CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第五回:風の少女

 真面目な奴ほど失敗には弱いらしい。

 今はもう顔も思い出したくない程憎らしい男の言葉だが、たまに吐く言葉には反骨心を持ちながらも脳内に色濃く残る物が多かった。その結果、俺という人間は厭に歪んだ性格になってしまったが、それ自体に後悔はない。

 男が言うには、真面目な人間とはそれ以外の人間に対して心の何処かで、真面目な分だけ自分の方が勝っていると思う節があるらしい。それ故に失敗という烙印を嫌い、己の純白な人生に泥が被る事が何よりも苦痛を感じるのだ。汚れたことの無い者は、その汚れの落とし方を知らないからそれ以降立ち直る事が出来る人が少ないらしい。それは裏返せば失敗が怖いから真面目になるという事だと思う。

 なんとも偏見に満ち満ちた言い分ではあるが、まだ社会や大人をよく知らなかった自分からすれば、この男の言葉は世界の全てだった。教えられた事を嘘だという疑惑すら持たず、鵜呑みにしてしまう自分にも疑問を抱かなかった。

 洗脳といえばわかりやすく、でもそれは俺にとっての“教育”だった。

 だから俺は真面目には生きられなかった。ふとした失敗で自分が瓦解してしまうのが怖かったから。

 唯一真面目に取り組んでいたサッカーさえも、簡単に捨ててしまった。

 不真面目に生きてきた今の俺は、あの男の望んだ人間になってしまったのだろうか。今ではもうその答えを訊くことも出来ない。

 

「真面目な人は弱い……だけどそれは、己を曲げない尊い信念の強さだと……思うけどね」

 

 呟いたところで誰の耳にもそれは届かない。

 静謐な空気を醸し出す寂れた学校の廊下は、しばしの余暇を満喫するかの如く俺の呟きに無視を決め込んで霧散させた。

 『古河秋生』という大人な風貌のくせに子供っぽい、それでいて決める所はちゃんと決めるという、ハードボイルドの上っ面だけを模したような男と公園で別れてから学校に到着したのは良かったんだが。生憎と今は四時間目の授業中だった。

 当然の事ながら、そんな授業中に俺みたいな“健康優良不良少年”が教室に入ったらクラスのみんなは絶対良い顔をしない。

 杏に振り向いてもらう為に読んだ雑誌では、さりげない気配りが出来ると良し、と書いてあった。この前は裏目だったけど、今回は間違ってはいない筈。態々受けるつもりもない授業を中断させても、誰も得をしないんだからここは素直に昼休みを待った方が良いだろう。

 しょうがないからどこかの空き教室にでも行って、惰眠を貪ろう。

 

 我がクラスの教室に向かっていた足を止め、踵を返して人が居なさそうな教室を探して俺は彷徨った。

 五分ぐらい歩いた時だろうか。人の気配が薄くなった廊下を歩いていると、微かな、物音よりも小さい声のようなものが耳に聞こえてきた。

 始めは気のせいだろうと思っていたが、歩き進むと次第にその声はちゃんと聞こえるようになってきた。

 声はこの先の教室から聞こえる。

 俺以外にもサボりの生徒がいたのか?

 気になった俺は声のする場所―――空き教室らしき所の扉を開けた。

 

「………………」

 

 そこには一人の少女が最後尾窓際の席に佇んでいた。

 腰ぐらいまで伸びた深い緑混じりの黒髪に腰辺りに大きなリボンが結んであり、小学生なのではと思える程幼い容姿の少女が、俯いて垂れた前髪の隙間から覗かせる瞳は何かを凝視している。

 一心不乱なその眼差しは手元に持っている木の彫刻だけを見ていて、俺が扉を開けた音にも、入ってきた事にも気づいていない。

 何を彫ってるんだ? と思って少女が俺の存在に気が付いていないのを良い事に、図々しく距離を詰めてみた。

 

「…………ほう……」

 

 一本の彫刻刀で顔くらいの大きさの木をひたすら彫っているが、これは……。

 

「……星……いや、ヒトデ……なのか?」

「…………っ!?」

 

 直観で感じたままを言ってみたら、少女の肩がビクンと跳ね、眠たげな意思の無い瞳が俺を見た。

 

 背筋が凍った―――。

 

 恐怖などではない。意思の無いその瞳を見た瞬間……あまりの存在の儚さ、危うさに震えたのだ。一度(ひとたび)目を擦って見直したら居なくなっているような、蜃気楼を目の当たりにしたような陽炎のような存在に見えてしまった。

 陸に上がった魚の如く呼吸の仕方を忘れてしまい、息がつまる思いがした。その瞬間―――。

 

「わぁぁぁああああーーー!」

 

 少女が悲鳴を上げて座っていた椅子から立ち、脱兎の如く教室の隅まで逃げて行った。猫に追い詰められたネズミのように、隅で固まり俺に怯えるような視線を向けている。

 悲鳴のおかげで俺の正体不明の悪寒は去ったが、人を見るなり喚いて逃げるとは失礼すぎる。不良なんて言われてしまっている俺に対して礼を求めるのもお門違いだろうが、だとしても少々傷ついたぞ。そんなに俺の顔って怖いのか?

 こんな場面を教師が見たら、完璧に俺の所為になってしまう。きっとあらぬ疑いを掛けて俺をまた停学まで持っていくだろう。それだけは避けたい。そうなったら俺は杏と話すどころか、会う事さえ儘ならず、帰りたくもない家に監禁状態になってしまう。

 ここは穏便に、出来るだけ優しく懐柔するのか吉!

 そうと決まればやることは決まっている。

 

「悪い悪い。一体何をやっているのか気になったもんだから……それ、もしかしてヒトデ……だよな?」

「はっ……もしかして、ヒトデ協会の人でしょうか?」

 

 なんだよそれ……知らない。

 でも、さっきまで怯えた様子だった少女の強張った表情が若干だが緩んできたような気がする。ヒトデらしき彫刻を握る手も、強く握って赤くなっていた指先が元の色に戻っている。どうやら警戒は解いたようだ。

 ヒトデ協会なる謎の存在のおかげか知らんが、今はそれを利用させてもらおう。

 

「ああそうだ、お前の彫刻が非常に芸術的だったからな。協会員としてはそれを見過ごせないから、見に来たんだ」

 

 我ながら苦しい言い訳だ。

 こんな行き当たりばったりな言い訳で騙し通せるほど世界ってのは甘く―――。

 

「やっぱりそうですかっ、風子感激です!」

 

 ―――とんだ甘ちゃんだったらしい。

 自分を『風子』と称した少女……この際風子でいいかもしれない。なんか椋とは違って、この少女にはさしていきなり名指しする抵抗感が感じられない。なんだろう、見た目?

 ヒトデ協会っていうやつの全貌が全く分からないままに身分を偽ったが、それが功を成し風子は俺に対する警戒心を完全に解いたようだ。証拠に俺を見る瞳が違う。

 

「まさかこんな所で協会の人と会えるなんて、風子はついてますっ。毎日ヒトデを彫った甲斐がありました」

「……世界中のヒトデを愛する集団、通称『ヒトデ協会』はお前のヒトデに対する愛情を知り、今回の訪問に参った次第だ。風子の持つそのヒトデは、どうして彫っているんだ?」

 

 こうなったらやぶれかぶれだ。一度吐いた嘘には責任を持つのが俺だ。なってやろうじゃないか、ヒトデ協会の人に!

 このさっきからやけにテンションが上昇している風子に対する、せめてもの娯楽となるように。成り行きだが、なんか今俺、楽しんでるな。

 

「どうして風子の名前を知ってるんですか? はっ、もしかして……風子はもう、ヒトデ協会の人に監視を!?」

「違う違う。さっき自分で自分の事をそう言ってただろうが」

「そうでした、風子うっかりしてました。ヒトデ協会の人に会えた感激のあまり、ちょっと自分を見失ってました」

 

 どうしてそこまで協会に歓喜するのか知らんが、風子は一度ヒトデの彫刻を持った手を胸に当て深呼吸を初めた。

 一回、二回、とそこまでは順調に行っていたのに……三回目の時に、それは起きた―――。

 

「はぁぁ…………っ」

「何惚けてんだ? おい、ちょっと! もしもーし!」

 

 何度呼びかけても返事も無ければ反応もしない。深呼吸をする姿勢を保ったまま風子は恍惚の表情を浮かべ、心此処に在らずといった感じになってしまった。

 甘いため息が小さな口から漏れ、触れれば弾力のありそうなモチモチの頬が上気している。一言でこの状態を表すのであれば、トリップだ。

 うーん、どうにか元に戻せないだろうか。このまま帰っても良いんだが、あまり廊下とかを不用心に歩いてるといつ教師とバッタリ会うか分からない。となると、選択肢は二つ。

 一、何とかしてこの状態を戻して懐柔。

 二、放置したまま寝る。

 

「…………二は楽だけど、一の方が面白いな」

 

 よし一にしよう。退屈は敵だ。惰眠は良くても退屈は俺を窒息させる。よって悪戯決定なわけなんだが、多分年下の、それも女子に下手な悪戯は出来ない。俺は杏に操を立てているから、そこまで露骨にエロい事は出来ない清らかかつ一途な人間なんだ。

 出来る事は限られている。俺は制服の裏地の、改造していくつもの収納スペースを作った所から色んな物を取り出した。

 『十徳ナイフ』『ガム』『飴ちゃん』『ライター』『輪ゴム』『洗濯バサミ』『携帯型砥石』『瞬間接着剤』『煙玉』『催涙スプレー』『爆竹』『小型打ち上げ花火』『マグネシウムテープ』『自作ピッキングツール』

 うむ、実に偏ったラインナップというか、カオスと言えばいいのか。とにかくいろんな物が詰まっていた。

 この前の不良との戦いの時、岡崎が俺の喧嘩の仕方をしていると言っていたが……春原が卑怯と評したが、それが間違ってはいないっていう証拠の品々ばかりが揃っていた。出来る限りの事をして、何としても勝つ。それが俺のモットー。卑怯と言いたきゃ好きに呼べばいい。ただし、それなりの報復は覚悟してもらいたい。

 

「どれを見ても、今の場面には適さない物ばかりだな……」

 

 参った。悪戯を決行したのに、それにふさわしいモノを今の俺は持ち合わせていない。クソッ、俺には無理だっていう神のお告げなのか?

 無力感に身を打ちひしがれていると、風子の手元に、気になる物があるのに気が付いた。

 

「そうだよ……もうしょうがないからコレにしよう!」

 

 風子が右手に―――ヒトデを持っていない方の彫刻刀を持っている手に触れる。ふにっとした擬音が出そうなほど柔らかい、赤ん坊のような手から優しく彫刻刀を取り上げる。

 取った際、視界の端に映った痛々しそうな包帯を巻いた右手を見て、俺は振り返り机に向かった。

 彫刻刀の刃はさっき見た通り、やっぱり欠けていた。そのせいで風子の手は傷ついていたんだ。こんな状態の刃じゃまともに木を彫る事も出来ないだろう。

 俺はさっき制服に仕舞った『携帯型砥石』を再び取り出して彫刻刀を研ぎ始めた。

 水をつけて刃を当て、リズム良く前後に動かして研いでいく。こういった細かい作業から何まで、さして苦も無く出来てしまうのが自慢である俺はあっという間に新品同様に仕上げて見せた。

 

「まぁ、こんなもんだろう」

 

 当然刃がむき出しのこのままじゃ危険なので、さっきまで風子が座ってた机にあった木片を彫り『瞬間接着剤』を使ってくっ付け、簡易的な彫刻刀のキャップを作った。

 これを被せて風子も手に戻してやる。

 

「おい風子、さっさと起きないとヒトデ祭りが始まっちまうぞ!」

「…………はっ」

 

 思いつきで言ったヒトデ祭りなる架空の祭りに反応し風子は我に返った。……扱い易過ぎてちょっと危ないぞこの女。絶対いつか悪い男に騙される……今がそうか。

 

「ヒトデ祭りはどうなりましたっ? というか、ヒトデ祭りってどんなお祭りですかっ?」

「何言ってるんだ? それより、右手を見てみろ」

「右手……あっ、なんか被ってます」

 

 なんかその単語、嫌ですっ。

 言われて彫刻刀の変化に気が付いた風子は驚き、俺お手製のキャップを取り外した。取って見れば、そこには光を反射させるほどに綺麗になった刃が顔を出していた。

 

「わぁ……いつの間にか刃が綺麗になってます。もしかして、協会の人がやってくれたんですか?」

「刃が欠けたままじゃやりずらいだろ? 今度からは手を切らないよう気を付けてヒトデを作るんだ。というか、協会の人って名前じゃないぞ俺は」

「はい、ありがとうございます。えっと……風子、あなたのお名前を知らないです」

 

 ぱぁっと花が咲いたような笑顔を浮かべ感謝された。

 協会の人という呼称は、俺にしか通用しない。いつか他の人の前で呼ばれたら説明をしなくちゃならないから、それを省くためにもここで名前を教えておいた方が良いだろう。

 なんかもう、既に信頼しきったような表情を浮かべる風子は、俺の答えを今か今かと待っていた。

 

「俺は榊原幸希。幸せという字に希望の希だ……こんどからはそう呼んでくれ」

「それでは榊原さん……これをどうぞ!」

「んっ?」

 

 手渡されたのはさっきまで風子が真剣に彫っていたヒトデの彫刻だった。

 理由は知らないが、あんなに真面目に彫っていた物をそう易々と渡してしまっても良いんだろうか。

 

「このヒトデはお前の大事な物じゃないのか?」

「大事です。大好きです。ですから、これを差し上げますので代わりに風子のお姉ちゃんの結婚式に出席して欲しいんです」

「お姉ちゃん……?」

 

 冗談で言っている風ではなかった。少なくとも風子の表情はふざけているようではない。

 姉の結婚式とは言っても……。

 

「俺は風子の姉貴を知らないぞ」

「お姉ちゃんは、この学校で三年前まで美術の先生をしていました」

「三年って、それじゃあ知ってる奴はみんな卒業しちまってるぞ」

「そうですか…………」

 

 姉を知る人が居ないと分かるや否や、風子は残念そうに眉を顰め気落ちしてしまった。なんだろう、見た目が小学生ぐらいだからか、罪悪感が半端じゃない。

 三年前って事は、その教師を知っているのは今年の三月に卒業した連中が最後だ。三年に上がったばかりの俺が知るわけがない。それこそ、ダブってる奴しか……。

 ―――いるじゃん一人。

 

「風子。お前、今日の放課後は何してる?」

「どうしてそんな事訊くんですか? まさかっ、風子をヒトデ協会の本部まで―――」

「お前の姉貴を知ってる奴に心当たりがある。そいつを放課後連れて来てやる」

「本当ですかっ!?」

 

 ヒトデ協会の時点で暗い雰囲気はなくなったが、姉を知っている人を連れてくるといった瞬間の風子は、とても嬉しそうで庇護欲の湧く顔をしていた。杏一筋だけどな。

 心当たりは一人いる……古河だ。

 あの子は岡崎がいう事が本当だったなら一年留年している唯一の人だ。もしかしたら知っているかもしれない。見るからに真面目で大人しい印象の彼女だ、多分教師の事は顔と名前ぐらいは覚えているだろう。

 古河について思案していると、ちょうど四時間目を終えるチャイムが鳴りだした。この音ってウェストミンスター・チャイムって言うんだぜ。知らなかったろ。

 

「ああ、多分だけどな。少なくとも俺よりは知っている可能性はある」

「協会の人が言うなら間違いありません。では風子、放課後はここで待ってます」

「わかった。それじゃあ、俺はそろそろ教室に戻るけど、お前はどうする? というか、何年生だ?」

 

 質問を投げかけたら、風子はばつが悪そうな顔をして俯いてしまった。なんだ、踏んじゃいけない地雷でも踏んでしまったのか?

 人間訊いてはいけないもの、触れてはならない領域を持っているが、風子にとっては“それ”が“これ”なんだろう。

 

「……風子…………」

「やっぱりいいや、言わなくていい。俺は放課後にまた来るから、その時ここにいてくれたらそれでいい。じゃあな」

「……はい。風子、ちゃんと待ってます」

 

 触らぬ神に祟り無しだ。余計な詮索は大体面倒なもので、映画なんかじゃ早死にの原因の一つでもある。春原とは違って賢く賢しい俺は藪を突くような真似はしない。

 風子に背を向け教室を去る。きっとまたアイツはヒトデを作り始めるんだろう。手に持った風子からの贈り物を眺めながら、自分の教室に向けて歩く。

 椋は今日も教室にいるんだろうか。きっとあのお人好しな性格の彼女の事だ、俺が昨日勝手に帰ったことに腹など立てず、逆に心配をされてしまうかも。杏には辞典攻撃が待っているかもしれないけど。

 辞典の恐ろしさを考えると教室に行くのが嫌になってくるが、岡崎に古河の事を訊かないといけないからそうもいかない。中庭と演劇部の部室の二回しか会ったことの無い俺は古河渚が何組なのか知らないからだ。

 放課後まではまだ時間はあるから、闇雲に探しても見つかるだろうが、どんな説明をして連れ出せばいいのか思いつかない。第一、岡崎の彼女候補の彼女に変な警戒心を持たれたくない。俺が原因で岡崎との仲に不和が生じたらたまったもんじゃない。だから、岡崎の協力は必要不可欠なんだ。ついでに二人が更に仲良くなればいいのだが、そこまで上手くはいかないだろう。

 

「というか、なんで俺はあって間もない女子の手伝いをしてんだ……?」

 

 完全な独り言だから返事なんか期待してない。きたら逆にびっくりする。

 空き教室で偶然会っただけの風子に、なんで俺は手助けをしているんだろう。成り行きの嘘に対する罪悪感? いや、ありえない。あの程度の事で悪いと思うほど俺は人間が出来てない。杏関連ならば落ち込んだだろうが、ほとんどあったばかりの人に感情移入をするわけがない。

 原因ではなく、きっかけなら思い当たるな。風子を見た瞬間の印象は凄まじかった。もしかしたらあれが俺の興味を引いたのかもしれない。

 あれこれと風子について考えていると教室まで着いた。というか、廊下に目的の人物と会いたくない人物の二人がセットだった。最悪だ。

 

「アンタ、あたしを停学にしたいの? バイク通学は禁止って決まってるでしょ?」

「なんだ、杏はバイク通学なのか?」

「ちがっ……って、幸希っ!?」

 

 教室前の廊下で杏が岡崎を壁に追いやって口を手で塞いでいた。どうせ岡崎が今言っていたバイクについて漏らしそうになったんだろう。……くそぅかなり羨しい。俺と人生変わりやがれ。

 

「よう、昼間っから随分面白そうな事やってるな。俺も混ぜろよ」

「アンタねぇ、昨日急に帰ったりして何今更何でもないような顔してんのよ? 椋が死ぬほど心配してたのよ!?」

「よう榊原。今日はまた随分遅いな。もう来ないかと思ってたぜ」

「朋也はちょっと黙ってなさい。……さて幸希、どういうことなのかきっちり、椋に説明してもらうわよ」

 

 妹に関しては自分以上に感情を増幅させる杏が、鬼のような眼光で俺を見ていた。

 岡崎は俺の介入によって杏の注意から外れ、これはラッキーと言った顔をしてそそくさと逃げるように教室へと戻っていった。こいつは今凄く贅沢な思いをしていたのに、何故それをこうも簡単に捨てられるんだ。いや、俺にとってはそっちの方が好都合なんだが。

 

「悪かった、昨日は急用があったんだ。家の事情でな……それを伝えようかと思ったけど、なんか深刻そうな話を二人がしてたから、声をかけられなくてな」

「へっ? ちょ、ちょっと待って……幸希……もしかしてアンタ、その話、聞こえてたり……」

「ゲーセンの中じゃ、周りの音が五月蠅くてそんなの聞こえるわけないだろ?」

 

 嘘は言っていない。本当に俺はあの時家の事情もあった。あの時間には帰らないと、そろそろ危なくなっていたから。時間が遅いのが関係しているわけではないが、そろそろ面倒を見なくてはいけなかったから。ただ一つ、聞こえなかったのは嘘だ。どこであろうと俺が杏の声を聞き逃すことはありえないからだ。

 当の本人は焦ったような顔を安堵させ、ほっと息を吐いていた。

 

「幸希の言い分は分かったわ。確かに、家の事情じゃ仕方ないわね。でも、ホント椋はアンタの事心配して大変だったのよ? 怪我したんじゃないかとか、攫われたんじゃ、とかありえそうにない事まで」

「それについては後で椋にも謝るけど、少し大げさすぎやしないか? なんで椋が、俺なんかを心配したって何の得も無いぞ。精々変態に絡まれた時に一回助けてやるぐらいの特典しか―――」

 

 言いかけて、でもその声は教室からの岡崎の声によって止まった。

 

『みんなー! 聴いてくれ! E組の藤林杏って……バイなんだぜ!!』

 

 まさかのカミングアウト。マジかよ杏さん。嘘だよね? 男どころか女もありなんて、それじゃあ俺の勝ち目が……。

 真偽を確かめるべく杏の方を見ると、恐ろしい形相で固まっていた。が、それもすぐに解けて教室へと一目散に飛んで行った。と思ったらあっという間にまた岡崎を引っ張って戻ってきた。俺は杏を引っ張って行きたい派だが、たまには引っ張られるのも良いかもしれない……。

 

「あ、ん、た、ね、え……!」

 

 ぎりぎりと音を立てて岡崎の着ている制服の襟が悲鳴を上げている。杏が締め上げているからだ。それにしても、凄い力だ。ギャグの面においては杏に勝つ方法はないだろうな。

 感慨深く頷いていると、教室の出入り口から今度は椋が出てきた。

 

「お姉ちゃ……今の話……」

「アンタも信じない! バイクよバイク! 原付の事!」

 

 なんだそういう事か。バイってのはバイクの事だったのね。俺はてっきり本当にバイなのかと、考えてみれば岡崎の事が好きなのに、女も好きってのはおかしい。……結論付けて気分が滅入るのは初めての体験だ。

 

「あ、あれ、榊原……くんっ?」

「おう榊原君だ。どうした泣きそうな顔して、岡崎に苛められたか?」

「んなわけねぇだろ! お前が俺をどう思ってんのかよく分かったよ……」

 

 冗談に決まってるだろうが。ま、コイツも分かって言ってるんだろうけど。

 目じりに涙を浮かべている椋を見ていると、突如横から何かが伸びて来て、俺の首に右脇下を経由して絡みついてきた。……脇腹に幸せな感触!

 

「幸希もいい加減にし、な、さぁーーい!」

「あがががが……し……しぬっ、きょぅ……くる、しい……」

 

 首に腕がかかって締り、腕の関節が極まって、ついでに左足が杏の……見えないけど多分左足で絡まって背筋を伸ばされる。俗に言う『コブラツイスト』ってやつだろう。

 死ぬほど苦しいが、それ以上に幸せな感触がふにふにと俺の脇腹をくすぐっていた。もったいぶらずに言うとそれは胸であり、乳であり神なる果実で禁断で尚且つ知恵を内包し母性があってこれに触れるとどんな男も幼少まで退行してやわらかくてブラの感触がしてそれがまたリアルででもやっぱり苦しくて背骨が悲鳴を上げてるけどおっぱいに勝るものなんかない。……とにかく俺は昇天しそうだった。

 きっと傍から見れば俺の顔はとんでもなく緩んでにやけているだろう。

 交錯する様々な思いの中、俺はとある占いに関して思い出した。

 椋が遅刻するか占った結果。よく覚えてないが、素敵な女性と衝突はしなかった。代わりに変なおっさんに絡まれ野球をやった。あとは、色々あって入院とか言ってた気がしたが、入院どころか死ぬほど幸せな事がありましたよ。椋様ありがとうございます!

 酸素が足りなくなって朦朧としていく意識の中、俺は杏の体の感触を全力で味わい、脳内に深く刻み込んだ。

 

 

 

 

 藤林椋はその日の午前中、気が気ではなかった。

 昨日の放課後、姉の計らいによって決行した憧れと好意を持っている幸希とのデート紛いの帰宅に胸を緊張と感動に膨らませていたが、それは最後に立ち寄ったゲームセンターで一気に下降線を辿ってしまった。

 計り知れないショックを受けた幸希が逃げ出した後、椋と杏は幸希と一緒に彼女が好きな占いのゲームで相性を占おうとしていたのだが、戻ってみれば姿が無い。しかも荷物は自分達がさっきまで居た場所に置いてある。

 これはきっと何かの事件に巻き込まれたのでは、と椋は愕然として当てもなくゲームセンター内で幸希の姿を探し回っていた。勿論、それには杏も同行していた。

 二人の努力虚しく、結果として幸希は見つからず、煮え切らないままに二人は仕方なく家に帰る事にした。あのまま遅くまで探しても、きっと幸希は見つからないだろうし、もし彼が何かの事件に巻き込まれているならきっと警察や救急車が対応する筈、と椋は一縷の望みに賭けていた。何も出来ない無力な自分が、せめて出来る事は祈る事しかない。

 役立たずな自分に嘆いたが、それ以上に幸希の事が心配だった彼女は、夜通し祈り続けた。

 気がつけば椋はそのまま眠ってしまったのか、次に意識を戻った時にはもう雀が朝を告げて鳴いていた頃だった。

 

 その後の椋は浮かない表情のまま学校に通学し、いつもと同じで真面目に授業を受けていたが、どこか心此処に在らずだった。

 授業中何度も幸希が座る席を盗み見ていた。しかし、目当ての人物はそこに座っておらず、隣の誰にやられたか分からないがボロボロになった上になんだかゴミのような、それでいてなんだか饐えた臭いがする陽平が寝ているだけだった。

 そしてそのまま午前中の授業が終わり、昼休みに突入した。

 

 普段からクラスの友人か姉である杏と昼食を共にする椋は、もそもそとたどたどしいゆっくりとした動作で弁当箱を取り出していた。

 その時だっただろうか、朋也が『一ノ瀬ことみ』なる人物について質問をしてきたのだ。その少女は学校でも有名な天才少女だったので、よく聞く話をそのまま朋也に伝えた。そして、ひと悶着起きた。

 突然現れた杏に驚いたかと思ったら、間髪入れずに姉のバイ疑惑が浮上してショックで涙しそうになり、事実を確かめるべく追いかけて廊下に出たら―――待ち望んでいた少年がそこに立っていた。

 

 いつもと変わらず楽しそうな表情を浮かべて朋也と杏の二人のやり取りを見ていた彼を見て、椋の心の不安も一斉に晴れていった。

 だた気がかりだったのが、首を締め上げる杏と被害者である朋也のやり取りを見ながら、一瞬、僅かに幸希の表情に翳りが見えた気が椋にはした。涙の所為で見間違えたのかと思い、見直したら、元の面白い事には全力な少年の笑顔になっていた。

 

「あ、あれ、榊原……くんっ?」

 

 逸る気持ちを抑えて、出来るだけ自然に気が付いた振る舞いをして椋は彼に話しかけた。

 でなければ、もし人目が無ければ自分はきっと彼に向かって飛びついていた。しかし、それはやり過ぎ。いくらなんでも幸希も引いてしまう可能性がある。だから椋は心と体にブレーキを掛けた。

 

「おう榊原君だ。どうした泣きそうな顔して、岡崎に苛められたか?」

 

 何でもないように返事をしてくれて、いつも眺めるだけの笑顔が自分に向いてくれた感動に、椋の胸は反動もあってか早鐘を打つように強く脈打っていた。

 一時はとても心配をしたけれど、今は理由を訊くとか、そんな事は野暮に思えて、それよりもこの思いをしっかり身に染みるまで感じようと思った。が、それも長くは続かなかった―――。

 

「幸希もいい加減にし、な、さぁーーい!」

 

 杏のコブラツイストに苦しむ幸希を見て、最初はあたふたした椋だったが、幸希の表情を見てそれは止まった。

 理解できない疑問に、椋の脳内会議では数多の弁論が飛び交った。

 目の前の光景を見ながら煩悶する。

 

 だけど―――その答えはいつまでも出ることはなかった。




そんなわけで五話でした。

ヒトデって人を惑わす魔性でも備わってるんでしょうか。

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