ISを動かせる男性。この世でたった二人しか動かすことは出来ない。その二人のうちの一人が俺だ。人目につかないよう、なるべく人通りの少ない場所を通って家に戻った。
「ただいま……」
「あら、お帰り大和。どうしたの浮かない顔して?」
喫茶店から帰宅した俺を待っていたのは、姉の出迎えだった。
―――俺の名前は霧夜大和。まだ中学を卒業したばかりだが、霧夜家の当主を務めさせてもらっている。早速だがやることが山積みだ。まずは進学が決まっていた高校に入学辞退の申し入れをしなくてはならない。
受けた高校は、学費が安くて就職率が高いことで有名な藍越学園。就職先も今話題になっているようなブラック企業ではなく、学校側が企業に直接赴いて判断した優良企業ばかりで、理不尽な労働条件や簡単に首を切られることもない安定したものばかりだ。
もちろん安定志向ではなく、「俺は一発起業して成功するぜ!」という人間にはお勧めできないかもしれない。
さて、何となく受けた藍越学園ではあったが、IS学園への入学が余儀なくされてしまったために、断らざるを得なくなってしまった。あの後理由の詳細を聞いてみたが、俺がISを動かしたことは世界中の人間が知っていることであり、当然我が物にせんと外部からの介入がないとも限らない。
実際にひどいものになれば俺を解剖して、と考える研究者もいる。俺を解剖してどうしてISを起動が出来たのか、それがわかればこの世の中のパワーバランスを変えることが出来るかもしれないからだ。
俺からすれば迷惑以外の何物でもなく、だったらIS学園で三年間は保護しようという話になった。
もちろん、その上層部も何を考えているのかわかったものじゃないけど、IS学園にいるうちはいかなる国家や組織であろうと学園の関係者に対して、一切の干渉が許されないという規約がアラスカ条約にて制定されているらしい。
「大和。本当にどうしたの?」
「え? あぁ、いや。少し考え事してた」
俺の姉、
身内のない自分をここの家が引き取ってくれた。本当の姉ではないが、俺にとってはかけがえのない大切な人だ。そして俺が就任する前の先代の霧夜家の当主に君臨していた人物。
全盛期を過ぎて動きに陰りがさし、当主の座を俺に譲ったっていうのが理由らしいけど。ただ引退した今でも強さは顕在、むしろどこが体が動かないのかと突っ込みたくなるくらいだ。
「考え事? ……まぁいいわ、それで結局話ってのは何だったのかしら? わざわざIS学園の教員が来たってことはそれ相応の話だったんでしょ?」
「あぁ、IS学園の入学とその他諸々を」
「そう。じゃあ藍越学園の方にも連絡入れなきゃね」
「全く、めんどくさいことになっちまったよ。でもまぁ、千冬さんの言ってることも分からなくはないし、仕方ないって割り切るしかないと思う」
入学しなかったとしたら、研究者達は恰好のいいモルモットとして俺のことを探すだろう。そうなると周りにも迷惑をかけてしまう。藍越を蹴る時点でもうすでにいい迷惑になってはいるが、ISの件に関してはそれ以上だ。ISを動かしてしまった手前、俺に残されている選択肢というのも一つしかなかったわけだ。
ただ、めんどくさいと言っている割にはどことなく楽しみにしてしまっている自分があるというのも否めない。
後ろ頭をかきながら微笑む顔を隠すために、千尋姉から視線をそらす。どうもこの微笑みの顔を見られるのは苦手だ。霧夜家の当主として、男性のIS操縦者として、決して楽な状況に置かれているわけではない。なのにこの現状を楽しんでいる自分がいる、何故だろう?
――――と
「あら、千冬に会ったの?」
千尋姉は顎下に手を置き、首をかしげて意外そうな顔で俺に返してくる。突然返された言葉に慌てて表情を素に戻し、顔をあげた。表情が元に戻っていたかどうかは分らないけど、そこは気にしないことにする。
「会うも何も、今日俺に会った人物が織斑千冬さん……って千尋姉もしかして知ってるのか?」
千冬? 何かすごく親しみこもった呼び方なんだけど……
知っているっていう尋ね方はおかしかったかもしれない。正確には会ったことがあるのかって言い方が適切か。確かにこの世界で織斑千冬という名を知っている人間は多い。だがあくまで知っているというだけで、実際に会ったことがあるだとか話したことがあるって人間は少ない。だが千尋姉の口ぶりを見る限り面識があるみたいだ。
「ええ、互いに仕事をした仲よ。ふふ♪ しばらく音沙汰がないって思ったらそっか、IS学園の教師やってたのね♪」
さらっとトンデモ発言をかましてくれる。俺が知らないところでまたとんでもないことをやっていたのか。
「その表情だと、あの子は大和に私のことを話さなかったのかしら?」
「一言も話されてないな。まぁ色々気遣ったのかもしれないけど」
「へぇ~……まぁ良いわ。その事も入学についての話は後で詳しく教えて頂戴。晩御飯出来ているから、さっさと手を洗って来なさい」
「はいはい、分かってるよ。ったく、俺は小学生の子供かって」
「当主でも、年齢的にはまだまだ青いわよ?」
「むっ……」
年上のことは大人しく聞いておきなさいな、と付け加えられる。
はぁ、年齢の話を出されるとこっちとしては何かが言い返せる訳もなく。大人しく聞いておこうと無意識に頷いてしまう訳だ。
俺を大切に育ててくれたたった一人の姉だが、いつまでも姉に頼ってはならないと思うのは必然だと思う。それに今はこうして霧夜家の当主にいるわけだから。
当主っていっても自然に成り上がれる訳じゃないし、ましてやコネなど通じるものでもない。何十人もいる精鋭の中から、たった一人選ばれた者が当主として君臨出来る。俺はその当主に最年少で選ばれた。
当然反論もあった、というよりも反論しかなかった。弟だからという理由ではなく、あまりにも若すぎるという理由から。特にそれが酷かったのは長年勤めてきた連中だ。霧夜家の護衛としての仕事は江戸時代から続いている長いものであり、俺の当主になった年齢は歴代を見ても異例の中の異例だ。
『世間も知らない若僧に何が出来る』
『こんな若者が当主になるとは霧夜家も落ちたものだ』
それが俺に対する意見だった。そしてその意見の矛先は、少なからず俺を次代当主に選んだ千尋姉にも向いた。そんな人間達に千尋姉は言った。
"大和と戦えばいい、そうすれば全て明らかになる"と。
結果は俺が当主だってことで察してくれ。……しかしまぁ、今思うとかなりの難題だったと思う。自分の弟に戦えって言ったわけだし、負けたらどうするつもりだったのだろうか。
今になっては過ぎた祭りなわけで、理由なんていくらでもつけれるだろうから、あえて聞かないけど。
「……やっぱり常識的に考えてかなり思いきったことだよな」
洗面台で手を洗いながら何気なくぼそりと呟く。俺の思考は間違っちゃいないはず、特にこれに関しては。
口に水を含んで数回うがいを繰返し、最後に両手で水を掬って顔に当てる。今は三月、季節的にはまだ肌寒い季節だが、冷たい水が心地よく感じれる。
特に今日は外にも出たし、何より風も強かった。砂ぼこりもかなり立っていたし、顔についた汚れを取ることを考えれば別に不思議なことじゃない。
温度を感じることが出来ない非人間的生物でもないから安心してくれ。
さて、やることもやったしさっさと台所に戻るとするか。
タオルで顔と手についた水分をぬぐい取り、使い終わったタオルを洗濯かごの中にぶち込んで洗面台を後にする。今日の献立は何だろうかと、プライベート丸出しなことを考えながら向かっている途中のことだった。
「……あ?」
何だろうか、どこにぶつけたら分らないほどの怒りがメラメラと込み上げてきた。ポケットに入れていた携帯電話が鳴り始める。それだけなら別に何の問題もなかった、大事なことだからもう一度言っておこう。それだけなら別に全く問題はなかった。
携帯の着信音っていうのは自分好みにつけるのは当たり前。皆が皆そうとは断言できないが、よくからかいの一つとして、人の携帯の着信音を勝手に女性がずんぐりむっくりしている状態の声に変えて、それを授業中に電話で鳴らし、相手に大恥と携帯没収という、もはやいじめ同然の屈辱を受けさせるものがあるのは知っているだろう。
まさか実際にやられると思ってもみなかったが……ふふ。さて、こんなくだらない悪戯を仕掛けたやつをあぶり出すのが楽しみになってきたなぁ?
見たところ電話番号も非通知だし、大方俺が登録してある人間の着信音はそのままにして俺が登録していない番号に例のこの着信音を設定したってところか。ふふ、霧夜家の当主に喧嘩を売るなんていい度胸しているじゃないか。ふふ……ふふふふふ。
「……はい、もしもし」
せり上がってくる怒りを抑え、ともかく発信者が誰なのかを確認する。もしかしたらこの着信音を設定した人間が、非通知設定でかけてきたかもしれない。ここで怒りをぶつけるよりも、後でまとめて倍返しで仕返しするのも面白い。さて、発信者の声を聞こうとしよう。
「やぁ、私のことを覚えているかな?」
電話先から聞こえたのは何とも間延びした感じの声だった。残念だがあまり聞きなれた声じゃないために、正体を断定することは出来なかった。ただどこかで覚えのある声だというのは分かる。少なくともかなり昔のことではなく、割と最近で。
というより、何となくこの電話先の人物像が浮かび上がってきた。まだ断定は出来ないため、更なる情報を聞き出すために俺はそのまま電話を切らずに会話を続ける。
「……どちらさまでしょうか? 少なくとも非通知の時点で誰か分かりませんし、電話するならまず名前を名乗ってもらいたいですね」
「つれないなぁ。キミのことはそれなりに認めているんだよ? 私、篠ノ之束は」
「……」
「あ! もしかして着信音をハッキングで勝手に変えたことを怒ってる? ふふふ、束さんに不可能はないんだよ?」
正直、俺のプライベートを侵害された時点で怒るべきなんだろうけど怒る気力も失せた。ここまで反省の色がないと怒るを通り越してあきれる。一体どんなハッキング能力をしているんでしょうか、この研究者さんは。
とにかくこのままでは何も始まらない上に事態も発展しない。どっちかが折れるしかないのだが、生憎電話先の人物は折れる気などさらさらないだろうから、俺が折れるしかない。やれやれだ。一回深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
少し冷静さを欠いていたようだ、体中の熱がとれていくのがわかる。気持ちが落ち着いたところで、再び話を切り出した。
「この際、どうして俺の電話番号を知っているのかはどうでもいいです。要件はなんでしょうか、また護衛の仕事ですか?」
――――篠ノ之束。
俺はこの人が苦手だ。別に容姿が悪いだとかいうことを言っている訳じゃない、むしろ容姿など二の次だ。問題は彼女、篠ノ之束の対人コミュニケーションが著しく低いということにある。
以前、護衛を頼まれて彼女に付き添いの護衛を担当したことがあった。そこからはもう酷いのなんの、何か聞こうとすれば完全無視を決め込み、さらに追及しようものなら「うるさいなぁ、お前になんか興味無いんだから黙って護衛してれば良いんだよ」とひどい言われよう。
取り付く島もなく、今まで自分のしてきた仕事の中で最悪のクライアントという位置づけをしていた。
その護衛中に色々悶着があり、最終的には俺の話を聞いてくれるようにはなったものの、それでも俺の中での評価が低いというのは変えることが出来ない事実であった。仕事だけの付き合いとばかり思っていた人間からの着信、何か思惑があるのではないかと身構えてしまう。
「うーんとね。私のことを守ってくれたわけだし、人間として最低限のお礼はしておこうと思ってねー」
「お礼?」
「そ、お礼。いっくんの後だから少し時間がかかっちゃうけど、気長に待っててねー。じゃ!」
「は? ちょっ、あの!?」
慌てて声をかけ直すが電話先から聞こえてくるのは電話が切れたことを証明する効果音だけ。だが、切られたならかけ直せばいい。
霧夜家を甘く見ないでもらいたい、この携帯はあらゆる対策を施された霧夜家だけの特注品だから非通知の相手でもこちらからかけ直すことが出来る。どんな仕組みになっているのかは不明だが、意味の分らないところで役に立つことになった。
俺は改めて非通知の電話番号、つまり篠ノ之束の携帯に電話をかけ直す。
「ブツッ……おかけになった電話番号は現在使われておりません」
「………」
淡い期待は一瞬のうちに消え去った。この電話番号が通じない以上、これ以上コールしたところでオペレーターのアナウンスを聞いて通話代がとられるだけ。気になる言葉ばかりしかなかったけど、今は深く詮索しないようにしておこう。どうせしても無駄なだけだ、ならしない方がいい。
「やまとー! 何してるの、早く来なさい!」
「すぐ行く!」
洗面所にいる時間があまりにも長すぎると感じたのか、廊下をはさんで向かい側にある台所から千尋姉の声が聞こえる。手洗いに行っただけの人間が十分近く戻ってこないともなれば不審に思うのも無理はないか。この件についてはまた後で考えるとしよう。
数分もかからない動作だったはずなのに、無駄に疲れた。あ、ちなみに携帯の着信音はちゃんと元に戻しておきました。またハッキングされたら勝手に着信音を変えられるだろうけど、直さないでそのままの着信音は拷問のようなものだ。
知らない人間からの連絡が入るたびに、意味の分らない着信音が鳴っていたらこちらとしてはたまったものではない。
これがもし女性の前だったとしたらどんなに評価が高い女性の前でも、俺の評価は一気に変態クズ野郎にまで下がることは間違いない。
だったらマナーモードにすればいいじゃないかとか電源を切ればいいじゃないかっていう結論にはなるけど、それをしたところであの篠ノ之博士の前には何をしても無駄な気がする。実際に俺の携帯をハッキングするっていう意味の分らないことをしてるし。
そもそも携帯ってそう簡単にハッキング出来るものなのか、だとしたら携帯のハッキング犯罪がもっと頻繁に多発しているはずなんですがどういうことなんでしょうか。
対人コミュニケーションしかり、今回のことしかり、全く一般常識が通用しないというのはよく分かった。
……なんてことを考えながら台所へと向かった。
「もう何してたの……って何かあった? いつも以上に疲れた表情しているけど」
「それじゃ俺がいつも疲れているみたいじゃん……まぁ否定はしないけど。一言でいうなら嵐が通り去った」
「嵐って何?」
「天災のこと。もう話すのもめんどいから話したくないかな」
「そこまでいうなら無理に話さなくても良いわ。さ、さっさと食べなさい。これからやること山積みなんでしょ?」
「まぁね」
心中を察してくれた千尋姉はそれ以上言及してくることは無かった。テーブルの上には数品のおかずにご飯とみそ汁が並べられている。自分の分が並べられている椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」
箸を手に取り、おかずとご飯を口の中へ含んでいく。ちなみに今日の献立は茄子の揚げ浸しと里芋の煮物、さんまの塩焼きというもの。いかにも日本人らしい食卓だと思う。俺に少し遅れて千尋姉も食べ始めた。うちは俺と千尋姉が交互に晩飯を作るというローテーションをくんでおり、仕事が絡んでくるとそのローテーションを崩したり、外食で済ましたりしている。
今この家に住んでいるのは俺と千尋姉の二人だけで、他に霧夜家の護衛として働いている人間は各自別々の家に暮らしている。急な召集をかけない限り、全員が一か所に集まるということはほとんどない。
それに俺は当主という肩書こそあるが、それはあくまで表向きの霧夜家の当主。霧夜家の全権を握っているのは千尋姉の前の当主だった女性、
神流さんは千尋姉の実の母親であり、そして俺達のいい理解者でもある。今は完全に護衛業から手を引いて隠居の立場にあるが、その発言力は絶大であり、俺がこうして当主になれたのも、神流さんの進言がなければありえなかった話だ。
今は霧夜家の総本山で旦那さんと仲睦まじく暮らしているらしく、たまに俺達のところに顔を見せることがある。
それと千尋姉は前線を退いたとは言っても別に護衛業から完全に手を引いたわけではなく、今でも家を空けることはある。他にも副業として何かやっているらしいけど、詳しいことはよく分らない。
俺と千尋姉の夕飯はいつも静かだ。そんな特にいつもと変わらない静かな感じで、夕食の時間は過ぎ去っていった。
「それで、IS学園の入学に関しての話だけど。あんたとしてはどうなの?」
夕食後、居間の机の前でテレビを見ながら話を始めた。千尋姉はビールを片手に、飲みながら俺に語りかけてくる。
「実感がわかないってのが本音、話がトントン拍子で進みすぎてついて行けない。ただ政府としては、俺をどうしてもIS学園に入れたいらしくてね」
「ふーん。でも表情だけ見ると満更でもないって顔してるわ。案外楽しみなんじゃない?」
持っているビールをゴクゴクと一気に飲み干して、次の缶を開ける。今日はいつにもまして飲むペースが速い、顔はもうすでにほのかに赤くなっていた。
「かな。まぁいずれにせよ、当分こっちの仕事も手は付けれないだろうから」
「安心しなさい。その件に関してはカバーするって母さんが言ってたわ」
「そう、ありがとう」
「……」
「……」
会話が完全に止まってしまい、互いの間に気まずい沈黙が流れる。俺は平静を装いながらテレビの画面見ているが、千尋姉は飲み干した缶を机の端に置き、新しいビール缶のタブを空ける。お酒に強い訳じゃないのに、かなりハイペースで缶を開けていっているが本当に大丈夫なのか心配になってきた。
暴走気味の千尋姉を一度止めようかと口を開こうとするが―――。
「大和と暮らして十年になるのかな?」
「え?」
その動作は千尋姉の一言によって中断された。とはいっても、千尋姉の口調は別に厳しいものではなく、むしろ穏やかなものだ。俯き気味だった顔を俺の方に向けると、照れているのか酔っぱらっているのかよく分らない表情を浮かべながら今までのことを振り返るように語り始める。
俺と千尋姉しか知らない、二人だけの思い出を。
「引き取った時は私も大和と同い年だったのに、今では大和が当時の私と同い年か。時の流れって本当に早いわね」
「そうだね」
「来たばかりは本当に無愛想で……口なんかも聞いてくれないし。そんな子がこんなに大きく育つなんてね。心も身体も、本当に大きくなってくれた」
引き取られたとき、千尋姉はまだ十五歳。まだ中学を卒業するかしないかという年齢だ。そんな千尋姉は身内がいない俺のことを、大切な家族として接してくれた。
今でもこの十年間のことをはっきりと覚えている。俺が小学校に入学する時も、中学に入学するときもずっと俺のそばにいてくれた。部屋にあるアルバムには友達と遊んでいる写真よりも、千尋姉と写っている写真の方が多い。
今でこそ仲が良い兄弟に見られるが、俺が霧夜姓を名乗るようになってしばらくは千尋姉はおろか誰とも口を利かなかった。自分に存在意義などないのだと、仲間なんて俺にはいないと思っていたから……。
一方的に突き放す俺にも、毎日変わらずに接してくれた。当時のことを思うと、自分は完全な黒歴史で思い出したくないようなことばかりだ。
人間なんか人を利用して、自分さえよければそれでよく。いらなくなったら捨てる。所詮そんなものだと、ずっとずっと……思っていた。
―――でも違った。時間が経つにつれて人と接することの大切さ、人間の優しさというものを知れたおかげで、俺はこうして心を開くことが出来た、そして変われた。
「俺がこうしていられるのも千尋姉のおかげだよ。もし引き取ったのが別の人間だったら、ここまで心を開くこともなかったし、ずっと当時のままだったと思う」
「そう、ありがと。でも大和が変われたのはあなた自身の努力よ。私はあなたのそばにいてあげることしか出来なかったわけだし」
でも、一緒にいてくれた。いくら俺が無視しようとも、千尋姉はずっと俺のそばにいてくれた。だからこうして変われた、本当に感謝しても感謝しきれない。
「そう考えると寂しいわね。弟が自分の下からいなくなるなんて」
「千尋姉……」
「ううん、ごめん。お姉ちゃんがこんなんじゃ駄目だよね」
―――ポロリとでた、自分の姉の本音。
IS学園は全寮制だ。入学するとなれば、ここを離れて一人暮らしをすることになる。たった一人の弟が手元から離れるというのは、今までに経験したことがないこと。どうしても傍にいてもらいたいという保護欲がわくのかもしれない。
たった十年、さえど十年。その期間は俺にとっても千尋姉にとっても長いようで短い期間だった。ただ会えなくなるわけではない。休みになればまたこうして会うこともできるわけだ。二人しかいないIS操縦者の内の一人、ISを動かしてしまった時点でどうなるかなんて分かっていたこと。
「俺は大丈夫だから、千尋姉も心配しないで。別にこの世から居なくなるわけじゃない」
「大和……」
「寂しいのは千尋姉だけじゃない。……それは俺も同じだから」
頬をポリポリとかきながら、照れ隠しするように顔を少し背けた。顔の表面が熱くなっていくのがよくわかる。横目に千尋姉を見ると、俺の言ったことにキョトンとしながら見つめてくる。どうやら俺の言ったことが理解しきれていないみたいだ。
……物珍しいセリフを聞いたからびっくりしているみたいだけど、普段から姉がいないから寂しいなんて言うわけないだろう。普段から言ってたらそれじゃただのシスコンじゃないか、勘弁してくれ。
「本当に……物言いまでいい大人になっちゃって」
「俺も成長しているってことで。いつまでも昔のままじゃないよ、流石に」
「そう……」
飲みかけの缶を机の上に置くと、千尋姉はおもむろに立ち上がった。どこに行くのかと目配りでその様子を見守る……ってあれ何かこっちに近づいてきているような気が……。
「えいっ!」
「ちょ、千尋姉!?」
俺の後ろに回り込んだと思えば、急に後ろから抱きついてきた。両腕に力をこめて絶対に離さないと言わんばかりに俺に密着してくる。
ちょっとまて! 背中に何か当たってる! 部屋着とはいっても千尋姉はいつもワイシャツ一枚の上に下着を外して過ごしているため、薄い服越しに強烈な存在感を発する何かが押しつけられていた。
普段から一緒にいると忘れてしまいがちだが、千尋姉のスタイルはかなり良い。街中で歩いていてモデルやっていますと言えば、ほとんどの人間が納得するほどだ。
話はそれたけど、こんなことをやり始めるってことはもしかして酔っぱらっているのか。ふと開けたビール缶の数を確認する。
ひーふーみー……
……えっとその……あの。十数本転がっているんですが、一体これどういうこと?
ハイペースで何本飲んでんだあんた!?
自分をもはや潰してくださいと言ってるような本数が目の前には広がっている。とにかくこの状況を何とか変えないと……
何て考えているうちにどんどん束縛する力が強まっていく。
「弟のくせに生意気ね! こんにゃろ!」
「ちょっ! やめ!? ―――っ!? み、耳に息を吹きかけるなぁ!」
弟ってのはどこの誰もが一度は生意気になるものです、だって逆らってみたいじゃない。
抜け出そうとする俺に追い打ちとばかりに、耳に息を吹きかけ来た。
おかげさまで身体の力が抜けて、抵抗する力が徐々に弱まっていく。くっ、これではこっちがされるがままだ。何とか形勢を逆転できればと身体に力を込めるが、どうやらそんな力ももう残っていないみたいだ。身体自体がうまく動いてくれない。
ちょっと今日の千尋姉はおかしい。いつもだったら酔いが回ればすぐに潰れて寝てしまうのに、今日は完全な絡み酒になっている。
酔っているのは仕方ないけど、ここまで男性の理性というものを刺激されるのは非常にまずい。本当にこのままじゃ……
……?
もう諦めようかと思った刹那、急に千尋姉の束縛が弱まっていく。
自身も騒ぎ疲れたのかどうなのかはわからないが、どんどんその力は弱まっていった。そしてある程度まで力が弱まると肩越しに顔をこちらに覗かせてきた。そして……
「―――頑張りなさい、大和」
涙ながらに一言、そう伝えた。
何とか笑顔を作ろうと努力しているものの、溢れてくる涙を止めることは出来なかった。溢れ出た涙が頬を伝い、ポタポタと首筋に垂れてくる。
「……千尋姉」
「―――っ!! ばか! あんまり女の子の泣き顔を見るんじゃないの!」
ギュウウウ!!
「ちょっ、流石にこれ以上はやばいって!」
ちょっと振り向いたらまた思いっきり抱きつかれました。背中でつぶれる二つの双丘が気持ちいいです。
……じゃなくて。
「……あなたは私の家族、私はずっと味方だから。しっかりと、ね?」
「……あぁ!」
その後は千尋姉が泣きやむまでの数十分、ずっとそのままの状態で頭を撫でつづけていた。
―――この十年間お世話になった"我が家"に別れをつげ、俺はIS学園へと歩を進める。