「屋上に来てほしい、ねぇ。ホントに呼び出し場所としては鉄板だよな、ここ」
涼しい夜風にさらされる旅館の屋上。海一面に浮かぶ月が夏夜の訪れを感じさせる。
落下防止用の手すりに腰掛けながら、俺は物思いにふけていた。風に揺れる前髪が物寂しい。昨日まではあった左側の前髪は綺麗サッパリと切り取られ、風が当たるたびに肌寒さを感じられる。
そんな夏夜の肌寒さも悪くはないと思いつつ、来たるべき人物を待つ。
夕食後シャワーを浴びて身支度を適度に整えた後、制服姿で屋上まで出て来た。予定時間の十数分前に到着したため、目的の人物はまだ屋上には来ていない。
部屋に戻る時間も惜しいし、少し夜風にでも当たって気分転換でもしようと、手すりに腰掛けている次第だ。
「朝だともっと絶景なんだろうな。夜だと月が映ってなかったらただ不気味なだけだし……」
後ろから誰かに背中を押されたらもれなく地面に真っ逆さま、フリじゃないから絶対に真似をしないで欲しい。大怪我どころじゃ済まないから。
夜空に浮かぶ月が近く感じる、手を伸ばせば隠れるし掴み取ろうと思えば掴み取れそうだ。
俺たち人間はそれだけ小さく儚い存在だ。若くして失われる命もあれば、長らく生きる命もある。だがそれらは全て有限であり、無限ではない。
必ずいつか終わりが来る。命に比べると宇宙はほぼ無限大、どこまでも広がる無限の空間、寿命という概念は無い。
命を掛けて守り抜くなんてよく言ったもの。たった一つしか無い命を犠牲にし、他人を守ろうとするだなんておかしいとしか考えられない。そう思う人間も多いだろう。
でもその考え方は他人事のようには思えなかった。
皆を守るために俺は命を掛けた。プライドを倒すために、持てる力全てを振り絞って戦った。戦ったことで守られたものもあるし、守れなかったものもある。
彼女との、ナギとの約束は破ってしまった。
しかしラウラの命を守ることは出来た。あの時の行動を後悔していないし、仮に見捨てていたらラウラの命が危なかった。
だというのに、心の奥底につっかえる蟠りは取れない。一体何が納得行かなかったのか分からない。だから俺は彼女と話す必要がある、例えどのような結末になったとしても。
「来たか」
ギギッという重たい音と共に屋上の扉が開かれる。
振り向きざまに扉の開く様子を伺いながら、誰が来たかは確認せず、扉に背を向けた。こんな屋上に夕食後、顔を出すような物好きな生徒がいるとは思えないし、腕時計の時間は待ち合わせの予定時刻を指し示している。
そろそろ来ても良い時間帯だ。特に時間に厳しい彼女なら、遅刻することは考えにくい。
「すまない。待たせた」
「いや、気にすることはねーよ。俺もついさっき来たばかりだから」
多少遅れても気にはならない。むしろ時間通りだし、俺が少し早く来すぎた。
俺を呼び出した人物は篠ノ之だった。
呼び出された理由としては何となく察しがつく。と言うよりそれくらいしか見当たらない。作戦中、俺が怪我をしてしまったことに負い目を感じ、謝罪をしたいんだと思う。
手すりから降り、ゆっくりと篠ノ之の方へと振り向く。篠ノ之にしては珍しく、トレードマークのリボンをつけておらず、髪をまっすぐと下ろしている。リボンは先の戦いで焼き切れてしまった……いや、新しいリボンを一夏から貰っている。
単純に風呂上がりだから着けていないのか、まぁそこに関してはどうでもいい。普段のポニーテールも良いが、髪を下ろした篠ノ之も魅力的だ。
服は俺と同じようにIS学園指定の制服を着用している。てっきり浴衣姿のまま来るかと思ったが、話が話なだけに浴衣を着るのはやめたのかもしれない。
表情は俺の前では変わらず暗いままで、常に俺の様子を伺うようにこちらを見つめている。俺が一体どう思っているのか、目の前にいる篠ノ之には分からない。
ただ篠ノ之の表情だけを見ると、心の何処かでは恨んでいるのではないかと思っているように感じられた。
「んで、話ってなんだ?」
「……」
結論から入ろう。
一体何の目的で呼び出したのかを確認すると、バツが悪そうに視線を向ける。少し語気を強めすぎたか、怖がらせてしまったのかもしれない。
よく見ると篠ノ之の体は震えていて、手は力一杯握られていた。
現実を知り、改めて左眼が失われたことを考えると、心の奥底から湧き上がってくる罪悪感に押し潰されそうになっていてもおかしくはない。
今目の前にいるこれが現実だ、その現実から目を逸らすことは出来ない。怖いのは誰だってそうだ、自分のミスで誰かを傷付けてしまえば怖
がって当然。
が、怖がっているだけでは、今後決して前に進むことは出来ない。現実から目を逸し、逃げ続けることは誰にでも出来る。
篠ノ之に必要なのは逃げることではなく、目の前の現実と向き合うこと。だからこそ彼女も個別で俺を呼び出したんだと思う、恨まれることを覚悟で。
話の内容を尋ねるも、中々篠ノ之から返答が戻って来ない。どう話し始めれば良いのか悩んでいるのかもしれないが、ずっと沈黙を突き通されてしまうと、俺も何も言えないし、出来ない。
返事がない以上はどうしようも……。
「その、霧夜!」
「おう」
こちらから話を進めようと切り出そうとした瞬間、篠ノ之から返事が来る。ようやく気持ちの整理をつけたのか、どこか気の張り詰めた表情で話し始めた。
「すまなかった!」
篠ノ之の謝罪が夏の夜空に響き渡る。勢い良く身を屈めると、地面にオデコがつくくらい深々とした土下座をしてきたではないか。篠ノ之の行動に既視感を覚えながらも、表情を変えないまま篠ノ之を見つめる。
旅館の誰かが気付くんじゃないかと思うレベルでの大きな声に、俺の方が気圧される。言い訳のない筋の通った一言が、ビリビリと体を通して伝わってきた。
体は震えたまま、今にも泣き出しそうな歪んだ表情で、自分自身の誠意を伝えてくる。
「私が、私が慢心しなければお前は左眼を失うことはなかった!」
「……」
「お前にかつて言われたことを、私は何一つ改善出来ていなかった。あまつさえ取り返しの付かないことを……!」
そうだ、篠ノ之がいくら謝ったところで俺の左眼は戻ってこない。だとしたこの謝罪に何の意味があるのか、悪く言えばそういうことになる。
この謝罪は俺に謝るためのものではないと、俺自身は思っている。
篠ノ之は一つの失敗を経て改善しようとしている。未だかつて誰かを大きく傷付けてしまうことなど、体験しなかっただろう。それ故に襲い来る精神的ダメージは計り知れない。
気を抜けば、油断をすれば、あっという間に大切な人間を失うことを身を持って知った。だからこそ、彼女はこれからの行動に対して責任を持たねばならない。
同じ轍を二度踏むのであれば、専用機持ちとしてだけではなく、人としてただのクズに成り下がる。
かつてセシリアにも言ったように、一度失敗したことを繰り返さないことの方が大切だ。己の考え方を根底から変えるのは、簡単そうに見えて難しい。今まで十数年生きてきた中で染み付いていた考え方を、リセットして修正しなければならないからだ。
篠ノ之の言うことは全て戒めとなる。
……もう彼女も十分悩み、苦労し、悲しんだ。
尚も謝罪の言葉を述べようとする篠ノ之に、声を掛ける。
「はい、ちょっと待った。篠ノ之の言いたいことは良く分かった。ただ一つだけ勘違いしていることがある」
「か、勘違い?」
「あぁ。確かに俺は怪我をしたし、生死の境を彷徨ったけど、篠ノ之に恨みもなければ、怒ってもいないぞ?」
「な、何だと?」
目を見開いたまま、驚きを隠せず絶句する篠ノ之。
どう驚こうとも、俺は篠ノ之に対して恨みを抱いていないし、怒ってもいない。
事実であり、真実。
篠ノ之を怒るつもりは一切ない。
「まぁなんつーか……怪我の一つや二つ、十分に考えられた任務だろ。なのにお前だけを責め立てるのは筋違いだし、強いて言うなら相手の力量を見誤った俺の責任だと思うんだが」
「ふ、ふざけているのか!? 私はお前から目を奪ったんだぞ! 専用機を与えられただけで力を手に入れたと勘違いして、結局一夏やお前が怪我するきっかけを作ってしまった!」
逆に篠ノ之に俺が怒られた。
そりゃそうだ、自分の不手際のせいで生死の境をさ迷った人間が、何のお咎めもなく許すといっているのだから、申し訳ないと思って謝りに来た篠ノ之からすれば、納得出来ない気持ちは分かる。
納得出来ないどころか、むしろ憤りすら感じているはず。口を真一文字に結び、何も出来なかった自身の不甲斐なさを噛み締めている様子がよく分かった。
「怪我をするきっかけか。あのな、篠ノ之。物事に絶対はない。仮にお前が慢心しなかったところで、俺はプライドの
篠ノ之の慢心が、俺の怪我の要因の一端になっていることは事実だとしても、何度も言うように全て篠ノ之の責任になっているわけではない。
そもそも俺がもっと慎重に作戦を考えていれば、ラウラを頼っていたらと、原因は考えれば考えるほど出てくる。
篠ノ之は目の前で俺たちが墜ちるところを見ている。だからこそより罪悪感が強いんだろうが、根本を見つめ直していくと篠ノ之だけのせいではない。
少なくとも俺は篠ノ之を責めることは出来ない。
「な、何を言っているんだ!? そんな理由で納得できるわけないだろう! 人を傷付けた罪悪感を持ちながら、これから私はお前とどう接していけばいい!? 私の人生をかけても良いから償わせてくれ!」
あーあ、ここまで来るとそう易々と引き下がらないぞ篠ノ之は。だからといって謝られ続けるのは気分がよくないし、この場は解決して学園に戻っても、よそよそしい遠慮しがちな対応を取られても気まずいだけだ。
さて、どうすれば篠ノ之は納得してくれるんだろう。体罰を与えるつもりもないし、お金をせびるつもりもない。だとしたら篠ノ之に相応しい対応は何があるのか。
「償うって言われてもな。お前は納得出来ないかもしれないけど、本当にもう大丈夫なんだが……」
「それでは私が私自身を許せなくなる! お前が納得しても私は納得出来ない!」
「いや、だからそれはだな……」
「いやだ!!!」
ダメだ、これでは埒が明かない。
ここまで来るとセシリア以上に頑固だ。事が事なだけに気持ちは分かるが、償わせて欲しいと言われても、篠ノ之に何をさせるのか。
生活に支障を来すわけでもないから、そこまで深く考えなくても……っていうのが俺の考え方であっても、篠ノ之の考え方とは相反する考え方であるが故に話が纏まらない。
かといってここで篠ノ之に手を出したり、慰謝料をせびることは俺のポリシーに反する。あぁ、ただこの事実はいずれ千尋姉にも知られることだしどうしよう。
怪我をしたことはまだ伝えてないし、俺自身が大怪我をしたことが無いから、千尋姉がどのような反応を示すのか俺にも分からない。怪我をさせた相手を潰そうとするレベルで怒るのか、それとも仕事上仕方ないと括るのか。
自分で言うのも何だけど、大分可愛がられている方だし、もしかしたら前者の可能性が高いんじゃないかと個人的には思っている。その時にどう篠ノ之を庇えばいいのかと、未来のことばかり考えている自分を全力でぶん殴りたくなる。
今はその話ではなく、篠ノ之をどう説得するのか。
「……で、結局お前はどうしたいんだ?」
「そ、それは……」
「篠ノ之の行動が、許してもらおうという魂胆じゃないのは分かる。自身の起こした行動で被害を被った俺に、少しでも尽そうとしてくれるのはありがたい。でもそれじゃお前の身が持たねーぞ?」
俺のことばかりを気にしていたら篠ノ之の身が持たない。俺に怪我をさせてしまったという罪悪感からの行動なのは分かるけど、それでは俺のことをフォローしている内に篠ノ之が潰れてしまう。自身の姉から直接専用機を貰ったということで、今まで以上に周囲の風当たりは強くなるだろうし、専用機持ちとしての責任も出てくる。またどの国籍にも所属していない専用機持ちとして、各国から数多くのオファーが来るはず。
どの国も実現できていない第四世代IS。血眼になってオファーする可能性だって考えられる。
様々なプレッシャーと戦いつつ、俺のことに気を掛けている余裕はない。
それでも篠ノ之は頑として譲らない。
「そんなことは覚悟の上だ! 私がお前にしたことは、到底許されることではない! だからせめてお前のサポートをさせてくれ!」
何かをしないと篠ノ之も押しつぶされてしまうんだろう、怪我をさせたという罪悪感に。俺が大丈夫だと言っても、彼女にとっては何も大丈夫ではない。何一つ、罪滅ぼしをしていないのだから。せめて俺の為になることをしたい、それが篠ノ之の本心だった。
何を言っても折れる様子はないし、これは最悪俺自身が折れなければならないかもしれない。
とにかく一旦落ち着けよう。会話が平行線のまま一向に進んでいない。
「お前の言い分は分かった。とりあえず俺の話を聞いてほしい」
「は……?」
「―――少し、昔話をしよう。篠ノ之と俺が初めて手合わせした時のことを覚えているか?」
謝罪から話題を逸らすべく、俺はあえて篠ノ之と初めて剣道場で戦った時の話を持ち出す。一夏を鍛えると意気込んでいた篠ノ之と、ひょんなことから手合わせすることになった。戦おうとした経緯を思い出すと苦笑いばかりが漏れる。
俺が調子に乗って剣術を嗜んでいると言わなければ、手合わせすることは無かったかもしれない。俺としては剣術を嗜んでいるから、教えてもらわなくても大丈夫だとの意味合いで伝えたはずが、篠ノ之はだったら手合わせして欲しいと目をキラキラとさせてしまったという何とも言えない状況に。
結果は言わずもがな、俺が一方的に完封する形で勝利を収めた。
「……あぁ、覚えているさ。私はお前に負けた。それ以降お前と勝負することは無かったが、今でも勝てるとは思っていない」
篠ノ之とて忘れはしないだろう。
負け知らずだった自分が、異性とはいえ手も足も出ずに完封された。敗北をほとんど知らなかった篠ノ之にとっては、負けたことが相当悔しかったはず。一本を取られても何度も何度も食って掛かって来た状況を、俺も鮮明に覚えている。
しかし篠ノ之からすれば、わざわざこの話を持ち出して何の意味があるのかということになる。その表情は不服そのものであり、一体何が言いたいんだと訴えかけているようにも思えた。
実際この話自体に意味は無い。篠ノ之の感情を抑え込むことが目的であって、本当に意味が無い。半ば篠ノ之を強引に抑えつつ、話を続ける。
「あれさ、よくよく考えたらフェアじゃなかったよな」
「……」
「お前は剣道の型、俺は自由な剣術。そりゃ防具を着けてない分俺の方が動きやすいし、手数も多く出せる。確かに貰う一撃はでかいけど、身軽な分かわすのは難しくない。もう一度、お前と手合わせしたいものだ」
「霧夜……一体何が言いたいんだ?」
「いや、特に意味はねーよ。ただあまりにもお前が思い詰めているから、少しリラックスさせようと思って」
篠ノ之の表情が一層険しくなる。
目線が完全に目的を見失っているようにしか見えない。だが一旦は会話の主導権をこちらに引き寄せることが出来た。これで少しはこちらの話を飲んでくれることを願うばかりだ。
「俺は皆と平等でありたいって思っている。尽してくれることはありがたい、でもそれは篠ノ之の身を削ることにもなるし、結果お前が倒れたらそれこそ俺は申し訳が立たなくなる」
「それは……」
「辛い思いもしたし、もう十分苦しんだだろう」
「く、苦しんでなどいない! 私は自分がしたことの尻拭いをせずに終わるのは納得が行かないと言っているだけで!」
表面上は取り繕っているが、内心は穏やかじゃないはず。
これ以上、篠ノ之に負担を掛けるわけにはいかない。彼女の負担を少しでも和らげ、かつ納得させられることが出来る理由を提示しなければならない。
酷く弱った、焦りに満ちた今の篠ノ之の表情。このままではまたいずれ、俺への罪悪感が枷となり、同じ過ちを繰り返してしまう。
俺が篠ノ之に与えられる役目、彼女が納得出来る理由。
……一つだけ、あった。
些細なことかもしれない。だがこれは篠ノ之だけに当てはまる役目であり、納得出来る理由になる。何よりも重たく、重要な役目。
少しだけ、俺も自分を偽り、厳しくする必要がある。
篠ノ之から視線を切り、あえて鬱陶しそうに下を俯く。
「何をどうしても納得しないか。なら俺から一つ……お前に誓約を言い渡す」
「誓、約?」
「言葉通りの意味だ。約束を誓うこと。そこまでして俺に尽くしたいのなら出来るだろ。まさかこの期に及んで出来ないなんてふざけたことは言いださないよな?」
「―――ッ!!?」
顔を上げた時に篠ノ之を射抜く視線は真剣そのもの、そこまで言うのであれば自分の言葉に対して責任を持てと伝える。一度した約束を破ることは、絶対に許さない。
「自分の言葉に責任を持てよ篠ノ之。良いか、これから言うことは決して断ることも破ることも許さない。逆らったら……その時は本当にお前を許さない」
「……分かった」
俺の言葉にただならぬ何かを感じ、一気に篠ノ之の表情が引き締まる。
正直、賭けみたいな部分もある。ただ逆を返せばどうして今までそうしてこなかったのか疑問にすら思えた。
「まず、どうしてこれを誓約に選んだかについてだが……」
俺と篠ノ之。
不器用な面こそ共通点としてあれど、生い立ち、容姿、性格は何一つ接点が無い。
偶々IS学園に入学し、そこで知り合った友達、仲間。
定義として分けるのであればこの分け方が正しいだろう。
友達、仲間。
重たくも、どこか俺には薄っぺらく聞こえた。本当に友達なのか、本当に信頼し合った仲間なのか。そもそも信頼し合っているのなら今回みたいな事態を引き起こすことは無かったのではないか。
そう考えれば考えるほど、その二つの言葉が薄っぺらく感じてしまう。
―――否、薄っぺらい。
そもそも友達だの、仲間だの。口から出てくる言葉ほど、信用にならないものは無い。
”私たちは仲間だから”
”私たちは友達だから”
果たしてその言葉がイレギュラーに遭遇した時に、生命の危機に直面した時に、どれほど信用に足るものだろうか。友達だから手を差し伸べられるか、仲間だから絶望的な状況から一つの命を救い出すことが出来るか。
自信を持って出来ると答えられる人間はごく僅かだ。
話を戻そう。
そもそも俺は篠ノ之との間に壁を感じていた。セシリアや鈴や、シャルロットやラウラの誰よりも、壁があるように思えた。ではそう思う理由はなんだろうかと考えた時に、真っ先に思い浮かぶ理由が一つある。
それは俺と大きく関わりのある人間の中で、篠ノ之と俺だけが出来ていないこと。
「実はずっと前から気になってたんだわ」
告白の時に言うはずのセリフがこんなところで使われるなんて、誰も思わない。
俺もこんな理由付けをする羽目になるだなんて思ってもみなかった。だが実際に俺たちだけが出来ていないことがあった。もしかしたら他の人間に質問しても最初は分からないかもしれない、しかし俺の周囲で親交がある人間であれば、間違いなく縦に首を振る。
と言うくらい簡単なことだった。
それは―――。
「―――ずっと名字で呼ばれていることにな」
「……え?」
言っている意味が分からないと、鳩が豆鉄砲を食ったような表情に変わる。
セシリアや鈴、シャルロットやラウラが出来ていて、篠ノ之に出来ていないこと。
それは俺のことを、俺が篠ノ之のことを名前で呼ぶこと。
チャンスはいくらでもあったというのに、俺たちは一度も名前で呼び合ったことが無かった。
決して俺と篠ノ之の仲が悪いわけではない。こと剣術においてはどこか師弟関係のようにもなっている。だというのに俺たちは互いの名を交わすことが無かった。
「一体どういう……」
「考えてみれば前々から違和感があったんだ。名前自体は知っているはずなのに、どうして互いの名前を呼び合っていないのか。何故だと思う?」
「……」
俺の質問に対し、篠ノ之は深く考え込む。
篠ノ之は『箒』という名前が、俺には『大和』という名前がある。入学してからもう数カ月、これだけ関わり合っているのに、名前で呼び合わないのも珍しい。
もしかしたら無意識に壁を作り、一定の距離を縮めようとしなかったのかもしれない。その引き金となったのがさっきの話にも出て来た剣道場での手合わせの一件ではないかと考えている。初めて俺と篠ノ之が関わりを持ったのは剣道場であり、逆に苦手意識を持たれる可能性があるかを探るとそこに行きつく。
もちろんこれは俺の勝手な想像であって確定ではない。
「無意識だったのかもしれない。だが呼び合っていなかったことは事実だ」
「……」
「篠ノ之、俺の名前知っているよな?」
コクリと頷く篠ノ之をみてニヤリと笑みを浮かべる。当たり前のことであって、これだけ関わりを持っているのだから、彼女が俺の名前を知らないのはあり得ない。
「なら話は早い。篠ノ之、ここから始めよう。本当の意味での友達って奴を」
「霧夜……」
違う、そうじゃない。
「―――霧夜、じゃない。俺の名前は大和だ。箒」
俺から初めて名前を呼ばれたことに、ピクリと体を震わせる。
本当の意味で背中を、全てを預けられるような関係になる意味を込めて、改めて俺の名前を預けた。
「お前に与える誓約は『俺の名前を何が何でも守り抜くこと』だ。良いか、本気で申し訳ないと思っているのなら行動で示せ。俺の名前すら守れない人間が、他の何かを守り抜けると思うな」
普通の人間が聞けば何を言っているのか分からないことだろう。
篠ノ之……いや、箒は分かっているはず。
「俺の名前を、お前に預ける。だから何がなんでも俺の名前を守ってみせろ」
名前を守り抜くことの本当の意味は、今回の件を戒めとして心に刻み、これから先、二度と俺と同じような被害者を出さないようにしろという俺からのエールのつもりだった。箒にとっては最も重たい言葉となりうるかもしれない。
自身の慢心が、取り返しのつかない事態を引き起こす可能性があることは重々身に染みて覚えた。これ以上、俺はもう箒を責め立てるつもりはない。
「お前にとっては重たいことかもしれない。意味の解釈は自由だけど、かなり厳しい約束のつもりだ」
「……」
「……ただ、お前がもし重圧に負けて押し潰れそうな時は……」
「大、和……」
「俺も一緒に、箒の重荷を背負ってやる」
決してひとりにはしない。箒が俺の背中を守る代わりに、俺も箒の背中を守ろう。
顔を上げる箒の目には既に涙が溜まっていた。
ここ最近だけで何回女性を泣かしているのか、そろそろ後ろから刺されても文句が言えないんじゃないかと思ってしまう。
とにかく、俺が他に投げ掛けてやれる言葉があるとすれば。
「幸い、誰も死んでいない。皆生きて戻ってこれた。お前が無事でよかった、それだけだよ」
「うぁ……大、和……大和っ!」
「ぐはぁっ!?」
涙を堪えきれず、泣き出した箒は勢いよく俺の腹へと体当たりをかましてくれた。
ノーガードだったせいで、肺から一気に酸素が吐き出され、一瞬呼吸が出来なくなる。
泣きつく相手は一夏だけかと思っていたら、まさかのパターンだ。凛とした表情を崩さなかった箒が泣いている。声を上げて、幼い子供が親に縋るように。
「すま、ない。すまない……ごめんなさい、ごめんなさい……うぁぁああ!」
「辛かったな。お前なら必ず、俺との約束を守ってくれると信じている」
大丈夫、箒なら必ず同じ轍は踏まないと信じている。
人間は脆く、儚い存在だというのに、叩かれようがへこたれようが、仮に引かれたレールから脱線しようとも立ち上がれる、誰かが立ち直らせてくれる。
そしてどん底から立ち上がった時、初めて成長する。
俺たちには等しく、明日が来る。
ひたすら漠然と毎日を過ごしていくのか、失敗を糧に次へと繋げようとするのか、それはその人次第。
各々抱えているもの、背負っているものがある。
毎日毎日枷と戦って生きている。どれだけ後悔しようとも、過去を取り返すことは出来ない。タイムトラベルなどと非科学的なものは使うことが出来ない以上、過去を作り変えることは不可能。
俺の左眼と同じように、失ったものは二度と戻ってこない。
過去は変えられないが未来は変えられる。
過去で間違ってしまったことを、未来にどう生かすか。一番重要なのは過去だけに、起きてしまったことに執着することではなく、過去を糧として未来を変えること。
「過去か……取り戻せるのなら取り戻したいな」
どれだけ願っても過去の時間は戻ってこない。
俺の叶わぬ願望は、夜風とともに闇の中へと消え去った。
残る問題は一つ。
俺がこれからどうしたいのか。
全てを話して楽になるのか。
全てを有耶無耶にし、現実から逃げ続けるのか。
俺の選ぶ答えなど既に決まっていた。
箒と同じように、俺も過去に仕出かした失態を糧に次へと繋げなければならない。
―――その時はもう、すぐそこまで迫っていた。