――暑い……。
額に流れ落ちる雫を片手で拭いながら、青空の中で煌々と輝く光球を見上げた。
ゆらゆらと、辺りに満ちる水気によって歪み見えるその姿は、雲ひとつない背景の内で一際強くと存在を示し、入り込む湿気によって張り合わされた衣服と肌が余剰の暑さを伴ってこの身に染み入る。
通り抜ける風は焦げつくような熱線によって温められ、ぬるい空気の流れとなって辺りに満ち――どうしようもなく、暑い。
――家の中にいるよりはいいと思ったけど。
蒸した空気で満ちた屋中よりは幾分ましにも思えるが、その分身体を動かし歩き回る労力が億劫だ。何処かの店の軒先で休もうにも、このうだるような暑さに音を上げた人々が群がるその場所だ。空気は澱みきって、結局のところ、歩き続けているのとあまり変わりがない程に熱がこもる。
――猫でも探してみようかな……。
あの動物は、人気のない涼しげな場所を好んで集まるという。それを見つければ少しは涼を得ることだってできるかもしれない。
「――おおう?」
そんな馬鹿げたことを半ば本気で考えていたところに、野太い声が響いた。
「こりゃあ稗田のお嬢さんじゃねえか! どーもどーも!」
こんなところでどうしたんですかい、と首を傾げる。
人好きのする笑顔を浮かべた大柄な男。
町外れの方に住んでいる農夫……それが目の前に立っていた。後ろには荷車を引いている。何処かへそれを運んでいる途中なのだろう。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げ、ただ散歩していただけだと答えた。
男は「そうですかい」とほがらかに笑う。そして、がちゃがちゃと騒がしい音を立てて、荷車を止め、懐から取り出した水筒をぐびぐびと煽った。
――豪快な……。
ぷはぁーと、人目を気にせず大きく息をつき、滴る汗を肩にかけた手拭で拭う。
自分にはどうやったって真似できないような豪放さ。辺りを気にせず自然体――どうにも、開けっぴろげである。
それが要因なのかどうかはわからないが、この男は人里の皆からもなかなかと慕われているようだ。
大雑把ながら単純明快なその性格には、裏がなく。何も考えていなさそうだからこそ、何も構えずに付き合うことができる。
――わかりやすい、というのも才能ということですかね。
天の与えた才……というよりも、天の与えたままに生きられる天然というもの。そうやって生きられる人間というものは、案外珍しい。
だからこそ、必要以上に構えず、揺れずに付き合うことができるのだろう。強いて言えば、何も深くと考えずにすむ、ということか。とても、楽なのだ。
それに――そこに加えて。
「その荷……どこに運ぶんですか?」
男の後ろ。
その引いている荷台を差す。
「ああ、こりゃあ大工の連中に頼まれましてね。ちょっと里の外までとどけるんでさぁ」
後ろの荷台に乗せている荷。
それは大量の材木だ。一体、大木何本分だろうか、というほどの木材がこれでもか、というぐらいにうず高く積まれている。
あきらかに、人一人で運んでいける量ではない。
「いやぁー。やっぱりこんだけを一人でいくんはきついってもんでさぁ。 流石に肩が凝って仕方ねえ」
がはは、と笑いながら、荷車を担ぎ直す。
それを、軽々と引く。
――話の種のつきない人ですからね……。
一応、この人間もこの幻想郷へと流れ着いた人間。それも、迷い込んだだけの一般人、であるはずなのだが――そういってしまうには、どうにもおかしな逸話を数々持ち合わせている。
曰く、鬼の水浴びを覗き見し、森から吹き飛ばされて帰ってきたとか。曰く、天狗の遠見の鏡筒を奪おうと画策し(覗きのために)、谷から投げ飛ばされたとか。
他にも、襲い掛かってきた小妖(といっても熊ほどの大きさ)と相撲をとって友達になった、河童の皿を見たいといって湖に飛び込み、半刻ほど潜って戻ってこなかった――色々と眉唾物の話ばかりだが、幾度も妖怪の縄張りに忍び込み、生きて帰ってきたことは確かだ。
しかも、ある程度の怪我は、次の日には直してしまうほどに生命力が高いらしい(どちらが妖怪だといいたい)。それを聞きつけて、里の退治屋や祓師の者達が弟子とろうと画策したこともあったが……本人にはまるでその気はないようだ(実際、修行をしていないのにあの状態なのだ。修行したらどうなるのだろう)。
ちなみに妻帯。
奥さんであるおそとさんは外界からの幼馴染であり、良家の娘であったが、ほとんど駆け落ちのような形でここへと逃げ込んできたらしい。無茶ばかりする男を心配し、それを止めるために近くの道場へ通ったところ、師匠越えどころか流派の祖を完封できてしまうほどの実力を身に付けってしまった。
現在は夫を尻に引きながら里の道場で武術を指導する立場に立っている。どういう夫婦だ。
流石に滑稽すぎる話で里の記録書にも載せていないが……というか載せたくないお話である。
どうにも、馬鹿らしすぎる(ご馳走さまともいう)。
――にしても里の外……。
確かに、この男ならそういうことは適任だろう。
比較的、里の外にも詳しい方だし、上手く妖怪にも襲われないすべも身につけている。よしんば出会ってしまったとしても、そうそうやられてしまうこともない。
ただ――
「一体何のためにそんなものを?」
わざわざ里の外への届け物。
しかも、木材ということは、何かをそこに作るということだろう。呪い師や退治屋による妖怪対策のための何かだとしても、それなら私の方にも連絡がきてもいいはずだ。そんな危険な場所で何の作業をするというのか。
「いやぁ、それがね――」
男がその理由を告げた。
夏も半ばを過ぎた日。
少しずつ熱が薄れ始める――その前段のこと。
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四角く区切り、丁寧に均された地面。
その四隅に置かれた祭具に張られた注連縄。
そして、その真ん中に置かれている簡易的な神台。
「よし、こんなもんだろう」
そう一言呟いて、腰をあげた。
手に持っているのは、今さっき仕上げたばかりの儀礼符。それを、中にある神台を中心に、囲う注連縄や置かれた木材などに均等に貼り付けていく。
火難・水難・地鎮・風守……様々な意味の念が込められたそれは、簡略化されたものであり、それほどの効果を発揮するものではない――が、これは本当にお守りとしてのもの。
気休めであり、そう願っておくだけという程度。
――防ぐも治めるも己の行い次第。
その危なげを肝に銘じながら安心できるように考えて暮らす。そういう方が、本来の怠け癖のある自分にとっては丁度いい。
安全すぎては、いざを忘れる。
「これで最後、と」
一応の形式的な陣を組むように貼り付けた札。
このままちゃんとした形で組み立てれば、少し丈夫なぐらいでの加護となるだろう。
最後の確認として、懐から取り出した設計図を眺め、それがきちんとした状態であるかを確認しておく。慣れてはいても、油断してはいけない。木登りは降りるときの方が重要だというものだ。
――日々確認、日々平穏、と。
そんな爺臭いことを考えているところに、後ろから声がかかった。
「おう兄さんよ」
振り向くと、そこに立っていたのはわざわざ里の方から手伝いに来てくれた大工の棟梁。
その向こうには、追加の木材を運ぶ若い衆達が野太い声を上げているのが見える。
「ああ、どうも。おかげで思ったより手間取らなくて済みそうです」
「なあに、この前急ぎの仕事を手伝ってもらった礼だ。それより、本当にいいのかい?」
気風良くそういって鼻を鳴らしてみせる棟梁。そして、こちらの後ろを指差してその建設予定地である区切られた四角の方を指差した。
「ちゃんとした儀式なら里の呪い師や祓い師が知ってると思うが……」
心配そうにそういって、なんなら自分が紹介すると胸を叩いてみせる。かなりの高齢ながら、そのしゃんとした佇まいには頼りがいがあり、達者な口は多少悪くささるようなところがありながらも、それだけの気合に満ちていることを示している。
きっと、この人に任せれば失敗はない。
そう確信させてくれる姿だ。
けれど――
「いえ、大丈夫ですよ」
それをやんわりと断って、「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。「まあ、兄ちゃんが言うならそれでもいいがな」と棟梁もしぶしぶながらも納得してくれる。
本当に、責任感の強い人なのだろう。
――しかし、まあ……。
己は人とは違う。
そういう完璧さ、壁の厚さは必要がない。
だからこそ――
「――さて、残りの木材もとってこないといけませんね」
大工の若い衆達が運ぶ木材。それは自分が用意していた七割くらいのものだ。あとはまだ、里の作業場に預けっぱなしになっているのだろう。
今のうちにとってきて置いたほうがいい。
「ああ、でーじょぶだ。ちゃんと手配してある」
その言葉に、棟梁がよいっと腰を下しながら答えた。
流石に、気力は満ちていても身体は衰えている。ずっと立ちっぱなしというのもしんどいのだろう。
懐から取り出したきせるを片手に、火をいれ一服。堂には入った親方肌。
「――運び屋にでも頼みましたかい? 棟梁んところの若いのはほとんどこっちにいるみたいですけど……」
あの時見かけた若い衆のほとんどがこちらに来てしまっている。多分、少しぐらいは作業場の方にも残っているだろうが、それでは、とても手が足りない具合だろう。
大工場を空にするというのも考えづらい。
「いや、ちょっと待ち外れんとこの若いのに頼んでな――お前さん、あいつに拾われたんだろう?」
「ああ、あの人ですか」
里の外れに放り出された己を拾ってくれた恩人。
二刀に構えた鍬鋤使い、怖しい速さで畑を耕していく中年男の姿が浮かぶ……軽く小突かれただけのはずが、傷口が開きかけて大変だという程に重い。妙に力強すぎる御仁。
――天然で身体強化でもしてんですかねぇ……。
そんなことを考えさせるほどに。
そうでなければ――
「お、きたか……」
でなければ、今、里の方から向かってくるあの荷車のことを説明することができない。
ものすごい速度で土埃を上げ、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。あんな重さをあんな速さで……ただの人間がそれを筋力のみで行うなど考えられない――時折聞こえる「助けてー!」だとか、「いやー!」とかいう悲鳴のようなものは何だろうか。
よく見ると、山盛りに詰まれた木材の端に、何かが掴まっている。
――あれは……
小さな影。
子どもほどの体躯の――
「――稗田の!?」
今にも吹き飛ばされそうな状態で、必死に荷車にしがみついている。引いている男自体は走るのに夢中になっているようでその危ない様子に気づいていない。
しかし、あれは間違いがない。
――ちょっと、ありゃあ……。
とても超重量の存在だとは思えない速度で動くそれは、目的地に辿りつくと同時に――急停止。その上に積まれた荷は慣性に従って、縛り付けられた隙の分だけその身を揺らし……その上にしがみついていた搭乗者は当然。
「きゃあー!!」
そのままと飛んでいく。
放物状に高く上げ、真っ逆様と――急降下。
「――おいおいおい!?」
年甲斐もない大声を出しながら、その存在と地面の間へと滑り込む。
幸い、飛んだ方向は自分に近い。
ギリギリ間に合――
「おおっと! あぶねぇ」
そうやって手を伸ばした先に、それを引いてきたはずの男の姿。まるで猫を掴むような形で着物の先を掴み取り、片手でぶら下げて――いつの間にか、先にいた。
いったい、どうやって移動したというのか。
「すまねえすまねえ、お嬢さん!」
つい夢中になっちまってなあ!
そういってがっはっはと高らかに笑う。
それはさながら山賊の大将だ。
「……ぅぅ」
小さく呻く稗田のお嬢さん……心底怖かったのだろう。半分涙目になっている。
――無理もない。
助けに入ろうとした不恰好な体制で固まったまま、そう思った。
もう、意味がわからないなんてもんじゃない。訳がわからないというか、仰天してしまうというか……本当に人間か、とも疑いたくもなる。
いや、人のことはいえないのだが。笑い話にしても、荒唐無稽すぎる。
「がははは! いやぁーあぶねぇあぶねぇ!」
そのままの状態でからから笑う男の手からその小さな身体を受けとり、そっと地面に置いた。ふるふると、軽く震えているその頭に手を置いて「もう、大丈夫」だと慰める。
なんだか、小さな子どもに戻ってしまったような姿だが、あれはもう、大の大人でも軽く泣きを入れるくらいのものだった。心底、同情してしまう。
「――届けてもらってありがとうございます、でいいんですかね?」
「――いいんじゃねえ……か?」
少しの間、同じようにほうけたような表情をしていた棟梁は、何かから逃避するように無表情になって木材を確認し始めた。一瞬、静かになっていた周りの連中もすぐに元の喧騒を取り戻す。
――慣れっこ……なのか?
もはや扱いなれているといった感じの様子に、色々なものが頭の中をごちゃごちゃと錯綜し……なんかもう、どうでも良くなって息を吐いた。
――やっぱり、こういう人種は苦手だ。
改めてそう思い直し。
改めてそう想い起こし。
――自分の苦手分野を知るのもまあ、いい経験ですね・・・。
そんなこと考えて無理やり納得した。
うんと小さく頷いて、空を見上げる。
「……」
雲ひとつない良い天気だ。
中々に、幸先のいい。吉日となってくれるだろう。
そういうことに、しておこう。
「さてさて」
許しと安寧を得るための準備。
関わる皆々不幸に見舞われぬように願う。
明日のために、今日は騒ぐだけ。
それだけだ。
……。
ちなみに。
あとで、炊き出しの応援にきた奥さんがその話を聞いて、男を三,四度投げ飛ばし、優しげな笑顔で反省させていた。
いい夫婦だな、と思った。
____________________________________
手を叩き合わせる。
深く頭を垂れる。
決まり通りに繰り返し、明日から安全を祈願する。
神に祈り、仏に祈り……それぞれの信仰するものへと願う。
基本的な所作は一般と同じ。
当たり前の人間がすることと変わらない。
ただ――
「さてさて皆さん……」
それを終えると同時に、その主が手を叩いて全員の注目を集めた。
掲げた右手にあるのは、朱に染められた祝いの大盃。
「それじゃあ、明日への活力と幸運のために」
全員の手にある器。
注がれた透明の液体と今か今かと爆発を待つ気配。
「乾杯!」
その言葉と共に――
「かんぱーい!!」
当たりは一気に喧騒で満ちる。
「よっしゃ呑むぞー!」
「なんだこの料理は!? 誰が作った!」
「うめえ! うめえぞこの酒」
「馬鹿やろう……瓶じゃたりねぇ!樽ごともってこい!」
「んふふ」
普段の鬱憤。
久しぶりの大仕事。
とりあえず騒ぎたい。
酒。
この無礼講の席で、もう何が目的なのかもわからないような騒ぎへと一気に加速する……・この里の人々にとっては、よくあることだ。みんな、騒ぐことに飢えている。
『宴会は幻想郷の花だ』『祝いの酒は血と流る』『呑んで騒いで死ぬなら本望』なんて誰かの言葉が歴代の手記に残っているくらいである。
――しかし……。
「さてさて、それじゃ、余興といきますか」
そんなことを話しながら、火の玉やら光の弾などを空中に飛ばして、花の形を描き、何本もの木の棒を投げ、地面につけないままに空中で掴み取り続け、空へと投げた空樽の中へと石を投げ入れ、それを空中に浮かせ続ける。
そんな新入りは私の長い記録の中でも初めてのことで――あると思う(少し自信はないが)。
――これでいいんでしょうか。
一応、男がここに新居を立てるための起工式。
土地を鎮め、作業の無事を祈るための地鎮祭……・のようなものだったはずである。
けれど、これではただの宴会と変わりない。
――愉しい、けど……。
「がはは! 見てろよー!」
「あなた、調子にのらないの……」
いつの間にか芸事を振るう者が変わり、酒樽を一気にいくつ持てるかなどの競争になっていた。何十もの樽を重ねもち、それを溢しそうになったところで奥さんの制止(いささか暴力的なもの)が入り、地面に埋まった誰かさんを見て皆が笑っている。
向こうの方では酒の呑み比べが始まって死屍累々……あの勝ち名乗りを上げているのは誰だろうか。背丈は低く、今の私と同じほどしかないのに、まるで水か何かのように酒を呑み干している。あのでっかい髪飾りは何だろう……角のような形をしているが。
「――どうですか。楽しんでますか?」
そうやって辺りを観察していたところに、先ほどまで余興と称した人間離れを披露していた男が隣へとやってきていた。その手には小さな瓶と二人分の盃。
「ええ、ちょっと気後れしてしまいますが」
「まあ、少しでも楽しめてるなら結構ですよ……さっきのあれの分もね」
男は軽く苦笑いをしながら、やっと地面から這い出したところの元凶を指差す……さらした醜態を思い出し、思わず頬が染めてしまうが、忘れたくても忘れられない自分の力を思い――どうにかこうにかそれを呑みこんだ。
男は同情したように「しょうがないですよ」と笑って慰めてくれる。
――ああもう・・・・・。
穴があったら入りたい気分だ。
あとで奥さんにもっと叱ってもらっておこう(里の記録から罪業をひっぱってきて)。
そんな腹黒いことも浮かんでしまう。
「――にしても、皆さんお元気ですねぇ」
よっこいしょ、と年寄り染みた声を出しながら、男が隣へと座った。
愉しそうに辺りを眺めながら、こちらに杯を渡す。
「――良かったんですか?」
一応、これは男の新居のための祈りの行事だ。
これから先のためにも、なるべくきちんとしたものの方が良いだろう。そういうものが、後々と響いていくのがこの土地の柄というものである。
――これでは、あんまりに……。
効果がなさそうだ。
そういうと男は「あんまりきちんとしたものじゃないほうがいいんですよ」と意味あり気に笑って答えた。
――どういうこと?
そう思って眉を顰めると、男は近くの森を指差した……ちらりとあの酒豪の少女の方を見た気もするのは、気のせいだろうか。
「あの森、知ってますか?」
それには触れないまま、男は続ける。
「あの……人が狂うという森ですか?」
男が指差した先。
多少、霧か靄のようなもので覆われて先が見えにくくなっているその奥は、里の者は当然、妖怪ですらあまり立ち寄らないという未踏の森だ。
入り口付近で茸を採っている者達の噂よれば、奥に進めば進むほど、わけのわからない怨霊や化生の声によって気を狂わされ、まともな状態では戻ってこれなくなってしまうという。
長居してはいけない。入り込みすぎてもいけない。過ぎてしまえば――戻ってこれない。
そういう場所だ。
――そうだ。そもそも何でこんなところに家を……。
ぎりぎりその範囲から外れているとはいえ、その付近に家を建てるというその考えがよくわからない。いくら妖怪に襲われる危険が少ないとはいえ、他の恐怖にさらされる可能性が極めて高いのだ。
――それを知っていて、なぜわざわざこんなところに。
首を傾げてしまう行い。
その疑問に対して、男は軽く――脳天気に返答する。
「面白そうじゃないですか」
ゆるい調子で放たれた言葉。
その言葉に――頭を抱えてしまう。
――面白そう、って……。
「そんな理由で……」
「ま、色々研究用とか個人的な事情とかもあるんですがね」
少々怒鳴り声でも上げようとしたところにすっと差し込まれた言葉に、思わず口どもる。男は笑ってそれを流し、手に持っていた杯の片方を差し出した。
「まあ、変わり者にはこういうのが丁度良いでしょう」
形のみより心を愉しませて、ね。
そういって差し出された瓶。
その口からは、甘い果実の香り。
――……。
受け取った杯とわずかな酒香。
少しだけ残った昔の記憶。
『昔から酒には弱くて』
月明かりの下そういった自分。
果実を混ぜ度数の低いた酒をちびちびと呑みながらの談笑。
「なあに……忘れられないなら、愉しい方を多くすりゃ良いんですよ。それなら、度数もずっと低くなる」
ってことで。
注がれる酒にくすりと笑い、「ああ、そうだった」と小さく呟いた。不思議そうに首を傾げた男へと杯を向け、互いの器を向けあって――。
「歓迎します。ようこそ幻想郷へ」
「――ありがとう」
この人は、最初からそうだった。
出会ったときから変わりない。
「乾杯」
きんと鳴る。
そうして、傾けた器から落ちる雫は、甘く懐かしい味がした。今日は、少しぐらい酔ってもしまっても良いかもしれない。
そんな、やんわりとした気分。
――まったく、
今日は、似合いの場所に似合いの男が入った。
そんな祝いの席である。
季節外れながら夏の日のこと。
縁によって祝いとする――といった感じの閑話気味。
思ったより早く修正できそうなので、もう一つ短めの話の後、三つほど早めに連続更新するかもしれません。
読了ありがとうございました。
※一言コメント下さった方もありがとうございます。参考になりました。