CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第十六回:臆病な少女

 まだまだ春の陽気が健在な暖かな風を身に受けながらスクーターのアクセルを更に開ける。

 ぐん、と速度が上昇すると、同時にそれを咎めるように止まれと風当りが強くなり、眼球を晒したままの状態に耐えられず瞼を細める。薄目で前方を注視しながら走っていると、端から感情が高まったわけでもなく涙が風に晒され横に流れたのを感じて、ゴーグルも買えば良かったと思った。

 スクーターに跨り駆ける少女は、次々に移り変わる景色を横目に、双子の妹にもう少し粘って起こしてくれてもいいのにと一方的な恨み言を溢した。というのも、彼女――藤林杏がこうして懲りずにスクーターに乗っているのには訳があった。

 教室の花瓶を交換するから、今日はいつもより早く家を出るから、芽衣ちゃんも一緒に出るからね。といつもよりも深く微睡んでいた杏に向かって説明したのち、もう一言ちゃんと起きる旨を伝えて椋が家を出た後、杏は見事に二度寝をしてしまった。昨晩は前回と同じく、再び芽衣を交えての深夜にまで及ぶ女子会が繰り広げられ、会話に花咲き、お菓子も多く消費された。それはいい。まだ杏もよかった。問題はその後だった。

 寝床についた杏は仰向けになって、ある事を考えていた。

 議題は最近の幸希の行動と、その結果作用した環境の変化であった。

 

「な~んか最近のあいつっておかしいのよね……」

 

 独り言は絶えず吹き荒ぶ風によってかき消された。

 昨晩も考えていた幸希の不可解な行動の理由に思考を巡らせながら、心なしかアクセルを閉じてスピードを下げる。考え事をしながらの運転は、危険に繋がると思っての行動であった。

 不審に思い始めたのは最近の事であった。それまでは気に留めなかった幸希の行動は、いまにして思えばある一つの出来事に収束しているのだと、直観的に杏は感じたのである。幸希が変なのはいまに始まったわけではないが。

 疑念が浮上したのは停学が決まった日の事だった。昼休みの教室に姿を見せた古河渚と、岡崎朋也の仲の良さを感じ取った杏はこれまでになかった変化を身を持って味わった。部活を毛嫌いし遠ざけ続けた朋也が、なぜ今になって再び関わり始めたのか。

 ただ単に部活動に再び目を向けたのであれば、彼の進歩に杏も称賛したであろう。出会った当初から部活動とは忌むべきものだと、どこか憧憬の色を混じらせて遠目に眺めていた彼が、今一度、一歩を踏み出すというならそれはとても喜ばしい。商店街のコロッケを一つ奢ってもいいと思う程には喜ばしいことだ。が、そこに女の陰があれば話は別である。

 部活は部活でも、過去朋也が在籍していたバスケットボール部ではなく、あろうことに傍らで肩を小さくして小動物を思わせる愛嬌を持った古河渚の望む演劇部再建の為に立ち上がったのだ。その事実は寝耳に水で、たちどころに杏は称賛の声を嚥下した。

 朋也に恋慕する杏からすれば、横槍を入れられたという焦燥を感じずにはいられない。しかも、二人の関係を固める助勢をしたのが、榊原幸希だったのだ。

 

『岡崎と渚ちゃん? 僕はよく知らないけど、榊原は何かと岡崎に色々アドバイスしたり焚き付けたりしてたような』

『ふーん、そう……幸希が、ねぇ』

『質問に答えたんだから、約束通り可愛い雌を紹介してよっ!』

 

 鼻息を荒くしながら迫る陽平に、杏は慈愛の笑顔を浮かべて花を摘まんだ手を差し出した。

 

『……なに、これ?』

『見ればわかるでしょ、花よ、は、な』

『んなこたぁ見ればわかるよ! そうじゃなくて、可愛い雌を紹介するから質問に正直に答えろと、そういったのは杏だろ!? 女の子は!? どこなのさ、もしかして連絡先とか、この花がヒントとでもいうつもり!?』

『よく見なさい陽平、ほら、キュウリの雌花よ。幸村先生に頼んで、特別に譲ってもらったの』

『それがどうしたんだよ、そんな薀蓄なんてどうでもいいから早く』

『可愛いでしょ、この雌』

『…………まさか、これ?』

『いまなら紹介するだけじゃなくて、譲っても良いわよ?』

『がぁあああああー! 騙されたぁぁああああ!』

 

 そうして得た情報が、幸希の不可解な、らしくもない行動であった。

 思いつきにしては成果が大きく、気まぐれにしては長続きしている幸希の行動は、杏の目から見てただ面白いからという理由だけではないと思えた。朋也だけではなくあの三人皆が部活には苦い思い出があるにもかかわらず、あえてその地雷を踏み抜いてまでの遊びであるはずがない。なにか、自分が思いもよらぬ企みがあっての事ではないか、と杏は考えている。

 昨晩はそれを考え続けたせいで夜更かしをしてしまった。だから、いま杏は寝坊をしてスクーターに乗っているのだ。

 

「あぁ~もうっ最悪、まさか一時間目を丸々睡眠で潰しちゃうなんてっ。それもこれも幸希のせいだわ!」

 

 諸々の失敗や憤りを、全てここに居ない幸希のせいにして杏はスピードを上げる。残像が連続していた景色が、一本の線状になりつつあった瞬間、身を揺るがす衝撃が全身を走った。

 前に進もうとする力が突然留まり、慣性に流され杏の身体はスクーターから投げ出され中を舞っていた。視点の高くなった景色を見て、ようやく杏は自分が事故を起こして浮遊しているのだと把握した。これまで何度も人身事故を起こしてきた杏であるが、それでもこれほどの事故は初めでだった。主観から目測するに二メートル以上は地面から離れている。

 そうか、いま自分は事故ってしまったのか。と他人事のように杏は緩やかに考えながら、被害者の姿を探した。これほどの衝突ならば、きっと冗談じゃ済まないだろうと内心で謝罪しながらその姿を見つけた。

 

「(良かった、ギリギリで避けたみたい。あたしがぶつけたのはガードレールだったんだ……っていうか、あれ朋也じゃないっ)」

 

 横倒しになったスクーターの近くで尻もちをついていたのは、杏が良く知り、またよく撥ねる相手であった。

 景色がスローモーションに流れていく中、朋也と視線が合わさり、その瞳が大きく見開いた。このまま落ちれば軽い打ち身程度では済まないだろうと、己の身体が重力に引かれ降下していくのを感じながら、杏はいずれ来る衝撃に身を固め瞼を閉じた。

 ――しばらくして衝撃は思いの外、柔らかいものだと感じた。

 

「……あれ?」

 

 痛みがない事を疑問に思い瞼を開けると、視界は広大に広がる大地ではなく空を見上げていた。

 アスファルトの匂いも、焼けるような痛みも、つんと鼻を衝く血の臭いもしない。これは一体どういう事だろうと、杏は状況を把握せんがために周囲を見回した。痛むだろうと思っていた首が上手く廻ると思ったとき、以外な声が頭上から聞こえてきた。

 

「ふっ、これぞラブコメにおける主人公体質の一つ。絶好のタイミングでの救出劇っ! なんという僥・倖! 世界も捨てたもんじゃないぜっ! ありがとう、お姫様抱っこという言語を生んだ人!」

 

 喧しく思う程の声量で、謳うように大仰に語る声に驚き視線を向けると、そこには見知った知人であり――さっきまで自分の不都合の原因を全て擲った対象が居た。どういうわけか感涙しながら。

 

「えっと……幸希、よね?」

「おうともさ杏よ! 如何にも俺様は榊原さん家の幸希様であるぞ。さぁ感謝せよ、我を崇め、崇拝しなくていいから桃色な展開を色々と見返りに進呈してくれ」

 

 妙に高いテンションの幸希に、怒涛のように流れ込む情報に溺れ思考が追いつかない杏は目を点にして固まった。幸希が何を言っているのかも、いまは理解できない。

 つまりどういう事だろうか、一体全体何がどうなってこうなったのか。どうして自分は無事だったのか。そもそもどうして幸希がここに居るのか。考えれば考える程に杏の思考回路は熱を上げ、次第に視界にまで影響を及ぼし始めた。太陽光が眩しいのか、思考と本能が分離するほどの熱量を生成したせいなのか、視界が白く色を覆い尽くし始めたと同時に。臀部に這い寄る不快感が杏を襲った。

 意思を無視した声が、勝手に発し、体が自動化して単一の行動をとり始めた。

 つまるところ、成敗である。

 

「いいから、降ろせーーー!」

「アイマムッ!」

 

 超空間より召喚した辞典による打撃攻撃。筋力に頼った暴風を生み出す暴力の塊は、頬をだらしなく緩ませた悪漢の横っ面目掛け激突した。

 一瞬の内に全身の骨を粉砕する悪魔のような攻撃力を持った辞典を、避ける間もなく一身に受けた幸希は、歓喜の声を上げながら重力を無視して真横へと飛翔した。暫く弾丸飛行を遂げた人体は、山の斜面に激突し二本の足を土から生やした世にも珍しい植物となった。

 

 

 ※

 

 

 杏が落ち着きを取戻し、朋也が倒れたスクーターを起こし、幸希が植物から人間へのクラスチェンジを果たした後、一同が寄り集まり顔を突き合わせた後、一帯には妙な空気が漂っていた。

 幸希の不可解さに冷静さを欠いた杏が事故を起こし、朋也が被害者になりかけ、大怪我を負いそうになった杏を、一連の原因にされていた幸希が助けた。この奇跡的な連続性は過ぎ去り、日常へと回帰したはいいが、杏を含め誰もが第一声は何を言えば良いのか迷っていた。

 今になってようやっと事態を把握しきった杏は、まず助けてくれた幸希に感謝をしなければならない。そうは思っているのだが、その後の暴挙がフラッシュバックしてしまいどうにも切り出せない。

 どうにか現状を打開してくれる者はいないかと、朋也の方に視線をやると、彼は苦々しい顔を杏の視界の外へと向けていた。一体何を見ているのか気になり見れば、そこには恍惚の表情を浮かべトリップしている幸希が立っていた。

 

「げっ……!」

 

 幸希からすれば恍惚なのだろう表情は、残念な事に杏視点では不快を催す形相であった。

 ハの字に広がった眉に、福笑いのような三日月に歪み細くなった目に、何事かを小声でつぶやき続ける口に――なにより不快を感じたのは、腰の辺りにちょうど花嫁を抱きすくめるようにして置いている手であった。掌を天に向けながら、その五指が節足動物のように蠢いているのだ。これはきっと、幸希に恋慕している椋であっても一度は引く光景であろう。

 何が彼をそうさせているのか。答えは考えるまでもないが、それを杏は予想すらしない。

 

「はぁ……なんだこれ」

 

 ここにきてようやく意味を持った言語を発したのは朋也だった。彼はどこか違う世界へと精神が旅立った幸希を見て、呆れたように額に手を当てかぶりを振った。

 状況を嘆いた朋也の言は、杏も同意出来る。まさしく、なんだこれである。本来なら真面目に経緯を話し、謝罪し、感謝すればいいだけ。たったそれだけなのである。なのに、幸希の変貌の威力に中てられそれが全うできない。

 

「なんかもう、あたし疲れたわ……」

「奇遇だな、俺もだ」

 

 諦念にも似た感情を溜息と共に吐き出し、二人は未だ旅人となっている幸希を一瞥した。

 

「どうする? こいつ」

 

 言うまでもなく、どうやって処置するかを杏は問いかける。

 意見を求められた朋也は、難しい顔をして束の間、よしっ、と発して杏に告げた。

 

「もう一発かませば治るんじゃねえか、多分」

「そうね、そうするわ」

 

 迷う余地は一切なかった。自分の一撃によってこうなったのであれば、もう一度繰り返せば元に戻るだろう。なるほど、思いつきにしては納得のいく提案である。それならば善は急げ、幸希を救う手段であるためこれは善行だと判じて杏は辞典を振りかぶる。

 ――狙うは二ヶ所。不快な面と、不愉快な手つきを二ヶ所。

 壊れたテレビのように単一の音と映像しか映さない幸希に向かって、両手を大きく後ろに伸ばし、腰を仰け反らせ、肩を起点に大きく半円を描いて頭上を通って辞典が投擲される。その速度は、三メートルにも満たない近距離で亜音速へと達し、瞬く間に幸希の顔面を粉砕し手を歪なオブジェへと変質させた。

 衝突の瞬間、キュッ、と短い悲鳴が聞こえたが、聞き入れた時には既に発声源は遠い山肌に再び突き刺さっていた。

 

「というか、なんであいつが居たのよ」

「俺が知るかよ。あいつの奇天烈さは今に始まったことじゃないだろうに、今更頭を抱えたってもう遅いぞ」

「人類としての限界を越えてるとしか思えないわ」

「そりゃ、俺からしたらお前も同類だぞ」

 

 聞き捨てならない言葉が聞こえたが、杏は黙殺する事にした。彼女は一応、朋也を轢きかけた暫定加害者なのだから。

 願わくばこのまま有耶無耶に終わってほしい所であるが、それも幸希が正常に復活を遂げた事によって泡と消えた。何事も無かったかのように、体中に付着した土を払落しながら歩み寄ってきた。

 

「ったく危ねえな杏、バイクに乗るならボーっとしてちゃ駄目だろうが」

「なんでだろう……確かに悪いのはあたしなのに、この素直に謝ったら負けな気分。ダイエット中にふくよかな女の子から“自制心が足りないのよ”なんて言われた時の気分に似てるわ」

「言いたい事はある程度分かるが、それ似てるだけで意味合いはかなり違ってくるぞ」

 

 助けてくれた幸希には感謝すべきなのはわかっている。しかし、杏の中でいまこの男に謝罪をすれば、事あるごとに引き合いに出されるだろう。そう、弱みを……借りを作る事になってしまうのだ。よりにもよって幸希に対して命の恩人なんて莫大な借金を。

 一生の不覚に杏は歯噛み、苦悩した――瞬間だった。天啓が降り立ったのは。

 雷光の如き速度で被雷したそれは、杏にとって一発逆転の切り札になりえるものだった。上手く行けば、彼の方が大きな負債を背負う事になる、悪魔のような手であった。

 

「ねぇ幸希……あんた、あたしのお尻触ったでしょ」

「――ッ!?」

「お前それ、普通に駄目だろ」

 

 付き物の取れた爽やかな賢者のような態度が一転、パグのようにしわくちゃに皺の寄った渋面になって幸希は押し黙った。ばれてないとでも思ったのだろうか、額に滝のような汗を流しているのを杏は見逃さなかった。

 偶然臀部を触れたのであれば、杏とて鬼ではない、とっさに彼女を助けるための不可抗力であれば見逃しもした。だが、それだけにとどまらなかったのが、幸希の落ち度、いわば墓穴なのである。沈黙を守りとおす幸希に、すかさず杏は追撃をかます。

 

「それだけじゃなく、あまつさえ揉んだでしょ」

「…………知らない」

「知らないじゃないわよ! あたしのお尻揉んどいてしらを切るなんて、お天道様が許してもあたしは許さないわよ!?」

「…………存じ上げません」

「丁寧に言っても駄目っ!」

 

 言い逃れなど許さず杏はじりじりと詰め寄る。

 電車内での痴漢を咎められ退路を失ったような幸希を見ていると、哀れに思いつつ自業自得であろうと、それまで傍観していた朋也は口を挟もうとして開いた口を再び閉じた。

 よりにもよって朋也の目の前で痴漢行為をされるとは、杏は今にしてその重大性を理解して赤面した。好意を寄せる人物の前で、他の男に身体を触れられた。覆しようのない事実に、もう一度幸希を折檻しようとも考えたが、思ったほど自分がそれほど怒り狂っていない事に気がつきいったんは止めることにした。

 なぜ、普通なら警察に突き出してもおかしくない被害を被ったのに、それに見合う怒りが湧き上がらないのか。二度の折檻によってある程度怒りを消費したからなのか、それとも、また別の?

 榊原幸希とは一年前からの、朋也たちと同時期に知り合った友人である。二年生に進級したあの時期、杏の周りにいた同級生たちは皆、受験を見据えて生活の遊びを勉強に振り、次第に疎遠になっていった。受験が大切なのはよくわかるが、それでも自分とは何かがズレていると思っていた矢先に同じクラスの三人が目に入ったのだ。

 その頃から既に不良として忌避されていた三人は、話してみれば随分と愉快な人物たちであった。腰掛け程度の顔見知りが、いつの間にやら友人として確立していたのだ。あげく、その内の一人に恋し、恋されるとは杏も思ってもみなかっただろう。

 過去を振り返って気が付いた。杏は幸希との友人関係に居心地の良さを感じていたのだ。いつだって自分に大きな被害をもたらさない彼は、暴君のような振る舞いとは裏腹に、杏の前ではただの愉快なピエロであり続けた。それが杏にとっては居心地がよく、出来る事なら捨て置くことなんてしたくない、大切な場所なのだと気が付いた。

 

「(今回の事だって、あたしを助ける為だったわけだし……うーん、仕方ない)」

 

 恩人と痴漢の、彼女の中にある諸々の価値観を混ぜ合わせてつり合いがとれていた天秤が、ここにきて恩人に傾いた。

 何はともあれ、幸希は杏を救ったのだ。彼女はまだその事についてまだ感謝をしていない。ただ一言、ありがとうも言えない自分がいたとは、己の恥知らずさで燃え尽きそうだ。

 

「幸希……」

「ハッ、なんでしょうかゴッド」

 

 水に流そう。そう決めた途端に、足元に跪く幸希を見下ろしていると、その気も削がれていく。何処までも真面目に応対するつもりが無い彼に、だけど怒りは湧かず、常となっている日常を垣間見て心穏やかな気分になるのを杏は感じた。

 

「……ありがとね」

「おう」

「ま、今回はこれに免じて許してあげるわ。こんな所で殺人犯になっちゃったら、二つの意味で椋に泣かれちゃうわ。でも、次は無いんだからね、わかった?」

「……存じ上げません」

「丁寧に言っても駄目っ!」

「俺、もう学校行っても良いか?」

 

 

 ※

 

 

 一悶着が落ち着いた後、杏はスクーターをいつもの隠し場所に留めて校舎に入っていた。

 それまでの事を思い返すと頭が痛くなる杏であったが、それを顔には出さずに自分の教室へ入った。クラスメイトが遅刻の理由を、好奇心のみで訪ねてきたり、クラス委員としての仕事を頼まれたりと、きて早々忙しくなった彼女の回りは人の渦のようになっていた。

 珍しくもない。杏は持ち前の男勝りな性格が故、人当りが良く、不良にも臆さずものをいう事が出来ると思われている。頼りにされるのには慣れていた。

 遅刻によって生まれた遅れを消化し一息吐いた所で、杏は妹がいるD組に顔を出そうかなと考えた――のだが、登校途中に幸希から得た判断要素と、朋也から聞き出した判断材料を思い出し、足が思わず止まってしまった。

 無罪放免の沙汰を下した後、杏は現在進行形で遅刻を更新し続けているのを承知で、色々と気になっていた事柄を幸希に質問することにしていた。とは言っても、その場には朋也も同席していた為、彼と渚の関係を直截的に尋ねるのは気が引けた。

 

『最近のあんた、なんか色々と似合わない画策とかしてない?』

『ん? 何の事だそりゃ』

 

 まどろっこしい言い回しを嫌い、単刀直入に、しかしぼかしつつ問うたが、幸希の返答は恍けた様子もなく本当に意味が理解できないといった具合のボケ具合だった。

 学校内で一番付き合いが長い陽平でも、幸希の考えることは理解出来ないのだから、いまこの男が何を考えているのか探るのを諦めていた。幸希が駄目ならば、朋也に聞けばいいのだ。肝心要の部分は包み隠して……。

 

『あそ、まぁいいわ。じゃあ朋也、なにか最近幸希に色々押し付けられたり、提案されたりしたことある?』

『そのぐらい、いつもされてるのはお前も知ってるだろが。なんで改めて苦労話をせにゃならんのだ』

『い・い・か・ら』

 

 余計な時間は食いたくないのだ。説明は簡潔に、わかりやすくかつ彼女が求めた内容を的確に答えてくれるとちょうど良い。

 杏の目に映らない場所で、誰かが息を呑んだような音が聞こえた気がした。

 

『そうだな……ま、最近だったら殆どが古河絡みだな。風子を押し付けたり……失敗したと思った時とか、この間飯に誘わされたり。あれ、よく考えたら俺、色々と面倒事やらされてないか?』

『演劇部復帰を手伝ってるのも、幸希に唆されたから?』

 

 いまの言葉で十分わかった。しかし、この質問は果たして今の杏に必要な疑問なのだろうか。

 幸希の画策を探るという理由で証言を求めた朋也に、答えられれば決定的なものを突き付けられる質問を、いましてもいいのだろうか。会話の流れで言ってしまった事に気が付き、杏は己の迂闊さを呪いたくなった。ここで“自分の判断”で助勢しているとわかってしまったら、平静を保つなんて難しい。

 聞きたくない。でも、やっぱりいいなんて言って、意味深にとられるのも嫌だ。まだ自分は気楽な片思いをしたままでありたい。

 変化してしまう環境が、どうしようもなく怖いのだ。

 今更どうにも出来ない杏は、耳を塞ぐ代わりに瞼を閉じて世界との関わりを遮断した――その時だった。

 

『岡崎、お前今日は早く学校行った方が良いぞ』

『は? 突然なに言ってんだお前?』

 

 思わぬところから援護射撃が飛んできた。

 

『春原が、今日という今日はこれまで岡崎に僕の怖さを教えてやる、とか息巻いてたぞ。あの蟻程度の脳みそしか持ってない奴が何するか知らんけど、何であろうとお前には損しかない事すると思うぞ。あいつ馬鹿だし』

『やべぇ……言えてるとしか答えられない。クソッ! 悪いが杏、俺は先に学校に行かなきゃならんらしい、話なら後で聞くわ! じゃあな!』

『え? あ、う、うん。じゃあね』

 

 あっけに取られている内に朋也は固い表情をして学校へと走って行った。

 正直、助かったと思った。あのまま答えを聞いてしまえばきっと、杏の中で何かが変わってしまった予感がしていた。朋也の答えがどちらにせよ。

 本心では否定して欲しかった。朋也の事が好きな杏にしてみれば、他の女子と仲良くしている様を見ているのは胸が痛む。相手の女子を恨んでしまえば痛みも和らぐのかもしれないが、その相手は悪し様に言おうとしても、その要素が見当たらないほどに純粋な子であった。

 古河渚は、間違いなく杏にとって友達になりたいと思える程可愛く、恨み辛み妬み嫉みとは無縁の足跡一つない新雪のような存在なのだ。だから杏は、彼女を恨むという安易な道を歩めない。それに、安易に妬みの道を行くのはみっともないという気持ちもある。何処までも彼女は己に厳しさを強いるのだ。

 だから幸希の援護には感謝したかった。が、面と向かってそれを言ってしまえば意味がない。悟られまいと苦悩していたのに、悟らせるような言動をしては本末転倒だ。幾重にもオブラートに包んで、遠回しに伝える事にする。

 

『いまの、陽平のちっちゃな野望は本当の話なの?』

『嘘に決まってるだろ。先祖代々小物の小物による小物のための人生を積み重ねてきたあいつが、そう簡単に遺伝子レベルで逆らうわけないだろ』

『そうよね、陽平じゃ何をどう頑張ろうと不可能よね。じゃあ、何の為にあんな嘘を吐いたのよ、また思いつき? 面白そうだから? だとしたらあんたって、本当に快楽主義のケでもあるんじゃない?』

『決まってるだろ、お前が困った顔してたからだよ』

 

 だから手助けをした。そう優しく、なんてことの無いように断言した幸希に、杏は声が出なかった。

 いつの頃からか、幸希は度々こういった“ワザとらしい”キメ顔で、決め台詞を言うようになった。おそらく本人は格好つけているつもりなのだろうが、普段の生活態度を良く知る杏からして見れば滑稽の二文字に収まってしまう。

 あからさま過ぎるから、それが嘘に決まっていると杏は決めつけているのだ。だから安心して杏は、いつものようにキツい言葉を浴びせられる。

 

『そういうのは椋に向かってやりなさい。あたしにしてどうすんのよこの朴念仁』

『…………あい』

 

 こうして振り返ると、朋也の弁を信ずるならやはり幸希は彼に何かをさせようとしていると思えた。

 古河渚と岡崎朋也をどうにかしようとしているのだろうか。だとしたら、杏にとってそれは非常に都合が悪い。否定する材料が欲しいが、この線で考えるのが一番可能性が高いのだ。突然朋也の隣に現れた渚の姿、今はまだ一度しか顔合わせをしていないが、朋也にしては珍しく特定の人物と長く付き合っている。

 渚にカマかけでもして確かめるか。想う故に思案していたが、杏は自分にそんな勇気が無いことを良く知っていた。己の事になると臆病なのが自分だと、わかっていて直そうとしないのはそんな勇気すらないからだ。

 よって今はこの件については保留しようと決めた。幸希の行動は怪しいが、だからといって自分に何が出来るというわけでもない。彼の人柄を考えれば、杏にとって最悪の結果をもたらすとは思えないという――信頼からの保留だった。

 自分の事よりも、まずは双子の妹の恋を成就させるのが先決だ。どこまでも自分らしく杏は席を立って椋が居るだろう教室へと向かった。きっと、椋は幸希の姿がなくて気落ちしているに違いない。想像するとその光景が鮮明に脳裏に浮かび、思わず杏は微笑みを溢した。

 椋のクラスはD組であり、杏はその隣のE組だ。よって教室は隣で、移動にはさして時間を要しなかった。

 

「椋ー?」

 

 引き戸の扉を開け、妹の姿を探す――までもなく彼女は自分の席について、クラスメイト達にせがまれるまま占いをしていた。

 椋の占いはトランプ占いという非常に奇怪な代物である。また、椋の占い方法はその都度変化し続ける。扇状に広げたトランプから一枚取らせたかと思えば、次の相手には真剣衰弱をさせたり、カードシャッフルの最中で落としてしまった時に表になったカードで占ったりと、その種類は多種多様存在している。占い師の彼女曰く、“乙女のインスピレーション”らしい。

 占い中であれば終わるのを待とうとして、杏は陽平でも弄って時間を潰そうとしたが、不在だった。まだ学校に来ていないのだろうか、朋也の席も見れば姿は見当たらない。

 手持無沙汰になり教室の壁に身を預けて数分、女子の列がはけて解放された椋がやってきた。

 

「待たせてごめんねお姉ちゃん」

「いいのよ、久しぶりに椋が占いしてる所を見られたし」

「そういえば最近は余りやらなかったね。それで、どうかしたの?」

 

 晴れやかな表情で答える椋に、これまでなかった自身が芽生えたように見え、杏は一瞬だけあっけにとられた。

 

「特に理由はないんだけどね、今日学校に行く途中で幸希を見たから、椋に知らせようと思ってね」

「それならわたしも、今朝偶然に榊原くんと会ったんだよ」

 

 なんの偶然か、椋もまた幸希と顔を合わせていたらしい。となると、杏が幸希と出会ったのは、既に椋と別れた後という事になる。

 それなら言ってくれればいいのに、と内心で独りごちたが杏にそれを伝える義務など当然幸希には存在しない。聞かれなかったから。そう言われれば何も言い返すことが出来ない。ただ単純に杏がこの事を秘匿されていたのを気に入らなかっただけなのだ。椋についてのことなら、その場でなにか入れ知恵を出来たやもしれない。みすみす逃したのを惜しく思いながら、杏は椋の話に耳を傾けた。

 

「どうしてなのかわからないんだけど、朝学校に行ったら、校門で坂上さんと何か話してて……その後、頑張って話しかけたの。おはようございますって……」

「って、それ朝の挨拶だけじゃない」

「うん。でもわたし、その後沢山榊原くんとお話したんだ」

 

 満ち足りたように語る椋に、良い方へと変化し始めたと杏は感じた。

 

「なんか変わったね……椋」

 

 心からの感想であり、称賛であった。自身の無いが故に奥手で引っ込み思案。他人の頼みごとを断れず、苦笑いの奥で涙を流す彼女が、今やそれらを霞ませる強さを見せている。

 杏の後ろにいた彼女が、もう杏という建前を必要としなくなった。籠を巣立った小鳥は、しみじみと漏らした杏の言葉に笑顔で答えた。

 

「いつまでも立ち止まったままじゃ、何も変えられないと思ったから。だからわたしは、変わろうって……そう思ったの。ねぇ、お姉ちゃんは……」

 

 前向きに物事を考える言葉は杏を安堵させるが、語尾にとってつけられた己に対する言葉は……。

 

「お姉ちゃんは……自分の事だけを頑張ってもいいと思うよ」

「椋……それは」

 

 自分の事だけを。姉を気遣っての言葉であろう椋のそれは、杏にとっては突き放されたと思ってしまう程の衝撃であった。

 どこか椋の恋路にのみ従事し、お節介を続ける事に安心感を持っていた。朋也の事は変わらず淀まず好きであるが、好きという気持ちと向き合うのが怖かった。一度春の平原から、冬の山脈に放り出されるようで身体が凍てついて思うように動かなくなるのだ。だから杏は自らに“椋の恋が先決”という都合の良い、面の良い免罪符を張り付けたのだ。

 何も困る事はない。これまではそう思っていた。

 だが、朋也の隣に渚という少女が居つくようになった。朋也もまたそれを受け入れている。椋はこの二人の危うさを察知して杏を気遣ったのだろう。杏とて二人の関係には焦燥感を感じていた。だから幸希に問い詰めたり、朋也に詰め寄ったりして事実確認をしたのだ。

 つい先ほどまで、幸希を信頼して保留にしたが、椋はそれを知らないし教えるつもりも無かった。この状況は非常にややこしく、憶測でしかないのだから。

 

「あ、あたしの事はあんたの後でいいのよ後でっ。それよりほらっ、あと数日はあいつ学校に来ないんだから、こうなったらどうにかして自宅を調べて、多少は成長した料理スキルを――」

「お姉ちゃんがこれまで提案したことは、全部自分で頑張ってみるから、だからお姉ちゃん……」

「いいからお姉ちゃんに任せなって、絶対あいつをその気にさせてやるんだから。じゃあそろそろ休み時間終わるし、もう行くね」

 

 逃げるように杏は教室を後にした。

 間違いなく椋は杏を心配して、思いやりからの提案だった。それは一重に姉に対するこれまでの感謝の意からの、純粋な提案で、いつまでもこのままではいられないと予感した椋との決別でもあった。

 椋が自信を付け積極性を獲得しつつあるのは喜ばしい。だが彼女の求めたモノは杏から離れる事で初めて得られるという事が、杏を悩ませる。椋が姉をあてにしていたのと同じく、杏もまた妹を隠れ蓑にしていたのだから。

 

「(うまくいかないな……)」

 

 ままならない。姉妹揃って面倒な恋をしている。もっとも、面倒にしているのは彼女らの煮え切らない態度も一因しているのだが。

 これまで姉に隠れて思うようにアピールが出来なかった椋。

 これから妹を理由に自分の恋から逃げる事が出来なくなった杏。

 今日まで姉に助力を求めた妹はもう居ない。

 今日から妹を理由に求めた姉が姿を見せる。

 それもこれも、幸希が画策したと思われる行動が起因している。

 

「(一体なに考えてんのよあいつ。もう、わけわかんないわよ)」

 

 ある種均衡を保っていた関係が、いまにしてバランスを崩し始めた。

 あるいは始めから、一風吹けば崩れる脆い牙城だったのかもしれない。

 杏に椋の弱さを責める事は出来ない。彼女もまた、弱いのだから。

 独り廊下を歩きながら、杏は幸希の停学が解ける日数を指折り数えていた。


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