CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第二十一回:停学明けの午睡

 創立者祭が近づき始め、岡崎朋也はとある心無い男の手によって押し付けられた面倒事に従事する時間が増えていた。

 始めは時間つぶしの一貫としてなあなあで手伝っていた木彫り作業も堂に入り、どう彫刻刀を立てれば巧く削れるのかといった感覚的なものまで習得しつつあった。まったく誇れる要素が見当たらない技能を習得してしまったと、ため息混じりに星形の……いや、ヒトデの彫刻をまた一つ完成させる。

 出来栄えを改めて見返すと――なかなかどうして悪くない。

 

「ふっ、俺もここまで来たか」

 

 自己陶酔がありありと覗える意味ありげで実質空っぽな呟きを残して、再び朋也は作業を再開しようと手をつけられていない四角形の木材を手繰り寄せた。と同時に、視界の端から小さな頭部が映りこんだ。

 

「岡崎さん、やり直しです」

「なんでだっ!?」

 

 自身があっただけに駄目出しをされた朋也は動揺を隠せなかった。

 ありえない……こいつの目には俺が作り上げた傑作が映ってないのか? 朋也はわりと本気で疑惑の目を向けるも、風子は彼の会心の作品を鼻で笑った。――殴りたいと思ってしまった。

 

「ヒトデという愛らしい存在を理解出来てないです。いいですか、まずは目を閉じて最高のヒトデをイメージします。そしたら……」

「そしたら、なんだっていうんだ?」

「…………」

 

 駄目だ、トリップしやがった。

 風子はいつの間にか朋也の作ったヒトデを胸に、毎度の如く恍惚に浸りヒトデ時空へと意識を昇華させていた。

 ということは、別に自分が作った物でも不備は無いじゃないか。朋也は粘り気のある飲み下せない思いを口に含みながら、ある仕返しを思いついた。口端が思わず歪んだ気がした。

 

「なあ、金払うから下の店からジュース貰っていいか?」

 

 視線を渚に向けて呼びかける朋也は、悪戯気な表情を隠さずにそう言った。

 

「良いですけど、喉が渇いてるのでしたらお茶を淹れましょうか?」

「いや、それじゃ意味が無い」

「……意味?」

 

 意味深な笑みを浮かべて朋也は腰を上げる。

 そう、意味が無い。湯呑みに入ったお茶では目的の行為を達成する事は出来ない。いま自分が欲しいのはパック容器の、それも飲み口がストローになっているやつが最適。

 夢想している風子が現実へと帰らない内に出なければ意味が無い。朋也は素早く階下へと降りる。店には煙草を咥えた秋生が客の訪れない入口を退屈そうに眺めながらレジに座っていた。嘘だった。というか座ってるだけで仕事はしていない。目線は手元に落ち、一心不乱に彫刻を彫っている。――仕事をしろと言いたいのをどうにか呑み込む。

 

「なんだ小僧、もう音を上げたのか?」

「あんたこそ音を上げた方がいいぞ、いやマジで」

「けッ、その手に乗るかよ! テメェの安い演技に騙されてやるもんか、俺の方がお前よりも多く作ってやるからな!」

「このオッサンは……」

 

 いや、止そう。それよりも今は風子だ。朋也は勝手に対抗心を燃やす秋生を無視して、店内の一角にある四面ガラスの冷蔵ショーケースの扉を開いた。

 中にはお茶類やミルクなど王道から、少し店主の趣向に天秤が傾いた品まで置いてある。

 

「さて、どれにしようか」

 

 無難では朋也が面白くない。だからといって変化球を利かせすぎれば途中でバレる可能性がある。

 あまり長い事考えていては、そもそもの企てが水泡に帰すかもしれない。朋也は逡巡し棚から“ブルーベリー&アサイーミックスジュース”を取り、彫刻に被りついている秋生の棚にお金を置いて二階へと戻った。

 そんなに時間をかけたつもりはなく、案の定風子は未だ夢の世界へと放蕩していた。

 

「あっ、おかえりなさい岡崎さん」

「おう、悪いがこれからちょっと静かにしててくれないか。繊細な作業をしなきゃならないんだ」

「え? あ、はい、わかりました」

 

 戻ってくるなり唐突に黙れと言われたにも拘らず、渚は微塵も腹を立てず、疑う事もなく朋也の要求を鵜呑みにする。

 素直で良い子なのか、それとも頭の弱いアホの子なのか……。口を噤むだけでなく何故か目も閉じている渚を尻目に、やはりアホかもしれないと評しながら朋也は風子の許へと近寄る。恍惚な面持ちで顔が若干上向きな為、彼女の鼻への狙いが定めやすい。好都合だ。

 思ったより成功率が高そうなことにほくそ笑み、手にあるパックのジュースにストローを差し込む。突き出たストローの飲み口が、朋也の目には拳銃の銃身にも見えた。ブルーベリー&アサイーミックスの暗い筒先が風子の小さな鼻の穴へと向けられる。残弾は充分。しかし発砲は一度限り。失敗は許されない。狙いを定める手が震える。緊張で喉が渇く。ああ、それならコレを飲んでしまえばいいのでは……

 などという葛藤も無く、朋也は風子の穴目掛けて棒を突き刺した。

 

「はぁ~……~~~ッ!? んぐッ、ッくション!」

「ぐあああああああッ!」

 

 盛大に噴出したジュースとそれ以外の風子から生成された液体が朋也の顔面に直撃した。運悪く目に入って染みる。悶絶して顔を抑えて床を転げ回る。

 甘かった! もっと刺した後のパックを潰す力を強くすれば――こいつ相手に躊躇ったのが間違いだった!

 

「けほっ、けほっ……な、なんですか今の? なんか、甘酸っぱいのが鼻に、えほっ」

「お、岡崎さん大丈夫ですかっ!?」

「くそっ! しくじったか……ッ」

 

 朋也の身を案ずる渚に渡された手ぬぐいで顔を拭き、失態に己を叱咤する。

 鼻からジュースを飲ませる芸当はまだ早かったらしい。風子は原因不明の異変に考える余裕も無く咳き込んでいる。どうにかして堰きを止めようとして手を抑えるが、今度は勢いを抑えられずに鼻から不思議なハッピーマテリアルが飛び出した。

 

「ああ、風ちゃんこれで鼻かんでください。ちーん、ですちーんっ」

「ちーんっ!」

 

 鼻汁を垂らしたのを見逃さなかった渚がティッシュを手渡し促した。目を瞑って鼻をかむ辺り、風子はまだ子供だ、とべた付く顔を洗おうと立ち上がった朋也は先の敗北を上塗りしようと隠れて憫笑した。――憐れなのはどっちなのか、考えたくはなかった。

 

 

 ※

 

 

 ――さて、待たせたな……杏。

 

「なあ岡崎……榊原の奴、なんかさっきからおかしくね?」

「いつもどこかおかしいだろ。お前には負けるけどな」

「僕を貶さないと気が済まない奇病にでもかかってるんですかねえあんたッ!」

 

 外野が喧しいな。いまちょうど良い所なんだから、少し黙っててくれないか。俺は明日からようやく学校で会える杏に卒倒しないように、こうして瞑想してるんだから。やはり座禅は良い。明鏡止水の境地が見えてきそうだ。

 

「ヤバいって、胡坐かきながらイカれたみたいな笑い声が漏れてんだけど」

「これをヤバいと思うのか。意外だ……」

「意外って、普通にそう思うでしょこれ見たら」

「普通の人間のつもりだったのかお前。意外だ……」

「チクショー! しまいには僕だってキレるんだかんなッ」

 

 見える。禅の極地が、悟りの境地がすぐそこまで――という所で現実の肉体に衝撃が走った。

 瞬時に実体のある世界へと引き戻された俺は、目と鼻の先まで近づいたあの世界にもうたどり着けない事を直観的に感じた。というか、あのまま行ってしまったら帰って来れない気がする。

 戻って来れたのはありがたいが、それとこれとは別である。誰が俺を攻撃したのか、それを確認して報復しなくてはならない。よって、

 

「良い所で邪魔しやがって!」

「せめて確認ぐらいは――ぶへっ!」

 

 ビンタによる簡易制裁を行った。

 頬を張られた春原は勢いもそのままに横に倒れ、性格通り片付けになってない雑誌のタワーが崩れて生き埋めになった。室内に埃が舞い上がる。

 

「げほっ、少しは掃除ぐらいしたらどうだ? せっかく芽衣が丹念に掃除したのに、あっという間に元通りじゃねえか。ある意味才能あるな」

「ぐっ、ぼ、僕だって初めはそう思って、物を増やさないようにしたさ……だけど」

 

 崩れ落ちて山になった雑誌から起き上がり、忌々しげに呟く春原は肩を震わせている。

 さっきまで小競り合いをしていただろう岡崎は、もう興味が無くなったのか崩れたおかげで下の方に積んであった雑誌を抜き取って読み始めている。こいつのマイペースさは時々、俺より性質が悪いのでは、と思うほど清々しい。

 

「どうしたそんなに震えて、寒いのか? まだ冬には早いぞ。むしろ夏前だ」

「どうみても怒りに震えてるでしょうが、あのさ……考えてみなよ、ここに住んでるのは僕一人だ。だからどう頑張っても数日そこらでこんなに物が増えるわけないでしょ。原因は他にあるんだよ」

「……他に?」

「春原、これ別冊だぞ。確認しないで買ったろ」

 

 撃鉄の落ちる音が聞こえた気がした。間違いなく、それは目の前にいる春原から発せられた。

 茶番が、そして始まった。

 

「どう考えてもてめーらが入り浸って出したゴミをそのままにして帰るのが原因だろうが! あと岡崎、それ分かってて買ったんだよっ」

 

 それから数分、春原は普段の鬱憤を晴らすかの如く怒涛の勢いで俺と岡崎にまくし立てた。

 その後、隣のラグビー部の部屋まで怒声は届いていたらしく、今度は筋骨隆々な男共の怒りに触れ春原が廊下まで引きずられ、美佐枝さんが出てくるまでがセットになって終わった。久し振りに笑える日常が戻ってきた気がして、俺はどこか安心していた。あと、俺たちが出したゴミは分かる限りで纏めてみたが、全体の一割にも満たなかった。

 

 

 男だらけのスクラムから解放された春原は身体の節々が痛むのか、覚束ない足取りで部屋に戻ってくるとそのままベッドへと身を投げた。すすり泣く声が聞こえる気がするが、流石に可哀相なので聞かなかった振りをしてやろう。

 小腹が空いたので懐を弄り何かないか探していると、岡崎が半眼でこちらを見ていた。

 

「ん、なんだ? 食い物が欲しいならやらんぞ、自分で買ってきてくれ」

「これが物欲しそうにしている奴の目だと思うか?」

 

 想像以上になにかを根に持っているらしく、遊び心のない問いかけの声は一段とトーンが低い。とは言われても、最近は特にこれと言った事件を起こした覚えもない。岡崎にここまで責めるように言われるような、とんでもない事をしたのだろうか。

 

「悪いが覚えがないな、気のせいじゃないのか?」

「察しがいいのは良い事だが、致命的なまでに無責任な男なお前」

 

 呆れたように深い溜息をつくと纏っていた雰囲気が弛緩し、いつものゆるふわ平穏空間に立ち戻った。しかし無責任? よく言われる言葉だが、本当に覚えがない。

 岡崎は首を傾げる俺を見て察したのか、読んでいた別冊雑誌をテーブルに置いて身体を向ける。

 

「風子だよ、伊吹風子。今日も古河の家で彫刻を作らされてたんだ。おかげでっ……俺は顔面にジュースを浴びて目を痛めた」

「どんな因果関係があってそうなるんだよ、完全に言いがかりだろソレ」

「正直、後半は私怨だ。だけど前にも言った気がするが、風子を押し付けたお前のせいで最近の俺は毎日のように彫刻を彫っては配る風子の手伝いばかりだ」

 

 熱弁する岡崎は興が乗ったのか握り拳を作った。その手には所々、絆創膏を張っており言っていることが本当なのだという説得力が内包されている。とは言っても、絵面は非常にシュールだ。こみ上げる笑いをこらえるのに大変だった。

 確かに、言うとおり風子をけしかけたのは俺だ。しかし、それにしても岡崎に選択の余地がなかったわけではない。見捨てることだって出来た筈だ。なのにこいつはそれをせず、律儀にも付き合っているらしい。

 誰の為に? 風子の為、とは思えない。なあなあで付き合ってるならそろそろ飽きて放り出す頃だ。なら残っているのは……

 

「古河の家に通う理由が出来て良いじゃんか、都合の良い口実だろ」

「……お前には俺がそんな風に見えるのか?」

「今のところ」

 

 というかそうなってくれなきゃ困る。杏はこいつが好きなんだから、俺の恋路の為にもさっさと進路を決めてもらいたい。罷り間違って杏に惚れてしまった日には、瞬殺されてしまう。勿論、俺がそのショックで。

 返答に納得が行かなかったのか、岡崎はやや落胆気味に溜息をつく。

 

「忘れてないか? 俺はあいつの、演劇部復興の為に手伝ってるだけだ」

「ああ……」

 

 そういえばそんな目的があったな。最近色々と横道にそれまくって、挙句に杏に俺の家までバレたショックですっかり忘れていた。あ、思い出したらへこんできた。あれのせいで間違いなく引かれたろ俺。好感度とかそう言うレベルじゃなく、友達付き合いを考え直されるレベルだろあれ。明日からようやく停学が明けるってのに……会わす顔がない。

 

「ちょっとまて、そんなに落ち込む話じゃないだろ。なんでそこまで落ち込む?」

「いや、完全に別件だ。もう明日から学校行きたくない」

 

 今になって怖くなってきた。そうだよ、教室に引きこもっても妹の椋が居る限り杏は顔出すだろ。そこであからさまに無視……とまではいかなくとも余所余所しかったら死ねる自身ある。教室の窓から飛んで、頭から着地すれば死ねるよな。

 

「明日から行きたくないっていうか、明日から行けるんだろ、お前の場合」

「だから行きたくないんだよ……ああ、どうしよう、きっと校門に入って会ったりでもしたら無視されたり、教室でも無視されたり逃げられたりしたら」

「いじめられっ子か。校内で最もその存在から遠いお前が、なにをそんなに怯えてんだよ」

 

 言えるわけないだろ。というかそもそも、言っても信じてくれないかもしれない。

 

「決めた、明日から俺……資料室で授業受けるわ」

「よっぽど特別待遇なあんた。資料室でどうやって授業受けるつもりだよ。ことみじゃあるまいし」

 

 ……ことみ? 誰だそれ。まあいいや。

 

「その点は抜かりない、有紀寧が教えてくれる筈だ。あいつならきっと」

「後輩になにを期待してんだ、三年の勉強を二年が出来るわけないだろ。どう考えても無理があるだろ」

「それでも有紀寧なら、彼女ならきっとやり遂げる」

「ないだろ……」

 

 荒唐無稽過ぎたのだろうか、岡崎は額に手を当てて項垂れている。

 結局、どうあがいても時は刻まれ続ける。明日からが憂鬱になって逃避の気持ちから窓の外に視線を投げると、空の色合いはすっかり夜闇に塗りつぶされていた。それだけの時間があっという間に過ぎてしまったらしい。

 今日はバイトもないから、家に帰ってあの人の日課に付き合って食事を作らなくちゃならない。杏の件とは違った意味で考えると憂鬱な気分になってくる。

 

「なあ岡崎」

「……なんだよ、もう好きに資料室にでも入り浸ればいいだろ。どうせ学校じゃ不良扱いされてるんだ、今更気にする事も無いだろ」

「じゃなくて、お前……家に帰りたいって、思う事あるか?」

「…………」

 

 狭い室内に沈黙が広がった。春原も、あのまま眠ってしまったのか何も言わない。なんて返すのか気になって岡崎の顔を見ると、名状し難い色々な感情が綯交ぜになった面持ちで、読み取ることは出来ない。

 思えば岡崎にこういった話を持ちかけたのは初めてのことだった。これまでも冗談交じりに色々と言ったりやったりしてきたが、この一線を越える事だけは無かった。そして、その事に対する戒めが緩んでしまう程に、どうやら俺は杏にバレた事が堪えていたらしい。

 長い沈黙がどれだけ続いただろうか。数分、いやもしかしたら数十秒も経っていないかもしれない。刹那が永遠まで間延びした中で、岡崎はようやく重たい口を開いた。

 

「さあな、考えた事ないから分からねえ」

「そっか……悪いな、変な事訊いたわ。もう二度と言わねえから安心してくれ」

 

 俺にしては珍しく男相手に頭を下げて、暗澹たる思いが澱のように沈殿して重くなった腰を上げた。こんな事で、この心地よい空間を台無しにはしたくなかったから。三歩歩いたら忘れたいぐらいに。

 手荷物なんてあるわけもなく手ぶらで扉まで向かうと、背中から俺を呼ぶ声が投げられた。

 

「仕返しってわけじゃないが、俺も訊いていいか? それであいこにしてやるから」

「いいぞ、なんだ?」

 

 一拍、岡崎が息を呑んだ。予感めいた、或いは必然なのかもしれない未来を幻視して、脊髄に氷水を流し込まれるような感覚が奔る。

 

「お前が毎日作ってるその怪我、本当に喧嘩の傷か?」

「――言ったろ、俺には敵が居るんだよ」

 

 どんなに蹴っても殴っても、決して死ぬことも消える事もない敵が……

 

「そっか、じゃこれであいこな」

「ああ、そんじゃ明日、学校で昼頃に会おう」

 

 いつも通りに答えた筈の返答に、なぜだか岡崎は吹き出した。

 

「変なこと言ったか俺」

「昼になってようやく来るのは、こっちの怪奇布団の方だろ」

「言うに事欠いて、誰が歩く怪奇現象だって!?」

 

 やっぱ起きてたのか春原。

 笑いながら指差す岡崎に、毛布に包まったまま飛び上がった春原が不満げな顔を向けている。いつものアホみたいな光景だ。

 

「な、この顔は間違いなく複雑怪奇だろ」

「確かに……目が二つ付いてる」

「それ当たり前っすよねぇ!? 逆に二つ無かったら化けモンだから、化けモンの皮被った人だよッ!」

「最後、人に戻ってるぞ」

 

 途端、冷静に岡崎がツッコんだ。

 このある意味で芯が通ってるブレなさだけは、見習う所があると思う。ホント、ある意味で。

 ひとしきり春原で笑ったり、春原に間違った英語知識を植え付けたりして帰路についた。芽衣曰く都会の夜空は、それでも星々が煌々と自己顕示欲全開で輝くぐらいには田舎くさかった。

 

 

 ※

 

 

 ついに来た。そう、言うまでもなく一週間ぶりの登校である。

 一週間もあれば生活習慣も慣らすのに苦労するかと思っていたのだが、体が覚えてしまったらしい。俺は登校中の生徒たちに混じっていた。

 学校内で学校外の人間と学校の備品を壊す程の大喧嘩をしたせいだろう。真面目が褒め言葉の生徒共は俺の横を通るまでもなく、四方八方から異端者を見るような冷視が容赦なく浴びせられる。しかし問題はない。慣れてるし。

 岡崎も春原の姿も当然ではあるがない。岡崎はともかく春原がこの時間から通学路を歩いていたら、何かしら企んでるんじゃないかと疑ってしまう。

 声を潜めて会話している奴らを無視して、散り始めている桜並木を昇り始める。梢に咲いた花弁はもう残り少ない。以前ここを見上げた時から、たった数日でこれなんだから花の人生というのは非常に短いんだと思わされる。

 坂道も中ほどまで歩いた所で、その以前見上げた時を彷彿とさせる、焼回しのような光景が目に入った。思わず俺の顔がしかめっ面になるのは仕方がないだろう。ある意味、杏よりも会いたくない人物が桜の木の下に立ち尽くしていた。ただ立っているだけだというのに、嫌味のように背筋が真っ直ぐに姿勢正しい。別に睨んだりして凄んでもないし、微笑んでるわけでもないで自然体にも拘らず、何というか絵になっていた。

 

「どうやらちゃんと登校時間は間に合ったようだな。よかった、遅刻されたら会えなかった」

「……ストーカーかてめぇは」

「失礼だな。ただ教員の方に、お前の停学がいつ明けるのかを訊いて、その日に待ち伏せしていただけだ。ストーカーなんて呼び方は不愉快だ、よしてくれ」

 

 それをストーカーと呼ばずしてなんと言う。言ってみろ。

 少し肌寒い春風が靡く。彼女の――坂上智代の銀髪が陽光を乱反射しながら、風に任せて波打っている。この女の本質、というより昔の正体を知ってる奴なら近寄らないだろう外見だけは良い女は、俺にとっては最悪に苦手な女にランクインしている。なんてったってこいつは、過去を運んでくるから。

 だから俺は付き合ってられないとばかりに無視して、坂上の横を通り過ぎる。

 

「おい待て、わたしはお前に話があるんだ。少しだけでも――」

「今日は日直でな、花瓶の水を入れ替えないとお花が死んじまう。お前、俺に花殺しの罪を押し付けるつもりか?」

「そ、そうか日直なら仕方ないな、うん。しかし意外だ、まさか榊原がそこまで花を好きとは……」

「じゃあな」

 

 立ち話をした所でどうせ碌な話じゃないのは分かってる。

 神妙な面持ちで数回頷き己に言い聞かせているのだろうか、口に手を当てて視線を落とす坂上に気がつかれないよう足早に坂道を登りきった。なんなんだあの女は。ちょっとイラついてしまったじゃないか。

 昇降口を抜けて自分の教室に到着し、中に這入る。どいつもこいつも真面目一辺倒なのか、既に教室の席は殆どが埋まっていた。その中で、岡崎と春原の机だけぽっかりと空いていたのを見て、日常を垣間見た気がした。

 さっさと鞄だけ置いて資料室にでも行こう。

 自分の席に勉強以外の物ばかりが入った鞄を置いてそのまま踵を返そうとし、振り返った所で誰かにぶつかった。

 

「おっと」

「あ、ごめんなさい……」

 

 数歩後ずさって相手が誰なのか確認すると、ぶつかった相手は反射的に頭を下げてきた。

 顔は下を向いて見えない。けれど見るまでもなく誰だか分かった。紫陽花の花のような髪色の肩口で切りそろえられた長さとなれば、藤林椋をおいて他に居ない。

 

「いや、俺が不注意だった。怪我はないか?」

「はい大丈夫です、心配してくれてありがとうございます」

 

 はて、この少女はこうもハキハキとものを喋るような性質だったろうか。よく見れば表情も明るく溌剌としている。まるで杏の性格が丸くなったような感じになっている。

 何か心境の変化でもあったんだろう。そう判じて俺は椋から視線を外して廊下へ出ようとする。

 

「ちょっと待って下さい榊原くんっ」

「ん、どうした? 今日は遅刻してないだろ」

「お説教をするつもりはないです。そうじゃなくて、こ、これを渡そうと思って」

 

 そう言って椋は自分の席にある鞄から包みを取り出し、俺に手渡してきた。所々で言葉が詰まるあたり、やはり彼女は椋なのだと再確認させられる。

 渡された物を引っ込めたら泣いてしまうかもしれないので、遠慮なく受け取る。小奇麗な布で包まれたそれは、どう見ても弁当箱だった。どうにも今日は色々と以前の出来事が重なる日らしい。前に椋から弁当を貰った時も、坂上と別れた後だった。あの時の弁当箱は後日、芽衣の見送りの際に洗って返却した。触って形を確かめると、どうやら前のと同じ形状だ。

 

「今日から榊原くんが来ると思って、作ってきました。よかったら、食べて下さい」

「くれるなら貰っとくよ。あんがとな、これで昼飯代が浮く」

「あの、もし良かったらですけど……これからも作ってきても良いですか?」

「それじゃあ椋が大変だろ、お前にそんな苦労を掛けるわけにはいかない。遠慮しとくよ」

 

 なんてったって杏の双子の妹なんだ。毎朝毎朝、俺の弁当を詰めてるなんて知られたら、あいつの事だから在らぬ疑いをかけてくる可能性がある。というか目に見えている。

 ハッキリと断ったので椋も引き下がるだろう、と思っていた俺が甘かったのだろうか。椋は引き下がる事も顔を俯かせる事もなく、寧ろ一歩前に出て俺との距離を詰めてきた。こんな事、今までの彼女からはありえない事だった。

 

「大丈夫ですっ、いえ、お願いします。わたしの料理の練習に付き合ってくれると思ってくだされば、苦労にはなりません」

「で、でもなあ……」

 

 杏の顔が鮮明に網膜再生される。これで杏に勘違いでもされたら泥沼は必至。どうにかして椋の提案を断ろうかと思索している間も、椋がらしくない積極性を見せている。

 

「……最近はお姉ちゃんと一緒に作ってるので、“間違えて”オカズが“混じっちゃう”事があるかもしれれないですが――」

「――そこまで言うなら毎日食べよう」

「はい、それでは明日からも毎日持ってきますね」

「ああ、バッチコイだ」

 

 杏の手料理を再び味わえるなら何でもいい。快く受け入れた俺は、柔らかい笑みを咲かせる椋と別れて廊下に出た。手には先程渡された弁当箱がぶら下がっている。

 HR開始時間まで時間はある為、廊下には登校中の生徒や時間を潰して駄弁を垂れ流す奴らで溢れ返っている。教室へと向かう人の流れに逆らい、人気の少ない方へと進んでいく。次第に雑音が遠のき薄れて、静寂が漂い始めた。閑散とし始めた廊下は資料室へと続いている。

 扉に手をかけ引く。

 ――鍵が掛かってた。

 

「あれっ、開かない……マジかよ有紀寧」

 

 愕然となるが、よく考えれば当たり前か。もう間もなく始業のチャイムが鳴る頃だし、有紀寧は優等生だから教室にでも居るんだろ。今日は生憎と合鍵を持ってくるのを忘れてしまった。仕方ない……

 

「……使うか」

 

 懐からいつも持ち歩いているピッキングツールを取り出す。形状については様々で、それを鍵穴に差し込んで数秒。あたりを付けた俺は手首を返した。

 錠の開いた音が聞こえて再び開けようとして引くと、すんなりと抵抗も無く扉は開いた。

 資料室の中は最後に来た時と違って片付いていた。破られて風が吹き放題だった割れた窓も、いまではすっかり新品に変わっている。

 いつもの指定席へと、有紀寧は居ないが座る。寂寥感漂う資料室は朝の陽ざしが窓から差し込み、良い具合に室内も温まっている。

 

「…………眠い」

 

 椅子に凭れたまま顎を引いて俯くと、自然に瞼が重くなって次第に落ちてくる。久し振りに朝早く起きたのが原因だろう。足りない睡眠を身体が補おうとしている。

 意識が薄れていく。視界が霞み、心地よい微睡に抱擁され、俺は眠りに落ちた。

 

 

 夢を見た気がした。

 けど内容は覚えていない。

 うすぼんやりとした意識がゆっくりと鮮明に色づいていくと、違和感を感じた。記憶が確かなら俺の身体は縦に座っていた筈。なのに、今は横になっていた。

 

「おはようございます、幸希さん」

「……有紀寧か」

 

 頭上から降ってきた声に顔を向けると、宮沢有紀寧の垂れ目が見下ろしていた。

 後頭部が暖かい……というか柔らかい。

 

「……あれっ?」

 

 それがなんなのか、空いた手を後頭部の下に持って行って、輪郭を確認しようと弄ると跳ねるように動いた。

 

「ひうっ……あの、幸希さん……いけません、くすぐったいです」

 

 ああ、なるほど。どうやら一生のうちに限られた回数しか遭遇出来ないという、ラッキーを堪能してしまったらしい。俺の手は有紀寧の太腿辺りを撫でていた。

 これで残りのラッキーは何回だろうか。杏の尻を触った事も含めて、もしかしたらもう残されてないのかもしれない。

 いつまでも年下の少女の膝枕を堪能するわけにもいかない。俺は起き上がって制服の着心地を確かめるように佇まいを直した。

 

「スマン、ちょっと寝ぼけてたらしい」

「構いません、わたしが勝手にしたことですから。謝るべきはわたしの方です」

 

 そうもいかんだろ、仮にも嫁入り前の女の太腿を撫でたんだ、こいつの他校の友達が居たら袋叩きにあっている所だ。そうなったら逃げるけど。居なくて良かった。

 

「詫びと言っちゃなんだが、俺に出来る事はないか? 金の相談以外なら大抵のことは受けるから」

「そんな、悪いです。こんな事で幸希さんが責任を感じる事は」

「いいから言ってみろ。後輩が先輩に甘えないでどうする」

「…………でしたら……お返しを頂いても良いですか?」

 

 身を縮みこませ僅かに視線を落として有紀寧は呟くように問うた。

 

「お返し?」

「……わたしに、膝枕をしてもらっても良いですか?」

 

 そう言って有紀寧は卵のように丸くなった。

 膝枕か。普通なら断るんだが、大抵のことは受けると言った手前これを拒否する事は出来ない。いい男の条件は二言を吐かず潔いのだ。だから俺は椅子を引いて自分の太腿を引っ叩いた。思ったより景気よく叩いてしまい、高音が鳴り響きじんじんと痛むが気にしない。

 

「よし、来いっ有紀寧」

 

 徐に自分の太腿を引っ叩く俺に驚いた様子を見せた有紀寧の顔が、みるみる内に花開いて行く。開花の季節に喜び咲き誇る蒲公英のようだった。一見何処にだって咲いてそうな蒲公英の花。それは有紀寧によく似合っている気が、俺にはした。

 

「――っはい、失礼します」

 

 この子には、日向が良く似合う。

 ただ頭を乗せるだけなのに、有紀寧は髪を整えて膝を揃え姿勢を正してから、ゆっくりと過程を堪能するように頭の位置が降りてきた。

 ふわりと髪が広がり香りが立った。気のせいか、彼女からは日向の香りがしていた。

 横向きに寝転ぶ有紀寧は聞こえるか聞こえないかの大きさで小さく、けれど長い息をついた。手元がどこを定位置にしようかと彷徨っていたのが、なんだか面白かった。

 

「硬いだろ、あまり無理しなくてもいいぞ」

「いいえ、とても……本当にとても、落ち着きます。……兄にしてもらったのを、思い出します」

「……そうか」

 

 有紀寧の兄貴で、名前は宮沢和人。一年ぐらい前に自分の仲間を庇って死んだ男。

 気がつけば有紀寧は眠っていた。顔の前に落ちた髪を退かそうとして、見えてしまった。彼女の閉じられた瞼から一筋の涙が流れているのを。兄貴を思い出してしまったのだろうか。寝る直前の言葉が俺の脳みそを直接殴ったような衝撃が襲った。

 

「兄貴なら、死んでも妹泣かせてるんじゃねえよ……和人」

 

 有紀寧には聞こえないように声を落として、呟いた。

 あれから一年が経った。その頃の俺は、ギリギリ杏に夢中になる前、つまり駄目人間な頃だったから葬式にも出ていない。もともと、仲が良かったわけでもない。その妹が、まさかこの学校に入学するとは思わなかった。先週の“外客”が見知った顔だったらどうなってたか……一週間じゃ済まなかったかもしれない。

 しばらくの間、有紀寧が目覚めるまで俺は彼女の頭を撫で続けた。




不良トリオの会話は深夜のテンションじゃないと書けない。

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