CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

17 / 21
第十七回:初めての……

「もう幸希さんっ、ちゃんと食べた容器は水で流してから捨ててください」

「すまん、ここなら別にいいかなーって」

「駄目ですよ、わたしが居るんですからゴミを見過ごす事なんて許しませんっ」

「じゃあこの部屋に二年以上住み着く、大きなゴミを処分……」

「人の兄を勝手に処分しようとしないでください」

 

 そう言って少女は地べたに胡坐をかいて寛ぐ上を跨いで、せっせと掃除を再開し始めた。

 はて、どうしてこんなほのぼのライフを俺は送っているのだろうか。思い当たる節は、あんまりなかった。事が起こった時には既にこんな状況を、俺は享受していた。

 思い返してみたが、なんてこたぁない。

 坂上智代の口撃を交わして、さて帰るかと思えばどうしてか椋が現れたのだ。大体そこら辺から回想してみるとしよう。

 

 

 ※

 

 

「お、おはようございます榊原くんっ」

 

 坂上から今度こそ解放されたと思い校門から離れた俺に声をかけてきたのは、我がスイートパイの双子の妹である藤林椋だった。ここ最近よく顔を合わせるようになった彼女が、まさか学校の外で挨拶してくるとは思ってもみなかった。基本的に引っ込み思案なのが彼女であり、それがまた良い、という男子は声こそ大きくないが数多く存在しているのだ。隠れた人気者ってやつだな。

 

「おうおはよう椋。今日は早いんだな」

「クラス委員ですから、教室にある花瓶の水を交換したり、黒板消しを綺麗にしようと思いまして」

「その真面目さには頭が下がるよ」

 

 そんな七面倒くさい事、杏に命令されない限り絶対にやらないだろう。自ら率先してやるってのは、思いの外意思の強さを要求される事だ。いつだったか杏が「ああ見えて椋はあたしよりも頑固者よ」ってのはあながち間違いじゃないんだな。

 我がクラスの奉仕担当は、俺の服装がいつもと違うのに興味があるのか、しきりに視線を泳がせてはちらちらと上下させている。

 

「そんなに気になるほど変か? この服」

「い、いえそうではなくて。……その、か……かっこいいと、わたしは思いますっ」

 

 なんて優しい子なのだろうか。きっと俺を傷つけまいと思ってのお世辞なのだろう。顔が赤くなって、上擦った声をしているのが良い証拠だ。

 聞く相手が杏だったら、正直にきっとこう言うだろう。

 

『わーかっこいいかっこいい。いい年してジジ臭いポシェットつけた若者よりかっこいいわー。いいお手本になるから、そのまま校門に立ってみんなにアピールしてなさいな。きっとみんなあんたの眩しい輝きに目を逸らすから』

 

 とか俺の胸を穿つ言葉をはっきり物申すはずだ。うむ、これはこれで……悪くない。

 

「ありがとう椋、その優しさを忘れてはいけないぞ。きっとその内、お前に似合う良い男が涎を垂らして現れるはずだ」

「えっと、ありがとうございます……?」

 

 どう反応していいのかわからないといった風に、苦笑いを浮かべて椋は小首を傾げた。ちょうど良いので、こんな仕草を絶対にしないだろう杏に置き換えて妄想をしてみる。双子だけあって顔の造りはそっくりなので、あとは髪を長く脳内変換すればいいだけだ。

 

『えへへ、ったく幸希ったら……困ったさんなんだからっ』

 

 イエス! なんか元の性格ではありえない言葉を発してるが、俺の本能が求めた結果なら文句はない!

 空想の世界では俺はラブコメの主人公で、目が覚めたら隣に住んでる幼馴染の杏が俺を起こしにベッドへとダイブするんだ。そして、朝の体操で大きく伸びている息子を目の当たりにした杏は、赤面しつつも言うのだ。困ったさんなんだから、と。なにをとち狂ったこと考えてるのか、俺だってちゃんと理解している。だがしかし、空想では何もかもがありなんだっ!

 脳内で力説しながら拳を握りしめていると、椋の存在をすっかり忘れてしまった。不自然に沈黙が流れて、彼女はどうするべきか決めあぐねたようにもじもじしている。その姿を俺は杏で――以下略。

 

「さ、さっき校門で話していた方って、たしか坂上智代さんでしたよね? 二年生の」

「あんな融通の利かない女が二人と居てたまるか。間違いなくあれは坂上だな。それがどうかしたのか?」

「なにやら言い合っているようにも見えたので……少し、気になって」

 

 もしかして、それはアレか? 姉に相応しい人物であるかを審査しているのか? 俺があんな鉄の女と良い仲である事を疑っているのか椋は?

 確かに顔はいいが、俺には榊原(旧姓:藤林)杏という伴侶が居るんだぞ。心変わりも浮気も、絶対にありえない。

 身の潔白を証明するために、俺は肩を縮めてもじもじしている椋を掴んで断言した。

 

「安心しろ、俺は何処までも一途で硬派な男だ! だから、絶対に後悔なんかさせない!」

「は、はいっ……!」

 

 決まった。これで椋は俺が杏にとって相応しい男であると思ったはずだ。ただ残念な事に、彼女は杏の想い人が俺ではなく岡崎だという事を知っている。どうしようもないが、こればっかりは岡崎が古河渚とくっ付いてもらわないことには始まらない。

 希望的観測をし続けても仕様がない。椋の肩から手を離し、俺は一歩後ずさった。

 

「そういや、今日は杏と一緒じゃないんだな。あ、まちがっても今のはギャグじゃないからな。偶然たまたま今日と杏が重なっただけだからな」

「お姉ちゃんは多分まだ、家にいると思います」

 

 あ、無視ですか。いやありがたいけどね、態々拾って取り繕うような事をしないだけありがたいけどね。でもやっぱり君も杏と姉妹なだけあるね。

 

「あの、気になっていたんですけど。今日はどうしたんですか?」

「ん? ああ、さっきまでバイトだったんだよ。夜遅くから朝までのバイトでな、その帰りだ。朝日も眩しいからそろそろ家か、それとも春原の部屋にでも行って寝ようかと思ってた途中だったんだよ」

「どんなバイトをしているんですか? 見た目の印象ではウェイターさんのようにも見えますけど」

「んー、一応校則違反だから公にはしたくないんだよな。ただ一つ言っておくなら、椋の予想は当たらずとも遠からずって感じだな」

 

 ウェイターは給仕であって、実際にはサービスを提供するのが主であるが、バーテンダーはサービスに加えて酒を美味い状態で提供し、会話を提供して楽しい時間を過ごすために従事する職業だ。バイト先のマスターは事あるごとに『外ではどんなにどうしようもなく、だらしない人間であろうとも、カウンターを潜ればそこに立つのは一個の完成されたバーテンダーであるべきだ』と口癖のように言っている。

 外ではだらしなくても、ネクタイを締めてベストを着用しカウンターに立てば、そこはあらゆる現実から乖離した異界のような、日常にはない空間でなくてはならないらしい。客の中にはそう言った雰囲気の中で飲む酒が好きらしく、好んで通う人間もいた。

 マスターが言いたかったのはきっと、どんな人間もキメる時にはしっかりとキメる人間であれという助言なんだろう。実際、昼の間に見かけるマスターは、ただのくたびれた総白髪の爺さんだった。店でのギャップが激しくて、偶然見かけた俺は耐えられずに大笑いして、後日店内で怒られた覚えがあった。

 

「校則違反はいけない事だと思いますけど……お姉ちゃんもたまに、バイクに乗って通学していますので、わたしは聞かなかった事にします」

「そりゃありがたい。実際バレてバイトを止めさせられたら、こっちも生活が危ないからな」

 

 死ぬほど家計が切迫しているわけじゃないが、それでも日々の労働で得る金銭は欠かせないものだ。なにより、無理を言って働かせてもらってる分、マスターに迷惑を掛けられない。

 

「最悪、学校を辞めて働かなくちゃいかんかもしれないしな」

「あ、それは駄目です」

 

 本気で学校をやめるなんて杏が居る限り考えていないが、冗談で言ったつもりが椋には本気と受け取ったらしく、焦ったように返答してきた。

 俺が学校を辞めれば、俺を嫌う沢山の生徒が大手を振って喜び、口に戸を立てず声高々に俺を悪し様に言いふらすだろう。俺を嫌いな奴なんて、俺も嫌いだからどうでもいいが、だからこそ目の前の引っ込み思案なクラス委員が引き止めてくれたのは嬉しかった。

 

「せっかくここまで来たんですから、後一年、い……一緒にがんばりましょう」

「今辞めたらこれまでの学費が勿体無いからな、辞めるつもりなんかないさ。まだ、やらなきゃいけない事が色々あるからな」

「やらなきゃいけない事……ですか?」

「至極個人的な事だけどな。ま、これまで個人以外の為に何かをやってきたつもりは一切ないけど」

 

 やりたいようにやって、ありたいように在る。この世の半分以上が不平と不満で構成されてるんだと思った時、あれから俺は自分勝手であろうと決めた。どうせ損するのであれば、せめて良かれと思った事を迷わずやろうと。

 俺は俺の欲求に従い愛する杏を手中にせんが為、杏の想いを台無しにしようとしている。これをしったら彼女はどんな顔をするだろうか……。考えたくもないが、そういう道を俺は選んでしまったんだ。リスクを背負わないと獲得出来ないと悟ったから。

 この計画は誰にも知られてはいけない。岡崎にも、それに春原にだって。

 あいつはああ見えて人の感情の機微に聡い。サッカー部に居た時だって、部長との確執や諍い、それに部員たちの俺らを見下し嘲笑しているのを感じた春原が、耐えられず爆発したから今がある。そういう鋭さでいえば、三人の中であいつが一番だろう。

 

「そろそろ学校行かなくていいのか? クラス委員」

「あっ……そうでした。ごめんなさい、それじゃあわたしそろそろ行きます」

「おう、しっかり後悔なく過ごせよ」

 

 どこか明るくなった彼女に、別れ際に自分の信ずる言葉を贈る。と、椋は背を向け校舎に向かったかと思えば、振り返り戻ってきた。打って変ったように何かを決意したような、真剣な眼差しで。

 

「どうした、何か忘れもんでもしたのか?」

「後悔なく過ごす為に……渡したい物が、あります」

 

 視線を合わせず俯き、椋はか細く喘ぐように声を絞り出し鞄から四角形の包を取り出した。群青色の布が包んでいるのが何か、手渡された時の重みと、仄かに漂う香りによって理解した。

 ――これは弁当だ。

 渡したい物とは弁当だったのか。でもなんでこれを俺に渡すんだ?

 

「見た感じ弁当だってことはわかるんだが、どうしてこれをくれるんだ?」

「あれから練習しましたっ、ですから、あの……味わってくれると、嬉しいです」

 

 必死の面相で椋はまくし立てだが、最後には消沈したようにか細くなっていった。

 風船がしぼむように小さくなった彼女が、そこまでして頑張った物を改めて翳して観察してみる。あの時はお世辞にも他人が食えば、まず間違いなく“不味い”と評する味だったが、まあ別に良いか。腹も減ってるし、でも……。

 

「貰えるのはありがたいんだが、これ食ったあとの容器はどうすりゃいいんだ?」

「あ、明日は春原くんの住んでいる学生寮に居ますか?」

「まぁ、認めたくないが暇なときは大体、あいつの部屋に居るけど」

「でしたら、明日また取りに朝向かいますので、その時にっ…………そ、それではっ」

 

 言いたい事を言い切ったからなのか、耐えられずに逃亡したのかは知らんが、椋は言い切ると同時に踵を返して坂道を駆け上がって行った。意外と足速いなあいつ。

 ま、思いがけずして食糧を得る事が出来たんだ。これをもって春原の前で自慢しながら、苦悶に伏す奴の姿を肴に飯をいただくとするか。

 鞄を持っていない為むき出しの状態で弁当箱をぶら下げながら、俺は春原が眠っているであろう学生寮へと足を向けた。

 

 

 ※

 

 

 時に、世界の意思とは存在するのであろうか、という議題について議論をしたいと思っている。

 第一に絶対条件として、たんに“ありえない”という反論を禁ずる。

 第二に反論言にて“ロジックじゃない”という感情論を主張するのを禁ずる。

 第三に――世界とは我らの神であり、女神であられる藤林杏の事を指し、この場においての意思とは広義で地球全土どこにいようと彼女を感じられる特殊粒子の事を指す。

 以上の事を遵守して、我ら榊原幸希は世界の意思について、一部ではまやかしだという現実派と、また一部では愛ゆえにと唱える浪漫派に分かれて議論を進めたいと思う。なお、議長を務めるのは私、榊原幸希議長であります。紛らわしいので議長でお願いします。

 

「藤林杏とは世界! すなわち世界とは藤林! 故に、一個の人格を持つ彼女に意思は存在し、だからこそ世界にも意思はあるというこの意見、あなた方浪漫派の意見は荒唐無稽です!」

「なにが荒唐無稽か! 杏に捧げるべき愛は世界全土を覆い隠すには十分の大きさが必要だ。故に、俺達は世界中何処にいたって彼女の事を感じられる!」

「答えになっていない! 君たちは結局“愛”という言葉を便利に利用するだけの狂言者に他ならない! 世界に目を向けるよりも、まずは一人の人間としての彼女を想うべきだ!」

「順序よく物事を進めればすべてが上手く行くなんてのは、お前ら堅物の為に必要な信仰だもんな。それなら一生、ベルトコンベアとでも恋愛してろ! ロジックじゃないんだよ恋ってのは!」

「議長! 彼らはいま第二法に抵触しました、裁きを!」

 

 うむ。では浪漫派筆頭の榊原幸希よ、先も説明したばかりの第二法をただ言ってみたかっただけという思惑が見え見えなので、罰を下す。一日杏との新婚生活シミュレーションを禁ずる。

 

「嘘だぁぁぁああああああ!!」

 

 議論を戻そう。貴様らはいつも藤林杏のことになると口論が白熱して、目先の議題を忘却してしまう。いま話し合うべきは、彼女への愛ではない。世界の意思の存在についての議論である。

 議長である私はここでジャッジ・ガベルを打ち鳴らし、話しを本戦へと引き戻した。

 

「では、浪漫派筆頭の榊原幸希はショックのあまり寝込んだので、代わりにこの俺、筆頭代理の榊原幸希がいかせてもらう。愛ゆえにな」

「何度来ようが結果は同じ。意思などというご都合粒子が存在するわけがないんだ。そんな存在があれば、私たちは既に彼女の愛を獲得していてもおかしくない」

「いや、意思は存在するね。お前が何度否定しようが、幾度となく吠えようが、これは覆せない純然たる真実だ」

 

 筆頭代理の榊原幸希が腕を組み、現実派の党首榊原幸希を睥睨した。威圧的な眼光に、武闘派ではない党首はたじろぐがそれは議長である私も同じだった。

 この幸希はこれまでの奴とは何処か違う……。理由のない余裕が、催眠術のように私たちを引き込んだ。

 

「ぐっ、な、なら説明してもらおうか!」

「良いだろう。ではこの二人に、俺に変わって説明してもらおう――来いッ! “力の奴隷”榊原幸希! “愛欲の奉仕者”榊原幸希!」

 

 筆頭代理の両隣に、突如として渦巻く亜空間が出現し、中心部から二人の榊原幸希が姿を見せた。

 浪漫派筆頭の右手である“愛欲の奉仕者”と左手の“力の奴隷”。この二人が現れたという事は、筆頭代理は早々に決着をつけるつもりなのかもしれない。議長として公平な立場でいなくてはならない私であるが、彼らの登場で密かに心が湧く気分でいるのは秘密だ。

 

「お、おいあれは愛欲の右手じゃないのか!?」

「不味いぞ党首! 奴は愛欲の名の通り、“全権者”榊原幸希の最もなくてはならない人物だ! 筆頭の右手なのもダブルミーニングなんだぞ!」

「なんて卑猥なっ! 力の奴隷は粗野で乱暴で気性が荒く、自分本位な人格だと聞いているぞ! きっと我儘の限りを尽くして、この議会を総崩れにするつもりなんだ!」

 

 現実派の者達が狼狽し始め、もはや統制のとれない徒党に成り果てて知ったのかと、諦めの境地を懐こうとした瞬間であった。

 

「沈まれいぃ!!」

 

 そう。こんな窮地はいつだって乗り越えてきた。彼こそが、現実派党首の榊原幸希なのだ。

 鼓膜を震わせる怒声は波濤のように広がり、すぐさ味方達へと伝播した。

 

「この程度の脅し、私たち“現実的に杏をキョンキョンする方法とは何かな?”派に通じるわけが無かろうが! 冷静であれ! 平静であれ! 常に傍らには君たちの藤林杏が寄り添っているのだぞ」

 

 この総勢五万にも達する大会場で、ここまでよく通る声を持つのは彼しかいないと、議長の私は思った。だからこそ彼は此処まで支持され、ここまでのし上がってきたのだ。幾多の榊原幸希を退け、有り余る杏へのアプローチ方法を手練手管で提案し、妄想で現実とする欲の強さ。

 どこをとっても彼こそが次の“全権者”として相応しい人格であろう。

 

「さて、同胞(はらから)が失礼をした。では浪漫派筆頭代理よ――小鳥の如き(さえず)りを聞かせてはくれないか?」

 

 決まった。劣勢を覆す苦し紛れの虚勢!

 これは党首の得意な技だ。まともにくらってしまった浪漫派が生き残っているのか……。

 見やればそこには虫の息になっている筈の榊原幸希達が……。

 

「フ、フフフ。フハハハハッ!」

 

 高笑いを上げる浪漫派。

 一体何が彼らをこうも笑いに誘うのか、もはや一議長の私では遠く理解に及ばない。

 

「な、なにがおかしいんだ!」

「愚か也! 哀れ也! たかだかその程度の抵抗で、俺らが打ち破れると思っているのか!? 片腹痛いわ!」

「俺達は意思の存在をより明確な、反論の仕様がない事実として観測しているのだよ」

「然り、故に俺らに敗北の二文字は不要」

「見せてやろう、これが――我らが“全権者”榊原幸希が感じ取った意思の証拠だ!」

 

 振りかざした筆頭代理のに釣られて私たちは皆、そちらの方へと視線を向けた。

 視線の先にあるのは大きなスクリーンだった。そこに映るのは、私たちの全代表、“全権者”榊原幸希が見ている景色をそのまま投映している映像であった。

 想い人である藤林杏の妹とわかれた幸希は、春原陽平の部屋へと赴いていた。途上、彼は自販機で飲み物を購入したり、公園のベンチに座り込んで暫く空を見上げて過ごしたりと、無為に時間を浪費していた。

 すべての榊原幸希が、この映像に憑りつかれたように見入っている。皆、この視点を欲して争いを続けているのだ、一同の眼差しには憧憬が色濃く映っている。

 

『さて、そろそろあいつの部屋にでも行くとするか』

 

 ベンチを立ち上がった幸希は空き缶をゴミ箱へと放り投げ、公園を後にした。

 ――その時であった。

 

『ん? 杏が危ない目に遭う予感がする……! 急がねば!』

 

 まるで事前に知っていたかのような口ぶり。確信をもって発した言葉は、この場に居る全員の動揺を誘った。静かな湖畔に投石された波紋のように広がり、瞬く間に会場内は沸き立った。

 誰もがこの映像を見て意思の存在を仄めかす言葉を口にし始めた。これまで否定はであった現実派もそれは例外ではなく、動揺を隠しきれていなかった。

 決まったな。私はこの瞬間、全権者が感じ取った奇跡のような意思の力を思い知った。

 幸希は風の如く走った。迷わず、正確に、まるで彼女の居所が分かるかのように。

 そして、その瞬間は訪れた。

 

「あれはっ! 藤林杏が事故っているだとぉ!?」

「そうっ! これこそが、この危機感知能力こそが、ご都合を裏付ける意思の存在の証明だ!」

 

 宙に投げ出された藤林杏を見て、幸希は己の運動能力を駆使して彼女を抱き留めた。一同が安堵した時、全権者を通じて私たちにも彼女の香りや感触が訪れた。

 

「こ、これは杏の香り!」

「これは杏の感触!」

「杏の体温!」

「杏の存在の温かみ!」

「即ち愛!」

 

 喝采が起こる。歓声が、歓喜の歓声が広がり、あっという間にみな杏の虜となった。

 無理も無い。私たちは対立しあう仲とはいえ、みな同じ榊原幸希なんだから。

 見事杏を抱き留めた幸希は、その感動に身を打ちふるわせていた。その瞳からは滂沱の涙が流れ、神経細胞が活性化し、五感の全てが冴え渡った。

 

「おい! いま杏の尻を揉んだだろ愛欲の!」

「ふぅ、済まないが何の事だね?」

 

 もう何も争う必要などないのだ。皆同じ幸希、皆同じ杏が好きな者なのだ。同一の存在が分かれ態々争う必要なんてないんだ。

 迷いも惑いも此処に置き捨てよう。手に握るジャッジ・ガベルを振りおろし、遺恨を叩き潰すのだ。

 カツーン、と獅子脅しのような静謐な調べが響き、皆が私の方へと振り返る。憎しみは、ここで根絶やしにするのだ。

 

「現時点を持って議論の終結を知らせる! 一同に結論を言い渡す! 座して聴け!」

 

 声を発したのは久方ぶりだ。この一文だけで私の声は枯れ果ててしまった。よって、これからは通常の語りに移行する旨、理解を願う。

 現実派だの浪漫派だの烏滸がましい。なぜ藤林杏を想う同一の私たちが別れ争うのだ。あげく派閥の名前は陳腐にして質素。名を冠するのであれば杏派として、一同が一身となり全権者の願望を果たすための走狗となるのだ。

 彼は意思の存在を証明し、私たちに可能性の種を植えてくれた。芽吹き花咲く大樹となるには、私たちの協力が必要不可欠!

 立ち上がれ同士達よ!

 奮い立て榊原幸希!

 我ら脳内会議議会の最高委員、総勢五万の榊原幸希たちはそれぞれの役職に戻る!

 後に正気を取り戻す貴君は、我らの旗頭! 決してそのはためきを絶やすことなかれ! あらゆる障害を魁立て!

 

 我らの杏を――よろしく頼んだぞ全権者よ。

 

 

 ※

 

 

 てな具合に騒々しかった脳内の会議は、杏の一撃によって全て消滅してしまった。結局意思とは何だったんだろうか。結果論だが杏を助ける事が出来た俺としては、それがなんてあろうと構わない。

 彼女が笑顔になるのであれば、俺はどんな道化も演じてみせよう。来たるべき計画成就の日まで。

 で、その後杏に計画を感づかれそうになった俺は、逃げるように春原の部屋へと突入した。寮内に入ると美佐枝さんが廊下の掃き掃除をしていたが、俺を見るなり「停学中ぐらい大人しく出来ないのかねあんたは」とあきれられた。

 どうせ春原は寝ているだろうと踏んで、驚かそうと思い目一杯の力でドアを蹴破った。

 

「おらぁ! 山賊だぁ、ありったけの酒と金ッ、それに女をよこせ! じゃなきゃテメェの命を量り売りするぞゴラァ!」

「きゃっ!」

 

 ……きゃっ?

 おかしいな、本来ならここで春原がダサいパジャマのままベッドから飛び起きて、情けなく慌てふためいて周りの物を倒して転ぶ筈なんだが。どうして少女のような小さな悲鳴が聞こえるのだ?

 ドアを開けて真正面のベッドには誰も寝ていない。というか、長らく見ていなかったシーツを剥がした後だけを残して、寂しげな物に成り果てている。

 よくよく観察すると、床に散らばった漫画も綺麗に整頓されているし、空いたペットボトルや食い物の容器の残骸も転がっていない。おかしい、いつの間に美佐枝さんが入りこんで掃除をしていったというんだ。彼女がそんな殊勝な心がけをする筈がない。生徒の自主性を重んじている美佐枝さんが、こんな事。

 

「あ、あのぉ~」

 

 声に呼び止められて振り向けば、そこには半裸で壁に寄りかかっている春原の妹芽衣が立っていた。なるほど、この部屋の惨状は彼女の仕業だというわけか。

 着替えの途中だったのだろうか、芽衣は装飾が最低限しかないベビードール姿に、胸の前で組まれた両手で衣服を抱いて立ち竦んでいた。俺という男が突然入ってくれば、そりゃ驚くか。

 

「悪かったな芽衣。いま外に出るよ」

 

 そう言い残して扉を静かに絞めた。どれほどの時間待てば着替えが終わるのかわからない俺は、ドアの横の壁に身を預けて待ち続けた。

 芽衣が着替えを終える間、部屋の中で狼狽して取り乱す声がしきりに聞こえてきて、この部屋の防音性を疑い始めていた時、ようやく芽衣はドアを開けて俺を招き入れた。

 

「あの、すいませんでしたなんか」

「謝るのは俺の方だろ……多分、いや俺悪くねぇな悪いのは此処に居ない春原だ。よし、そういう事にして今回は水に流そうじゃないか、なっ、飴ちゃんやるから」

「いえそんな、わたしそこまで単純じゃうわぁ~この飴地元じゃ見たことない物だぁ~!」

 

 簡単に懐柔出来たよ。こんな町でも芽衣からすれば都会と変わりないのだろうか、彼女は俺の差し出して飴をひったくって口に放り込んだ。

 

「苺の味がする~! ありがとうございます榊原さんっ」

「気にすんな。持ってるだけで俺自身は食べないしな」

「じゃあこの飴は誰が食べる為に持ってるんですか?」

「大体が芽衣ぐらいの歳の子相手か、学校の資料室に君臨してる後輩にだな」

 

 あれから有紀寧はどうしているだろうか。停学になったために彼女の居る資料室に顔を出せなくなったから、今はどうしているのかがわからない。今度岡崎にでも頼んで彼女の様子を窺ってもらおうか。ついでに古河を誘うようにも誘導してみよう。

 

「榊原さんって、顔怖いのに優しいんですね」

「怖くねえだろ、普通の顔してんじゃん俺。そこまで凶悪じゃないでしょ、どっちかって言えば癒し系だよ」

「あはははっ、冗談も上手なんですねっ」

「ふざけてんのか? 間違いなくふざけてるだろお前、今日の下着の種類と色を兄貴に教えるぞこの野郎」

「すいませんでした。どこまでやれば怒るのか試そうとしてて」

 

 ちょっと凄んで脅したらそれまでの態度と打って変わって、芽衣は素直に頭を下げた。断じて俺の顔が怖いせいだとは思いたくない。春原を脅しの材料にしたのが効果的だったに決まっている。

 しかし、見回してみると本当に綺麗に整頓されている。男の城だったこの部屋が、ここまで綺麗になるとは思わなかった。

 

「将来はいい家政婦になるな」

「そこはいいお嫁さんの方が、わたしとしては嬉しいです」

「そうだ、将来は俺が雇ってやるよ」

「あの、わたしの話……聞いていますか?」

 

 苦笑いを浮かべながら乾いた笑い声を弱弱しく吐き出した芽衣は、徐に立ち上がり三角巾をかぶりハタキを持ち始めた。まだどこか掃除するつもりなのか?

 

「まだ掃除するのか? 見た感じじゃ、もう十分綺麗になったと思うぞ。どうせ今ここで頑張ったって、三日もすれば俺達はすぐに元通りにしてみせるぜ」

「そんなこれからお前の努力を台無しにしてやる、みたいに言わないで下さいよ榊原さん」

「幸希さんで良いぞ、俺は悪くないけど、一応お前の着替えを見ちまったしな」

 

 まさか杏よりも早く、よりにもよって芽衣を相手にこのイベントを発生させてしまうとは。この榊原幸希一生の不覚っ。

 

「わかりました、では幸希さん……幸希さんは現在学校を停学中でしたよね?」

「うむ、なにか文句でもあるのか?」

「いえそれはありません。では、これからの予定はなにか入っていますか?」

 

 一体なんの質問なんだこれは。全部答えたら粗品でもくれるのか? でも既にもう、この部屋に入った時点で粗末なものを……。いやよそう、なんかこの子も兄貴と同じで鋭そうだ。しかも完全にこっちのが上位互換って感じがする。

 無垢そうな顔をして、裏の顔を隠しているだけかもしれない。ここは一旦、彼女の期待に応えるとしよう。

 

「何もないぞ、デートでもしたいのか? だとしたら他を当たってくれ、俺はロリコンじゃないからな」

「それは残念です。じゃあ、何も予定もなく、今日はこの部屋で過ごすつもりだったんですね?」

「そうだけど、なにがそんなに嬉しいんだ? 俺といられるのが嬉しいってんだったら他を――」

「はいっ、ではお掃除を手伝ってくださいっ」

 

 ……どうしてそうなる。

 

 

 というわけで、様々な紆余曲折を経て今に至るわけである。

 する事もない以上、断る理由も無く俺は芽衣に唆されるままに掃除を手伝う羽目になっていた。ちょっと面倒になってサボってみれば見逃さず咎め、別の作業を押し付けてくる。おかしいな、俺の方が年上なのに顎で使われている感が凄いぞ。

 大体なんで俺が春原の部屋を掃除せにゃならんのかと、一度抗議をしてみたが、ほぼ毎日ここを使っている俺は反論しきる材料が無かった。

 

「手伝ってくれて助かりました。どうしてもわたしだけじゃ届かない場所とかもあるので、幸希さんが居てくれて良かったです」

「報酬は兄貴に請求するから、気にせずジャンジャン使ってくれて構わないぞ。その分あいつの負担が大きくなるだけだから」

「兄と仲が良いんですね本当に」

「今の何処をどう聞けばそんな勘違いが出来るんだ。耳の穴も掃除してやろうか?」

 

 お互い作業をしながら淀みなく会話を続けるぐらいには仲も深まり、建前を必要としないぐらいには言い合えるようになっていた。

 この妹、兄貴よりもよっぽど会話の運びが上手い。世渡り上手だ。営業とか接客業なんかさせたら、結構いい売上を叩き出すかもしれない。

 

「気になっていたんですけど、幸希さんの好きな人って杏さんなんですか?」

 

 何の脈絡も無く芽衣が切り出した話題は、俺の意表を突き沈黙させるにはベストなタイミングだった。

 

「い、何をいきなり言ってんだおお、お前。俺が杏を好き? なんの冗談でそんな、そ、そんなこ、こと」

「思いっきりどもってますけど、大丈夫ですか?」

 

 拙い、何を考えての奇襲であるかはわからないが、これは明らかに意図した質問だ。こいつはこの為だけに俺を懐柔しようとあの手この手をつかったのかもしれない。

 芽衣が俺の女神である杏の事を確認して、一体何の為になるって言うんだ。これが単なる好奇心であれば、単純に「好きな人いるんですか?」と訊くに決まっている。だが芽衣は、そうは訊かなかった。明らかに好きな人は杏だろ、とある程度断定してから質問してきた。いや、質問というよりもこれは、事実確認に近いかもしれない。ってんなことはどうでもいいんだよ。

 肝心なのは知られてはいけないという事だが、もうこれは不可能に近い。だとすれば次に講じる打開策は――口封じしかない。

 

「でもそうですか、幸希さんは“やっぱり”杏さんの事が――」

「――この事を誰かに漏らしたら、俺はお前の下の口に飴ちゃんをブチ込む。比喩じゃなく、本当に飴をブチ込む。しかも千歳飴を」

 

 周囲に誰も居ない今だからこそ言える最大の脅しを口走った。出来るだけ怖い顔を意識し、低く唸るような声を出して。

 

「――ひぅっ」

 

 効果は上々。悪戯っ子のような笑みを見せていた芽衣は、血の気が引いたように青い顔をして己の身体をかき抱いた。

 いかん、冗談のつもりで言ったんだが、反応が冗談じゃすまない感じになっちまってる。こんな所を見られたら、もし杏にでも見られたら確実に俺は墓場へ直送されてしまう。たとえば春原が来たとしても、そのあるのかわからない友情にヒビを入れる事になるかもしれない。

 すぐさま俺はしゃくりを上げる芽衣の前に四つん這いになった。

 

「すまなかった冗談だ! 頼む、出来る事なら何でもするから許してくれ! だから何も言わないでっ!」

 

 昔、まだ俺がガキだった頃。思い出すだけでも腸が煮えくり返る親父は、事あるごとに言っていた。

 男というのは人生で一度も土下座をしないで生き抜く事は不可能なんだよ。家庭を持ちたければ、なおさらな。

 今にして思えばそれは恋人の両親に、結婚の承諾を得る為だと思っていたが。まさかそれよりも早く土下座をする羽目になるとは。着替えイベントといい、土下座といい、この小悪魔みたいな少女は俺から二つも初めてを奪いやがった。

 

「……わかりました。さっきの言葉にはわたしも取り乱してショックを受けたので……今日一日、わたしと一緒に町でデートしませんか? 勿論費用は幸希さんが全部持って下さいねっ」

 

 この上さらに二人っきりデートの初めてまで奪うつもりなのかこの少女は。




 榊原幸希の脳内大公開。
 彼の脳内ではいつもこのようにして、沢山の幸希が議論を交わしたり、本能を増長させている。
 幸希が暴走した際、大体はこいつらのせい。つまり自業自得。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。