東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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始まりの名を問う

 畑仕事の後に食うのがまた美味いんだ、とほんの少しだけ前のこと、生きた記憶からすれば、ほとんどさっきといっても変わらない感覚の過去を懐かしく思い出す。

 

――ああでも、やっぱり野菜がないのは残念だな。

 

 畑で採れる新鮮な野菜に、皆で持ち寄った山菜の類。

 時にはそこに酒を交え、時にはそこに四季折々の旬果を加え、労働の苦を癒そうと愉しんだ。

 そういう楽しみが、村人にとっての娯楽だった。

 

――単純に楽しいってのは、ああいうのを言いんだろう。

 

 日々追われ、日々苦難。

 やることは尽きず、手を抜く暇もなく。

 それでも、考える必要もなく、笑いあう日常を続けていた。

 間もなく、日常の幸せだった。

 

 

 一つの形だった。

 

 

 

 

________________________________________

 

 

 

 

「――八重の雲に紫の色、か」

「ええ、それが私の名前……字は、嗜むのね」

「年の功ですよ。長年生きてますから」

 

 定型として使い慣れた言葉。

 確かに今の時代、日々の生活に追われているものにとっては、字を読み書きなど必要もない道楽の一種でさえある。それを使うのは、もっぱら支配階級の者達、貴族や豪族といった力ある者達が教養として身に着けているもの。

 何故そんなものをこのような一介の老人か知っているかといえば、やはり、長く生きているから。そういうことに手を伸ばすだけの時間が、多少なりともあったから、というのが理由になる。

 まあ、つまりは年寄りの道楽の一種、ということだが。

 

「本当に信じられないわね。そんな生きているというふうには、まったく見えないのだけれど」

 

 そういいながら、少女は丸い小さな陶磁を傾け、その中身を口にする。半透明の少し濁りのあるその液体は、あまり良くない見た目に比べ、味は透き通るようにすっきりとしていて、案外呑みやすい。湯気の漂う出来立てのうちならば、使用した野草の香ばしい匂いもして、いい具合に落ち着きをもたらすという作用もある。

 話し合いの場にとっては丁度いいつまみである。時間潰しにも。

 

―――さて、もうすぐだな。

 

 予定の時間を考えながら、自分の分の器を傾け、同じ液体を口にする……なかなか良い出来である。この辺りの野草に質がいいゆえであろう。

 これは期待が持てる。

 

「気持ちを若く持つのが長生きの秘訣ってもんです……ふむ。それにしても、この器がなかなかいい感じのものだ。どの辺りの?」

「あら、お目が高いわね。これは、大陸の方から流れてきたもの、まだまだ、向こうでも一般には出回っていない珍品よ」

 

 借りた椀の持ち主は、そう答えた。なるほど、確かにこの島国では見ない造りである。

 なかなかに面白い造りをしている。

 

「――少し大きめだが、飲み物に使うとしたら、もうちょっと小さめのものでも……しかし、この材質は……」

 

 粘土――固まる前に型を造り、それに高温で焼きを入れるという感じだろうか。色づけなどはどうしているのだろう。熱と共に色を変え、素材に定着する鉱物か何かを加工して使っているのか。熱入れによる具合の調整か。それは自分でもできるものだろうか。

 その器の材質を考えながら、その製造工程を想像する。その歴史と発展を夢想する――そうやって、色々と考えてしまうのは、やはり、年寄りゆえの性なのだろうか。

 この先の可能性がありそうな原初の事物。ずっと発展していきそうな新技法というものに目を奪われ、その先に続く流れというものを観てみたい。

 そう思ってしまう。

 古いものに親しんでいるからこそ、伝統に馴染んでいるからこそ、新しい発想というものに触れることを望む。技術の進歩というものは、いつだって面白い。若者が試行錯誤していくというのは、見ていて飽きない。

 そんな道楽者が心中に根深く、居を構えている。

 

――こういうのは、爺臭いというのか、子供っぽいというのか。

 

 どうにも笑ってしまう。これでよく失敗するのだ。

 その証拠に、向かい側にあるのは、不思議そうな表情で眉を顰める少女の姿。

 放って置かれて、首を傾げている話の相手。

 

「――ああ、すいませんね」

 ぼうっとしてました。

 

 誤魔化すように頭を下げながら、集めておいた木の枝を焚き火にくべる。

 目の前に会話相手がいるというのに、考え込んでしまうのは己の悪い癖だ。 そういうことを理解してくれている相手に慣れすぎて、他と会話するということを忘れてしまっている。

 

――このご時勢、全く知らない相手に出会うことすら珍しいとはいえ……。

 

 どうにも、失礼である。

 情けない。

 

「お代わり、いかがです?」

「いただくわ」

 

 照れ隠しのそう促して、すぐに答えは変える。

 差し出された空の器を受け取って、火にかけていた鍋から一掬いを注ぎ込んだ。

 少女は、湯気が溢れるそれを少々持ちづらそうに受け取って、「確かに少し持ちづらいかしらね」と呟いた。

 少々、声に出してしまっていたらしい。 

 

「――でも、本当に美味しいわ」

 

 息を吹きかけ、少々冷ましたそれを、こくりと呑みこんで、少女は微笑む。

 嘘ではない。「私は世辞などいっていない」という感情を込めて、少女はそう言っている。

 

 それは、嬉しいことだ。

 

「――滋養もある。これも長年の研究の成果ですかね」

 結構な自信作だ、と胸を張る。

 親しい者以外に褒めてもらうのは嬉しいものだと頬が綻ぶ。

 

――時間をかけた甲斐がある。

 

 この野草の煎じ汁は長年の間、食料用の草木の組み合わせを試行錯誤し、苦難に苦労と不評を重ね、やっと美味くて健康にもいいというものが出来上がった。数々の人の舌を困らせた犠牲の上に完成した成果だ――その分少々材料が手に入りづらくなったが、この森に上手い具合に自生していてくれた。先程盗賊に教えた薬草もその一つ。

 豊かな森にだけ、少量自生するものであったのだが、なかなかの幸運だったのである。

 ご機嫌取りにも叶ったようだ。

 

「……と、そろそろか」

 

 加えてもう一つ。

 パチパチと燃え盛る焚き火の音、その前へと突き立てた木の棒に手を伸ばす。

 中心に刺さっているのは先ほど採った魚。

 いい具合に火が通り、魚の焼けた独特の香りを漂わせて食欲をそそるもの。

 

――そのために、わざわざ川辺に移動したんだ。

 

 夕暮れの涼しいうち、まだ魚達が活発なうちを狙っての狩猟。

 少々、危ない時間ではあったが、上手い具合に数匹捕らえることができた。七匹というのは、二人で食べる分には十分以上な量であろう。

 

――うむ、丁度良い。

 

 少し齧り、うんと頷いた。

 いい具合である。

 

「――どうぞ」

 

 他に焼いていた分を焚き火から離し、焦げてしまわないようにしてから、一本を少女に手渡す。

 

「ありがとう」

 

 そういって少女がそれを受け取り、少々疑うようにこちらを見つめてから、同じようにその腹の部分辺りを上品に齧りとった。上手い具合に焦げつき、茶褐色にこんがりと焼けたそれに……少女は「美味しい」と驚いたように目を瞬かせる。

 

「でしょう――やっぱり、この香草と魚の組み合わせは良縁だ」

 

 うんうんと、相槌を打ちながら、丸底の小さな土器から湯気を出す液体を掬う。

 息を吹きかけて少し冷ましてから、喉に通す。

 

――うん、やっぱり魚とはこの組み合わせだな。

 

 魚の微かな生臭さを香草が美味く消して、食がどんどんと進む。

 これで、もう一つ……酒でも加われば、もっと最高なのだが、まあ贅沢はいわないのが花である。惜しくはあるが、仕方がない。

 このままでも、十分に満足できるものだ。

 

 その証拠に――

 

「もう一匹もらっていいかしら」

「いいですよ。ニ匹ほどは保存食にするから、おいといて」

 

 すでに一匹食べ終えた少女が、その手を伸ばしている。

 随分と気に入ってくれたらしい。

 

――こりゃあ鼻高々、ですね。

 

 分けておいた分二つを少女の方に差し出し、焚き火に枝を追加する。

 ほくほくと魚を齧り、薬草汁を飲み干す少女を見つめ、「気に入ってもらえて何よりだ」と笑って言うと、「ふふふ」となぜか妙な笑いを返された。

 

「……?」

 

 可笑しそうに。

 何か変なものでも見たようなおかしな笑みを浮かべて、少女は薬草汁を啜る。

 それは妙な感じなものではあるが、邪気は感じない。

 

――ふむ……。

 

 良くはわからない。

 けれど、どこか値踏みするようなその瞳は、その姿らしからぬ長く生きた存在特有の深さを湛えて、こちらを写している――己と同じよう。同じ様で、全く違う何かを抱えて、そこにある。

 

――……。

 

 お互い、違う世界を抱えている。

 交わしたのは、まだ些細な言葉のみ。その外交で何がわかったわけでもない。

 精々、互いに長い時間の流れを過ぎてきた歴史を持っていることを感じただけ。そういう存在だと、僅かな既視感を感じたのみ。

 まだ、その真贋すらも見極められていない。

 

 探り合うのは、これからだ。

 

 けれど―― 

 

「……呑み終わったら、器は渡して下さい」

 

 今は軽い調子で、そういっておく。

 

――とりあえず、準備がすんでから。

 

 まだ、食事を食べ終わっていない。

 まだ、明日の準備が残っている。

 

 それを終わらせてから、それからに回すべき事柄だ。

 だから、残りの魚に手を伸ばす。

 

――話す(たたかう)にしても、誤魔化す(にげる)にしても……。

 

 腹が減っては戦はできぬ。逃げるにしても体力がいる。明日の身の上も心配だ。

 だから、ここは動かず。

 

「さてさて――」

 

 残った魚を焼き上げる。

 煙に翳して、燻しあげていく。

 時間をかけて、じっくりと――

 

 

――ゆっくりと一息入れてから、といきましょう。

 

 今は、食事の時間。

 後片付けまで済ましてからが、ご馳走様というものだ。

 

 

 

 

 

 

 そんな時間が、先ほどまでのこと。

 そんな感じが、先ほどまでのこと。

 

 

 

 

 そのある意味ほのぼのとした食事風景は、先ほどまで盗賊と戦闘していた場所のすぐ近く。しばらく進んだ場所に流れていた小さな川の傍で行われていた。

 魚を捕まえて、焚き木と野草を集め、持ち合わせていた土の鍋に川の水を掬い、薬草汁をつくった。それは全て自分が行ったものである。

 この八雲紫という少女は、何処からか、この陶磁の器を取り出して渡してくれただけで、他には何もしていない。

 

―――ま、誘ったのはこっちだし……。

 

 文句はない。文句はないのだが、少々釈然としないものもある。

 いや、こちらが勝手にやったことなのだが。

 なんだかなぁという気分でもある。その辺りは、少し割り切れない。

 洗い物も自分であった。

 

「――随分、慣れているのね」

 

 それを知って知らずか、のんびりと息をつきながら、少女は笑う。。

 可笑しそうに笑う。

 

「何です?」

 

 首を傾げながら尋ねると、こちらの隣。旅支度である荷袋を指すように目線で示された。

 その上に乗っているのは、大き目の葉っぱに香草と纏めるようにして包んだ燻製の魚。

 明日の食事にしようと、荷物にまとめておいたもの。

 

「ああ、これですか。村じゃあよく弁当にしてましたからね」

 

 妙な気恥ずかしさを感じ、かかかっと笑って誤魔化しながら答える。

 確かに、わざわざここまでして旅の食事を準備するというのは、少し変わったことだろう。そんな時間をかけるなら、その分目的地への歩みを早く進めておいたほうがいい。

 そういうのが普通の旅人というものだ。

 

――目的地までの最短をなるべく早く安全に、余計な手間をかけての失敗を防ぐ。 

 

 この時代、人が住まう場所以外に何が潜んでいるかすらわからない。遠出も旅行も命がけである。

 その日程をなるべく短くしようとするのは、当たり前のこと。

 

――しかし、ね……。

 

 それは目的あってこそのもの。辿りつくべき目的地があってこその最短路である。

 けれど、今の自分、漂泊の身である己にはその目的地がない。何も決めぬまま、木の枝が倒れた方向に進んできただけのことで、ちゃんとした指針があるわけではないのだ。

 だからこそ、その場その場で楽しみを見つける。

 心の士気を下げぬよう、こんな弁当を用意してみたりする。

 これも一種の旅の工夫なのだ。

 

「――村、ね」

 

 そんな言い訳を利かせた食道楽を決め込んでいるうちに、少女はその攻めどころに刺しこめるように、様々な考えを巡らしていたのだろう。

 けたけたと呑気に笑っているうちに、一つの言葉を鍵として徐々に話が進められていく。

 こちらの情報が明かされていく。

 

「あなたは人間の共同体にいたのね」

 

 彼女は笑う。

 怪しき笑みを湛えて、言葉の隙間に入り込む。

 

「共同体、め……まあ、そうっちゃそうですが」

 

 その言い方に少々複雑な気持ちの笑みが浮かぶ。

 けれど、それもこちらの感情を乱すための手管だったのか。

 問いは間なく続く。

 

「あなたは見た目どおりの年齢じゃないのでしょう? そんな存在が、どうして人間の暮らす場所で暮らしていたのか――暮らせて(・・・・)いたのか。少し、気になるわね」

 

 するり、するりと。

 ゆるり、ゆるりと。

 

「さて……まあ、みんな良い人でしたからねぇ。こんな惚けかけの老人にだって、優しく接してくれた――若さの秘訣はなんてのを尋ねてくるのもいましたが、おおよそ平凡に暮らしていましたよ」

 

 にこりと答える言葉に

 

「あら、そうなの。それは大変いいことですわね。私も、その若さの秘訣を聞いてみたいわ。 ――まあ、でも、それ以上に色々と気になることもあるのだけれど」

 

 にこりと返る言葉。

 

 変わらず狸と狐。

 煙に巻きあい誤魔化し合い。

 

 けれど、実は押されているのはこちらである。

 

「――例えば?」

 

 なんとなくだが、会話の主導権を握られて、少々引き出しを開けられている。

 するりと、まるで何かの隙間に入り込むようにして、話を広げられている。

 

「そうね。例えば――」

 

 取り返せないことはない。

 すぐにでも状況を五分と五分にも引き戻すこともできるだろう。

 けれど、ここまで引っ張ったのは自分。

 話しの始めを遅らせたのは自分である。

 

 その負い目程度は、多分年上であるだろう己の矜持として、きちんと負わねばならない。

 

――それに……。

 

 彼女はそれを認めてくれたのだ。

 ならば、その褒め言葉の分だけ、語るのも良いだろう。

 

「あなたは、一体何者なのか……その答えを、聞いてみたいわね」

 

 そう思ってしまっている。

 思った時点で、負けてしまっている。

 

――仕方ない。

 

 浮かぶのは、なんとなくでの敗北宣言。

 

 葉っぱを失くして、化けの皮はずれていた。

 ずれていることすら、忘れていた。

 

 だからこその、失敗である。

 

 

 

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「ざっと、五十年くらいですかね。あそこにいたのは――その前の百年ほどは、色々そこらをぶらぶらしてた、と思います。ちょっとうろ覚えですがね」

 なにぶん昔なもので。

 

 そういって男が笑う。

 とてもそうは見えないけれど、何百年以上も生きているのだと語る。

 嘘をいっているようには見えない。

 

 が、信じることは難しい。

 人間の寿命は精々数十年……長くて、百にどれだけ近づけるかどうか。己が言うことではないかもしれないが、常識に従えば、普通の人間がそんなに長い命を持つはずがない。

 

 加えて

 

――不老の者が共同体の中に生きていた。

 

 それはおかしなことだ。

 

 特に、村落などという閉鎖的な小規模集落に、年月による変化を得ない不自然なものがいる。

 在るはずのないことが、おかしなことがそこに起こっている。

 それはなかなかにありえない。

 そんなことが発覚すれば、それだけで、異端は迫害の対象にもなりえるのだから。

 

――認められるはずがない。

 

 人為らず。

 人で非ず。

 

 弱いからこそ、脆弱な存在だからこそ、彼らは集団となって個を排除する。

 強きものを外して、己たちの分だけを守り抜こうとする。

 それは、独占されぬため。

 か弱い命を、失わぬための常套の手段だ。

 

「――そういう者たちの中で、それでも認められていた」

 

 自己を守るために、強固な壁を張る。

 壁の内に守られた世界を造る。

 それが共同体というもの。

 

「随分と、おかしな話ね」

 

 もし、それが許される可能性があるとすれば、それは支配する側の存在。

 民草を力や知識で征した為政者や弾圧者、高位に祭り上げられた神や精霊、外れた存在として置かれた呪者や仙人。

 道を越えた、極めた存在として、そこに君臨すること。受け入れざる得ないものとして、己の存在を確定する。

 そういうやり方もある。

 

 けれど――

 

「――まあ、そうですね」

 

 その男から、そんな強さは感じない。

 人から外れた別次元の匂いなど、少しも感じられないのだ。

 むしろ――

 

「随分と、変わり者ばかりの村だった」

 

 そこにいるのは、ただの人。何の変哲もない普通の人間である。

 そう考えた方が、しっくりくる。

 その程度の気配しか、感じない。

 

――ただ……。

 

 にこりと笑んだまま、男は言葉を続ける。

 その妙な落ち着き具合……揺れる様子を見せないその姿だけには違和感がある。

 

「上手いものを食べようと、皆で食べ物を持ち寄って色々な料理を試してみたり……どの薬草が一番魚の臭みを取るかなんてのを、実験してみたり……成果もあれば失敗もあった」

 

 想い出の中に浸る姿。

 当たり前の人間。そうであるはずなのに、何処か古臭い。

 若者の身体に老人の魂でも宿ってしまったかのような、妙な雰囲気をもって男の存在がある。

 理解できるのに、理解できない感覚が……

 

「そうやって、苦楽を共にしたから認められたと?」

「さて、ね」

 

 男は「どうですかね」と答えて笑う。

 真っ当な人間の気配のままに、人間とは思えない達観した表情で。

 

 まるで、幼子でも見るようかの目で、こちらを見つめている。

 それが少々癪に障る。

 

――この私を……。

 

 見下ろしている。

 いや、見上げた上で、微笑ましく見守っている。

 

 たかが、人間であるはずの存在が。

 

「もし、そんなことがありえたとしても――」

 

 だから、もう少し奥へと入り込むことにした。

 その笑みの出所……根となった部分に触れようと、言葉を伸ばすこととした。

 

 その自己を揺らがすように――

 

「その全員が、あなたより先に死んでしまう。 ――そんなものに、意味はないでしょう?」

 

 わざと、痛そうな部分に触れる。

 そういう場所にこそ、隙間は生まれる。

 

――そこにこそ、真実を覗き見ることができる。

 

 くすりと笑い、意地の悪い笑みが浮かぶ。

 趣味の良いこととはいえないことだが、己は妖怪。

 乱す側としての存在。

 

――その奥の……。

 

 平穏など望まない。

 もっと混沌として、乱れた心を望む。

 迷いや恐れを好む。

 

 暗がりを、好む。

 

 けれど――

 

 

「いや、そうでも……ない」

 

 男は笑う。

 懐かしさと、寂しさを含めた表情で笑う。

 

――……?

 

 揺れている。揺らいでいる。

 その感情の起伏が伝わってくるのに、何処か落ち着いている。

 そういう感情に、慣れている。

 

「楽しかったから、無駄じゃない」

 

 打ち寄せる波。

 水面は随分と激しく揺らいでいるというのに、その内には一定の流れがある。

 全ての呑み込み、一緒くたにしておいて、芯だけはぶれぬままに残っている。

 揺れる葉と揺れぬ大木。

 

 そんな印象を抱かせる。

 

「――がきんちょ共が五月蝿かったことやら、お隣さんと喧嘩したことやら」

 

 寂しそうで、悲しそうで。

 懐かしそうに、楽しそうに

 

 満足しているけれど、何処か足りていない。

 欲しくて、満足している。

 

「弁当が美味いと力が出るって、爺さんが喜んでたことだとか」

 

 何かを悟っているようで、何かを引きずったまま。

 笑っているけれど、泣いている様にも見える表情。

 

 人間臭く、人間らしくない。

 

「色々あったし、色々と――疲れることもいっぱいあった」

 皆が先にいった。 誰もがいなくなっていく。

 後悔ばかり。失敗ばかり。

 

 そんな隙間が覗き見える。

 そんな歪みが見て取れる。

 

「全部が全部幸せだったわけじゃない――それでも」

 

 男は目を瞑る。

 

 そこに映っているのは何なのだろうか。

 瞼の裏に映る記憶は――本当に幸せなものなのだろうか。

 

 私には理解できない。

 

 

「それでも――」

 

 

 長命な生き物に訪れる数々の別れ。

 人生に足る別離。

 

――孤高である事、孤独に慣れていること……

 

 それは、私達の生きる方法。

 私達は、そういうもの(・・・・・・)に価値を置かぬからこそ、崩れずにいられる。

 失い、忘れることに慣れているからこそ、そのままに生きていられる。

 

――それなのに……。

 

 短き人の一生。

 その一生を眺め続けながら、大切なものだと呑み込んで生きる。

 その場所に留まって、何度もその悲しみを繰り返す。

 

「楽しかったっていうことには、変わりない」

 

 そんなものを背負ったままで、なぜ笑えるのだろう。

 そんなものに囚われたままで、どうして笑っていられるのだろう。

 混沌と落ち着いている。

 乱雑に片付いている。

 

 矛盾を、そのままに抱えている。

 

「――そう」

 

 その姿。

 その形。

 

――これは、拾い物かしら……。

 

 気になったものが、気に入ったものへと変わった。

 面白そうだったものが、面白いものへと変わった。

 

 

 偶然に見つけたその珍品に興味がわいた。

 

 

「――まあ、独りでの食べる食事は寂しいものだってのが、理由でもありますがね」

 だから、今日は願ったり叶ったりだ。

 

 男は茶化すようにそういって笑う。

 その表情はひどく優しげなもの。

 

「ええ、美味しい食事をご馳走様。」

 

 浮かぶ笑み。

 それはもう、作り物ではない。

 本音しての笑い。

 

「こちらこそ、こんな老人の長話に付き合っていただき、ありがとう」

 

 大仰に頭を下げて、礼をいう。

 その姿にまた、互いに笑う。

 

――面白い。

 

 きっと、この人間は見ていて面白い。

 これからも様々に面白いことを見せてくれるだろう。

 

 そういう愉しみはとっておくべきものだ。

 

 

「――そういえば」

 

 

 くつくつと込み上げる感覚に微笑みながら、思い出す。

 聞くべきことを聞いていなかったと、やり直す。

 

 この先も関わるのだからと。

 

 

「まだ、聞いていなかったわね」

 

 教えておいて、交換していない。

 どうにも、私の方も少し惑っていたらしい。

 

――少し、食事を楽しみすぎたかしら。

 

 その空気に毒されていた。わざとなら、上手い調子である。

 確かに、長生きしているだけのことはある。

 

 そんなくすりと込み上げる笑いを噛み殺し、姿勢を正して真っ直ぐに男を見つめる。

 そして――

 

「私は八雲紫と申しますわ」

 

 引くつもりのなかった線。 

 繋ぐつもりなかった縁。

 

 それを紡ぎ直す。

 

「あなたのお名前は何というのかしら?」

 

 まずは、自己紹介から。

 振りだしからのやり直し。

 

 その言葉に。

 

 

「ああ」

 

 何かを思い出したように。

 何かを振り切るように男は一瞬目を瞑り、息を吐く。

 

 

 そして、にこりと笑ってその答えを――

 

 

 

 

「なんて名が似合いだと思いますか? ――八雲紫さん」

 

 

 問われた。

 

 

 あらためて、変わった男だと理解した。

 

 

 

 

 

 

________________________________________

 

 

 

 

 

 通り過ぎた風景を思う。過ぎ去った時間を想う。

 失い、崩れ、滅び、造り、直し、願い、

 誰かに殺されそうになったこともあった。

 誰かに恨まれたこともあった。

 苦しんで、悲しんで、

 表情を忘れた百年もあった。絶望に浸った百年もあった。

 狂い、壊れ、傷つき、泣き叫び、

 それでも、捨てられずに残ったもの。

 自分の芯として残るもの。

 

 

「楽しかったから、無駄じゃない」

 

 

 それは本心だ。

 どれだけ絶望しようとも、その楽しさは消えない。

 どれだけ過去のことでも、それはなかったことにはならない。

 少しでも、僅かにでも幸せがあった。

 

――けれど。

 

 寂しくないといえば、嘘になる。

 苦しくないといえば、偽となる。

 

 だからこそ

 

――今度は……。

 

 

「何て呼ばれることになるのやら」

 

 

 皆が眠る土。

 その隣の石ころに、今までの自分を刻み込み、置いてくる。

 そう終えて、埋めていく。

 

 次を目指して、過去を置く。

 

 

 

『――名前は?』

 

 

 

 その終わりと始まり。

 それは問うことから始める。

 

 

 そうすることに決めている。

 

 

 

 




改訂版。

書き直すたびに長くなっていますが、良くなっているのかどうか。
どちらにしても面白いと思っていただければ、これ幸いです。


感想や意見は辛口でも何でも参考にさせていただきます。
読了ありがとうございました。

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