CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第二十回:君が好きだから

 始まりはもう思い出せない。

 気が付いた時にはもう俺は親父のストレスのはけ口でサンドバッグだった。

 俺が産まれてある程度、小学生ぐらいまで育った頃、勤めていた会社が倒産し、再就職も儘ならず無職の期間が積み重なった時にはもう手遅れだった。手に職を持っていたわけでもなく専門的な免許も持っていなかった親父は、卒業して直ぐに就職した会社しか知らない男で、取り柄なんかなかった。だから無職の期間が長くなるほどに採用の可能性は減り、最後には就職を諦めてしまった。

 無職になった親父は日々を酒を飲んで過ごしていた。ごく一般的家庭に生まれ育った親父は、人並みに臆病で人並みの精神力しか持ち合わせていなかった故に、生活への不安と周囲の視線に怯え逃避するように酒に逃げ込んだ。不安定な時間帯に目が覚めては、特に目的があるわけでもないのに徐にテレビをつけて安酒の飲んでは潰れるまで続け、再び眠る。そんな毎日を過ごす様になっていた。これだけでも最悪な奴なんだが、ギャンブルに手を出さなかっただけまだマシだろう。

 とはいえ働き手を失った家計は崩壊の一途を辿り始めていた。人間一人分の水道ガス光熱費が増え――仕事をしていた時は忙しくてあまり家に帰らなかった――酒代も馬鹿にならない。生活は苦しくなる一方だ。

 案の定、一家の大黒柱が傾き収入がなくなり生活は一気に激変した。始めは失業保険も出ていたが、それもずっと貰えるわけもなくあっという間に苦しくなっていった。

 人は水と食料が無いと生きていけないと、この時になって初めて幼い俺は実感したのをよく覚えている。食べないと餓えるのだと、餓えたくないのなら金が必要なんだと。

 母さんが働き始めたのはこの頃だ。家賃すら払えなくなったら俺たちは雨風すら凌なくなる。そうなればもう人並みの生活とは呼べない。だから母さんが働き始めた時、正直いって俺は安堵していた。

 これで元に戻ると――。

 幼いながらに光明を見出していた俺は……しかし親父によって絶望の底にまで、文字通り叩き落された。

 

「いいか? 誰にも言うんじゃねぇぞ」

 

 これまで一度だって聞いたことも無い様な声色で恫喝されて――地獄が始まった。

 

「いっ、痛い……痛いようお父さん、止めてよ」

「黙れクソ餓鬼が。誰が喋っていいって言った、誰が泣いていいって言った。いつから大人に意見するような生意気な子供になったんだお前は」

 

 初めての暴行は頬を引っ叩く程度で済んだ。とはいえ小学生の子供が、本気になった大人の張り手をくらって平然としていられるわけもなく、太いゴムが千切れたような鈍い音と共に俺の身体は吹っ飛ばされた。

 壁に打ち付けられ痛む身体を抱きしめて、わけもわからないまま顔を見上げて熱を持った瞳で前を見ると、知らない他人が立っていた。そうだ、こんな表情をした父親を俺は知らなかった。頬はこけて目の周りは赤紫色に変色して、ボサボサの髪に無精髭を蓄えた顔は、見たことが無かった。

 だからその時の俺は思った。

 ああ、お父さんは悪魔に憑りつかれてるんだと。

 子供にとって世界とは自己の知識の広さと同義だ。知っている範囲が世界の全てで、知らないものは存在しない。一般常識以前の、形成中の頭では悪魔の存在を否定していなかった。絵本で見た事がある、テレビで見た事がある、だからきっと存在すると。そう考える子供の世界は驚くほどに狭い。だから稀に、唐突に冒険へと飛び出す子がいたりする。未だ知らない、頭の中にある地図の外側を求めて。

 同じように俺もまた飛び出そうとした。未知への好奇心からではなく、恐怖からの逃避を求めて。――母の存在が無ければ。

 

「こんなに腫れて、ごめんね幸くん、お母さんが一緒じゃなかったばっかりに、ごめんね……」

 

 涙声混じりの謝罪が耳元で繰り返される。

 仕事から帰って来た母が俺を見るなり顔を青くして抱きしめてきたのだ。母親が大好きだった俺としては嬉しくもあったが、それでも身体の痛みが治まる事は無かった。

 けど、味方になってくれる人がここに居ると理解して、俺はもう少し頑張ってみようと、耐え続けようと決意した。自分が居なくなったら、こんどはこの暖かな温もりを与えてくれる母が悪魔の標的になってしまうかもしれないから。

 だから耐えた。耐えて耐えて耐え続けた。

 皮膚が紫から滲んだ黒に変色しようと、何度も腹部を殴られ蹴られて血尿が止まらなくても、涙ながらに抱きしめてくれる母が居るから耐えられた――なのに。

 

 

 身体中に残された暴行の痕を隠すのが難しくなってきた頃だ。いつものようにサンドバッグになっていると、たまたま仕事が早あがりだったのか想像よりも早く母親が帰って来たんだ。

 家の鍵を持ちながら玄関を跨いで真っ直ぐに伸びる廊下の奥、その突き当りの居間で俺は蹲っていた。

 この頃の親父のやり口は簡略化というかパターン化されていて、自分も余計な体力を使ってストレスを溜めたくないから簡単な手段に訴えてた。まず腹部を二、三度殴って蹲る俺の背中に回り込んで服をめくりあげ、剥き出しになった背中に煙草の火を押し付ける。それも揉み消す様にではなく、優しく火種の部分が無くならないよう触れるように当てて。

 じりじりと焼け付く音が、まさか自分から出ているとは思えずに絶叫を上げそうになる。が、ここで声を出すと親父は煙草をもう一本取り出してしまう。だからいつもは我慢していたんだが、この日は出来なかった。

 母親が帰って来た。玄関が開いて閉じる音を耳にした俺は、それが母の帰宅を意味すると分かった。だからあわよくば今日の地獄はこれでお終いになるのではないだろうか、と希望的観測が頭を巡っていた。故に、俺は声を上げた……上げてしまった。

 

「ァ――――ッ!!」

 

 大きく、けれど高音で。変声期前の子供が出せる限界の、超音波紛いの高音で叫びをあげた。

 それはSOSの信号。救助を求める弱者の雄叫び。扉一枚を隔てた所でこちらを凝視して立ち尽くす母への救難信号。

 でも――助けは来なかった。

 

「声、出したな。じゃあもう一本だ。ッ何度言えばわかんだお前は」

「…………え、あ?」

 

 そんな馬鹿な嘘に決まってる。どうしてそんなことが……わからない。

 当時を振り返って改めると、やっぱり混乱した。いつも味方で、傷だらけの俺を抱きしめてくれるのは母だけだったのに。もうあの慰撫が訪れる事はないのか、と再び熱くなっていく背中とは裏腹に意識が冷たくなっていった。

 薄れゆく視界には、扉の向こう側で俺から目を逸らす母親の姿がやけに鮮明に映っていた。

 母は確かに味方だった――ただし自分の。

 今考えればそれも当然だ。あの家で父親はまさに絶対者として君臨していて、逆らうものなら手痛い仕打ちを受けるのは明らかだったんだから。母はただ自衛の行動をとったに過ぎないし、そこに恨みなんかない。でも、それでもあの頃の俺にそのショックは計り知れなかった。

 その夜、焼けるような背中の痛みに耐えながら俺は家を出た。父も母も寝静まった深夜の街並みは怖いくらいに静まり返っていたのに、どうしてだか自分を受け入れてくれているような気がしてならなかった。

 がむしゃらに走った。目的地なんてなかった。一歩でも多く、あの父親から、あの家から、そしてそれを取り巻く環境、この街から遠ざかりたかった。

 何もかもが嫌で、そんな自分が情けなくて涙が溢れて、呼吸が乱れながらそれでも走り続けた。こんな街……大嫌いだと呪詛を吐きながら。

 

「っはぁ……はっ、んくっ…………はあ」

 

 溜まった唾液をなんとか飲み干して、体全体を呼吸の安定に費やして、ようやく足を止めると視界は一面の緑に囲まれていた。

 街の外れにある小高い山――いや、丘程度の高さだろうか。緑以外には何もない殺風景なそこは、人の営みとは無縁のような神聖とも思える場所だった。

 鼻腔を通り抜ける青々とした植物の香りに、木々の隙間を縫う風と梢の擦れ合う音。湿っぽいながらも暖かな空気が肌に触れ、万感の思いが溢れやり場を失って見上げた空には、眼下に広がる街の灯りよりも盛大な数ある星々の煌めき。人間の居ない世界は、しかし人間が居るよりも豊かさに満ちているのではないか、と思える程に目を奪われた。

 

「は、はは、はははははッ……!」

 

 笑える。本当におかしくて笑える。こうして大声をあげ人目も憚らず大笑したのは久し振り……初めてかもしれない。

 どんなに大声を上げようと所詮子供一人だ、周囲に林立する木々の葉擦れには遠く及ばない。だからこそ、俺は笑いが止まらなかった。

 小さい。この小さな丘よりも小さい。なんて小さいんだ。

 笑い過ぎておかしくなったのかそれとも疲労かはわからないが、気が付けば俺の身体は横になって星空を仰いでいた。視界に広がる満天の星空は一枚の絵画のようで、時間を忘れて見入ってしまう。もう、俺には時間とか親にばれるとかまた痛い目に遭うとか、そんなものはどうでもよくなっていた。

 大丈夫だ、まだやれる。この丘がある限り、俺はまだ耐えられる。痛みも悲しみも、それによって生まれる憎しみも、とても小さく――とても瑣末な事に過ぎないんだから。

 中天に輝く月の光を、俺はいつまでも浴びながら笑いの余韻に浸り続けた。

 

 

 ※

 

 

 闇夜を頼りなく照らす街灯の、命をすり減らすように明滅し続ける音がやけに大きく聞こえる。

 夏にはまだ早い夜の公園は少し肌寒く、そうでなくてもいまの彼女は身が震える思いでいっぱいだった。改めて思い知ったのだ、自分がどれだけ酷い仕打ちを彼にしたのか。その軽率な罪深さを。

 

「…………」

 

 何か言葉を紡ごうとして口が開くも、音とも旋律とも取れないどっちつかずな空気が漏れ出るだけではっきりしない中途半端な行為。まるでいまの自分のようだ。

 杏は隣に沈鬱な面持ちで座る幸希に何を言えば良いのかわからなかった。否、この場に置いて彼女の言葉は何を言おうと空々しく聞こえてしまう。無かったことに、逃げたくなるような状況を作り出した張本人がなにを言っても、虚しい旋律しか奏でない。枯れ木を打つような音は、残響も無くただ消え去ってしまう。

 事の重大さ、彼がひた隠しにしていたものを暴いてしまった罪悪感に打ちのめされる。椋の為だとか、何を思って幸希は朋也をけしかけているのかとか、そんな“個人的事情”を免罪符にして掘り起こしていい墓ではなかった。

 杏の心中にはもう幸希の企み事に関する猜疑心も関心も無くなってしまった。無くすことで少しでも報いようと、この関心こそが原因なのだからと、本心から突き放した。友達のこんな表情を作る要因をいつまでも持ち続ける程の恥知らずには、これ以上なりたくなかったから。

 

「それからは唯の消化試合みたいなもんだ。殴られ蹴られ、酔っては薀蓄垂れ流して説教して、捻じ曲がった人生観を語りながら殴る」

 

 いつまでも沈黙していた杏の心中を知らぬ幸希は、それを続きを促しているように受け取ったのか一息吐くと再び語り始める。

 

「ま、それも中学には親父が死んで終わったけどな。終わって、解放されて変わった環境は、母さんには毒だったらしい」

 

 母親が話題に上り、幸希の顔が砂を噛むように歪む。彼にとって母親は唯一の支柱なのだろう、だからこそ平静ではいられない。――だからこそ、杏には不思議でしょうがなかった。

 それほどまでに大切な話を、なぜ墓荒らし染みた行為で踏みにじった自分に語ってくれるのか理解出来なかった。藤林杏は彼に真摯な対応をさせる程の人間ではない、それは傍目に見ても明確だ。なのに、幸希の口は止まらない。まるで命令された事に忠実で、それ以外の行動を与えられていない機械仕掛けの代物のように。

 

「俺にとって地獄からの解放は、あの人にとって楽園からの追放だったんだ。アレでも生涯の伴侶として寄り添うと覚悟を決めた相手だ、その伴侶の死は、心を壊すには十分な惨酷さを持ってた。

 後は、お前が見た通りさ。始めは親父を探して彷徨う程度だったんだが、日に日にエスカレートしていって気が付けばアレだ。生前の親父をトレースする事で親父を見出してるんだろ、丁寧に生活をなぞって自分は何も失ってないと、失った心で思い込ませてるんだ」

 

 憐れ過ぎて欠伸がでらぁな。そう鼻で笑いながら言い切った幸希の顔は、しかしやはり苦々しく歪んだ、継ぎ接ぎの笑顔だった。

 一つ頬を叩けば一人父親が蘇り、その父親相手に話しかける独り芝居が始まると、他人事のように朗々と語る幸希が、ますます杏の不鮮明な心をざわつかせる。

 どうして彼はこんなにもなんでもない風を装って語るのだろうか。

 だって幸希は、榊原幸希という人間は誰よりも何処までも自分勝手で、自分さえ楽しければ他は割とどうでもいいと本気で思ってる人で、自身もそう言って憚らない快楽主義者染みているのに――だったらなんで。

 なんであたしには、こんなに……。

 今度こそ杏は絶えられなかった。罪悪感だけでも泣きそうになってしまった弱い少女は、押し付けられた誠意の重みに耐えられなくなった。苦しくて、鳩尾の辺りを強く掴むが、掌が握りしめたのは衣服だけで他にはなにもない。心までは、掴めなかった。この結果を招いた杏には、むしろそれは当然だったのだろう。

 欲しかったのは純粋な質問に対する律儀な返答じゃなかった。彼女が真に欲していたのは恨み言。

 自分を悪口雑言の限りを尽くして打ちのめして欲しかった。そうでなくてはつり合いが取れない。少し怖いが、手を出されても文句一つ言うつもりも、根に持つことだって絶対にしない覚悟もある。なのにそれらの悪意が自身に剥き出されることことは無かった。矛は、その威光を出すことなく奥へと押しやられてしまった。

 榊原幸希は藤林杏を罰さない。まるで初めからそれらの感情を持ち合わせていないかの如く。

 そこまで考えが至って、杏は気が付いた。

“ああ、そっか……あたし、甘えてたんだ。こいつに”

 罰せられることで対等になりたかった。改めて友人として並び立ちたいのだ。負い目などなく、気の置けない友人として他愛ない話に花を咲かせ心にもない辛辣な言葉を浴びせられる、そんな居心地の良い関係を取り戻したいのだ。

 それが他でもない幸希によって作られていた事を認識して、頼りきりだった自分に気が付いた。

 

「つまんねえ話しちまったな、忘れてくれ。ありえないと思うが、ちなみに岡崎や春原には言うなよ? 面倒だし、あっちもそんなもん知りたくもないだろうしな」

「それは約束する。……絶対に言わない」

「絶対だぞ、言ったら……」

「――言ったら?」

 

 意味深に言葉を溜めて、どういうわけだか頬を染める幸希に向き直る。

 ワザとらしい下種な笑みを携えて、彼は両手を上げ眼前で何かを摘まむような仕草をした。

 

「す、すすすすかっ、スカートをめくるからなっ!」

「…………」

 

 いつもなら即座に殴り飛ばす所だが、いまとなっては本気とも冗談とも取れる発言に杏は何の反応も示すことが出来ない。一言一言が何らかの意図を持ってるのだと思い始め、それが自分と彼を遠く隔てる“壁”のように思えてなにも出来ない。

 ワザと場を盛り上げようとしているのだろう、と好意的解釈をした杏を不審がったのか、拍子抜けした幸希は両手を下げ火の消えた顔で眉を顰めた。

 

「んだよ、怒るなり殴るなり凄むなりなんかしろよな。これじゃ俺が単なる変質者になるだろが」

 

 面白くなさそうに唇を突き出す幸希は、次第に調子を取り戻したようにあっけらかんとし佇まいを直した。

 両腕を組んでブツブツと独り言を呟く彼を横目に杏は考える。

 思えば彼は昔から――いや、昔はもっと荒んでいた。少なくとも、初めて出会った屋上では。思い返せば、あの頃はまだ家庭環境の影響が大きく作用していたのだろうと考えられる。これだけの来歴を耳にした今となってはそれも否定できない。

 自分に置き換えても同じだけ荒れるだろうし、それ以上に、耐えきれることが出来ないかもしれない。なのに、今ではその牙の影すら見えない。あるはずの牙を見せない。無くしたわけではないのは、今回の乱闘事件で停学となった事実が証明しているが、少なくとも杏の前ではそういった素振りを見せる事は一切ない。

 だから聞きたかった。純粋に、他人の意思を介在させず、それを護りにすることもなく自分だけの想いを杏は口にした。

 或いは対等になりたかったが故に、避けられぬ“壁”を。

 

「……ねぇ」

「ん? どうした、そんな重っ苦しい顔してからに。生理か?」

「……どうして……あたしの前で、そんなに笑っていられるの?」

 

 男としておよそ女にかける言葉としては最低の部類に入る発言を聞き流して、彼女は問うた。

 斟酌など一切しない、直截な問いかけは彼女らしく真っ直ぐで、だからこそ鋭利な鋭さを持っていた。

 

 

 ※

 

 

「……どうして……あたしの前で、そんなに笑っていられるの?」

 

 唐突に突きつけられた問いかけに、俺は一度言葉を失った。

 息が詰まる。正面から向かい合っている筈なのに、背中を見られているような杏の瞳に、なにかこの質問には大きな意味があるに違いないと、本能がけたたましく告げていた。

 杏の顔はいつもと変わらず綺麗で、その表情はいつもよりも真剣味を帯びていた。それもそうだろう、さっきまで俺は彼女に問われるがままほとんどの事情を明かしてしまったのだから。とはいえ、多くを語ったつもりは無い。あくまで掻い摘んで、本当に不味い話や、言いたくない事は言わなかった。云いたくなかった。

 同情などされては今後、彼女の恋愛対象に上る事などほぼ不可能になってしまうからだ。

 憐憫は感情を、価値観を固定化させる。枕詞のように~○○だから~などとついて回り、いつまでもその領域から脱する事が出来なくなる。もし仮に同情から恋愛感情に発展しようものなら、俺は彼女への罪悪感でいっぱいになるだろう。

 負い目を持たれたままの交際なんて、未来が無い。そんな鎖に縛るぐらいなら、俺は彼女の前から姿を消す。

 だとしたら、この質問の意図はなんなんだろうか。

 普通に考えれば――読み倒した漫画では――ここで告白、というのが理想のシチュエーションなんだろうが、如何せん岡崎朋也という越えられない壁が屹立している限り俺に勝算の芽はないだろう。いま告白しても杏は混乱するだろう。負い目から岡崎への想いを封印するかもしれない。だとしても、彼女自身を当惑させるような事はしたくない。

 岡崎に古河渚という女をあてがおうとしている俺がなにを、と矛盾を抱えているかもしれないが、それでも彼女に要らぬ不安を与えたくはない。

 だから誤魔化すように、けれど本心で答えよう。

 言葉を紡ごうとした端に思い起こされるのは資料室に佇む少女の微笑み。全てを包み込む慈母のような少女の語った一つの自論。

 

『わたしは、わたしが大切に思う方の笑顔を望みます』

 

 年下の彼女に教えられたそれは、確かに俺を導いてくれた掛け替えのない言葉だ。だから――。

 

「――君に、笑っていて欲しいから」

 

 それだけは絶対と言い切れる。真っ直ぐに目を見つめてそう伝える。

 俺は、あの杏に惚れたんだから。

 

「……っ!? あ、え……~~~ッ!」

 

 陸に上げられた魚のように口を開けては閉めてを繰り返す杏の顔は、熟れたリンゴのように朱く色づいていた。おかしい、怒らせるような事を言ったつもりは無いんだが、それにしては辞典が飛んでこない。さっきもスカートを云々のときに辞典が来るかと思ったのに来なかった。

 何度かして口が締まった彼女は、そのまま狼狽えた様子で勢いよくベンチから立ち上がった。

 

「か、帰るっ……あたしもう帰るからッ!」

「あ? おう、送ってこうか? 夜ももう遅いし、危ねえだろ」

 

 いくら女としては強いとしても、それは女止まりだ。悪漢にでも出会っちまったら忽ち襲われるかもしれない。そうなったら、俺は犯人を生かしておくことが出来ない自信がある。

 

「いらないッ帰る! じゃあね!」

「いらなっ!? ……はい」

 

 同行を拒否されては追い縋る事も出来ない。いらない人認定された俺は両肩に重い何かがのしかかったかのように上半身が下を向いてしまう。いらない……俺はいらない子……。

 彼女が踵を返し砂の擦れる音がした。止める権利を持ちえない俺はそのまま遠ざかっていく音をせめて聴き送ろうと耳をすませるが、二、三歩歩いた所で音が途切れた。

 

「今日は本当にごめんなさい。この事は、誰にも話さないから」

「気にすんな。それに端からから疑ってもない。お前がそんな奴じゃないのは知ってる」

「……そう」

 

 簡素な響きが帰ってきて、再び歩を進める音が聞こえ始める。遠ざかるのを耳で感じて、ようやく面を上げると杏の背中は夜の闇に埋もれはじめていた。その背中は、これまで見た何よりも小さく俺の眼には映っていた。

 止めたかった。名前を呼んで、その背中を追いかけて、振り返った瞬間に抱きしめてこの思いを口にしたい。

 自己満足だとわかっていても、そうしたくてしょうがなかった。だから俺は、せめてと思い、彼女に聞こえないまでの距離が開いた所で言葉を紡ぐ。

 

「どうしてって、決まってるだろ。そんなの……お前に心底惚れてるからだ」

 

 決然と語る真実は、しかし杏の耳に届く事はなく遠くなる背中をさらに名残惜しく感じさせるだけだった。

 

 

 ※

 

 

「…………どうして」

 

 少女の言葉は相手への問いかけであり、しかしそうではなかった。問いかける相手に決して聞こえぬ問いを問いだと言えるのならそうなのだろうが、少女のそれは問いというよりも自問に近い。

 理解出来ない事実を目の当たりにして硬直した心は繰り返す。どうして、と。どうして自分でないのか、どうして……。続きを言葉にしては、さっきの彼の発言が真実味を増してしまう気がして、彼女は何も言えなくなった。

 そもそもどうしてこんな事になってしまったのか。

 思い返せば始まりはあの人が電話に出なかったのが発端となるだろう。この深夜にも拘らず一向に帰る気配のない彼女を案じて、最近は滅法悩む姿が板についていた事もあって電話を掛けたのに、声を聞く事は叶わなかった。

 もしかしたら何か事件に巻き込まれたのかもしれない。心配性の少女は彼女の身を案じる一身で、知る限りの知人に連絡をした。女性関係の知人に行方を知る人は居らず諦めかけた。最後に駄目元で連絡した相手は、これまで掛けた事のない相手で期待は薄かったが、その分信憑性は高かった。祈るような気持ちで学生寮に電話を回すと、聞きなれた寮母の声が聞こえ、その後に寮生の友人である岡崎朋也が出た。

 率直に訊ねて帰って来た言葉には、幸希の名前が挙がっていた。彼女が朋也に幸希の事を訊いてきたと、そう耳にして少女は幸希の自宅を訪ねた。が、朋也も陽平も知らず唯一の情報は近所に公園がある、という頼りない一本の糸のような情報だけだった。

 だがこうなっては少女の予感がそれしかないと告げていた。教えてくれた二人に感謝の意を述べて電話を切り、そのまま少女は家を飛び出した。心配する両親の声が聞こえたが、それよりも大事なことがある。女の勘とはよくいって、彼女はそれを乙女のインスピレーションと称しトランプを用いた占いをよく教室でしていた。そのインスピレーションが語るのだ“何かが変わる”と。

 公園という情報だけを頼りに走り続け、自宅から遠ざかる不安も余所に辿り着いた一つの公園で、ようやく少女は求めていた姿を見つけた。

 人影は二人分。肌が粟立つ感触が、やけに鮮烈に感じられた。

 

「どうして」

 

 仲睦まじく語らう二人の姿は、少なくとも少女の目から見てとても入り込めるようなものではなかった。もとより引っ込み思案な性格もあってか、一度持ってしまったネガティブな価値観は、少女を打ちのめしその場に釘付けにするには十分だった。

 彼が笑う。少女ではなく彼女に向けて。その光景を見るたび、胸が張り裂けそうになるほど痛んだ。

 なにやらセクハラまがいの台詞まで聞こえてきているのに、少女は一歩も前に進めない。そう、少女は進めないのだ。自分から前に進むことなく、いつだって隣に立っていた彼女に背中を押されていたが故に進み方を忘れてしまった。果てには彼の方から自分へと歩み寄ってくれないか、などと幻想を懐いてしまう始末だ。

 彼女の前で“もう頼らない”と決意したのは意思だけで、その実なにも実らせていなかった。行動を起こすには遅かったのだ。朝の挨拶を積極的に行ったからって、なにも変わりはしない。その罰がこれだというのなら、死罪よりも強烈だと漠然とした意識が悲鳴を上げた。

 逃げてしまいたい。いっそ、何も無かったことにして今すぐ家に帰って眠ってしまいたい。

 後ろ向きな衝動が総身を駆け巡るが、体は言うことを聞いてくれない。そうして……そのまま少女は聞いてしまう。

 

「――君に、笑っていて欲しいから」

「あ……」

 

 溶ける。反射的に少女は他人事のようにそう感じた。

 自分が溶ける。心という曖昧な価値観が溶ける。感情という感覚器官が融解してしまう。

 自分が欲しかった言葉。自分が欲した相手の欲した言葉。欲したその両者共を少女の目の前で――他でもない彼女が掠め取った。

 

「……どうして」

 

 どうしてあなたがその言葉を、他の人が好きな癖に、わたしの好きな人も奪うというのか。

 狼狽える彼女を見送り、ようやく静止の呪縛から解かれた少女の耳に、またも惨酷な言葉が襲い掛かった。

 

「どうしてって、決まってるだろ。そんなの……お前に心底惚れてるからだ」

 

 ――――――――。

 どうして? ああ、彼のこの答えが自分の問いに対しての返答なら、それは天にも昇る気持ちだろう。溢れ出る涙もそのままに、その熱い胸板に全てを預けるだろう。彼の為に、彼を思い、彼だけを愛して、彼の生活を支えたかった。そんな未来が、自分にもきっとあるかもしれないのだと……夢想だと思い知った。

 歓喜とは対極の感慨が溢れ、熱い涙が頬を流れた。

 もはや問うまでもない。だから……これは自問だ。遅すぎた自分に対する、叱責にも似た自問だ。

 

「どうして……お姉ちゃんなの……」

 

 いつだったか、彼女が語った彼の思い人の存在を仄めかす言葉が脳裏を過ぎった。なるほど、お笑い草だ。こんな顛末が用意されているなんて、仮定した相手が、まさか的中してしまうなんて。趣味のトランプ占いよりも高い的中率に、藤林椋は自身の勘の良さを呪った。

 気が付けば椋の足は自宅の玄関を跨いでいた。

 前後不覚のまま、先に帰宅していた姉の杏の声も両親の声も無視して、ベッドへと身を投げ込んだ。

 今はただ……無感な眠りにつきたかった。


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