ハッキリ言ってこの街は都会とは程遠い場所だ。そりゃゲームセンターはあるし、食い物屋には困らないし、百円均一ショップだってある。だがそれだけだ。
天を衝くようなビルなんて立ってないし、駅周辺だって都会の賑わいとは無縁の長閑さだ。ファッションだのオシャレだのそういった流行というのが流れてくるのは、お世辞にも早いとは言えない。
都市でもないのに都市伝説みたいなお伽噺があるこの街は、俺にとってはウンザリするが、今すぐ出て行きたいという程のものじゃない。
――だからこうして彼女が年相応にはしゃいでいる姿を見ると、悪い気がしないのも本心だ。
「わあ、見てください幸希さん。クレープがありますよ、種類も沢山、流石は都会ですっ」
「お前の実家は山中にでもあるのか? クレープぐらいあるだろそりゃ。あと、別にここ都会じゃねえからな」
「どれにしようかなぁ~」
「聞けよ。つか金あんのか?」
街路にポツンと建っている移動式のクレープ販売店は、女子が好きそうなピンクや黄色などの明るい色でメルヘンな感じに彩色されている。これで客の目を惹いているのか、それとも店主の趣味なのか。どっちにしろ俺の琴線に触れる事は一生ないだろう。
既に購入を決めたのか、芽衣は屈んでサンプルのクレープが並ぶショーケースを真剣な眼差しで見つめ、どれにしようかと吟味し始めていた。
流れからして完全に俺が奢るのが決まりかかっていた。いや、このコケティッシュとは縁遠い少女は奢ってもらう気満々だろう。仮に、ここに居合わせていたのが俺ではなく岡崎であったなら、多少の遠慮を見せるぐらいはしたであろう。
――しかし。
「うーん、どれもおいしそうで悩みます。でもどうせ幸希さんにご馳走になるなら、見た事も無い物が良いですね」
「自分の財布が痛まないから冒険心を持つのは、潔いまでに図々しくて良い。が、奢る側の俺としては、あんまりゲテモノちっくなもんを選んで、金をドブに捨てるようなことはしたくないぞ」
脅した代償として同席する俺に対して、芽衣は遠慮を置き去りにこのデートに臨んでいた。
悩ましい声で唸りながら右へ左へ行き来させていた首が、あっ、という小さな選定を終えた声と共に停止した。
「これがいいですっ、このプリンセスクレープってやつ!」
「プリンセスぅ? なんだその仰々しいネーミングは…………げっ!」
な、なんだこの馬鹿でかいクレープは。値段は、二千円だと!? おいおい、こんなの買い手が付くのかよ。明らかに価格破壊じゃねえか。
握ったら柔らかそうな小さい手から伸びた指先は、大層な代物を指しており、その破壊力に動揺を隠せなかった。
「な、なあ、マジでこれにするの? 明らかにお前の顔よりもデカいんだけど、食べきれるのか?」
「はいっ、これがいいです、こんなの見た事ありませんっ」
「いいか芽衣。外国の諺にもあるが、好奇心は猫をも殺すと言ってな、好奇心も程々にしといた方が今後の為だと思うぞ」
「わたし――気になりますっ!」
うん、それは止めよう。岡崎が聞いたら渋々したがってしまいそうな感じだから。よそでやっちゃ駄目だぞ。
バイトを欠かさない健康勤労不良学生の俺なら、このぐらいの値段を支払うのは当然可能だが、クレープに二千円というのはどう考えても損だと思えてしまう。
二千円あれば、適当な飯屋で手頃な値段の、値段相応の味の料理を腹いっぱい食える。普段からこういったデザートは、この前岡崎によって咎められた雑誌に載ってたので学んで知ってはいたが、だからといって理解を示せるかと問われれば、NOである。
せめて相手が杏であるならば、迷うことなく即座に店員に注文したであろう。どこまでも俺を突き動かす原動力は、彼女を置いて他にないのだから。
「むぅ……幸希さん」
杏との仮想デートの妄想に耽っていると、胸の辺りから拗ねたような芽衣の声がした。
見れば彼女は声色どおり、拗ねたように頬を膨らませ、形の良い小ぶりな唇を突出し抗議するような上目使いで俺を睨んでいた。
「女性とデートしてる時は、他の女の人の事を考えないのがマナーでルールですよ」
「なにを言っとんのだ。“女性”って言うより“少女”って表現のが相応しいだろ」
中坊が何をマセた事を。
「杏さんなら、きっと同じ事を思う筈ですよ。たぶん、あの人は一々文句を言わない豪快な人がお好きかと」
「さぁ芽衣よ、好きなだけクレープを貪るんだ! なあに、金の心配はするな、今日は全部俺が持とうじゃないか!」
「わー、ありがとうございます! すみませーん、このプリンセスクレープを――」
嗚呼、俺ってば単純……。
一度行ってしまった以上、これ以上男を下げない為にも今日は芽衣の思うままにさせてやるしかないだろう。春原の妹とはいえ中身はしっかりとしたもんだ。
あと、杏の家にも泊まってるから、この見返りに彼女の自宅での生活とか色々訊けたらいいな。
程なくして営業スマイルを張り付けた店員からクレープ(プリンセス級)を受け取り、紙切れが二枚巣立って行った。
「ん~、おいひいですぅ~」
どう作ればこんなデカいクレープを作れるんだ。
両手でしっかり持ったクレープを頬張った芽衣は、それはもうとても美味しそうに頬を緩ませ幸せそうに目を細めていた。
歩きながら食べると、万が一の可能性で落としてしまうかもしれないと憂慮し、とりあえず店の付近にある公園のベンチに腰を下ろしていた。
今日は平日。この時間、学生達は学校へと言っているから街路を歩く人たちの中に制服やそれらしい年齢の人は見当たらない。サボっている奴が居ない限り大丈夫だろう。こんな幼女と一緒にクレープ食ってる場面なんて見られた日には、ロリコンと勘違いされ蔑まれてしまう。
一歩踏み外せばあっという間に転落してしまう危うさにビクついていると、ふと眼前をクレープが遮った。甘い香りが鼻腔を突いて、思わず生唾を呑んでしまう。
「よかったら食べませんか? このまま食べきっちゃうのも、やっぱり悪いですし」
「別に全部食って良いんだぞ。奢ると言った以上、吐いた唾を飲むつもりはねえよ。気にせず豪快に食って、豪快に肥えろ」
「肥えろとは酷いですっ。いいですか幸希さん。体重、体型、体脂肪は女の子が男性に一番指摘されたくない話題なんですよ? 臆面もなくそんな事を言ってのけるなんて、もっと乙女心を理解してください」
膨れっ面で俺の欠点を指摘してくる芽衣。はて、乙女心というのは雑誌で読んで概念はしっているが、最終的な主観が入った結論では、あれは女の都合の良い言葉と岡崎と結論付けた覚えがあるぞ。
「生憎、俺が理解するべき女はただ一人って決めてるんだ」
「そう、ですか……」
「なんだよ、その含みのある顔と言いようは」
「いえ何でもないです、ほらっ、これ一口だけあげます」
表情に影が差した芽衣が、誤魔化す様にプリンセスクレープ(二千円)を差し出した。なんか釈然としないが、きっとそれを問い質しても彼女は口を割らないだろう。それぐらい理解出来るぐらいには、俺も彼女のことがわかってきた。
だから、俺は大人しく差し出されるプリンセスクレープ(二千円)を大きく頬張った。当然、芽衣が好きそうな苺の部分を。
あからさまに避けられ残った苺は、おそらく最後に口にしようと懸命に丁寧に食べ続けた努力の結晶だろう。だから俺は、誤魔化された事に対する、せめてもの意趣返しとして彼女の苺を頬張った。……別に“彼女の苺”ってのが比喩表現というわけじゃない。
「あっ、あああああァァァ! 苺のとこ食べたァ!」
「うむ、美味かったぞ!」
「感想なんて聞いてませんッ! いちごぉ~!」
嘆くように苺のあった部分を見つめる姿を見て、俺も少しは溜飲が下がる思いだ。我ながら小さい人間だと思うが、この場に杏が居るわけじゃないので気にしない。
「んな細かいこと言うなよ、ほら、こっちの苺あげるから」
「これ苺味の飴じゃないですかっ、いったい何個持ってるんですか!? というか、本物の苺とまがい物を同列に扱わないでください!」
「まがい物とな!? この飴作った工場の人間に謝れ」
「幸希さんのばかぁ~!」
子供じみた言い合いが、この後しばらく続いた。それから芽衣が機嫌を直す為に、結局、プリンセスなクレープ(税別二千円)をもう一つ買い与える羽目になってしまった。とんだ散財だ。
デートと一口に言っても定義は人によってそれぞれで、何を持ってデートと言うべきなのか、そこらへんの知識を雑誌と少女コミックでしか知らない俺は……つまるところネタが尽きてしまった。
「なぁ、何したい?」
「もはや考える事すら放棄しましたね。それ、わたし以外の人相手に絶対言わないほうが良いですよ。減点対象です」
「いつからテスト化したんだデートは」
世の男共が尚更苦悶に喘ぐ事になるじゃねえか。何、デートって赤点とかあるの?
クレープも食べ尽くし、プリントシールが取れる機械のあるゲームセンターに言って遊んだりしたら、遊びつくした感で一杯になり徒然となってしまった。正直な所、ちょっと飽きてきた。
「そうですねー、結構いろんな所も回りましたし、ここらへんでする事って後何があります?」
「そうさな、あと残ってるのでデートっぽい場所って言ったら」
言いさして俺は先行する。奔放に歩き回る俺を芽衣は何も言わずについてくる。このデートを通じて、俺がそういう人間であると理解したのだろう。気を使う必要がなくて大変楽である。将来良い女になるかもしれない。
その頃には俺も杏と仲睦まじい町で一番のカップルとか噂されたい。というか噂を流して、事実婚みたいな状況を作れば或いは……
「街から離れていきますけど、どこに行くつもりなんですか?」
「デートのシメって言ったら、二人っきりで楽しめる景色な綺麗な場所って相場が決まってるだろ。安心しろ、この街ただ一つのラブホに連れて行くわけじゃない」
「ラブホって、なんです? なんか有名な場所だったりするんですかそこ」
きょとんとした顔で小首を傾げる芽衣は、どうやらラブホを知らないらしい。マジかよ、そんな田舎に住んでんの? 田舎じゃやる事ないから毎日ヤりまくりって、本に書いてあったけど、まさか実家でやるのか!?
「あー、いや有名っちゃ有名だけど。そりゃある意味好き合う男と女の終着点って場所だが、お前にはまだ早いな。それは何年か経ってからにしとけ」
「それじゃあ、何年たっても幸希さんが独り身だったら一緒に行きましょう」
「今のは聞かなかった事にしといてやるよ。後々になって、絶対後悔するから」
「……?」
小さな繁華街を離れて歩く事数十分。街から遠く離れ、簡素な住宅街ばっかりの道を歩き続け、記憶の中に残ってる場所を懸命に思い出しながら進む。
これから行こうとしている場所は、俺がかつてまだ毛も生えてない子供だった頃、また父親が生きていた頃になんども通った場所だ。怒られて殴られて、泣きながらいつもそこに一人で居た憩いの場所だ。
民家もまばらになった道は、やがて舗装された道じゃなく大地が剥き出しになったけもの道のようになっていた。小高い丘を登り続け、後ろで追随する芽衣の呼吸が乱れてきた頃。よこはようやく開けた場所に繋がった。
「わぁ……すごい綺麗、緑でいっぱい」
辺りを深緑で囲まれた丘の上は、あの頃と変わらぬ景色がそのまま残っており、柄にもなく感傷的な気分が湧き上がりそうになる。
全景に広がる景色に、芽衣は息を呑んで呆然と眺めていた。その瞳は、間違いなく輝いていた。
「どうだ、すごいだろ。ここらへんはな、なかなか人も来ないから結構穴場なんだよ。実際、俺はここで自分以外の誰かを見た覚えがない」
あるとしたら、それは俺と同じぐらいの苦痛や悲哀を懐いた奴だろう。街から離れたここは、逃げ逃れたい、何かに縋りたい。奇跡にも似たものを追い縋るために誂えたような場所にたっている。
事実、少なくとも俺はそれで救われた。我慢しようって気持ちが蘇って、程なく親父は死んだ。あの時は心底安堵したのを今でも覚えている。ただ……それだけで終わらなかった時のショックはもう思い出せないけど。
「いつもここには来るんですか?」
「いや、最近はずっと来てなかった。ここは、俺にとって要塞みたいな場所でな、逃げたい気持ちが昂ったらいつも来る場所だった。
いまじゃ逃げる前にぶん殴る方が早いから、ここに来る回数もめっきり無くなったよ」
そう、もうあの頃の弱い自分はいない。たとえ何があろうと、俺は耐える自信がある。少なくとも、今はまだ……
「昔の……、幸希さんの昔って、どんな感じだったんですか?」
「そんなの聞いたって、何も面白くないぞ」
ロクな人生じゃなかった。口にするのも嫌になる程、思い出したくもない思い出でいっぱいだった。
言葉を濁したにもかかわず、芽衣は俺の内に秘める暗澹たる思いに気付く事もなく、さらに詰め寄った。
「え~、良いじゃないですか。どんな男の子だったんですか? その頃の好きな人とか、いたりしなかったですか?」
「好きな人ねぇ……」
俺が初めて恋したのは杏だと自負している。だからって、それをそのまま言うのは、悟られてるとはいえ気恥ずかしい。
だから俺は、一番恋に近い話しをすることにした。
「そうだなしいて言うなら、あの頃の俺はマザコンだったから、お袋が一番好きだったかな」
「お母さんですか、なんか小学生の男の子らしいですねそれ」
「そうか? 周りがどうだったかなんてもう覚えてねえよ」
「どんな人なんですか、幸希さんのお母さんって」
興味深く訪ねて来る芽衣は、純然とした興味のみでの問いなのだろう。母さんの話しをするのは、今の俺にはちょっとキツい。
言い逃れようと画策し、俺は彼女の脇下に手を突っ込み思いっきり抱き上げた。
「わっ、わわっ! な、急に何をするんですかっ!?」
「辛気臭い話するぐらいなら、ここからの眺めをもっと楽しめ! 話なんてどこでだって出来るだろ」
「言いたい事はわかりますけど、だからって、これわわっ……!」
四肢をじたばたさせる芽衣をそのまま持ち上げたまま肩車する。背も小さければ体も小さい彼女は、担いだ所で重さなんて感じられなかった。
これが逃げだという事はわかってる。だが、ここは逃げる為の場所で、それなら逃げたっていいと思った。企図せず本来の目的として訪れた事になった場所で、俺たちは童心に返ったようにはしゃぎまわった。
走り回り疲れた俺たちはそのまま草むらに仰臥し、暮れなずむ空の色を見上げていた。夕焼け色に染まりつつ空模様は、どこまでも雄大に広がり俺たちを見下ろしている。
「そういや、今日で実家に帰るんだよな」
「はい。幸希さんに騙されるままに来ちゃいましたけど、兄が元気そうにやってる姿も見れましたから、結果オーライですね」
「まさかあそこまで見事に騙されるとは、思ってもみなかったからな。そんなに似てたか春原の声と」
「そっくりです。だからいまこうしてここにわたしが居るんですよ」
隣に並んで寝転がる芽衣が、ふいにこちらに視線を向けてきた。悪童のような稚気を窺わせる笑顔で。
「あの時の声って、本当に幸希さんだったんですか? ちょっと信じられないぐらい似てたので、いまもう一回やってみてくれませんか?」
「なんだよ芽衣、僕の言ってることが信じられないってのか?」
春原の声でそう言うと、芽衣は驚いたように目を見開いて大きく笑った。
「うわっそっくり! あははっ、本当なんですね。なんか地味ですけど、凄い特技ですね」
「地味って言うなよっ! これで何回も僕を騙したんだからな!」
「あはははっ、幸希さんの顔で声が兄だと、なんか変な感じがします」
この特技は初見こそ彼女のように腹を抱えて笑うが、なんどか披露するとあっという間にウケが悪くなるので、芽衣が此処までおおウケするのが気分が良くなった。
だから俺は、他のレパートリーも披露することにした。喉を軽く揉みほぐし、声を整える。
「――あ、あのトランプ占いってご存知ですか? よかったらわたし、占いましょうか?」
「椋さんの声も!? えっ、どうやって出してるんですか?」
「なんてこたぁない、ちょいと声帯をいじってるだけだ」
「その声で男口調はやめてください。なんか椋さんが穢された感じがしますから」
目を眇めて批難され、俺は大人しく声を元に戻す事にした。しかし、酷い言いようだな。男口調の椋ってのも新鮮で良いじゃんか、岡崎はバカウケしてたぞ。
「ちなみに、この椋の声で春原を騙した事もある。手紙を書いて呼び出して、物陰に隠れて告白をしたら、あいつは涎を垂らしながら迫ってきた」
「うわぁ、騙す方も最悪ですけど……お兄ちゃん」
呆れたように額に手を当て苦悶する芽衣。笑い話にするには身内相手は流石に無理だったか。スマン春原、お前の妹の中で、いま大きく株が大暴落したわ。
頬を撫でる風が冷えてきたし、そろそろ時間的にも厳しくなってきた。今のうちに帰らないと、日が暮れてしまう。立ち上がり背中に付いた草を掃い落す。
「帰ろう。今夜中に実家まで帰るんだろ。日が暮れないうちに学生寮まで戻るぞ」
「そうですね、もうこんな時間です。今日は一日ありがとうございました」
「またいつでも遊びに来い。どうせする事なんて殆どない暇な毎日を送ってるんだ、少なくとも卒業まで暇だろうし」
無事に卒業できる保証もないけどな。いまだって停学中だし、このまま素行不良と出席日数が足りないとか幸村の爺さんに言われたらどうしよう。ま、俺も危ないけど、それは春原もか。岡崎はなんだかんだで最近は学校もちゃんと行ってるし、あいつは多分大丈夫だろ。
夕焼け空を背に向け芽衣と一緒に丘を降りる。次はいつこの場所に来ることやら、出来ればそんな事態にはなりたくないな。
※
日も翳り肌寒い風が肌を撫でる中、芽衣は幸希の背を見ながら共に丘を降りていた。次はいつ、彼とこのようにして共に歩く日が訪れるのかもわからない。これから帰らなきゃいけない実家は、この街とは物理的に距離が開きすぎている為に、そうそう簡単には再訪することは敵わないかもしれない。
兄の様子を見るために、学校も随分とズル休みをしてしまった。もともと芽衣自身が望んで訪れたので、それに後悔はないが、成績に反映してしまうかは心配だった。
それでも、来た価値はあったと自信を持って断言出来る。前を歩く彼が騙さなければ、こんなに多くの人たちと知り合う事も無かった。兄の生活環境が心配だった彼女としては、傲慢すぎるぐらいに自由奔放の快楽主義者みたいな幸希が友人だと知って、少しだけ不安にもなった。しかし実際にこうして彼と会話を交わし、その為人を知った今では、そんな気持ちも消えてしまった。
不器用なまでの愚直さを持つ彼は、藤林杏に恋をしている。それは芽衣の目で見て一目瞭然だった。だからこそ、今日のデートで交わした言葉の端々に杏の姿が見え隠れした時には、思わず目を逸らしてしまった。
彼が好きな女性には、既に岡崎朋也というあろうことか彼の親友の事が好きだった。
なんて理不尽な偶然だろうか。無駄な恋でしかないと教えれば、彼は諦めるのだろうか。でも、それは出来ない。こうも芽衣を良くしてくれた幸希を、失意の底に突き落とすような真似は、この背中を突き落すような事は彼女には出来ない。
「そういや、杏の家に泊まったんだってな。その……どんな感じの部屋だった?」
「変態みたいですよそれ。普通の女の子らしい部屋でしたよ、それがどうかしましたか?」
「いや、別に。ちょいといま興味がふと湧き上がったんでな。それだけだ」
なんでもないように努めた口調で、幸希はわかりやすいぐらいに肩を揺らしていた。また一つ、彼女の事を知れたことを喜んでいるんだろう。
そう思い知らされるたびに、芽衣の胸中には暗澹とした思念が広がる。また一つ、彼の叶わぬ未来を生み出してしまった。わかってしまう度に、芽衣の表情が翳る。
「別に、お前が後ろめたいと思う必要はないと思うぞ芽衣」
「えっ――?」
いつの間にか幸希は前を歩いているのではなく、俯く芽衣の隣を肩を並べて歩いていた。悠然と言い切って、子供みたいな笑顔を向ける彼が芽衣には理解できない。
「今日一日、俺があいつの話題になるとそうやって暗い顔してたろ。ちゃんと見てたぞ」
「それは、そのちょっと疲れたりしてたと思いますよ」
咄嗟に口に出た言い訳は苦しく、それがさらに芽衣の内心を言い当てられた証左となってしまう。
そんなにもわかりやすかっただろうかと、彼女は内心で己の表情のあけすけのなさを嘆いた。もう少し大人であれば、或いは彼を欺き続ける事も出来たかもしれないのに。
「その顔、やっぱり岡崎の事知ってるんだなお前も。なかなか鋭いな。春原の妹とは思えないよ」
「…………知ってたんですか? その、杏さんの好きな人の事」
「こちとら一年間ずっとあいつの事を見て、あいつの事を考えて来たんだ。わからないわけないだろ。ま、最近になって言質を耳にしたんだがな」
「それじゃあ、どうして……どうしてそこまで」
届かぬと、叶わぬとわかっていてなお、想い続けるのか芽衣には理解出来ない。堰きたてられるように言葉が出て、でも彼女が本当に聞きたい言葉がなかなか出てこない。
喘ぐように溢れ出る言葉をいったん抑え込み、芽衣は大きく深呼吸をした。瞼を閉じて、口で息を吸い、吐き出す。その間、幸希は静かに呼吸が整うのを待っていてくれた。
呼吸が整い、夜気の気配を感じつつ芽衣は瞼を開いた。
「なんで……叶わないってわかってて、そんなに自身いっぱいなんですか? わたしが言うのも酷いとはわかりますけど、杏さん岡崎さんにべた惚れな感じでしたよ!?」
猛然と疑問を巻き散して、それが自然と語気が荒くなっていくのを芽衣は止められなかった。
脳裏を過ぎるのはどれも疑問ばかりだった。我ながら子供だというのはわかっている。きっと彼は、自分なんかが想像もつかない大人な考えを持っているのかもしれない。でも、子供のように笑って怒る今日一日の顔が思い浮かぶたびに、そんな考えが思い過ごしなのかもしれないと、止まらなかった。
「幸希さんの事なんて、ただの友達ぐらいにしか見てないとしか、わたしには見えませんでした! それもわかってるんですか!?」
「わかってるよ、あんまり打ちのめすな死にたくなるだろ」
「嘘つきっ、全然そんな顔には見せませんッ!」
「凄いだろ? これが榊原流の隠匿術だ。覚えておいて損は無いぞ」
あくまで子供扱いする幸希は笑みを絶やさない。こんなにも芽衣が責めるように質問攻めしているのに、泰然としたままで少しも同様を見せない。だから、芽衣は口を開くたびに自己嫌悪の嵐に曝されている気分だった。
本当は彼を打ちのめしたいわけじゃない。彼女の言葉で本当に傷つかれたら、きっと己も同じだけの傷を負うかもしれない。支離滅裂なのはわかってるけど、それでも彼女は口を噤むわけにはいかなかった。
榊原幸希が藤林杏を想い続けるという事は、妹である藤林椋の失恋を意味するからだ。
何故こんなにも身近で、こんなにややこしい恋愛をしているのだろう。偶然にしては惨酷すぎる。
「諦めようって思ったことは無いんですか?」
「ショックな時はあったさ、でもまぁ、仕方ない何とかなるこれからだ」
「どうして……どうしてそんなに」
この一途さが姉でなく妹に向いていたら……
だがそれは考えるだけ益体の話だ。もう彼らは思いを止められない。
“どうしてこの人は、こんなにも真っ直ぐに想い続けられるのだろう”
冷静になってきた思考でふと思ったのは、彼のこの愚直さが、どこから燃料を得ているのかという事。杏が朋也を想うという事は、永遠に車線の違う列車で追いかけるに等しい行為。徒労にしか終わらない筈。なのに……
「相手は違う人が好きなのに……なんで幸希さんは、諦めようって思わないで、自身満々なんですか?」
「決まってるだろそんなの」
ふいに幸希の眉が真っ直ぐになり、不敵に傲然と口元を歪め微笑した。答えるまでもないと、全身がそう語っているようだった。
「――俺が杏を好きだからだ。それだけあれば十分だろ」
「それだけ、って。それだけ……?」
「当たり前だ。俺は俺の想いの強さを疑わない。あいつの為なら地球だって真っ二つに割る自信がある!」
“なんて単純な”
思わずおかしくなって芽衣は失笑した。それほどに彼女はいま当たり前の事を思い知った。一+一は? 問いかけ続けて二以外の答えを求め続けたに過ぎない。哲学とか数学とか関係なしに、それはわかりきった答えなのだ。問うまでもなく、幸希は杏が好きだから、ただそれだけの純然たる想いがあるから、彼は諦めないのだ。
「あははっ、馬鹿みたいです幸希さん。それだけで本当に女性が口説けると思ってるんですか?」
「俺なら何とかする。どんな手を使ってでも杏をものにする。――岡崎を物理的に消すってのはしないから安心しろ」
「はぁ、兄の友人は変な人ばかりです……」
これまでの陽平の友人遍歴を振り返り、大きく溜息を吐いた。そして、芽衣は何よりも言わなくちゃいけない言葉と共に、頭を下げた。
「すみませんでした。勝手な事ばかり言って」
「あ? 何が?」
「わからないなら良いです、とにかくわたしはやっぱり子供だってわかりました。それだけでも、来たかいがあります」
「いやどう見ても子供じゃんお前。何言ってるの? 飴ちゃん食うか?」
「そういう意味じゃなくて……って! これ千歳飴じゃないですか! どうして持ってるんです!?」
「いや、もし生意気な事言ったりムカついたら、これでズブッといこうかと……」
「いやぁ~! もう最低です!」
丘を下り終わる頃には、二人は登った時よりも晴れやかな心持ちで笑顔を振りまいていた。学生寮に戻った頃には、きっと芽衣を見送る為に兄だけじゃなく、その友人の朋也や藤林姉妹も現れるだろう。
その時、彼らが仲睦まじく歩く二人を見た時、一体どんな反応を示すのか。それはそれで芽衣には面白そうだと、気になった。
椋を前にしたら、きっと後ろめたくて燦然とした笑顔を向ける事は出来ないだろう。彼の思いの深さを思い知った今となっては、彼女には説得など不可能だとさとった。世話になるばかりで何も返せないのは心残りだが、仕方ない。いまは清々しくそう思える。
子供でしかないと気付いたから、自分が割って入れる関係じゃないと理解したから。少女はただ、次に会う時もこうして笑顔のままでいる彼らを願い、兄の待つ学生寮へと足を速めた。
空に広がる夕焼けは、朝と夜の合間に訪れる変化の最中にある空模様だ。そんな無窮の夕空を見上げて、芽衣は己もまた変化をし続ける途中でしかない子供だと心地よく思い知った。
少女の時間が終わる頃、もし幸希が誰とも一緒に居なければ、今日のような空模様の下を共に歩みたいと――そんな自嘲すら湧き上がる思いを抱きつつ。