夕暮れに照らされる中、通学路を寮に向かって戻る少女が一人。先ほどまで続いていた足のしびれも治まり、歩くことに関しては全く支障はない。
鞄を両手で握り、若干視線を俯き気味に下げながら歩く。明るい夕日だというのに、その少女の心は晴れない。気分は夕日ではなく、地面に映し出される影のよう。
何気なく先ほどのことを思い出そうとするも、自分に向かってビームが放たれた時のシーンになると、脳が思い返そうとするのを拒否する。それと同時に現れるのは身体の震え。
彼女にとってあの時の出来事がトラウマとなり、大きな心の傷になってしまっていた。
無論思い返さなければフラッシュバックとして現れることはないものの、実際にあの時走馬灯を見たのも確か。まさに生と死の境をさまよったといえる。
誰も助けてくれず、もしあの時そのままだったら。
「……」
そこで出てくるのは、危険に晒されていた自分を助けてくれたあの仮面の剣士。どこの誰なのか全く見当はつかないものの、もう一回会って面と向かってお礼を言いたい。
自分を助けてくれた恩人に、何かが出来るわけでもないけど、お礼の一つもきっちり言わないと彼女の気が済まなかった。
「こらこら、俯いて歩いていると危ないわよ?」
「え? あっ!」
ふと前方から快活な声が聞こえてくる。一瞬誰だろうかと驚くも、その声に聞き覚えがあった。どこで声を聞いたのかもしっかりと覚えている。視線の先に映るのは声の人物の足、スニーカーと黒のストッキングがしなやかな足を象徴していた。
徐々に視線を上げていくと、飛び込んでくるのは女性の誰もが羨むようなプロポーション。出るところは出て、引っ込む所は引っ込んでいる。更に視線を上げると、端正な顔立ちが不敵な笑みを浮かべていた。
水色の外にはねた癖毛が風に揺れ、右手に握られた扇子で口を覆うように隠している姿がからは、圧倒的なカリスマ性を感じさせる。扇子には『前方注意』と書かれているところを見ると、今来たばかりではなく、自分が歩いているのをずっと眺めていたかのような口ぶりだった。
見覚えのある容姿と聞き覚えのある声が、脳が覚えている名前と合致し、無意識にその名前を呟いた。
「更識……先輩」
「あん、水臭いなぁ。楯無で良いってば」
「ど、どうしたんですか、こんなところで?」
「うーん、世間話? ……ま、ちょっとナギちゃんとお話したいのよ」
学園最強、生徒たちを束ねる長、生徒会長更識楯無。
ふふっと笑みを浮かべながらナギの前に近寄ってくる。シリアスな笑みからは、何を考えているのか判断することは出来ない。ナギは無意識のうちに彼女の雰囲気に飲まれてしまっていた。
初めて会ったのは大和の部屋、その時は大和の彼女と勘違いしてしまった苦い思い出がある。大和の部屋のドアを開けたと思えば、出てきたのは見知らぬ女性、誰がどう見ても勘違いするのも無理はない。
年頃の女の子にとって、楯無は憧れそのもの。学園の生徒が憧れる女性、身近には織斑千冬という人間がいる。しかし楯無のことを知っている人間からすれば、千冬ほどではなくとも楯無は出来る大人の女性の風格を持っている。
容姿だけではなく、知能も身体能力も、誰もが羨むようなものを持ち合わせた人間が同世代にいるとすれば、それは格好の的となる。
―――憧れの的として。
「は、話ですか?」
「うん、そう。とはいってもちょっと真剣な話もあるけどね」
「は、はい」
「もう! そこまで緊張しないの! 別に取って食おうなんて思ってないから」
自分に話があると言われ、思わず顔が強張る。変化に気付いた楯無が苦笑いを浮かべながら、緊張をほぐしにかかる。実はナギは楯無が生徒会長という事実には気付いていない。というのも、部屋で少し話した時に教えられたのは名前だけで、他にはつけているネクタイの色で年上だと分かったくらい。
そこまで深く話し合ったわけでもなければ、何かを一緒に行ったわけでもない。あくまで二人の関係は顔見知り程度のものだった。
「ちょっと歩きながら話しましょう。立ち話もなんだしね」
「あ、はい!」
返答をすると楯無と共に寮へと続く通学路を再び歩きはじめる。楯無が自分に話したいこととは何なのか。それが頭の中を埋め尽くして、他のことを考えられなくなる。
「急に変なこと聞いちゃうけど……身体の方は大丈夫?」
「はい……何とか。あの、楯無さんはもしかして……」
「ええ、何があったのかは知っているわ。あれだけの騒ぎだもの、私の耳にもある程度の情報は入ってくるのよ」
「た、楯無さんって何者なんですか?」
確か今回起きたことは完全に他言無用と口止めされているはず。保健室に運び込まれた時に、千冬から謝罪と共に言われたことだ。あの出来事を知っているのは自分を含めて数えきれるほどの人数しかいないはず、なのになぜ知っているのか。目の前にいる楯無が何者なのかと気になるのも無理はなかった。
思いもよらないナギの質問に目を思わず丸くする楯無だが、何を思ってそんな質問をしたのかを悟るといつも通りの笑みを浮かべながら優しく答える。
「予想の斜め上の質問ね。何者かって言われたら、一応この学園の生徒会長よ♪」
「生徒会長……」
ポツリと単語を呟く。この学園で生徒会長を名乗れるのがどんな人間か、ナギも十分に承知している。学園の中で常に最強たれ、生徒の中で頂点を極めたものでなければ生徒会長を務めることは出来ない。
それだけの人物であれば、知っていたとしてもおかしくはない。素性が完全に明らかになり、引っかかっていた靄が取れて幾分緊張感が和らいだ。
「ま、生徒会長って言っても結局は貴方達と同じ、このIS学園の生徒よ。だからあまり壁を感じないでほしいな」
「わ、分かりました」
壁を感じるなと言われても、どうしても目に見えない壁を感じてしまうのは事実。自分と比較してしまうと劣等感しか湧いてこない。ナギ自身もここの試験に合格するために一生懸命勉強し、入学という狭き門を勝ち取った。
ただここに入学してくる生徒は全員、同じようにその狭き門をくぐり抜けてきた努力家もいれば、セシリアや鈴のような国家に認められ、特待生として入学してきた代表候補生もいる。
いわゆるエリートと呼ばれる生徒たちの中で、最も強い生徒。それが今目の前にいる更識楯無という人物だった。何でも出来る完璧超人で、さらに容姿も完璧ともなればどこに自分が勝てる要素があるのかと凹んでも無理はない。
逆に楯無としては、壁を感じて高根の花だと線引きをして欲しくないのが本音で、あくまで一生徒として、一友人として接してほしいのが願望だった。
「さてと。見た感じ大きな怪我も無いけど……どう? 何処か痛むとか無い?」
「だ、大丈夫です。さっきまでは足がすくんで歩けなかったんですけど、今は特に何も」
「そう、良かった。もし何かあったらすぐに言ってね? 出来る限りのサポートはするわ」
「ありがとうございます……」
特に何も無いと言っても、時間が経ってどうなるかは分からない。もし出来ることならこちらでもサポートをして上げたい。無関係な生徒を今回巻き込んでしまったことに、楯無も申し訳なさを感じていた。
上から下へ視線を移動させ、本当に何もないかを確認する。身体の内部のことは分からないものの、仮に外傷があればすぐに分かる。
確認を終えたところで、ホッと胸を撫で下ろすと、今度はナギから楯無に向かって質問をする。
「た、楯無さん!」
「どうしたの?」
「あ、あの……分かる範囲で良いんです。さっきISと戦っていた人のことで何か知っていることってありませんか?」
「!」
それはナギにとって今もっとも知りたいことだった。無人機の侵入のことを知っているのなら、もしかして一緒に戦っていたあの剣士のことも知っているのではないかと。
質問に対して一瞬驚いた顔を浮かべる。楯無自身はあの剣士の正体が誰なのか知っており、正体のことは一般生徒はおろか、下手をすれば権限を持つ教員にすら教えてはならないこと。
教えられないのは大和があくまで内密に頼まれていることで、第三者に知れ渡ってしまえば、それが芋づる式に伝わって、一夏や大和を狙う組織に情報が漏れてしまう危険があるから。
また護衛という仕事は、あくまで依頼人と護衛の間で成り立っているもので、本来であるなら第三者の加入は決して許されない。
楯無も大和の正体が何なのかを問いただすとき、依頼人が誰で、護衛対象が誰なのかは聞いていない。大和の行動で護衛対象が誰なのかを知ったに過ぎなかった。
ナギの質問に対して楯無はしばらくの間考え込む。この時点で何かを知っているのではないかと疑われても無理はない。そもそも質問を投げ掛けられた時に、表情に出てしまった時点で、知らないと返すことは出来なくなっていた。
どう説明しようかを考え、ようやく答えが出たのか楯無は顔を上げて説明を始める。
「……私にも詳しくは分からないわ。でも一つだけ言えるのはあの人は私たちの敵ではないということ。仮面の下の素性が分かれば良いんだけど、私もそこまであの人物について詳しく聞かされてないのよ」
「そうですか……やっぱり分からないですよね」
「ごめんなさい、お役に立てなくて」
「あ、いえ! 答えてくれてありがとうございました」
嘘をついたことにズキンと心が痛む。ナギを救った剣士は、身近にいる人間だというのに。知っているのに教えられないことが、楯無にとって辛いことだった。
ただどうしてこんな質問を投げ掛けてきたのか、それが楯無は無性に気になった。もしこれが大和ではないかと気付いているとしたら、楯無が誤魔化したことも全てお見通しということになる。
勇気を振り絞って、今度は楯無からナギへと質問を返した。
「でもどうしてあの人のことを? 何かあったの?」
「そうですね。助けてくれたお礼をもう一度言いたいのと……」
一つ目は自分の命を救ってくれた恩人に、改めて感謝をしたいとのこと。これだけであれば特に何も問題はなかった。しかしナギの口振りからして、まだ何か言うことがあると、容易に連想出来た。
次に発せられる言葉を、固唾を飲んで楯無は見守る。
「―――私、あの人と何処かで会ったことがあるような気がして……」
その言葉を聞き思わず絶句する。
まだ正体こそ気付いていないものの、言い方からして明らかに疑問に思っている。思えば十分に考えられることだった。まだ出会って一ヶ月と経っていないが、それでも学園で常に一緒に行動していれば、大和の雰囲気は常に感じている。
会ったことがある気がするといったのも、仮面の剣士の雰囲気が、大和の持つ雰囲気と同じだったから。そもそも仮面の剣士と大和は完全な同一人物。
ナギが会ったことがあると言っても何ら不思議ではない。
「そうなんだ。会えると良いわね」
「はい……」
楯無には大和だとバレないように、誤魔化すことしか出来ない。真実を伝えたくても、大和から自分のやっていることに関しては、一切口外しないでくれとも頼まれる。ナギの意思を汲み取るのか、大和の意思を尊重するのか。
どちらも裏切ることは出来ないが、やっている仕事上、大和のことを裏切るわけには行かなかった。
複雑な感情が行き交うなか、ふと後ろに誰かの気配があることに気付く。
誰かにつけられているとかではなく、純粋にたまたま現れたもの。何気なく顔を後ろに向けて、誰の気配なのかを確認しに掛かった。
「あ、楯無さん!」
先に声を上げたのは楯無ではなく、他でもない後ろにいた人物からだった。よく見ると汗だくで、ここに来るまで相当なスピードで走ってきたことが伺える。
声をあげたことで、楯無の隣にいたナギも同じように後ろを振り返る。
するとそこには、はぁはぁと小刻みに息を整える大和の姿があった。
「良かった。間に合ったか……」
「や、大和くん? どうしたのこんなところで」
「いや、アリーナにも居なかったし、クラスにも戻ってこなかったからどうしたんだろうと思って……保健室にいるって織斑先生から聞き出したんだけど、保健室に行ったらちょうど帰ったって言われたから、追いかけてきた」
「え?」
「つまり、大和くんはナギちゃんのことが心配で堪らなかったんじゃない?」
「ちょっ……楯無さんそれストレート過ぎ。でもトイレから戻ったら居ないし、マジで心配したんだよ。どこに行ったんだろうって」
「―――ッ!!?」
大和の言葉に無意識に心音が高鳴っていく。ドキドキと大きく波打つ鼓動は、大和の顔を直視できなくなるほどの緊張感を与える。
大和の一言は直訳すると自分を本気で心配してくれていたことを意味する。あの時大和が席を立った後、それを追いかけるように自分も席を立った。しかし自分は大和を追いかけたはいいものの、結局行方を見失うはめに。
大和は席を立った時自分になんて言っただろうか、ふと思い返してみるとすぐに思い出すことが出来た。
"すぐに戻ってくるから"
と。
本気で心配してくれたことに嬉しく思う反面、同時に裏切ってしまった罪悪感がナギの心を支配する。あの時、大和の言うことを信じてあの場で待っていたとしたら……
アリーナで身動きを取れない自分を救ってくれた剣士に会うことはなかった、しかし剣士に迷惑をかけることも怪我を負わせることもなかった。何より誰にも心配をかけることはなかった。
何をしているのか自分はと。
感じる罪悪感と共に、胸の奥底から何かがこみ上げてくる。
我慢しようと思ってもそれは我慢できるものではなかった。こみ上げて来たものはそのまま出口に辿り着き、とめどなく溢れてくる。
白銀の筋が自分の頬を伝ったかと思えば、一滴の滴がポタリと地面に落ちていく。一滴落ちた後はリミッターが外れたかのように大粒の滴が地面を濡らしていく。
自分の感情ではどうすることも出来なかった。
「あ、あれ? 何で……」
涙と共に溢れてくるのは、生きていて良かったという安堵と、無人機に対する恐怖心。
「ナギ……」
「う、ううん。な、何でもないの。本当に何でも……」
「……じゃあ、何で泣いてるんだよ」
「えっ……」
涙は全てを物語っていた、どれだけ怖い思いをしたのかと。大和も楯無もどうして泣いているのか知っている、特に大和はその現場を一番間近で見ているのだから。
自分が何もしていない一般人だったとしたら、同じように計り知れない恐怖感を覚えるだろう。涙の一つを流したとしても何ら不思議ではない。
「……」
気付けば大和の身体は動いていた。一歩一歩、立ち止まって俯くナギへと歩み寄っていく。自分が彼女に何をしてやれるのかは分からない。しかし目の前で涙を流す友達がいるのに、じっとしていることなど出来るはずがなかった。
少なくとも大和にも罪悪感はある。あの時ナギに気付かれずに出ていれば、彼女を巻き込むことはなかった。間一髪助けることが出来たとはいえ、危険な目にあわせたことに変わりない。
真実を打ち明けられない、全てを話してやりたいと強く思うも、"護衛"としての自分がそれを決して許さなかった。
自分の護衛の仕事に私情は挟んではならない、一般人に自分たちのことを話すことは出来ない。本音を言うならこちらの世界に巻き込んではならないと。
ナギの前に立つと身長差があるため、少しだけ視線を下げる。地面に映し出された影に気付いたのか、ゆっくりと顔をあげてくる。
「……?」
「保健室で一夏から聞いたよ、ISに襲われたって。……本当は完全に秘密のことだったらしいけど、保健室に入ろうとした時に偶々中の会話が聞こえてな」
「え?」
「……俺があんな時にトイレに行かなければ、ナギが危険にさらされることもなかったな」
「そ、そんなこと」
「さすがに無いとは言い切れないよ。でも、俺が一つだけ言えるとするなら―――」
眼差しが一段と強くなる。何かを決心したかのような眼差しがナギのことを射ぬく。その視線に何かを感じたのか、思わずビクりと身体を震わせながら大和のことを見つめ返した。
『一つだけ言えることがある』
それが彼女にどう伝わったのか。反応を見る限りでは、少し怯えているようにも見える。何を言われるのか分からずに、身体を震わせながら、続く言葉を待つ。
そして―――
「―――ナギが無事で良かった。それだけだよ」
一瞬頭の中が真っ白になった。大和の言った言葉が頭の中で何度も何度も再生を繰り返していく。
身体の震えが徐々に治まっていくと共に、また何かが心の奥底から込み上げてくる。どうしてこんな言葉を投げ掛けてくれるのだろうか、何で自分にここまで優しくしてくれるのか。
勝手に自分が追いかけて、それで命の危険にさらされて、挙げ句の果てには周りにも多大な迷惑を掛けてしまったというのに。
完全に自業自得なのに、どうしてなのかと。
表面上だけ心配しているように装っているとは考えられなかった。それはナギ自身が大和はそんな人間ではないと分かっていたからだ。
ナギだけではなく、クラスの大和と親しい人間に聞けばほとんどが、薄情な人間ではないと断言するだろう。
「大和、くん……っ!」
気付けば本人の名前を呼んでいた。自分のことをこれだけ気にかけてくれた嬉しさで、先ほど以上の涙が瞳から溢れてくる。
彼女の中で何かが変わった瞬間だった。気になる異性から、明確な好意へ。
溢れだした想いを止められず、自分の身体を預けるように大和へともたれ掛かる。顔を大和の胸元に埋めて、泣き顔を見せまいと隠した。ナギ自身もいつも以上に感覚が麻痺しているのか、普段は恥ずかしがりな彼女も自分のしている行動に一切の羞恥を見せない。
隣で様子を見ていた楯無も思いもしない大胆な行動に、目を何度も瞬かせながら二人の様子を見つめるばかり。
「お、おい! き、急にどうし……」
「怖かったっ! 怖かったよぉ!!」
「っ!! ……もう大丈夫だから、本当に何事もなく済んで良かった」
「ぐすっ……ふえぇぇえ!」
改めて怖い思いをさせてしまったことを認識し、目の前で泣きじゃくる姿を落ち着かせようと頭を撫でていく。ただ大和も女の子に泣きじゃくられる姿に耐性はないようで、頭を撫でる以外どうすれば良いのか分からずに、顔をキョロキョロとさせるばかり。
自分の前で泣かれる経験がなく、この時ばかりは流石に焦っていた。相手は女の子で自分は男性、そもそも経験が無いのだから、焦っても無理はない。むしろ一部の人間からすれば貴重な一面かもしれない。
助けを求めようにも、目の前にいる楯無に頼んだところで解決するものでもない。
(うーん。これはしばらくこのままでいるしかないか……)
泣いている相手を無理矢理引き剥がすわけにもいかず、胸元で泣き続ける様子を黙って見つめる。
怪我をしなくて良かったと。
大和が解放されたのは、それから十数分後のことだった。
「良かった……誰にも見られてなくて」
寮の購買で食材を選びながら、先ほどのことを思い返す。まさか目の前でマジ泣きされるとは思わなかった。無人機に対する恐怖心をずっと堪えていたらしく、しばらくナギは泣き続けていた。
事情が事情だけに出来ることは何もなく、出来ることとすれば泣き止むのを待つことだけ。泣き止んだら泣き止んだで、顔を赤くして離れてチラチラと俺のことを見つめ、楯無さんは楯無さんで意味深な笑みを浮かべるだけだし、それからの帰宅もどこかギクシャクしたものだった。
比較的話す人の楯無さんが、あそこまで黙るのは初めて見た。
寮に着き、一時解散した時にようやく話してくれたんだが、開口と同時に言われた言葉が、『モテモテだね?』だ。話してくれたと思えば、第一声がからかいの言葉で、俺の心臓にグサグサと言葉の矢が突き刺さる。
帰っている時は、もしかして機嫌が悪いんじゃないかとドキドキものだったが、楯無さんの機嫌は悪くはなく、寧ろ良かった。
……モテモテねぇ。
確かに二人を意識してしまう節はある。二人というのはナギと楯無さんの二人のことだ。もうどれくらいの期間が経つのか、一年くらい一緒にいるような気もするが、まだ一ヶ月も経っていない。
それだけの期間しか経っていないというのに、俺自身の中で変わっていく感情は多かった。
実際一緒にいて、何気ない仕草にドキッとする場面も最近は増える一方。果たしてこの感情が"友達として"のものなのか"一人の女性として"のものなのか、今は正直分からない。
「ん、一品スープ系入れたいな。コンソメも買っとくか」
商品棚に手を伸ばして複数あるコンソメの中から顔なじみのものを手に取り、それを買い物かごの中に入れる。自分で言うのもなんだけど、正直恋愛事に関しては自分は疎いと認識している。
鈍感……というより、いざその場に直面するとどうすればいいか分からない。泣きつかれた時もそうで、俺にはただ頭を撫でてやることくらいしか出来なかった。
自問自答を繰り返しながら紛らわそうとするも、やっぱりどう頑張っても紛らわせることは出来ない。俺も男だからいくら鈍感だの唐変朴だの言われても意識する部分は意識するし、気になる部分は気になる。
気になる部分とすれば一つ、抱きつかれた時に当然俺の身体とナギの身体は密着するわけで……その、女性としての柔らかさというのはどうしても忘れることが出来なかった。泣きつかれた瞬間は全く気にはしていなかったものの、徐々に自分が落ち着いてくるにつれて二つの存在感はよりはっきりと出てきた。
俺の周りには篠ノ之やセシリアや楯無さんに、大人の女性陣を入れれば千冬さんに山田先生、そして俺の姉の千尋姉と揃いも揃ってナイスバディの持ち主が多い。男としてどうしても反応するものは反応する。
ナギの身体つきも篠ノ之や楯無さんには及ばないものの、それでも女性の平均と比べればかなり良い方だ。そんなスタイルのいい上半身の双丘が身体に押し当てられるとなれば、嬉しい反面複雑な思いだってある。慰めている中俺は何を考えているのかと。
表情に出さないようにと気をつけはしたが、今はナギが気付いていたのではないかと冷や冷やしている。
っていうか……。
「さっきから何考えてんだ俺」
一旦思考を切り替えよう。
今俺が何をしているのかというと、食事会の準備ということで購買に来ている。時間がちょうど放課後のため、買い物に来ている生徒も多い。
かごには大量の食材の数々、それもとても一人で食べるような量じゃないのだから、何事かとこちらを眺めてくる子もいる。好奇の視線に関してはもう完全に慣れた。生きて行けないんじゃないかとぼやいていたあの頃が懐かしい。
さて、料理に使う食材だけではなく、軽くつまめるようなスナック菓子やクッキー、それからフルーツも少しばかり用意している。
「バタバタしたけど、やっぱ計画したことはやりたいしな。折角楽しみにしてるものを中止にはしたくないし」
場のノリと勢いだけで決めた食事会、でも折角の企画を中止したくはない。一夏の状態次第では中止もやむ終えないと考えていたが、思った以上に身体のダメージは少なく特に問題はないとのこと。
とはいえ、身体にダメージが残っているのも事実、無茶をさせないように気を配るとしよう。
「よし、こんなもんだな! さっさと戻って準備するか」
必要なものを全て買い揃えて、俺はレジに向かう。そして、そのまま急ぎ足で自室へと戻るのだった。
「よっしゃ、鳥の照り焼き完成!」
「大和! こっちもサラダパスタ完成だぜ。悪くない出来だ!」
自室に戻った大和はすぐさま食事会の準備に取り掛かっていた。大和が準備を始めるとほぼ時を同じくして、一夏が大和の部屋へと現れる。二人がキッチンに立ってからというもの、行動は早かった。
調理を始め、約束の時間が近づくにつれて部屋の人口は増えていく中、キッチンから離れた場所に広めの組立式机を展開して、食器類を並べていく。こちらを用意するのは女性陣で、ナギや静寐といったしっかり者と呼ばれる二人が、率先して動いていた。
「わーい! ここのベッドふかふか~♪」
「ちょっ、本音! 飛び跳ねないでよ!」
「アンタ元気ね……アタシなんかもう色々あってクタクタだってのに……」
「うん? りんりん何かあったの~?」
「いや、特に……ってりんりん言わないでよ!」
「えー! りんりんはりんりんだよ~♪」
「うがーっ!! トラウマなのよそれは!!」
その一方で、一部は完全に遊びに走っている。ベッドを使って飛び跳ねているのは本音、その横に座っている癒子があまりのはしゃぎっぷりに思わず制止をかけようとするが、ニコニコと上機嫌な本音は聞くそぶりを見せない。
はしゃぐ様子にげんなりとしながら、鈴はその元気はどこからわいてくるのかと投げ掛ける。鈴の場合は今日の無人機との一戦が身体に来ているのか、それとも単に保健室のやり取りで疲れているだけなのか。
いずれにしてもどちらかの理由であることは間違いない。
そして本音から付けられた『りんりん』というあだ名。どこぞの三國志をモチーフにしたゲームで出てきそうなキャラの名前だが、鈴にとってはあまり言われたくないものらしい。
うがーっ! とばかりに本音に詰めよっていくも、全然迫力がない。
というのも、りんりんと自分の名前を二つ繋げると、パンダに付けたような名前になってしまい、過去にそれが原因でいじめられていたこともあったからだ。
無論、本音自身には悪気は全く無く、あくまで仲良くなった証として付けた一つのあだ名に過ぎない。
しかし本人に悪気は無いとしても、トラウマになっているあだ名を呼ばれれば、鈴としてはあまり気分の良いものではない。いずれは慣れそうだが、慣れるまでにどれだけの時間がかかることやら。
一方で箒とセシリアは思いの外、静かに待機していた。静かに待機している理由が、料理をしている一夏を眺めているからだ。セカンド幼馴染みの鈴は中学の途中までは一夏と一緒に居たため、一夏の料理の腕は知っている。
逆に箒は幼馴染みではあるものの、一夏が料理をしている姿を見たことは殆ど無い。あったとしても今からかなり前の出来事であり、当時の料理の腕と今の料理の腕では、余程のことがない限り、今の方が段違いで上がっているだろう。
「一夏の料理か。霧夜の料理も楽しみだが、一夏の料理もお目にかかりたいものだな……」
「一夏さんの手料理……わたくし実家ではシェフの作ったものを食べていましたけど、こうして改めて普通の男性が作った料理を食べるのは初めてですので、興味深いですわ」
と、一夏はもちろん、二人の料理に関して興味津々のようだ。
楽しみにしている様子は、キッチンに立つ二人にも伝わっており、それがやる気を更に増大させていく。
「ははっ、楽しそうだな女性陣は」
「だな! お、大和。そろそろコンソメスープいい感じじゃないか?」
「そうだな。丁度味も染み渡っただろうし消すか」
大きなスープ鍋から、コンソメスープ独特のいい香りがキッチンを充満していく。コトコトと音をたてて煮立ったのを見計らい、IHのスイッチを切る。完全な電磁調理機のため、火災に繋がることも少なければ、下手に焦がしてしまうことも少ない代物。
仮に目の前から離れたとしてもセンサーが感知し、勝手にスイッチが切れるような仕組みになっている。
一般の学生寮にここまで配備が出来る、まさにIS学園だからこそ出来ること。
流石IS学園、他の学校では真似出来ないことを平然とやってのける。そこに痺れる―――。
「言わせねぇよ!!?」
「おう!? どうした大和?」
「いや、何か言わないといけない気がして……」
「? とりあえず色々出来てきたから、ある程度運んじまおうぜ。このままだと調理場が一杯になっちまう」
「あぁ、そうだな。じゃあ早速……」
「あ、霧夜くん。料理だったら私たちで運ぶから、二人は料理に集中して大丈夫だよ♪」
「お、マジか。じゃあ、悪いけど頼んでいいか?」
「うん、任せて!」
料理の置き場所が無くなり、一旦作った料理を部屋の方へ運ぼうとすると、キッチンの入口には静寐とナギが来てくれていた。静寐がニコッと微笑みを浮かべる一方で、先ほどの出来事をまだ思い返してしまうのか、やや控えめにおずおずと照れ臭そうに大和から顔を背けてしまうナギの姿が。
あくまで表情には出さないものの、大和としては割と動揺もしている。これでは完全に気まずい状態だ、原因は分かっていてもどう解決すれば分からない今、解決策は特に見当たらない。
元に戻るのを待つしかないのか、心の中では少し凹んでいた。
「あ、そうだ大和。これ照り焼きの焦げ取り用の水。必要だろ?」
「ん、あぁ。悪い、気が利くな」
置いてある料理を運ぶ二人を眺めていると、一夏が水の入った計量カップを渡してくる。鳥の照り焼きは使ったタレが完全に焦げ付かないように、水をいれてふやかす必要がある。中にはやらない人もいるが、洗い物の手間を省きたい人はこの方法を取ることも多い。
一夏の機転に感謝しつつ、その計量カップを受け取ろうと手を伸ばすが……
「お、おい大和! その持ち方は!」
「え、うわぁっ!?」
手を伸ばしたは良いが、あくまで視線は一夏の手渡す計量カップではなく、料理を運ぶナギのことを見ていたせいで、計量カップを斜めに傾いたまま受け取ってしまった。
そもそも一夏が渡した時には真っ直ぐのまま渡したのに、それをキチンと見ずに手に取るから口が傾いてしまっただけのこと。
仮に傾いてしまったとしても、その後に気付いて持ち直せば特に問題はない、だが今の大和には計量カップよりもナギの方に気が集中してしまい、そのまま自分のもとへ引き寄せようとする。
口が自分の方に傾いた状態で引き寄せたら、中に入っている水がどうなるかなど、誰でも想像できる。
慣性の法則で計量カップの中にある水が飛び出し、その水が大和の着ているワイシャツの左肘の部分にモロに掛かってしまい、いかにもポカをやらかしましたと言わんばかりに、中途半端に濡れた跡が広がっていく。
―――と、本来だったら何やってんだよくらいのノリで済むようなことだ。
だが、一人の少女はそれを見てしまった。
(嘘……)
濡れたワイシャツからはっきりと浮き出てくる、動物の絵柄が描かれた絆創膏を。