東方幻創録―永人行雲譚   作:鳥語

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らしさの茶番

 『らしく』ある。

 

 決められたとおりに。考えられた通りの姿で。

 その役を演じきる。その枠に嵌りきる。

 

 自分で想い描く理想像。こうありたいと願う完成形。

 誰かに与えられた『己』という虚像。

 自分自身で作った『自分』という形。

 

 そこから逃れるのは――案外、難しい。

 

 自分を自分で失くすということ。今までの自分を打ち壊すということ。

 外れてしまえば、どこか心細くなる。

 守り続けていれば、どうしても息苦しい。

 

 『幻想』にすぎないものなのかもしれないけれど、『現実』はその虚像を通して存在している。

 誰かは私を見ている。誰かは『らしい』私を見ている。

 私は、それを『私』として生きている。

 

 どう振舞っても、逃れきれずに成りきれず。

 どうやっても、未完成で割り切れない。

 

 それでも、誰かは判断するのだろう。

 あなた『らしい』と。あなた『らしくない』と。

 

 ならば

 それを見失ってしまえば

『私』は『私』ではいられないではないのか。

 

 そんな想いが、ふと過ぎった。

 

 

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 思わず、使ってしまった。

 

 男の右腕が目の前まで迫る瞬間、その攻撃を受け止めた硬直に目掛けて放たれた一撃――それを、全力で避けようとしてしまった。

 たかが一撃。たかが人間の攻撃一つ。

 受けたところでどうということもない。それが、どうしてか、受けてはいけないもののように感じてしまった。

 長年の闘いで培った経験、喧嘩師の本能が、避けなければいけないものだと判断したのだ。

 だからこそ、たかが人間相手に対して能力を使用してまで、その攻撃を避けてしまった。

 

 そして、おそらくそれは正解だった。

 

――陰陽術……いや、ちょっと違う気もするけど。

 

 拳と同時に振るわれた札。

 何かの方式に従って編み込んだ力を発揮するためのもの。

 露に散らした身体に僅かにだが触れたそれは、確かに、こちらの力を削ぎかけた。制御が乱れ、体がいうことを利かなくなるような感覚が私を侵食し……慌てて、そこから散ってしまわなければならなかった。

 あのまま留まっていれば――そのまま受けてとめていれば、確実に何かをされていた。私の身に、何かの異変を起こされたのだ

 その危険を読み取っての能力行使。

 能力を『使う』のではなく『使わせられる』のは、かなりの久しぶりこと。どうやら、私は当たり(・・・)を引いているらしい。

 

「……」

 

 自然と持ち上がる口角は、どうにも止められない。

 腹の底に、炎が煮えていく。胸の奥でしけっていたものに、熱が灯る。

 

 血と肉が、沸く。

 

「さあ――もっともっとだ」

 

 拳を掲げ、意気揚々と。

 振り回した手の先で、鎖が揺れる。

 

――楽しませてよ。

 

 正面から、真正面から堂々と。

 真っ直ぐ鋭く、ひりひりと。

 それこそが私の求めた闘いであり――

 

「――いくよ!」

 

 

 まだまだ、ちゃんと始まってもいない。

『鬼』の喧嘩だ。

 

 

――ここからは手加減なし。

 

 本気と本気の勝負で、決着をつける。

 そんな気持ちを込めて、能力(ちから)を使用する。

 戦いの銅鑼を、高らかと鳴らす。

 

 

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 少女が掲げた右手。その上に出現する巨大な岩石。

 明らかに、少女の身長どころかこちらの背丈よりも巨大なそれが、まるでそこらの小石でも投げるかのような気軽さで――ぶん投げられた。

 

「……っと!?」

 

 とっさに飛び退いた場所には――砕けて弾ける瓦礫の余波。

 幻でも何でもない、本物の岩の塊。

 

 それが――

 

「ほらほら、お代わりいくよ!」

「ちょ、っと、こりゃ……!」

 

 ずずんずずんと降り注ぐ雨霰。

 大粒の岩石が、己めがけて飛んでくる。

 

 晴天のち霧隠れのち岩石の雨。

 まさに――。

 

――悪い冗談だ。

 

 飛び上がった少女の両手から振り落ちる次弾。

 かろうじて飛び退いたこちらに向けて、第二・第三とさらなる弾岩が現れて、ものすごい勢いで飛んでくる。まるで奇術か何かのように、次から次へと途切れることなく、どしゃどしゃと、危険な音を立てて辺りに傷跡を刻む。

 べこりと凹む地面は、その威力の語り部か。

 当たれば終わり。擦れば大怪我。巻き込まれれば、ぺしゃんこに。

 どうにもこうにも、一か八かの連続で。

 

「――っとに、わりに合わない」

 

 そんな悪態をつきながら、走り抜けたその僅かに後ろで起きる破砕音。

 さらに前方から向かってきていた次弾を、後方のその瓦礫に飛び乗ることで回避する。さらに右、さらに左、飛び上がって、くるくると空中で体制を立て直し、飛んでくる破片を片手で打ち払って視界を確保する。

 匂いも、音も、視界も、頭も。

 五感で取り入れ、知恵と知識で逃げ場を探す。

 

――……。

 

 そして、その一方で考える。

 今の現状。

 確かに少々気を抜いていたことは確かだ。

 怪我は治りきらず、ろくな準備もしないままに山の奥に入り込んだ。飲み水と簡易符程度は持っていたとはいえ、その状態で妖怪の縄張りを侵し、あまつさえ、その相手が『鬼』。しかも、随分と強者の――数刻前の自分が本当に恨めしくもなる。

 

――自分の巡りあわせの悪さくらい……自覚していただろうに。

 

 うかれすぎていた。

 色々と考えすぎていて、自らの身を守ることを忘れていた。

 

 どうやら、自分でも思っていた以上に―――

 

 

「――む」

 

 いくら河原で地面が湿っているのだとしても、流石にあれほどの規模の攻撃を繰り返せば、土煙も舞い上がる。少々こちらの姿が捕らえづらくなったのか、攻撃が途切れた。

 微妙に霞んだ相手の影を視界に捉えながら、今のうちだと、動きを止めて呼吸を整える。

 そのまま、頭を回す。

 

――手中に岩、霧状の身体。

 

 わかっているのはその程度のこと。

 どうやっているのかも、何をしているのかもわからない。けれど、それだけは確かに目の当たりにした。そのようなものであると、見えたことは確か。

 ならば、一つに絞れずとも、いくつかは形を想像できる。

 

――ここに現れたとき靄……霧のようなものに姿を変えていた?

 

 辺りを囲っていた妖気の影。

 それ全体が、少女の身体だったのか。それとも、そうやって一部だけを透かせるだけなのか。完全に拳や脚での攻撃は通じないものなのか。

そこら中に身体を拡散させることができて、なおかつそこに意識はどれほどに持っていられるのか。決められた動きに従って動いているのか。

仮に全てを把握できるのだと仮定すれば、どう逃げたとしても意味が無い。少しの間でも意識を奪い、こちらを誤認させるくらいのことをしなければ、すぐに見つかってしまう。

 そんな一瞬では、意味がない。

 

――なら、目眩ましだけじゃ無理。

 

 煙幕や簡易の分身ではすぐにばれてしまう。あの腹ぺこ少女と同じ手は使えない。

 では、今の手札で切れる最善の手は何か――

 

「――さてはて、どうしま……」

 

 どうすればいいのか。

 そう呟こうとして所で、少しの違和感。

 あまりにも、長すぎる間。

 

――辺りに漂う土埃……・薄く霞んだ姿。

 

 止んだ攻撃。広い感知範囲。

 応用の利く能力。足を止めている自分。

 微動だにしない影。

 

 そこから、連想されるもの。

 

「――っ!」

 

 全力で地面を蹴り、その土煙の中から飛び出した。

 辺りを囲い、薄く漂っていたそれ(・・)は、こちらの動きに反応するように追いすがり、再びその身のうちに飲み込んでしまおうと襲い来る。

 意志持つ塊として、己を追いかける。

 

――あっちは囮。

 

 ふっと、姿を消した影。

 こちらかははっきり見えないのをいいことに、そこに置かれていたのは身代わりだったのだ。いつも己が行う誤魔化しを、相手に先にされてしまうとはお笑い種だ……・なんていって笑ってもいられない。

 

――こりゃあ、力だけじゃあないってことか。

 

 自らの能力を使いこなす技術。それを上手く利用する知識と経験を持つ相手。力に溺れずにそれを研鑽し、さらなる高みにのぼったもの。

 こういう相手と相対するのは――

 

「いい読みだったけど――おしかったね」

 

 本当に難しいものだ。

 囮だったのは、その力で操っていた土煙もそうであったのだ。

 それを自らのように見せかけて動かして、こちらが逃げこんでくる場所で、それを待っていた。本体自体はこちらのすぐ近く、その腕の届く位置にまで側に――上手く誘い込まれてしまった。

 そして――

 

「それじゃ、いくよ」

 

 掴んでいるのはこちらの右袖。

 持ち上げられて身動きがとれず、抵抗しようにもその剛力は簡単に引き剥がせるものではない。

 

「ええと、これで、どうするんですかね?」

「もちろん!」

 

 不安な問いに、にこりと豪快な笑みを見せて、先ほどまでと同じような構えをとる。

 その手にあるのは、(がんせき)の代わりとして存在する――己の身体。

 

「あー……」

 

 導き出される未来は一つ。

 背筋に流れる汗はとても冷たい――肝まで冷えて、恐怖が襲う。

 

 

 

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 喧嘩において相手の不意を打つことのは卑劣なことだ。

 そう思う者もいる。

 

 確かに、互いに拳と拳とで真っ正面から殴りあい、相手を打って、己が打たれて――最後まで、正々堂々と戦い、勝ち負けを決めるのは気持ちがよく。また、すっきりとしたものだ。楽しく雄々しく正道だ。

 

 ただ、もう一つ思うこともある。

 互いに正面で顔を晒しあってから、始めの合図と共に姿を消す。視界を逃れ、予想を外し、虚実を織り交ぜ――無理矢理と、相手に隙を作り出して勝利を掴み取ろうとする。

 驚かせる工夫を披露して、脅かす知恵を振り絞り、戦うために創意する。

 真正面から、堂々と不意を打って、どんなことをしてでも勝ちを得ようとする。

 

 私は、そんなものを卑怯なことだとは思わない。

 確かに、相手が構えもしない。気づいてもいない状況でいきなり殴りかかったり、予め仕掛けておいた罠によって、姿も見せぬままに一撃を食らわせ、弱った相手をいたぶり仕留める。

 そんなものなら、私は私の作法としてそれを拒絶する。

 自分の身を何の危険にも曝さずに、相手にその実力を発揮させる機会も与えないままに、それを制圧してしまうのは――それは『喧嘩』ではない。

 ただの一方的な殺戮であり、下等な騙まし討ちだ。

 そんなものを私は認めない。

 

 けれど、相手の前に堂々と立って、真正面からぶつかって玉砕する――そんな蛮勇だけを闘いと呼ばない。

 自分の出来るだけの、あらん限りの力を使い、相対した相手を全力で倒しにかかる。

 それも喧嘩の礼儀というものだ。力に対して力で挑むだけが闘いではない。

 だからこそ、いくら自分たちと比べてひ弱な存在であろうとも、鬼は、人間と喧嘩をしようと思うのであろう。その先で、その勝利への胆力に、敬意を払うこともあるのだろう。

 ようは心意気の問題で、戦おうとしたその意志の強さを力と看做す。

 正々堂々と、真正面に立ってから闘ってくれるなら――それで不意を打ってくれるなら、十分にいい喧嘩だったと認められるのだ。

 時には、負けたと思ってしまうこともある。

 負けて、死んでしまう覚悟だって決められる。

 

 なのに――

 

「……」

 

人間というものは、さっきまで笑いあっていた相手を後ろから刺し殺そうとする。

祝いの酒に、不味い嘘を混じらせる。

 

そんなことだってあるのだ。

 

――だから……。

 

 私は、戦っている。

 私のやり方で戦っている。

 自分の能力を最大限に使用して、闘いに役立てて――本気で真正面からぶつかっている。

 

 これが、鬼の『喧嘩』だと。

 

「――いくよ」

 

 ぐるぐると自分の身体ごと相手を回転させ、その速度が最大まで高まったところで手を放す。力づくで力任せな……鬼にふさわしい力業。

 振り回す勢いで既に風がはためき、叩きつけられた相手は原型も留めずに砕け散る。振り回されている段階で、既に意識を失ってしまっているかもしれない。

 

 そんな掛け値なし、比べようもない鬼の全力に。

 加減なしの御業に男は粉々微塵と砕け散る――その、はずだった。

 

 それが――

 

「――っ痛……効きますねぇ。ほんとに」

 年寄りには応えますよ。

 

 顔を顰めながら、痛そうに身体をさすっている男の姿。

 生身のまま引き摺った部分には多少のすり傷を拵え、その勢いを止めようとした足にもある程度の傷みを負っているようだが――確かに、生きている。

 五体満足に、まだまだ戦える風情で。

 

「――……」

 

 思わず感心してしまった。

 私が捕まえた――掴んだ右腕の袖。その着物の部分がまるまる千切れ飛んでしまっている。

それは私の力によって裂けたものではない。確かに、それほどの力はかかっただろうが、その前に、男自身がそれを何かの力を使って切り離したのだ。

 投げられる途中。まだ力が乗り切っていないうちに、己の身体をすっぽ抜けさせた。

 命がかかった中での一瞬の判断。なかなかできることではない。

普通の人間なら、反応もする間もなく意識が飛んでしまう。

 

 だから、感心した――なのに。

 

「あー……借り物だったんですけどねぇ」

 

 それでも余剰の力は大きく、勢いのままに吹き飛んだ。

 それでも命は拾い、すり傷泥まみれながらも立ち上がった

 これは賞賛に値するべきこと、喜んで大笑いをする場面

 

 けど

 けれど

 

「――うう」

 

 私は気づいてしまった。

 それが見えてしまった。

 

「なん、で……」

 

 息が止まる。

 言葉が詰まる。

 

 火が、消える。

 

 

――なんで……。

 

 熱が引き、温まっていた身体が冷えていく。

空気が抜けて、私という存在がしぼんでいく感覚がする。

 楽しさが抜ける。嬉しさが消える。

 

 破裂して、砕けちって――正反対に裏返って、厭なものが押し寄せる。

 

「あ、ああ……」

 

 私の攻撃を凌ぐほどの相手と喧嘩をしている。

 普段の私なら、それは喜ぶべきことのはず。

 けれど、沸き立つのはどうしようもない悔恨と悲哀。割り切れない――やり場のない気持ちで頭がいっぱいになって、叫びだしたくなる。

 喚き散らしたくなる。

 

 だって、だって……。

 

「どうして!」

 

 真正面から『鬼』らしく。

 喧嘩の作法に従ってまっすぐと。

 

 正々堂々闘っている……はず(・・)だった、のに。

 

 それが――

 

「うん?」

 

 訝しげに目を細める男。

 その姿の――破れた袖の下にあったのは、身体を縛る傷の証。

包帯でぐるぐる巻きにされた真新しい、今負ったものではない傷がある。

 開いた傷に、血の染みが滲んでいる。

 

「私が……」

 

 私が襲ったのは最初から怪我人で――全力を出せない相手だった。

弱っている相手に対して、私は拳を振り上げて、笑いながら戦っていた。

 

――……。

 

 言葉にならない感覚に奥歯を噛み締める。

 知らなかった――知らなかったから仕方ない。そう割り切れないほどに子どもなわけじゃない。「すまない」と侘びをいれ、このまま逃がしてやればいい。

 取り返しのつかないほどの怪我を負わせたわけじゃない。どうしようもないほどのことをしてしまったわけじゃない。

 

 けれど。

 そう思うのだけれど。

 

「折角」

 

 振り切れると思っていた。

 忘れてしまえると思ったことを――また、抱えていなくてはならなくなった。

 

 愉しい戦は終わってしまった。

 酒は、不味く濁ってしまった。

 

 

『喧嘩』では、なくなってしまった。

 

 

 

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「――どうかしましたか?」

 

 突然、動きを止めた少女。

 先ほどまでの覇気もなく、ぶらりとさがった腕にうつむいた顔。

 おかしくなった様子に、思わず首を傾げてしまうような有様だ。

 

 それに加えて――

 

「なんでもない……飽きたから、もう行っていいよ」

 

そう言った。

 

 吐き捨てられた言葉に、ますます困惑が深くなる。

 ぎりぎりの運用を覚悟していた身体から力が抜けて、きょとんといった感じに気が抜けてしまう。

 

「――いいん、ですか?」

 

 少女は、少しだけ顔を上げて応えた。

 その目には、先ほどまでのような光はない。

 

「ああ、もういいよ」

 

 気の抜けた。

 やる気のない声で。

 

 熱が引いてしまっている。

 

――……。

 

 鬼が、喧嘩の途中でそれに飽きてしまうなどということがあるのだろうか。

まして、未だに相手を仕留めておらず、有功打も与えていない。こちらに興味を失ったという可能性もあるが――先ほどまで、ずっと愉しそうに拳を振るっていた。

 なのに、突然。

 

――一体、何が?

 

 襲われた。殺されかけた。

 確かに、逃がしてもらえるなら好都合だが……今の少女の表情に納得がいかない。

 鬱屈し、何か耐え切れないものを我慢し続けているといったような、そんなものを見せられてしまっては、こちらが悪いことをしたような気分になってしまう。年下の少女を初対面に苛めて厭な気分にさせたなどと――そんな引け目など持ちたくはない。

そんなもの、年寄りの繊細な心には大きなしこりができてしまうというものだ。

 折角のこの土地で初めての散歩がそんな記憶で彩られてしまっては、この先随分と道行き暗きものだと感じてしまう。お先真っ暗と予感してしまう。

 それでは、いい気分にはなれない。

 

 だというのに。

 

「なにしてるんだ。さっさといけばいいじゃないか」

 見逃してやるっていってるんだ。

 

 そういって、少女はこちらを恨めしげに睨みつける。

 お前が悪い――お前らが悪いというように。

 

 一体自分は何をしてしまったのか。

 豪放磊落な『鬼』にこれほどに珍しい態度をとらせてしまうほどのことを――その矜持に触れてしまうほどのことを何かしてしまったのか。

 

――……。

 

 記憶を辿る。

 少女の態度が変わった瞬間を、その機嫌を損ねてしまった何かを考える。

 ここを立ち去るにしても、何かすっきりさせなければ気持ちが悪い。

 疑問はなるべくその場で解決しておいた方がいい。精神的な健康を得なければ、長生きなどしていられない。

 

 だから。

 

――逃げて、避けて、跳んで、捕まって……。

 

 考えながら、言われた通りに背を向けて、近くの被害を受けていない森の方へと歩く。

 そちらにあるのは、投げ置いた己の荷物。それを取り上げて、肩に背負う。

 かちゃり、と中身が音を立てて揺れ、袖のない生身の右腕に触れる。

 

「……」

 

 そこにあるのは、包帯を巻いた傷。

 治りきっていない痛みの残り。

 

「なんだい? やっぱりそのまま攫われたいのか」

 

 軽口にように脅しの言葉を口にするが、やはり、晴れそうもない表情で。

 言葉こそ強いが、その感情は何処か虚ろなままで。

 曇った顔を向けられる。

 

 どこからか取り出された杯に口をつけ、豪快に酒を煽り――顔を顰めて。

 姿こそ堂々としているが、それは少し寂しげに。

 

 張りぼての『らしさ』が見えた。

 

 

「――あー……ばれちゃいましたか」

 

 

 呑気な言葉を口にして、にやりと頬を持ち上げた。

 突然に上げた声に少女は首を傾げる。

 

 どうにも、己は勘違いをしていたようであるのだ。

 それに気づいてしまった。

 

「そうですよねぇ。人を攫うといった鬼が嘘をつくわけがない」

 

 軽い調子で上げる声。

 その言葉が気に障ったのか。

 

 少女の目に力が入る。

 

「嘘……?」

 

 ぎらりと眼光鋭く。

 縮み上がってしまいそうな一睨み。

 

 それをぶるりと震えて受け止めて――人間らしい態度を見せる。

 

 

「さっき攫うと言っていたのに何もせずに見逃すなんて……鬼が、そんなことを言うはずがなかった」

 

 きっとそれは一番に気に障るもの。

 鬼として、少女の『らしさ』として、見逃すことの出来ない言葉。

 

 卑怯な振る舞いをすることと同じくらい、少女の誇りに傷をつける『嘘つき』の汚名。

 

「……」

 

 無言で拳を握り締められる。

 先ほどの続き――いや、今度は喧嘩なんかじゃなく。自分を舐めた相手に身の程を知らせるための行為。

 恐ろしいまでの気当たりがさっさと消えろと、こちらに襲い掛かってくる。

 

 随分と、恐ろしい。

 

――だからこそ……。

 

 それでも、言葉を続けるのが、命のためだ。

 人間が考える最善の策。

 

 

「――そんなに怒らなくても……冗談(・・)だったんでしょう? ほんとの目的を隠すための」

 

 これも、自分『らしさ』なのか。

 己が己であるための立ち位置の確保なのか。

 振り子を揺らさないようにするための、自分なりの逃げ口上(たたかいかた)か。

 

 己は、『己』を振舞る。

 思うままに、生きたいように。

 

「まったく、人。いや、鬼が悪い」 

 

 意味のわからないといった表情をする鬼の少女に向けて、それを振りかざすのは自分のため。

 決して、誰かのためではなく、ただ、そうした方が愉しいと思えただけ。

 

 だから、貧乏くじを掴み取る。

 

「確かに、それをそのまま奪われるってのは格好悪い。それなら、喧嘩して勝った方の商品にするって方が気持ちがいいってもんです」

 気を使ってもらってすいません。

 

 軽い調子に頭を下げる。

 仰々しさの欠片も見せず、簡単に受け入れてしまえるような気軽さで。

 それくらいのほうが丁度いい。最初のやりとりと同じことだと。

 

 荷を解いた。

 

「鬼が気に入ってくれるって

んなら――それほどの酒が造れたって、酒屋も鼻が高いでしょう」

 

 

 そういって取り出したのは、とっておきの秘蔵品。

 荷袋から取り出した紫色の瓢箪――に満たした、極上の嗜好品。

 

 鬼に納めて献上す、人から妖への捧げもの。

 

「――どうぞ持っていってください」

 

 

 見逃してもらうための――認めてもらうための古来からの形式行事。

 互いが『らしく』振舞うための茶番劇。

 

 

 

「……」

 

 

 ぽかんと、口を開けて固まっている鬼の少女。

 予想しなかったこちらの行動に、思わず頭が止まってしまったのか。

 

 見ていて、なかなかに面白い。

 

「おや、信用できないですかね――なら、一緒に呑みますか?」

 

 

 続いて出た言葉は―――ただの酒への未練。

 長年保存し、愉しみにとっていた大事な品。

 

 

 実は、少し惜しかった。

 

 

 

 

 

 

 

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 騙まし討ち。

 一瞬そんな言葉が頭を過ぎったが――なんだか口惜しそうになり、急に「一緒に呑みませんか」などといった男の表情に――

 

「はは……あはははっ!」

 

 

――笑ってしまった瞬間に、なんだか、もうどうでもよくなった。

 毒気なく。気負いもなく一緒に酒を呑もうだなんて……そんなこと、同格の鬼にしかいわれたことがない。

 そんな緩い表情で、飄々とそんなことをいってしまえるなんて。

 ただでさえ、私はあの時にそれを受けたのだ……その程度の演技が今になって見抜けないはずがない。

 

 だからこそ、この男は本気なのだ。

 

「はは、はははっ……ここまで話を組み立てて、最後はそれって――」

 

 

 気が抜けたのか。

 妙に気持ちが上がって、笑いが止まらない。

 涙が出てくる。おなかが痛い。

 

「そんなに笑わなくても―――それだけ上手い酒なんですって」

 ずっと愉しみに……。

 

 言い訳がましく呟く男に、ますます、笑いが込み上げる。

 鬼の目にも涙というが、鬼に笑い泣きさせた男なんて前代未聞だろう。

 そんなの、情報通である私だって聞いたことがない。

 

「い、いやっ。気を使ってもらったのはわかるけどさっ……っくく」

 

 本当におかしくなってしまっている。

 止まらない。愉しい。

 楽しくて愉快だ。

 

「あははっ……お腹痛っ」

 

 こういうのを本当に痛快だとでもいうのか、まあわからないがそんな気分だ。

 嘘は嫌いだが、こんな茶番ならなんだか許せてしまう。

 馬鹿馬鹿しすぎて、どうでもよく笑ってしまう。

 

 明るく、私らしく笑って――昔のことなんて冗談みたいに霞んでしまって。

 酒の席の与太話のようなものだ。過去にあった愚痴話。

 

 その程度――そう思えてしまって、妙に軽くなった。

 

「ああもういいですよ。代わりにそっちの酒を味見ってことで」

 好きなだけ笑ってください。

 

 こちらが笑っている隙に上手いこと自分の取り分を得ようとしている男。

 まあ、許してやろう。これから浴びるように酒を呑めばどっちにしても同じことだ。

 

――喧嘩は終わり。今度は酒比べだ。

 

 

 痛む腹を押さえて立ち上がる。

 そろそろ笑いの波もひと段落。

 笑った後は、宴会だ。

 

「よし!」

 

 片手に持ち上げた杯に酒を注ぎ、それを男に向けて差し出した。

 男は、一瞬迷ったが、それを受け取って、片手に持った紫の瓢箪をこちらに渡す。

 

 

「……さて」

 

 一瞬間を空けて、瓢箪の栓を抜く。

 香るのは極上の香り。

 

「では――」

 

 

 互いに微笑みあい、「乾杯っ!」とそれをぶつけあった。

 中身の液体がとぷとぷと心地よい音を立てて私を誘う。

 

 

 そして、一気に喉に注ぎこんで同時に一言。

 

 

美味(うま)っ!」

 

 

 久方ぶりの美味なる酒は、命の洗濯。

 酒は百薬の長とはよくいったもの。

 

 

「よし、どんどんいくよ!」

「いや、もっと大事に……こっちにも!」

 

 

 一気に飲み干そうとする私とそれを奪おうとする男。

 酒宴という祭りはまだまだ始まったばかり。

 

 

 どうにも愉しい、喧嘩の後だ。

 酒が美味くて、赤ら顔。

 

 

 





 まったく鬼らしい。
 そんなこんなと酒びたりの話。


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