食べてもいいか、そう尋ねられれば――勿論、それは駄目だという。けれど、相手が必ずしもそれをやめてくれるとは限らない。
ましてや、お腹を空かした子どもなら、さらには、それが妖怪の少女などであった日には、万に一つの可能性もなく。我慢のきくことなどあるはずもない。
つまりは――。
「……っ!」
一発の光球。
さっきまでのとは比べ物にはならないほどに弱く、しかし、確かな形で撃ち出された力は、それなりの威力を持ってこちらの身体を打ち据えた。
鈍い痛みと共に、視界がぐるりと回転し、浮遊感の終わりと共にぶつかる地面。己の身体が地べたへと軽く叩きつけられた。
致命傷ではない。けれど、これで完全に動けなくなったことは確かだ。
――終わり、か。
折角にここまで粘り強く耐え切って、千に一つの可能性に全てを賭けて、それを掴み取ったというのに。
結局は、自分の読み違い。
相手の地力によってそれを引っくり返された。思惑通りに進んだ好運の中、予想以上の不幸に呑みこまれ、面白いほどの逆転にあったのだ。
一か八かの賽の目は、最良の目をもってしてもなお届かず、その運の尽きを告げる。
――まあ、らしいっちゃあらしいか。
ある意味では、新鮮な――懐かしい痛快さでもある。
それは、こんなにも生きてきた時間をもってしても、それ以上の奇想天外な出来事が、まだまだ世界には存在するという証拠なのだ。行き会ったそれが、たまたま規格外の妖怪で――少女であっただけ。
己の積み上げてきた歴史の深さも、それ以上の高さとの出会いに殺されてしまった。
それもまた、面白い巡り合わせともいえるもの。
――まったく、退屈しない世の中だ。
奇跡あり、運命あり、偶然あり、必然あり。
待ったなしの出たとこ勝負。仕切り直しはあれども、やり直しはきかない。どんな不思議があってもおかしくはないからこそ、何が起こっても不思議ではない――というのが、世界の仕組みというもnだろう。
これもまた、運が悪かった。
己の行い――選択を間違えたというだけ。
――ただ、それだけのこと、か。
寝ころんだ地面から空眺め、諦感の息を吐く。
吐いたそばから冷やされて、雨の音へと変わるか細い温かさ。
「……」
こういうとき、人間というものは、もっと泥臭く足掻いてみるものなのだろうか。そうも思ってみるが、流石にろくに身体も動かないというのだから仕方がない。
どうしようもないと、こみ上げるが年寄りの潔さというのものだ。
それに――
――ここ千年辺りは、なかなかに面白かった。
予期せぬ再会。偶然の出会い。
自分と似た存在。似ていない存在。
懐かしい、微笑ましい、感慨深い――忘れがたいもの。
くるくると巡る記憶の中で、からからと音を立てて回る渦。
楽しく、面白く、滑稽で。
寂しく、辛く、苦難ばかり。
ひどく面倒で、手放しがたい。
それでも関わりたいと、望むもの。
そこにいたいと、願うこと。
――満足、か。
これで上出来なのではないかと思う。
ここらが潮時ではないかと思う。
『本当に?』
そう問われれば、まだまだ迷ってしまうほどに未練はあるのだけれど、それこそ、思う以上のやり残したことがいくらでも思い浮かぶのだけれども。
――まだまだ、『人間』だったってことかね。
この島に暮らす人の数ほど以上に生きながらえておいて、今更ながらにそんなことを思ってしまう。永い時の中で、未だに手放せぬものを改めて実感し――笑ってしまう。
「かかかっ」
自嘲を含めて。
まだまだ、『生きていたい』という感覚を滲むのを噛み締めて――笑いを飛ばす。
その、空っぽな空に向けて。
――そういや、まだ、名前も聞きにいけてなかったな。
死に際に思い起こすにしては、いささか的はずれなものが頭に浮かぶ。
それは僅かに風にのった花の香を感じたからか。ちょうど昔話ばかりを考えていて、その引き戸が開きやすくなっていたからだろうか。
――そういや、『今』の名前も……。
そろそろ腰を落ち着けようかと思っていたのに、間の抜けたことだ。最後は名無しのままに終わってしまうのかと、少し残念にも思えてしまう。
案外、そんなものなのかもしれないが。
「――」
響く幼き声。
何を話しているのかもよくわからない。
ひどく、眠いのだ。
「……」
名もなく野垂れ死ぬ、墓無き老人。
無縁仏で、荼毘にもふされず腹の中。
何も遺さず、露と帰す。
「それがお似合い、か――」
今まで散々に勝手をやってきたのだ。
そんな末路も仕方がない。
柄にもなくそう想ってしまって――目を開ける。
隣に立った気配。感じる誰か。
どうせなら、痛みなく終わってほしいのだと考えて――
「――あらあら、こんなところに落し物」
響いたのは、天使の加護か、悪魔の囁きか。
どうにも、面白そうに。
「私が拾ってしまってもいいのかしら?」
どちらにしろ、こんな雨に出歩く者だ――大層、酔狂な存在であるに違いない。
そう考えて、再び笑う。
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訪れた森、その奥に感じた気配。
その微かな力の流れを辿って探し当てたのは、森の中にぽっかり空いた小さな広場と焦げついた大木。
そこに倒れ伏す男とそれを見下ろす少女。
懐かしい顔だった。
「――お姉さんは何? これは私のだよ」
生きているのか。死んでいるのか。
雨の降り注ぐ暗闇の中では、それは判断しづらい。
――けど……。
そう簡単にその男が死ぬはずがない。
こんな幼い妖怪に敗れてしまうほど、一筋縄ではいかない癖の強さを持っていた――そういう風情を抱える男だったはず。
そう思った。
ではなぜ、こんなにも、微かにしかその力を感じられないのだろうか。
「あなた、何をしたの?」
にこにこと笑う少女に対して、問う。
何を考えているのか、何も考えていないのか。本当に、幼い子供のような表情で、私の前に立つ妖怪。
「なにって?」
金色の髪を赤い布で結んだ少女は、小さく首を傾げた。
その姿には、何の脅威も感じられず、妙な違和感がありこそすれ、ただの小妖怪の一匹でしかないように思えた。
それがどうして、ここにいるのだろう。
辺り一面は荒れ果てた荒野と化して、暴風でも通り過ぎた後のような有様だ。漂う力の残り香も、ここで何かがあったということをはっきりと語っている。
――ついさっき、ほんの少しだけ前のこと。
ここで、何かが起こっていたのだ。
恐ろしく、怖しい――とても、面白そうなこと。
それが通り過ぎた。
起こり終えたその結果が、今の状況なのだろう。
残ったのは、伏した男と少女の姿。
そこに訪れた私。
――一体何が……。
どんなことがあって、このような状況となったのか。
それを私は尋ねているのだ。
けれど――
「私はただ、お腹が空いたから――」
美味しそうだったから。
食べたかったから。
丁度良かったから。
少女が話すのは、どこかずれた話。
要領を得ず、結局のところ、何の説明にもなっていない。ただ、お腹が空いたからそれを食べるのだといっているだけ。
何かが起こった後に、この場所に偶然訪れたのだろうか。けれど、それにしては、自分がどうしてここにいるのかすら、少女はわかっていないようだった。
――まるで、全部を忘れてしまったような。
ゆらりゆらりと、金色の髪の間で揺れる赤。
物珍しい髪飾り。それが視界の中で妙に印象深く視界に移り込む――僅かな血の香りを感じて、そこにある混じり物の朱を見つける。
そして――。
「――そういうこと」
その先に見えた力の片鱗と複雑に絡まりあう何か。
力を使いきったかのような男と今まで全てがまっさらとなった少女。
なんとなくだが、合点がいった。
――面白いことに、なっているわね。
別にどうというつもりもなかったが、これは貸しになる。
この前に少々不意を突かれた分、この男に貸しを作っておくというのも面白い。
丁度、退屈していたところだったのだ。
「……」
考えるのは、少々の嫌がらせ。
底の見えなかった男に対して――随分と顔を見せなかった男に対しての少しの意趣返し。
「なに?」
思わず浮かべた笑みに、首を傾げる少女。
空っぽそうな頭を斜めにし、ぼうっと口を開ける。
「ごめんなさいだけど、この男には私と先約があるの――悪いけど、もらっていくわね」
ぼろ切れのような男を指して告げる。
首を傾げていた少女は――一瞬の沈黙の後、やっとそれを理解して、ぷうっと頬を膨らました。
そして、可愛らしく、けれど、短絡的に――。
「これは私のごはん――横取りなんてさせないわ」
不意に訪れる暗さ。
少々から広がった何かが、すっぽりと私を飲み込んで真っ暗闇。
辺りから、景色が消えた。
「えっと、こっちかな?」
少々、驚かされた所に、周りで響く音。
何かが吹き飛ばされる音がして、小さな空気の振動を感じた――まったく、見当違いの方向で。
「あれ、お姉さん。どこにいるの?」
叫びながら、続けられる攻撃――ともいえないめちゃくちゃに放り出しているだけの力。ほとんどこちらに届くこともなく、辺りを無駄に削っているだけの、てんでなっていない動きのものばかり。
「こっち……?」
すぐに視界も晴れて、遠ざかっていく黒の球体が見えた。
私は何もしていないのに、危険の方から去っていったのだ。
「えっと?」
思わず漏らした声にも気づかず、辺りをぐるぐる回る黒。空っぽそうな頭は、どうやら本当に何も入っていない状態だったらしい。
まさか、自分も視界が利いていないのだろうか。
「――ぐあっ!」
その流れ弾の内の一つが、地面に転がる襤褸雑巾へと当たった。少々、痛そうなうめき声を上げようだが、それほど威力もないようなので大丈夫だろう……何やら、気の抜けてしまう光景だが。
「そっち? いや、こっちかな……」
呟きながら蠢く闇。
ぴくぴくと震えたままに付す人間。
また、わけのわからない状況だ。やる気も削がれてしまった。
「――まあ、いいわ」
ふっと息を吐き出し、気持ちを切り替える。
一応、私と戦おうとしての行動なのだから。
「少し、相手をしてあげる」
呟いて、片手に持っていた傘をそれへと向けた。
なかなか愉快なことな状況を残してくれたので、少々やさしめに。
「大丈夫――多分、死にはしないわ」
少しの力を込めて――。
「――!?」
その真っ黒の塊は、音もなく呑まれて、何処かへと吹き飛んでいった。
遠く方へ、見えなくなった。
「……あ」
そうしてしまってから、少しの後悔。
これは、それなりに気に入っていたのに、と。
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荷物の中から包帯と薬を取り出し、深いものから順に治療を施していく。本当は、ちゃんと傷口を洗い流し、清潔な状態で行った方が良いのだろうが、この雨では仕方がない。
軽く布でふき取り、傷口を固定するだけの応急処置だけでも済ましておく。
――体力も何もかんもが空っぽで、札もなし……こりゃあ、長引きますか。
治療符の使用も、気力を消費して回復を底上げすることもできない。本格的な治療はある程度休息をとってからでなければ行えないだろう。
今は、それくらい肉体的にも精神的にも消耗しすぎている。
「そんなに手強い相手だったの?」
それを興味なさげに見つめながら、
退屈なのか、その残骸をくるくると手遊びしている。少し残念そうにしているのは、それがお気に入りだったのだろうか。
「ええ、お天道さんを相手にするくらいに、ね」
そんなことを考えながら、竹製の水筒を荷袋から取り出し、中身を口に含みながら答えた。
婉曲した表現ではあるが、言い過ぎというほどではないだろう。能力的にも、実力的にも。それほどの格の差があった、ということでもある。
「久々に、死にかけたました」
誇張なしに、そう思う。
ただ単純に死ぬところだったというだけでは、己の記憶の中でも五本の指には入るくらいの窮地ではあっただろう。
危ない、という線をほとんど通り過ぎていたというものだ。
――まったく……。
嘆息して、疲労に震える身体で思い切り息を吐く。
何とか生き残らせてもらったと、安穏の呼吸ができる。なんとか、生き残ったと、それを楽しめるのが、やはり嬉しいものだ。
これはまた、運が良かったということで終われる話となった。やはり、自分のくじ運は、最悪最低までは落ちないもので――幾分、凶の成分が強いという気もするが、それでも、生き残れる処には留まった。
だからよし、と思っておこう。勿論、こんな役回りを演じさせた演出家がいるのなら、一度はぶん殴ってはみたいものだが。
「ふふふ」
そんな憔悴しきり、胡乱な思考に逃げている己の様子に、少女はくすくすと面白そうに笑っている。
こっちは、笑い事でもないのだが、確かに端から見ていれば面白いかもしれない。気持ちは分かる――が、やはり、自身のこととしては体験したくないものだ
こういうのは眺めて楽しむというのが正しい。実際やって、どうにか九死に一生を得たとしても、訪れるのは徒労感のみ。気力も体力も、使えるものは全部使ってしまい、正直、今すぐ倒れこんでしまいたいほどに疲れきっている。
眺めるだけなら酒の肴にでもなるだろうに、参加しては一滴も呑めないほどに、意気が上がってしまう。
こちとら、随分と歳を取った老人なのだから。
「ふう」
そんなところで、やっと一息ついた。
治療を終えて、包帯と薬を仕舞い、ついでに荷物の中身を確認する。爆風や流れ弾の煽りを受けて、少し中身が散らばってしまっているが、袋に記した強化の印がなんとか作用してくれたらしい。
大体のところは無事ですんでいるようだった。
――良かった良かった。
これまで失くしてしまっていては、大損どころの話ではなかった。草臥れ儲けではあったが、不幸中の幸いほどには、自分にも運が残っていたらしい。
「大丈夫だったの?」
落ち着いたこちらを見て、にこにこと微笑みながら少女が尋ねた。
「ああ、大丈夫」
こちらも微笑んで返した。
そこで――
「……」
「……」
話が切れる。
訪れるのは、妙な沈黙。
どちらも微笑んだまま――居心地はすこぶる悪い空気で。傷ついた身体には堪える圧力が、辺りに満ちていくのを感じてしまう。蛇ににらまれた蛙、というわけでもないが、何やらそれに近い雰囲気で――
――……。
少女はこちらを見ている。
声を出さねばならない。
これ以上、面倒事は御免だと、本能が研ぎすまされているのだろうか。この状況を刷新せねば、そうしなければ、再び何かの事件に巻き込まれることとなる。そんな妙な予感が胸いっぱいに広がっていく。
そういえば、なぜ――
「ここには偶然に?」
とりあえず、その予感を振り切るために口を動かす。
眠気に頭は鈍くはなっているが、それでも、命の大切さには代えられない。
何やら、少々思考がぶっとんでいる気がするが――まあ、いいだろう。何もせずに巻き込まれるよりはましというもの。
「――ええ、癇に障るのに会ったから、気分直しの散歩をしていたの」
この森の子達にも少し挨拶をね。
どうにも回復していないこちらの思考を察知してか、なにやら面白そうに少女は笑う。そして、近くの木陰にしゃがみ込み、足元にあった一輪の花を機嫌良さそうに眺めている。
壊れてしまった傘を捨てようとしないのも、この森を傷つけないようにする配慮なのかもしれない。その姿には、そんな優しさが垣間見え――変わっていないのだと、その己と関わった僅かな記憶を思い出す。
そして――
「――まあ、といっても、近くで懐かしい気配を見つけて、そっちにいってみたら」
面白いものを見つけたのだけど。
そのままの姿勢でこちらに視線を向け、にっこりと、綺麗な笑みを浮かぶ――その笑みに、なぜだか背筋が冷える悪寒がするのは、きっとあの時と同様のもの。
多分、これは気のせいだ。
それはきっと、花のような美しい笑みというだけ、であって恐ろしさなど微塵も感じない。己が疲れているから、ありもしない妄想に苛まれているだけだ。決して、彼女の心根は悪いものではないだから――あの時も、ちゃんと見逃し……見送ってくれた。
そして、今もこうして助けてくれたのだ。
だから――
「もうちょっと早く着いていれば――もっと楽しめたのかしらね」
すっと細まった瞳――その奥にある炎など、見えはしない。
世界は平和なのだ。一歩踏み間違えれば奈落の底といったそんな剣呑さなど、何処にもない。ここは、綺麗な花の咲く場所で、可憐な少女が笑っている。
狼なんて潜んでいない。
そう、思いたい。
「どうしたの?」
笑みを崩さぬままに、尋ねる言葉。
多少、その中に被虐的なものが感じられるのは、きっと勘ぐりすぎだ。
――一応、助けてくれたのだから。
どんな理由があったにせよ、それに違いはない。
助けられたことは確かなのだから。
――どうなったとしても、ちゃんといっておくべきことはある。
こういうときに使う言葉。
昔から変えずに、それだけは素直に伝えることにしているもの。
それを――決して、後悔として遺さぬように。
「忘れないうちに、言っておかないと、ですね」
「うん?」
荷物を後ろに寄せて、身体の向きを相手の方向へと合わせた。そして、相手に真っ直ぐと視線を向けて、姿勢を正して、両手を揃える。
その様子に、少女は訝しげに首を傾げて――
「ありがとう」
言った言葉に、さらに疑問を纏わせた。
さっきとは、また違う沈黙が再びその場に打ち上げられて――空気は、ぽかんと穴あきとなる。
「……」
いや、黙られても困るのだが。
「忘れないうちに、伝えておきます」
きちんとした例の形をとっての言葉。
けれど――なぜだろう。自分がこういう行動を取ると、必ずといってもいいほど、何かへんてこなものでも見たように皆が黙り込む。そんなに礼を逸した人間だとでも思われているのか。どうにも、呆気に取られたような表情で、誰も彼もが首を傾げる。
よくわからない――だ、感謝などしない人間だと思われているのだとしたら、随分心外な話ではある。
こんな自分でも、どんなにふざけても、世話になった相手には感謝を伝えるということをはっきりと決めているのだ。
だからこそ――
「本当に助かりました。この礼は必ずに」
深々と頭を下げて、さらに丁寧に感謝の意を示す。
命の恩人にくらい、素直に礼を伝える。らしく思われなくとも、それが、数少ない自分の流儀――届けられずに終わるよりもその方がずっといいと、抱えたまま進むのは重すぎると、その身をもって知っているからこそ、忘れずにおく。
それが、僅かながらの己の礼儀だ。
――と……。
こんなことを考えていることこそ、柄でもない流れではある。
微妙にずれている思考。考えすぎにもほどがある状態といった具合に調子が狂っているのだ。大分草臥れている分、少し混乱してしまっているのだろう。
――血が足りてないのかね……。
少々貧血気味の頭を上げて、そのまま後ろへと身体を倒す。
調子のおかしい意識を落ち着けるように深く息をつき、雨宿りをしている木の幹を背もたれに身体を預けた。
気を抜けば眠り込んでしまいそうにもなるが――この方が、まだ楽となる。
――まだ、眠ってしまうのは早い。
そうしてしまうのは、あまりに不躾だ。
首を振って、少しでも意識を取り戻そうとするが――ふと、隣に向くと、不思議そうな顔でこちらを覗き込む姿。
何やら納得できないというように、おかしな感じに見つめられている。
眠気に濁った思考では、上手く判別できないが、何か文句でも言いたそうな様子だったので。
「どうかしました?」
疑問の声を上げるが、帰ってきたのは軽い溜め息。
「――相変わらず、よくわからない人間ね」
小さく呟かれた言葉は、降り続く雨の音にかき消されてよく聞こえない。ただ、呆れられているということだけはわかった。
先ほどからのぴりぴりとした圧力も、少し薄れたように感じて。
どうにも首を傾げて――
「えっと、お嬢……」
「……うかよ」
聞き直そうとした言葉を中途のところで遮られてしまう。
口をつぐんだこちらに少女はそっぽを向いて。
「前にいったでしょう――忘れたの?」
そのままゆっくりと立ち上がり、弱冠小振りになり始めた雫の方に視線を向けた。
その先にある何かを眺めるように――いつかの花畑で見たような姿で、言葉を紡ぐ。
記憶と重なり、幻視するのは、辺り一面に咲き誇る彼女の友人たちと――交わした会話。
「私が決めた私の名前」
その中心に立つようにして。
少女は、宣誓するように、堂々と言い放つ。
「四季の花と共に生きる花の妖怪――」
自らを誇る言葉として。
美しい笑みで飾られた姿と共に。
「――
己という存在の、その名を告げる。
____________________________________
「よく覚えておきなさい」
悠然と言い放った言葉を、男は静かに受け止める。
黙り込み、沈黙のままに何かを見据えて。
――……。
その目は遠く――あの時と同じように、何かを想い出しているようにも見えた。失ってしまったそれを、何処か羨むような、眩しいものを見つめるような瞳で私を見つめる。
私には、まったくわからないものを抱えた姿で――
「――ああ、忘れない」
男は、それを呑み下す。
苦しくも、少し楽しげに。
「良い、名前だ」
垣間見えたその姿は何処かへと消え失せて、温和に、愉しそうに緩く笑ういつかの原形に。それでも、前のときのような軽い調子はどこか薄れていて――その褒め言葉を、妙にむず痒く感じてしまう。
本心で、本音で語っているのが見て取れてしまった。
――調子が狂うわね……。
その雰囲気に呑まれてしまって、なんだか毒気を抜かれてしまう。折角、助けてあげたことを盾にして遊んでやろうと思っていたのに――そんな気分もなくなってしまう。
前の時といい、今の状況といい、相変わらず、狂わされてしまう。
ずれた――欠けた男の内を覗いてしまって、転んでしまう。
「ああ、でもすいませんね」
なんだかもやもやとする気分の中、言葉は続いていく。
刻み損ねた時間を忘れて、そのままに進んでいく。
男は恒常通りに巻き戻った。
そして――
「まだ、名前が決まってないんですよ」
本当にすまなさそうに、そう告げらた。
返すものがないと、どうしようかと悩むように口元に手を当てて、考え込む仕草を見える。恩人に礼を失ってはいけないとでも思っているのだろうか。
――妖怪相手に対して……。
しかも、その相手はこの私。たとえ、同じ妖怪同士であったとしても、このような態度をとるものなど、ほとんどいない。余程の馬鹿か絶対的な自信を持つ井の中の蛙程度――ほとんどの者は、その前に逃げ出している。
ましてや、こんな人間風情が、まるで私と対等であるかのような態度で話し、当たり前の礼儀を払う。これは、笑い話にもならないほどに可笑しな話だ。
――舐められているのか。侮られているのか。
人としての姿を弁えさせてやろうか。
普段なら、そう思っても仕方がないことだってあるのに。
「ふむ、どうしますかね」
爺臭く呟く男。
それを、そうとは思ってしまえないのは、あまりにも平然とそれを行うからだろうか。当たり前のことだとでもいうように、男がそのままの自然体で、私に接しているからだろうか。
――何なのかしら、ね。
狂わされている。
興味をもたされ、埃と払ってしまうには惜しいと思わされてしまう。愛しい花々以外の対象にこんなことを思うなど、私にとっては本当に稀なことなのに。
「はてさて……」
そんな様子を知ってか知らずか。
何かを思いついた様子で、男は口を開く。
邪気もなく、畏れもなく――
「なんなら、適当に決めてくれませんか?」
「……?」
また、よくわからないことを問う。
相手を掴めていない私を、気にせず問いを続ける。
「なんとなくでいいんですがね――俺の名前を、何だと思いますか?」
何気ない様子で、それを尋ねる。
解らぬ言葉を、語りを回す。
____________________________________
名前を問う。
それは通過儀式のようなものでもあり、その者との繋がりを認めるでもある。何処かの共有体で、何かしらの関係で、呼び名を決める。
呼ばれる名と、呼ぶ名を交換する。
一時の関係なら、それは必要ない。けれど、それを自分にとって少しでも大切なものだと思うなら、記憶に残る存在としての記号を教えあうのだ。固有のものとして、固定された存在としての名詞――名前を持つ。
それが、互いに関係続けていく要の一歩というものだろう。
――前に八雲のにも聞いた気がするが、結局うやむやだった。
ここで、それを決めておくのも良いだろう。
なんとなくだが、結構な付き合いにもなる予感もし――そろそろ、今の名前を決めておいたほうがいいとも思っていたのだ。
だから――
「あなたは――」
軽い問いかけの、その答えを待つ中、まるで睨みつけるような視線が己を射抜いた。
そして、疑問の言葉が投げられる。
「あなたはどうしてそれを
責めるように、刺さるように――それは問われた。
堂々と放った己の名と、その重さの違いを示すようにして。
こちらの内へと投げ入れられた。
――……。
いや、そうではない。その言葉に、本当はそんな意味など込められてはいない。それは、ただの疑問で、自分に対する首を傾げた質問だった。
単なる好奇、わからないから聞いただけ――それだけの疑問。
勝手にそれを重く受け止めたのは、自分自身――震源は、自身の内側で。
「理由なんてのは――別にないですが……適当に考えてくれれば助かりますってだけですよ」
笑う。
言い逃れようとでもするかのように、いつもの軽い調子で
そう、それはただの呼び名であるのだ。
深い意味はない――そういうものだとして。
――名前なんてものは……。
一つの記号に過ぎない。
けれど――
「どうしたの?」
あの日の彼女との会話で、己は何と言ったのだろう。
石が落ちて、もうもうと泥が舞い上がる。
――……。
被った面がずれたのか。
いつもは誤魔化せるはずの態度に、疑問を抱かれる。
それを慌てて否定して、いつも通りの笑みを貼り直す。
――疲れてる、のかね。
多分、そうだろう。
そんな
それで、満足だった。
だから、大丈夫。
「何を、考えてるの?」
過ぎった何かを奥へと仕舞いこんで。
覗き込まれる目を見返す。
「いや……なんでもない、ですよ」
少し眠気が襲ってきただけで。
少々増した疲労感を、頭をふって振り払いながら、笑みを返す。
まったくの普段通り、変わりない平常に――蓋を閉じる。
今の己通りに。
積み上げてきた自分のままに。
「何も、おかしなところはない」
そう、片付ける。
「……」
そんな様子をじっと観察するように眺める少女。
声無き花の、その意志を知る少女は――何かを見つめている。
覗きこむように、僅かなささやきを聞き取るように、己を澄まして――
「そう」
小さく、頷いた。
何かを考えるような仕草をした後、大分薄くなった雲の下に手を翳し、ほんの少しの水滴を掴んで――雨の終わりを測る。
多分、もうすぐ降り終わる。
「私はそろそろいくわーもう、大丈夫でしょう?」
しばらくそうやっていた後、彼女は言った。
それは大丈夫だが、せめた雨が止むまで待たないのかと返すと、にっこりと笑って答えた。
「いったでしょう。癇に障るのに会ったの」
ここにいるとまた会っちゃいそうだから。
そういって、その緑の髪を小雨にさらしながら、彼女は去っていく。壊れた傘は、なぜかこちらの荷物の上へと置かれていた。
どこか、別の場所へ捨てておけと言うことだろうか。
「ああ、そういえば――」
そのまま歩き去る前に。
少しだけ振り向いた少女は――
「今度は、ちゃんとした
そんな言葉を残して――何処かへ去った。
自らの存在を誇るように、悠々と咲きながら。
それを――
「……」
無言のままに見送った。
明るさに目を細めて――内に沸いた久方ぶりの何かを、租借しきれずに、ぼうっとしたまま見送った。
____________________________________
――見つけた。
なぜか、それは相当にぼろぼろで、妙に疲れた様子を見せていた。突然現れた私の姿を見て、なぜか、合点がいったという表情を見せて、けれど、こちらに焦点を当てていない様子で。
「――なるほど、癇に障る、ね」
小さく何かを呟いていたように見えたが、か細すぎてよく聞こえない。
けれど、何だか少しいらっとしたので、男の下にいきなり隙間を開いてやった。
珍しいことに、何の抵抗も出来ずにその中へと落ちていったので少し驚いてしまったが――どうやら、本当に弱っているらしい。
丁度良いので、そのまま転移させて、目的地へと場所を移すこととする。
話し合いはこれからだが、これほどに疲れている相手なら、案外簡単にすませられるかもしれない。その身に、何があったかは知らないが私にとっては都合が良い状況だった。
――無駄な時間をかけずに済んだ。
そう考えて、私は駒を進める。
時間は待ってはくれないのだから、急がねばならない。
「……」
その僅かな逡巡の間に、空を見上げた。
欠けた雲の間から差し込む光は、この先の吉兆を表すのだろうか。
降りやんだ雨の跡。
どうやら、虹の橋は架かってくれないようだった。
話の切り替わり。
尾を引いて、次の話へ、というところ。
読了ありがとうございました。
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