CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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かなーり遅くなりました九回です。


第九回:図書室ラプソディー

 人間は気分次第で無重力を体感する事が可能なのだと、人類の進化の可能性を実感することになるとは思わなかった。

 至福のような時間であった昼休み。俺は杏と椋の三人と昼食を共にしていて、しかも杏は「次もまた一緒に食べよう」と三半規管を震わせる音色で俺を魅了したのだが……椋の余計なひと言のせいで次回は岡崎も参加する事になってしまった。

 ショックでその後の足取りはふらふらとおぼつかなくなって周囲の人が奇異の目で俺を見ていた。ただでさえ悪目立ちしているというのに、更に変人のレッテルまで追加されてしまう。すき好んで集めているわけでもないのに、このままじゃ俺はこの学校一の変人に君臨してしまう。あの春原を差し置いて。それは許されない。変人王の名は彼にこそ相応しい。

 

「なんて、現実逃避をあといくつ重ねれば俺は報われるんだ」

 

 分かっていた。どうあがいても杏が俺を見初める事はもう無いし、それは岡崎に向けられているのだと。

 だかしかし! だからといって諦める俺じゃあない。

 不満はあるが腐ってる訳にもいかない。そうこうしている内にも杏と岡崎の距離が縮まっては、それこそ本末転倒だ。俺にしか杏の恋路は邪魔できないんだ、なんか字面的にすんごく俺が悪者みたいに見えるがそうじゃない。

 惚れた女の恋路を応援なんてのは敗者のやる事だ。俺はまだ負けてないし勝負すらしてないんだ。そんな出来の良い真似、死んでも出来ない。

 

 ―――邪魔してやる、全力で。

 

「ファーハハハハッ! やるぞっ! やってやるぞぉ!」

 

 俺が巷でなんと呼ばれて恐れられているのか、彼奴らに思い出させてやる。

 

 

 ※

 

 

「と、いうわけで岡崎。お前明日の昼食は俺と一緒に食うぞ」

「なーにがというわけなんだ何が。説明もしないままにそうやって決定を下すなよ、せめて理由らしい理由を言って納得をさせてから決めろよ。お前の悪い癖だぜ」

 

 と、いうわけで放課後の春原邸。邸って言う程豪勢な部屋じゃないのは重々承知しているが、物は良いようと人は言った。だからここはせめて呼び方ぐらいは豪勢にしてやろうという俺の真心だ。

 特に用もない放課後、俺はいつものように春原邸でいつものように春原で遊んだりして過ごしていた。というのも、この男、岡崎朋也君は演劇部の再興やら風子の姉の結婚式やらと、なにやら最近多忙なお人なのだ。

 だからコイツが邸に来たのは日が暮れてからだった。

 面倒な事ばかりやって疲れただろうと思った俺は、岡崎を労うべく言葉をかけたら、

 

「半分はお前のせいだろうがっ、責任とれ!」

 

 なんて理不尽に怒られたうえに、ちょっとお互いに気になっている女を犯った後にそれを謝ったら言われそうな呪詛を吐きやがった。どうやら最近、マジで大変らしい。カリカリしてた、牛乳飲め。

 不機嫌っぽい岡崎相手にふざけたら、春原とは違って多分手が出てくる可能性がある為、狡賢い俺は真面目にどうして昼飯を誘わなくてはいけないのかを説明することにした。

 

「今日の昼にさ、実は俺杏とその妹の椋と飯を食べたんだ」

「いきなり理由になりそうにない切り出しだけど、まあしょうがない聞くよ、で? お前藤林姉妹の料理食べたのか?」

「ああ、まあそうなるな」

「へぇー、案外美味しい思いしてんじゃん榊原。それじゃあ杏の料理はどうだった? あの性格だし、やっぱり不味いか」

「今すぐ涅槃に紐無しバンジーするか春原ァ!?」

「ひいいいぃぃぃーーーっ!」

 

 凄んだ。気が付けば春原が鼻水と涙を流しながら白目を剥いていた。

 余計な横やりを入れないで大人しく隅で漫画を呼んでいればいいものを、好奇心は猫をも殺すと言うぐらい春原が生き残れるわけがない。

 この一連の流れが毎回行われているせいか、岡崎も特に床に昏倒する春原を見てもなにも思ってないように表情が揺らがなかった。が、俺をに視線を戻して発した言葉に、思わず俺の方が狼狽える事になってしまった。

 

「なあ、なんでいまそんなにキレたんだお前?」

「……あー、なんというか、その、ほら流れってあるじゃん? 漫才でもボケたらツッコミを絶対入れるじゃん、たまにボケ殺しとかいってツッコまないのもあるけど。要はそれと一緒なわけよ」

「でも春原はボケてなかったろ、いや、存在自体がボケてるって事を言いたいのか」

 

 俺も大概だけど、岡崎、お前も結構辛辣な男だな。春原じゃなかったら自殺してたかもしれないぞ。

 しかし、俺が杏に惚れているという事を知られない為にも此処は上手く話に乗って誤魔化さなくては。

 

「まあそんな感じだ、だってほら春原は年がら年中色ボケ野郎なわけだし、俺は正当なツッコミをしたにすぎないんだよ」

「なるほど。一緒に飯食ったぐらいで安易に恋愛を匂わすなボケと、そう言いたかったわけか」

「なんだ、わかってんじゃん岡崎」

 

 わかってねえよ、なんだよその曲解は。いや待てよ、俺の誤魔化したいという願望には一応そってはいるな。

 あまり必要以上の言い訳をすると岡崎は勘違いをして望まぬ勘違いを生み出しかねない。勘違いを正すってのは思った以上に労力と時間が必要になるのを、身を持って思い知っているからこそ、それだけは避けたかった。

 榊原幸希の歩む恋路に立ちふさがる最大の障害となっている岡崎朋也を廃さぬ限り、この道を望むのなら必ず越えなくてはならない。ただ、俺の場合はその障害である朋也と友人関係にあるのがネックになっている。

 だからこそ、俺は卑怯者と評され蔑まされる道を歩むと決めたのだ。

 

「とにかく話を戻すと、その昼飯を食ってたら次もやろうって話になって、今度は岡崎も参加って決まったんだよ。理解したか?」

「ものすっごい単純で重要な所をすっ飛ばしてる気がするのは、俺の気のせいか?」

「何を飛ばしてるんだよ」

 

 言われなくともわかってはいたが、会話の流れからブツ切りにするわけにもいかずつい口走ってしまった。

 岡崎が訊きたかったのは、案の定どうしてそういう話になったのか、そして誰が言い始めたのか。と、至極当然で言った通り単純な事だった。

 言われるまでも無くこの理由も、発案が誰なのかも当然知っている。知ってはいるのだが、二つをセットで説明となると非常に言葉にしずらい。杏がお前を好きなのを知った椋が余計な気を利かせたんだよハハハ、なんて感情を交えず気軽に言えたら今頃俺は愛しの女神に告白している。

 どうやって誤魔化したものか、適切な他の理由を脳内で複数候補に挙げ検証する。どう言えば岡崎がどんなふうに納得をするのか、複数回脳内シミュレートを行った結果回りくどい事を言わずに強引に言った方が良いと出た。

 ので、実行することに決めた。

 

「ま、理由なんてなんだって良いだろ。俺もちゃんと話聞いてなかったし、お前は行けばタダで飯にありつけるんだぜ。これほどいい話はないだろ」

「確かに……タダ飯ってのはありがたい。わかった、それじゃあ行くよ」

「おっし決まりだな、じゃあ明日の……って忘れてた、そういえばお前古河といつも飯食ってなかったか? それに、最近は風子と何かやってるんだったな」

「古河とはたまに昼時に顔を合わせるだけで、別に約束して飯を食ってる訳じゃない。風子の件はお前が元凶というか、大本だけどな」

「だけどよ、いきなり何も言わないでってのも悪いような……」

 

 ばつの悪そうな顔をして、わざとらしく眉間に皺を寄せる。いかにも考え込んでいますって顔で。

 すると岡崎は思った通りの反応を示してくれる。

 

「そんなに言うなら、いっその事古河と風子も誘えば良いんじゃないか?」

 

 その言葉を待っていた。

 すかさず俺はハッと俯きがちだった顔を上げあらかじめ用意していた相槌を打った。

 

「それだっ、んじゃあ風子と古河にはお前から伝えておいてくれ」

「何言ってんだ、風子にはお前が伝えろよ。俺は古河の方に伝えるから分担だ、少しはお前も手伝ってくれ」

「……しょうがない、それじゃあ風子は俺からそれとなく伝えるよ。あいつはいつもあの教室に居るのか?」

「ま、大体はな。俺も良くは知らん」

 

 風子が何処で何しているのか考えているような、少し仏頂面気味に嘆息した岡崎は言葉を切ると暗くなり始めた空を窓を介して眺める。

 想像以上に想像通りになった話に、俺は満足し近くに転がっていた漫画を読み始める。なんとなく会話が途切れた時は、こうして適当にして時間をまた消費する。

 古河と風子の話を出したのは、当然ワザとである。ああでもしなけりゃ、岡崎は普通にタダ飯につられて来ただろうし、まともに会話が盛り上がって距離を縮めてしまう。きっと椋は姉の為に色々と画策しているに違いない。彼女との付き合いはそれ程長くもないのだが、それでも姉思いであるのは容易に見て取れる。

 だからこそ、それを妨害しつつ新たな道を作る可能性を持った駒を連れて行くのだ。

 風子には場を荒らす役を。そして主役である古河には、岡崎と最近仲の良い女子生徒として全面に立ってもらおう。そうすれば、きっと杏は古河を意識する。岡崎の恋人ないしなりうる存在なのでは、もしかしてもう岡崎は唾をつけているのではと。

 あとはもう疑心の渦に落ちてくれればそれでいい。次に必要なのは俺の根性と愛の総量だけなんだから。

 

 思わず笑いがこぼれそうになるのを抑えて漫画を読んでいると、この部屋に近づく廊下を歩く足音に気が付いた。

 とはいってもここは学生寮。廊下を歩く生徒は溢れるほど居るし、角部屋でもない春原の部屋ではさして珍しくもない。だけど今回は少々廊下を叩く音が違う。

 ぱたぱたと軽いスリッパの音だった。部屋の周囲に棲むのは当然男で、しかもラグビー部ばっかりだから足音が軽いわけもなく、しかも連中は大体裸足だ。

 だからこの足音の主は、きっと美佐枝さんだろう。

 扉が開く音に反応して振り向いてみれば、そこには予想した通りの姿が立っていた。

 

「ちょっと失礼するよ、春原あんたに電話……ってなんで伸びてんのこの子は」

「まさか知らなかったんですか美佐枝さん。春原の本体はあいつの尻に出来たオデキで、しかも脱着可能なんですよ。だからいまあいつはちょっと留守にしています」

「榊原が何を言いたいのかあたしには全然分からないんだけど、通訳してくれない?」

「俺だって無理っすよ。たまにこうやっておかしくなる時があるんだよなこいつ」

 

 ちょっとふざけたら酷い良いようだった。なんだよオデキが本体って。なんで俺はそんな事を言ってしまったんだろう。電波拾ったか?

 どうやら白目で天井と見つめあってる春原に用があった美佐枝さんは、溜息を吐きながら口を開いた。

 

「ったく、家族からの電話が来てるってのに魔の悪い子だね」

「ちょっとまって美佐ちゃん、家族って春原の?」

「美佐ちゃんなんて呼び方は止めなさい。そうよ、妹さんがね」

 

 妹……か。春原の妹って、なんか最近こいつの口から聞いたような気が。

 

「それじゃあ俺が代わりに出てやるよ。ほら、当事者は寝ちまってるし、不本意ながら飼い主が懇切丁寧こいつの私生活を暴露してあげるから」

「んー、本当はあまり良くない事だけど。ま、榊原なら平気か」

「それでいいのか美佐枝さん……結構適当だな」

 

 岡崎のツッコミは俺も思ったことだった。

 一分前の俺の言動を聞いてなお俺で平気とのたまうとは、流石は男臭い学生寮の長をやっているだけのことはある。それとも以外に俺は信頼されているって事なんだろうか。だとしたらその信頼には答えなくてはならない。

 呆れた表情の岡崎の視線を物理的に感じながら、部屋を出る美佐枝さんの後を追う。

 リノリウムの廊下には二人分の足音が絶えず響き渡り、思わず足音でリズムを刻んだり、わざと合わせて一人分にしてみたりして遊んでた。

 寮長の部屋の手前、入口付近にある電話は道に立っている緑色の公衆電話と同じで、受話器が通話状態を維持するために外したまま置かれていた。ってことは少なくとも電話口のまだ見ぬ春原の妹は、兄の声を今か今かと待っているんだろう。

 

「ほらあそこに受話器は置いてあるから、事情を説明して用事をちゃんと聞くんだよ?」

「甘いですよ美佐枝さん。妹は兄の声を待っているかもしれないんだ、俺はそれを忠実に守ろうかと思う」

「……? 何を言ってんの」

 

 意味が分からないと小首を傾げる美佐枝さんを横目に、俺は今まで隠していた特技を披露することにした。

 自分の喉を指でいじり喉仏の位置など、諸々を調整する。

 

「あー、アッー、アー……ん゛っうん! 僕、春原陽平! ちょっとスケベな本能に忠実な高校生っ」

「うわっ、びっくりした。凄いそっくりそれ、以外な特技もってんのね」

「実は僕、こないだ美佐枝さんの干してたパンツを盗んじゃったんだ、ごめんなさい本能に忠実で」

「…………」

 

 感心した様子で聴き入っていた美佐枝さんの表情が途端に凍りついた。冗談で言ったのに、もしかして心当たりがあったのだろうか。だとしたら魔の悪い男だ。

 転身して来た道を引き返すグラップラーの後ろ姿を見送り、俺は静かに春原の冥福を祈った。きっと今夜が山だろう。

 犯行自体は多分あいつの仕業じゃないのは確かだ。小心者で小物思考のあいつはリスクを恐れてそんな事は出来ない。恐らく犯人は単なる下着ドロか、ラグビー部だ。なんにせよ、そのどっちかの為の生贄になるんだろうな。

 

「さて、それじゃあ……気を取り直していっちょ引っ掻き回すか」

 

 春原の安否より今はその妹だ。

 受話器を手に取って耳に当てる。勿論声色は春原のまま。

 

「もしもし今変わったけど、一体なんの用さ」

「あ、お兄ちゃん出るの遅いよ。芽衣五分も待ったんだから、電話代だって安くは無いんだよ」

 

 春原っぽい脱力した喋り方で言ったら、芽衣なる妹はコロッと俺を兄だと信じたようだ。自分の才能が恐ろしい。

 さて、まずはジャブで行こう。

 

「悪かったよ。ちょっと部屋の中で友達のエリマキトカゲと一緒にふんどし相撲をしてたからさ」

「え、エリマキトカゲとふんどし……相撲?」

「ああ、名前はエリザベスって言うんだけど綺麗な顔してるんだよ。いつもは一緒になって飛び回るハエを捕食するんだけど、今日はちょっと趣向を変えてね」

「ハエ……捕食、趣向ぉー!? お、おにい……ちゃん」

 

 いかん。この芽衣って妹、もしかして本気で信じてるのか?

 なんか受話器の向こう側で鼻を啜る音が聞こえてきた。まだステージ1だっていうのに、これじゃあ3まで行った時にはどうなってしまうのやら。ここはちょっと様子を見て、要件を聞き出そう。

 

「それで……め、芽衣はなんの用事で掛けてきたんだよ」

「なんのって、お兄ちゃんが……お兄ちゃんがちゃんとしてるか家族を代表して態々電話したのに」

「へ、へぇー、別になんの問題も無いよ。充実した生活を毎日送ってるさ」

「エリマキトカゲとふんどしでハエの捕食相撲の何処が充実してるのよっ。今度そっちに様子を見に行くからねっ」

 

 うむ。この娘、結構兄を本当に心配しているんだろうな。なのに話し相手は全くの別人だなんて、報われないな。俺のせいなんだけどね。

 仕方ないから、ここは話を合わせてあげよう。これ以上ふざけたらマジで家族会議に発展するかもしれない。この妹ならやりかねない声音をしていた。

 

「しょうがないなぁ、それじゃあ来るときにお土産持ってきてよ。それなら良いよ来ても」

「随分あっさり許してくれるんだね、前はあんなに嫌がってたのに。それで、お土産って何を持って行けばいいの?」

「くさやが良いかな。僕最近あれにはまってるから」

「へぇーまあ良いや、わかったそれじゃあ行くからね。また連絡するから、じゃあね」

「おう、歯磨けよ」

 

 最後に一言忠告を残して電話は切れた。耳元では終話を知らせる、彼女との繋がりが断たれた音が鳴り続けていた。

 

「さて…………俺しーらねっ」

 

 

 ※

 

 

 翌日。

 天気に恵まれよく晴れた日頃。太陽照らすアスファルトの上を歩きながら、幸希は今日一日で自分が取るべき行動がなんであるかを思い出していた。

 まず、普段通りに通学をし教室に入る。すると十中八九教室の中には椋が居るはずなので、彼女に挨拶をした後に今日の昼についての話題を出す。

 朋也はこの時間まだ自宅で睡眠を貪っている筈だから、参加の意思を伝えてもそれを確認する手立てが存在しない。その間に幸希は風子が居る教室へと移動。そして昼食の誘いをする……わけではない。幸希が直接誘ってしまっては、場を乱したと思われ好感度が下落してしまうかもしれない。だから、風子には昼になったら自分らが食事をしている場で鉢合わせをする必要がある。

 それを成功させたら、あとは朋也次第だ。彼が素直に渚を誘うかで、幸希が企てた一連の作戦がようやく始まる。

 思いついたら猪突猛進だったこれまでの幸希が、初めて恋愛ごとで策を講じる事になったのには、やはりこのままでは埒が明かないと思ったから。熱い想いをただそのままの熱量で解き放っても、度が過ぎた熱に身を焦がしてしまうだけ。だから幸希は頭を使う事にした。

 渚と朋也を恋人に仕立て上げる計画を。

 

 学校の廊下を歩き教室へと移動する幸希。朝早い時間ということもあって、未だその廊下の人通りはそれ程多くは無かった。不良として生活していた幸希にとってこれは滅多に見なかった光景で、未だに違和感を感じずにはいられない。何かが違うという違和感ではなく、自分だけが違うという疎外感にも似ている。

 立ち止まり教室の扉を開く。横開きの扉は校舎の長い歴史を裏付けるような軋む音を立てながら開かれた。半田舎な町とはいえ、進学校として有名なんだったら扉の修理工事ぐらいしろと思いながら廊下から教室の境界を越えた。

 教室内にはすでに何人か生徒が席に着いたり、窓際で談笑をしたりと、各々が好き勝手過ごしていた。扉が開いた瞬間、誰が来たのか確かめる為にその皆が一斉に視線を向けたが、それも幸希だと分かるとすぐに散らばった。

 幸希はこの学校では、陽平以上に、朋也以上に恐れられ避けられている。嫌うものはもちろん沢山いるが、皆それを表に出してあからさまに嫌悪することは無かった。進学校だから、礼儀正しい人間が集まるのだろう、と思ってしまえばどれだけ簡単に済むか。まず三馬鹿トリオなんて揶揄される人間が入学できた時点でそれは無い。

 理由としては単純、だが予想以上にこれの根が深い。大体が皆、幸希の事を恐れているのだ。見るからに言動が馬鹿丸出しな陽平は馬鹿だが、それなりにまだ常識的だ。そんな男を諌める立場に居る朋也はさらに危険度が低いと思われている。基本的に寡黙で、一匹狼のような気性が触れなければ大丈夫と思われているのだろう。

 だが、幸希が黙々と自席に着き荷物を下ろしている様を、怯えたような表情を覗かせて盗み見る生徒たちは、何よりも幸希を恐れていた。

 

 理由は様々あるが、なんと言っても過去三年生に上がる前、一年生の頃にあった大きな暴力事件が起因している。当時の工業高校の生徒を軒並み病院送りにした事件。それだけでも十分に恐れられるというのに、この事件の話題はこれでは終わらなかった。普通それほどの暴力事件なら幸希も御用になるのだが、被害者である工業高校の生徒たちは誰一人として被害届を出さなかったのだ。警察は直接喧嘩の光景を見ていたわけではないのと、被害届が無いこと、そして幸希が進学校の生徒というのを材料に判断し逮捕を逃れた。

 だからこそ恐ろしかった。腕力だけではなく、まるで計画したかのような犯行を行える賢さを持ち合わせていることに。

 藤林椋は、この事件の事を良く知っている。だが、それでも彼を恐怖してはいない。だからこうして彼の席に歩み寄り、いつものように挨拶を交わす。

 

「おはようございます榊原君、今日はいつもよりちょっと早かったですね」

「おう、おはよ椋。そういや、今日の昼の事だが岡崎も来るそうだ」

「良かったです。お姉ちゃんにも伝えておきますね」

「あいよ。それじゃあ俺は行くところがあるから」

 

 背を向け来て早々に教室を後にした。向かうのは風子と出会った教室。朋也の話を聞いた限りでは、風子はいつもそこでヒトデを彫っているそうだ。

 思っている以上に神出鬼没な人物らしく、素直にその教室に言った所で風子に会える可能性があるわけではない。それこそ探し回る必要があるかもしれないのだと、朋也は幸希に忠告していた。

 だが、幸希には風子を見つける為の切り札を持っていた。それをすぐに使うつもりはないが、もし教室を探しても居なかった場合には遠慮なく使おうと考えている。何はともあれ、風子探しに関して幸希は一切悪いことは考えていない。

 

 

 

 

 あと数時間を我慢すれば昼になると学生達が思い始めた時間頃。ようやく登校してきた朋也は、眠気で重くなった足を引きずりながら懸命に坂を上っていた。

 とっくに授業が始まっている今、桜並木の坂道には人の姿が朋也以外に見当たらない。当然だろう、進学校という肩書を大事に抱えている生徒が多く在籍しているこの学校、朋也のような人の方が特殊に見られてしまう。

 校舎に入っても人の姿を見受ける事は出来なかった。授業中なのだろう。一歩教室に入れば人で溢れているというのに、廊下を見渡しても人っ子一人居ないというのは不思議だと思い、朋也は思わず寂寥感を感じてしまった。

 朋也は下駄箱を抜けてっきりそのまま教室へと直行するのかと思えば、その足は教室とは全く違う方へと向かっていた。

 素直に遅れて授業中の教室に入っても、教師と生徒の反感を買うだけだ。だから朋也はそれを避ける為、どこか時間を潰せる場所を探しているのだ。

 そうして辿り着いたのは、図書室と扉の上に飾ってあるプレートに書いてある場所だった。幸希のような捻くれた悪戯心を持っていなければ、ここは図書室なんだろう。面白いって理由だけで、教室のプレートを全部取り替えたことがる友人を思い出し吹き出しそうになる。

 

「……っと、今日はここで寝るか」

 

 人影が居ないのだから笑いそうになった表情を取り繕わずとも平気なのに、条件反射のようにしてしまった恥ずかしさを誤魔化しながら図書室の扉を開けた。

 入った瞬間に朋也が感じたのは年月を重ねた木と紙の香りだった。小学生の頃、林間学校などで出かけた先のペンションで嗅いだ香りに良く似て、癒し成分でも分泌しているんじゃないか疑う程だった。

 雰囲気は悪くない。扉が開いていたのは僥倖だったかもしれない、と窓際のテーブルを選んで座りながらうつらうつらとした瞼を閉じようとした。

 

「…………」

 

 眠りは他者の存在に気が付いて吹き飛んでしまった。

 置物のように静かに、一言も発しなければ呼吸も極力抑えられているのか耳を澄まさなくては聞こえないほどだった。

 一瞬、朋也は幽霊でも目にしたのではと寒気を覚えた背筋を伸ばして、もう一人の住人を注視した。少女の邪魔なのではと思う長髪の色は杏や椋よりも来い紫で、両サイドに二つの球体が付いたゴムで髪をまとめており、残りは後ろに流している髪型は朝の手入れに時間がかかりそうだ。なんて朋也は思った。

 少女は椅子を使用せず、直接クッションを挟んで床に座り込んでいた。正座の状態から膝から下を外に逃がしたようなリラックスした態勢で、どういうわけか上履きを吐いておらず裸足だった。

 いじめにあってるのか、とも思ったが少女の隣に上履きと靴下が置いてあるのを見て考えを改めた。この少女は好きでこうしているのだ。

 裸足で床に座り、本を真剣に読んでいる彼女の視線は、ずっと変わらずに本の紙面に印刷してある文字を追い続けている。まるで朋也の存在には気が付いていないのではと感じるほどに。

 

「もしかして、気が付いてないのか?」

 

 実際にそうだった。少女は驚いて音を立てた朋也に毛ほども反応を示さなかったのだから。

 だが朋也本人はそうは思わず、少女は気が付かないふりをしているのではないかとおもむろに少女に近づいた。

 

 

 ※

 

 

 二時間目の授業が終了し三時間目に入った時、俺は風子を誘導するために彼女と会う必要があったから授業をさぼって抜け出していた。

 岡崎の姿はまだ見ていないが、多分その内ひょっこり顔を出すだろう。遅刻はいつもの事だし。ただそういえば、今日は春原も見ていなかったな。ま、あいつはどうでも良いか、あいつこそホントにどこかの女子トイレから湧き出てきそうなんだから。

 教師の気配が感じない道を選んで迂回しつつも目的の教室に到着した。だが、俺の耳は教室には誰も居ないと告げている。

 

「……おかしいな。もしかして本当に居ないのか?」

 

 扉を開けると、不安は的中、風子の姿はそこには無かった。

 というか、当たり前か。よく考えたら今は授業中だというのに、こんな所で堂々とサボる奴がこの学校に俺達以外で居るわけがないのだ。

 そうなったら、途端にやることが無くなってしまった。風子を呼び出すのは授業が終わってからでいいだろう。多分、授業中でも来そうだが、それじゃああいつに迷惑がかかるだろうしな。

 仕方ない。何処か静かな所にでも行って昼寝でもして待つことにしよう。こないだは屋上を使ったから、今日は室内の気分だな。

 一番に思い当たるのは資料室なんだが、あそこで寝ているとたまに窓からやってくる校外の連中が邪魔だからなあ。もし五月蠅くして有紀寧のじゃまになったらなったで悪いし、今日は使うのをやめておくか。

 資料室を使わないと決めたら、他の候補なんてのはもう空き教室か旧演劇部の部室と、あとは図書室しかないな。普段から図書室は鍵が閉まってるが、俺はいつもサボる場所を確保するために合鍵を作って持っている。よって、鍵がかかっていようと関係なく侵入出来るのだ。

 

「……というわけで、着いたは良いが。……開いてるな、鍵」

 

 おかしい、この時間の図書室は鍵が掛かっている筈。しかも、なんか室内に人の気配が二人分。一応成功率を高めるために胸ポケットから取り出した聴診器で聴いても、やはり二人居る。

 もしかしたら教師か司書でも居るのだろうか、そうなら入ると余計な説教を受ける羽目になる。ここのウザい教師の説教を態々自分から聞きに行く馬鹿は居ない。

 諦めて違う場所で寝よう、と踵を返した瞬間、

 

「まてまて! それは流石に不味いだろおい!」

 なんて聞き覚えのある男の慌てた様子の声が聞こえてきた。というか、岡崎だった。

 ってことは教師もしくは司書が居る可能性は無くなった。安心して俺は図書室に繋がる扉を開け放ち中に這入った。

 

 ―――中では岡崎が大人しそうな女の腕を掴んでいる光景が広がっていた。

 

「んっ? 榊原じゃねえか、お前もサボりか?」

「…………」

 

 俺の侵入に気が付いた岡崎はそのままの状態で顔をこちらに向けた。

 腕を掴まれている女は何が起こっているのか分からないって顔で、ぼーっとした瞳で岡崎を見上げ、それから俺の方にも視線を向けてきた。

 髪色と同じ紫の瞳には俺の呆気に取られている姿が映ってはいるが、見られているという感じはしなかった。単に瞳に映っているだけで、認識はしていない。そんな玻璃のような瞳だった。

 もしかして、もう既に彼女は岡崎の毒牙にかかってしまったのだろうか。

 

「なぁ岡崎……一つ質問しても、良いか?」

「なんだよいきなり」

 

 信じられないが聞いてみないと真実は分からないままだ。二人の衣服に乱れは無いが、そうじゃなくても方法はいくらでもある。

 恐る恐る口を開いて、思い切って訊いてみる。

 

「もしかしてお前、もうその女を……ヤっちまったのか?」

「……は? 何言ってるんだ?」

 

 事態を把握できない、言葉の意味を理解できないといった風に眉を顰める岡崎。うむ、どうやら女の純潔は守られたらしいな。恋人なら止めないが、明らかにそんな雰囲気じゃないからな。

 でも、面白いのでこのまま茶番を続けてみようかと思う。

 

「腕を掴んで、しかも恫喝してるような声が聞こえたし。被害者(仮)はなんか感情を失った人形みたいに硬直してるから、岡崎が無理やりヤってしまったんじゃないかとてっきり思ったんだが……違ったか?」

「んなわけないだろっ! なんで俺がそんな事をしなくちゃいけないんだ」

 

 指摘され、岡崎はあわてて女の腕を掴む手を放した。これが杏だった場合、俺は多分この世に居なくなっていたかもしれない。人知れずこの世を去り、杏の思い出の中でのみ生きる存在になるんだ。あ、なんかそれいいな。でも岡崎と付き合い始めたらあっという間に俺の事忘れたり……しないよな? いかんこれ以上の妄想は鬱を引き起こす。

 

「これはこいつが学校の本をハサミで切り取ろうとしたのを止めただけだ、他に疚しいことは一切ないっ」

 

 必死に主張する岡崎は、少女から本とハサミを取り上げて俺に証拠としてかざしてきた。返してあげようぜ、本とられて困ってるぞ後ろの女。

 

「そうか分かった、それじゃあそういう事にしておこう。この歳で前科持ちは嫌だもんな。でも、その女が被害届を出したら諦めろよ?」

「俺は今ここでお前を被害者にしたくなってきたよ……」

 

 怒気の孕んだ声で拳の関節を鳴らし始めやがった。

 言い過ぎたらしい。普段からツッコミの人間ってのはこういった時にいじられると弱いからな。でも、岡崎はどっちもこなせるオールラウンダ―な気もする。

 いい加減当事者を放置ってのも可愛そうだ。裸足で床に座る少女、というマニアックな趣向を抑えている少女を見ると、彼女の視線は主に岡崎へと向けられていた。モテモテですな岡崎さん、まじパネェっす。

 

「で? 冗談はこれぐらいにして、この女とは知り合いなのか? 見るからに接点が皆無って感じがするが」

「俺だって今日初めて会ったばかりだ。名前だって知らないさ」

 

 見るからに文学少女って感じがするし、どう人生を間違ったら知り合えるのかってぐらい無垢な感じだ。

 岡崎が口にした“名前”って単語に反応した裸足少女は、俺達から見て横向きだった身体を正面に向き直り、座ったままの状態で俺達を見上げ口を開いた。

 

「ことみ。ひらがなみっつで、ことみ。呼ぶときはことみちゃん……」

 

 ひだまりのような微笑みと、透明感のある声が名を紡いだ。

 一部の男子が目の当たりにしたら恋泥棒だ、と騒ぎ始めるだろうが、杏一筋百年の俺にはなんの効果も無く単なる自己紹介程度にしか思わなかった。

 でも―――その自己紹介は十年ぐらい前で卒業した方が良いと思った。




ことみ登場、そしてあの子の登場フラグも……。
メイン格の台詞が少ないうえに、杏の出番が無いってどういう事なんだろうか。

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