生きている――瑞々しい深緑の葉を繁らせて、柔らかく佇む木々。
枝一本、葉一枚に至るまで生命力溢れたその身の内には、多量の水分が含まれている。大気中、土中から取り込まれ、また吐き出されては、一つの流れとして循環している。植物が進化し、この大地の上で生きていく上で獲得してきた生きるための形。
あらゆる状況に対応してきた水の利用法。
それは、たかが一時に起こった僅かな火勢ごときに覆されるものではない。
そもそも、木々が燃えやすいというのは、それが枯れたもの、乾いたものであるという状況でこそ成り立つもの。ある程度の火力をもって、無理やりにその水気を干上がらせ、それを殺しきってからでなければ、生きている木々が燃え上がることなど、ほとんどといっていいほどにありえない。
ましてや、今は植物の謳歌する季節。
温暖湿潤のこの島国においては、木々は強き緑の色に覆われ、森全体が水気に満ちている。余程の燃料、材料を集め、かなりの火源を用意しておかなければ、ただの小火が山火事などに広がることはないだろう。
つまり、それが起こったのには相応の理由――原因となる存在があったということだ。
「――また、やっちゃったのか」
溜め息ように零れされたその言葉は、きっと正しい。
証拠は揃いすぎている。
――あの時見たのは……。
緋色の炎に彩られ、明るく輝く翼をはためかせて、火の鳥が飛んでいた。
火の粉を散らして葉々焦がし、力をもって木々殺し――森を炎に変えていく存在があった。
――急に飛び出してくるから、ね。
ちょっとした事故で、それを落としてしまったのは偶然であり、過失のようなものであったが――その確認した先にいたのは、一人の少女。
焼け焦げた世界の中、ただひとつ生きていた存在。
傷だらけの――火傷一つない少女。
森の流れをせき止めた要因。
――火事の原因、か。
多少の混乱こそ見られたが、自覚もあったのだろう。
こちらの話を理解して、少女はすぐにそれを認めた。
見た目の年齢からは考えられないような、真白く染まった髪に表情を隠しながら、少女はぽつぽつと話す。
その炎の力――制御できない力のこと。何かに取り憑かれたように暴れ、壊してしまう自分のこと。
自分でもわからない自分のことを。
「――人里には被害はでていない。山に小さな広場ができただけ」
罪人の告白のようなそれを聞き終えた後、黙り込む少女を前に、その結果が起こした惨事を語る。
「時間も時間ということで、誰も森には入っていなかったらしい。――それに、あの辺りは最近木々の育ちが良くなかったそうだし、畑を広げるために、減らしてしまおうかと相談していたところだったらしい。開墾する手間が省けたって笑ってたよ」
誰にも被害はでていない。
それは慰めでもなんでもなく、ただの事実であり、村人から聞いた話をそのままのことを告げたもの。被害はあってないようなもので、焼けた木々も、土に返った草葉なのも、土を肥やす肥料となり、新たな田畑を造ることに繋がるだろう。
村人にとって、あの山火事はそう大した被害にはならなかった。
そういう落着――
それだけの――
「――運が良かっただけだろ」
不幸中の幸いに当たったというだけのこと。
その幸運に、少女の表情は少しも動かない。小さな声でぼそりと答え、伏せたままの顔の下で、固く拳を握りしめる。白くなるほどに込められた掌は、そのまま彼女の感情の揺れを示しているのか。
――……。
確かに、本当に運が良かっただけにすぎないのだ。
風向きが悪ければ、空気が乾燥していれば、近くに人がいれば――被害は免れなかった。死人が出たとしてもおかしくない。あのまま火事が拡がり、村には及ばぬとも、もし、山の大部分を焼失してしまっていれば、人々は生活の糧を失い、やはり大きな損害を受けていた。
――村一つ。下手すれば、それ以上……身売りや追いはぎに身を落とす者もいたかもしれない。
そうなっていた可能性もある――そう想像してしまうだけで、十分な恐怖となる。己の犯したかもしれない罪に重くなる。
人の命も、失くしてしまったものも――起こしてしまったことも、それは決し
て拭いきれるものではない。ただ、その肩に積み重なるのみで、取り返しようもない。後悔先に立たず、己が記憶に刻まれるのみ。
決して、逃れられるものではない。
――まあ、しかし……。
「――確かに、運が良かったものですよ」
今回は運が良かった。
今は、それだけのこと。
「誰かも死なずに済んだし、誰かの生活を壊さずにも済んだ。被害もしれたもので、ほとんど何もなかったといってもいいでしょう――」
からからと笑いながら、軽く――
「お嬢さんは、何の責任も取らずにすみますよ」
「――……!」
そう言い放つ。
「そんなわけ……そんなわけがあるか!」
平坦に告げた言葉に、爆発するように少女が叫んだ。
自らの内で噛み締めていた感情の大きさを示すように、激昂するその姿は、その少女の生来の性格も示しているようにも思える。
激しく熱い――炎のような熱を含む。
「殺していたかも……壊していたかもしれないんだ」
そうしていたかもしれない。そうなっていたかもしれない。
そんな恐怖が少女自らを焼いている。執念深く、振り切れない心が、己を締め付ける。真っ直ぐに受け止めて、真っ直ぐに受け入れるからこそ、その波に呑まれてしまうのだ。
「ふむ」
浮かぶのは、壊していたかもしれない人々と汚れた手。
きっと、そんなものだろう。
「それでも、殺していないし、壊していないでしょう」
「――っ……運が良かった、だけだ」
小さく縮こまった声。
自責に満ちて――怯えて、震え、苦しむ姿。
罪に、苦しみに、足をとめてしまう者。
けれど、それは――
――ただの自己満足。
「――そう。運が良かったで済んだんだ」
可能性はあった。やりかねなかった。
それでも、それはまだ――後悔できるものではない。
「お嬢さんはまだ――それをしていないだろう」
いくら重そうでも、いくら苦しそうでも。
それは描かれただけのもの。
「それは、その重さは現実のものじゃない」
ただの幻。存在しない罪。
想い描いただけの、幻。
「勝手に悪者ぶりなさんな。あんたはまだ、何もしていないんだから」
勝手に罪人になるのは、お門違い。 自己満足の自己嫌悪というものだ。
やってもない罪に怯えて、蓋に重石にと閉じ込めても――それでは、折角の運の無駄遣い。
――後にも先にも……後悔立たず。
勝手に諦めて、勝手に放棄して――失かったことにするのは、それこそいい迷惑だ。
「償いたいなら、それを起こした後にすればいい――そうしたいなら、今からでも間に合いますよ?」
「お前っ……」
片手で外を指しながらの一言に、少女はやっと顔を上げ、きっとこちらを睨みつける。怒りを覚えているようだが――先程の失敗を踏まえてか、なるべく抑えようとはしているようで、力の高まりは感じられない。
つまり、それだけ進んでいるということだ。
「冗談ですよ」
軽く口端を持ち上げながら、揶揄うように告げる。
その軽い調子が気に入らないのか、少女はますます目を吊り上げる。
「ふざけるなよ」
静かに、それでいて、激しい怒りの込められた声。
高ぶりやすい感情を抑えようとしながら、それでも、見過ごせないという想い。
それはあまりに幼く、拙い若さを抱えていて――少しだけ、昔を思い出す。
苦しく。怖く。
何かに怒り、何かに悲しみ
それでも諦められずに、足掻き続けて――どこまでも、人間らしかった感覚。
――にしても、上手く嫌われたもんですねぇ。
自分が誘導したことながら、少女の真っ直ぐさ――単純さに苦い笑いを浮かべてしまう。
それは昔の自分にはなかった部分で、ついついからかってしまいたくなる老人心というものを擽るものだ。どうにもおかしく――色々と遊んでみたくもなる。
――随分と……。
真っ直ぐな強さと真っ直ぐすぎる弱さ。
危なげで、生きづらそうなその性分は、きっと、その
崩れやすそうで、どうにも見ていられぬ脆さを持つ少女。
――しかしまあ……。
悪くない。そうも思っている。
自分にはない部分だからこそ、それが好ましい。
人間らしいと、そう想って――思い出してしまう危なっかしさ。
若者の中に見る。己が、『そういうものであったのなら、どうなっていたのか』の可能性を見せる。己と同じ、違う方向へと進む人の道。
そういうものを眺めるのは、やはり面白いのだ。
しかし――
「――いやいや、すいませんね」
だからこそ、伝えておかねばならないだろう。
自分達のような存在を生きていくため。
少しでも、楽に生きていくための一つの勘所を語っておく。
――その方が、もっと先に伸びるものになる。
年寄りの……この道の先達の役目として、馬鹿な先輩の滑稽譚を。
老人の昔語りの教訓を――この完成品の少女に語っておけば、一つくらいの病は防げるだろう。先人が越えた山の道の、その歩き方さえ覚えておけば、もっと先にだって進めるものだ。
既知のもののその先に、もう一つの道を見る。そういう未来の可能性。
それを見せてもらうためにも――
「けど、ね」
ふざけた調子で、少しだけ先輩面をすることとしよう。
手本にも反面にもなるように。
「それは、冗談で終わる話でしょう?」
にこりと笑って、調子よく。
胡散臭く語ってみせる。
――あとは自分次第……自由気ままに決めればいい。
昔話の解釈は、後世のそれ聞く人の耳の次第。
流すも留む勝手に決めること。
――あとで、その新解釈を聞くのも面白いものですしね、
少しは生きる足しに。
少しの間のつなぎに。
その先の可能性に向けて、語ってみることとする。
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つらつらと男は語る。
「いくら嘆いても、いくら考えても、それは起こっていないこと」
ゆらゆらと揺れる火。
その光に照らされながら、澱みなく口を動かす。
「偶然だとしても、本当にそれが『まだ』だというだけだということだとしても――それは形とはなっていない出来事です」
低い声で、笑みを浮かべて――こちらから目を逸らさないままに。
「今ならまだ、冗談で済ませてしまえる話で――そこで終わるはずの話で」
ずっとそうしてしまえば、誰も傷つかない。
ありえたかもしれないことは、ありえただけで終わる。
ただの幻想のままで――
「勝手に後悔して、死んでもいない人々を哀れんで――そんなことをしていても」
意味が無い。
それは真実だ。
私の内にあるこの罪の意識は、私の中にしかない。起こらなかった出来事を勝手に空想し、想い描いて苦しんでいるのは、ただ、私が勝手にやっているだけのことだ。
意味のない、ただの妄想でしかない。
けれど、それでも思ってしまう。
殺していたかもしれないと。
壊していたかもしれないと。
そう思ってしまう。
「そんなの、誰も知りませんよ」
ひやりと、見透かしたような言葉が胸をつく。
呼吸が止まり、息が苦しくなる。
『―――』
誰かの声。
頭に響くもの。
そんなことがあったなんて誰も知らない。そんなこと知りたくもない。
運が良く助かった。それだけでいい。それすら知らなくていい。
何もなかった。それでいい。
「勝手に理由にされて、ここで立ち止まられる方が迷惑だ」
聞こえるのは、私を責めもしない――ただただ、面倒だと思う声。
無関心に、追い立てられる幻。
――そうだ。
ずっとそこにいられたら、今度は本当になってしまうかもしれない。
今度は現実になってしまうかもしれない。
それこそ、いい迷惑だ。
「そう思いませんか」
言い放たれた言葉は、身体の奥に突き刺さったように、冷たく胸の中に滑り込む。
悲しむことすら、苦しむことすら許されない。
それより早く消えてくれ。こんなとこにいないでくれ。
存在すら感じさせないでくれ。
『さっさと消えてくれ』
きっと、そんな言葉を聞いた現実はない。
けれど、私はそんな存在だ。そういわれている存在だ。
こんな化け物に――イテホシクナイ。
そう、聴こえているそれは――私自身の……。
「お嬢さんは――どう思います」
不意に男の姿が目の前にあった。
いつの間にか立ち上がったのか、いつ移動したのかもわからない。
ただ、向けられるその視線がひどく恐ろしいものだと思えて、必死で後ずさりながら、何かを守るように身体を両手で抱え込む。
見たくないと、周りの景色を塞ぐ。
――きっと……。
私は外れてしまったのだ。
人という道から、幸福になれる場所から――
――あいつのせいで。
こみ上げてくるのは――最後に残るのは、暗く、激しく燃え盛る炎。
何もかもを壊してしまいそうな、どろどろとした感情の形。
「あなたは何で……」
イキテイル?
きっとそう続けられた声。
聞きたくないけれど、いくら耳を塞いでも、勝手に聴こえてしまう。
それはきっと私の内側から聞こえるものだから。
――全部、全部なくなれば、きっと……。
思考が何かに喰われていく。
何も考えず。何も感じず。
ただ燃え上がるように――消えてしまえ。
――何もかも、全部……。
沸き上がる何かに塗りつぶされる。
手放してしまえばきっと後悔するものを――けれど、ずっと楽になるものをほうり捨ててしまう。
その最後の一押しの言葉を、男は――
「――なんてまあ、そんな話に意味はないんですがね」
ぽつりと、まるで違う言葉を言った。
軽い調子で、まるで冗談か何かのように――
「……え?」
一瞬、ぽかんと頭が空白になり、何が何だか分からなくなった。
身体を包んでいた強い力が緩み、腕と腕の隙間から僅かに灯りが覗く。
「――何をそんなに怯えているんですお嬢さん?」
目を開けると、そこには、悪戯に成功したような顔で微笑む男。
伸ばされた手がこちらの頭に置かれ、僅かな重みと温かさとが伝う。
柔らかい人の温度に、ふざけた調子の声が届く。
「怖い話なんてした覚えはないんですが……まあ、与太話には違いない」
そのまま、頭を二度三度ぽんぽんと叩いた後、先程までの真剣な雰囲気はどこへいったのかというほどに気の抜けた様子で、「うーん」と声を上げて伸びをしながら、近くの壁を背に腰を下す。
そこに、先ほど見た私を責める影はない。
――……?
あまりの豹変振りに、頭がついていかない。
ぐるぐると疑問の声が鳴り響き、思考に収拾がつかない。
口はそのまま、ぽかんと開いたまま。
「昔の、どっかの惚けた年寄りが話した思い出話の一場面――大した意味なんてない。ただの馬鹿げた失敗譚の、そのさわりの部分」
どうでもいい滑稽話ですよ。
口元に笑みを浮かべ、男は軽い調子でそう語る。
どうでもいいことだというように。ただの戯言だったとでもいうように。
「で、でもっ……!」
「だって、そんなことを誰かが思うはずがないでしょう」
悲鳴のような文句は、男の言葉に止められた。
そんなことはありえない。あるはずのないことだと否定される。
「ばれてないなら――」
困惑するこちらを放ったままに続く。
たわいのない雑談や意味のない世間話のような調子で、それでいて、なぜだか真っ直ぐとこちらを見据えたままで――
「そこにいても同じでしょう」
飄々とそう告げられる。
「……え?」
そんな間の抜けた声が小屋の中に響いて、それが自分の声だと気づくと――なんだか、ひどく恥ずかしくなった。
――ん、と……あれ、え?
ここは、何の変哲もない平和な村で、そこに、ごく当たり前にある掘っ立て小屋の一つで――涼しげな隙間風が抜ける襤褸屋敷の中。皆が暢気に眠りについている隣で、私だけが熱くなっている。
語っている方は、終始変わっていない軽い調子で、喚いているのは私ばかりで――まるで大人と子供のような、傍から見ればそのような様子で。
妙な気恥ずかしさと、今までの反動としての混乱。
よくわからないという気持ちと、ふざけるなという怒り。許容を超えて、襲い掛かる波に今度は違う熱が沸いてくる。
――もう……。
わけがわからない。
振り切れて締まった私を前に。
「さてはて――」
それでも、男はつらつらと言葉を続けている。
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「ばれてないなら、そこにいても同じでしょう」
子どものような――幼子が考えたような揚げ足取りのような論。
それを有耶無耶に語る。
「なかったことにして、知らない振りしていれば――別に誰も困らない」
誰も知らない方がいいなら、忘れた方がいいならそうしてしまえばいい。
臭いものには蓋をして、そのまま奥深くへと埋めてしまえという理屈。
自分勝手な、自己完結の話。
「そんな……わけに」
「どうせ気づかれていないんですよ?」
か細い反論の声。
返す言葉は簡潔に。
「何もなかったなら――それでいい」
そこにいる必要もない。
けれど、そこから
何も、なかったのだから。
「本当に誰にも迷惑をかけたくないのなら、その方がいい。――相手は何も考えず、何かに気づかずにもすむでしょう?」
「で、でも――」
少女はそれでも迷う。
それでは、いつか本当にしてしまう。本当に壊して、失くしてしまうかもしれないと――そんな可能性に怯えてしまう。
今回のように運がいいですむとは限らないのだから、それは当然のこと。
けれど――
「『そうなっていたかもしれない』という疑念は、それを知っている者の中にだけしか生まれませんよ。いくらその危険が恐ろしく、被害が大きなものになるのだとしても、その可能性があるということさえ知らなければ、誰も怯えもしない」
そうしていたかもしれない。そうなっていたかもしれない。
けれど、それが実際に起こらなければ、誰も知らないことで済んでしまう。描かれるのは、己の内だけで終わってしまう。
その悲劇も後悔も、全てはただの幻のまま。
「己の内でしか解決できないことを赤の他人に――何も知らない誰かに押し付けて、自分の喚きたいことだけ全部の恐怖を説明して……わざわざそこまでしてから離れることもない。何も言わずにいつの間にか通り過ぎてくれれば、誰も恐ろしい思いをせずにすむ――日常のままでいられる」
不思議も何もない。
ただの原因不明の事故であり、取り返せるだけの損失。
尾を引く恐怖話など存在しない
「それでも……それでも、私は」
「責任を取らないといけない、とでも?」
その重さに耐え切れず、絶えず下を向く少女。
細い肩に圧し掛かる重荷に、息すら出来ずに溺れる声。
それでも、そんなものは勝手に拾っただけことだ。
「随分、真面目ですねぇ。尊敬してしまいますよ」
そう揶揄う言葉に。
「――お前……」
揺れる炎。
売り言葉を買うだけの気概――それがあるのなら。
――そうだ。
それくらいの元気があるのなら。
「そんなことをする前に、さっさと捨ててしまえばいいでしょうに」
その可能性を。
己なら、そう考える。
「――え?」
きょとんと幼い子供のような表情で、少女は目を瞬かせる。
よくわからない言葉に、ふっと止まる。
それに――
「そんなに重たいなら、さっさと捨ててしまえってことですよ。好きで背負ってるんじゃないってんなら、わざわざ、ずっと抱えていることもない」
好き勝手な暴論。無責任な老人の言。
「他人のことより、まず、自分のこと――自分の分すら背負えていないのに、その上からさらに嵩張るもんなんて着てちゃ、動きにくいだけでしょう」
そういって、ばさりと上着を脱いだ。
それは己の格好には似合わぬ上質なもので、ちょっとした仕掛けで寒さも熱さも軽減してくれるという優れた素材で出来たもの。己には勿体無いほどに良く出来ている有難いもので――けれど、それでも少し重いのだ。
こういう家の内側で、心地よい火の温かさに食事を取った後の腹の具合。程よく温まり、のびた身体には、それほどの加護などはいらない。もっと、ゆるく脚でも伸ばしておいて――力を抜いて休んでおくのが、明日のためにもなる。
「それなら、出された食事だけでも、ちゃんと呑みこんでから礼でも言った方がいい――多少は無理をすることになっても、少し腹を壊すぐらいですむ」
ちらりと目線を向けるのは、空になった鍋と器。
少々、胃にもたれるほどの量があった食事。
それを――
「それぐらいなら、まだ美味しかったでしょう?」
よそった分は綺麗に食べきった少女は、少し恥ずかしそうな顔をした。
その様子に少し笑いがこみ上げながら、だらだらと先を続ける―――その終わりの部分を紡ぐ。
――わざわざ針の筵に立つこともない。
黙っているだけで。誰にも知られないだけで、それは内へ降り積もっている。
後悔も、絶望も、十分に味わっていて――それだけで十分すぎる。
「わざわざ、絵に描いた餅まで食うこたぁありませんよ」
そんなもので。
「折角の美味しい食事を無駄にされる方が面倒だ。――その前にさっさと荷物をまとめて、勝手に自己解決してから、終わった部分の良いところだけを見せてやればいい」
外面を飾りつけ、悪いところはなかったことに。
良いとこ取りの善人面で――「ご馳走様」という。
「そう完璧ぶって――行儀よくいい子ぶってしまえば、誰にもわからない」
騙しきってしまえばいい。
知らない方が幸せなら、知らないままに。
そういう嘘をつく――本当にしてしまう。
「それなら、誰も損はしないし――何より、楽しく終わるでしょう」
そういって口端を持ち上げて、嫌味に笑う。
意地の悪い老人の笑み。騙しなれた大人の表情。
その毒に触れて、少女は黙り込む。
色々な考えが頭の中でぶつかりあっているのか。一貫しない百面相がころころと過ぎていき――その混乱振りが、見ていて面白い。
――まあ、多分……。
それでいいのかとか、そんな結論でだとか。納得できないやら、普通はもっと高尚な答えが必要なんじゃないかとか――不満やら混乱やらがどたばたと頭に溢れて、わけがわからないといった感じになっているのだろう。
自分でも、ここまで色々と並べておいてそんな答えでいいのか、なんていう想いもないではないが――それでも。
――まあ、そんなものだろう。
少なくとも、
ましてや、こちらは、ただ長く生きただけのごく一般的な翁。上手く逃げるのだけは上手くなろうとも、全てを背負って前に進むだけの器量はない。
――自分の分だけで精一杯だ。
もっともらしい答えも、高尚な悟りも存在しない。
己に出せた答えは、その程度。
「背負わなければならない荷は背負っていけばいいが――わざわざ、必要以上に背負う意味はない」
ただ、それだけ。
単純に考えて、その方が楽だということを、やっとのことで知れただけ。
「――逃げろって……言うのか?」
割り切れない顔で――迷う人。
けれど、まだ、選ぶことができる。まだ、考えることができる。
時間は十分に、与えられてしまっている。
「若いうちなら、逃げ切れるだけの体力もあるでしょう。うだうだいう前に、面倒臭がらず全力で逃げてしまえばいいんですよ――大事なものを守れるくらいに、大きく成る時間を稼ぐためにも、ね」
その方がずっと前向きで――楽に自分を誤魔化せる。今は辛くても、後から後悔しないための努力を重ねていると、言い訳が聞く。
楽に生きるために苦を背負っていく。下手すれば、それができるのも今のうちだけなのだから。
「――あんまりじっとしてると、運動不足で動けなくなりますよ」
私みたいにね。
かかかっと、付け加えた言葉に、己で笑う。
己を――腰の曲がった老人の逃げ腰を自嘲してみせる。
――そうなりたくないなら、それなりに頑張ればいい。
そういう意味も含んでいるということにして――胡散臭くて、信用ならない戯言語りの老人として――若者に言葉を向ける。
「……」
幼子を相手にするようなふざけた調子。
性質の悪い老人の戯言を前にして、少女は顔を上げた。
その姿は、強がっているようにも、無理しているようにも見えるだが、先ほどより少し力の篭った声で――強く。
「わかってる」
熱を含んだ声で答える。
静かに、かみ締めるようにして――己の内に。
「ちゃんと……わかってる」
言い聞かせるようにそういった。
本当にからかいがいのある若人に、老人はにこりと微笑んで――
「なら――」
その面白さに、愉しんでいる。
その先の可能性に。
――やっぱり、面白い。
勝手に期待する。
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老人は先を見る。
種を撒き、その咲く花を夢想する。
願わくば、期待以上でもあるように。
期待以下でも、笑ってしまえる可笑しさに。
予想外を期待する。
少々推敲が甘い気もしますが一応の更新です。
まだしばらくはこのまま低速となります。
返信なども遅れて申し訳ありません。
読了ありがとうございました。