変化と噂
「ふわぁ……」
長期休暇が終わって改めて思う、ゴールデンウィークとは何だったのかと。休みが始まる前は信じられないくらいにテンションが高かったと言うのに、休みが終わった今となっては異常なまでにテンションが低い。ある一種の病気なんじゃないかと思うくらいだ。
何をするにも気力がなくて、ひたすらにだらけてしまうのを文字って五月病なんて呼ぶ。考えた人間は天才なんじゃないかと思うくらい、ちゃんとした思考が回らない。
ゴールデンウィークが明けたことで、昨日から俺はIS学園の寮に戻ってきている。朝から外を走ってきたのに、まだ眠気が覚めずに大きなあくびを一つ。
両手をぐっと天井に向かって伸ばすと、背中の付け根辺りが引っ張られる。毎日起きた後に何回か癖でやるこの行為も、些細なものなのに心地よいものだ。
朝シャワーを軽く浴びて心身ともに爽快……まではいかないも、また学校生活が始まると思うと、嬉しさ八割の気だるさ二割。気だるさの原因は言わずもがな、夕方まで続く授業のせいだ。
学生の本分は勉強なんて言われても、こっちは知ったことじゃない。最低限はやろうと思っても、勉強で高みを目指そうとは思わない。
洗面台の鏡を見ながら髪の毛をドライヤーで軽く乾かし、いつもの髪型に整えていく。もう手癖になっているから、慣れたものだと我ながら思う。斜め上からドライヤーを当てると、風の勢いで毛の一つ一つが立ち上がる。
ほぼ乾ききったところでドライヤーの電源を切り、水道のすぐ近くに置いてあるナチュラルワックスの少しだけ指先に取り、それを両手にまんべんなく広げると根本から髪を固定していく。
ハードワックスでガチガチに固めるわけではないため、そこまで量をつける必要もない。良い感じに全体を整えたところで髪全体に違和感がないかどうかを鏡を見ながら確認。
寝癖は無いと思うが、下手にワックスをつけて全体像が崩れていたら恥ずかしい。IS学園で指をさされながら、影で笑われるのを想像するだけで、全力で逃げたくなる。
ま、見た感じ違和感ないし大丈夫か。
「……いや、やめよう。流石に昨日の髪型を学園でやるのはなぁ」
いつぞや出掛けた時のことを思い出す。あの時はその場のノリとナギの要望で、無理やりいつもの髪型と別にしたが、よく考えれば割と無茶ぶりだった気がする。
持っていたのがナチュラルワックスで、ガッチリと固めることは出来なかったが、いつもはもっとガチガチに固まっている。
人前であの髪型にしない理由は、あれは霧夜家の集会の時に俺がセットする髪型だからだ。やはり仕事とプライベートは分けたいもの。
とはいえ、ワックスが弱いためにいつもの髪型とは程遠いものだったため、若干お洒落になっていたのはここだけの話。そこまで見せるものじゃないし、ある意味貴重な体験だったかもしれない。
「さて、さっさと制服に着替えて朝食いくか」
ワイシャツはもう着ているので、後は上から制服を羽織ればいい。今日の朝食はどうしようか、食堂を最後に利用してから一週間と経っていないのに、何故か異常なくらいに懐かしいように感じる。
これが一回実家に帰った反動とでもいうのか。
髪のセットも終わり、ひとまずやることを終えた俺は使ったタオルを洗濯かごの中へ投げ込み、洗面所から外に通じるドアを開く。
「あら、おはよう。お邪魔してるわよ?」
ドアを開けた先に飛び込んできたのは制服姿に着替えた楯無さんだった。
いつもと違って制服の上着を羽織っておらず、ネクタイもまだ締めていない。着ているワイシャツのボタンは中途半端に開いており、胸元が大きくクローズアップされていた。
元々スタイルは抜群のため、制服の上からでも身体のラインはハッキリとしているのに、制服を着ていないとなれば、そのスタイルはより際立つ。ワイシャツの隙間からは微かに胸の谷間が見え、ポーズによっては割と危ない状況になっても不思議ではない。
「ちょっと久しぶりですね、おはようございます。ってか何でまた勝手に部屋に入り込んでるんですか」
「何となくかしら。特に理由はないわよ」
相変わらず自由奔放な人だ。女性がいつの間にか自分の部屋に入り込んでいるって、普通に考えればかなり怖いことだよなこれ。美少女だから許されるなんて言われても、実際いたらかなり怖い。
楯無さんは知っているから良いとしても、これが知らない人間が潜り込んでいたらと思うと、鳥肌が立つ。
知り合いでも俺のプライバシーはいずこへ、などと愚痴りたくなる時があるものの、それを許しているのが現状だったりする。
などと思いながらも楯無さんが寝転がっているベッドとは反対側の簡易キッチンの方へと向かい、そこにある電気ケトルに水をいれてスイッチを入れる。
朝起きの一杯はどうしてもやめられないもの、いつもは食事中に食堂で買っているがたまには自分で入れるてもいいだろう。そもそもその為に買ってきているのに使わないのも勿体ない。
上の棚に収納したコーヒーカップを二人分取りだし、粉末コーヒーを均等に入れる。俺の分に関してはお湯が沸くのを待つだけで、もう一つの楯無さんの分には前もって買っておいた粉末のミルクを入れた。
前にコーヒーかジュースか提案した時に、ガムシロップもミルクもなくて楯無さんがオレンジジュースを選んだことがある。
コーヒーは飲みたくても、ブラックはちょっと苦手な人もいる。なら飲めるようにこちらで準備をすればいい。砂糖があれば苦いコーヒーも甘くなる。故に飲んでくれる人が増える。
小さな入れ物に入ったガムシロップを二、三個取り出し、それをマグカップの横に置く。これは俺の分ではなく、楯無さんの分だ。前回の楯無さんの反応を見る限り、コーヒーは飲めるけど苦いのは苦手なタイプらしい。
俺の部屋に俺以外の人間はそうそう来ないと思って、ガムシロップを買わずにいたが、結構な頻度で俺の部屋に来ている。実際、用意して正解だった。
これなら楯無さんも飲めるはず。
「楯無さんの分もコーヒー入れるんで、良かったら飲んでください」
「あら、ありがとう。でもそれってブラックじゃないの?」
「……そこ安心してください。ちゃんと用意しておいたんで」
「なら頂こうかしら。折角大和くんが淹れてくれるんだし♪」
楯無さんの一言で、一気にコーヒーのハードルが上がった気がする。とはいっても使っているのは市販のインスタントコーヒーで、誰もが簡単に手に入れることが出来るもの。
唯一違うところは、普通の市販に比べると圧倒的にこちらの方が高価なところだ。そのため、味の保証は出来る。逆に楯無さんが普段飲んでいるのが、これよりも高いものだとしたら、少し申し訳ない気分にもなる。
ケトル内の温度が暖まって来たのを知らせるように、音が大きくなってくる。熱々のコーヒーも悪くないが、完全沸騰のままでは熱すぎて飲めない。猫舌の人にとっては地獄そのものだ。
完全に沸騰する前にケトルを台から取り外し、粉末が入っているカップに丁寧に淹れていく。入れた後は粉末が玉にならないようにすばやくスプーンを使ってかき混ぜていく。ブラック特有の真っ黒の液体から、徐々にミルクの白が混ざった褐色の液体へと変わる。
今思えば、ミルクが入ったコーヒーを自分で作るのはいつ振りだろうか。家ではコーヒーが好きなのは俺だけで、千尋姉はコーヒーは飲もうとしない。いつも俺がコーヒーを入れる代わりに、ホットココアの砂糖増量版といった甘いものを更に、甘くするといった何とも言えない飲み物を作っている。
本人は美味しそうに飲んでいるとしても、俺は飲もうとは思えない。見ているだけでも胃もたれがしそうだ。
さて、コーヒーは淹れ終わった事だし、冷めないうちに持っていくとしよう。両手で取ってを持ち、ベッドルームの方へと向かう。
「楯無さん。コーヒー……ってなんつー格好してるんですか!?」
「何って本読んでいるだけだけど。あっ、もしかして見た?」
「見てません!」
ついさっき挨拶を交わした時は顔を俺の方に向けて寝転んで居たのに、コーヒーを淹れて戻ってきてみれば今度は足を俺の方へと向けて、何故かパタパタとばた足するように動かしていた。
足を動かすことでスカートがヒラヒラと動き、中に隠れている逆三角形の女性特有の代物まで見え掛けたところで、顔を横に逸らした。ばた足が激しくなっているような気もするが、見なければ何の問題もない。
この人には男性に見られるという恥ずかしさは無いのか。俺だったら自分の下着姿を見られるのを想像するだけで嫌になる。それは逆のパターンでも同じだろうし、楯無さんに恥じらいが無いとは思わない。
しばらく顔を逸らしていると、ベットのしなる音が消える。音が消えたと同時にコーヒーカップを机に置き、楯無さんの方へと振り向く。
するとそこには、つまらなそうに頬をリスのように膨らめながら、こっちを睨む楯無さんの姿があった。ムスッとした表情からは、作戦が上手くいかずに面白くないのがハッキリと伝わってくる。
「もう、俺をからかうのはやめてください。結構恥ずかしいんですから」
「むー……大和くんが反応しなかったら、意味ないじゃない!」
「反応しません! 楯無さんだって、恥ずかしくない訳じゃないんですよね?」
「それは……」
珍しく何も言い返せなくなる楯無さん、どうやら図星らしい。男性に自ら下着を見せようなんて女性はまず居ない。楯無さんの場合、俺も恥ずかしがって視線を逸らすため、おあいこになる。
あくまで俺の考えであって、楯無さんがどう思っているかどうかは分からない。
断定が出来るとすれば、間違いなく本人も恥ずかしがっているところか。顔を赤らめながら、うーうーとサイレンでも鳴り響くかのように唸る楯無さん。右手の人差し指でモミアゲくるくると弄りながら、左手はベッドのシーツにのの字を書いている。
常に真っ正面から見てくる強い深紅の眼差しは、俺がいる場所とは全然違う場所を泳いでいた。
「うー……大和くんのバカ!」
「すみません。でも別にからかった訳じゃないですよ?」
「ふーんだ。しーらない」
読んでいた本を置いて、淹れたコーヒーを飲むためにベッドから立ち上がる。少し拗ねているのか、俺と顔を会わせようとしない。
机の上に置いてある片方のコーヒーカップを手に取り、机の椅子に座るとそのままコップの縁に唇を当てて飲み始める。
俺も飲もうかと残った方を手に取ったところで違和感に気付いた。
コーヒーってこんなに茶色かったかと。
飲み慣れているからこそ、わざわざ中身を確認しようとも思わないが、普段とは違ったコーヒーの香りに、口をつける前に確認しようと一旦中身を覗き込んだ。
すると案の定いつも飲んでいるものとは違い、ミルクでも入ったかのように茶色に染まったコーヒーがあった。何故ここにミルク入りのコーヒーがあるのか、確か楯無さん用に作ったもののはず。何でそれがここにあるのか、そして俺のコーヒーはどこに消えたのか。
これが誰もいない部屋で起こっていることなら軽くホラーものだが。
「う、うううぅぅ……」
刹那、弱々しい声が聞こえてくる。俺の前にはふるふると口を震わせて、表情を苦々しいものに歪めた楯無さんが。完全な不意打ち気味な苦さに、いつものミステリアスな雰囲気はどこへやら。
まさか手に取ったのがブラックの方とは思わなかったんだろう。そのせいでより苦く感じたのかもしれない。
先の会話といい、大分楯無さんの頭のネジが外れているらしい。もしこれを楯無さんを知る生徒が見たらどうだろうと頭の片隅に想像しつつ、俺のコーヒーカップと楯無さんが持っているマグカップを交換する。
「な、何これぇ……砂糖入ってないじゃない!」
「それは俺の分ですよ。楯無さんの分はこっちです」
ミルクが入っているコーヒーを差し出し、楯無さんが飲んでしまったブラックの方を回収する。一緒にコーヒーを甘くするためのガムシロップもいくつかセットで渡した。次はガムシロップを入れ忘れるなんてオチがないのを祈るだけだ。
「まさか狙った?」
「なわけないでしょう! 楯無さんが偶々間違って飲んだだけですよ」
ほんの少し、弱った楯無さんの顔を見れただけでも良かったとしよう。
一緒に持ってきたガムシロップを数個手に取り、それを一つ一つ丁寧にふたを開けてコーヒーに混ぜていく。ガムシロップを何個も入れているのを見ると、やはり女性は甘党なんだと再認識させられる。
コーヒーを口に運びながら、いつもとは違うバタバタとしたティータイムを満喫しつつ、話を本題の方へと切り替えていく。
登校前に顔を出したのには何らかの理由があるはず。俺をからかいたかったのが理由の一つだとしても、わざわざ朝早くにそれだけの理由で来るとは思えない。
機嫌も戻ってきたことだし、こっちから話を切り出してみる。
「ちなみに、今日来た本当の理由ってなんです?」
「うん? あぁ、そうだったわね。実は大和くんに渡すものがあったの」
「渡すもの?」
「そ、えーっと……はい、これ!」
「あ、どうも。えーっと……封筒? それも結構厚いような」
どこから取り出したのか、何処にでもあるような茶色い封筒を手渡される。急に手渡されたため、思わず反射的に受け取った。光の影になっているせいで、中に何が入っているのかまでは分からない。
厚さ的には大体板チョコくらいの厚さだろうか、数ミリあるかないかくらいの厚さだった。手に持ってみると結構重い。もちろん片手で持てないほどの重さではないが、板チョコなんかよりは更に重く感じられた。
もらったはいいものの、これが何なのかも分からない上にどうすればいいのか分からずに、楯無さんと封筒を交互に見いやるしかない。
ただ中身が何なのかはなんとなく察しがつく。おそらくは……。
「あの、これは一体?」
「更識家からの報酬って言えば分かるかしら。納得はいかないかもしれないけど、私たちは大和くんに助けてもらっている身分……無償でって訳には行かないわ」
「……」
「感謝の気持ちとして受け取ってくれると嬉しいわ。これをどうするかは大和くん、貴方が決めてちょうだい。どの選択だとしても、私は何も言わないから」
楯無さんの言葉で疑問が確信へと変わる。
俺のことを見つめながら、隠し事一つせずに話してくる。楯無さんもお金で解決することが嫌いなんだろう。それでも更識家当主として、借りを作りっぱなしなのはプライドが許さなかい。
同じ境遇であれば、俺も全く同じ行動を取っていたと思う。本当なら持ちつ持たれつの関係が一番いい。でも手を貸す、貸されるとなればどこかを譲らなければならない。
話し終わった後に視線を下に逸らす楯無さんの姿がそれを物語っていた。本当だったらこんなことで解決したくはないと。現状負担が大きいのは事実だ。ここ最近は学園の侵入者の連続で捕らえたり、無人機の襲撃時には体を張って立ち向かったりと。
本当に嫌なら初めから断っている。わざわざ学園のことに手を貸して自分の負担を増やすこともない。
それでも手を貸したのは助けたいと思ったから。理由はそれだけで十分。
もしここで俺がこの封筒を突き返したら、楯無さんの好意を裏切ることになる。感謝の気持ちとして送られたものなら、素直に受け取るのが筋だ。
「お互いに色々と苦労する身分ですね、楯無さん」
「そうね。少なくとも得をするとは思えないわ」
机の上に封筒を置きながら、互いに苦笑いを浮かべる。自然と嫌な感じはしなかった。苦笑いの中にも、どこか心の底から笑えている部分があるようで。
口に出さないだけで、思っていることは同じなのかもしれない。
「ありがたく受け取ります」
「ん、ありがと♪ さっ、そろそろ私行かないと。久しぶりの学校だからやること多いし、頑張らなきゃ」
「ですね。俺としてはまだ覚えることばかりなんで、頑張らないといけないです」
「大和くんなら大丈夫よ。それとおねーさんから一つ良いことを教えてあげる」
「良いこと……って何です?」
すぐに内容を聞きたかったが、話を止めて残ったコーヒーを口にしていく楯無さん。ガムシロップをいれて幾分飲みやすくなっているため、飲み方がいつものように上品で優雅なものになっていた。
若干の焦らしプレイを経て、足を組み直しながら扇子をパッと顔の前で広げて口元を隠すと、言葉を続ける。
「大まかになるけど、まず今日から少し周りの雰囲気というか環境が変わる……かもしれないわ」
「妙に歯切れが悪いですけど、何かが身の周りで起こるってことですか?」
「大和くんの感じ方次第かしら。特に何とも思わないかもしれないし。でも悪いことじゃないから、そこは安心して♪」
ウィンクをする姿が可愛らしいと思いつつも、妙な不安感は拭えないままだ。はっきり言えば全然安心できない。こういう時の悪い予感は大体当たってしまうのが道理、時の運はつくづく理不尽だと思う。
結論を言うのなら、学園に着いてからのお楽しみってことだろう。楽しみじゃない楽しみってどんな楽しみだろうか。
「よく分からないですけど、行ってみてからのお楽しみってことですね」
「そ。じゃ、また遊びに来るから♪」
肝心なところが全く分からないまま、楯無さんは部屋を出ていってしまった。
環境が変わるなんて言われても、意味合いが色々ありすぎてどれが正解なのか断定が出来ない。悪いことじゃないとしても、結局は変にモヤモヤがたまるばかり。
「わっかんねえ……」
残っているコーヒーに手をかけて喉を潤していく。それからしばらく考えてみたものの、楯無さんの言った意味は分からず仕舞いで、時間だけが過ぎ去っていった。
―――楯無の退室後、身支度を整えた大和は足早に一人食堂へと来ていた。時間帯的にまだ早い時間なのもあり、ピーク時の込み合いほどではなく、難なく席を確保して食事を取り始める。食堂には多くの生徒がすでに陣取っていて、それぞれに朝食を取っていた。
今日の朝食は大和には珍しく、トースト三枚とフレンチ野菜サラダにヨーグルトの洋風メニューに統一されている。いつもは和食で統一していた大和でも、たまには洋食を食べたくなる時があるんだろう。
焼きたてのトーストの一枚を手に取り、表面にバターを塗っていくのだが、その手つきはどこかぎこちなくも見える。ぎこちなく見える原因は二つあり、一つ目は単純に大和があまりトーストを食べないから。実家でも朝はほとんど和食で、パンを食べることはほぼ無いに等しい。
そしてもう一つの理由。
(いつも以上に視線が集中している気がするんだが……俺の気のせいか?)
女性の園にいるのだから、周りには女性しかいないのは当然。入学当初は物珍しさからくる好奇の視線に気疲れしてしまい、帰ったらそのままベッドインしてしまうことも少なくなかった、だがそれはあくまで一時的なことで、今となっては慣れたもの。
大和自身が環境に慣れたのもそうだが、生徒たちも一夏や大和のいる環境が珍しいと思わなくなり、好奇の視線を向けることも無くなったのもある。
それが一転、今日に限ってはいつもより遥かに多くの視線が大和の背中に突き刺さってた。視点を変えれば噂話をひそひそと立てる生徒が数人いるようだ。距離が離れているため、大和にはほとんど会話の内容は聞こえない。
「ねえねえ! あの話聞いた?」
「うん、聞いた聞いた!」
「あ、織斑くんと霧夜くんの話?」
「そう、それそれ!」
「え!? 何それ? 私知らないんだけど!!」
「仕方ないわね、特別に教えてあげるわ。いい、女子にしか教えちゃダメよ? 今月の学年別トーナメントで―――」
ほとんど会話が聞こえないといっても、会話の節々が大和に聞こえてしまっているのは事実。そこにIS学園唯一の男性の名前が挙がれば、嫌でも自分が何かの標的にされていることが分かる。
もちろん彼女たちが悪意を持ったことに二人を巻き込もうとしているわけではないのを、大和は勘付いている。しかし、噂は噂でも聞こえてしまっては大和も決していい気分にはならない。話の内容からして、大和と一夏の話なのは間違いないようだ。
バターを塗り終わったトーストを皿の上に置き、背もたれに体重を預けながら話が聞こえる方へと耳を傾ける。一体何を話しているのかと。
(完全に俺と一夏絡みだよなこれって。まさか楯無さん言ってた周りの雰囲気が変わるって……)
コップに注がれた野菜ジュースを飲みながら、今朝楯無が言っていたことを思い出す。今日から周りの雰囲気が変わるかもしれないと。
ただ雰囲気が変わったのは分かるとしても、環境まで変わるのはどういったことなのか。全く結びつかずに頭を捻るばかり。
刹那、考え込む大和の後ろから聞きなれた声が掛けられた。
「おっす大和!」
「ん? おう一夏! ……こりゃ朝にしてはまた珍しい組み合わせだな」
「おはよ大和。何よ? もの珍しい顔して。私だってたまには一夏と一緒になることくらいあるわよ」
「それもそうか。ま、とりあえず座れよ。さすがに立ちっぱじゃあれだろ?」
声を掛けてきたのは一夏と鈴だった。大和の中では、朝一夏と一緒に来るのは箒のイメージが強く根付いていたため、一緒に来たのが鈴だと知りやや驚きながらも二人を席の対面に来るように促した。もちろん一夏と鈴が隣同士の状態で。
ここにもし箒とセシリアがいたら、一夏の隣の席を誰が取るかで一触即発の修羅場にもなっていたかもしれない。
大和の合図で、それぞれ空いている席に着く二人。先に口を開いたのは一夏だった。
「そういえば今日はやけに騒がしくないか? 皆落ち着かないって言うか」
「それは俺も思った。俺はお前ら二人が来るまで一心にその視線を受けてたから、正直来てくれて助かったよ」
「占いでもやってるんじゃないの? 別にアタシとしてはいつも通りに見えるけど」
ずずっと味噌汁を啜りながら鈴は淡々と答えてくる。食堂の生徒の落ち着かなさに違和感を覚えたのは一夏もだった。どうやら噂のターゲットになっているのは一夏と大和の二人ってことで間違いないらしい。
噂をされる可能性があるとすれば、先日行われたクラス対抗戦での出来事か。
だが肝心の現場を見ていた人間はごく少数で、ほとんどの生徒はアリーナの観客席に閉じ込められて事態の全容を知らない。緘口令がしかれているため、事態を知っているとしても口外することは禁止されている。
仮に誰かの口から噂が出回っているようなら、厳しい処分が科されるのは免れない。わざわざ危険を冒してまで噂を広めようとは思わないだろう。
故にクラス対抗戦での線は極めて薄い。一夏が噂になるならまだしも、大和がナギを助けたことが大っぴらに出回る可能性はゼロに等しい。
そもそもナギを大和が助けたことを知っているのは、ナギ本人と千冬の二人だけ。噂になること事態有り得ない。
朝から数多くの視線を浴びている大和は、やや気疲れしながら返事を返す。
「本当に占いだったら良いんだけどな。そういえば今日はどうして二人で? 朝はいつも篠ノ之と来ているイメージだったんだけど」
「あぁ、そういえば大和にはまだ言ってなかったっけか。箒とはもう別部屋になったぞ」
「え……そうなのか?」
一夏の返答に一瞬目を丸くした後、あぁなるほどと目を細めて顔を縦に振る大和。鈴が一夏を単独で呼びに行けたのは、すでに箒との同棲は終わっていて、邪魔をする存在は誰もいないからだった。強いて言うのなら一夏の部屋に寄り付く人間がそれに当たる。
ならそれよりも先に一夏を呼びに行けばいいことになる。結果、他のライバルたちを出し抜くことに成功した鈴が一夏の隣に陣取ることが出来た。最も、今日一夏を呼びにいった人間が何人いるかの話にはなる。
トーストをかじりながらふと、以前の鈴が部屋割りで箒と揉めていた時のことを思い出す。一夏を取られたくないとの気持ちからの行動だったが、部屋が別々になった以上、条件は皆一緒になった。
それぞれ知り合ってから経つ時間に違いはあれど、差という差はほとんど無いだろう。
「なるほど、どうりで何事も無いわけだ。てことは鈴、これで皆平等になったな」
「ア、アンタは朝っぱらから何を言ってるのよ! べ、別に関係ないでしょそんなことは!」
「平等? ……大和、何の話だ?」
「さぁな」
女性関係のことに関しては、あくまで自分で考えて判断し行動する。大和の言い分もごもっともなことだった。身近で一夏に好意を寄せているのは現段階で三人。大和は別に誰かを贔屓するわけでもないし、一夏に誰がどう思っているかを伝える気もない。
ただそれぞれを一人の友人として応援しているのは間違いない。
最後のトーストを口の中に放り込み、数回噛んだ後野菜ジュースで流し込む。食べ終わった後に、トーストの粉で汚れた手先を、紙ナフキンを使いながら隅々まで丁寧に拭いていく。
「とにかく、俺も負けないように頑張らないと。勉学に着いていけずに半年後にサヨウナラなんて笑えないからな」
「はぁ、これからも参考書の世話になることを考えると、骨が折れるな」
「ま、何とかなるだろう。ちょっと飲み物取ってくるけど、お茶で良いか?」
その場に立ち上がり、空になったコップを持ちながら二人に問いかける。
「あぁ、いいぜ」
「アタシもそれで」
「うい。それじゃ「あー! 織斑くんと霧夜君だ!」―――はい?」
「うぇ?」
二人の返答を聞いてカウンターに向かおうとした時だった。つい先程まできゃいきゃいと騒いでいた女子生徒の集団が、大和と一夏の存在に気付き、三人のいる席へと雪崩れ込んでくる。
最初の頃は授業が終わる度に生徒が見に来たり、帰る時は後ろをつけられたりすることが定番だったが、ここ最近はほとんどそういったことはなく、平和な毎日を過ごしていた。
朝っぱらから起こった突然に事態に、少し顔をひきつらせながら大和と一夏は対応する。
「ねぇねぇ! あの噂って……もががっ!」
雪崩れ込んだ女子の一人が途中まで言い掛けたところで、強引に口を押さえ込まれ、二人がかりで後ろに引きずられていく。端から見ると処刑台に引きずられていく囚人のようにも見えなくはない。
言われたら不味いことなのだろう、止めた二人の表情からは明らかに焦りが見てとれた。引きずられた女子はいきなり口を押さえ込まれたせいで息が出来ずに、苦しさのあまり顔が赤くなっていく。
空いている両手で懸命に腕を叩き、自分の口を覆う手を退かせようとしている。それに気付いた一人が口から手を離すと、やや苦しそうに呼吸を繰り返した。
分かっているならまだしも、不意打ちで後ろから口を覆われたら驚いて残っている酸素を吐き出してしまうことも多い。実際それで酸欠になる子もいることだし、注意しないといけない。
呼吸を整えた一人が、急に口を押さえられたことに抗議を始める。
「も、もう! 急にビックリするじゃない!」
「ごめんってば! まさか最初から聞き出すとは思わなくて!」
「でも、言ったじゃない! この噂は女子にしか教えちゃダメだって!」
立ち尽くす大和と、何が何なのか分からずに呆然と座っている一夏をそっちのけで、話し始める三人組。何のために二人の元を訪れたのか、当初の目的を完全に忘れている。
もしこれで忘れたまま立ち去られたら、二人にただ漫才を見せるために来たのだと思われても不思議ではない。本意こそ分からないものの、大和は彼女たちが何かの確認のために来たことは察していた。
一つだけ気になることがあるなら。
「あー、一個聞いて良いか。噂って何のことだ?」
「ふぇ!? う、噂!?」
「うん、噂。今噂がどうだの言ってなかったっけ」
「き、気のせいじゃないかな? 人の噂も七十五日って言うよね!」
「そりゃそうだけど……何か隠してないか?」
会話の節々に出てくる噂という単語。たかだか噂だとしても、何度も会話の中に出てくれば気になるのも無理はない。加えて朝から大和に向けられる視線の数々。
物珍しいからの一言で済ませばそれまでだが、ここまであからさまに視線が集中すれば、何かあったのかと不思議に思っても無理はない。
三人組も不自然な言動を繰り返すせいで、いくら否定しても隠し事があるのは丸分かりだった。手を顔の前で振りながら何でもないとアピールする姿が、如何にも隠してますと言っているようなものだ。
「そ、そんなことないよ!?」
「そうだよ! 霧夜くんの思い過ごしじゃないかな?」
「うんうん。だからそういうことで!」
「おいおい……って早っ!?」
脱兎の如く逃げ出してしまう三人組を引き留めようと手を伸ばすも届かず、結局いなくなってしまった。大和も相手が女の子だったため、無理に捕まえようとしたわけではないが、ムダの無い素早い身のこなしに脱帽するしかない。
半面、一体あれは何だったのかと疑問に思う点が多いのも事実。詳しいことは一切聞けなかったため、大和の中には妙なわだかまりが残っていた。
「何だったんだあれ?」
「分からん」
事態を把握しきれていない一夏に、大和もただ分からないと答えるのが精一杯。噂の中心が自分たちだと分かっても、内容に関しては何一つ分かっていない。
「またなんかやらかしたんじゃないの? アンタたちのことだから、見えないところで誰かを口説いたとか」
「勝手に問題児扱いするなって! 別に口説いてもいないし、噂になるようなことをした覚えもない!」
「噂ならもうここに入学した時点であったしな。一夏も俺も特に問題を起こしたわけでもないし、正直何で噂になってるのか分からん。……それと鈴、最後の例えはちょっと微妙だと思うぞ」
一段落ついたものの、一夏や大和に浴びせられる視線の数は減らず。いつもよりもげんなりとした表情を浮かべる大和だが、いつまでも気にしていても仕方ないと割りきり、自分の頬を軽く叩く。
今のところは害は全く無いし、しばらく放置で良いだろうと自分に言い聞かせながら、お茶を取りに行くためにカウンターの方へと歩き出すのだった。