―――ふと、目が覚めた。
身体を起こして周りを見渡すと、そこは見慣れた、
枕元の時計を見ると、時間は午前五時の数分前。いつもは五時に起きるので、目覚ましがなくとも習慣で起きる己にとっては誤差の範囲である。
(……懐かしい、夢を見たな……)
己がまだ「井上真改」という少女でなく、「真改」という男であった頃の夢。主観的な時間では、もう十五年も前のことだ。
あの時の痛み、そして芯まで凍り付くような寒さを思い出し、身体が震える。ベッドから降り(布団の方が好みなのだが、ここにはベッドしかない)、隣のベッドで眠る最も付き合いの長い妹の髪を、起こさないようそっと梳いた。寝癖が付いていながらも柔らかな感触が己の心を落ち着かせ、震えを止めてくれた。
「………」
今日のちょっとした早起きは、昔の夢を見たことが原因かもしれない。そんなことを考えつつ、念のために設定してある目覚まし時計を解除した。
まずは今日の体調を確認する。夢の中の己の体は、爆発的な加速に耐えられるよう極限まで鍛え抜かれていたが、少女となった今の体はなんとも華奢で頼りない。しかし今日までに風邪の一つもひいたことがないことを考えると、見掛けによらず頑丈ではあるようだ。
身体の各部に神経を集中させ、筋肉の動きを確認する。意識と身体の間には微塵のズレもない。どうやら、今日も体調になんら異常はなさそうである。
箪笥を開けてジャージを取り出し、寝間着から着替える。己の服はほとんど妹達が選んでいるのだが、白地に黒のラインが入ったジャージはともかく、薄桃色のパジャマは正直勘弁して欲しい。己にお洒落とか言われても困る。
「………」
いつまでも考えていたって埒が開かない、もう慣れた(諦めた)ことだ、と無駄な思考を停止する。とにかく、日課を始めよう。箪笥に立てかけてある竹刀袋に入ったままの木刀を手に取り外に出ると、入念な準備運動をしてから駆け出した。
――――――――――
「よう、シン。おはよう」
「………」
竹刀袋に入れた木刀を背負って走り込みをしていると、同じように木刀を背負った少年に話し掛けられた。
―――織斑一夏。己とは十年来の付き合いになる、所謂幼なじみである。
「相変わらず無口だなぁ。挨拶くらいはした方がいいぜ」
「………」
返事をしない己に構わず話し続ける一夏を無視し、再び走り出す。いつもと変わらぬ己の様子に苦笑を浮かべ、一夏も己に続いて走り出した。
こいつはいつからか、こうやって己の鍛錬に勝手に付いて来るようになった。
……やめて欲しい。別に一夏が嫌いなわけではない。むしろこの少年の、真っ直ぐで今時珍しいくらいに男らしいところは好感が持てる。
問題は、こいつの体質(?)にある。
―――モテるのだ。異常なほどに。
こいつの魔の手(無自覚)に掛かった少女は、己たちの通う学校だけでなく、周辺の他校にも多数存在する。そのことに、本人だけが気付いていない。己と一夏の共通の友人である五反田弾などは、一夏のことを朴念神などと呼んでいたが、言い得て妙である。
そんな一夏と行動を共にし、「シン」と渾名で呼ばれる己には、周囲の女子からの強烈な視線が突き刺さるのだ。話すのが苦手な己が彼女たちに上手い説明など出来る筈がなく、そもそもどう説明したところで聞きはしないだろう。
数ヶ月前に祖国に戻ったもう一人の幼なじみは上手く立ち回っていたが、己にはそんな真似は出来ない。
結果己は、一夏に好意を寄せる少女たちから理不尽な対応をされ、そんな己を一夏が庇い、少女たちの視線がさらに凶悪になる、という悪循環が出来上がっている。そして当然、こいつは自分が元凶であることに気付いていないのだ。
今こうして二人で走っているところを一夏を知る少女に目撃されようものなら、確実に厄介なことになるだろう。その危険を少しでも減らすべく、最近では走り込みの開始時間をさらに早めることを、かなり真剣に考えている。
「俺たちももう受験だな。俺は
「……IS学園……」
走りながらの一夏からの質問に、素直に答えた。無視してもこいつは繰り返し尋ねて来るだろう。学校で聞かれることだけは避けなくてはならないので、周りに誰もいないこの時に聞かれたことはむしろ幸いと言える。
「IS学園?すごいな、シンは。剣もめちゃくちゃ強いし、シンならきっと受かるよ」
「………」
根拠のイマイチわからない信頼を寄せてくる幼なじみに呆れを含んだ視線を送るが、気付いた様子は皆無である。
感心したようにしきりに頷きながら、なおも話し続けた。
「人気あるもんな、IS学園。女の子はみんなあそこを目指すもんなのか?」
「………」
まるで己が世間の流行に乗って進路を決めたかのような言い方である。確かにIS学園には世界中から多くの受験者が集まり、倍率は凄まじいことになっている。それこそ、他では聞いたこともないほどに。
ISは、元々は宇宙開発を目的に開発された。その戦闘力の高さから軍事転用され、しかしあまりに強大過ぎるが故に、今ではスポーツとしての側面が強くなっている。核兵器と同じ、ある種の抑止力になっているのだ。
また、女性しか乗れないという特殊性、ISの世界大会である〔モンド・グロッソ〕の出場者達のほとんどが、実力だけでなく容姿にも優れていたことなどから、ISをファッションのように、IS操縦者をアイドルのように視る風潮は、次第に強くなっている。それがIS学園の受験者の増加、ひいてはIS学園の生徒達の能力を更に高めることに繋がっているのも事実ではある。
だが己がIS学園入学を目指す理由は、そんなミーハーなモノではない。
己がIS学園を受験する理由は、主に二つ。
一つは、IS学園で優秀な成績を収めれば、将来がほとんど約束されること。幼い頃に両親を失い、孤児院に引き取られて生活している己は、孤児院に恩返しがしたいと常々考えていた。アルバイトをすると申し出たこともあったが―――
『子供はそんなことを考えなくていい。今は今しか出来ないことをしなさい。その手助けをするのが、私たち大人の仕事なのだからね』
―――と一蹴された。論戦で己に勝ち目などあろう筈もなく、己の歳では保護者の承諾なしにはアルバイトはできないので、早々に諦めることにした。
そこで考えた次の策が、ISの操縦者となることである。世界の軍事バランスそのものと言えるISの操縦者には、一般人には到底得られないほどの富と名誉が与えられる。ISの世界大会、モンド・グロッソで優勝でもすれば、あらゆるものが手に入るだろう。
当然、そこに至るまでの道は極めて険しいものだ。捕らぬ狸の皮算用と笑われても仕方ないが、戦うしか能がない己には、これくらいしか思い付かなかったのだ。
もう一つは、単純に力を求めてのことだ。
なにかしらの問題があったとして、暴力でもってその対処にあたるのは愚の骨頂である。暴力は問題の根本的な解決は出来ず、それどころかさらなる問題を生み出す要因となる可能性が極めて高いからだ。
―――だが、暴力に対抗できるのは、暴力だけだ。力無き者がいくら声を上げようと意味はない。暴力でもって我欲を満たそうとする者から大切なものを守るためには、相手を超える暴力が必要となる。
そしてこの世界における最大の暴力は、言うまでもなくISである。かつて自身の無力により大切なものを失った己が、それでも尚無力でいるなど許されない。ISという「力」は、必ず手に入れなければならないのだ。
―――だがここで一つ、大きな問題がある。
並走する一夏に気付かれないよう、そっと視線を落とす。走るリズムに合わせて揺れる、ジャージの左袖。
―――その中には、本来あるべきものがない。
(……こんな体で、どこまでやれるものか……)
一夏はこの話題になると、途端に元気をなくすのだ。これは己が勝手にやったことの結果であり、一夏が気に病むことではないと、繰り返し言ってはいるが―――
―――そんな言葉に頷くような輩ならば、初めから罪悪感に苛まれはしない。
(……これも、己の無力が招いた結果か……)
思えば、剣道を学んでいる一夏が稽古に一層熱を入れ始めたのも、己が左腕を失った頃だ。まるで自らを罰するかのように稽古に打ち込む姿には鬼気迫るものがあり、剣の腕も異常な速度で上達している。
普段は普通にしているが、見えないところでどれだけ無茶な鍛錬をしているか、分かったものではない。
―――その証明とも言える言葉を、己は一夏から聞いている。
『俺、強くなるから。シンのことも、千冬姉のことも、みんなのことも守れるくらいに、強くなるから』
病院のベッドに臥せる己の隣で、懺悔するように紡がれた、誓いの言葉。一夏が己の鍛錬に付いて来るのは、己を守るには己よりも強くならなくてはいけないと思っているからなのかもしれない。
純粋で優しい、この少年らしい想いではあるが、己には一つ、懸念がある。
―――お前の言う「みんな」とは、どれだけの人々を指しているのか。
全てを守ることなど出来はしない。
己を倒した男も、あれほどの圧倒的な力を持っていながら、「現在」を守るために「未来」を生贄に捧げた。
どれほどの力があろうと、全てを守ることは不可能だ。だが一夏は、それを本気で目指しているように見える。
そして、不可能を追い続けた者の末路を、己は―――
『―――誇ってくれ―――』
「―――ン?おい、シン!!」
「っ……!?」
焦ったような声で、意識を現実に引き戻される。目の前には、心配そうな幼なじみの顔。
「大丈夫か?どうしたんだよ、突然ぼーっとして。なんか顔色も悪いし、今日はもう切り上げたほうが―――」
「……無用……」
―――不覚。
一夏に呆けた顔を見られた、ことではない。
己は今、「彼女」のことを―――
「……っ!!」
頭を振り、先程の考えを掻き消す。
……己の「彼女」に対する想いは、今もなお微塵も色褪せてはいない。あの頃と変わらず、己は「彼女」の背中を追い続けている。
銃弾やミサイル、レーザーが飛び交う戦場を、剣でもって切り抜けてきた「彼女」。
時代遅れの戦い方にこだわり続け、傭兵でありながら決して企業に媚びることなく、自らの魂にのみ従った「彼女」の人生に憧れ、己は剣を振り続けている。
しかし五体満足でも「彼女」の足下にも及ばない己が、片腕で「彼女」に追い付くことができるのか―――そんな不安が、「彼女」を侮辱するような考えを呼び起こした。
(……ふざけるな……)
左腕のことは後悔していないなどと言いながら、こんなにも未練があるではないか。
そんなものは何の役にも立たない。悩む暇があるのなら、失った左腕を補うだけの鍛錬をしなければならないというのに。
(……何を、弱気になっている……)
かつて自分達が駆ったものとは似て非なる未知の兵器に片腕で挑むことが、そんなにも恐ろしいか。嵐の様な銃撃にも臆することなく切り込んだ己が、なんたる体たらく。屈強な肉体を失った今、精神すらも錆び付けば、己に何が残ると言うのだ。
無様な最期を迎えた昔の夢を見たせいか、どうにも思考が悪い方に流れてしまう。
―――こういう時は、全力で走るに限る。
「……競争……」
「へっ?て、おいちょっと待て、卑怯だぞシン―――!!」
目的地は、毎朝素振りをするのに使っている公園。自らを叱咤するべく、いまだに心配そうな顔をしている一夏を置き去りにして、全力疾走を開始した。