東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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後の失敗

 

 

「それじゃあ……」

「おや、もう食べ納めですか? では、舌休めの甘味など――いかがでしょう?」

 

 箸を置き、話を切り出そうとした瞬間を見計らうようにして投げられる言葉。「むぐ……」と開きかけた口を閉じ、にこにこと笑う男の顔にじろりと目を向ける。

 

 そして、一言。

 

「……いただくわ」

「それでは、ご用意致します」

 

 ぺこりと頭を下げる男。

 

――……。

 

 あからさまな、誘導だった。

 けれど、目の前に吊り下げられた餌の誘惑にどうしても勝つことができずに、食いついてしまった。精一杯のすまし顔で取り繕いはしたものの、返るのは、にこにこと裏の透けて見える笑顔を見せる姿。

 男はにこりと微笑んで、余裕しゃくしゃくと調理場のある奥へと消えていく。

 残されたのは、口元に手を当てて微笑む私の従者と憮然とした顔で息を吐く――自分の姿。

 

「やられましたね」

「仕方ないじゃない」

 

 楽しそうに笑みを浮かべる永琳。

 それから顔を背け、膳の上に置かれた湯呑みに手を伸ばす――これもまた、あの男が用意したものだ。それなりの味はするのだが、やはり釈然とした気はしない。

 

――まあ、美味しいからいいんだけど……。

 

 妙に手馴れた動きで料理をこなす男。

 初めの誘いにどんなものかと乗ってみれば、すっかり雰囲気は有耶無耶に、会話の主導権も握られてしまっている。この前の落とし前をどうつけてあげようかしら、なんて考えていたあれそれも、一体どこへやらだ。

 

 それもこれも――

 

「お待たせしました」

 

 すっと襖を開けて姿を表す男。

 その手に持たれているのは、一節一節に切り分けられた腕ほどの太さの竹。

 

「……?」

 

 何だろう、と首を傾げるこちらに男は悪戯っぽく笑い、ぱかりと、その真ん中辺りで開いて見せた。

 ぶわっと広がる湯気。熱された竹独特の風香が広がる。

 一瞬の熱に目を細め、それが晴れた先を見てみると――そこにあるのは細長く丸められた緑の塊。

 竹の葉に包まれた甘い匂いのする何か。

 

「どうぞ」

 

 促されるままにその包みを開くと、中から真白いつるんとした表面がのぞく。弾力があり、ほどよい張りをもつ肌のことを、よく餅のようだと例えることがあるが――確かにこれは、見ただけで分かってしまう艶と張り。

 ぷるんとした餅が、新鮮な青竹の芳醇な香りを吸い込み、独特の風味を醸しながら、緑の皿の中心へと身を置いている。

 目に優しく、それでいて食欲をそそる佇まいに思わず喉を鳴らし、ついと指を伸ばして口へと運んでみると――広がるのは、香りから感じられるままの芳しい風味と程良い甘み。

 いい具合に蒸されて水分を含み、生命力豊かな竹林の鮮やかさと餅米独特の歯ごたえを上品に舌の上で踊らせる。

 都でも、食べたことのない種の、甘露な味。

 

――甘いものは別腹とは、よくいったものね。

 

 昔、永琳に聞いたことがある。

 甘いものなどの好物を目にすると、それを積極的に取り入れようと胃袋が収縮し、目一杯だった胃袋の中に隙間を広げるということがあるらしい。

 事実として、さっきまで散々に詰め込みきったはずのお腹に若干の余裕が出来ている。舌鼓を打つための準備もいつの間にかと万端だ。

 身体の仕組みというのも現金なもの。

 

 私は――それをもっと食べたいと思ってしまっている。

 

――必要なくても、だからこそ、愉しみが必要。

 

 だから、流されても仕方がない。

 そんな理論武装。

 

――まずは、目の前の難敵を片付けることに全力を傾ける……その後は、逃がしさえしなければ大丈夫。

 

 時間は、まだまだいくらでもある。

 それこそ、永遠といってしまえるくらい。

 だから、急ぐことはない。

 

――目の前の愉しみを味わいきってからでも、遅くない。

 

 

 だから――

 

「お代わりはあるのかしら?」

「当然、ご用意しております」

 

 

 これはこれで、なかなかに有能なようだ。

 

 

____________________________________

 

 

 

「馳走だったわ」

「お粗末さまです」

 

 綺麗に空となった器。

 幾度かのお代わりを要求しながらも、上品にそれを食べきったお姫様に、多少大げさなぐらいの丁寧な礼を返す――打算も利害も誤魔化しも、全て込みの口手八丁。煙に巻く類のものが大部分と混ざってはいるものだが、その幾分かには詫びが入れられていることも確か。

 決して、虚偽の態度だけではない。無論、本当だけではないが。

 

――なにやら、嘘つき常習犯のいい訳みたいだな。

 

 本当に、『嘘』だけではないのだが。

 そう考えると、よりそうっぽくも感じてしまう。

 自覚があるからだろう。

 

――まあ、それでも、こんだけ喜んでもらえりゃ、つくった甲斐はありましたしね。

 

 多少、文句ありそうな顔を見せながらも、出した料理は全てたいらげていただけたのだ。舌が肥えているだろう人に、少しは認められたというなら、それをつくった己としても鼻は高いもの。

 そして、料理をするは、ちゃんとその後始末もするのが礼儀というものだ。

 そういうわけで。

 

「では、洗い物でも……」

「それには及ばないわ」

 

 そのまま流れるように調理場へと移動しようとしたところに、「ちょっと待った」と声がかかる。

 勿論、それはお姫様(つる)の声。

 

「客人にそこまでのことはさせられないわ――永琳」

「ええ」

 

 心得ている、というばかりに素早い動きで食器を回収し、そのまま調理場へと消えていく有能な従者。

 隣を抜ける際、「絶対に逃がさない、だそうよ」とぼそりと伝えられて――。

 

 早々に、諦めた。

 

――はあ……。

 

 ぱたり、と音を立てて閉じられた襖。

 残されたのは、優雅に微笑む――とても愉しそうなお姫様と情状酌量の余地を求める罪人。

 

 どうやら、執行猶予は終わりの時間らしい。

 

「――判決はどうなりますかね」

「――虚偽申告に無礼罪……料理は美味しかったから、多少の酌量の余地はあり、といったところね」

 

 そりゃ光栄です、と空笑いに返し、自分の入れたお茶を啜る――かなり長い間保存されていただろうはずのそれは、旬のものとほとんど変わらない。

 とても、新鮮な味がした。

 

――止まっている、か。

 

 変わらない。変化しない。

 流れない。移ろわない。

 不変を感じさせるそれは――あの時間を思い起こさせる。

 

――これもまた、過去の記憶だ。

 

 穢れなく、尊い。

 ぞっとさせるほどに清浄な空間。

 

 それ(・・)をその身にはらんだ己が追い出されたのも――逃げ出したのも当然のことだったのだろう。自分が、己の身体が、どうしようもなく不純に、特異なものなのだと意識させられる。

『はずれもの』なのだと、理解してしまう。

 

――まあ、そうはいっても……。

 

 くるくると想い出す。

 ゆるゆると沈みいく。

 

「――」

 

 記憶の中にあるのは、そこから零れ落ちたからこそ見つけた日常。

 今の自分を積み上げた思い出の時間。

 

――流れるからこそ、岩をも穿つ、とね。

 

 そういう生き方を教えてくれた。

 そんな生き様を示してくれた。

 

 そんな人たちに出会えたのは、自分が『はずれ』だったから。だから、見ようによっては、それは『当たり』だったのだ。

 

――全く……人生、生きてみなけりゃわからない。

 

 そういうものだと、何度教えられることか。

 

「―――!」

 

 あらためて――昔の自分を改めて、そう思う。

 それを強く実感するのは、また、こんな場所へと戻ってきたからなのか。

 

――郷愁というのも変だが……これもまた、一種の懐かしさってもんかね。

 

 昔と違う。

 変わらぬ部分と、変わった部分。

 過去を強く感じたからこそ、今の自分をより深く見渡せる。

 

――まあ、そういう気分も……。

 

 悪くはない。

 そう思ってしまう己に、ついつい笑ってしまう。

 

 そう、それは――

 

「――!!」

 

 そんなふうに悦に入っているときに、ふと、耳に入るその音に気づく。そして、今、自分が何を前にしていたかを思い出す。

 

「ちょっと、聞いてるの?」

「あ……」

 

 目の前には、目を三角とつり上げる少女。

 綺麗に、怒気をはらんで歪んだ笑み。

 

――っと……。

 

 その状況を改めて理解し直す。

 過去に向いていた視点を現在へと揺り戻し、目の前で綺麗(・・)に微笑む少女の顔へと焦点を合わす。

 今の自分を、組み立て直す。

 

「ねえ、ちゃんと聞いていたのかしら?」

 

 そうして見るのは、正面に立つ少女の顔。

 ぴくぴくと苛立ち、震える笑顔からは――そのまま表情に出すよりも、よりらしい妙な圧力がにじみ出ている。嵐の前の静けさというか……拳を振り出す前のための溜めというか――とても、危ない感じだ。

 その答えに、また実感。

 

――ああ、失敗した。

 

 少々、昔のことを考えすぎた。

 過去を思い出して、今を忘れているなんて、本当に年をとった証拠だ。

 惚けているにも、程がある。

 

「情状酌量の余地無し、ね」

 

 そのツケは今すぐと。

 火に油、というよりも火薬を放り込んだようなもの。

 

――まったく……。

 

 竜の逆鱗引き剥がし、その傷口に塩をこれでもかと塗り込んで、その怒りの火へと飛びいった。煙に巻くどころか、狼煙を上げて、己の存在を大手を振って示したようなもの。

 完全に。

 

 

「さて、どうしてくれようかしら」

 

 

――大失敗……ってことですか。

 

 たまには、こういうこともある。

 そういうのを味わうのも久しぶりで趣深い――なんて、強がりで言い訳しておこう。

 

 少しだけ、過去に酔っていた……寄っていただけだ。その振れ幅分、今の時間を損をした、ということだろう。

 

 そうやって、受け入れよう。

 災難なら、いつものことだ。

 

 

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 かちゃり、かちゃり……。

 

 そんな音を立てて、一つ一つ丁寧に食器を戸棚へと戻していく。場所をとらないよう、崩れて倒れてしまわないように、並べて、重ねて。

 

――こんなことをすることになるなんて、ね……。

 

 昔は考えもしなかった。

 薬品や実験器具以外を片付けることなんてほとんどなく。たまにする気分転換の料理も、後片付けは使用人任せ――それが当たり前だった。

 

――それよりもすべきことがあると思っていた。

 

 そう考えていた。

 けれど――

 

「……やってみると、意外と楽しいものね」

 

 時間を無駄にするようなこと。

 今までなら、やらせてもらえないようなこと。

 

 けれど、それを体験するという初めては、なかなかに愉しいものだ。いかに自分が恵まれた場所に立っていたかを理解することができる。

 

――私も姫さまのことをいえやしないわね。

 

 教育する側に立っていながら、まだまだ知らないことばかり。

 教えられるものなど、ほんの僅かにしかもっていないことに気づいてしまった。

 

――成功ばかりしていた……だからこそ、知らないこともある、か。

 

 昔、誰かにいわれた言葉。

 誰に言われたかは……忘れてしまったけれど。

 

――私は……。

 

 そこにいる誰よりも優れた才を持っていた。

 どんな実験にも成果を出して、数え切れないほどの価値あるものを生み出してきた。

 その世界を担う存在としての意味を示し、並べることが出来ないような成功を収め続け、月の発展の何割かは、自分のものであるといっていいかもしれない。

 

 それほどの力を、私は持っていた。

 

――だからこそ、知らない。

 

 そんな引け目が――その恐れが、輝夜を止められなかった理由の一つなのかもしれない。

 

 ずっと続いていたその成功が、全く同じ続きもの。薄っぺらな積み重ねにしか思えなくなってしまった。ただ、惰性で続けてきただけの、ひどく軽薄なものにしか感じられなくなってしまった。

 

 ずっと溜まってきた何かが――私に、そう思わせる。

 

――こんなこと、考えていても意味がない。

 

 答えなんて出る類の疑問(もの)ではないのだ。

 それも、理解しているのに。

 

「……」

 

 けれど、心は元には戻らない。

 気持ちの切り換えに、『失敗』する。

 小さく息をついて、胸の内側で渦巻き続けている何かを吐き出そうとした。心ではなく――思考でそれを塞いで、いつもの調子を取り戻さなければならない。

 いつも通りに、私を造るのだ。

 

――もうそろそろ、私が戻ってもいい頃。

 

 すでに、片付けは全て終わって、後始末も済んでいる。

 いつまでも、ここにいる理由はない。

 

「――あちらはどうなったかしら」

 

 ぽつりと呟いて、今の状況。

 訪れている客人のことを思い起こす。

 

 いつかの記憶。数少ない『失敗』。

 その中心にいたもの。

 

 どれだけ騙されようと。どれだけ酷い目にあわされようと。

 

――決して、償いにはなりえない。

 

 私が彼に行った罪は、それほどに重い。

 幾度と無く殺されてしまおうと全くといっていいほど足らないほどに。

 

――なのに

 

 なぜ、彼は――

 

 

 

「おや、もう片付け終わっちゃってましたか」

 

 私の前で笑っていられるのだろう。

 こんなにも……そのままに。

 

「すいませんね。それじゃこれだけでも」

 

 片手に乗せた茶器の類。

 二人分だけ、残しておいてきたものだ。

 それが水場へと置かれ、「さて」と小さく呟いた男が、袖をまくる。

 

 そして、かちゃかちゃと手馴れた音。

 

「あなた……姫さまは?」

 

 突然後ろから現れて、洗い物を始めた男。

 客間で自分の主人と話をしているはずの男に――疑問の声を投げかける。

 

 うまく凌いで逃げ出したのか。

 何かの飛び切りの償いを用意していたのか。

 

 どうやって輝夜の暇つぶし(かんしゃく)から逃れられたのか。

 

「ああ」

 

 手早くそれを終えて、水気を切るように逆さまにして隣の棚の上に置いた。

 そうしながら、濡れた手をふるふるっと振り、近くに置いたあった布巾で拭う――妙に板についているその一定の流れは、何か男の今の性質のようなものを表しているのか。

 

 昔の様子からはまったく想像の出来ない表情で、にこりと笑い――

 

「食べ過ぎて眠いから……今日はもういい、だそうで」

 

 そういった。

 

 聞いた傍から肩の力が抜けて、小さく嘆息が漏れた。

 どうやら、彼女もいい具合にこの永遠の時間に染まってきたらしい。

 

――確かに、私たちにとって急がねばならないことなんてほとんど無いのだけれど……。

 

 少々、彼女のこの先が心配になる有様だ。

 教育係件従者としても、少し責任を感じてしまう。

 どうにも、良くはない兆候だ。

 

「ま、のんびりしてるってのもいいことですよ」

 せかせかすることはない。

 

 そういって、からからと軽い調子で笑う男。

 あまりにも気が抜けてしまう状況に、頭を抱えて再び溜め息をつく。

 

――なんだか、おかしな。

 

 狂いっぱなしの調子。

 狂わされっぱなしの感覚。

 

――本当に……。

 

 おかしな、調子はずれな一日だ。

 考えごとにも集中できず、思い悩むことに深刻になることすらできない――そうしているのが、馬鹿らしくなってしまう。

 

 そんな――

 

 

「ふはあ……。こっちもちょっと眠くなってきた」

 いい日和ですからねぇ。

 

 そういって、いつの間にか急須にお茶を用意している男。

 

――まるで、ぬるま湯……。

 

 日溜まりで欠伸でもするのが似合っている。

 そんな、気の抜けた空間だ。

 

 

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「だから、わざといくつかの穴を……」

「なるほど……」

 

――そういうことか。

 

 ふむふむと、納得がいったというのを示し、幾度か頷いて、口元に手を当てる。

 腑に落ちた――というよりも、そういうこともありそうだ、なんて感じの感覚だ。自分たちのような存在にとって、理由なんてそんなもので十分なのだろうし。

 

――なかなか危ない橋のような気もするが……まあ、そこらへんの条件付けは上手くやっているのか。

 

 全てを拒絶するはずの結界。

 何者からも覆い隠して、全てを隠し通してしまう領域。

 そこに――わざと、抜け穴を用意しておいた。

 

 外敵にはばれぬよう。敵意だけは通さぬよう。

 目的の存在だけを引き込むように。

 

――しかし……。

 

「そんなに恨まれるとはねぇ」

 考えても見なかった。

 

 ちょっとした冗談であったというのに。

 

「まあ、半分は気まぐれというか……暇つぶしのようなものだろうけれど」

 完全な拒絶よりは、ほんの僅かにでも風通しがあった方が都合がいいのよ。

 

 軽く苦笑いのような表情を浮かべながら、彼女は自分達が座る縁側の先、その端にある色の変わった地面の方を指差した。

 そこには、等間隔に植えられた緑の葉と――白やら黒やらの様々な色をした兎達。通常のものよりはふた周りほど大きく見えるその妖怪化した動物達が、拙く――お世辞にも上手にとはいえないほどながらも、畑を手入れしているのが見える。

 時折、その結界領域の内外を出入りしている様子から、多分、あの者たちもその条件の内側に入っている存在なのだろう。

 

「労働源、ですかね」

「ええ、怪我の治療と避難所なんかを対価とした、ね」

 あまりきちんと言うことは聞いてくれないけれど。

 

 言った瞬間。

 ひゅんっと鋭い音を立てて白い線が伸びた。

 視線の先には、育てているはずの作物に向かって大口を開けている兎――の目の前に空いた小さな穴。

 はっと何かを思い出したように、その兎は身を震わせて後ろ振り向き、作業に戻る……多少、思考能力はあるようだが、やはり、まだまだ動物としての本能の方が強いのだろう。

 あまり、信頼には値しない小作人たちだ。

 

「やっぱり月の者たちのようにはいかないわね」

 いくら注意しても次の日には忘れてしまうのよ。

 

 ふう、と疲れたように息をつく賢者どの。

 やはり、その収穫量は芳しいものではないのだろう。

 

――まあ、妖怪としての年月は薄そうだし……仕方ない。

 

 元々飼いならされていない野生の兎。

 人のいったことをきっちり守ってくれることなんてことはありえない。

 言うことを聞くとすれば、よほどの指導力のある人物か、群れの主の命令ぐらいのものだろう。互いに通じるものがなければ、はっきりとした意志など通じない。

 妖怪だろうと人間だろうと、そういうところは変わりないものだ。

 

「気長にやっていくしかないわね」

 時間は有り余るほどにあるのだから。

 

 気の長い言葉。

 けれど、自分たちにとっては、ほんの僅かにしかすぎないかもしれない時間を指す。

 

「そうですね」

 

 時間を経るにつれて、この今は弱小妖怪にすぎない兎達も知能を発達させる。知恵を身につけ、知識を蓄え――新たな存在へと昇華していく。

 そして、それを実感して初めて、その間に流れた時間の長さを知るのだろう。

 

――変わらない姿のままに、変わり、過ぎていったものに学ぶ、と。

 

 先ほど感じた懐かしさと似たようなものだ。

 昔を知りて、今を知る、ということもある。

 

「……」

 

 目を細め、微かに見える空を眺めた。

 周りを囲う結界によって多少見えにくくなりながらも、それは青く――遠い昔から変わらない。

 沈み始めた太陽によって橙染まる様も、夜の帳の中に見える星々の僅かな瞬きたちも――変わらない。

 

 それだけは、記憶と重なるままに。

 

「――ごめんなさいね」

 

 ぽつりと。

 少しの空白に声がした。

 

 隣を見ると、同じようにその(むかし)を眺めながら、長い銀色の髪を押さえる姿。

 通り抜けた風に、その特徴的な二色の衣服が僅かに靡く。

 

「本当は、貴方を巻き込むなんて……貴方を恨み事に思う資格なんて、私には一つもないのだけれど」

 

 後悔。追悔。

 はるか昔に負った罪悪が、今の自分を苦しめる。

 背負い続けた肩の荷が、その身に食い込み痛みを叫ぶ。

 

 遠く巣食った想い。

 

――……。

 

 恨み辛み。

 零といえば、確かに嘘となること。

 

 それが――その暗闇が残っていないわけがない。

 今でも、あの日々を、あの時間を思いだせば、沸き上がる何かがある。零というには、深すぎる何かが、己の中にも巣食っている。

 

 けれど――

 

「――壱になるほどとも、いえないか」

 

 遺っているのも、その程度。

 侘び錆びた欠片のみ。

 もはや、原型はわからない。思い出せても――浮かばない。

 

「……?」

「いえいえ、なんでもありません。」

 

 首を傾げるあちらに、片手を振って答えた。

 本当に、これはただの独り事というものだ。

 

――もう、一人分にも満たないぐらいの、ね。

 

 遠い昔のこと。

 忘れるぐらいの――それでも忘れられないことだとしても、それを敵と晴らすには、時間が経ちすぎている。感情のままに暴れるのなら、最初から、あの再会した時に既に始めてしまっていることだろう。

 それがないなら、とっくの昔のことなのだ。

 

――年もとりましたしね……。

 

 老人に、そんな体力は残っていない。

 あるのは、昔の出来事を思い返して微笑むだけの思い出話ぐらい。

 例え、彼女がその原因の一つを担った存在なのだとしても。例え、彼女がそれを自分の罪だとして背負い続けてきたのだとしても。

 

 自分には関係がない。

 他人の罪悪感に付き合って復讐をするほどの優しさなど、持ち合わせる余裕があるほどに、この手は空いてはいない。

 すでに土産話でいっぱいだ。

 

――もともと、原因たって、ただの要因の一つってだけですしね。

 

 それをいったら、完全な大元を辿れば――それは己に、辿りつくのだ。

 自分が生まれたとき、それは始まった。己が産まれ出てしまったために、それは起こってしまったのだから。

 文句を言うなら、それを起こした運命に――偶然の可能性というものに、怒りをぶつけるべきだ。

 それが出来るなら、ついでに己の巡り合わせの悪さについても、意趣を返しやりたい。本当に、そんな性悪な物語を作ったものに。

 

「さて……」

 

 ではどうするのか。

 

 それを考えていて、ふと思い出す。

 先ほどの部屋の隅。埃を被り、調度と化けたもの。

 久しぶりに、腕が鳴りそうなもの。

 

「それじゃ――」

 

 ぽつりと一言。

 思いついて、ゆるく呟く。

 息を呑む旧知の人に――

 

「碁の相手でも頼みますか」

「え……?」

 

 隣にあるのは困惑の表情を示す月の大頭脳。

 この星が始まって以来の天才殿。

 

「将棋でもいいし、一緒に茶を呑むのでもいい――ま、たまには酒かなんかを用意してくれるのでもいいですね」

 それが上物なら万々歳。

 

 つらつらと言葉を並べ立て、流れるように口ずさむ。

 ますます広がる困惑顔に、にこりと意地の悪い笑みを浮かべて――それを楽しむ。

 

「なかなか相手がいないんですよ。数千以上も年下に対して本気を出すのも、迷惑をかけるのも大人気ない――負けたりなんてしちゃあ、それこそ立つ瀬ない」

 落ち込み加減は底なしだ。

 

 その点、彼女ならたかが数十か数百程度の差……はっきりした年齢は思い出せないが、多分その程度のはず。

 勝手も負けても、言い訳はきくものだ。

 相手にとって過不足なし。

 

「どうです、相手してくれませんか?」

 

 縁側から降りて、その美麗な庭に足をつける。

 手入れこそあまりされていないが、辺りを囲う竹林だけでもなかなかのもの。

 

 囲われた中ながら、眺めるものはいくらと見つけられる。

 

「えっと……」

 

 困惑気な呟きを後ろに聞きながら、地面に手を寄せて、寄ってきた兎に食事の余りの野菜を渡した。その場で食べずに、群れの集まる巣のほうへと駆けていくのはやはり知能が発達している証拠か――途中で我慢できずにつまみ食いしていたが。

 それを観察してみるのも、また面白いことだろう。

 それもまた十分な理由となる。己たちの者にとっては、気長な愉しみの一つ。

 

「貴方は……それでいいの?」

 

 本当にそれで。

 そんなものでいいのか。

 

 そんな感情の揺れを表すように、その瞳が揺れている。

 昔にはまったく見たことのない表情だが、なんだか、昔よりも親しみが沸くような気がした。

 

――こういうのも、新しき発見とね。

 

 くくっと口元だけで笑い、彼女の方へと振り返る。

 そして、緩い調子で今の自分『らしく』しゃべる。

 

「いえね。ちょっと姫さまの機嫌取りを失敗しまして」

 

 そう。

 こういう『失敗』も、今らしいもの。

 

「その罰に不定期な調理番を任されましてね……どうせここにくるのなら、何か愉しみにでもするものがあったほうがいいでしょう? ――ねえ、竹取の姫さまよ」

 

 呼びかけるのは、その従者が座る縁側よりももっと奥。

 襖一枚隔てた向こう側。

 

「――ええ、そうね」

 

 かたりと音を立てて開かれた襖から現れる黒髪の少女。

 悪びれずに微笑みながら、優雅な仕草で自らの従者の肩を抱く。驚く従者は固まったまま。

 

「私の大事な永琳の話相手になってあげて頂戴……ただし、失礼なことしたら承知しないわよ」

「ええ、畏まりました」

 

 こちらも、出来るだけの慇懃な礼をして、その慈悲に感謝を示す。互いの笑みは、ひどく場違いなものであったけれど――それでも、笑んでいることには変わりない。

 互いに、その珍しき顔を楽しんでいる意地の悪さだ。

 

――その何処までが失敗なのか。生きてみないとわからない。

 

 その企みがどうなるものなのかも。

 いずれそれが破綻するのかどうかも。

 

 先のことはわからない。

 

――まあ……。

 

 それでも、彼女が浮かべた困り顔の笑みは、なんだかとても素直なものに思えた。

 なら、悪くない。

 困っていても、苦しんでいても――失敗しても、笑えてしまうのなら、そう悪いものではない。

 

 そういう、ものだろう。

 

 

 

 明日は明日。

 今は、今の風。

 過去は過去のもの。

 

 

 未来の天気はわからない。

 だからこそ、晴れているうちに洗濯を。

 雨が降った日に、着る物がないなんてことがないように。

 

 それも、いつものことだ。

 いつもの失敗から学ぶ教訓だ。

 

 

 そうごちるのが、老人の常である。 

 

 

 





 
 後の祭りと失敗続き。
 失敗の続きと――そんなこんなで、という感じで。
 余暇は楽しまなければ損。勿論、余生というものも。


 とまあ蛇足ですが。

 
 読了ありがとうございました。

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