東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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水鏡の像

 

 

《本当にそう思っているのか。それがわからない》

 

 

《それは本当に笑っているのだろうか》

《ただ、そう演じているだけの、表に貼り付けた張りぼてなのではないだろうか》

 

 

《そうしなければ、態度に表さなければ、伝わることはない》

 

 

 

《自分とは違う隠していない姿》

《自分とは違う開いていない瞳》

《見えない心で、見通せない言葉を話す》

 

 

《それが本当なのか、嘘なのか》

《一番近くにいたはずなのに、わからない》

 

 

《口に出さずとも通じていたはずの距離が……遠ざかってしまったのだから》

《一番近くにいたはずの声が聴こえないのだから》

《知っているはずなのに》

 

 

《それが、もどかしい》

 

 

《だから、閉ざしてしまった》

 

 

《本当に帰ってきてくれるの》

 

 

《わからない、から》

 

 

《怖かった》

 

 

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 崩れた酒樽を並べなおし、慌てて駆けつけた店主へと事情を話す。

 どうやら酒樽に被害がないかだけが心配だった様子の店主は、その被害が軽微だったことを知ると、いつの間にか増えていたもう一人のことなど、気にもしなかった。

 それどころか、それを並べ直そうとしていることに礼をいい、「よくも俺の子どもたちを……」なんて、低い温度で呟いて表へと駆けていった――何か、赤黒い液体が染みこんだ棍棒を持って。

 多分、さっきの揺れを起こした犯人は酷い目に遭うことになるだろう。なんだか、酷く恐ろしげな眼をしていた。

 

――……。

 

 そんなことを間に挟み、私たちは向かいあっていた。

 

 三つの空箱に三角形になるように座り、零れ落ちた雫によって香を強くした酒蔵の中、ずっと付いてきていたのだという妹の話を聞く。

 色々な意味で、頭が痛くなりそうな話に、耳を傾ける。

 

 

「――……」

 

 そして、本当に頭が痛くなった。

 

「――つまり、何だか面白そうだと思ったからついてきた、と」

「うん。だって、こんな所に人間がいるのよ」

 何かありそうじゃない。

 

 無邪気に、他意のない純粋な興味というものを覗かせる言葉。

《   》

 

「そんな安易な……何か、よからぬことでも考えている輩かもしれないでしょうに」

「大丈夫。誰にも気づかれないから――お兄さんに見つかったのも、偶然だったでしょう?」

 

 そういって笑っている。

《   》

 

 

「偶然――まあ、いつから付いてきてたってのにもよりますが……確かに、今の今まで気づかなかった。見事なもんです」

「でしょう? あの鬼さんの方も面白そうだったから少し迷ったんだけど」

 やっぱりこっちにして良かった。

 

 呆れてしまう理由。

 理由ともいえないような行動原理。

 私の妹の、進み方。

 

「お姉ちゃんとも会えたし」

 

《   》

 

――私には、わからない。

 

 その奔放さに頭が痛くなる。

 

《   》

 

「――こいし」

 

 静かに、けれど強く――私は口を開いた。

《   》

 

「いい加減になさい。その時そこに居たのなら、私があなたを探しているってことも知ってたでしょう?」

 なら、どうしてすぐに出てきてくれなかったのか。

 なぜ、姿を隠したままだったのか。

 

 教えてくれないとわからない。

《   》

 

「だって……」

「どんな理由があったっていうの?」

 

 何を言おうとしたのか、その先は――私にはわからない。けれど、心配したのだ。

 理由があっても関係がない。

 怒っていることは、伝えなければならない。

 

《   》

 

「私達がこんな辺境にまで来た理由、それを忘れてしまったの?」

 

 その居場所を失ってしまったから。

 忌み嫌われる力を持っていたから。

 

《   》

 

 注意しなければならない。ここはそんな者達の巣窟。

 何があるかわからない。何があってもおかしくない。

 知らない内に、たった一人の妹を失くすなんて事は――絶対に、嫌だ。いつの間にかいなくなってそのままなんてことは、到底受け入れられることではない。

 

「あんまり、心配させないで」

 

 まだ、きちんとした住処すら決まっていないのだ。

 今回は、偶然再会することができたものの、勝手に居なくなってしまえば、この広い地底で、どうやって妹を見つければいいのか。

 その手段も――。

 

《   》

 

 妹のことは、私が一番よく知っている。

 だからこそ、何処に行ってしまうかわからないという危惧も強く抱いている。

 

「あなたが……」

「大丈夫」

 

 私の方を真っ直ぐと見て、『安心して』とでもいうように、妹はにこりと笑う――その瞳を、閉じたまま。

 

「大丈夫だよ。お姉ちゃん」

 

 それに――私の心は休まることはない。

《   》

 また、気ままに何処かへと行ってしまうかもしれないと疑っている。信じられないでいる。

 信頼しているのに、信用が出来ない。

 証明するものが、存在しないから――

 

「なら――」

「なら、落着って事で」

 

 何か《・・》を口走ろうとした所で――横槍が入った。私たちの会話に挟み込むようにして男が言葉を発したのだ。

 

 まるで、私の言葉を遮るように――

 

「少し落ち着けて……今はその先を仕舞っといて下さい。一応、匿ってもらってんですから」

 

 穏やかな笑みを浮かべて、「そこまでにしておけ」と会話を制す――そう言いながら、それ以上は言ってはいけないと、無言で私に伝えて(・・・)いる。

 

「声は漏れないでしょうが……あんまり興奮して大きな声をだしちゃあ、少し心配だ」

 

 男はそういってこちらに視線を向ける。

 その視線と――言葉()にされた思考に。

 

「……」

 

 

 頭が、冷えた。

 

 どうやら、自分でも知らない内に声を荒げていたらしい。言わなくていいことを、言ってしまってから――ずっと後悔してしまうような何かを、今の私は吐き出してしまっていたかも知れない。

 

 それほどに、揺れていた。

 自覚も何もなく、私は――

 

《   》

 

 乱れていた息を落ち着けて、再び妹に視線を戻す。

 ちゃんと、視て――両の目で、きちんと見つめて。

 

「――また、後でちゃんと話をしましょう」

 

 伝え切れていない胸の内。

 そのもどかしさを押し殺して――約束する。

 

「うん」

 

 妹は、微笑んだまま頷いた。

 

 

 

 どこか、沈んだ声で――

 

 

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 空気が思い。

 折角の良い酒の香を、愉しむのが難しい。

 

 そんな状況。

 

――どうした、もんかね。

 

 息苦しい。

 自分は関係がないだろうことだからこそ、その雰囲気で余計に胸が重くなっている。間に挟まれ、ぶつかる空気に冷えたり熱されたりと、肝が収まらない。

 落ち着かない。

 

――姉妹喧嘩、か。こういうまっとうなのに巻き込まれるのは流石に初めて……ですかねぇ。

 

 現実逃避の思考。

 昔を振り返りての心の防衛。

 

「……ふむ」

 

 兄弟、姉妹喧嘩。

 何度か姉や妹、兄と弟などが争っている状況に出くわしたことはある。しかし、それも、小さな子供どうしのものや軽い口げんかや欲しい物の取り合い……血で血を洗うような大規模ものや憎しみや嫉妬で狂った凄惨なものなど、お菓子をあげたら治まったり、太陽が隠れたり、天変地異に巻き込まれたり、和んだり笑ったり死にそうになったり――そんな経験しかしたことはない。

 微笑ましいのと、思い出したくないほどのものと――両極端で。

 

――これは……それほど重くも軽くもない、と。

 

 そう単純なものではないだろうけれど……それでも、互いを憎しみあって、破局へと続いてしまうような致命の隔たりではないのだ。

 単なるすれ違いで、想いの掛け違い。当人同士が互いを大事に思っているからこそのぶつかりあい。

 

 多分、そういうものなのだと思う。

 放っておいても、いつかは――時間をかければ解決する。埋めてしまえる類の溝だろう。後から考えてみれば、微笑ましいと笑ってしまうなどということもあるかもしれな。

 

――そういうもの、だろう。

 

 なんとなくに、そう思う。

 

 ただ、それに巻き込まれる側はたまったものではない。この空気の重さは、他者にとっては恐ろしい暴力で、居心地が悪くて仕方がないというもの。

 迂闊に酒など口にしようとなどすれば、その矛先が一気にこちらに向いて――発散に使われてしまうかも知れない。

 そういうものに巻き込まれるのは御免被りたい。

 

――まったくねぇ……。

 

 そうやって息を吐く。

 どうにも、微睡めない冷ややかな戦い。

 それぞれ別の方向を向いて顔を合わせようともしない。それぞれがお互いのことを強く考えているからこそ、ぶつかり合っている。

 

 そういう姉妹。

 

「……」

 

 することもなく、ただただ思考する

 整理と考察。今と今までの集計作業。

 

 ぼんやりと、ただ考える。

 先ほどの問い。

 

――お嬢さん方の……その、正体。

 

 黒の髪留めで飾られた薄い紫色の髪。

 黒の帽子から伸びる灰緑色の髪。

 

 そういうものを、知っている気もする。

 

――確か、ずっと昔の時に……。

 

 遠い朧気な知識。そういうものが進んでいた頃の話。

 加えて、以前紫が虹を眺めながら、似たようなこともいっていた。

 色というものは、正負の値――裏と表を入れ替えるだけで全く同位置へと変化することもある。太極図にある白と黒のように、正反対に位置するからこそ、それはとても近い存在として扱われることもある、と。

 鏡面に反射した虚像のように。己に付きまとう影法師のように。その境界さえなくしてしまえば、まったく同等のものとして――同じ形をしたものとして存在する。

 

――そういう概念を持つ。そんな妖怪もいる。

 

 似通っている。けれど、反転している。

 同じだけれど違うもの。明と暗。

 

 彼女らが姉妹というのなら、そういう意味を持って存在を示しているということもありえるだろう。何の意味もなく生まれ出るのが怪であれば、何かの意味を通さなければ形とならぬのも、妖というものである。

 その姿も十分な、判断材料。無論、種も騙しも嘘も虚言も被っているものだが、一応の目安として。

 

――と、すると……。

 

 黒帽子の妹御――こいしという名の少女は、ほとんど人間と変わりない姿をしている。

 彼女を妖怪だと看做す証拠のようなものがあるとすれば、その身体に巻きついている細い管のようなものだろう。

 そして、そこに繋がっている拳大の球体は――多分、眼球《めだま》。

 形状、姿形からして、その中心にある亀裂が割れて、そこから大きな瞳が覗く、といったものが想像できる。

 それが、彼女の妖怪としての象徴、なのだろう。

 

「……」

 

 一度も開かれてはいない。

 理由はわからないが、何かしらの理由があってそれは閉ざされているのか。

 それが何を意味しているものなのかは――それはわからない。けれど、妹である少女がそれを持つならば、当然、その姉にも同じような象徴があるということは予想がつく。厚めの外套よってそれを隠してはいるが、多分、彼女にも同じようなものが。

 

――妖怪としての象徴……閉じた瞳。

 

 姉と妹。逆さの色。語られる違い。

 もし、それが正しいのだとして、さらにそれを反転させたなら――何度か耳にしたことのある、一種の妖怪が浮かび上がることとなる。

 その能力は今までの行動を照らし合わせてみても、十中八九、間違いではないだろう。

 そう確信してしまえるもの。

 

「ということは……と」

 

 暇つぶしの思考遊び。

 気まずい空気に耐えかねての現実逃避。

 しかし、その考え遊びがそこまで至った所で、じろりとした視線が肌へと刺さった。

 見れば、その当の本人がこちらを睨むようにして見つめている。

 

――あんまりじろじろ眺めすぎましたかね。

 

 正解か不正解か。それを確信できる情報はない。

 ただの仮定しただけの想像である。

 当たっているなら――別にそれはそれでいいだろう。

 妙なことは考えていないし、気づいたことがばれるだけ。むしろ、その方が気が楽だともいえる。疑心暗鬼と構えられてしまう方が、こちらとしても息苦しく、これからの行動も取りにくくなってしまうという所だ。

 それに――

 

――下手すると……。

 

 それが視えていないのだとすれば。

 それこそ、舐めまわすような目で人を眺める助平爺だとでも思われてしまう可能性もある。ただでさえ、無償で手を貸しているようにも見えてしまう今までの己の行動だ。

 何か――悪意ではなくとも、別の思惑があると疑われていても仕方がないのだ。もしそれが、妙な方向のものだと思われてしまうというのなら……それは流石に心外である。

 ちゃらんぽらんではあっても、己は不埒者ではない――はずである。

 

「――何か?」

 

 それを探るためにも、惚けたように声を上げ、少々様子を伺ってみた。

 少女の視線は揺るがない。

 見透かすように。見通すように。

 その外套の下にあるもので、こちらをじっと見ている――そのように勘ぐってしまう。

 

「……」

 

 少女は黙り込んでいる。

 何かを考え込んでいるのか。こちらの思考を探っているのか。はたまた、この危険人物をどう始末してやろうかという処刑案の選出か。

 候補はいくつも挙げられる。

 一体、この少女はこれからどんな反応を見せるのか――それはそれで、興味がある。

 

 けれど――。

 

「――そろそろ、ですかね」

 

 がちゃりと、表の扉が開く音がした。

 どうやら、店の主人が戻ってきたようだ。

 

――遊んでばかりも、ここまでにしときましょうか。

 

 気づけば、既に数刻ほどの時間が過ぎている。

 これ以上、こちらからの解の分析は、言葉を交わさなければ進むことはない。暇潰しとしては、十分に考えきった。

 

――外の様子も気になりますし……。

 

 空気を入れ替えるためにも、己から動かしてみるのもいいだろう。そろそろと様子を伺って、先のことを考えていく頃合いである。

 

「辺りの騒ぎも治まってきたみたいです」

 

 この息苦しい危険地帯から抜け出すための努力。

 逃げ出すための口実作り。

 

 それも加えて――

 

「そろそろ、外の様子でも探りいってみませんか?」

 

 そのじとりとした視線から逃れるために。

 とりあえずは、その場しのぎの言い訳で始めてみることとする。

 

 

 

________________________________________

 

 

 

 今。

 二人きりになるのは気が進まない。

 

 そう思っていたのは、私もお姉ちゃんも一緒だった。

 

「別に一人でも構わないんですよ」

 お兄さんはそう言っていたが、私の能力はそういう偵察にも向いている。迷惑をかけた分、少しは私も手伝いがしたいのだと。

 そういう理由で、一緒に外に出た。

 

 お姉ちゃんは何か言いたそうにしていたけれど、結局、何も言わずに私たちを見送る。

 

「すぐに、戻るから」

 

 そう伝えたけれど、とても不安そうな顔で。

 それなら、一緒についてくればいいのにと思ったけれど、「何処かへいなくなっちゃ駄目よ」とそんなことを念押しして、あそこに留まった。

 

――お姉ちゃんは……また、そうやって。

 

 沈んでいく私の心。見えてはいない瞳。

 意識ではない何かの中で――

 

 

「ふむ……大丈夫そうですかね」

 

 ぽつりと呟くように放たれた声。

 ふわふわと漂っていた思考が、ふっと現実へと引き戻される。

 

――あれ……?

 

 少し、ぼうっとしていたらしい。

 一瞬、今何をしているのか忘れていた。

 

「この辺りでいいでしょう。大体の様子は判りましたし」

 

 意識を戻してみれば、いつの間にか、あの酒屋から既に結構な距離を歩いていた。

 暗がりの路地から都の真ん中の方を覗ける位置。辺りの様子を探るには十分なくらいの場所に、既に到着していた。

 目的は、もう達せられてしまっている。

 

――また、いつの、間にか……。

 

 まただ。

 そういう思考が浮かぶ。

 

 この目を閉じてから、私はこういうことが多くなった。

 気の向くまま、感覚のままに迷い込み――勝手に足は進んでいて、意識していないのに、目的に向かっている。

 何かをやり遂げている。

 

 私を動かす何か――それが何なのか。自分でもよくわかっていないのだけれど、確かに私の中にあるもので。

 

「――どうかしましたか?」

 

 お兄さんが心配そうに声を上げた。

 ぼうっとしていた私の挙動に、少し不審に思ったのだろう。

 

 この人間は、私と同じように、ぼうっとしているように見えて、以外と、その目はよく動いていて、辺りの空気を把握している――そんな気がする。

 

「なんでもないわ」

 

 まあ、どうでもいいか、とそう考えて――そう答えておいた。

 

――そう、きっと。

 

 それも、どうでもいいことなのだ。

 なんでもない。まだ、慣れていないだけ。

 変化したことに、適応できていないだけ。

 すぐにそれが日常となって、当たり前となる。

 

――あのままでいるよりも……ずっと、楽になれる。

 

 そういう『私』となる。

 

 そのために、私は閉じた。

 それで、ずっと楽になった。

 

 だから、大丈夫。

 

「そうですか」

 

 疑う様子もなく、男は先を歩いていく。

 その背中をぼうっと眺めながら思う。

 

――なのに、どうしてだろう。

 

 一つだけ、引っ掛っている。

 わからないのに、わからなくなったはずなのに、理解して(わかって)しまう。

 それが嫌だ。

 

――これは……。

 

 軽くなったはずなのに――重い。

 閉じた瞳が疼く。

 

 その原因は――

 

「――じゃあ、お姉さんの方にでも原因があるんですかね」

 

 不意の言葉。

 足が止まった。

 静かに放たれた言葉が、ぞくりと疼く――何かに触れたように私に響き。

 

「……どういうこと?」

 

 ざわついた感情。

 手を伸ばしている――私。

 

 背を向けたままの、その首元へ向かって――

 

 

「だから、悪いのは、お姉さんの……」

 

 空気を切る。

 そんな感触がした。

 意志ではない意志で――何を考える間もなく、ひゅんと軽い音。

 

――ああ、やっちゃった。

 

 遅れて蘇る思考。

 いや、考えてはいたのだけれど、その実感は後からやってくる。

 私は『怒った』のだと、その願望を理解する。

 

 意識していない行動。無意識に行った行動。

 それは――

 

――私の望んでいること。

 

 妖怪としては非力な腕力。

 この男と闘っていた鬼さんとは比べようもないほどに弱いもの……それでも、妖としての力を込めれば、人間の首など容易く落ちてしまう。

 

 感触も、感じないほどに。

 

――どう、言い訳しよう。

 

 後悔はしていない。

 だって、この男はお姉ちゃんのことを『悪い』といった。

 それだけで、十分なことだ。

 

――ただ、後で怒られるのが……。

 

 それが嫌だ。

 それは嫌だ。

 

 やってしまった後でこみ上げる――

 

「ん……何か、しましたか?」

 

 終わってしまった後の後悔。

 そのはずなのに。

 

 ただ、空気が揺れただけ。

 

「――何やら、この地底にきてから身体が勝手に動く感じでしてね」

 

 自覚のない様子で、男が振り向いた。

 自分がやったことに、何も気づいていていない様子で。

 

「言葉も身体も、いつの間にか飛び出しちまう」

 おかしい調子です。

 

 そういって、繋がったままの首を調子が悪そうに叩く。

 訝しげな顔をしながらも、何を疑った様子も見せずに、こちらを見ている。

 

「あっ……えっ、と」

 

 まるで、すり抜けるようにして、男の体がぶれた。

 何の構えもとっていなかったはずなのに、それは、まるで決まった流れに沿うように、私の腕は逸れてしまっていた。

 何の、感触もないままに。

 

――なんで……。

 

「何かしちゃいましたか」と男は怪訝な顔をしている。

 

 それに、怯んでしまった。

 予想していなかった事態に、驚いてしまった。

 

 頭が真っ白となった。

 

「――お、お姉ちゃんは悪くない!」

 

 混乱したままに飛び出した言葉。

 少しも飾っていない幼子のような感情に、なんでそんなことを口走ったのかと頬が赤くなる。

 

「うん? ――ああ、そういうことじゃありませんよ」

 

 それを対して気にした様子も見せずに、男はそのままの表情で答える。

 何もなかったように、命の危機をさらりと受け流して。

 

 何かを語る。

 

「調子が悪いというか……自分を上手くまとめられていないってようにも見える、ということですよ。だから、ちょっと加減が悪そうだ――形と、はっきりと表せないから」

 だから、惑っている。

 

 そう、私のお姉ちゃんのことを語る。

 

「……」

 

 男に心を見通す目はない。

 だからこれは、男が思いついただけのこと。

 空想の産物に過ぎない。

 

「それを妹さんは――お嬢さんはわかっているから、お姉さんが辛そうなのが見ていられない。自分のことで苦しんでいるのが……嫌で堪らない」

 

 一種の決めつけ。

 手前勝手な押し付け。

 理由のない妄想のようなもの。

 

「『怖がられ』ているのが、とても……」

 

 ただの幻。

 なのに。

 

「――黙って!」

 

 言葉に出したときには、身体は動いている。

 自らの感情を力として男へと襲い掛からせる。

 

 けれど――

 

「……!」

 

 その寸前に、腕を掴まれた。

 

「――すいませんね。言葉が過ぎました」

 

 申し訳なさそうな顔のまま、こちらに痛みのないような加減で、腕が止められていた。そして、その部分から身体に何かが入り込むような感覚がして――力が霧散した。

 

――何……?

 

 集められた力。

 それだけを分解して、その高まり消えていく。痛みも何もない――ただ、散らされる。

 

「――どうも、調子が悪い」

 

 そういって、男は私の手をそっと放した。

 そして、その手をそのまま振り上げて――

 

 

「……!?」

 

 ドゴンッ――と。

 凄い音がした。

 

 男が、己で己の頭をぶん殴ったのだ。

 手加減した様子は無い。

 思い切り、痛そうな音がした。

 

「――っ……」

 

 驚いて固まってしまう私と、止まってしまった男。

 そのまま数秒沈黙してから、ぶるっと震え……ふうと、深く息を吐いた。

 それから、起動する。

 

「――すいませんね。一発食らわせてもらってもいいんですけど……まだ、目立つのは不味いでしょう。後でちゃんと、詫びもいれますんで」

 今はこれで。

 

 そういって頭を下げる。

 痛そうな音がした頭を降ろす。

 

 意味、不明なもの。

 

「そろそろ戻らないとお姉さんの方も心配するでしょうし」

 

 男はそのまま落ち着いた声で話して、呆気に取られてしまった私を先導するように、帰路を指す。

 ゆらゆらと、無防備な背中を晒して、歩いていく。

 

 いつでも殺せてしまうような、緩い姿。

 

「……あ」

 

 はっと我に返って、慌ててその後を追った。

 頭は混乱したまま。

 

――えっと、あ……何、え、あれ?

 

 何もまとまらない。

 ほとんど何も考えられずに、それに付いていく。

 

――訳が、わからない……。

 

 普段は人を振り回してばかりだとお姉ちゃんに言われ通し――だというのに、私の方が振り回され続けている。

 

 はじめから、そうは思ってはいたけれど。

 

――変な、人間……だ。

 

 

 改めて、実感した。

 

 

________________________________________

 

 

 

 

「さて――少しここで用事があるので」

 すいませんが、お姉さんへの報告はお願いします。

 

 場所は未だ店主は帰ってきていない酒屋の裏口。

 何やら考え込んでしまっている様子の少女にそう告げる。色々と途中であれこれはあったものの、それに妹さんは素直に従ってくれた。

 

――まあ、ただ、何かなんだか訳がわかんなくなってるだけかもしれないが……。

 

 少々、自分の行動もおかしかった。

 それに中られて、少し混乱させてしまったのかもしれない。

 

「……余計に訳の判らない偏屈爺みたいになったか」

 

 そんな印象を抱かれても仕方がない。

 自分でも頭で考えたことをそのまま口と出しすぎた。

 

――調子が悪い……というよりも良すぎるのか。

 

 無駄話を語りすぎる。反応反射で動いてしまう。

 長話は老人の悪い癖だとしても――流石に度が過ぎている。

 

――昔と違って会話に飢えているわけでもあるまいし。

 

 精々、独り言が多い程度にしか癖は残っていない。

 いつもはもっと自制が効くはずことが……まるで、思考と口が直結してしまっているかのように――滑り転んでしまう。

 

「ついつい、やり過ぎるなんて――匂いだけで酔ったのか?」

 

 それほどに惚けている。

 開け放すべきことと……閉じておくべきことがとっちらかっている。こんな戸締りでは、世の中など渡ってはいけない、というほどに不用心だ。

 

――それは知っている。弁えてもいる。

 

 そのはずである。

 

 言って良いことと悪いこと。

 言葉の使い方は、随分と仕込まれた。

 そういうのが、自分の力でもあり、長く生きていくために必須の技術でもあったはず。

 

――なのに。

 

 おかしな位に、狂っている。

 

「……一度ぶん殴ったくらいじゃ治らない、ですかね」

 痛みでは元には戻らない。

 

 では、その原因。

 遠因は何なのか。

 

――最初は……。

 

 崩れ初めの最初。

 違和の始まり。

 

 それは――

 

「――それでも、嘘は言っていないんでしょう?」

 

 そうやって、自戒を立て直そうとしているところに、冷や水のような声がした。

 

「あなたは、それが真実だと思っている」

 

 滲ませた確信。

 見通した言葉が降りかかる。

 

 

 見返れば、強い色を宿した少女が一人。

 

「そうでしょう? 」

 

 妙な感じの威圧感に包まれて、『姉』の顔をした少女が立っている。

 

――あー……。

 

 何を考えているのか。

 『私の妹に何を吹き込んでる!』とかそういうものだろうか。心の読めない自分には、そんなことしか思いつかない。

 

 

「――さてはて」

 

 

 まあ、それでもそれが一番怖いので。

 

 

「どうでしょうねぇ」

 

 

 惚けてみるのだが。

 きっと、通じないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 





 悪くと足掻いて往生悪く。
 いくつになっても怒られるのは怖い。


 読了ありがとうございました。
 

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