はるか昔、大陸から歌が伝わり、この国でも様々な歌が詠まれるようになった。自然の営みから人の感情まで、全ては優美に詠いあげられ、一種の芸術として、国の文化の一部とも呼べるものへと洗練されていったのだ。
その中でも、自然の一体系――花というものは人々の目を強く惹くものだったのだろう。それを扱った歌というものは、数え切れないほどに存在している。
花というものは、それほどに人の感情を――心を揺さぶるものであったのだ。姿や香、在り方としても、それは人の琴線に触れ、目に留まるものであった。
いつからか、美しさの代名詞ともなるように――
けれど、その基――原型となった場所。大陸においては、花というものは、主に『梅』という存在を指す代名詞であったといわれている。
美しい薄紅の花といえば、詠うのは『梅』と決まっていた。
それは、当たり前の、当然のことでもあった。
それが、代わっていったのだ。
いつの間にか。いつからか。
この国では、花は『桜』となった。
それは、この国が、自らの美しさを知った瞬間だったのかもしれない――自らの価値に気づいた瞬間だったのかもしれない。
誰かが伝えた言葉が、誰かのものではなく、自らの内から自然と湧き出るようになった。心から、それは血肉となった。
そんな『誇り』とも呼べるかもしれない訪れ。
この国の美しさ。一つの象徴。
薄明るく灯る
薄紅に染まる光の下。
「それを美しいと思う」
たとえ、自画自賛であろうとも――己の内の見ての思い上がりなのだとしても、その心は問うというものだ――自らを誇れるということは、それだけで、とても尊いことなのだ。
少なくとも、己の心はそう感じている。
変わらぬ心に、根付くものを想い出している。
「それはきっと悪くない」
そう、思えている。
そう、それはきっと悪くない感覚なのだ。
自らを大切にするからこそ、人はその内に――本当に大事なものに、自分という存在があるからこそ、大切にできるということを知るのだから。
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はらはあと散っていく欠片たち。
薄い紅色、桃色のそれは降り積もり、雪の様に地面を染める――深く、緩く積んでいく。
雪と違うのは、そこに冷たさはなく。溶けぬままに、ただ、積もっていくということ。
温かく降り重なっていくこと。
「――絶景絶景」
高く続く登り階段。
その上から降り続ける花びら。
高き場所から、ひらりひらりと風に舞い、階段を少しずつ染め上げていく色。
――いい具合の景色ってもんだ。
そんなことを考えながら、落ちる花片を眺めた。
「――桜、か」
大陸の方では、春の花といえば『梅』の花。うわさで聞いた程度の話だが、それが主とされているらしい。
けれど、この国――この日出ずる国なら、なんとなくだが、この『桜』の花の方が合っているように感じられる。
築き上げてきた豊かな強さではない。しなやかで、それでも芯の通った強さ。
散っていく弱さの中にあるからこそ、残る余韻。
――この国には、そんな柔さが合っている。
そんなことを思っている。
あくまで、主観ではあるのだが。
「――もし」
そのまましばらくぼうっとしていたところに、背後から声をした。
振り向くと、初老の男性が立っている。
「御主、ここで何をしておる」
白い髪に、緑を基調とした着物。
ゆるりとした佇まいでこちらを見据えているが、その気配は凛と澄んでいて、一縷の隙も感じさせるように、ぴんと糸が張っているような印象だ。
腰には二振りの刀。長刀と短刀を一振りずつ帯びていて、一目で、それが侍という存在なのだと理解した。しかも、それなりの達人――その振る舞いからもそれが見て取れる。
そういう、雰囲気を持った御仁である。
けれど――
――うん……?
何か、違和感がある。
多分、人間なのだろうと、思うのだが……なぜか、多分としかいいきれない。僅かなずれが――姿形は確かに人間のものなのだが、何か別のものが混ざり込んでいるような――そんな気配を感じる。
――この感じは……。
「おう、聞こえておるのか」
もう一度声をかけられて、ふっと我に返る。
ここで黙り込んでしまっては、自ら不信を煽っているようなものだろう。こんな通りすがりの男が、黙り込んで何も話さないなど、怪しいにも程がある。
――敵意は感じない……多少妙な気配はするが、まあ、大丈夫だろう。
そうそう厄介事は転がり込んでくるものではない、はずだ。ましてや、このような和やかな風景の下で。
そう思い直して、意識を切り換えた。
「ああ、申し訳ない。あまりに桜がきれいなもので」
少し見惚れていました、と緩く笑う。
外面上に築く、人の良さそうに見える顔。
「……ふむ、そうか」
その笑みに――一瞬、その侍はいぶかしむ様に目を細め――すぐに、元の無愛想な表情へと戻り、納得するように頷いた。
そして、こちらと同じように落ちてくる花びらを眺めながら。
「確かに見ごろではある――が、あまりここに長居するなよ」
悪いことが起きるかもしれん、と重苦しく息を吐いた。
「悪いこと?」
「ああ、そうなりたくなければ、ここには近寄るな」
首を傾げるこちらに、抑揚もなく答える侍。
忠告するように、半ば、威圧的に脅しつけるような声で言い渡されたそれは、「その悪いこととは?」などと聞ける雰囲気のものではない。
僅かに剣呑なものを含んだ、ここにいて欲しくないという気持ちの表れ。
――……。
この桜の道の上――登った先にある、あの場所に何か関係があるのか。
そんな考えが頭をよぎる。
勧告であり、それでいて忠言とも感じられるその声音の重みには、『ここにいれば、何があっても文句はいえないぞ』という色が透かして見えるのだ。
判るように、判りやすいように、示している。
――『近寄るな』か。
遠回しに、真っ直ぐと。
「ここの屋敷に……何か?」
「――深入りせんでくれ」
この上に屋敷がある。
それ自体は、知っているものならば知っていることだ。僅かに指先を動かして――けれど、微動だにせぬままに侍は答える。手を出したくはない、けれど、踏み込むのなら容赦はしない、と。
そんな優しく、鋭い脅しを見せつける。
――ふむ……。
こちらを射抜くように細められ、剣呑な光を放つ瞳は確かにその役目を果たす強さを持っている――けれど、まるで、何かやりたくないことでもやっているように、迷いを含んでいるようにも見えるのはなぜか。
それは、その低い声の調子に僅かに混ざる苛立ちの調子からかもしれないし――先ほど見た、桜の花を眺め見る何処か寂しさを含んだ視線から感じたのかもしれない。
真っ直ぐに意志強く。けれど、迷いに、濁っている。
そういうものが、混ざり込んでいる。
――何がなにやら……。
ここは、そういうものとは無縁であったはずなのに。
それが、己のいない間に――己の過ぎた後に、何かが入り込んでしまったのだろうか。
あんなに、美しかった場所にも――。
「……」
悔やんでいるのに、それを呑み込まねばならない。
何かに耐えているような、そんな感情。重苦しいものが、その緩さの上に乗っている。
そんな、誰かを前にして。
「――すいません」
隔たりと拒絶。
変わってしまったという場所に、これ以上不躾に踏み込もうとは思えなかった。
何かを守るために、呑みこみたくもないものまで呑み込んで、滅私奉公に進む――その想いを邪魔する気にはならない。
この先には、きっと大事な何かがあるのだろう。守るべき――迷いを持つほどに、己を揺らすものがそこにあるのだ。侍は、それを守ろうとしている。
通りすがりの身で、ただ気まぐれに訪れただけの風来坊のままで、その傷口に触れるのは無責任で失礼だというものだ。
己という存在は、既に過ぎてしまった存在なのだから。
「では、すぐに行きますので」
風が通り抜け、桜が舞う。
しばしの間、沈黙が訪れる。
その豊かな香に、ふっと息をつき――
「もう少しだけ、眺めてからでいいですか」
桜を、とその優美な色を指差した。
それを見納めるための時間をもらうために。
「……」
侍は少し思案気に目を細め、少々の沈黙の後、「少しなら」と不躾に言った。
そして、何処か申し訳なさそうな顔をして――
「しかし、長居はせんでくれよ」
「ありがとうございます」
再度念を押してから、階段を登っていった。
堅物そうではあるが、元来優しい気質なのだろう。言葉尻にそう言うものが見てとれた。
そんな侍の後ろ姿を見送って、己は散り続ける桜を眺め続ける。その優麗さを最後かもしれぬと噛みしめる。
そして――
「――何か、あったのかね」
ぼそりと呟いた。
思い起こすのは、過去にここで出会った人の顔。
ここの主人は、そんな広い器の持ち主だったはずだ。風の噂で亡くなったという話を聞いて、この場所はどうなったのだろうとやってきてみたのだが――やはり、時の流れとは随分と早いものである。
あのときに見たその桜はそのままにあり続けていても、そこにあった温かさは感じられない。あの風流な歌と、温厚な人柄に、様々な人がこの桜をのぞみに、笑みをぶら下げて集っていたというのに――
「夢の跡、か」
今はまるで、何かが『死』んでしまったような。
そんな景色に感じてしまう。
もの悲しい。主人と共にその温かな世界も消えてしまったような――温度を失っている世界。
そう想ってみれば、その美しい桜は、まるで『墓標』のようにも見えた。
「……ああ、まったく」
しばらくそれを眺めた後、最後に息を吐いた。
そして、別れを告げるように丁寧に頭を下げてから――くるりと後ろを振り向いて、背を向ける。
ここはもう、あの時の場所ではないのだろう。
それを強く感じながら――通り過ぎていく。
恒常通りの、時間の流れ。
「――ん?」
けれど、その歩はすぐに止まることとなった。
妙な気配を感じて、後ろに振り向くこととなったのだ。
「なんだ……」
何かと何かが争うようなそんな感覚。
間に何かが挟まれでもしているように、微妙に解りづらくはなっているが――確かに、喧噪の気配がする。
――結界……?
いつのまにか、外界から切り離されるようにして、その階段の上方――屋敷のある方が薄い壁に包まれていた。ぼんやりと、意識を凝らさなければ、認識できない程に高度な結界で――それに気づくと同時に気配が強まり、余計に濃くなる、争いの色。
「……っ!」
僅かに見覚えのあるような気もする練達された技術による結界。しかし、思い出している暇はない。
間違いなく、何かが起きていのだ。
『深入りするな』
一瞬、侍の言葉が頭によぎったが――かまわずに石段を駆け上る。そして、たどり着いた先にあるのは、塞じたままの門。
「こりゃあ」
視界に移っている景色は、何の変哲もない向こう側と閉じた門。何の変哲もない。
けれど
すぐそこに感じる喧騒の気配。何の変化もない屋敷の風景の――その中で、起きている何かの気配。
「――無理があるってもんでしょう」
境界に覆われた扉に手を添えて、目を瞑る。
幻と現実、それを区切る境界の扉を脳裏に浮かべて、その鍵を開く様を思い浮かべる。
一瞬だけ、すり抜けるように。
ただ、『扉を潜る』だけ、そんな感覚で。
――お邪魔します、とね。
力を放つと共に、押し込むようにして身体を進めた。
閉じていた境界は何の抵抗もなく――その向こう側へのこちらの身体を呑み込んだ。
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刀を振る。
長刀と短刀の間合いを調整し、それぞれの隙を失くすように踏み込みながら、身体全体で刃をふるう。
薙ぎ、払い。
断ち、振るい。
長い年月を経て、研磨してきた技術の粋。片腕の力では絶つことのできないはずのものすらも断ち斬る、技の剣。半分が人ではない我が身だからこそ、たどり着いた境地。
そして、この身の一部ともいえるこの二振りの剣が合わさることで、己の技量はかつてないほどの高見に押し上げられている。
これさえあれば、斬れぬものなどない。
それほどの自信を持つまでに磨き上げられている――はずの剣。
それが――
「あらあら、物騒ね」
届かない。
目の前にふれることすらできない。
「……」
空間を割り、何の前触れもなく現れた妖怪。
薄笑いを浮かべ、主人のいる部屋の、その襖へと手を伸ばそうとした。
一瞬、驚き――次の瞬間には刀に手をかけていた。
瞬きの間もなく反射的に身体が動き、それをなぎ払った――というのに。
「何用だ。妖怪」
ふっと姿を消し、少し離れた場所に着地した妖怪。その五体満足の姿へ向けて刀を構えた。
薄く笑う妖怪は、それを面白そうに眺めて、こちらを観察する。ふと、興味持っただけ、そこらに珍しい虫が飛んでいるとでもいうような――軽薄な視線。
――強い……。
久しく見ていなかったが、妖怪退治の経験は積んでいる。そして、人型の妖怪というのが一番厄介だということも、よく理解していた。
それでも、思う。
――これは別格だ。
今まで退治した数々の妖怪、それを全て集めても足りないほどの実力を持っている。見たことがないほどに、見てはいけないと思ってしまうほどに、格の違いを感じてしまう。
その、にやにやと浮かべる薄笑いに、背中の汗が止まらないのだ。
「なに用だときいている」
その畏れを必死に押さえ込みながら、きわめて平坦な声を出す。
それに――
「ここの主人に用があるの……ちょっとした噂を聞いたものだから、少し気になって――邪魔しないでいただける?」
言葉とともに放たれる圧力。
深く覗かされた深淵――それに呑み込まれぬように、必死で腹に力を込めて、地面を踏みしめる。
「我が主は妖怪などに用はない。お帰り願おうか」
萎えかける意識を叱咤して、無理やりに相手を睨みつけた。そんなこちらに、相手は少々目を細めて――
「あら、ここの主人は客人を選ぶというの。どうも失礼な話ですわね」
愉しそうに、笑みを深くした。
そして、すっとその白い腕を持ち上げて――こちらの向こうを指す。
「――噂では、どちらかというと私たちに近いものと聞いたのだけれど……」
それが言葉となった瞬間、刀を振っていた。
最速で鳴らした刃は、何も存在しない空を斬る。
「人の話もきかないのかしら」
「我が主を……貴様らなどと同じにするではない」
怒りを込めて、檄を発する。
――そう、同じではないのだ。
報われぬ力を持ってしまった
そんなもの、そんな言葉を近づけてはならない。
――何も出来ぬ自分に……。
不甲斐ない従者ができることは、ただ、それだけだ。
そのためには、どんな覚悟も呑み込もう。
「――失礼な話ね。まあ、邪魔なものはどけて進めばいいわ」
そういいながら妖怪が手を上げると、空間に裂け目が入る。先ほどから使っている瞬間移動の前準備と見える仕草。
それを――
「遅いっ」
いいながら、一気に地面を蹴って、両手に持った剣を下から切り上げた。
空間の裂け目へと逃げ込む時間はないと踏んだのか、妖怪は滑るように後ろへと下がる――そこへ、上空からの影がかかる。
「いけ!」
半霊、我が身の半身。
己が半分でしか人でないことの証。
「……!?」
予想外の方向からの攻撃に妖怪は一瞬怯んだ様子を見せたが、半霊から放たれる一撃に手をかざし、不透明な壁のようなものを操って、それを弾く。
しかし、そのために動きが止まった。
その一瞬の隙に向け――飛び込むように全身を回転させて、すれ違いざま、二刀の刀を振りぬいた。
魂魄流。
自らの築いた技の中でも、最速の一撃を。
けれど。
「なるほど、あなたも……ただの人間ではないようね」
当たるはずの一撃に、手ごたえはなかった。
刀を構えなおした先に浮かぶのは、無傷のままに微笑む妖怪の女。
「――少しだけ、難度をあげることにするわね」
先程まではわざとだったのだろう。
こちらの一撃を食らう寸前の、ほとんど見えないほどの速度での移動。
わざわざ、空間に穴を空ける手振りなどする必要もない。
――能力を使用する前に仕留めたかったが。
頭の中で毒づいた。
相手がこちらを侮っているうちならば、まだ可能性があった。わずかにでも、戦っていられる可能性があったというのに。
「今度はちゃんと相手をしてあげましょうか」
そういってこちらに手を伸ばす姿には、もう微塵の隙もない。
――こうなれば相打ってでも……。
さらなる覚悟。
相手が一撃を放つ瞬間に、捨て身の攻撃を仕掛ける。
そうしなければ――命をかけなければ勝てない、これはそんな相手だ。
伸ばした手のひらに収束する光。
こちらも構え、唯の一撃に全てを込める気構えを練る。
主人を守るために命をかける覚悟を――その身に刻む。
「いくわよ」
収束された妖気が形をとっていく。
それが放たれれば、瀕死に近いダメージを受けるかもしれない。
額から脂汗が流れ落ちるが、構ってはいられない。
その分だけ、一撃分の力を溜める。
――ほんの一瞬……ただ、一撃を放つだけの間、命が保てばいい。
決死の覚悟を刃に込め、相手の攻撃に真っ直ぐに進む。
そうすれば、この剣が届くかもしれぬ。
ただ、それだけを考えて――二刀を持つ腕に力を込める。
――手傷。姫様が逃げられるだけの隙を……。
妖怪の笑みが深くなる。
その手が振るわれる。
己の意識を、その瞬間だけに傾けて――
その直前で――ほんの一寸手前で、妖怪の動きが止まった。
今までの笑みが消え、口元を押さえ、信じられないという驚きのものへと変わる。
「――私の境界を破った。いえ、すり抜けた?」
口の中で呟くように、ぶつぶつと何かを呟き、こちらの存在を忘れてしまったように、動きを止める。
――これは、どうした……?
依然として構えは続けているが、相手の変化に気構えが崩れ、息が漏れてしまった。
集中が途切れ、たたらを踏むような感覚で、精神が前のめりに転んでしまう。
――いや、迷うな。
それでも、戦いの最中である。
相手は隙を見せている――とはいえ、格上の相手に対して、それをそのまま飛びつくのはあまりにも愚策である。相手に余裕があるからこそ、その緩みに飛び込めるのだ。
いくら相手が驚きに身を固めたとはいえ、その反応はいうに及ばず、考えていないからこそ、加減抜きで反撃されることもある。一か八かの捨て身になった方がまだ可能性はあるのだ。
だから、この僅かな時間さえも力を溜めるのに換えて――乱れた意識を整え、再び集中を呼び戻す。
そこへ――
「――こんなとこで何やってるんだ……八雲の」
さらに、気の抜けるような、緩い声が響いた。
それに反応してしまって、どうにも集中し切れぬ己は、やはり、まだまだ未熟ということなのだろう。
____________________________________
仕切られた境界を抜け、屋敷の入り口へと出た。
先程までは、微かにしか感じなかった闘いの気配が、境界の内側に踏み込んだことで、強く感じ取れる。
――裏か。
幾度かだけ通ったことのあるその場所を思い出し、大体の位置を割り出す。
建物を迂回した先、あの桜が咲いている辺り。
――こりゃあ……。
予想以上な大きな力の気配。
それが、二つ―――いや、三つ以上感じられる。
それぞれが混ざり合い、干渉しあって、判別は困難だが
――そこらの中堅程度は一蹴できるほど、か。
何があってもいいように、ある程度の力を溜めながら、出来るだけ早い速度で走る。妙なものにかかってしまわぬよう、出来るだけ、己の存在がばれぬようにして――
――不意を打てば、多少有利になるかもしれない。
そんなことを考えながらたどり着いた先、桜が散りばめられた庭園の中。
そこには、二振りの剣を構えた先程の侍と――見知った、妖怪がいた。
「……」
一瞬で気が抜けて――腹から力が抜ける。
がくんとつんのめって、無様に転んでしまいそうになる。
「こんなとこで何やってんだ。八雲の」
驚き半分、呆れ半分に疑問が少し。
それを混ぜ込んだら、なんだか気が抜けた声が出た。
「なるほど。貴方だったのね」
そんな疑問の言葉に、一瞬驚いたような顔をした件の妖怪――八雲紫は、すぐに納得したといった表情へと変化した。
「それなら」などと呟きながら、納得したように頷いている。
「あなたなら――けど、どうやって私の結界をすり抜けたのかしら」
「それは力を……って、いや、その前に――」
己のことばかりで話を進めようとする身勝手な妖怪を止めて、ちゃんと話を聞き出そうと口を開いた瞬間に――鋭い殺気を感じて、とっさに飛びのいた。
「――貴様も仲間か」
見ると、先程まで立っていた場所に刀を振り下ろした侍の姿。
あきらかに攻撃態勢に入っている様子の御仁。
――ほんとに何をしてやがったんだ。
戦闘の気配、八雲紫の存在。切りかかってきた侍と、どうにも悪い考えしか浮かばない。妙な状況になってきたと、自然と頭を抱えてしまう。
やはりといっても、己は巻き込まれるのか、と。
「妙な気配を持つものとは思っておったが、妖怪変化の類か。上手く化けたものだな」
放たれた言葉に、向こうに浮かぶ元凶が、クスクスと面白そうに笑っている。
それに「何を笑っている!」だとかちょっと言ってやりたいものだが――確かに、まあ、自分でも真っ当なものじゃないという所は少々頷いてしまう部分がある。
いや、本当に人間ではあるのだから、それ否定しなければならないのだが――最近は、少々心配なところではある。少し、人間を失くし過ぎてはいないかと――
――いやまあ、そんなことを考えてる場面じゃないか。
なんだか様々な気持ちが混ざりあって何ともいえない気分の己をどうにかまとめ、この状況を落ち着かせてしまおうと――開こうとした口は、追撃をしかける侍の一閃二閃によって妨げられる。
「――っと」
予想以上に鋭い剣さばきに、さらに間合いを開き、ぷかぷかと空に浮かんで見物している妖怪の隣まで移動した。
優雅に笑いながら、それを観察する妖怪に、侍は舌打ちして動きを止める。
――合流した……とでも思ったかね。
同時に相手するのは、分が悪いとでも思っているのかもしれない。
そんな気はさらさらないが――話しをするには丁度いい間だ。
「すみません――こっちのが何か迷惑でもかけましたか?」
「あら、ご挨拶ね」
わざと引っかかる言い方をすると、八雲が不満気に噛みついてくる。
それに向かって眉を顰めながら、そちらだけに聞こえる小声でいった。
「……どう見ても、この状況は、お前が原因だろう」
失礼ね、と脹れる八雲を無視して、相変わらず怒気を発したままにこちらを睨みつけている侍さんへと視線を向ける。
「戯けたことを――」
じりっと地面の砂を踏みしめるように、構えをとる侍。
あきらかにこちらの話を聞いてくれるようには思えない。勝手に話してみたとして、その隙ねらって首を取りにくるのが透けて見える剣呑さである。
――やれやれ、どうにもこうにも……厄介ばかり。
最近は色々なことに巻き込まれやすくなった気がすると、頭を抱えたくもなる。
ここの辺り、妙に事件に出くわす年月を送っているのだ。世の乱れ、天の乱れと様々に要因はあるのだが、それでも、少し多すぎやしないかと己の不運に涙してしまう。
己はもっとごく当たり前の日常を楽しんでいたいというのに――少しだけ考えた、己で首を突っ込んでいるという部分と、それがもう、いつも通りのことじゃないか、という考えは打ち消しておくことにして――目の前の現実に目を向ける。
――ほんとにもう、年寄りは、もっとのんべんだらりと余生をすごしたいんですがねぇ。
そんな希望――遠くなった生活を心に浮かべながら、すっかりと癖になった溜め息と共に、『荒事』に対する構えをとった。
今日も今日とて、いつも通りの日常である。
____________________________________
「っし!」
唇の間から息を漏らすように、鋭い声と共に刀を振るった。地面を擦り、浮き上がるようにして放たれたその一撃に対して、男は大きく距離を開けるように飛び退いた。
隣に浮かんでいたはずの妖怪の姿は既に離れ、屋敷とは違う方向へと移っている。
こちらに手を出すつもりも、隙を見て屋敷へと向かう気もないらしい。
何を考えているのかは分からないが、好都合だ。
――まずはこの男を……。
対面する男からは、あちらほどの脅威は感じられない。
妙な雰囲気は持っているが、それほどの手間をかけずに無力化できるだろう――その程度にしか、感じない。
だからこそ――
――出来るだけ時間をかけずに終わらせる。
なるべく、あの妖怪を相手にする力を残したい。
そう考えながら、刀を強く握る。
「っはあ!」
男との距離を潰すと同時に、左に構えた長刀を男の首を薙ぐように振り下ろす。
相手はそれを身体全体で屈むように避けるが、それは想定していた動き。その下がった頭へ向かって流れるように右の短刀を突き込む。
二刀流の利点である隙間のない二段の攻撃である。
慣れていないものならば、そう避けきれるものではない。その対応で、相手の底も知れるはず――という考えであったのだが。
「……!?」
手応えが消える。
外れたのではなく、攻撃したという事実自体が消えてしまったようなそんな感触。
身体の芯の部分から勢いを消されてしまったような、何もしなかったことにされてしまったような、そんな気持ちの悪い浮遊間のようなものが、この身に襲う。
――なん、だ?
力が抜けてしまった腕に、完全に腑抜けてしまった流れ。
完全に動きが止まってしまった。
そこに――
「――話を、聴いてくれる気になりましたか?」
刀に手を添えたまま、こちらに向けて口を開く男。
その掌には、こちらの刃が真っ直ぐに――添えられている。
「ま、さか」
止まっている、のだ。
己の刃が殺されている。
――……。
それが意味するところに、愕然とする。
おそらく、この男は、こちらの全体重を乗せた一撃をそのまま
柔く、緩く――止められてしまった。深く、鋭い、その技の粋によって――己の剣は越えられてしまっているのだ。届くわけがない距離を、見せつけられた
こんな芸当ができる者に、例え偶然であったとしても、剣先が掠めるということすらもありえない。
そう思ってしまうのに、十分な芸当に――言葉を失う。全てが、崩れてしまった気分となる。
けれど――
――おの、れのことなど、どうでもいい。
己の役目は主を守ること。その最中に、たとえ、自らの矜持が折りとられてしまおうとも、せめて、誇りだけは守り通さなければならない。
体は完全に止められていても、ただの人間ではない自分にはもう一つの身体があるだから――試合に負けても、勝負を勝ちとる。
「――舐めるな!」
自らをも奮い立たせる、気合の一喝。
男の背中に迫るのは、自らの半身。
二番煎じだが、あの妖怪とそこまでの会話をする余裕はなかったはず、初見ならば、あの妖怪のような力がない限り、避けようもない攻撃のはず
あるだけの力を込めた一撃が、相手の背後から放たれる。
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煙が晴れる。
そこにいたのは、二対の人間。
侍自らをも巻き込む、ただただ力だけを込めた暴発のような一撃は確かにその男へと直撃したはずだった。
けれど――
「――なるほど」
そう呟く男は無傷だった。
捨て身にも近い攻撃で、自らも傷を負う覚悟だっただろう相手もまた無傷。
あるのは、先程までなかったはずの、地面に空いた穴一つのみ。
そう。
死角から放たれたはずの、その予想外の攻撃を、この男は背中を向けたままで捌ききったのだ。全身全霊――半霊によって打ち出された最大限の霊弾は、後ろ手のままに受け流された。
それは、もはや、人間業とはいえないものだろう。
見ぬままに、その一撃を感覚のみで完全に捌いてしまったのだから。
「……」
言葉もなく侍は絶句している。
自らの全力の攻撃を殺され、さらには、自滅覚悟の特攻でさえも、目線すら向けないままにいなされてしまったのだ。
なまじ実力がある分、その衝撃は計り知れないだろう。
「確か、半人半霊……でしたかね。危ない危ない」
初見だったら危なかったな、と土煙によっておった埃を払いながら話す男。
まさに――
「――規格外、ね」
感嘆の念が漏れる。
多分、この男は、長年の経験のみで――その反射的な動きによって、あの半霊の攻撃に対応したのだ。
百戦錬磨という言葉では足りない。億と数えても小さすぎるほどの争いを積んできた経験。
あの程度の不意打ちなど、無意識で対応できてしまうの――それほどの年月の塊。
相手が半人半霊という自覚がなくとも、勝手に身体の方が半霊に反応していた。
――しかも、相手を傷つけないほどに加減して……。
敵に回すとこれほど恐ろしい存在はいない。
なんせ、一つの歴史といえるほどの年月を相手にするようなもの。
そんな経験の塊を相手に、不意を打つということができるはずがない。技を磨いて越えられるはずがない。
圧倒的な力――物量で、押し切ってしまうしかないのだ。超えた力によって、無理矢理押しつぶさねば――僅かな隙間で生き残られる。
そんな、馬鹿げた年月を生きているのだと――あれの存在を実感する。
「とんでもないわね」
呆然とした表情のままの侍。
それでも相手に向けた切っ先を下ろさないのは、賞賛に値するものだろう。この侍の主への忠誠心は、きっと自らの死の恐怖よりも強いものなのだ。
――これほどの実力者に、ここまでの忠誠を誓わせる主人とは一体どんな人物なのだろう。
ただの暇つぶし、興味本位でしかなかった屋敷の主への想いが少し強さを帯びた。
「とりあえず話を……」
「さて、そろそろここの主人に会わせてもらえないかしら」
事情を把握していない男の言葉をさえぎり、相手に畳み掛けるように話す。この規格外は性質上、事情を把握すればこちらの邪魔になる可能性の方が高い。
なら、この雰囲気のままに話を進めた方がいい。
「ちょっと、まっ……」
「ふざけるな!この命ある限り、当主には触れさせん!」
勝ち目はないのは理解しているのだろう。
それでも、その意志は衰えていない。
手を出せば、どうやってでも――せめて、腕一本だけでも道ずれにする、そんな眼をしている。
「そう、なら――」
お望みどおりに、そう続けられるはずの言葉は、別の、涼しく冷えた声に遮られた。
「もういいわ、妖忌」
その声と共に開かれた襖。
そこにいたのは幽玄として――枯れた雰囲気をもつ少女。幼いといってもいい姿からは何故か、その年齢からは考えられないほどの静かな空気が漂っている。
「――ひ、姫様」
呆然としていた侍が、慌てたように叫ぶ。
「下がりなさい。あなたではこの者たちの相手は務まらないわ」
静かな声で、配下の者を律する。
その眼はこちらを見ているようで、まるで何処も見ていないような希薄さがあった。
そして。
――強い。
そう感じた。
「貴女が、このお屋敷の御主人かしら」
「いかにも、私がこの西行寺が家の主――何用でここに訪れた、妖怪よ」
辺りに広がる強い力の気配。
一流の術者でも、これほどの力を発揮できないだろう思えるほどの規模。
それに――
――これは、霊魂?
その力と共に集まりだす魂の形。
濃密で―――それでいて清浄な、死の気配。
――なるほど、これなら
並の人間ならば、耐えられない。
正常な生が。当たり前の命が。
理解すら出来ない――命を惑わす光景だ。
「ただの見物よ――なるほど、確かに噂どおりのようね」
「貴様!」
激昂する侍の声。
主人に諌められたせいか、刀に手をかけてはいるが、飛び掛ってくるという様子ではない。
「本当に噂どおりというのなら、貴女もその通りになるかもしれないわよ」
「あら、ただの人間程度と比べられてもね」
そう、と小さく呟くと、集められ、浮かびあがる霊魂の群れが主人の前方へと集中した。
「なら、貴女も死霊の仲間入りね」
その言葉と同時に、膨れ上がった霊力。
それが、人魂にのせて解き放たれる。
「あんまりなめてかからない方がいいわよ――その程度の力で」
交わした言葉が閉じると共に、津波のように押し寄せる白の軍勢。打ち出される人魂たちを――こちらは、妖力によって作り出した妖弾によって打ち払う。
弾幕と弾幕の衝突よって拡散する霊力と妖力、具現化していた力が残照を残して消えていく様は、まるで散っていく花のように、美しく辺りを染める。
その美しさの中で。
「これは……?」
思考の中に、妙な乱れが生じる。
――きて、こっちに……。
何処かへと誘われて、呑まれてしまうような。
誰かが呼んでいて、そこにいかねばならないような。
――こっちへ、おいで。
私を誘う優しい声。
私を呼んでいる懐かしい声。
私の心を揺らす――
『そうすれば、あなたも楽になる』
精神に直接そそぎ込まれる安穏とした終わり。
安らかに、目を瞑れと呼んでいる。
死に――誘われる。
「……!」
背筋にはしる悪寒に、その精神波から身を守るように境界を弄った。予想していた以上に強力な力は、それでもこちらを蝕み、軽い頭痛が襲う。
――こちらが本命ね。
死の概念が薄い妖怪であっても、それを意識せずにはいられない。惹き込まれるような、引きずり込まれるような――清浄な誘い。
楽になる。安らかに眠れる。
満ち足りて、終わることが出来る。
――妖怪である私が、これほどの干渉を受ける……もし、相手が人間ならば。
もっと、簡単に。
「便利な、能力ね」
表情を読まれぬように、わざとらしく微笑んでみせる。
その人と思えぬその力は、明らかな本物だ。
「便利……そう、そう思えるのね」
無感情にそう呟く少女。
精神攻撃が通じないと理解したのか、先程よりも多くの弾幕が周りに纏わせる。力を持たされた形は、主に従い、生ある私を引き込もうと襲いくる。
後ろに、前に。
隣に、真下から。
現れる力たち。
「随分と芸達者なものね」
それを危なげなく片手で相殺しながら――自らの隣の空間を弄り、隙間を広げた。手を取られている、攻撃に忙殺されているふりをしながら、後ろ手に力を溜める。
――そうとさえわかっていれば、さして怖くもない力ね。
覚悟さえしていれば、自らの能力を持って精神への干渉防いでしまえる。その程度で、それは防げてしまう――ならば、あとは力勝負。
圧倒的な物量で私の前に跪かせる。奇しくも、彼を相手にするべきときと同じ。絡め手ではなく、純粋な力をもって相手をくじくのだ。
――私も、色々と出来ることは多いのよ。
捻じ曲がり、繋がった隙間からは、上下左右関係のない攻撃が広げることができる。大量の弾幕を境界の内に配置して、それとわからぬようにその出口を設置して。
「――さあ、踊りなさい」
笑みを深くして、そこに妖弾を打ち出した。
そこにあるのは、己の力を過信したよくある人間の姿――そう、なるはずだった。
「――いい加減に」
その寸前に、ぼそりと小さな呟き。
侍の、ではない。
あの少女が力を使い始めたところで、あの侍は後ろへと下がった。
ならば――
「話を聞けって、いってんでしょう」
それはもう一人の方に決まっている。
見れば、いつの間にか私たちの争いを止めるようにして、間に立つ男の姿。
細めた目で、鬱陶しそうに目を細めて――片足で、地面を強く叩く。
「何を……」
妙な力が込められたそれ――黙り込んでいた間にため込んでいたのだろう、その力が男を中心に辺りに広がり、打ち出していた弾幕、集めていた力の全てに干渉して、その形全てをかき乱す。
形を持たされた力が、方向を失い、保てず消える。
「え……?」
人魂も。
「……」
私の力も。
「さて――」
全てを止めて――男はぽつりといった。
そして、ふっと息を吐き、周りの全員をぐるりと見回した後――
「それじゃ、お話しましょうか」
そういった。
若干、私への視線が冷ややかなものだったのは、気のせいではないだろう。
『覚えていろ』、そんな感じの恨みのこもった瞳に――なんだか、背筋を寒く感じた。
男は、にこやかに笑んでいる。
遅くなりました。ついでに長くなりました。
次はなるべく早くに更新したいです。
読了ありがとうございました。