱え、訝しげな表情を浮かべてこちらを見つめている男。

 

「……」

 

 首をかしげるその姿は、記憶とは寸分とも変わっていない齢のもの。

 半分は人間ではない自分でさえ多少の変化が存在するというのに、この自称ただの人間は、ほんのわずかの変化すら見ることが出来ない。

 本当に人間なのかと疑ってしまいたくもなるほどに――今は、そんなことを考えている暇はないが。

 

「――まったく、時間をとらせおって」

 

 突然現れた己に驚いているのだろう。

 反応が鈍い男に嘆息を吐き、それをじろりと睨みつけた。

 

 そして、一言。

 

「姫さまが待っている」

 

 端的に告げ、男を促す。

 ここまで来るのにも結構な時間を費やした。急がねば間に合わない可能性もある。

 

「いや、どちらさ……」

「早く来い! 説明は追々する」

 

 男が何かを言おうとするのを遮って、早く来いと急かす。追々の事情は走りながら話せばいい。今は一秒でも時間が惜しいのだ。

「いや、あの……」

 

 だというのに、それでも男はよくわからないといった表情でこちらを見つめ返すばかり――その間の抜けた顔に、腹底が沸く。

 

――何をしている。

 

 事情を知らぬとはいえ、己がこれほどに捲くし立てているのだ。

それだけで、ことが重大なものであるということは察しがつくだろう。

 

 そうであるというのに――

 

――何を……。

 

 頭に血が上る。かっと燃え上がる。

 それは変わらぬ己の性質で。

 

 

「――八雲が捕まったのだぞ!」

 

 そう。

 吐き出したのは、多少の八つ当たりを混ぜたもの。

 

 己では、主の望むことを行えないという苛立ちを含んだ怒声。説明にもなっていない。

 ただの喚きに近いもの――だが、それでも、言いたいことは伝わった。

 

「――は?」

 

 男の目が僅かに見開かれた。

 驚きに動きを止めて、信じられないといった表情へと――判りにくいながらも、変わる。

 

――そうだ。

 

 己自身も信じ切れていないほどのこと。

 あの八雲紫が捕まったなどという戯言を、己が主の口から直接聞いていなければ、決して信用しないだろう信じる難い話だ。あの八雲紫を知っていれば、誰でもそれが虚言だと……罠か、悪戯か。また、何かの悪巧みだと考える。

 

――しかし……。

 

 けれど、それでは説明ができない。

 あの九尾の式が外れ、いくら連絡を取ろうとしても繋がらず――何の前触れもなく、忽然と姿を消してしまう。そんなことを、あの隙間妖怪が……するかもしれぬ、が。たとえ、それを行ったのだとしても、それが幽々子様へと不安を与えるものならば、あの妖怪は何かしらの予防線を張っておくはずなのである。

 その二人にしかわからぬものでも――確かに、二人なら通じるもので。

それだけは、あの信用ならぬ妖怪を信頼している。

信じきっているからこそ預けている。

 

――……少なくとも、八雲の身に何かあったということは確かだ。

 

 だからこそ、急がねばならない。

 何が起こり、それが手遅れなのかどうかすら判らない状況なのだとしても、出来るだけの手を尽くす。

 また(・・)、間に合わなかったということはあってはならない。

 

――今度こそ、守らねばならん。

 

 そのために――

 

「――上、ですね?」

 

 熱された頭に、低い声が響く。

 この状況に少しの澱みもなく、落ち着いた声で――男は口を回す。

 

「走りながら説明してくれるんでしょう――なら、急ぎましょう」

 

 己が進もうとしていた先を指し、急かす様にして前に。

 先ほどまでの気の抜けた様子は消えて、真面目な顔でこちらを見据えて――

 

「どうしたんです……行くんでしょう?」

 

 凪の心で、事を進める。

 その急転と変わる。

 

「あ、ああ――急ぐぞ!」

 

 一寸……その変わりように。怯んでしまったものの。すぐさま頷き返して、その隣を走り抜けた。

男は、その後ろに張り付くようにして併走する。

 

その姿には、もはや惑いも何もない。

 

――相も変わらず……。

 

 思わずこちらが戸惑ってしまうような変わり様――いや、入れ替わり様といってしまってもいいような変化をする男だ。こちらが「急げ」とせっついていたのに、思わずたたらを踏んでしまうほど……もはや、別物といってしまってもいいほどに転化し、がらりと空気を換えてしまう。

 

「何があったんです?」

 

その知らせ役すら混乱している状況で、この男は逆にと落ち着いていく。のだ

先の驚きを既に呑みこんで、まったくと落ち着いてしまって先へと進む。

 

 そんなことには慣れているとでもいうように。

 既に、経験済みだとでもいうように。

 

――変わっていない。

 

 危なげに揺らぎながら、ゆらゆらとぐらつきながらも元の位置へと立ち戻る。ひどく脆そう見えるのに、その芯棒だけは少しもずれることがない。

 全てを日常として、呑み込んでいる――わけのわからぬ底知れなさ。

 

「ああ」

 

 今が切羽詰った状況だということすら忘れて、『なんとかなるだろう』などという緩みが頭を過ぎる。その落着きに呑まれて、己もまた大丈夫なのだと心を休めてしまう。

 

 いつも通りにいくと――そう、思い出させる。

 

――たとえどうなっても。

 

 最悪にだけには通じないと。そうはさせないのだろうと。

 己よりも、一回りは若く見えるこの男の――。

 

「……なるほど」

 

 男は頷いた。

 

 別のことを考えていながらも、どうやら口は上手く回っていたらしい。

 説明を終えて息をつく――肝を少しと休めてしまう。

 

 これできっと大丈夫だと。

 

「……」

 

 思ってしまってから気づく。

 何を他人任せに――また同じことをするつもりなのか、と。

 

「――馬鹿者が」

 

 口の中に噛み殺す。

 己の甘さ。

 

――まだ、何もしていないのだというのに。

 

 気を引き締める。

 男を見つけたからといって、それだけで解決する問題ではない。今もなお、八雲は危機的状況に立っているのかもしれない。

 姫も、あの九尾も、この男のことを信頼はしている。己に手が届かぬ状況でも、この男なら何か手を持っている。手を貸して――助けとなってくれると。

そう信じている。

 

「――今、八雲がいるのは」

 まだ、語っていない最後のこと。

 理解しきれていない現状のこと。

 

 語れるだけのことを語る。

 

――それだけしかできない……それでも、それだけはできる。

 

 それを叶えるために、出来るだけのことをする。

己に出来ぬことも、この男になら出来るかもしれないそれをさせるため。

己一人では、何もできないからこそ――誰かを頼る。

 

――情けない……。

 

 自分に出来ぬことを人に押し付ける。

 己の未熟さを人に拭ってもらう。

 足りなさを誰かに補ってもらう。

 

決して、心晴れやかとはいえない。

 

――……。

 

 そう、昔の己ならば感じていただろう。

 出来ぬことを出来るといって、出来ぬことをどうにもならぬと決めつけて、たった独りで諦める……それこそがどうしようもなく情けないことだというのに。

 己の未熟さを露呈しようとも、己の愚かさ加減を思い知らされようと、誰かの手を借りて事を成し遂げる。例え、どれだけそれが道化染みた間抜けな役回りであろうとも、それで何かが成せるなら――その方が、万倍以上に価値がある。

 

――どれだけ情けなくとも……筆を引いてもらわねば、字の書き方は覚えられぬ。

 

 ずっと一人剣を振り続け、やっと答えを出した自分がいうことではないかもしれないが。そういう、答えの出し方もあるとうことだ。

導かれて、やっと己の歩き方を知ることもある――触れてみて、初めてわかることもある。

 

――一人の道なら、修羅も良い。しかし……。

 

 何かを拾い上げたいのなら、握った拳も開かねばならない。

斬ることを知るためには、斬らぬことも――刀を離すことも知らねばならない。

 

 そんなことを、己はこの歳になって思い知らされたことを思い出す。

 

――少しは、広がったのだ。

 

 走りながら、ふと見つめる掌の胼胝(たこ)

 その手で掴みあげた――

 

「……」

 

 それ(・・)を思い起こして、目を開く。

 また、曇りそうになった、先をみる。

 

 まだまだ、未熟な己を叱咤して。

 

「どうかしましたか?」

 

 男が聞いた。

 

「何でもない」

 

 己は返す。

 

 当たり前のことを知らなかっただけ。

 当然のことを理解した(知った)だけ。

 

 話すまでもないことだと。

 

「そうですか」

 

 大して気にした様子も見せず、男はそのままの速さで走る。

 変わらない速度で、進む。

 

 

――……。

 

 少しも変わらずにいる存在。

 少しも変わらずにいてくれるもの。

 

 それに、心休まる者もいる――己も、それを知っている。

 帰りたいと思う場所があるということを。

 

 

 

 

 

「――にしても」

 

 

 不意に男が口を開いた。

 こちらに視線を向けて申し訳なさそうに苦笑して。

 

「すいませんね。わざわざ手間取らしてしまって……ちゃんとお礼はしますので。あの亡霊の姫さまも一緒に」

「む?」

 

 何を言っているんだと、疑問に思った。

 自分が幽々子様の命を聞くのは当たり前のことである。

 それに、なぜ礼などが必要なのか。

 

「で、お侍さんは一体何処の何方で? 紫の知り合いか何かですかね」

 

 

 

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「へええ、面白いな。そんな場所があるのか」

「ええ、あなたは知らないでしょう?」

 

 愉しそうに笑う男。

 本当に愉しそうに笑っている。

 

「――ってことは、その濁りってのはわざと残してるんだな」

「ええ、わざと雑味を残すことで、同系の酒にまた違った風味が生むことができる」

 

「面白い」といって笑う。

 地上ってのも侮れないと。

 

 そう語る。

 

――……。

 

 本当に、月の人間とは思えないほどに違っている――違いすぎている

 穢れた地上に存在するものなど、一瞥することすらなく、見下し嘲る月の都(この世界)にいながら、それを凄いものだと感心して認めてすらいる。

 

――おかしい。

 

 この人間はおかしい。間違っているとすらいってしまえる。

 なぜ、これは私の話を聴き続けているのか。馬鹿なことだ。意味のないことだと――そう吐き捨てるのが月の住人たちのはず。

 地上にあるのは穢れた存在。地べたを歩く汚れた罪人。

 己たちが優れているものだと、過ぎ去った勝者だと語るはず。

 

――それなのに。

 

「地上ってのもいい所な気がするな。今度の使節団にでももぐりこんでやろうか」

 

 この男は、その常識を持っていない。

 月人たちが穢れとも呼ぶものを、そのまま認めようとしている――いや、最初からそれを学んですらいないような、そういう気さえさせるほど、ずれている。

 

「貴方は……」

「うん?」

 

 邪気なく応える声。

 その姿に嘘は感じない。

 油断して、考えなしで、そのままの形で。

 私の言葉を受け止めている。

 

「……」

 

 年齢を感じさせない笑みを浮かべる。

 何も知らない身勝手さを持っている――幼さ。

 

――本当に。

 

 子供のようだ。

 何も知らない。何も教えられていない。ただ、無邪気に話を聞いているだけの幼子。

 

何も知らない赤ん坊。

 

「どうかしたのか?」

 

 その姿だけを見れば、彼を大人だと判断できる。

 しかし、その内を覗いてみれば、それがま白なままだと知ってしまう。

 

 これほど騙しやすい相手はいない。これほどつけ込みやすい相手はいないと。

 分かりやすくも、理解してしまう。

 

 

――■■■■■。

 

 

 何かが僅かに引っ掛かる。

 誰かの姿が頭を掠めて……浮かび上げる前に、砕けてしまう。

 

 わからない。

何かが視えた気がしたけれど、何だったのかがわからない。

 

――あれは。

 

 見たことがないのに、知っている気がした。

 知らないのに、似ている気がした。

 似ているのに、全然違うと思った。

 

――わからない。

 

 尋ねたくなった。知りたくなった。

 ふと、思いついた。

 

 

「――貴方は、ここが好き?」

 

 小さな問い。

 何故か聴きたくなった疑問。

 

「……?」

 

 その問いに、男は首を傾げた。

 そして、何か難しいことでも考えているように腕を組み、眉間にしわを寄せる。

 まるで、小さな子供のように。

 

 うんうんと呻り、むむむと呻き――心をさまよう。

答えを探し、言葉を捜し、玩具箱(知っている知識)を引っ繰り返す。

 

 そんなものを……幻視する。

 

――どうしたのかしら、私は。

 

 何を見ているのだろう。誰を見ているのだろう。

 何かがおかしい。思考がぶれている。

 

――私は、一体何に気づいてしまったのだろう。

 

 

 まるで、幻でも見ているように見えているものが定まらない。

煙のように靄のように薄く立ちこめ、世界をふやかす。

 

「あ……」

 

 男が顔を上げる。

 子どもが顔を上げる。

 

 口を開いた。

 

「わからない」

 

 そんな言葉が飛び出した。

 

 

 それが、とても悲しいものだと思えた。

 見ていられないもののような気がした。

 

『外に行ってみたい?』

『みんな一緒なら』

 

 知らない記憶を視た。

 それが目の前と重なった。

 

「――じゃあ」

 

 まるで、記憶を見たように――思い出したように。

 

 何かを言わなければならないように気がして、気づけば声を出していた。

 何の計算もない、不合理な言葉を――。

 

「連れて行ってあげましょうか?」

 

 檻の中の鳥が籠の中の鳥へと呼びかける。

 そう思うと、とても可笑しい。

 

 けれど、何故だかそうしてしまった。

 どうしても、そうしたくなった。

 

「それは」

 

 男はにこりと微笑んだ。

 何かは笑って答えた。

 

 とてもとても嬉しそうに――

 

 

「愉しそうだね」

 

 

 

 

 その後ろには、白衣を着た人間。

 何も教えてくれない大人たちが――立っている。

 

 

 

________________________________________

 

 

 

 

 

「――来てくれたか……その傷はどうしたんだ?」

「……通りすがりの辻斬りに会いまして」

「――面目ない」

 

 

 






 くどい。くどすぎる。
 心理描写ばかりを多くしすぎだ。
 そんな気もします。
 


 読了ありがとうございました。

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