CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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勢いに任せての八話です。


第八回:片思いの味

 古河が風邪で寝込んだ。

 そう切り出した岡崎は浮かない顔をしていた。誰が見ようとこう思うだろう―――腑抜けの顔だ。

 例によってしつこいようだが春原の部屋で珍しく暗い岡崎は、炬燵に入ってちゃぶ台に顎を乗せていた。

 そんな折に岡崎は重い口を開いたのだ。

 

「……古河が、風邪で寝込んじまった」

「古河? 誰それ、榊原知ってるか?」

「ああ、それで? というかどうして、体が弱いって言ってたけどそれが原因か?」

「昨日、雨だっただろ。それで―――」

 

 ポツポツと岡崎は語り始めた。

 始まりは一昨日の約束が発端だった。岡崎は古河とよりにもよってこいつの中で一、二を争う程の触れられたくない傷であるバスケをする約束をしたらしい。

 俺達がこうして寄り合っている原因でもある部活。自然と春原と俺は軽口を言えない気分になり、部屋の雰囲気が暗くなるのを感じた。この三人が共通する傷は、気分を害するには十分な威力を持っていた。

 しかし、そうまでして話すのを決意した岡崎の覚悟を無碍にするほど俺達は薄情な人間ではない。

 話は続く。俺が昨日思っていた通り、岡崎はこの部屋で春原と共に居たらしい。本人としてもあまり晒したくないデリケートな部分なだけあって、始め岡崎はすっぽかすつもりだったらしい。

 

「じゃあ、なんで学校に行く気になったんだ? 結構雨降ってたろ、面倒じゃなかったのか」

「逆だよ、雨だから……あいつ待ってたらって思ったんだ」

 

 そうして、不安は的中した。

 あの時俺が廊下から見た光景は古河だったのか。それが分かってれば、もしかしたら口出ししたかもしれなかったのに。

 今更湧き上がった偽善に、俺は自分が恥ずかしくなった。取り繕うようなこの感情が、今は憎らしい。

 結局、それが原因となって古河は風邪を引いてしまったらしい。

 

「あの日、俺がちゃんと学校に行っていれば……」

 

 自分が原因で古河に迷惑をかけてしまったと、そう思っているのだろうかこの戯けは。

 俺自身を焼く憎しみは、いつの間にか岡崎への意味が分からないモヤモヤとした感情に変化していた。なんだろうこの気持ちは。こいつは、岡崎は責任を感じているのに……それは至極まっとうな考えなんだが、俺にはそれが何故が許せなかった。

 

「岡崎が古河に肩の話をしたのは以外だと思った。それだけあの子を信用したんだろう……だけど、ならどうしてお前は今ここでこんなかび臭い部屋で腐ってるんだよ」

「……榊原?」

「ちょっと、かび臭いはよけいでしょっ」

 

 岡崎が困惑したように下がる眉を見て、回りくどい言い回しは止めで単刀直入に言おうと思った。

 

「……行けよ」

「はっ……?」

「だから、さっさと行けよ古河の家に。公園の向かいにあるパン屋だろ、ここで野郎に愚痴溢す暇があるんだったらさっさと家に行って、見舞うなり謝るなりなんなりお前が思うようにすればいい」

 

 本人を前にちゃんと話をしないで、俺達と会話をしても意味は無い。そうしている内にも、あの小動物はきっと色々考え込んでしまうだろう。未だ交流は全然ないが、それでもあの少女が岡崎の傷を知って心を痛めないわけがない。

 だから、俺は俺の目的の為にも岡崎に発破をかけなくてはいけない。

 

「男だったら迷う前に走れ! お前にキン○マがついてんならそれぐらい分かるだろ!」

「お、おうっ…………ちょっと行ってくる!」

「よっしゃそれでこそ岡崎だ、かっ飛ばせ突っ走れ!」

 

 表情に喝が入った岡崎が炬燵から跳ね起きる。

 瞳には光が戻り、迷いの色は見えなかった。

 勢いよく走り出し部屋から飛び出た岡崎を見送り、さっきまで岡崎が居た場所の炬燵に潜り込む。

 一連の展開を傍観者よろしく見届けていた春原が、ポツリと捨て台詞を吐くように口を開いた。

 

「…………なにこの安っぽい青春劇みたいな茶番は」

「岡崎が居なくなったお陰で、この部屋で一番の場所を奪取する事に成功したんだから安い代償だろ」

「あんたホント酷い人間ッスねぇ!」

 

 教訓―――。

 感情をむき出しにすると恥ずかしい思いをするが、それに見合う報酬をたまに得られる時もある。

 

 

 ※

 

 

 無事岡崎が古河家に向かった後、俺は用事を思い出して春原の部屋から出て行き商店街を歩いていた。

 なんの用事かなんて、思い出すだけでも俺の頬は熱したマシュマロよりも柔らかくとろけて落ちてしまう程緩んでしまう。ついでに目じりがだらしなく下がったり、口の端が釣り上ってしまったりする。

 なんてたってそう、明日の月曜日は学校。それだけなら憂鬱で面倒なのだが、今回は付け加えて『杏と一緒に昼食』という人生最大のイベントが待ち受けているのだ。これが喜ばずしてどうする。ずっと、毎日、毎時毎分毎秒妄想し続けた内容の内の一つが、明日を迎えるだけで叶うのだ。今までに比べれば安いもんだ。

 特別何かする必要はないのだ。ただ弁当を少し多めに作れば良いだけだ。

 

「そうと決まれば、ちょっと豪勢にしたって罰は当たらんだろう!」

 

 中学の頃、クラスに一人は居た他の奴よりもちょっと豪勢な弁当。あれはきっと母親が見栄を張るために無理をしたに決まっている。そう、ウチはいつもこんなのを食べているのよ作戦だ。

 当時、俺はあれが羨ましかった。毎日ゴマがついているあんぱんと紙パックの麦茶をすする俺には、あれは宝箱のような物だった。

 それを杏の前で披露すれば、一躍俺は料理が出来るいい物件と評価されて俺を見直すだろう。椋だって料理が出来る男は良いと言っていたんだし、双子なら少しぐらい好みが一致するかもしれん。

 行きつけの店で食材を買い集め必要な物を揃えていく。この時、余計な買い物はせずに節約するのを忘れない。家の家計はなかなか危ないから、不必要に出費をしたら後々苦労してしまう。

 塵も積もればなんとやらと言うぐらいだから、心を鬼にして欲望を抑え込む。

 愛読していた雑誌に書いてあった純白スーツも、岡崎が止めなかったら買ってしまっていたかもしれない。

 

「そういえば、杏は嫌いな食べものとかあるのか?」

 

 もしあったとしたら、そんな地雷を踏んでしまったら杏に余計な気を遣わせてしまうかもしれない。

 普段こそ傍若無人な行動が目に余るときがあるが、本質が心優しい少女だという事を俺は知っている。そんな杏が、俺の作った料理の中に苦手なモノがあったら、あいつは気を使ってしまうかもしれない。

 どうしよう。ある程度もう材料は買ってしまったし、これからメニューを変更する事は出来ない。第一、俺はそこまでレパートリーがあるわけじゃない。一週間をローテーションするのが精いっぱいだ。

 こんな時、杏本人……もしくは椋でも良いから通りがからないだろうか。

 一縷の希望を抱いて辺りを見渡してみるが、夕飯の食材を買いに来たおばさんとか、ガチャポンに夢中になってるクソ餓鬼とかそれを見咎める母親とかしか嫌がらない。

 日曜の休日にこんな所で逢えたら、運命としか思えない。……だからこそありえないのかも、と柄にもなく弱気になってしまう自分が居た。

 

「自分を下卑た所で何にもならんな。とりあえず、一回引き上げるか」

 

 誰に向けて言うわけでもなく澄み渡る空を見上げ、青臭い顔をして浸って見たりする。

 俺がラブコメの主人公だったらここで杏が俺の下に現れるんだろうけど、人生そう上手く行ったりしない。大多数の人間は、誘蛾灯のように引き寄せる力を持っては居ないのだ。だからこそ悩み、懊悩するんだ。

 振り向いて欲しい、声を聴きたい、自分だけに微笑んで欲しい、手に触れたいと。叶わぬ願いを夢想して叶わぬ現実に悲嘆の声を上げるのだ。

 だけど、俺はそこで終わってしまうつもりは一切ない!

 心底惚れこんだ女なんだ、そう簡単にはいそうですかと諦められるような代物じゃあないんだ。

 岡崎が好きだろうが関係ない。単なる友達としか思ってないなら、その関係を乗り越えてやる。

 これは男の意地だ。俺は、杏から岡崎への想いを奪い去って俺に向けなきゃ、一生後悔する。

 

 商店街を抜け、帰り道を歩いていると目の前に見覚えのある公園が目に入った。

 いつか杏が椋とゲーセンで話していた内容を聞いてしまって、ショックを受けた翌日にサボりに使ってた公園だ。あの時と変わらず、子供達は数人が集まって野球をしていた。

 あのオッサンは居ないのだろうか。居たらいつかの再戦を申し込んだのだが、見渡しても偉そうに笑いながら煙草をくわえる男の姿はどこにも見当たらない。

 理由はすぐに分かった。向かいのパン屋を遠目に眺めてみると、店内に腕を組んだオッサンが居るのが見えたからだ。

 他にも岡崎の姿が見える。そうか、ちゃんと行動したんだなあいつ、これで古河との距離は確実に縮まるだろう。

 ちょっとオッサンへの挨拶がてら顔を出してみるか。

 ちょうどパンも欲しかった所だし。

 公園を突っ切って真っ直ぐ古河パンと看板が出ている店まで歩く。次第に距離が近くなるにつれて、店内での会話が耳に届いてくる。

 

「ま、なんにせよお前が運んでくれたお陰で大事にならずに済んだ、ありがとよ」

「いや、俺は……」

 

 申し訳なさそうな面持ちで視線を下に落とす岡崎。こいつは不良なんて言われてるけど、どうしようもない結果の果てにそう揶揄されてるだけで実際は優しい男なんだな、と初めて会った頃のあいつを思い出した。

 見たところ岡崎の用は粗方済んだように見える。邪魔にならないタイミングは、今だろうと思い俺は店内に入りながら岡崎に声をかけた。

 

「人に感謝されたら、遠慮せずに素直に受け取った方が良いと思うぞ岡崎」

「榊原っ? お前、なんでここに……?」

「買い物の帰りがてら通りがかったからな、ちょっと顔を出してみたんだ」

 

 驚いた様子で振り返った岡崎の顔は、結構面白い感じになってて内心笑えた。

 

「客かと思えば、いつぞやのピッチャーフライ小僧じゃねえか。お前も渚の見舞いに来たのか? だとしたら諦めな、渚は今寝てる。寝言で俺に愛を囁きながらな」

「やかましい。ありゃ調子が悪かったんだ、次は銀河系までかっ飛ばすって言ったろうが。というか、頭に蛆でも湧いてんのかこのオッサンは?」

「俺に訊くなよ、ホント何しに来たんだお前?」

「けっ、テメーにゃ一生無理だな、俺を敬う事からまず始めやがれ」

 

 一遍にごちゃごちゃ喋るなよ……。

 これでも俺は友達が少ない人間なんだ、そこまで会話には慣れてないんだから。

 一々受け答えするのも面倒なので、一遍に済む返答を考え口を開く。

 

「パンを買いに来た」

「なんだよまぎらわしい、客なら客と分かるように、今度からはリンボーダンスしながら入ってきやがれ」

「無茶苦茶言うな、このオッサン……」

 

 オッサンの無理難題に肩を竦める俺と岡崎。こんな大人がパン屋を営んで、どうして今まで生き残ってこられたんだろうか。失礼ながらちょっと不思議だ。

 パンの味が心配になってきて店内に陳列してある商品を見まわしてみるが、うむ、なかなかどうしてまともそうに見えるな。……なんか一種類だけ雰囲気が違うのが並んではいるが。

 どんな味がするんだろうと思いしげしげと観察していると、店の奥、住居とつながっている出入り口の近くに立っていた古河によく似た女性が笑顔で近づいてきた。

 

「あら、あなたは岡崎さんと渚のお友達ですか? 始めまして、古河早苗と言います」

「ご丁寧にどうも、岡崎と古河の知り合いの榊原幸希って言います……つかぬ事を聞くけど、貴女は古河の姉貴かなんかですか?」

「まあ、お上手なんですねっ」

 

 破顔する早苗という女性は俺の質問を聞くなり、いそいそとある一角のパンを袋に詰め始めた。なんだろう、もしかしてこれくれるのかな。

 卑しんぼな期待をしていると、脇腹を誰かに小突かれた。というか、岡崎だった。

 何かと思い視線をやると、岡崎は眉を顰め耳打ちをしてきた。

 

「……お前、あの人は古河の姉貴じゃなくて、母親だぞっ……」

「……マジかよっ、でもなんか嬉しそうにしてるし別に良いんじゃね。パン包んでるし……」

「……バッカお前、ありゃなぁ、早苗の作ったパンなんだ。良いか小僧、なにがなんでもアレを口にしたらぜっっっっったいに“美味い”と言うんだぞ。良いな……?」

 

 深刻な表情で話に混じってきたオッサンはわけのわかんない事を言ってきた。

 なんだよ絶対に“美味い”って言えってのは。料理番組の食レポでも俺にしろっていうのか?

 

「なんだって良いけどさ、そんなに不味いのかあの早苗さんって人のパンは?」

「…………食えば分かる」

 

 それ以上、オッサンは何も言わなかった。

 早苗さんなる古河の母は袋詰めを終え、俺と岡崎の前まで足取り軽くやってきた。外見からは絶対にこの人が古河ぐらいの歳の母親だなんて、分かるわけないだろ。

 人類って凄いんだなと感慨深くなっていると、早苗さんは俺に袋を手渡ししてきた。

 

「はい、よかったらこのパン貰ってください。……岡崎さんにも、昨日のせめてもの感謝の気持ちとして受け取ってください」

「おっ本当にくれるんすか。ありがとうございます、これで少しは食費が浮きますわ」

「い、いやぁ俺は……そんなつもりじゃなかったんで…………」

「貰っとけよ岡崎、こういうのは相手を態々引込めさせたら失礼だろ」

「くっ……正論だけど、何も知らないお前に言われると……っ」

 

 なんで拳なんか握ってるのだこの男は。

 もらえるんだから、ありがたく貰っておけばいいじゃないか。

 袋の中には結構な数のパンが犇めき入っていた。どれもこれも、あの時雰囲気が違うと感じていたものだったが、そうかこれは早苗さんが作ったパンなのか。……という事は、他のはみんなオッサンが作ってるのか? 似合わねー。

 見ていたらなんか腹が減ってきたので、試しにと思って一つ取り出し口に運んでみる。

 

「それじゃあ、早速一つ頂きます早苗さん」

「おまっ、正気か……!」

「どうぞっ、めしあがれ」

 

 制止する岡崎の声を無視して俺は一口、大きな口を開けてそのパンを頬張った。

 ……なんだろう、これは、パンの中に……あさりか?

 断面から中を覗くと、パン生地の中にはあさりの佃煮が入っていた。

 

「名付けてあさりパンですっ。コンセプトは『田舎』、故郷に帰って来た時、食卓に並ぶ食材をパンの中に入れてみました。どうでしょう?」

「せんべいの次はあさりかよ……どうだ榊原」

「小僧、わかってるよな……?」

「…………うん、美味いっ! 美味いっすよこれ!」

 

 ガツガツと食いかけのパンを一気にかっ込んだ。

 全然不味くないじゃないか、なんだよビビらせやがって。

 満開の笑みを浮かべる早苗さんと、その光に当てられて慄いているオッサンと岡崎は、俺を化け物でも見るような目で見てきた。

 

「なんだよ、俺がどうかしたのか? 全然美味いじゃないか早苗さんのパン。これなら金払ってでも買いに行くぞ俺」

「小僧、お前もしかして……とんでもない悪食なのか!? 舌が馬鹿になってんのかっ!? ……はっ」

 

 そこまで俺が“美味い”って言ったのが衝撃だったのか、オッサンは肩を掴んで前後に揺らしながら詰問してきた。

 あんただって俺に絶対“美味い”って言えとあんだけ釘を刺したじゃないか、なんだよ疑ってんのか? それとも―――。

 揺れる視界に酔いそうになってきた時、チラッと見えたのは涙ぐんでいる早苗さんの姿だった。……えっ、もしかして今のオッサンの台詞で泣くのかよ。

 

「わたしのパンは……わたしのパンは……」

「や、やべぇ……」

「味覚検査の備品だったんですねぇーーーー!」

 

 なんてこった、泣きながら店から出て行ってしまったぞあの人。中身は娘と同レベル……いや、下回ってるのか?

 岡崎が動じて無い所を見ると、そう珍しい事じゃないのかも。

 

「くそっ……俺は、大好きだぁーーーーーー!!」

 

 慌てたオッサンが早苗さんのパンを口いっぱいに頬張り、そのまま愛を叫びつつ早苗さんを追いかけて行った。

 なんなんだこの夫婦漫才は。

 これがこの店の名物なのか。

 

「なぁ岡崎……これは、いつもの事なのか?」

「近所では名物になっているらしい……」

 

 見世物になってんのか、これで金取れたりとかしないかな。

 

 

 ※

 

 

 春の陽気が強まる昼下がり、幸希はいつまでも古河パンに居てもしょうがないと判断し朋也と別れを告げ去って行った。

 早苗のパンを平気な顔して食べる姿は、朋也にも衝撃だったらしく未だその余韻が残るなか去りゆく幸希の背を見送っていた。

 家に帰ると、幸希はそう言っていたが、その表情が朋也にはとても痛ましく見え同情を禁じ得なかった。

 初めて彼とあったのは今から一年程前の話。

 二年生になり、杏と春原の紹介で知り合った幸希への朋也の印象は一言で言えば“危なっかしい男”だった。

 いつ顔を合わせても、体のどこかしらに傷があり、酷い時は頭に包帯を巻いている時もあった。気になってそれを質問した時、幸希は「男の勲章だ」と言い張っていたが、朋也にはそうは見えなかった。答える瞬間、見逃してしまうような刹那、幸希の表情が翳ったのを朋也は見てしまったから。

 勲章などという誇らしいものではなく、もっと別の、直視したくない現実の表れのような傷に朋也は視えたのだ。

 勿論それは勘違いなのかもしれない。

 長い間父と不仲で、いつも衝突をして挙句肩に一生残る傷を負った朋也の被害妄想なのかもしれない。けれど、それを抜きにしても幸希の怪我の頻度は多すぎる。

 

 出会って間もない頃ならいざ知らず、いまや彼は滅多に喧嘩などはしなくなったのだ。

 二年生の半ば、後半あたりからめっきり丸くなり。何かに熱中するようになっていた。

 朋也はそんな夢中になっている幸希を見て喜ばしく思っていたが、いまだなくならぬ怪我の後だけは尾を引いていた。

 

“一年から知ってる春原でさえ知らない事なんだ。俺が首を突っ込んでいい話でもないな”

 

 自分と一緒で家に帰りたがらない幸希。

 そこに怪我の理由があるんだろう。だけど、それを無理やり訊いた瞬間、あいつは自分達との縁を切って居なくなってしまう……そんな嫌な予感がして堪らない。

 だから、これまでと変わらず彼とは適度な距離を保った馬鹿をやる友人でいよう。

 そうして、朋也は後に店に来た綺麗な女性に早苗のパンを全てあげて店から去って行った。

 

 

 ※

 

 

 こう言ってはなんだが、今の俺、もしかしなくてもラブコメの主人公並みにラッキーなんじゃないか?

 

「ちゃんと時間通りに来たようね、関心関心、やっぱ時間を厳守する男の方が良いわよね椋?」

「えっ? あ、う……うん、そうだねお姉ちゃん。榊原君……今日はよろしくお願いしますっ」

 

 昼休み。土曜に約束していた通り、杏……と椋の二人との昼食会と相成ったわけで、そこに参加しているこの俺は本当に『榊原幸希』なんだろうか。

 実はまったくの別人になっていて、このイベントは俺が楽しみ過ぎて夢に見てしまっただけのまがい物なんじゃないかと疑いたくなる。

 俺の幸せは希望通り現実となっているのか?

 

「杏……スマンが、俺を一回殴ってくれないか? 夢幻の類でないか、確かめたいんだ」

「相変わらず突拍子もなくわけのわかんない事を言う奴ね。これでいい、のっ!?」

「あべしっ……!」

 

 頭が吹っ飛ぶかと思ったぜ。

 でも、これでようやく分かった。

 …………夢じゃない!!!

 

「ありがとう杏。お陰で俺は今、最高の気分だ」

「うわー、もしかしてあんたマゾだったの?」

「ち、違わい! ちょっと寝ぼけてたからそれを覚ましてもらおうかと思ったんだい!」

 

 杏になら大抵何をされても良いが、マゾはちょっと厭だ。

 趣味じゃないし、何より厭な記憶を呼び覚ましてしまう。

 誠心誠意の説得が実を結んだのか、結果として俺がマゾという不名誉な誤解を解く事には成功した。

 さぁ、気を取り直して昼食会としゃれ込もうじゃないか!

 

「へぇーこれ、ホントに幸希が作ったの? 結構やるじゃない」

「凄い、わたしじゃこんなにちゃんと作れないよ……」

「ま、今日はいつもより少しだけ豪勢にしたけどな。せっかくだから特別性にした」

「それって、椋やあたしが居るからって事? なーんだ、あんたも結構普通に男の子やってんのね」

「当然だろ、お前ら(杏)にはちゃんとしたものを食ってもらいたくてな。ま、こんなもんよ」

 

 関心した様子で俺の作った弁当を観察している二人に、鼻高々に答える俺。

 ふっ、これで杏の心は俺がゲットしたも当然。岡崎よ……お前は安心して古河とくっ付いてイチャイチャしてくれたまえ。

 

「さぁ、遠慮なく食ってくれ! 味は食べてからのお楽しみだ!」

「それじゃあ、いただきまーすっ」

「い、いただきます」

 

 それぞれ手持ちの箸で俺の弁当をつまみ始める。……あの杏が使ってる箸、どうにかして手に入らないかなぁ。そしたら簡単に杏との間接キスが出来るのに。

 形の良い小さく可愛らしい杏の口を、悟られないように横目で見ながら料理が入っていくのを見届ける。

 もぐもぐと思わず頬ずりしたくなるような、柔らかそうな頬が無造作に膨らんだり伸び縮みするのを見ながら、味の感想を述べられる時を待っているとまず始めに椋の方が口を開いた。

 

「美味しいです……少なくとも、わたしより上手です」

「良かった、友達からは味音痴だの悪食だの言われてるから、ちょっと味付けが心配だったんだが」

「……うん、普通によく出来てると思うわよ。ただ……」

「ただ……?」

 

 なんだろう。何か嫌いなモノでも入ってたのか?

 危惧していた予感が現実を呼び寄せてしまったのか?

 早くなる心臓の鼓動を抑え込み、杏が何を言うのか、固唾を飲んで待ち構える。

 

「そうね、あんたにしては意外と上手に出来てるわ。見た目だってそうだし、栄養バランスとかもしっかりしてるし、むしろそっちが壊滅的なんじゃないかと思ってた分これは驚きだったわ。でも……ちょっと味付けが濃いように思うのよね」

「濃い、か……。そりゃ悪かった、ついいつもの癖で母親の好みにしてしまった」

「いいのよ別に、味の好みは千差万別あるんだから。そっか、幸希のお母さんの好みはこれぐらいなんだ。いつもあんたが作ってるの?」

「…………まぁ、そうだな……」

「…………?」

 

 “母親”と訊かれて無意識に声のトーンが低くなってしまったのを自覚した。

 杏は微妙な俺の返事に首を傾げるだけだった、が逆に椋がそんな俺が気分を害したと思ったのだろうか、

 

「わたしは、榊原君の料理……す、好きですよっ、毎日食べたいくらいです!」

 

 なんて気を使って言ってくれた。顔を真っ赤にしている辺り、よほどの勇気を振り絞り、羞恥を耐え忍んだのだろう。そこまでしなくても良いのに。

 流石は杏と血を分けた双子の妹だけある。優しさが俺に安らぎを与えてくれる。

 

「あらっ、よかったじゃない幸希。椋に好きって言って貰えるなんて、普通じゃありえないことよこの幸せもんっ」

「料理の話だろうが料理の。お前はなに第三者を勘違いさせるような事を言ってるんだ。ただでさえ敵視されてるてのに、これ以上敵を増やすような事言わないでくれ」

 

 心底面白そうな表情で俺と椋をからかう杏は、マジで俺の事なんて何とも思ってないんじゃないのかと不安を抱きそうになるほどであった。

 椋なんかさっきからずっと顔真っ赤なのに、双子でもこうも違ってくるもんなのか。

 

「わ、わたしは別に……そでも…………」

「それじゃあ次は杏の料理でもふるまって貰おうかっ!」

 

 何かを椋が口走っていたが、今は杏の料理に気を取られているため被せるように大き目の声で言ったせいで、何を言っていたのか一切聞こえなかった。それほど大した話でもないだろう多分。

 凄い熱の入りようである俺の勢いに、若干上半身を逸らせた杏だったが、溜息一つ吐くと前に置いてあった弁当箱……というか、これは重箱か。重箱の蓋を外して、気落ちしている椋と一緒に箱を分離させ始めた。

 何かと表情が変わるな椋も、やはり姉妹か。

 

「まったく、あんたを好きになる子が可愛そうに思えてくるわ」

「んなっ……!」

 

 呆れた様子でそう言い放った杏の言葉は、俺を打ちのめすには十分な殺傷力を持っていた。

 そ、それは、俺を好きになる事、は、今は……ない事を意味するんじゃ……。

 いや待て、あわてるな俺。冷静になれ。これはいわゆる杏のいつものちょっとした毒入りのリップサービスみたいなもんだ。売り言葉に買い言葉ってのがあるように、これはそういった類の台詞に違いない。ここで俺が取り乱しては活路は見いだせないぞ!

 笑顔だ。一目で女をイチコロに出来ると雑誌に書いてあった笑顔を台詞を、毎日練習していたアレをやるしかない。

 顔面の筋肉を意識して操作し、軽く咳払いしてイイ声が出るように調整。

 そして、繰り返し鏡に向かって囁いた台詞を今っ―――!

 

「―――俺は、惚れた女は全力で幸せにする……後悔はさせねえよ」

 

 決まった! 最高だ今のはこれまでで最高の出来だったぞ!

 どうだ、これなら杏も俺にノックアウト―――。

 

「口だけなら何とでも言えるわよ」

「…………あっ、はいすみません……」

 

 戦況―――圧倒的不利。

 孤軍奮闘の末、爆散。

 敗色濃厚。

 

「し……しあわっ、幸せ……に…………っ」

「ちょ、ちょっと椋どうしたの!? あんた顔真っ赤じゃない!」

「うおっ、どうした椋。熱でもあるのか?」

「だ、だだだ大丈夫! なんでもないです、ちょっとボーっとしちゃっただけでそんな具合悪いとか、そういうのじゃないですっ」

 

 突如椋が瞬間湯沸し器みたいに見えない湯気を放出して目を回し始めた。

 杏が気づいて慌てて椋の容態を確認するが、たいしたことは無く少し興奮してしまっただけらしい。何が原因かは、本人が頑なに口を閉ざしているから分からなかった。

 

 さて、そしていよいよお待ちかね。メインイベントである杏の手料理が公開された。

 

「おお、後光が……後光がさしておるっ!」

「大袈裟ねぇ。説明すると、こっちのがあたしでこっちが椋が“頑張って”作ったやつだから……分かってるわよね?」

「沢山作ったから、いっぱい食べてください」

 

 素晴らしい、これがこの世に現存する宝箱というやつなのか。

 キラキラと輝く宝石の如く俺の網膜に焼付け、記憶中枢の奥深くに刻み込まれる至高の料理。

 後出しが有利という法則は現代にも根強くあったのか。これはもはやただの料理ではない、いくら金を積もうとも手に入らない“愛情”という名の不思議調味料がふんだんに使われているに違いない。

 箸を持つ手が震える。

 この宝に俺のような薄汚い人間風情が手を付けてよいものなのかと、葛藤が生まれ行動を制限し続けている。だが、これを食べないことには、俺はいつまで経っても杏の“お友達”のままだ。

 ならばするべき事は一つしか無いだろう。

 手を合わせ、今日の為に犠牲となった食材に……そして、杏と椋に感謝する為に―――。

 

「……いただきます」

「ちゃんと味の感想も言うのよ。ね、椋?」

「う、うん……榊原君、召し上がってください」

 

 まずは杏の料理から。

 オーソドックスに卵焼きからいただくとしよう。

 

「あーん…………」

「……どう? 味付けが濃いとか薄いとか、甘いとかしょっぱいってのはある?」

 

 興味深そうに俺の顔色を伺い質問してきた杏は、ジーっとこっちを見つめている。ふっ、愛い奴よ。そんなに俺のことが気になるのかい?

 心の中で杏を愛でつつ、玉子焼きを租借する。

 程よい食感の杏の料理は、まさしく素晴らしい火加減で“きっと”美味しいのだろう。

 

「……うん、美味い! 流石だ杏。まさか料理が美味いだなんて、知らなかった」

「そうよかった。でも、一言余計よ幸希」

「スミマセン」

 

 顔を綻ばせたと思ったら鋭い眼光で睨む杏に、反射的に謝罪し頭を垂れてしまった。恐ろしい、これが条件反射。パブロフか。

 続いて椋の料理に手を伸ばす。

 正直、目的は達してしまったけど、本人のご好意で作ってもらったんだ。無駄には出来ないから、ありがたく感謝しつついただくとする。

 椋の方も杏と似たようなラインナップが詰まっていたので、ここは違いを図るべく同じ玉子焼きを食べよう。ちょっと、焦げ目とかがついてるけどそんなの愛嬌だよね。

 

「んじゃあ、こっちの椋の奴もいただきます」

「は、はいどうぞっ」

 

 上擦った声で答えた椋の頬はいまだ赤く染まったまま。大丈夫なんだろうか、本当に風邪とかじゃないよな。古河も昨日から風邪だし。

 気のせいじゃないレベルで椋からの強い視線を感じつつ、食べ始めると、見た目どおり口の中ではジャリジャリと焦げの食感と、バリバリとして多分卵の殻の食感がした。

 これは、適当なことを言うと杏が何か言ってきそうな予感がする。でも杏だって妹には甘いから、もしかしたら俺が美味いと言えばそれで済むかも。

 

「……うむ、少し焦げと殻の味がするけど、いけるぜこの味。俺は好きだな」

 

 必殺『個人的に好きだ』を発動。

 これは決して客観的ではなく、安全牌として自分は好きだけど、他の人がどう思うかは知らんよという、なんとも投げっぱなしな解答である。

 当然これを使用すれば疑うようなことは無く、素直に安心をご提供出来るという優れものだ。ついでに、これは岡崎が扱き下ろしていた雑誌に書いてあった手段である。

 

「あう、殻……入っちゃってたんだ」

「りょ、椋……でもほら、幸希は好きだって言ってたし、これから頑張ればいいじゃない? ねっ? 幸希もそう思うでしょ……?」

「おう、料理なんて積み重ねだ。これからもっと上達するさ、俺が保障しよう!」

 

 なんてこった。フォローよりも失敗点の方に意識が集中してしまうとは、これは誤算だった。

 杏の必死のフォローと、脅迫するような眼光で俺を炊きつけ咄嗟に出た言葉を聞いて、なんとか椋の涙腺は収まったが、これは今後の対応を考え直さなくてはいけないな。

 こうして俺のドキワク胸キュン昼食会は幕を閉じた訳だが……まだ俺をひっくり返すような事件が残っていた。

 

 

 ※

 

 

 昼休みも後数分というところで弁当の片付けも終わった俺達は、未だ中庭で食後の休憩を取っていた。

 杏と一緒の昼を満喫し(しかも岡崎抜きで)杏の手料理を食べることに成功した俺は、今や人生で一番幸福をかみ締めている時に―――それは起こった。

 

「―――じゃあ、次はいつにしようか?」

「……次?」

 

 次って何だ?

 何を続けるって言うんだ?

 脳内に満開の花畑が量産されて思考が幼児レベルまで低下していた俺には、杏が何を言っているのかが分からなかった。

 間抜けにそのまま聞き返したら、杏は「何言ってんだコイツ」って顔をして透き通るような声でこう言った。

 

「だから、次のお弁当品評会の事よ。いつにする? あたしは明日でも大丈夫だけど、椋も平気よね?」

「え、うん。特に用事も無いから平気だよ」

「えっ? はっ? 明日?」

 

 何これ。もしかして、この幸せが連チャンで続いちゃったりするわけ?

 おいおい、そりゃいくらなんでも都合が良過ぎってもんじゃ、

 

「じゃあ決定。幸希、明日もやるからちゃんと明日も来るのよ? あ、幸希は無理して作ってこなくてもいいからね、明日はあたし達に任せなさい!」

「分かった。それじゃあ、明日は作らずに行くわ……」

 

 神様……あんた最高や。

 まさかこんな気の利いたイベントが定期イベントとなるなんて、一体誰が仕組んだんだ。まあいいさ、俺はこの期間に―――杏を落とす!

 心新たに意気込む俺だったが、椋が思わぬ爆弾発言をし始めた。

 

「それじゃあ―――もう一人、岡崎君も呼んだほうが良いんじゃないかな? それなら人数がぴったりになるし、ねっお姉ちゃん?」

 

 

 

 

 ……………………………………へっ?

 

 

 

 

「えっ? あ、そ、そうよね。幸希一人が男ってのも心細いでしょ。じゃあ幸希―――明日は朋也も誘ってきなよ」

「…………ハイ、ワカリマシタ」

 

 …………嘘だと言ってよ椋ちん。

 茫然自失となった俺を夢から現実へと呼び起こすように、学校の昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 それは同時に、俺の幸福なひと時と思い出が終わりを告げる合図にもなった。

 …………チクショウ。




てなわけで幸希の念願叶ったけど、現状は変わらないままな第八回。
彼はいつになったら報われるのか。
それとも懲りてしまうのか。

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