「――やっと、出られた」
時間にしては、たった半日程度のことだが、体感的には妙に久しく感じられる葉を通さぬ日差し。片手を上げてそれを遮り、目を細めて――一応の迷い人卒業に、安堵の息を漏らす。
――といっても、条件付の仮釈放だが……まあ、これくらいですんだことを良し、とね。
不定期な労働の義務。
何やらと、姫さまの戯れか遊びか何かの一環のようにも思えるが……それくらいのものならば、さほどの負担になることもない。料理すること自体は嫌いではないし、舌の肥えた相手をどう満足するかを考えながらの調理など、腕を錆びつかせてしまっての物忘れ防止には丁度よいぐらいだ。
――最近は野戦料理ばっかりでしたしねぇ。
そこにあるだけのものに対して、臨機応変と対応する。
それが根無し草の風来人にとっては必要必須な能力であり、重要な技術であった――とはいえ、やはり、周到に準備を重ね、長い時間をかけての仕込みを終えておかねば手を出せない領域も存在する。
特に、その材料集めや必要物資の準備などは、先にやっておいて臨みたいというのが本音のところ。在り合わせのものでは、どうしても限界があるというのは当前である。
――じっくりとことことと考えることのできる時間……そういうのも、大切なもんですしね。
時間が足りない。考える暇がない。
そのために何かを諦めなければならないのは――とても、悲しいことだ。
妥協や譲歩。
それなりの折り合いをつけねばやっていけない人生なのだとしても、だからこそ。
――それに手が届くというなら、なおさらのことってね。
努力だけで足りるとわかっているのなら、そうしない方が損というものだ。時間だけは、有り余るほどにある自分……と連中である。
多少の待ち時間というのも苦ではない。
だからこそ、腕によりをかけるという愉しみもある。
――そういう機会が出来た、ってことにしときましょう。
他の利も自の利も、この歳になるとそれほど変わらない。上手い具合に暇つぶしの要素ができた、己はそういう考え方ができる老人である。
「なんて、ねぇ」
思いこめたら勝ちというもの。
なの、だが……。
「――やっと見つけたわ」
やっと抜けた竹林の外には、手間をかけさせやがってこの野郎という表情でこちらを見つめる紫の少女。疲れたような声は、その費やされた労力の分だけの苛立ちを詰め込む鬱憤の度合い。
――仕込みは万全、か・・・・・。
こちらに罪はなくとも理不尽に降りかかるのが災難というもの。
そしてそれは、なかなかの高確率で積み重なって押し寄せる。
七転八倒。泣きっ面に蜂。
転んだ先に逆さの尖った杖先が。歩いてもないのに棒が飛んできた。
そういうこともあるのが人生というものだ。長く生きれば、その分、ついつち不幸のほうが多いと思ってしまうもの――そういうことと、思い込む。
――さてさて……。
お次はどんな題目か。
その場しのぎの即興劇を披露する前に――嘆息を吐き出し、我が身を憂う。
そろそろ、のんびり一服したいものだと。
そんな本音を吞みこんだ。
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芳醇の夏の香。
濃い緑に覆われ、強い生命力に溢れた植物の匂いがそこら中に満ちていて、様々な虫たちが一斉に奏でる統一感のない合唱が、その大気の熱と共に、うっとうしいほどの自らの暑さを演出している。
生命に満ち溢れ、先の季節に向けての、めいめい精一杯の姿を主張する。
それが、この日長の季節であり、夏というもの――そのはずである。
けれど――
「――」
ここには、何の音色も届かない。
静寂に沈着した空気の中、時折通り抜ける風の声だけが空しげに鳴るのみである。
「――遅いわね」
何も、誰も傍にいない場所で、ほそりと小さく呟いた。
ほんの僅かなその声は、思う以上の質量をもって屋内に響き渡り――改めて、この世界の寂しさを知らせる。
――ああ、まだだろうか。
早く、早く来て欲しい。
ぽっかりとした胸のうちに描くのは、もはや、ただ一つしか残っていない像。それだけしか持っていない重きもの。
逸りてやまぬもの。
――もう、飽きてしまったのだろうか。
ほんの僅かな繋がり。
ただ一つしか残っていない連なり。
妖と人。化かす側と化かされる側。
騙す方と騙される方。
それなら、これまでの関わりもただの気紛れであったのだろうか。それなら、今までの想い出も全て偽りであったのだろうか。
向こうからは簡単に断ち切れてしまうもの。
こちらからは縋るしかない寄る辺。
ただの哀れみで、それにもう飽きてしまったのなら――それで終わってしまったのだろうか。
――なら、いっそ……。
終わらせてしまうのもいいかもしれない。
壊してしまうのもいいかもしれない。
これで終わり。それで最期。
――もう、嫌われることもなければ、殺してしまうこともない。
脳裏に浮かぶのは、季節外れに咲き誇る薄紅の灯り。
積み上げられたその■の香は芳しく己を誘う。
「……」
いつの間にか、自らの首筋へと指が伸びていた。
このやせ細りきった白い指では頼りないが、同じほどに弱りきる
多少の苦しみなど――厭うことはない。
――これで、やっと……。
あとは、力を込めるだけ。
それだけで終わ――
「待たせてしまったわね。ごめんなさい」
ふつりと、意識が飛んだ。
先ほどまでのことが、まるで靄でもかかったかのように曖昧になり、その時抱えていた気持ちがどんなものだったのかすら、よくわからなくなる。覚えているし、理解しているのに、それは別人の記憶を見ているような違和感しか感じられない。
唯一考えられるのは、それよりも――
「紫! 遅いじゃないの」
随分待ったのよ。
頬を膨らまし、怒った振りをしながらも込み上げる微笑に口角を上げる。
まるで、気分が反転してしまったかのような明るい感覚だ。
さっきまでのことなんて、もうどうでもいい。
「ごめんなさいね」
ちょっとお土産の準備にとまどっちゃってね。
ばつの悪そうに微笑みを浮かべながら、私の隣に腰を下ろす紫。
どこか申し訳なさそうな雰囲気を漂わせながらも、その瞳は優しげにこちらを見つめている。私を想っていてくることがわかる――それで十分だ。
十分に、私は報われている。
「お土産?」
私の親友。
たった一つの繋がり。
一緒にいても、■んでしまわない相手。
「ええ」
隣に座って、隣で笑って。
私と話して、私に触れて。
当たり前のことをしてくれる相手。
「何かしら?」
たんなる会話。
それだけで、冷えた身体が、何処か暖かくなるように感じる。
陽だまりを見つけたような、柔らかな気分になる。
「それはね……」
そういいながら、彼女は自分が通ってきた襖の方を指差した。
小首を傾げながらそちらを見ると、すっとそれが開く。
「どんな扱いなんだ……まったく」
そこにいたのは不満そうに顔を顰める男。
両手に抱えているのは、人数分の茶器がのった盆。
「お茶と……お茶請けはまだかしら」
「弁当代わりですかい」
はあ、と軽い溜め息をつきながらその盆を置く。
そして、こちらに向き直り、軽く頭を下げる。
「お邪魔してます――すいませんがいくつか器をお借りしました」
ちゃんと洗って片付けますんで。
そういってにこりと笑んだ後、くるりと振り向いて、再び襖の奥へと消えていく。
それを当然のように受け止めて、お茶を配る紫。
調度いい具合に冷まされた茶は、夏の暑さに渇いた喉には優しい具合だ。
――ええと……。
多少惑ってしまいながらもそれを受け取り、一口含む。
茶葉の類は確か切らしていたはずなので、あの男が持ってきたものなのだろうか――なかなかに美味しい。良いもの使っているというよりも、何処かこなれた柔らかな味がする。
――少し、懐かしいような。
そんな暖かみを持った味。
昔に味わった――
「あの人は、確か……」
何処かで会ったことがある。
呆気にとられていた状態で、ちゃんと確認は出来なかったが、確かに見覚えがあった。あれは、あの時の……初めて、出会った時の。
――いや、そんなことどうでもいい。
そんなことを考える必要はない。
それよりも危惧すべきことは――
『こっちに■いで……』
ぞっと、背筋が寒くなった。
今まで重ねてきた罪業が――今まで失わせてきたその数々が、肩へと圧し掛かる。脳裏に浮かぶ数重の情景に、息が乱れ、胸が苦しい。
――私、私は。
「紫、あの人を――」
まだ、その影響を受けていない。
まだ、私の力に障っていない。
それなら、間に合うかもしれない。
ハヤク――
『アナタモコチラヘ』
響く。
冷たく。暖かく。
怖く。優しげに。
苦しく。甘美な。
わけもわからず、誘われてしまう声。
花の香に、呑まれてしまう蝶の姿。
そんなものに、魅せられてしまう前に――
「はやく!」
狂ったように手を伸ばし、その細い肩へと掴みかかる。
弱りきった体を叱咤し、詰まる声を吐き出して、友人へと懇願する。
――これ以上、繰り返したくない。
誘っているのは、私なのか――あの桜なのか。
それは私のせいなのか――あれのせいなのか。
もうわからない。
ただ、怖い。
近くに寄って欲しくない。
――私の近くで■なないで欲しい。
ただ、それだけが頭の中に。
「大丈夫」
ふっと優しい声。
声とともに、触れる温かさ。
「大丈夫よ。幽々子」
私の肩を抱く誰か。
誰かを感じる温かさ。
「大丈夫……安心して」
ふわりと頭を撫でて、その体温を分け与えてくれる。
冷え切った身体に温もりが染みて、少しずつ呼吸が楽になる。
「でも……」
「あの人は、大丈夫」
背中に置かれたふわりと置かれた手。
とんとんと、心地よい間隔で響く感触が、気分を落ち着けてくれる。
「あれには、
だから、大丈夫。
そっと耳元に囁かれた言葉。
私は彼女を信じることができる。
私は彼女に縋ることができる。
だから、大丈夫。
――大丈夫……。
安心していいのだ。
だから、私は――
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「おや、お邪魔でしたかね」
調理場で作った茶の当てを持って部屋へと戻ると、そこには、優しげな表情で微笑む少女と、その膝に頭をのせて、安らかな寝息をたてる少女がいた。
その存在に安堵し、とても幸福そうな様子で……温かいものに満ちた顔をして、目を閉じている。
「……珍しい姿ですねぇ。八雲さん」
薄桃色に染まる少女の髪をふわりと撫でながら、同じように和らいだ表情を浮かべる少女――その光景は、今まで見たことがない。
いつも何処か暗さを背負い、後ろ手に何かを隠している。飄々と明るい表情を見せていながらも、僅かにきな臭さを感じさせる。
そんな、あまり信用ならないような印象しか持たせない妖怪としては、とても稀なもの。
純粋で、真っ直ぐな姿だ。
「――うるさいわねっ」
その膝の上の眠りを邪魔しないように声を抑えながらも、怒ったように語尾を荒げて応える紫。けれど、ふいと逸らした顔――その髪の隙間から見える頬や耳が僅かに赤く染まっていて、妙に子どもっぽく感じてしまう。
――ほんとに珍しい。
いつもは底なし沼のような判りづらさと底知れなさを発揮する少女の、その毒気は何処に行ってしまったのか。結構な長さの付き合いの中でも、ほとんど初めて見たような、随分とやわい姿である。
――面白い……。
むくむくと込み上げる悪心。
普段はからかえない相手を遊べそうな予感に……少し、
が――
「んん……」
紫の膝の上で、小さく呻く少女。
どうやら起こしてしまったのではないようだ。
ほっと、息をつく……その見守り役。
――そういう状況じゃあないですね、こりゃ。
優しい手に撫でられて、幸せそうな顔で眠りながらも――その姿は、燦々たるものだった。
「……」
骨が透けて見えるような薄い身体。
白さを通り過ぎて、もはや死人のように青白ささえ称える肌の色。
ただ、眠っているだけの姿のはずが、何処か生気のない亡霊のようなものを見ているような、際の際を通り過ぎてしまっているような、そんな気分になってしまう。
――あの時よりも……。
過去にこの場所で出会ったときの姿。
そのわずかな姿よりも、はっきりと悪化して、衰弱して――進行している。
――これは、もう……。
「大丈夫よ」
こちらの視線を読んだのか。
紫は、ぽつりといった。
力なく、力を込めて。
信じたいと、自らに言い聞かせるように。
「大丈夫……私が、何とかして見せる」
手に入れた大切なものを愛しそうに抱きしめて、その存在を全力で守ろうと。失えば自らを壊してしまうほどの気概を込めて、その場所を守りたいと。
願っている――その姿に。
「そうか……」
同じ時を歩めぬ友人。
異なる歩幅で離れていくしかない相手。
――それでも、失くしたくない。
人間と妖怪の関係。人と妖の友愛の絆。
そんな大仰な理屈はどうでもいいことで。
ただ、友だちと一緒にいたい。折角出来た友人だから、出来るだけ長い時間一緒にいたい。
そんな単純な、純粋な気持ち。
その真っ直ぐな感情はとても彼女らしくなく、それでいて、妖怪らしい。
そして、そのために手段を選ばずどんなものでも利用するというのはまた、人間味を滲ませて――彼女らしい。
「なるほどねぇ……」
だから、これはとても彼女らしい正直な行動なのだ。
目にしてみれば、天地がひっくり返ってしまうような驚きではあるが、驚くようなことではない。
「そこまでできてしまうこと、か」
目の前で頭をたれて、『手伝って欲しい』と願う姿。
自らの矜持も気にせずに、ただ純粋に手を伸ばしているその姿。
それは、彼女が全力でそれを望んでいるということ。
――そう頼まれたら、もう逃げられない。
友人としても、年長者としても――何よりも、自らの心情が許さない。誤魔化すことも、忘れて知らない振りをすることも出来ない。
どこまでも、印象深く心に刺さってしまった。
――外堀埋められちゃいましたねぇ。
もう、軽い調子ではいられない。
仮宿などと嘯いてはいられない。
そこから逃げるか。隣へ並ぶか。
決めなければならない。
――のんびり仕込みをしている暇はない。
望みを叶えるには、もう時間がないのだろう。
少女は、これからどんな手だって使うつもりだろう。
――何を失ってでも進まなければ、それは守れない。
たとえ、間に合ったのだとしても、それはほんの一握り しか残らないのだから、逡巡している暇はない。
――……・。
既にこちらは蜘蛛の巣に囚われている。
自らの弱みさえも曝して突き進む覚悟を持って進む相手。その手をとるならば、こちらも泥の底まで付き合う覚悟がいる。
そして、それは
だから、自分の中の天秤次第。
――ならば……。
「――何が、必要だ?」
『それを見たい』と望む自分がいる。
ならば、それに従おう。
____________________________________
「こんなとこにいましたか」
屋敷の入り口。
その石段へと腰を下ろし、少々ぼうっとしていた処に、男の声が響いた。
微かに聞き覚えのある声に、背を向けていた門を振り返る。
「御主は……」
そこにいたのは、あの時の――姫があの妖怪と知り合う切っ掛けとなった日に、見かけた顔だった。
「――紫殿の仕業か」
多分、今もこの門の向こうにいるのだろうあの変り種の妖怪の力を思い出す。
きっとあの妙な力によって、自分の目に触れぬままに、この男は屋敷の中へと誘われたのだ。
「ええ、ちょっと食事を作ってくれと頼まれまして」
人使いの荒いことです。
そういって苦笑して、門柱を背に空を見上げる。
眩しそうに目を細め、疲れたように息を吐き出す姿は……どこか寂れてしまった老人のようにも見えた。見た目の割に、ひどく老成しているようにも感じられた。
「――何か用か」
きっと、この男も妖怪か何かなのだろう。
自分もこのなり形からは考えられないほどに歳を食っている。
そう思えば、珍しいものではない。
「いえ、怪我されたって聞いたもんでね――あっちにいても邪魔になるだけですし、ついでの見舞いです」
お加減いかがですか、ととってつけたような軽い言葉でこちらを指差す。
その先にあるのは――包帯で固定された右の腕。骨が折れ、動かすことも侭ならぬ自らの腕だ。
「――無理をせねば痛むこともない」
もう片方の腕でそれに触れ、軽く息をつきながら答えた。
鈍く疼きながらも、それはしっかりとその存在を示しており、決して治らない傷ではない。ただ、その原因が――
「中てられた……そうですね」
低く呟くような声。
その経緯をおおよそ説明されているのだろう。
この重苦しい雰囲気は、前にあった時には感じなかったものだ。
――ああ、知っておるのか。
多分、紫殿が説明したのだろう。
それほどの信頼を得ている相手、ということだ。
ならば、話しても良いだろう。
「わしもまだまだ未熟者だったということだな……無駄に姫さまを傷つけてしまった」
自らの愚かさを――のろまな間抜け面を。
「姫さまの力に中てられて――自害しそうになるなど」
首元に僅かにのこった刀傷。
あの瞬間。
あの力に魅せられた瞬間に絶ちかけた己の命。
偶然居合わせた紫殿が、この腕をへし折ることでそれを止めてくれた。
「ほんに、愚か者だ」
――それを、姫さまは見ていたのだ。
半分は人間ではない自分を殺してしまうほどに、自らの力が高まっていることを知ってしまった。自らの近くにいる者を、身近な者までを殺してしまうほどなのだと、知ってしまった。
己が原因となって。
『私のせいで――』
呟こうとした言葉は、紫殿が使った何かしらの力によって遮られ、その記憶すらも遮断されてしまったはずらしい――が、確かに、姫様の心には傷がある。
己の者よりももっと深く、鈍い痛みを持つ傷が、身に覚えもないままに姫の首を締めつけている。罪悪から逃れられずにいる。
「もっとはやくに、離れるべきだった」
引き際を見誤った。力を過信した。
そのせいで、傷つけてしまった。
――死んで詫びることすらもできん。
そうすれば、さらに苦しめるだけ。
だから、どうしようもない無念さを抱えながらも、ここにいる。
これ以上誰も主君を傷つけぬようにと、門を塞いでいる。
その程度のことしか、できていない。
――腕の痛みなど、感じるわけもない。
ただ、何もできないことが歯痒いだけだ。
自嘲の笑いを浮かべ、もはや踏み込むことすらできぬ屋敷を振り返る。動かない腕も――刀を振るう先の見つからない自分にとっては、丁度良いのかもしれない。
己の情けなさに拳を握り締める。
落ちるのは、暗い沈黙
そこへ――
「――くくっ」
微かな笑い声が響く。
楽しそうな、うれしそうな声が――
「想われてますねぇ」
視線を向けると、なぜだか満足そうな顔で、男は笑んでいる。
それを聞いて安心したというように。
それが聞きたかったのだというように。
「――?」
ふざけた調子ではない。
いたって真面目な雰囲気で男は笑っている。
その意図は、わからない。
「ああ、すいません」
こちらの戸惑っている様子に気づいたのか。
男は困ったように笑みを変えた。
「これだけ想っている人たちがいるんだ。こりゃあ手を抜くわけにはいかないって思いましてね」
いやいや、重たいもんです。
意味はわからない。
けれど
愉しそうに、嬉しそうに笑っている。
どうにも、堪えきれないというように。
身体を震わせ、頭を抱えるようにして。
――一体……?
元々、人の機微に鋭い方ではない。
どういうことなのかはわからない。
けれど、男がとても喜んでいるということだけはわかる。
「――一体なんなんだ……」
わけがわからん。
以前のことといい、今の状況といい、どうにも掴めない。真剣に悩んでいたはずの思考が、どこへやらと吹き飛ばされて、ぽかんと口を開けてしまう感覚だ。
大馬鹿になった気分である。
――流石は紫殿の友人ということか……。
その飄々とした雰囲気には共通点がある。
浮世離れというか――別の世界を生きているというような、同じような存在であるはずの己よりも、ずっと遠くにいる感覚がする。
――遥か高みから見下ろしているのか……それとも、見上げているのか。
人で遊んでいるようにも、人を羨ましがっているようにも見える。
その隣にいたいと――いられないと知っている。
その隙間から、覗けるものは――
「御主は――」
「本当に面白いってことですよ」
いいかけた所で、男が口を開いた。
何を言おうとしていたかはわからない。感じたことをそのまま喋ろうとしていただけだ。
けれど、それは――
「――ねえ、そう思いませんか? そこのひと」
自分にかけられたのではない。
男の目線は先ほど見ていた何もない中空。
「――なるほど、わかっていたのか」
ぞくりと――背筋が震えた。
――なん……?
増していく圧力。
視線の先で、ずるりと空気が揺れて、何かがはみ出した。歪まされていた景色が元の姿を取り戻し、隠れていた存在が顕わとなった。
そこになかったものが、あることに気づいた。
「紫様のいう通り、確かにただの人間ではないようだな」
現れるのは、光を浴びて黄色く輝く髪に、特徴的な帽子。その背に見えるのは、その存在がいかに力を持つかを示している九本の尾。
時折、あの妖怪と共に見かけていた従者――式である九尾の狐。
――なぜ……?
その突然の出現に疑問の念が浮かぶ。
まるで、仇敵に相対しているような剣呑な雰囲気で、一歩間違えばこちらに襲い掛かってきそうなほどの鋭き眼光を向けて――思わず、刀を握り締めてしまう。
どうしたというのか、その姿からは敵意しか感じられない。
「――ちっと目端が利くだけですよ。長く生きてるもので」
それを飄々と受け止めながら、男はゆるく答えた。
消し飛ばされてしまうような圧力をかけられながらも、平然とそれに対す。
何処までも、変わらぬままに。
「たかが人間が……よくいう」
「ええ、たかが人間ですので、そんな警戒も必要ありませんよ」
もっとぞんざいに扱ってやってください。
からからと笑う。
力みも焦りもしていない平静の姿。
九尾は、それをしばらく睨みつけ――
「――本当に、聞いていた通りか」
その変わらない様子に毒気を抜かれたのか。
「はあ」と一息嘆息し、力の抜けた表情でそっぽを向いた。
どうやら試しか何かであったらしい。先ほどの指すような気配の一気に霧散してしまったのがわかる。
己の警戒していた身体も、ふっと力が抜けてしまった。
「どう聞いていたかは知りませんが、ね」
この通りの性格です。
そうやって散った空気。
その中で、にこりと緩く微笑みながら、「宜しくお願いします」と軽く頭を下げる男。
張り詰めていた空気が完全にしらけて、何処か胡乱なものに変わってしまう。真剣さ、真面目さも、すっぽりくるまれ――馬鹿らしく感じてしまう。
――またか。
どうにも、気が抜ける。
飄々と雲のような男だと思っていれば、妙に老成した雰囲気を放ち……自分でも分からなかったような隠遁の術に気づく鋭さを見せたかと思えば、からからとふざけた調子で笑ってばかり――そのせいで、どうにもまともな雰囲気が続けられない。
この自分よりも、かなり長く生きているはずの九尾の狐にとってもそれは同じだったらしい。
「どうにも掴めんな、人間風情――一体何を考えている」
「何も。やりたいことをやっている、というだけです」
その場その場と、しのぎを削ってね。
わけのわからない言葉を、男は費やす。
軽い調子で煙に撒いて、どんな相手も飄々とした態度で丸め込む。これがこの男の生き方で、処世術なのだろうか。
深くも軽くもなく、底でも抜けてしまっているようなのが、男の本性なのか。
――しかし、先ほどまでの態度は……。
「紫様が呼んでいる」
その態度に業を煮やしたのか。
疲れたように頭を抱えながら、端的にそう告げた。
どうやら、ただの使いであったらしい――これほどの大妖をそんなことで使うとは、この者もあの妖怪の下で、さぞや苦労をしているのだろう。
「ああ、茶菓子の追加ですかね」
次はどうしますか。
男はそんなことを呟きながら、口元に手を当てる。
やはり、その様子からは、いつか見たような力ある者の雰囲気は感じられない。
ただの、人間だ。
「――貴様を信用したわけではない。紫様の害になるとすれば、容赦なく切り捨てる」
そのまま屋敷の中へと戻っていこうとするその背に向けての警告。
それに向けて――
「ああ、そうですね」
ふっと、何かが変わる。
「断ったら二人掛りで無理やりにでも協力させてた、ってぐらいの真剣なものに……生半可かにゃあ答えない」
背を向けたままの、らしくない声音。
八雲の式が、一瞬息を呑んだのがわかった。
己も同じ。
「――ああ、ついでに侍さんの分と狐さんの分も何か作っときますんで」
よかったらどうぞ。
振り返る顔は、先ほどと同じ緩い笑み。
毒気を抜かれて、力が抜けるもの。
「……」
わけがわからない。
わからないからこそ、計れない。
「――藍だ。紫様の式神、八雲藍」
「――覚えときます」
ふんっと鼻を鳴らして飛んでいく九尾。
それを見送った後、男が振り向いた。
「どうします?中に入るのが嫌なら、こっちに持ってきますが」
相変わらずの緩い会話。
ぶれない様子に、妙に感心してしまう――悪意はないのだと、何となくと理解してしまった。
「――ああ」
多分、それが男の面なのだ。
姫さまや八雲と同じ――外れた者として生きるための。
「馳走になろう」
その気持ちがわかるのなら、きっと大丈夫だろう。
姫さまの隣にいてくれる。
己にはできぬその温かさを与えてくれる。
――同類だからこそ。
その苦しみを分け合ってくれる。
他力本願でも――自分にはできないのだから。
――願うしかない、か。
情けない。
「――ああ、そういや骨折にもよく効く薬があるんですよ」
知り合いの薬師に貰いましてね。
そういって懐から一風変わった入れ物を取り出し、こちらに投げる。
急なそれを、どうにか無事な方の腕で受け止めると、そこにあったのは丸い容器。中身は塗り薬のようなだが、その器の今まで感じたことのないような触り心地だ。
見たことも聞いたこともないような言葉がそこに書き込まれているが――まあ、信用はできるのだろう。
「姫さんのためにも、ここに変なもんが近寄るのはよくないですからね」
頼りにしてますよ。
そういって片手を上げて、背を向ける。
格好つけているようで、何やら料理法をぶつぶつと呟いているさまは、妙におかしなものだ。
――真面目に考えるのが……馬鹿馬鹿しくなる。
力が抜ける。
余計なことを考えなくなる。
そして――
「――やれることをやっておけ、か」
そんなものを聞き取った。
勝手に、そんな言葉だと理解した。
「任せておけ」
それだけしかできないのなら、全力で――それをするだけ。
その方が、不器用な自分らしい。
「そのためにも、上手い飯をくっておかねばな」
冗談めかして――久しぶりに笑って、そういった。
相変わらず重く感じながらも、少しだけ持ちやすくなった気持ちを抱えて――己は剣を振るう。
それだけで。
それだけが出来ることなのだと、改めて、己の不器用さを知った。
先にある物に向けて。
願いと希望。
我が物に。高望み。
届かぬものとして。届くと信じて。
どうとでもとれるもの。
とまたもや蛇足。
大分、今の文体に近づいてきたので修正が楽になってきました。
その分早く――と、いけるかどうかはわかりませんが頑張ります。
読了ありがとうございました、