CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第十五回:定まり、変わる朝

 夕焼けが顔を隠し始め、反対方向から夜が顔を表し始めた頃。

 古河パンで晩飯を買いに来た俺は、紆余曲折あって二階の居住区、居間にあるテーブルに前のめりになって座っている。

 左手には何処から持ってきたのか、四角い木片。利き手の右には彫刻刀を持っている。

 集中していた意識を切らして顔を上げると、周りにはテーブルを囲うようにして古河家一同……いや、おっさんは抜きで。あと、面倒そうな顔で手の進む速度が遅い岡崎と、恐らくこの状況を作った張本人だろう風子が熱心に作業をしている。

 

「(なんで、俺こんなになじんでるんだ?)」

 

 この店に来たのはまだ二回目だ。しかも二階の生活空間には一度だって来たことが無い。

 娘の友達だ、という事だけでこんなにも簡単に男を上げるだろうか。俺が父親だったら、連れてきた男の頭をサッカーボールにしてハットトリックを決めてる。

 見るからに娘を溺愛していそうなあのおっさんの事だ、てっきり何かしら文句をつけるだろうと思ったが杞憂だったようだ。

 黙々と彫刻量産し続けていると、手が慣れてきたのか段々と速度が上がり、同時に精度も上がってきた。いつも色々な不意打ちグッズを手作りしている器用さが功を成したんだろう。

 

「おら、七つ目出来たぞ」

「凄いです榊原さん。こんなに早く作れるなんて」

「器用な奴だな」

「流石は風子が認めた人です」

 

 賛辞を受けるのは悪い気がしない。取り柄なんてサッカーぐらいしかなかった俺が、こうして褒められるってのはなかなかいい気分だ。

 調子に乗ってさらに量産するために作業に集中する。反復作業はあまり好きじゃないが、パンが安くなるならお安い御用だ。

 

「古河、そっちにある木を寄越してくれ」

「はいっ、どうぞ岡崎さん」

 

 多分岡崎は古河は古河でも、古河渚の方に話しかけたんだろう。けど、実際に動いたのは母である古河早苗の方だった。にこやかな慈愛に満ちた笑顔で差し出している。

 

「いや、早苗さんじゃないんだけど……まぁ良いか、ありがとうございます」

「どういたしまして」

「ちょっとまて岡崎」

 

 手渡しで受け取った岡崎に向かって俺は提言する。

 

「なんだよ榊原、腹でも痛いのか? トイレならあっちだぞ」

「違うから、あとさりげなく嘘教えるなよ、トイレはこっちにあるのを確認済みだ」

「犬みたいなやっちゃな。で、なんだよ?」

「なんで古河の母の事は早苗さん、って呼ぶのに、古河の事はそのまま苗字で呼んでるんだ? 紛らわしいから古河の母の方が反応しちまったじゃないか」

 

 古河家に居るんだ、このまま古河と苗字で呼んでいては何度このアホなやり取りを見る羽目になるのかわかったもんじゃない。

 俺が何を言いたいのか、察した様子の岡崎は照れくさそうに古河を一瞥して、視線に気が付いた古河もまた照れくさそうに頬を染めて俯いていた。もう付き合っちまえよ、お前たち。

 

「いつまでも苗字で呼びあうなんて、他人行儀はよそうぜ岡崎。友達なら、仲睦まじい間柄ならっ……名前で呼び合うのが一番じゃあないか?! なぁ! 風子もそう思うよな?!」

「………………」

 

 駄目だ、トリップしてやがる。

 自分で作った物で恍惚に浸る。これは例えるなら自分で描いたエロい漫画で、自分で…………な事するのと変わらないんじゃ。とんだ自給自足だぜ。

 ツッコんだ話題に古河の身体が萎縮し、岡崎が手に持っていたヒトデをテーブルに音を立てて乱暴に置いた。

 

「まてまてまて! どうしてそうなるっ、というか、お前楽しんでるだけだろ」

「だってさー、こうして家にまで遊びに来て、名前も呼ばないで俺を糾弾とか……どれだけヘタレなんだよお前」

「あァ? ……お、おまえなぁ……」

「古河の母もそう思いませんか? こいつ、娘とこんなに仲が良いのに名前で呼んであげてないんですよ。あなた方が一生懸命、愛情をこめて付けた名前を!」

 

 舞台役者のような大仰な素振りで俺は大袈裟に言ってみた。誰かが背中を押して突っ走らなくちゃ、いつまでも煮え切らない感じになるかもしれないから。

 俺としては、一刻も早く岡崎に彼女が出来て安心したいのだ。空気が読めないと罵られようと、嫌でもこの二人を意識させなければならない。

 

「そうですねぇ、確かに岡崎さんには渚の事を、ちゃんと渚と呼んで欲しいです。お願いできませんか? 岡崎さん」

「お、お母さんっ?」

「恨むぞ、榊原……」

「あはははっ、超おもしれー」

 

 さて、良い具合に場も温まってきた事だし、そろそろ更なる燃料投下をしてみるか。

 彫刻作業を中断して、古河の母に問い詰められている岡崎と、その隣であたふたしている古河を尻目に俺はその場から腰を上げた。そうして階段の方へと向かい、一階で煙草をふかしているだろうおっさんに聞こえるような声量でわざとらしく言ってみる。

 

「あぁー! 岡崎が女と言う女を手籠めにしようと―――!」

「ぬぁあああにぃいいいーーーっ!?」

 

 地鳴りがして階下を覗いてみると、憤怒の形相で駆けあがってくるおっさんの姿があった。この家族って、どいつもこいつも単純すぎないか?

 高速で駆けあがってきたおっさんは、とっさに壁際に寄りかかって置物に擬態した俺に気が付くことなく岡崎達の居る居間へと向かって行った。

 

「てめぇ、俺の女達に手ぇ出すたぁ、良い度胸してんじゃねぇか!」

「誤解だっ! この状況の何処を見ればそう思えるんだよ、榊原の悪質な陰謀に決まってるだろっ!」

「失敬な、俺は事実を言ったまでだ」

「どこをどう見れば事実なんて言えんだ!」

 

 事実だろ。というか予言みたいなものか。絶対にお前は古河と一緒になってもらうってな。

 言葉ってのは口にすると力が宿るって言われてる。それを昔は言霊とか言っていたが、俺はこれはあながち間違ってはいないと思っている。だって、こう言われれば相手は……古河渚は十中八九岡崎を意識するだろう。

 友達が少ないだろう彼女は、恐らく岡崎が一番近しい友人であり、一番近い距離に居る男性だ。あとはそれを焚き付けて意識する回数を増やせばいい。我ながら頭脳プレイだと思うぜ。

 

「小僧、本当に手ぇ出してないんだろうな?」

「おっさんの目は節穴か? どこからどうみても違うだろが」

「ってこたぁなんだ、俺はお前に謀られたって事か?」

 

 じろりと鋭い目つきを俺に向けてくる。不良少年がそのまま大きくなったようなおっさんの眼光は、しかし敵意も悪意もこもっていそうには見えない。

 

「ちょいとしたジョークだよアメリカンジョークだ」

「……アメリカのコメディアンに謝れ」

「お父さん、岡崎さんは何も悪いことはしていませんっ」

「ちっ、渚に免じて今回は許してやろう。ただし、もし娘が欲しいってんなら力づくで奪うぐらいの気概を見せてみな! つっても渡す気はねぇがな!」

 

 そう言ってのけて豪快に笑し飛ばし、おっさんはそのまま居間に居座った。この人の家だから俺がとやかく言う資格なんて欠片もありはしないが……店番しろよ。

 俺の手にはもうすぐ八つ目が完成しようとしているヒトデがある。そもそも、何故こうして俺が風子のヒトデ量産計画を手伝っているのか。原因を説明するには時間を少しばかり遡る……必要なんて全くない。一言で言えば、巻き込まれた、だ。

 春原との帰路の途上、古河パンで夕食をと思い立ち寄ってみるとどういうわけか風子が居たのだ。聞けば風子は、いまこの家に厄介になっているらしい。

 ならばなぜこの場に岡崎が居るのかという疑問が浮かび上がったが、この事実事態に不満は一切ない。二人の仲が進展するのは俺としては望ましく、好ましい展開だからだ。どうやら岡崎は、俺が押し付けた風子が持つ願いの手伝いをさせられているらしい。

 

「何も訊かずに、言われるままに作業してたが、こんなにヒトデを作ってどうするんだ?」

「風子の姉貴が結婚するらしくてな、その式の招待状らしい」

「ヒトデが招待状? その式はヒトデ祭りでも開催するつもりなのか?」

「なんですかヒトデ祭りというのは? 風子、気になります!」

 

 要らん事を言ってしまったらしい。意図せずして問いかけた言葉は、風子の興味の琴線に触れたらしく好奇心を露にしてテーブルから身を乗り出した。

 そう言えばそんな理由だったな。数日風子に会ってなかったから完全に忘れていた。

 

「それはどういったお祭りなんですか、榊原さん?」

「古河まで……、こいつの言うことに一々耳を貸すな。訊くだけ無駄だぞ」

「そんな事はありませんっ、岡崎さんはヒトデ協会の方を見誤っています。きっとヒトデ祭りとは、とても――はぁ~……」

 

 トリップしやがった。

 しかし岡崎よ、折角俺がお膳立てをしてやったというのに、未だ古河渚のことを苗字で呼び続けるとは。ヘタレ也。

 古河家の食卓を囲みながらの騒々しい喧騒は、どこか俺を隔絶させる温度を持っている。

 “家族”という集団に傷痕を持つ者からしたら、笑顔の花咲く家庭というのは非常に居心地が悪い。このヘソの裏が痒くなるような感覚が嫉妬だというのはわかってる。似たような傷を持つ岡崎にもこれを感じただろう。しかし、彼は今古河家と風子に囲まれ一緒に、ぎこちないながらも笑顔を浮かべている。

 いい事だろう。友人の傷が癒えようとしているのだ。祝福すべき成果だ。

 

「(だけど……)」

 

 そうは思っても、頭で理解をしても、心という実態のない臓器がキツく締め付けられる。

 願っても得ることの出来ない物を、人はどうせ大した物ではないと、自分には必要ないと決めつける。すっぱい葡萄とはよく言うもので、例に漏れず今の俺もまたこの光景を、どこか安っぽいものだと断定している。酷く下らない、滑稽な人形劇を見ている気分であるよう自分を律している。

 杏の想いを一身に注がれ、尚且つ間接的とはいえ家族の温かみを得る。

 あぁそうか……羨ましいんだ、俺は。

 

「悪いけど、俺はここらで失礼するぞ。晩飯を食わなくちゃならないからな」

「なんだ小僧、もう帰るのか? もうすぐ早苗が作る飯が出来るんだ、食っていけよ。なぁ早苗?」

「えぇ是非、晩御飯がパンだけでは若い体には足りませんよ」

「いや俺は」

 

 断ろうと座っていた尻を上げ中腰になったとき、おっさんが制するように手を差し出した。

 

「早苗の作ったパンじゃあ悲惨すぎて物悲しいだろうが、いいから食ってけ小僧――――って、やべ」

 

 まさか当の本人が居るこの場で口走るとは、なんて馬鹿なのだろうか。岡崎や古河はやってしまったという顔をして俯いていた。

 見ればおっさんの前のテーブルには缶ビールが転がっている。いつの間に飲んでいたのか知らんが、原因は恐らくこれであろう。酒に酔って調子付いたおっさんは、頬を赤らめながら悲愴感漂う表情をしていた。

 

「わたしの……わたしのパンは――」

「ち、ちがうんだ早苗っ訊いてくれっ!」

「じゃっ、俺はこれで」

「あっテメッ、逃げるつもりかっ!?」

「悲しみの象徴だったんですねぇー!」

 

 非難の声を上げるおっさんの横をすり抜け、お決まりの如く早苗さんが階下へと走って行った。

 以前ならここでおっさんが早苗さん特製のパンを口いっぱいに頬張って追いかけるのだが、残念ながらここにはそのパンがない。いや、正確には“俺の”持っている早苗パンしかない。

 周囲を素早く見回したおっさんは、俺の傍らに置いた袋に目を付けた。

 

「くそっ、俺は大好きだぁーーー!」

 

 しじみパンの入った袋を強奪し、豪快に頬張ったおっさんはそのままくぐもった声で愛を叫びながら去っていった。

 ……俺のパン。

 その日の晩、結局俺はそのまま春原の部屋へと戻り、手ぶらの俺を見た春原が訝しげな眼差しを向けてきたので目潰しをした。

 バイト中、腹の虫がうるさくてしょうがなかった。

 

 

 ※

 

 

 早朝の日差しを身に浴びながら、人通りの少ない道を歩くのは黒いベスト姿の幸希であった。

 夜から日が昇る朝方にまで彼のバイトは続き、その疲労と睡魔は十二分に高まっていた。高校生という身分上、十時以降のバイトはご法度であるのだが、幸希はそれを超過して働いている。

 業種は夜中のみ営業している飲食店。昨晩はこの町では数少ない、オーセンティックなバーでバーテンダーとして従事していた。労働時間を破っている上、酒を提供する店に勤めるのは当然ながら褒められるものではないが、幸希はそれを押し通している。

 バーのマスターとは間接的な旧知の仲であり、彼の環境も苦悩も少なからず理解を置く人物であった。この立場を利用して、幸希は無理を言って働かせてもらっていたのだ。

 深夜手当てが欲しかった幸希からすれば毎日続けたいが、店の売り上げもそこまで良くはないため、給料も多くは支払えない。よって、幸希が働くのは週に三日程度だった。なのでバーでのバイトがない日は、日払いの土木作業をして金を稼いだりしている。

 

「……眠い」

 

 ほぼ丸一日眠っていないことになる幸希は、睡眠欲に勝てず眠たげな目をして歩いていた。どうせこの時間に外をうろつく人物など年老いた者しかいないだろう、という偏見によってだるそうな風貌を隠そうともしていない。

 店から徒歩で帰宅中。ふと、幸希は気まぐれに自分が通う高校の前を通り過ぎようと思い、進路を変更した。

 早朝なので一般生徒が登校することはあまりないが、それでも部活動や委員会に席を置く生徒が登校することはある。道を変え学校が近づくと、そういった理由ある生徒の姿がちらほら見え始めた。

 これから何時間も学校という牢獄の中で過ごすはめになる生徒たちを見ながら、幸希は頬を吊り上げた。

 

「はっ、朝早くからご苦労なこって。お前らがこれから汗水流す間、俺は惰眠を貪ってやるからな」

 

 小さい男だった。

 停学中の価値を底上げする為に彼は高校に立ち寄り、あまつさえ世間の目で見れば自分よりも真っ当な生徒たちを見下し、嘲ることで優位性と充実感を補填しているのだ。これだけでも彼の意地の悪さが見透かせる。

 が、これを責める者は居ない。

 聞こえていようとも、一度牙を剥けばその代償は高くつと彼らは思っているからだ。朋也や陽平のような不良とは毛色が違うと思われている幸希は、突けば何をされるかわかったものではないからだ。その恐れが、幸希の言動を嗜める行為に制限をかける。だから斜に見続ける幸希を皆、一目もくれずに通り過ぎる。

 

「……なにやってんだか俺。アホらし、帰って寝るか」

 

 己の行為に呆れ、幸希は踵を返した。間違っても彼は、常日頃からこういった惨めな行為をしているわけではない。今日はたまたま虫の居所が悪く、前日の不快な家族の有様を目の当たりにしたが故の苛立ちがそうさせたのだ。なら許されるかと問われれば、あっさりと肯定できるわけではない。

 よって、幸希の背後に立った彼女の告げる言葉は正当性を持っていよう。

 

「早朝に用のない生徒が、制服も着ずに登校。しかも関係の無い生徒への嘲笑にも等しい野次は関心出来ないな。遅刻しないのはせめてもの救いか」

「…………」

 

 背中から投げつけられた棘のある言葉に、幸希はため息を一つ吐いて無言のまま振り返った。

 声音は聞くからに女性のもの。しかも、不良というレッテルが張り付いた幸希に対してここまで堂々と、凛と言ってのけたのは日の光に反射して銀に煌く髪をした少女――坂上智代だった。

 なぜこの時間、この場所で彼女で出会ってしまったのか。己の浅ましさを呪いつつ、幸希は睡魔にまどろんだ瞳のまま彼女を睨めつけた。並の男であれば一発で怯むであろう眼光を向けられ、それでも智代は毅然とした態度のまま相対する。

 

「榊原幸希……。お前の悪名はこの学校では大き過ぎる。悪戯に自分を貶めるような行為は控えたほうが懸命だぞ」

「そりゃ悪かった。だが、俺がどこで何をしようと俺の勝手だ。『他人の迷惑だから』なんて理由が俺に通用すると思ってんのか? だとしたら大物だなお前は。みんなの為に立ち上がる正義のヒーロー様ってわけだ。是非その愚直なまでの真っ直ぐさにあやかって、俺も真っ当になりたいもんだ」

 

 幸希の為を思っての提言だったのか、智代の不器用な気遣いを余計なお世話と受け取った天の邪鬼は子供のような屁理屈を述べた。

 他人を扱き下ろす事に置いては一家言を持っている幸希は、このまま相手が逆上して立ち去る事を望んだ。そうすれば余計な諍いは長続きしないし、何より今の機嫌ではどんな理由があろうと問答無用で攻撃的な言動になってしまうのが自分でもわかっていたから。

 目の前に伸びる桜並木の坂道。既に桜の花が散り始めているのを見ると、もう四月を後半に差し掛かっているのだと幸希も感慨深くなった。

 

「お前……その性格では友人を作るのに苦労しないか?」

「俺以上に最悪な性格の春原や、言われるまで自分に向けられた好意に気が付かない鈍感な岡崎がいるからな。他にも年下のクセに年上みたいに感じる後輩とか、辞典を亜音速で投げる同級生とかいるぞ」

 

 嫌味をものともせずに智代は、同じように皮肉で返答した。本人は涼しい顔で言ってのけたつもりだったのだろうが、幸希の目には皺を深くした眉間と、小刻みに震える拳が見えた。

 どうやら逆鱗に僅かながら触れたらしい。即座に暴力に訴えるような事は流石にせず、理性を持って自制するところは何処かの金髪と大違いである。

 感心しつつも幸希は仮称鉄の女の意図を探る。

 何故こうまでして自分と会話を続けるのか、その意味を、価値を量るも重量は彼女のような人物が登校を中断してまで続ける理由に繋がらない。この時間に学校に居るという事は、彼女もまた部活動、または委員会やそれに属する何かの為に登校している筈。ならばここで幸希と会話を続けることはなんの身にもならない。

 登校時間を延長して、自分の時間を削ってまでの雑談になんの意味があるのか。疑念を懐いた幸希の眉根がますます寄っていく。

 

「その屁理屈、少しは丸くなったと思ったが……口の悪さは何も変わっていないのだな」

「……まるで俺とお前が前から知り合いだったみたいな言いぐさだな。悪いけど前世でとか、遥か太古の大戦時とか、そう言った転生系の話しだったら止してくれ。朝っぱらからぶっ飛んだ話に付き合うつもりは無いぞ」

 

 そう言いつつも、幸希の中で渦巻く疑念を取り払う答えが、天啓のように降り立った。信じたくはない天啓ではあるが、それなら彼女のこの頑なに別れようとしない態度にも頷ける。

 適当な事を言って茶化した幸希であるが、実際のところ二人は昔に何度か出会ったことのある間柄であった。

 彼女自身は、始めは予感程度であっただろう違和感が今では確信に変わっていた。言い切るような言動が、それを物語っていた。

 ならば榊原幸希はどうするべきか。

 坂上智代と昔の思い出話に花咲かすなんて筈もなく、だとしても幸希自身そう易々と軽く話せる内容でもない。

 昔話に登場する榊原幸希は、未だ藤林杏に恋をする前の自分であり、思い出せば顔から火が出るほど恥ずかしい若気の至りに満ち満ちた出来事であるからだ。

 

「なにが言いたいのか知らんが、俺は眠いから帰るぞ」

「待ってくれ、どうしてそんなにもわたしから避ける。昔の事なら別に気に――」

「――あのな、俺が此処まで知らんぷりしてるんだから、少しは察したらどうだ? 思い出話は嫌だと態度で示してるんだ、それを斟酌するぐらいお前にだって出来るだろ」

 

 ついに昔の事と言い切った事に、幸希もしらを切ることを止めた。

 過去について話すのは嫌だし、それを良く知る人物である智代はいわば黒歴史を綴った日記のような存在で、出来ればあまり顔を合わせたくない。

 だから遠ざけたつもりであった。が……智代の狙いは、どうやら昔話をする事ではなかったようだ。何処か煮え切らない表情をしていた智代は、幸希の反論を耳にした途端、重荷を降ろしたようにすっきりとした表情をしていた。

 

「そうか、ではやはりお前は“あの”榊原幸希なんだな」

「……ちっ、始めから確認だけが目的だったのかよ」

 

 吐き捨てるように言い放った悪態を、智代は風を受け流すカーテンのように聞き流した。

 

「別にお前が望むなら思い出話も悪くないんだがな、どうしても嫌なら仕方ない。ただわたしは今のお前と、昔のお前がどうしても符合しなかったから確認したかったのだ」

「外見はそんなに変わってないだろうが」

「中身の話しだ。不満と傲慢を合わせ抱きながら怒りと暴力を振りまくだけだったお前が、こうも丸くなるとは思えなかったんだ。以前友人と共に笑っている姿を見たときは、驚きで目玉が飛び出しそうだった」

「大袈裟に言うなよ、どうせ顔には一切出してない鉄仮面のクセに」

「誰が鉄仮面だ、わたしは見た通りの乙女だぞ。少しはその口の悪さをどうにかしないのか」

 

 意図せず智代の思い通りになってしまったのが悔しくて減らず口を叩いたが、それもあまり功を成さなかった。

 嫌味が通用しないのではもう残されたのは逃亡しかない。本人確認が終わったのなら今すぐにでも幸希はこの場から立ち去りたかった。自ら足を運んでここまで来たが、それは早朝の内に通り過ぎる程度の時間しかいないつもりだったからだ。時間も経過し、早朝とは言い難くなった今となっては、いつ教師に出会ってしまうかわかったものではない。

 停学中の身である幸希が、敷地内に入ってはいないとはいえ学校前まで来ているのだ。教師が見れば即座に注意しに来るだろう。

 

「話は終わりだな。じゃあ俺は帰るぞ、眠いからな」

「何を言ってるんだ、これから授業が始まるんだぞ。わたしの目の前でサボる事は許さないぞ」

 

 あっさりと別れを告げた幸希を、案の定智代は咎めた。

 どうやら智代は柄にもなく彼が早朝から学校に登校しに来たのだと思っているらしく、制服はどうしたと服装を指摘し始めた。

 

「その服はファッションなのか? だとしても、学校には制服で来るものだ。校則にも、学校指定の制服もしくは学校指定ジャージ以外の服装での登校を禁じている」

「校則もなにも、俺は停学中だから関係ない。だから別に帰ってもお前に責められる言われもない」

 

 むしろ校門を通り抜ける事が今では注意の対象になっている。よって、幸希の言い分は何も間違ってはいない。

 まさか停学になっているとは思ってもみなかった智代は、鼻を鳴らし胸を張る幸希に瞠若した。彼女が何を思い、何に対して目を見開いたのかは幸希の知るところではないが、道理を考えればそれはおのずと見えてくる。停学中であるならば、何故この学校前に居るのか、幸希のこれまでの性格を考えても面倒を嫌う彼がわざわざこんな時間に出歩くとは思えなかったのだろう。現に瞼は睡魔に耐えかねて何度かその重みに負けているし、時折目端に涙を浮かべながら欠伸を噛み殺していた。なのにどうして、それほど眠いにも関わらず外出しているのか。

 

「停学中ならどうして、この朝早くに出歩いているんだ?」

「……別に、停学明けのボケを作らないように早起きしてるだけだ」

 

 坂上智代の言動を鑑みて、この理由であれば余計な詮索をさせず彼女は納得するだろうと思っての言葉であった。

 学校に真面目に通う殊勝さを見せれば、どこまでも真っ直ぐな智代はそれ以上の追求をしないだろう。それは彼女の性分であり、ある種の突き放した信頼によるものだと思われる。

 結果から言って、智代はあっさりと目論見通り納得し幸希を見送った。騙した手前、どうなるかと逡巡したが、それも幸希の杞憂に終わった。

 

「しっかりと自宅でも勉強するんだぞ」

「あーはいはい、しまうしまう」

「……? まあいい、わたしもそろそろ行かなくては、じゃあ」

 

 ようやく訪れた別れに幸希は無言で帰路に復帰した。既に時刻は通常の登校時間の少し前程になっており、真面目な生徒達の登校風景でいっぱいになっている。

 自分とは逆方向の人の群に、真っ向から突き進む気も眠気のピークによって失せ、人通りの少ない路地を通って行く事にした。

 智代がまさかここまで知恵を巡らせて幸希の証明をしたのであれば、今日の気まぐれはその隙を与えてしまった後悔で埋められてしまった。こんなことなら初めから真っ直ぐ家に変えれば良いものを、何故あんな下らないことの為に立ち寄ったのか、すっかりこれから訪れる惰眠の時間は憂鬱に変わりつつある。

 

「(起きちまった事をいつまで悔やんでもしょうがないか。ひとまず春原の部屋にでも行って、夕方まで寝るとするか)」

 

 気分的に自宅へと帰るのは気が向かなかった。

 ただでさえ冴えない気分にもかかわらず、更に精神を削られる家に帰るなら、春原の部屋で眠った方がマシだと思った。

 途中、運命の悪戯で杏と奇跡的に出会わないかと願ったが、都合よくそうはいかなかった。

 

 

 ※

 

 

 その日は教室に飾ってある花瓶の水を交換しようと思い立っていつもより若干早めに家を出た。

 姉の杏は用もなく朝早く起きる性質ではないため、着替えを終えて泊まっていた芽衣と共に家を出る時でも目覚めなかった。遅刻をしないように、一応起こそうとしたし、今日は先に出る旨を伝えたから大丈夫だとは思うが、また時間ぎりぎりになって慌てバイクで登校するのはあまり賛成できるものではない。

 もう少し、せめて姉が起きるまで出るのを遅らせようとも思ったが、一度出る準備を終えた手前そうもいかない。芽衣は兄を起こす為に寮へと向かうらしく、それなら一緒に出ようと提案した彼女が取り下げるのも悪いと思ったのだ。

 悩んだ末、姉の意思を信頼して妹の椋は芽衣と共に家を出た。

 彼女の目的地である学生寮は、高校からそう離れた場所ではなく途中までは同じだった。だから道中は芽衣との会話に花が咲いた。芽衣は話上手で、巧みな話術と逃げを許さない質問攻めに、あっけなく色々と正直に話してしまった。

 

「いつから榊原さんの事好きになったんですか? その理由は? 告白するんでしたらその前にしっかり周りを見た方が良いですよ。大きいですねサイズはいくつなんですか? 制服可愛いなぁ、わたしもここに進学したいなぁ」

「あ、あはは……」

 

 芽衣のバイタリティ溢れる積極性は、椋の欲したもので、学ぶところが沢山あった。もしこれほど大胆になれたら、きっと幸希に思いを伝える事も、それが叶わずとも放課後に一緒に帰ったり、休日に二人っきりで遊ぶ事も出来ただろう。

 希望的観測をすればするほど、椋は自分の至らなさを嘆きたくなった。姉の影に潜んで、その威光にあやかって幸希を願った通りにするのは、喜ばしく思う反面痛ましい罪悪感が身を裂いた。

 立ち返ってみれば椋はこれまで姉の気遣いを理由に行動してきた。なにが悪いのだと居直られれば責める手立てを失うが、これは卑怯な行為だと気が付いて、逸らし続けた目を向けてしまった椋は言い訳を出来ない。この先も同じ手を使い続ける豪胆さも、一度認めてしまった卑劣さに耐えられる精神も持ち合わせていないから。

 巷で卑怯者と侮蔑されている幸希は、今以上の、自分以外の沢山の人から悪辣さを批難されている。それでも平気な顔で好きなように、奔放であり続ける彼の隣に立つならもっと強くならなくては。

 

「(いつまでもお姉ちゃんの後ろに居たら駄目だ。わたしは、自分で進んで榊原くんの隣に立たなきゃ……)」

 

 決意に至った原因は、幸希の停学が決まったと聞かされた時だった。あの時ほど積極性を渇望した時はなく、結果としてそれが椋を杏という巣から飛び立たせる一因となった。

 姉にだって意中の人は居るのだ。いつまでもこのままでは、己の恋に臆病な彼女は告白などしないだろう。

 だから、自分が先んじて……こんどは自分が指針となって姉の背中を押すのだ。

 これまでの自分に内心で別れを告げた椋は、気が付けば学生寮との分かれ道に到着していた。

 

「この道を真っ直ぐに進めば、春原くんの住んでる学生寮に着くから、気を付けてね」

「はい、ありがとうございましたっ。また学校が終わったら、一度ご挨拶しに行きますね」

 

 元気よく挨拶し、椋が差した方へ向かって駆け出した芽衣を見送った。

 通学路を歩いていると、ちらほらと生徒数がどんどん増えて行った。というのももう少し歩けば学校に到着するからである。教室に到着したらまずは花瓶の水を交換しようと、そう予定立てていると、なにやら一際目立つ話し声が聞こえてきた。

 声は二種類。一つは少女の声で、もう一方はよく聞く……いや、よく盗み聞いている声だった。

 

「(榊原くん? 停学中の筈じゃ……)」

 

 間違いないという確信と、そんな筈はという疑念が渦巻きながら椋は先を急いだ。

 校門の前、対になってる柱の一方に声の主は立っていた。関係のない生徒たちが意図的に避けていたその場は、不自然に空間が空いていた。

 積極的に、自発的に行動しようと決心している椋は、彼の姿を見つけたらすぐに声を掛けようと小さく決意していた。が、それは彼の前に立つ少女を見て留まってしまった。

 

「(あれは、たしか二年生に転校してきた……坂上さん? どうして榊原くんと……駄目、早合点しちゃだめ、きっと注意されてるんだ)」

 

 一瞬二人の関係を訝ったが、見る限りではそういった雰囲気を感じ取ることはなく、幸希が一方的に注意をされているように見えた事に椋は安堵した。

 これまで彼を長く見続けていた結果に得た観察眼では、幸希の態度は警戒とうんざりしているように見えた。それは自分や姉と会話するときには一度も見せない顔で、だからこそ勘違いせずにすんだ。

 恐らく何らかの理由で偶然通りがかった彼を、智代が見咎め注意しているのだろうと、構図的にはそう見えた。

 ここで彼らを無視して校内に入るのもなにかと思い、椋はそのまま遠目に二人を見ていた。と、暫く経って二人は会話を終えて二手に分かれた。智代は校舎に向かい坂道を上り、幸希は逆に離れて行った。

 何を話していたのか聞き取れなかったが、このとき椋の頭から教室の花瓶の事はすっかり抜け落ちていた。

 自分から歩み寄らなくては、彼を射止める事は叶わない。

 まだ羞恥心はあるし、何を話せばいいのか思いつかない。が、だからといってこのまま見送っては一生このままだと思ってしまった。

 いつだったか杏が自分にした忠告を思い出した。あの時はうやむやになっていた言葉が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない言葉が過ぎった。

 

 ――幸希、多分だけど好きな人いるわよ。

 

 それが誰なのかは、わからない。確信を持ってこの人だ、と断定できる要素がまだ足りない。

 だからこれは仮定でしかない。悪魔の証明ほど不可能なものではなく、突き詰めれば可能な仮定でしかない。

 よって一言、すべてを変容させる魔法の言葉を唱えれば証明は出来る。ただその果てに遂げる変化はある答えを出されたら、椋を含め、複数の人が辛く苦しい思いをするハメになってしまう。

 だからいまはまだ、それを唱えるべきではない。まだ朝の挨拶をするだけで十分だと、椋は目を逸らして、幸希に向かって小走りに駆けだした。


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