とある道を辿れば、生きたままにそこに辿りつけるのだという。とある道を進めば、生きたままにそれを見物できるのだという。
そういう噂がある。
けれど、忘れてはいけない。
そこは岸の向こう側。
そこは
踏み越えれば戻れない。進みすぎれば帰れない。
橋を渡れば
川を越えれば
船に乗ってしまえば
ほら、もう遅い。
貴方も死人の仲間入り。
「もう、帰る場所なんてありはしませんよ」
地獄と冥土と迎えて終わる。
あなたの居場所は既になし。
……
____________________________________
「なんてことにゃあならないように……ってことだったんですけどね」
香ばしい焼き団子の香りに面や小物を売る屋台。
演者が意気揚々と出し物を繰り広げ、威勢のいい客引きの声が所構わず響き渡る。
そんな明るい……まるで、祭事でも行っているかのような空間。
けれど、そこは――
「いいじゃない楽しいのだから――あら、向こうの出店は何かしら?」
明るい空気に誘われ、次々と夜店をはしごと洒落る――亡霊少女。
「そうよね。あ、あっちも面白そうよ」
買った狐の面を頭に斜めに被り、一緒になって笑い転がる――妖怪少女。
「……」
姿だけを見れば、見たままを語れば、仲のいい二人の子女が互いを共に祭りを楽しんでいる、というようにしか見えはしない――けれど、本来、ここにあるのはそれとはほとんど正反対のはずのもの。
死に向かう寂しさと侘しさを感じながら、少しずつ沈んでいく……生者が最期に訪れるはずの悔いの道。そういうものはず。
――しかし……。
それが、なぜこんなにも明るいのだろう。
「――らっしゃい!どうだい焼き立てだよ!」
響く声と焼き菓子に――
「やあやあ、南蛮で十年暮らした我輩の妙技……とくとご覧あれ!」
弾ける火花と見世物に――
「どれにしようかしら……」
「これなんていいんじゃない?」
楽しそうに色とりどりの飴細工を選ぶ少女たち。
本当に、ただの見物お祭り巡り。
「――ふむ」
少しだけ違うのは、辺りに漂う人魂の群れ。
白いふよふよとした存在がそこら中を飛び回り、屋台を冷やし、冷やかしては通り過ぎていくこと。
「はい林檎飴だね……ありがとよ、お嬢ちゃん」
「よく冷えてるわねぇ」
そして、それぞれの露天の店主たちにも……足がなかったり、とても生者とは思えない真っ青な顔色をしていたり――人型ですらなかったりする。
つまりは――
「さーてさて! 今生に別れを告げる人々よ……今限りの身銭を切り捨てきって軽い身体で来世を迎えようじゃないか。さあさあ、よってっけよってけ!!」
死人。
既に死んでしまった者達によって、この店々は営まれているということだ。
「どういう、もんですかねぇ……こりゃあ?」
数十年前。
訳あってこの場所――正確には似たような場所なのかもしれないが、ここに訪れた時にはこんな訳のわからない状況にはなっていなかった。
もっと暗く――隠微な陰のある場所であったはずだ。
それが――
――何がどうなったのやら……。
中有の道。
生と死の狭間に存在する……いわば最期の命の洗濯にと訪れるはずの場所。
それが、随分と似つかわしくない雰囲気で。
これから死ぬ、または死んだ者たちにとっての場としてはあまりに滑稽な状況だろう。どうにも、首を傾げてしまう情景だ。
――……。
走り回る子ども。酒を酌み交す大人。
人生の最後の花にとはしゃぎまわる人々。
形なく、墓なく、漂っていく陽気と陰気。
「――終わりは派手に、いっそうと愉しいものに、か」
自分たちの状況を理解していない者。
ここが何処だかわかっていない者。
わかっていて――精一杯に楽しもうとしている者。
そこには翳りこそあれど、決して悪いものだけではない感覚がある
自棄糞なのだとしても、捨て鉢になっているのだとしても、何かを吐き出し、何かを捨て去り――少なくとも、感情が回っていることは確かだ。
無気力なまま。無感動なまま。
ただ、運ばれていくだけというよりも、ずっと救いがある。
――風が吹かなきゃ、風車は回らない、と。
何かしらの刺激を受けなければ、なかなか踏ん切りというのはつかないものだ。これからどうなるのだとしても、ここで、少しだけの涼を得てから進むというのも悪くない。
――どうせ、最後は自業自得の銭次第。
己の生き様の清算。白も黒も行い次第。
地獄の沙汰も倣いのまま、死んでからでは既には遅し。
泡の銭は露へと散らすが礼儀というもの。
「楽園地獄の裁判所……終わりと始まり裁く場所、とね」
すぐさま生まれ変わることのできるものもいれば、ずっと罪に縛られたままの者もいる。救いも呪いも自分の罪業。自らを省みなければ、ここでは何も進めはしない。
死してなお……死んで尚更思い知るこの世の常。
ならば、またこの形もまた、一つの転機となることもある。
――と、そんな感じでまあ……。
予定外の状況に対する気具合の建て直し。
現実逃避の徒然思考で受け止めて、それらしく着地させてみる。
――考えてみたところで。
この情景に説明をつけられるはずもない。
元より連れの妖怪も亡霊も――自らの身の上も、その理から少し外れてしまっているものだ。それをそのままに受け止められぬ身の上ゆえに、色々と自由も不自由も都合をつけなければならない。
だからこそ、道無き道も、外れた道もお手のもの。
「――さてさて」
そのための目的を果たすためにわざわざこんな辺鄙な所まで訪れたのだ。変わり果てた有様であったとはいえ、ずっと混乱しているわけにはいかない。
己は己の役目を果たすだけ。
ならば、いつも通りと同じ事――
「見てみて、二匹も掬えたわよ」
「あら、やるじゃない……私も負けないわよ」
……それを都合してやる張本人とその親友が遊び呆けていようとも、自分はやるべきことをやっておく。何だか少し悲しい気持ちが込み上げようとも、若者に囲まれた老人とは得てしてそういうものだ。
――まあ……。
少し息をつき、その明るい光景に目を向ける。
「あら、紫。それはずるいわよ」
能力を使って自らよりも多くの人魂を掬ったことに対して眉を顰めて――笑う。
自らを封じていた戒めから、やっと解き放たれた少女。
「ふふふ――どうやったって勝てば官軍よ」
大人気なく口端を吊り上げながら、愉しそうにそれに応えて――笑う。
いつか失うはずだった絆を、繋ぎ残した少女。
――こういうのも、悪くない。
少しくらい羽目を外したとして、悪いことではない。
こんな具合に祭りを楽しむというのも、あの亡霊少女にとっては初めてのことだろう。
それを、徹底的に楽しんでおけばいい。
――際限なく遊び、際限なく笑える。
初めて得て……初めて放たれた世界で、精々愉しく過ごすこと。たとえ、それがいつか終わってしまうのだとしても、それが今楽しむことを見逃す理由にはならない。
長き人生、己を殺しすぎては息も保たずと溺れてしまうもの。息抜き息継ぎもまた必要と――己は懲りて、知っている。
「……さてさて」
一息吐いて、もう一息。
それを続けて――終わらせぬために。
「ちょっくら、頑張りますか」
働くときは働く。
端役黒子の裏方仕事。
――侍さんも頑張ってるでしょうしね……こっちも気張らないと。
鼻を鳴らして、威勢良くと微笑んだ。
自らの目的のため。
この賑やかで騒がしい雑踏で、見つけなければならないものを見つけるために気合を入れ直し、力強く足を踏み出す。
「よし、行きま……・」
「てめえっ舐めてんのか!」
水を差した粗暴な罵声。
その張り切った声を出そうとした所に、割り込むように挟まれた柄の悪い掛け声に――がくりと足がつんのめる。
「何よ。ちゃんとお金は払ったわよ」
見れば、先ほど荒らしまわっていた屋台の近くで絡まれている紫たちがいた。
「おいおいおい。金を払えば反則してもいいとでも思ってんのかい?」
「困るねぇ、こっちは商売してんだ」
そういって、全く客商売には向いていない表情でにやつく男たち。
そこらの店で特に呼び込みも行わず、やる気もなさそうにうろついていた者たち。一応、自らの屋台なども持っているようだが――ちゃんと営業している様子もない。
あきらかに、何もしようとしていなかった。
「なあご主人! 困ってんだよなぁ」
「いや……私は別に」
気の弱そうな主人の肩を掴み、紫が行っていた能力を使った裏技について言及している。多分後ろで覗いていたのだろう……何をしていたのかはよく判ってはいないようだが、何かしらの細工があったのだろうとは理解しているようだ。
その行為に対しての損害やら訴訟やら、何処かで聞きかじっただけの語調で紫たちを責めている。
言い分自体は――ある程度は正しい。
――しかし、まあ……。
そうはいっても、そもそもその店でやっていた人魂掬いなどその場だけで愉しむだけのもの。どうせ持って帰れない存在で遊ぶのだから、結局は店に銭を落としていくのみでしかない。
主人さえ承知してしまえば、何の問題もないはずだ。他の店でも似たようなことして遊んでいる者がいる。
――楽しめればいい、ってことだろう。
そういう立ち位置なのだ。
そんな商い屋が並ぶこの場所では……男たちの言葉の方が的を外している。ただの言いがかりで、絡んで脅して奪い漁るための、都合のいい理屈付けに過ぎない。
ただのいちゃもん、というものだ。
「面倒ねぇ……紫、もう向こうの店にいきましょう」
それがうっとうしくなったのだろう。
紫の袖を引き、幽々子が別の店へと促そうとする。
けれど――
「おいおい……ただで済むと思ってんのかい?」
その行く先を塞ぐようにして立つ大柄の男。
下卑た笑みを浮かべて仲間と頷く。
「迷惑料・・・・・払ってくれんだろうなあ」
「なあに、身体ってのもありだぜぇ」
逃げ道を塞いで辺りを囲う。
震えていた店主は既に後ろへと突き飛ばされて、もはや関与すらもしていない。
――……。
すっと――その妖怪少女の瞳が細まったのがわかった。
多分、道を塞いだ男が幽々子の肩を乱暴に掴んだことに反応してのことだろう――そして、その亡霊少女自体も、にこりと冷え冷えするような笑みを浮かべて、その片手を揺らしている。
「やれやれ……」
歪む空間。羽ばたく蝶。
危ない空気と予兆が静かに満ちる。
――大事になる前にとめた方がいいか。
絡む相手を間違えた男たち。
同情する余地もないが、そのために起こした騒ぎで面倒ごとになるのも御免である。
――精々、右手左手が半月ほど動かない程度に留めてやらないと……。
骨を二三本――いや、骨はなさそうな身体の者もいるので、形が曲がって戻らない程度に少しのお灸を据える。たぶん、それくらいならやりすぎというほどではないだろう。
己が出てそのくらいの穏便さで終わらせておく。あの少女たちに任せておけば……・どうにもならない惨状に頭を抱えてしまうことになる。
――悪目立ちはしたくないですし。
さっさと終わらせよう。
そう考えて声を上げようと――
「おうおうおう!」
したところに、再びの大声。
またもつんのめる自分。
「何してやがんだい、小僧ども!」
威勢のいい気風と共に現れる大男。
集まっていた野次馬を掻き分けて、鋭い視線で男たちを睨みつけながら、少女たちを庇うようにして前に立つ。
「……」
その掻き分けられた馬の群にいた自分。
少々押し流されてふらついて、その他大勢の中に落ち着いた。
まるで、演劇か何かの観客になってしまったような気分。もはや、自分の出番ではないだろうとなんとなく納得してしまう――そんな予感。
これは、そういう展開である。
――……まあ、楽な分にゃあいいですが。
そのままぼうっとその成り行きを眺めることとして、気持ちに捲った袖を元へと戻した――出遅れた自分を見ていたのだろう少女二人の笑みが見えて……すこし、やるせない。
「てめえら、折角の最後の善行積む機会――閻魔の涙に仏の情け、そのお勤めで何をやらかすつもりだ?」
ねじり鉢巻を斜めに締めて、肩に羽織を引っ掛けて……片手を懐遊ばせながら男たちへと言い放つ。
様になった啖呵を切っての仁王立ち。
「……うん?」
余りの迫力に周りの者達も息を呑むほどに――堂には入った大親分の立ち姿。
記憶と変わらぬ侠客の、立ち振る舞い。
「――てめぇ! 邪魔してんじゃねえぞ」
男たちは震えながらもそれに言い返そうと声を張る。
自分たちは大勢で相手は一人なのだ。これで負けるはずがないだろう。
そんな些細な盾で、恐怖を打ち消し睨み返して――。
「――あん? 」
男の気合いと一睨みに、まるで石にでもなってしまったかのように固まってしまう男たち。
完全な迫力負けで――胆力がまるで違うのが一目に見て瞭然だ。
「う・・・・・うあ……」
震え上がる足をどうにか押し殺し、合わない歯の根を打ち合わせながら、男たちは一歩と下がる――本当は、すぐにでも逃げ出したいのだろう。けれど、そんな小物な男たちにも一応の矜持があるようで。
「ぎぎぎ……」
歯を食いしばり、精一杯の根性を見せて男の正面へ、顔色こそ悪いが、全員が一丸となって――どうにか憤怒の表情を取り繕っての一叫び。
「――覚えてやがれ!」
そんな捨て台詞。
とても判りやすい小物染みた物言いで男たちは逃げていく……なかなか堂に入った悪役どもだ。
ああやって情けなく逃げ出せば、追撃する気合いも沸かないというものである。
その証拠に。
「はんっ……つまらねえ野郎どもだ」
こちらの大物はそう一言吐いた。
追いかける気はさらさらとない。
――こっちも堂に入ったもんだ……。
役者が違うということだろう。
周りの人々皆が手を叩き、喝采の中に立つその男の姿は実に様となっている。あの野暮ったい男たちでは決して敵わぬ器の違いが見て透ける。
ただ――
「あ! 見つけたぞー!」
響く声。
集まる視線。
「大将、何してんです! 仕事がまだ終わってませんよ」
「こんなところにいやがった……おい、集まれ!」
後からぞろぞろと現れた男の部下と思しき人間たちの非難の声――苦労の滲む疲れ具合を眺めてしまえば、それも幾分薄くなる。
「……」
「あ、やべっ」なんて顔をして慌てて逃げようとする男とそれを取り囲む部下たち。一瞬何が起きたかわからなくなり、次の瞬間には盛り下がって台無しになっていく雰囲気――いや、逆に盛り上がっている。
「いまだ!」「やっちまえ!」「いけ、捕まえろ!」なんて、野次馬たちは今度は大捕り物へと興味を変える。
先ほどまでの威厳など何処にも見当たらない姿で近くの屋台の裏へと逃げ込もうとする大男。その部下達はてんやわんやと騒ぎながらに手慣れた様子でそれを追い詰めていく。
周りは何が何やと盛り上がり、わけもわからずぽかんとしていた者達も、いつの間にかと一緒に騒ぐ。何ともなしに面白く、どうにもこうにもおかしくなってしまう。
「なにかしらねぇ、あれは?」
ふふふ、と面白そうに亡霊も笑っている。
「本当に……何なのかしら、あれは?」
呆れたように妖怪も笑っている。
皆が、笑ってしまう。
騒がしく、お祭り気分と。
――ほんとに……変わりない。
乾いた笑みを浮かべてそう思ってしまう自分。
「逃がすな……辺りを囲んでじっくり追い詰めろ!」
「右いったぞー! 後ろから飛び掛れ!」
大男のいつもが透けて――それはいつか自分に降りかかった災難な出会いの時分と変わらぬのだと知って――笑ってしまう。
本当に――
「これが冥土の渡し守――死神ってんだから、世も末ですねぇ」
折角見つけた
長く生きれば、そういうことがよくわかってしまう。
そんなことを考えて、小さく息をついた。
____________________________________
「――こんなものか」
主のいなくなった屋敷。
その役目を終えただろう空虚な残骸の掃除を終えて、息をついた。
「こうして見ると……寂しいものだな」
十人以上は暮らすことの出来るだろう広い館において、自分一人がポツンと立ち尽くすのみ。
誰一人として他の人間は居らず、また、帰ってくることもない。
――人一人がいなくなっただけで、こんなにもがらんどうなものなのか。
既に、数年前から尋ねてくるのは一匹の妖怪のみだった。主と自分の二人のみで生活していた屋敷と、その気配はそれほどの変わりはないはずである。
けれど、やはり静かに感じてしまう。
「主をなくした家、か――儂も似たようなものだが」
あの時。
主人の最後の願いを踏みにじり、無理にでもその生を引き伸ばそうとした自分は、すでに従者としては失格であっただろう。
自らの手でその糸を断ち切って、望みを叶えたのだから、それに後悔はない。
――とはいえ……。
それでも、もう、そのままの形でそこにいることは出来ない。
裏切り……己の本分からは外れた行為であったのだ。
その責は取らねばならない。
「これも我侭か……」
あの妖怪はお堅いことだとか何とかいっていたが、これも自分の生き方なのだ。
譲ることは出来ない。
――あの男……。
『好きにしてください』
そう言っていた男。
あれに任せておけば、大丈夫だろう。
その緩い雰囲気に反して、あの男は己よりもずっと深い心根を持っている――些細なことにも、頭が回る。
「――己の出来ることを、か」
後始末。
ここで起こったことの全てを片付けて、『姫』さまの禍根を除く。理から外れたその身に……もはやなにも降りかからないようにする。
それは、未熟な己といえど、長年この場所へと仕えてきた己だからこそできることだ。
『そういうのが年寄りの役目でしょう』
あの男の言葉を思い出し、少しだけ笑いが込み上げる。
――そうだ。
やるべきこと。
やらねばならないこと。
自分は任せてしまったのだ。
あの妖怪と男に。自らの主を。
だからこそ、その背中側ぐらいの始末はせねばならない。
――西行寺家に対する始末……事の顛末の報告に隠蔽・。
しなければならないことはいくらでもある。
残った柵を払い清めておくのが、元従者としての最後のお役目だ。
「さて……」
何から始めるか。
久方ぶりの門番以外の仕事に腕がなる。
生来不器用な自分といえども、そのくらいのことはできるぐらいに長く生きているのだ――まずはその知識を掘り返さねばならない
そして――
――それが終わってしまえば、どうするのか。
吹きぬけていく風に、少しだけ未来のことを思う。
その最後の片づけさえ終えてしまえば、自分は本当にその役目から外れてしまうことになるのだ。
「……」
考えてみれば、随分と何もしてこなかっただけのようにも感じる。
勿論、主に仕え、その身を捧げてきたことに対しての後悔はないが……。
――他には何もない、ということだな。
己の器を広げるための努力など、とうの昔に忘れてしまっていたような気がする。主一つ、それだけに専念する、そうとしか考えていなかった。
その方法を得ることすら、求めようとしていなかったのだ。
――……旅でもしてみるか。
刀を振り続けるだけではなく。
世界を見て周り、その広さを知る。
己の知らぬことへと目を向ける。
今更ながらに思い知った自分の矮小さを克服するためにも、それは必要なことなのだろう。
「――うむ」
それでは、このずっと放っておいた外見もどうにかしなければならないだろうか。
同じ人間が一所で長年を生きているという雰囲気を出すには丁度良かったとはいえ、やはり心機一転……髭をそり、髪を整えて、少しはしゃんとした格好で出立する方がいい。
その方が自分だと気づかれての面倒ごとにも巻き込まれずにもすむ。
「……」
そんな
色々なことを考えている自分。
変化しようとする己。
――そしていつかは・・・・・。
再び、己が主に頭を垂れることにしよう。
今度こそ、その従者としての役割を終えられるように。
いつの間にか止まっていた針が動き出し、昔の血気逸った自分を思い出す。それほどまでの若さはないが、そのまま老け込んでしまうよう老翁ではなかったことを思い起こす。
――あれほど生きていて、未だにあれほどの馬鹿な男がいるのだ。
自分も変われぬはずがない。
成長できないわけがない。
『今度こそ、その居場所を守れるように』
腰に挿した刀を撫でて、そう誓う。
再び見えた主人とその友人が、そのほとんど若返ったような姿の自分を見て「どちらさま?」と本気で首を傾げる未来があるとは露知らず。
そうなれる未来を、夢想した。
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「まったく……紫様も少しは私の苦労も判ってほしいものだ」
灰色の空と一面の雪景色。
少しずつ温かくなる日差しは厚い雲でその表情を隠し、暗く冷えた空気が辺りに満ちて、もうすぐ春が来るはずだというのに――その寂寥感は増すばかり。
それは、ここが終わってしまった場所だから――墓標のようなものであるからなのだろうか。
「……」
花一つないすっかりと地味な色合いへと変わってしまった妖木。
それを見つめながら深く息をつく。
――最悪、ではないが……やはり、全て思い通りとはいかないものだな。
自らの主。
大妖の中でも特に力ある者として格式高い
――そんな紫様であってさえしても……。
全てが思い通りにいくことはない。
自らの時間を削り、精一杯の努力をもってして――その万能で全能な力を最大限に利用しても届かなかった。
望みと願い。
「……せめて時間があれば」
予想以上に速く訪れてしまった破局。
間に合わなかった準備と手立て。
何を言っても詮無きことだが、この世界はやはり残酷なものなのだと、そう思ってしまう。
――適応できなかったもの……運の無かった者には、容赦なくその切っ先が振り下ろされる。
弱肉強食。適者生存。
弱きものは強きものに駆逐され、その強きものはさらに格上のものに蹂躙される。
適応できなかったものは容赦なくその世界から蹴落とされ、二度と上がることの出来ない奈落の底へと落とされる。
――自分の居場所をつくるだけ。守るのだけでも、どれほど難しいことなのか。
紫様と出会う前。
自らの好き勝手に生きていた頃の自分。
「……」
あれだけの権勢を誇っていた己がその位を追われてすっかりと落ちぶれた。
その自分を追った人間たちも既にこの世には無く、それが作り上げた栄華も寂れて時代遅れの産物へと成り果てている。
どうにもおかしな話だ。
――そんなものに意味など無い、ということか。
とてもちっぽけなもの。
この世界の理からすれば、ほとんど目にも見えないような小さなもので、それが何をしようとも変わることのない流れが全てを押し流す。
どれほど積み上げようが、崩れるときは一瞬だ。
「ふう……」
深く吐いた息は白く染まる。
通り抜ける風が少しだけその身に染みて、ぶるりと尻尾を振るわせた。
――ああ、身体が冷えてしまった。
長く生きた上での感慨。
長く生きたからこその感傷。
あるのかないのかすらわからない古傷の疼きに少し囚われていた。そんなことをしている間に、仕事を終えてしまえただろうに。
「――私も歳かな?」
妖怪のあり方は精神のあり方。
心が老いればその身も老いる。
――姿形が変わらないとはいえ……。
その生き方には如実に表れる。
だからこそ、年老いた妖怪はその活動を緩めて一所に留まることが多くなっていく。
土地に巣食うものとして
場所に居着く存在として
そのあり方を固定する。
――忘れられてしまわぬように……自らの姿を忘れてしまわぬように。
忘れられてしまえば、失くしてしまえば終わりなのだ。
伝承にも逸話にも――記憶からすらも消えてしまえば、私たちは最初からいなかったことになってしまう。何も無かったことになってしまう。
それは――悲しいことだ。
「――幽々子様、か」
この雪ノ下。
その固い地面の下に眠る楔。
苦しみと想い出を合わせて沈めてしまったもの。
「――封印ごと印をつけておかなければな」
この妖木は繋がっている。
その封印が弱まれば、本体である幽々子様にも影響がいくことになるだろう。
それを防ぐための一仕事だ。
「いつでも転移できるように、と」
まだその居場所は決まっていない。
けれど、その準備と隠蔽だけは行っておかねばならないのだ。下手な者に手出しでもされたらどうなってしまうかもわからない。
――ご自身でやればすぐに終わるだろうに。
式である自分。
命令どおりに行動すれば主の力を借用して使用できるのだとはいえ、後々の担当は自らが行わなければならないほどに高度なものとなる。
それなら最初から自分の手で準備しておいた方が安心した作業が行えるだろうに。
――信頼されているのか。面倒くさがっているのか……。
その両方が理由ということもあるだろう。
今頃遊び呆けているのかもしれない主は頭が切れる物臭者だ。天才肌とでもいうのだろうか。
「はあ……」
込み上げたやるせない想いを吐き出しながらも、固定と転換の計算を続ける。
やっていること自体は単純な演算ではあるが、手を止めていてはいつまでも終わらない類のものなのだ。
やる気と根気の問題……・その分飽きが来るものではある。
――ん……?
その作業をつづけている所に、少しだけ目に付いたものがあった。
札を固定するために掘り返した地面から何やら変わったものが突き出ていることに気づいたのだ。
「これは……?」
竹の筒。
雪の下に埋められていた――まだ新しめの品である。
――中身は……。
何か封印の術式を妨げる類のものであってはならない。
確認のため、軽く固定されていた蓋を取ると、その内側が簡単に露出した。
「……」
表れた品々に――少しだけ目を細め、丁寧に蓋を閉めなおす。
そして、この先ずっと見つからぬようにと己の妖力を使って軽い封印と隠蔽をほどこして再び地面の中へと埋めた。
――まったく……。
いつかの村の露店。
そこで主が買っていた美しい髪飾り。
そんな記憶が頭を過ぎり……・少しだけ、笑みがこみ上げた。
今まですっかり忘れてしまっていた記憶だが、案外、こうやって頭の片隅に残っているものだな、と可笑しさが込み上げる。
――もう片方はあの男のものか・・・・・。
死人にくちなし。
意味こそ違えど、物を食すことなどできぬ身の上だ。
けれど、あそこにあったのは――
「ご苦労なことだ」
丁寧に削られた二つの棒。
簡素ではあるが、使いやすそうな良い形をしていた。
――……。
均された地面は、冷たい雪で覆われたまま。
けれど、先程よりも少しだけ色がついたようにも思えた――暖かい、白の中に埋もれた色が。
「――世界は残酷だが……悪くないと思えることも、少しはある、か」
くすりと込み上げる笑み。
少しだけ沸いてきた気力を振り絞り、残りの作業に意識を向ける。
――今の居場所もなかなか悪くない。
そんなことを思う。
強いていえば、少しだけ話し相手がほしいというところだが、それはおいおい考えることにしよう。
まだまだ、自分も――こんな少しのことで、心の底から笑ってしまえるほどには若いのだから。
そんなことを、思った。
各々、様々想いはあれど、今は眠らせて
それぞれと後の始末をつけるために。
といった感じに。
読了ありがとうございました。