「大丈夫だよ」
目の前にいる大和をまるで赤子を宥めるかのように両手で自分の元へと抱き寄せる。抱き寄せられた当の本人は何が起きたのか理解出来ず、目を何度も瞬きさせながらその場に固まる。
首に回した両腕に力を込めて腕のロックが外れないようにすると、自分の身体と大和の身体の密着度を上げる。
(大和くんの心臓の音、すごく大きい……)
大和の心音がハッキリと聞こえる。その心拍数からどれだけ大和が興奮状態にあるかは容易に想像することが出来た。
少なくとも今の大和が平常心ではないのを判断するのは、常に一緒にいるナギにとって造作もないこと。途中までは何ともなかった大和が、自分が側に近付いて肩に顔をのせた時から、様子がおかしかったのはとうに気付いていた。
それでも大和のことだからと、特に深く聞かずに見守るだけにしていたものの、どうにも様子がおかしい。いつもならすぐに気持ちを切り替えられるはずの大和が、今回は全くと言って良いほど切り替えられていない。
洗面台に行ったのは、高まる気持ちを落ち着かせる意味合いもあるのかと勝手な想像を膨らませていた。大和は男性であり、いくら鈍かったとしても、常に一緒に行動している女性に身体を密着させられれば、多少恥ずかしいと思ったり意識したりはする。
逆にナギも無人機襲撃事件の一件以来、大和を異性と強く意識し、恋心を寄せるようになった。
学年別トーナメントを前に、ラウラと交わした無謀とも言える約束。あの約束を交わしてからというもの、ナギの中で大和がいなくなるかもしれないという可能性を拭えずにいた。全てが片付き、大和が居なくなる可能性がなくなった後でも、本人の口から事実を聞かない限りはとても安心は出来ない。
だからこそ、本当に大和が居なくならないかの確認の意味を込めて大和の部屋を訪れた。
「う……えっ?」
事態を飲み込めず小さく声を漏らす大和だが、やがて自分の置かれている状況を徐々に認識し始める。
「な、何を……」
抱き締められていることを察し、一体何をしているのかとナギに問う。ただ拒絶の言葉を述べているにも関わらず、力ずくで離そうとはしなかった。
楯無の時とは違い、特に力を込められない状況ではなく、引き離そうと思えば難なく引き離すことが出来る状況だ。
自分が手を出すかもしれないから逃げて欲しいと言っているのとは裏腹に、やっていることが矛盾している。
そもそもどうして大和はこんな状態になってしまったのか。
大和は理性を失いかけている訳でもなく、ナギを襲いたいと思っている訳でもない。
その理由は至極、単純なものだった。
―――大和は今まで、一人の女性として好きになったことがない。
だから本当に異性として、相手を好きになった時にどう反応すれば良いのか、どのように声をかけたら良いのか、どう行動したら良いのかが分からない。
大和も結局は人の子だから、女性に対して意識をすることもある。それは極々当然なことであり、世界中の男性の誰もが経験していることだ。それでも女性として、異性として想いを寄せる、好きになるといった経験は今の今まで一度たりともない。
それどころか彼の仕事上、立場上、プライベートで人と接する回数は一般人に比べてかなり少なく、彼に真の友達が居るかと言われればほぼいない。表面上の付き合いだけで、互いのことをさらけ出せるような人間関係は、家族の千尋くらいだった。
ましてや幼少期に度重なる非人道的な経験により、人間不信になっていた時期があることを考えると一般人に比べて、愛情に疎い節はある。人から本気で好かれる、自分から相手を本気で好きになるといった経験が無ければ尚更。
千尋に向けるそれは家族としての愛情であり、一人の女性として意識し、好きになっているわけではない。大和がナギを意識し始めたのはまだここ最近の話であって、大和本人も好きだと認識したのはついさっき。
当然女性と付き合った経験が無い大和は、どう接すればいいのか分からずに頭がパンクした。今の大和は理性を失った状態ではなく、単純に対応が分からずに頭がパンクしただけなのだ。
冷静に考えてみれば、女性に近付かれただけで理性が崩壊する意味が分からない。流石に大和もそこまで理性が脆い訳でもなければ、女性に対してだらしない訳でもない。
それでも大和自身は知る分かる訳もなく、ナギを身の危険から遠ざけさせようとした……それだけの理由だった。
(……私のこと、意識してくれているのかな?)
大和がどう思っているのかは分からない。だが心拍数の多さが大和が興奮していることを物語っていた。
不謹慎だと思いつつも、自分のことを意識してこうなってくれているのなら本望だと考えていた。ナギが大和を抱きしめた理由は、単純に大和が自分に助けを求めているように感じたからだ。好きな気持ちが溢れて我慢出来なかった……からではない。
(……あれ?)
抱き締められて密着度が上がっているというのに、逆に大和の心拍数が減っていく。
静かな部屋に二人の吐息だけが聞こえる。それも些細なもので、それを除けばほぼ無音状態と言っても過言ではない。ただ無言のまま大和を抱き締めるナギ。大和も言葉を発することはなかった。
徐々に思考がまとまると同時に大和の気持ちも落ち着いてくる。
「……」
落ち着いて来たところで、果たして自分は何をやっているのかと、首をかしげながら数秒前の出来事からゆっくりと振り返り始める。
なんとも異質な光景だ。洗面所の前で二人の男女が抱き合っている。この場合抱き合うというよりかは抱き寄せられているといった表現の方が適切かもしれない。
仮に誰かが部屋の中に入ってきたとしたら、勘違いされても不思議はない。
「……あっ」
「どうしたの?」
「―――ッ! うわあぁぁああ!? す、すまん! すぐ退くから!」
「えっ……あっ」
現状、大和のしていることはいち男性として誰もが喜ぶような行為だ。女性から抱き締めてもらえる、それも美少女というオマケがつけば尚更嬉しい。
それでも限度がある。
我に返った大和の視線の先に入ったのは、大和の胸に当たって潰れたナギの双丘だった。元々キャミソールにショートパンツといったラフな服装だったせいで、ボディラインがハッキリと浮き出てしまっている。
いきなり目の前に双丘が飛び込んでくれば、赤面するのは当然。居てもたってもいられなくなって、一旦距離を取ろうとする行為自体は至って普通。それも潰れているともなれば、どれだけ強く抱き締められているかがすぐに判断がついた。
そこを判断出来ないほど大和は鈍感ではない。大声をあげながら慌ててナギから飛び退く。飛び退く大和をナギはどこか名残惜しそうに見つめながら、顔を赤らめた。
「落ち着いた?」
「お、落ち着いたも何も、こんな状況で落ち着いていられるわけが……あれ?」
ナギの言葉に何を呑気にと返そうとするも、つい先程まで収まらなかった胸の高鳴りが収まっていることに気付く。
気のせいかと思いつつも、自分の右手を左胸に当てて心拍数を計り始めた。手には興奮状態だった時ほどの心拍数は感じられない。まだ多少平常時よりは心拍数が多いものの、それでも先程までとは雲泥の差だった。
何よりも通常思考で物事が考えられる。考えた言葉がすんなりと声として出てくる。
「……本当に申し訳ない。もう、迷惑かけすぎて何言って良いか分からねーや」
「大和くんがそこまで謝る必要はないよ。確かにちょっとびっくりしたけど……」
「それでも俺がナギのことを……むぐっ」
謝罪の言葉を続けようとする大和の口を手で強引に押さえる。口を押さえられたことで、頬をハムスターのように膨らませる大和がどこか小動物のように見えた。
普段のキリッとした出来る男性のオーラは何処へやら。この様子だけ見ると、とても実年齢よりも上に見ることは出来ない。
「ぷはぁっ! ちょっ、いきなり何すんだよ」
大和が静かになった頃合いを見計らい、大和の口を覆った手を離す。
どうして会話の途中で口を覆うようなことをしたのかと抗議する大和。
「大丈夫だから、ね?」
人差し指を口の前に立て、他言無用だとウインクしながら大和に伝える。自分が許しているのだから、それ以上は謝る必要はないと。
事が事だけに謝りたくなる気持ちはよく分かる。相手が理不尽であれば、許されざる行為をしているわけだ。いくら男性操縦者とはいえ、やっていいことと悪いことがある。
それでも許すと言っているのだから、これ以上謝ることは無い。ナギの言葉に大和も納得せざるを得ず、渋々引き下がる。自分がやったことを相手に許されたら、それ以上謝罪の言葉を述べられても、相手にとって鬱陶しい以外の何者でもない。
引き下がったものの、大和の表情はやはり浮かないものだった。心の奥底にはまだモヤが掛かっているんだろう。
「……何だか、すごく負けた気分だ」
「べ、別に勝負した訳じゃないから、あんまり気にしても仕方ないと思うんだけど……」
「とは言っても、色々迷惑掛けたから気にするなって方が無理な話だよ」
迷惑をかけてしまったことは事実のため、嫌が応でも気にはなる。しかし大和もそれ以上は言及することはなく、そのままベッドへと倒れ込んだ。
「あの、実は他にも話があったんだけどいい?」
「話? あぁ、いいぜ」
倒れ込んだ体を腹筋の要領で起こし、再度ナギと向かい合う形になる。
「全然関係ない話になっちゃうんだけど、トーナメントが終わったらすぐに臨海学校になるでしょ?」
「そういえばそうだっけか。この学校って行事多すぎてどうにも把握出来ないんだよな……」
「アハハ……それでね。臨海学校の準備で、今度の休日に街に行こうと思っているんだけど」
ナギの口から出てきたのは臨海学校という単語。学業の中では、思い出として根強く残るであろうイベントの臨海学校。男女共学ともなれば夜になると互いの部屋に忍び込んだり、各自の部屋で恋話に花を咲かせたりと、恋愛でも欠かせない行事になっている。
実際問題IS学園での年間行事は多く、一年目は生徒手帳を見ない限りは全てを完璧に把握することは難しい。話題の転換で一瞬大和は考え込むような素振りを見せるものの、すぐさまナギの話題に話を合わせていく。
例年と違うケースと言えば臨海学校に、二人の男性生徒が参加することだ。そもそもISを男性が動かしたケースは今回が初なのだから、男子生徒が臨海学校に参加するのも初の試みとなる。
ナギがどうしてこのタイミングで準備の買い物の話題を出したのかはすぐに理解できることだろう。
「だからその……良かったらね? 大和くんも一緒にどうかなって……」
「あぁ、いいよ」
「そうだよね。水着ぐらいはやっぱり織斑くんとかと買いに……えっ?」
「うん、一緒に行こうか。臨海学校の準備は早めにしようと思っていたから」
てっきり断られると思っていたのだろう、大和の返事を聞いたナギの顔は驚きに満ち溢れていた。
「良いの?」
「ん、あぁ。ナギさえ良ければ俺は全然構わないけど、何か都合でもあったか?」
「あっ、ううん! そうじゃないんだけど……」
大和としては誘われたから了承をしただけなのに、ナギの思わぬ反応で、本当に一緒に行って良いのか分からなくなる。
(俺、誘われたんだよな?)
再度、大和は自分が買い物に誘われたことを頭の中で確認する。むしろこれで誰が一緒に行くかなどと言われようものなら、大和の心は粉々に砕け散る。多少大袈裟ではあるが、意中の女性に嫌われた時ほどショックなものはない。
「そ、そう言うことだから。また後で詳しい日程と時間は連絡するね!」
「え? あっ、おいちょっ!!」
脱兎の如く部屋から出ていこうとするナギを追いかけようとするも、予想よりも遥かに素早い身のこなしに、あっという間においてけぼりにされてしまった。
部屋に取り残された大和はただ一人、出ていった扉を見つめるばかり。ナギが居なくなった途端、急に静かになる自室。ナギが側にいないことに対する寂しさが大和を徐々に支配していく。
(……あぁ、そうか。この気持ちってやっぱり偽りじゃないんだ)
誰でも良いわけではない、彼女だからこそ大和の気持ちは落ち着くし、側に居たいと思える。胸の高鳴りはもうない、それでも何ともいえない寂しさだけはどう頑張っても拭えそうに無かった。
「―――おい、大和!」
「んえ? あぁ、呼んだか?」
「さっきからずっと呼んでるさ! どうしたんだよボーッとして!」
「ボーッと? 俺が?」
ふと、隣にいる一夏から声を掛けられて我に返る。食事に一切手をつけずにいれば、どうかしたのかと声を掛けられても無理はない。一夏とシャルルと食堂に来てからの記憶があやふやすぎて、肝心なところは完全に抜けている。
一回医者で見てもらったらどうかと言われても、反論出来ないような浮わついた気持ちなのは間違いない。既に二人とも食事の半分以上は食べているというのに、俺は箸すら持ってないのだから普段とは違うのは目に見えて分かる。
うん、人を好きになるって本当によく分からない。
「トーナメントの時は何ともなかったのに、急にどうしたの? 我ここにあらずって感じなんだけど……良いことでもあった?」
「……いや、特に何も。騒動が一段落して、安心しているんだよ」
トーナメントの時は何もなかったのにと付け加える辺り、俺が変になったのは自室待機になってからのことだと、おおよその見当を付けているようにも思えた。
一夏に比べるとシャルルは女心に関して敏感……というよりも女性であるが故に、女性系の問題に関して察知出来るんだと思う。下手に勘ぐられないように、平静を装ってシャルルへと返す。内心はバレているんじゃないかとひやひやものだ。
「そういえば手は大丈夫なのか? さっき血で滲んでいただろ」
「問題ねーよ、前に怪我した時の傷口が開いただけだから。そんなことよりあれ、何だ?」
「あれって?」
俺が何気なく指差すのは食堂の柱の部分。柱の下には数人の女子生徒がたむろしていた。表情は多種多様、だがその表情全てが、目の前の現実を受け入れることが出来ずに絶望に染まっているように見える。
「優勝……チャンス……消えた」
「交際、ムコウ……」
「折角のシミュレーションが……水の泡……」
「「うわぁぁぁぁああああん!!」」
泣き叫ぶようにバタバタと走り去ってしまう。トーナメント自体が中止のせいで、当然優勝を目指していた生徒にとってはショックが隠せないらしい。最も、優勝と交際がどういう関係にあるのかは分からないけど。優勝したら誰かに告白するつもりでもいたんだろうか。
「……何なんだ?」
「知らん。つーか、今日の食堂が異様なまでに静かなのも気になるし」
「うん。それはついさっきから思ってたんだけど……皆どうしたんだろうね」
数人の生徒が如実すぎるだけで、そもそも食堂中が異様に暗い雰囲気に包まれていた。いつもは喧騒に包まれて騒がしくて仕方ないと思えるほどなのに、今日は逆に静かすぎる。トーナメントの中止が、生徒たちに影響を及ぼしているのは事実だとしても、残念がる理由が不純なものではないかと疑ってしまうのはどうしてだろう。
個人的にもトーナメントが中止になってしまったのは残念だし、個々の実力を試すことが出来る機会を失ってしまったと、ネガティブに考えると何とも言えない気持ちになる。
「ま、それぞれに理由があるんじゃないか。気にしたところで俺たちに理由なんて分からないし」
「それもそうか」
手つかずのまま少し冷めてしまった夕食手を伸ばし始める。二人に比べると残っている量に歴然の差があることから、相当長い時間、俺は物思いにフケていたらしい。元々量は人より多目に食べるため、食べ初めから食べ終わるまでに時間が掛かる。
急いでいる時は掻き込めばいいが、ゆっくりと落ち着ける時間帯でなら掻き込むような食べ方はしたくない。ただあまりゆっくりしている時間がないのは事実、食べ終わるまで二人を待たせるわけにもいかない。とりあえず二人には追い付こうとメインに手を伸ばす。
「あ、一夏」
「ん……おっ?」
俺が食べ始めると同時に、シャルルが視線の方向に誰かが居ることを一夏に伝える。それにつられて視線を向けた一夏が人物の正体を察知し、俺は食事に手をつけながら視線を横に這わせる。
瞳に飛び込んできたのは、いつもより少しばかり頬を赤らめ、腕を前でモジモジとさせる篠ノ之の姿だった。いつもの篠ノ之は凛とした日本美人のイメージが強いため、恥じらう姿を想像することが出来ない。
何かを聞き辛そうに照れる姿は、恋する乙女を彷彿とさせる。いや、実際に一夏に想いを寄せているから恋する乙女なんだろうけど。
「あっ、そうだ箒。先月の約束な……」
「な、何だ?」
何かを思い出したのか、おもむろに椅子から立ち上がり篠ノ之の元へと歩み寄る。篠ノ之も一夏の行動に驚きを見せながらも移動せずにその場に佇む。
一夏の言葉から出てくる『約束』の二文字。一夏の発した二文字の言葉に篠ノ之は如実な反応を見せる。
約束ってことは、このトーナメントで優勝でもしたら、何か一つ願いでも聞いてもらおうとしていたのか。問題なのはどちらが約束を持ちかけたのかだけど、一夏から篠ノ之に約束を持ち掛けたとは考えにくいし、普通に考えて篠ノ之から持ち掛けた約束だとは思う。
かつ篠ノ之の反応からは、あまり大っぴらには言われたくない内容なのも分かる。言われたくないとすると異性関係の約束だろうか。このトーナメントで優勝したら私と付き合ってください的な。
「別に付き合ってやっても良いぜ」
「ほ、本当か!?」
「は?」
思わず飲み掛けた味噌汁を吐き出しそうになるのをぐっと堪えつつ、今起きたことを冷静に思い返してみる。一夏が篠ノ之と約束を交わしていることは分かった。どちらから持ち掛けたのかも、今の会話でハッキリとした。発信元は篠ノ之らしい。
問題なのはその後、二人が付き合う約束をしていたことについてだ。約束が本来の解釈をされるということは、一夏と篠ノ之が付き合うってことになり、男女の正式な交際に当たる。
一夏の認識と篠ノ之の認識に相違がなければ、二人は晴れてカップルになる。正直信じられない、俺だけじゃなくて隣にいるシャルルも『あの一夏が?』とでも言いたげな表情をしている。
シャルルも実際は年頃の女性だし、一夏に惚れていることを考えれば気が気じゃないのも分かる。最もシャルルが女性であることを知っているのは極少数だろうけど。
ま、今俺が述べたのはあくまで一般世間の解釈をした場合であって、女心に超鈍感な男性の解釈には当てはめていない。つまり俺が言いたいのは、一夏が篠ノ之と交わした約束を間違って解釈している可能性がある点について。
男女間で交わされる『付き合う』の定義は交際の意味合いを指すことが多く、用事に付き合って欲しい、遊びに付き合って欲しいを意味することは少ない傾向にある。
篠ノ之の反応から察するに、篠ノ之は付き合うの意味合いが男女の交際的な意味合いで伝えた一方で、一夏は用事に付き合って欲しいと解釈している可能性が非常に高い。
そもそも告白の返事を、どこの誰かが聞いているかも分からない食堂でするとは到底考えられない。一夏がいくら恋愛に関して疎いといっても、最低限の節度は守ってくれるはず。むしろ節度を守れない人間ならこの十五年間何を学んできたのかという話になってくる。
一夏の生活や立ち居振舞いを見る限りは、そこに関して問題はなさそうだが、今回の話の論点はそこではない。一夏が篠ノ之の意図をどう汲み取っているか。
どことなく嫌な雰囲気がするのは俺だけじゃないはず。シャルルも一夏がこれからどう返すか、何となく察したようにも見えた。
普段の篠ノ之であれば気付いていたかもしれない。恋は人を盲目にするとはよく言ったもの、今の篠ノ之に冷静な判断をする余裕は無いらしい。
一夏の傍に自ら近づくと、襟元を掴んで自分の方へと引き寄せる。その表情はまさに恋する乙女そのもので、喜びの表情に満ち溢れていた。
「ほ、本当か!? 本当にいいのだな!?」
「お、おう」
篠ノ之の迫力に気圧されて、若干引きぎみに後ずさる。一夏の反応で十中八九、勘違いしていることは分かったけど、果たして一夏はどう篠ノ之に伝えるつもりなのか。
「何故だ、理由を聞こうではないか」
「何故と言われても……幼馴染の頼みだからな、それくらい付き合うさ」
理由に対して幼馴染みの頼みだからと返す。『それくらい』と付け加えてしまう辺り、一夏は完全に告白ではなく遊びに付き合うくらいの認識しかしていないらしい。
篠ノ之がどう一夏に伝えたのかは場に居合わせた訳ではないから分からないけど、少なからず自分が好きだということと、付き合いたいということを、はっきりと伝えなければ勘違いされてもおかしくない。特に一夏の場合は尚更だ。
ましてや『付き合って欲しい』の一言しか伝えていないのであれば、どうぞ勘違いしてくださいと言っているようなもの。
これから先の展開を予想すると頭が痛くなってくる。シャルルも先の展開が予想できたらしく、頭を押さえたまま苦笑いを浮かべしかなかった。
「―――買い物くらい……ふぐぁっ!?」
言い切った一夏の顔面に握りこぶしが叩き込まれる。上げて落とすといったなんとも理想的な、相手を怒らす展開なのか。篠ノ之としては天国から一気に地獄へと叩き落とされた気分だろう。顔は阿修羅のような憤怒の形相へと変わり、周りには怒りのオーラが溢れている気がした。
「そんなことだろうと思った……わ!!」
期待させておいてまたそれかと、握りこぶしを作りながら怒りを表す篠ノ之。それでも怒りが収まらず、殴られたことで場にしゃがみこんだ一夏を蹴り上げる。痛みでその場にうずくまる一夏をよそに、地団駄を踏みながら食堂を去っていった。
勘違いした一夏も一夏だが、何もあそこまで暴力を振るわなくてもと思いながらも、うずくまっている一夏の元に近付く。
「おい、大丈夫か一夏?」
「一夏ってさ、たまにわざとやってるんじゃないかって思う時があるよね」
「いや、恐らくは無自覚だぞ。でなきゃこんな漫画みたいな展開が起こるわけがない」
「お、お前らなぁ……」
わざとじゃなくて完全な無自覚で行動しているから尚更タチが悪い。何をどうすればそこに行き着くのか一夏に聞いてみたいところだが、『違うのか?』的な返答をされて終わりな気もする。
本人も悪気がないから、俺としても強く責めることが出来ない。これが確信犯だったら、いくらでも内面から叩き直すことは出来る。ただ本人は完全な無自覚だから、そこまで強く言えないのが現状だったりする。
そうは言っても、ここまで恋愛に関して鈍いとなるとさすがに何とかした方が良いと思う反面、如何せん打開策が見付からない。言葉で言うのは違うだろうし、本人に気付いてもらうしか思いつかないんだけど……どうしたもんか。
「あ、良かった! 皆さんまだここにいたんですね!」
「山田先生、急にどうしたんですか?」
「はい! 今日はお疲れ様でした♪ それでですね。皆さんにとって朗報がありまして」
うずくまる一夏を見守っていると、食堂の入り口からバタバタと駆けてくる小柄な影が近付いてくる。いつも授業では顔を見るのに、久しぶりな感じがするのはどうしてか。
……あぁ、校舎内で話すことは多いけど、こうして私的な場で話すことが少ないからか。千冬さんとは話す機会が多いから特に何も思わないけど、元々話す機会が少ない山田先生はどうしても長く会っていなかったような不思議な感覚に襲われる。
大きな双丘を揺らしながら近付いてくるもんだから、直視し辛い。普通のプロポーションだけで言うなら、クラスの中でも勝てる相手はいない気がする。隠れながら羨む人間は数知れずだろう。
話が完全に脱線したところで再度、本題に戻るとしよう。
そもそも山田先生がここに来た理由だけど、朗報と聞く限りは俺たちにとって良いことなのは分かった。逆にそれ以外は何も分からない。先読みが出来るなら最高だけど、生憎そんな便利な特殊能力は持ち合わせていないから、とりあえず山田先生の話を聞くことにする。
「朗報……ていうとトーナメントは仕切り直しになるとかですか?」
「あ、いえ。残念ながらトーナメントは完全に中止になりました……もちろん一回戦だけは行うんですけど……ごめんなさい。霧夜くん、楽しみにしてましたよね」
「えぇ、まぁ。それでも事情が事情なんで仕方ないです。で、朗報っていうのは何ですか?」
「えーっとですね。なんと! 本日から男子の大浴場利用が解禁になります!」
目をキラキラと光らせながら、まるで自分のことかのようにエッヘンと胸を張る山田先生だが、自己主張の激しいそれがモロに強調されると、嫌でも視線を向けたくなる。
一夏に至っては痛みなど忘れて、完全に山田先生の胸元に視線が釘付けの状態だ。いくら鈍感でも、性に関しては年頃の反応を見せるあたり変わった性癖を持つ訳じゃないのは分かった。
一方、一夏の反応を見たシャルルは、面白くなさそうに眉間にシワを寄せる。
「……一夏のスケベ」
「何でだよ!?」
私怒ってますと言わんばかりに、一夏から顔をそらす。
あれか、やっぱりシャルルも一夏にときめいたのか。篠ノ之にセシリア、鈴だけじゃなくて、シャルルも一夏のハーレムに加わったとなると、少し助言をしただけで贔屓だと言われそうだ。
「まぁ確かに色目を使っていたのは事実だよなー」
「おい大和、お前まで何言ってんだ!?」
「お、織斑くん!? だ、ダメですよ! 先生と生徒がそんな関係を……あ、でも先生と生徒の関係は学園の中だからで、学園の外でのプライベートだったら……はふぅ駄目ですよぉ、織斑くん♪」
頬に両手を当て、体を左右にくねらせ始めた。頬を赤らめるあたり、あらぬ方向へと妄想が膨らんでしまったらしい。授業中も度々、クラスメートの些細な質問で自分の世界にトリップすることがあるけど、一回自分の世界に行くと戻ってくるまでに時間がかかるんだよな……。
千冬さんがいるならすぐに引き戻してくれるものの、生憎都合良く千冬さんがいるわけでもないし、自分の世界に入り込んでしまった以上、しばらくは元に戻らなさそうだしどうしたものか。
しかしまぁ、女子だけしか使えなかった大浴場が使えるようになったのはそれはそれで嬉しい。今までは自室のシャワールームしか使うことが出来なかったし、湯船に浸かるだけでも疲れの取れ方は全然違う。
湯船に浸かることはIS学園で一度もなかったし、そう考えると山田先生の言うように朗報なのは間違いない。あくまで女子生徒がメインで使って、入浴時間を決めて俺たちが借りるみたいな方針にはなるんだろうけど、それでも湯船に浸かれることを考えれば俺たちにとってかなりのプラスにはなる。
大浴場を使うか使わないかは本人の自由だし、男子のためだけに時間を設けてくれたことに感謝しなければならない。
「さて、俺は残りを食べて部屋に戻るけど、二人はどうする?」
「とりあえず僕と一夏も一旦部屋に戻るよ。大浴場使えるなら、是非使ってみたいし」
「大和も一緒にどうだ? 折角だし皆で入りにいこうぜ!」
本人としては何気なく言ったつもりなんだろうけど、一夏の言葉に真っ先にシャルルが反応し、目を丸くしたまま顔を赤らめる。皆って言えば、近くにいるシャルルもカウントに含まれることになる。
表向きには男子生徒として入学をしているが、実態は年頃の女性。理由があって隠している状態ではあるものの、女性である事実は変わらない。
必然的に見てはいけない部分まで見えてしまう可能性もある。見えないように顔を背けたところで、大浴場内の雰囲気は気まずくなり、ゆっくり浸かっている間もなく、どちらかが出ていく羽目になる未来が容易に想像できた。
「いや、俺は良いけどシャルルは不味くないか?」
「へっ……あっ!? そ、そうだったな! 悪いシャルル、気付かなくて」
「う、ううん。ぼ、僕は全然大丈夫だから……」
何故二人して照れるのか。目の前でラブコメを見せられる方の身にもなってほしい。あれだ、惚気ているカップルを見ると全力で殴り飛ばしたくなるような気持ちが沸々と湧き上がってくる。殴ったところで俺の憂さ晴らしにしかならないし、気分が悪くなるだけだから殴りはしないけど、目の前で見せつけられると羨ましいような負けたような気がしてならない。
これがモテる男とモテない男の違いだと認識させられるとどうにも悔しい。これだけモテるのに本人にはその気がない上に、好意に対して全く気付いていないのはまさに女泣かせ……キング・オブ・唐変木ズの称号に相応しい。称号を貰ったところで全然嬉しくないだろうけど。
そう考えると勇気を出して付き合ってくれと告白した篠ノ之が可哀想に思えてきた。これ以上深く考えると何故か罪悪感に苛まれる気がしてならないから、この辺りで考えるのはやめにしておく。
「ま、俺は一番最後でいいから、お前らだけで入る順番は決めてくれ。ちょっとやらないといけないこともあるし、すぐに大浴場に向かうのは無理そうだ」
「……そうか。なら俺とシャルルでどっちが先に入るか決めて、最後に入った方が大和を呼びにいくってことで良いか?」
「あぁ、それで良い。後は山田先生は俺が部屋まで連れていくから、先に部屋に行っててくれ」
「了解。シャルル、行こうぜ」
「あ、うん。じゃあ大和、また今度」
流石に山田先生を自分の世界にトリップしたまま、置いてきぼりにするわけにもいかないし、ひとまず山田先生の自室まで運んでから部屋に戻ることにする。
一夏とシャルルと挨拶を交わした後、残った夕食をかきこんで、山田先生を部屋まで送り届けたわけだが、山田先生を部屋に連れていく際に、たまたま出会した千冬さんに俺が山田先生を襲っていると勘違いされて、上段回し蹴りを食らい掛けたのはまた別の話だ。
「ふわぁ……流石に今日は疲れたな」
自室でノートパソコンを開きながら最低限の報告物を作るも、襲ってくる眠気には勝てず、徐々に瞬きの回数が増えていく。何度か手の甲でごしごしと目蓋を擦るも、眠気が覚める気配はない一向にない。
時間的には消灯時間は過ぎているし、パソコンとにらめっこを続けるくらいなら、寝た方が時間は有効活用できる。実家への報告物は一応形にはなっているため、後は送るだけでいい。
そうなるともうやることは何一つ残っていない。
そろそろ寝ようかどうしようかと悩むも、選択肢などもはや無いに等しい。メールの送信ボタンを押し、送ったことを確認すると、パソコンの電源を落とす。正直この報告がどのように使われているのかは俺には分からないが、果たして有効活用されているのかと言われれば甚だ疑問だ。
現場に何か落とし込みがあるわけでもないし、あくまで俺が自分の意思で動いているから、別段実家からの指示もない。
報告は仕事に対してのもので、現状ほぼ毎日送ってはいるが、一夏の身の危険が及ぶような事態が無いから、書く内容がない。逆に書く内容が増えればそれだけ一夏に危険が及ぶケースが増えたことになる。
俺としてもあまり嬉しい事態ではないため、出来ることなら穏便に時間が過ぎて欲しいというのが本音だ。
「もういいや、やることはやったし今日は寝よう」
椅子をしまい、ベッドに向かって背中から倒れ込む。全てが解決した後のベッドの感触は、いつも以上に心地よく感じられた。それこそ目をつむっていると、いつの間にか夢の世界に入り込んでしまうほどに。
寝転びながら今日一日のことを振り返ろうとするも、一日の内容が濃すぎて、とてもじゃないが全てを振り返ることは無理だった。
……一つ振り返るとすれば、俺自身がボーデヴィッヒと同じ遺伝子強化試験体なのは、紛れもない事実であるということ。ボーデヴィッヒを助けるために出任せで言った嘘ではなく、偽りの無い真実。
真実を打ち明けるべきかどうかはかなり悩んだ。いくら同じ境遇とはいえ、わざわざ自分から正体をさらす意味がない。言ったところでボーデヴィッヒにどこ吹く風の反応をされれば、言うだけ無駄になる。
それでもボーデヴィッヒなりに考え直す、自身を見つめ直す切っ掛けとなることを信じて自分の正体を打ち明けた。彼女がどう捉えたのかは分からないが、ちょっとでも前をみてくれればというのが俺の本心でもある。
何かに縛られ続けたら人生自体つまらなくなってしまう。たった一度しかない人生なんだから、誰かに依存するのではなく、自分で考えて行動した方が良い。自分の足で一歩踏み出すことで、殻を破ることが出来る。
これからボーデヴィッヒがどう変わっていくかが楽しみだ。
「……」
天井を見ていると徐々に目蓋が閉じ、視界が狭まっていく。思いの外体が疲れているんだろう。徐々に体から力が抜けていくのが分かる。
後は眠気に身を任せ、眠りにつくのを待つだけ。
「……?」
静かな部屋ほど僅かな音が鳴れば聞こえやすく、俺の耳には部屋の扉を数回ほどノックする音が聞こえた。隣の部屋でバタバタと騒いでいる音が壁越しに伝わってきたとも取れるが、音の質感がベニヤ板のような柔らかいものではないのは分かる。
音を聴けば大体どこを叩いているか分かるし、今の音は明らかに、固く作られている入り口の扉をノックしたものだった。
消灯時間はとっくに過ぎているし、本来なら無断外出は禁止されているが、仮に部屋の前に人がいるならこのまま放置する訳にもいかない。それが重要な話なら尚更だ。
時間的には生徒が来るのは考えにくいし、かといって教師陣も消灯時間を過ぎ、生徒たちが寝ているかもしれない部屋に来るのは考えづらい。
となると考えられる可能性として、部屋を訪れる人物は限られる。最も高いのは恐らく千冬さんだろう。逆に千冬さん以外の人物が思い付かないし、校則を破ってまで寮の外を出歩く生徒がいるようにも思えない。
しばらく様子見で入り口の扉を見ていると、再度小刻みにノックをする音が聞こえてくるところから、まだ部屋の前にいるらしい。イタズラには思えないし、外にいる人物が誰であれ、そのまま放置する意味もないから、一旦誰がいるかだけ確認しておこう。
ベッドから起き上がり、部屋の入り口へと歩み寄る。中途半端に起こされたことで、眠気が覚めてしまった。部屋に掛かっている内鍵を二ヶ所外し、取っ手を掴むと部屋の扉を廊下側に開く。
すると。
「はい、こんな夜分に誰で……」
どなたですかと途中まで言い掛けて行動が止まる。てっきり千冬さんが来たとばかり思って心構えていたところを、一気に根本からへし折られた気分だ。それほどにまで意外な人物が俺の目の前に立っていた。
恐らく今まで俺が部屋の前に立たれた人物の中で一番意外な人物だと思う。予想外の展開に思わず言葉を失い、扉を開いたまま場に立ち尽くす。相手も一向に話続けようとしない俺に痺れを切らしたのかもしれない。今度は相手から言葉を投げ掛けてきた。
その人物とは……。
「夜分遅くに済まない……どうしてもお前と話したいことがある。少し良いか?」
制服を纏い、いつもとは少し違った雰囲気を持つラウラ・ボーデヴィッヒだった。