夕刻。
藤林杏は妹の椋と一緒に春原陽平が住んでいる学生寮へと向かっていた。
結局一度も顔を合わせることなく停学となってしまった友人、榊原幸希の自宅を知る為にも陽平と、一緒に居るだろう岡崎朋也に会う為に。
何故なら杏は幸希の自宅がどこにあるのかを知らないからだ。
一年余りの付き合いであるにも関わらず、幸希という人物についておよそ知りえる事実は非常に少ない。それは隣を歩く椋も同じで、だからこそ可能性のある陽平と朋也から聞き出そうと思い至ったのだ。
手段としては非常に頼りないが、これしか方法がないと杏は悔しく思い内心歯痒い思いだった。職員室で教師に訪ねれば話は簡単に済むだろう。しかし、学校内でも特に忌避されている幸希の素性を、別のクラスの、しかもクラス委員長である杏が訪ねたところで、余計な詮索を植え付け徒労に終わると杏自身予感していたからだ。教員の中でも比較的幸希には甘い幸村ですら、幸希の所在を教えてはくれなかったのだから。
故にこの拙いやり方は妥協の末考え付いた、至極当然な苦肉の策である。
陽平が、朋也が幸希について知りえる事は少なくとも自分よりは多いだろうという他力本願な手段。高校生という年齢と立場を鑑みれば、これが限界だろう。まだ出来る事よりも、出来ない事の方に天秤の秤は傾くのだから。
「それにしても助かりました。まさかこんなに早く兄と同じ学校の……それも知り合いの方に会えるとは思いませんでした」
双子姉妹の後を追従する小さな少女が、小さな歩幅で遅れないよう時折速足になりながらもついて歩いていた。杏はそんな少女に微笑ましい表情で答え、少女に気づかれないよう歩く速度を落とした。
少女―――春原芽衣とは先程の買い物の終りに駅近くで出会った。
聞けば彼女は学生寮に住む兄の様子を窺いに尋ねたらしい、と杏は聞いた。いまどき珍しいくらいの兄思いの妹だと感心したぐらいだった。
だが杏は芽衣の名前を聞いたとき、同時に自分でも信じられない仮説が脳裏に浮上したのを無視出来なかった。そう『春原』という苗字が、杏には非常に聞き覚えがあったからだ。
まさか、そんな偶然が起こるわけがない。妹が居るなんて話を聞いたこともないし、なにより、この幼くタンポポのような少女が“あの男”の妹の訳がない。外見はともかく、内面が似ても似つかない。
ありえないな、と杏は妄執を振り払って学生寮へと向かう。
隣を歩く椋は、杏から見てもなにを考えているのか分からない、様々な感情が入り混じった顔をしていた。なんとなく、その心意が気になった杏だったが、実は自分以上に頑固な性質である椋に問うてもきっと答えは返ってこないかもしれないと思い、今はそっとしておこうと決めた。
せめて黙りこくるのは空気を悪くするので、芽衣を皮切りに話を広げようと思い、杏は大きなリュックを背負う芽衣の方を振り向いた。
仮説を証明する為の解を求めて。
「芽衣ちゃんはお兄ちゃんに会いに来たって言ってたけど、その人ってどんな人なのかしら?」
「兄ですか? そうですね……優しい人です」
「優しいかぁ……なら、あいつじゃないわね」
「……?」
少なくとも、杏の持つ春原陽平という人物像は『馬鹿で粗野でデリカシーなど欠片もない情けない男』という風に出来上がっている。よって、芽衣の評する『優しい人』というのは陽平には当てはまらないと思い少なからず安堵した。
ホッと胸を撫で下ろす杏の隣で、椋は姉とは真逆の答えを出していた。
椋よりも陽平に近しい杏ではその内面を良く知っているのと、杏自身の性格と個人的な感情も相まって陽平を評価しているが、姉よりも大人しく陽平をそこまで詳しく知らない椋からすれば、芽衣の言う『優しい人』はむしろ該当すると思ったのだ。
どんな人も外見だけで評価してはいけない。それを自分によく言い聞かせているからこその椋の答えだった。
「もしかして、そのお兄さんというのは春原さんじゃ……」
「はぁ!? ちょ、椋何言ってんのよ、あいつなわけないでしょ。“あの”陽平なのよっ?」
「……陽平?」
ぴくっと芽衣の肩が小さく跳ねた。
「もしかして、その陽平というのは元サッカー部でしたか?」
「え、えぇそうだけど。確かにサッカー部だったけど……まさか……」
杏の顔面が引き攣る。ひくひくと頬が震えるのが自分でもよく分かる。
椋は芽衣の質問と反応を見て、やっぱり、と呟いた。
「はい。春原陽平は、わたしの兄です」
「うそでしょー!?」
こうまで似つかない兄妹が居る事に、杏は信じられず絶叫をあげてしまった。
どう見ても聞いても可愛らしく慇懃なこの少女が、あの無礼と馬鹿を着て歩く陽平と血を通わせた兄妹とは、何をどうすればこうなるのか。杏は己に照らし合わせて双子の妹の事を見やり考える。なるほど、例え双子と言えど似ているのは外見ぐらいで性格には差異がある。双子ですらこうなのだから、兄妹でこうも違ってもおかしくない。
なんとか平静を取り戻した杏は、大きく息を吐いた。
※
帰り道、男二人並んで歩くという構図に、なんだか納得がいかない陽平の表情は晴れやかとはお世辞にも言い難い顔をしていた。
朋也に言わせてみれば馬糞を喰らったような顔と表現するだろう陽平の表情は、学生寮に近づくにつれ段々と収まり也を顰めようとしていた。
「ったく、一体榊原は何処に行ったんだよ」
「何処って、そりゃ家だろうよ。当たり前の事を何言ってやがんだ春原」
「榊原の停学で背負った罪悪感で僕に八つ当たりはよしてよねっ」
「すまん……」
「はぁ……なんか、調子狂うなぁ」
二人は視線を落として黙ってしまった。
いつもなら素直に謝るなんてしない筈の朋也に、陽平はなんだかやりずらい思いを抱いた。
この場に幸希が居たならばこんな気まずい雰囲気になっても、持ち前の空気を破壊し尽す言動で何もかも有耶無耶にしてしまうのに。
肝心の幸希が居ないからこそこうなってしまっているのだが。陽平はそう思わずにはいられなかった。
「だいたいあっさり停学になる榊原も榊原だよ。自己保身と人を陥れるのにかけては右に出る奴なんか居ない筈なのに」
「……自惚れるわけじゃないが、多分俺が居たからだろ。それと何より、宮沢が居たからだろうな」
「あいつ、僕達が関係すると無茶ばっかするからなぁ。で、宮沢って誰? 女子?」
「迷わず女子かどうか訊くお前も、そろそろ保身を考えた方が良いぞ」
「大丈夫、いざとなったら本気出すから。それで、女子なの? 可愛い? 後輩?」
いざという時が陽平にいつ訪れるのか。朋也は呆れて嘆息した。
「女子で後輩だ。それにまぁ、可愛いな」
「へぇ~、宮沢って言うのか」
「一応、忠告しておくと、幸希の知り合いらしいから馬鹿な事すると榊原に痛い目見せられるぞ」
「うげっ……」
榊原幸希を敵に回す。それは陽平にとって死刑宣告となんら変わり無い。
味方であるからこそ友達だからこそ本人曰く悪戯で済んではいるが、敵と認識されてしまったらそれも容赦ない、悪戯と言い捨てる事の出来ない苦痛を味わうかもしれない。朋也の忠告のお蔭で、陽平は有紀寧には変な事をしないと決め、人知れず人生を守りきった。
幸希にとって有紀寧がどれほど重要な人物に振り分けられているのか陽平は知らないが、朋也が言うのだから余程の事なのだろう。
だからこそ、陽平は降って湧いたような疑問を無視する事が出来なかった。
「榊原の好きな女って、もしかしてその宮沢って奴なのかな」
「さあな。俺の見た限りじゃ、なんとなく好きというより、兄と妹って感じだったぞ」
「兄と妹、ねぇ……」
「深刻に考える程の事か?」
陽平の噛み締めるような、誰に向けられたものでもない言葉は、朋也の感じた疑問とは違うものだった。
しかし、それを今ここで言った所で意味も無い。
無邪気に自分について回る芽衣の姿を夢想して、振り払い陽平は切り替えた。今ここに居ないのは幸希も芽衣も変わらないが、それでも遠く離れた妹よりも今は幸希の方が重要だと思った。
「いや、別に深刻にはなってないさ。……それより、これからどうするのさ」
「榊原は一週間の停学。しかも、俺達はあいつの自宅がどこなのか知らない。見舞おうにも、場所が分からないんじゃ手の出しようがないな」
「それだよ。僕達って友達でしょ、それなのに家すら知らないとか、どうなってんの」
「友達は俺だけだろ。春原のことは多分ペットとかそこらへんのカテゴリに居ると思うぞ」
「ペットならもっと優しく扱うべきっすよねぇ! ペットを虐待する飼い主とか、残虐すぎでしょっ」
「あいつなりの愛なのかもしれないぞ」
「そんな愛なら僕はいらないよっ」
がりがりと頭皮を掻きむしって嘆く陽平に、朋也がいつものように笑う。いつの間にか、幸希が居た頃のような空気が蘇っていたのだ。
二人では綻ぶやり取りも、三人いれば固く結びつくはずだった。如何に幸希という人物が自分らにとって重要なのか、陽平は大袈裟なリアクションを取りながら改めて幸希の居る楽しさを思い知った。
「で、どうするの?」
「そうだな、とりあえず寮に居る美佐枝さんに聞いてみよう。寮母なら教師にも顔が効くかもしれないし」
「美佐枝さんの弱みを握ればいいんだね」
「お前は一回、その的外れな考えを改める必要があるな」
卑劣な手段を取ろうと提案する陽平はさておき、美佐枝に尋ねるというのは的確だろう。
不良生徒である朋也と陽平では、教師に聞いても門前払いをくらうに決まっているし、多少融通が利く幸村でも叶わないだろう。それは杏が既にとった手段であるからして、のっけから無理なのだ。しかし、美佐枝ならば少なくとも教師よりも生徒寄りの大人だ。
日々の寮母としての生活態度を見ればそれは自ずと理解できる。悪戯を繰り返す生徒に制裁を加えるのも、裏返せば彼女の愛情なのだから。
幸希と面識があり、交流もある彼女なら何か知っているかもしれない。そう思ったのだろう朋也は学生寮へと急ぎ足で向かった。
「ちょっと、置いてくなよ」
「遅れた方がジュース奢りな」
「あんたは小学生ですかっ」
太陽が西に傾いた頃に、二人は学生寮へと到着した。
夕焼けになった西日が強く瞳を突き刺して、二人は反射的に目を細くした。……だからだろうか、寮の入り口に立つ三つの人影が誰なのかすぐに分からなかったのは。
「……あれっ?」
「杏……か?」
前に進むと屹立する木々が西日を遮り徐々に視力が戻ってきたのか、陽平は入口に居るのが本当に朋也が言った通り杏なのか確かめようと目を凝らした。
陽平にとって禍々しささえ感じさせる紫陽花のような色の髪が視界に入り、それが二人いる事に気が付き、姉妹でいるのだろうと理解した。
しかし、
「……あれっ?」
再び同じ言葉を漏らす陽平は、姉妹だけでは数が合わない事に気が付いた。
三つの影が在るのに、二人では勘定が合わない。もう一つの人影は、他の二人よりも小さく、何よりも陽平が良く知る人物だったのだ。
おかしい。あいつがここにいる筈なんてないんだ。だって僕は何も聞いてないし、芽衣が連絡も無しにいきなり来るなんてこともありえない。
本能的に否定を証明する為の推論が浮かび上がるが、それは影が徐々に鮮明になり実像を表すことで意味を成さなかった。事実として存在するものを否定することなど、不可能なのだから。
「あっ、おーい朋也ー陽平ー、遅いわよー」
「ど、どうもこんばんわ、です」
「もうっ、お兄ちゃんのが帰ってくる遅いって、どういうこと?」
三人が朋也と陽平の姿を確認すると声をかけてきた。
朋也はなんとなしに駆け寄るが、あまりの驚きに硬直した陽平は呆然としたまま立ち尽くしてしまった。
「よう、何しに来たんだお前ら? それに、そっちの子は誰だ?」
「何しにって、あんたらなら幸希の家しってるかと思って来たのよ。椋があまりにも幸希の事心配するから、仕方なくね。あたしもあいつを一発かましてやらなきゃ気が済まないし」
「お、お姉ちゃん? あの、クラス委員ですから、榊原くんの事心配するのは当たり前で……」
「あっ、そうそうこの子……聞いても驚かないでよ?」
「藤林、お前の姉貴は薄情だな」
杏の物言いに赤面して言い訳を並べ立てる椋を無視して会話を続ける姿に、朋也は椋に同情を禁じ得なかった。
朋也にとって間違いなく初対面である芽衣が、杏によって朋也の前に突き出される。
芽衣は、離れた位置で立ちすくむ陽平から視線を外し、朋也を見上げ礼儀正しくお辞儀をした。
「初めまして、春原芽衣と言います。兄がいつもお世話になっています」
「…………は?」
一瞬、何を言っているのかわからない様子で固まった朋也が芽衣を見つめた。
その反応が杏には思った通りだったのか、笑いを堪える為に目一杯頬を膨らませて吹き出すのを我慢していた。
ここでようやく陽平の意識が現世に戻ってきた。
「め、芽衣っ! どうしてお前がここに居るんだよ!?」
「何言ってるのお兄ちゃん。ちゃんと昨日連絡したでしょ、覚えてないの?」
「連絡ぅ? そんなの知らないぞ僕は」
「嘘だあ、ちゃんとお兄ちゃんと話したもん。エリマキトカゲのエリザベスと一緒にハエを捕食するなんてのが趣味だって、お兄ちゃん言ってたじゃん」
芽衣が何を言っているのか、陽平には理解出来なかった。
どうして僕と話をしたなんて勘違いをしているのか、それに、エリマキトカゲとハエの捕食なんて悍ましいことを趣味にする筈がない。
会話の中に見逃しようのない祖語が生じていることに気が付き、陽平はその原因を考える為に芽衣から視線を筈し朋也に向けた。
朋也も聞いていたのか、陽平を見て意味深に頷きむくれている芽衣を見やった。
「なあ芽衣ちゃん、本当に春原と話したのか?」
「間違いありませんっ、間違ってるのは兄です。あの声は聞き間違いなんてなく兄のだったもん」
「けど僕はそんな覚えは何もないよ。第一に、芽衣から電話があったら僕はここに来ること自体を許可しなかった」
自分の身を案じる妹に、無様な姿は晒したくはない。兄として妹が鬱陶しい時もあるが、それ以上に守るものとしての矜持というものだろうか。陽平は今の自分をあまり芽衣には見せたくなかった。余計な心配をするのが目に見えてわかっていたから。
なのに彼女はこうしてここに居る。これはどういう事だろうか、と朋也と陽平は探偵が推理するように顎に手を当て考える。
その時、学生寮の中から声が聞こえてきた。
「電話に出たのは春原じゃなくて、榊原だよ」
呆れたような声で、気だるげに姿をした美佐枝が箒を携えて現れた。これから夕方前の掃除でもする前だったのだろう。だとしたら、ジャストタイミングとしか言いようがない。
「あの時、春原の妹さんが話したのはそこに居る金髪じゃなくて、声帯模写なんて離れ業を持った馬鹿だよ」
「美佐枝さん、知ってたのっ?」
「あん時電話を取り次いだのはあたしだからね。なのにあんたったら気絶してるんだもん、それで榊原が立候補したのよ“やり過ごす”って」
「で、事態を引っ掻き回すのが好きな榊原が芽衣ちゃんを騙したってわけか」
「そゆこと」
良く出来ました、と朋也を褒めた美佐枝。
此処に至ってようやくお互いの勘違いと、それを生み出した原因がなんなのか、誰なのかがわかった。
幸希の仕業と分かり、陽平も納得いったのか「なるほどねやっぱり」と呟いて肩を下ろした。幸希ならば、それぐらいの事はやってのけるだろうと、朋也と陽平は美佐枝に言われる前から予感していたのだ。だから、犯人が幸希と分かっても怒りよりも納得が先走る。そもそも、このぐらいで怒りを持つほど二人は狭量ではなかった。
真実を知ったが、事情を知らない女子三人は男子に比べて心穏やかでは無かった。特に、杏は苛烈だった。
「幸希の奴……こんな純粋な子の気持ちを弄ぶだなんて、許せないわ!」
「流石に、やり過ぎだと思います」
「えっ、それじゃあお兄ちゃんはエリザベスとハエを食べたりしてないの?」
「当たり前だろっ、僕をなんだと思ってるんだよ」
杏はともかく、基本的に中立幸希寄りの椋までもが、今回の悪戯には不満を抱いたのかしかめっ面をしていた。
今この場に幸希が現れるようなら、杏なら既に一発予約済みなので、追加で二発辞典攻撃。椋なら遅刻を咎める時と同じぐらいでお説教と決めていた。
騙された張本人である芽衣は、幸希に対して少なからず不満のようなものを抱いたが、そのお陰でこの町に来ることが出来たと思えば、些細な事だった。でなければ陽平は芽衣の来訪を拒否していたのだから。
「まぁ落ち着けよ杏、それに藤林も」
「元はと言えばあたしにも原因の一端があるわけだし……ごめんね」
「そんなっ、謝らなくても。……あっ、でも電話で話したのがお兄ちゃんじゃないなら、これもいらなかったかな」
原因の一端といえば、確かにそうだろう。美佐枝が幸希の行動を咎めなかったのも起因してはいる。しかし、始めから幸希が悪戯心を持たなければこんな事にはならなかったのだ。
人知れず杏の幸希に対する好感度が下がっている事態を知った時、幸希がどんな顔をするのか。そんなことは知らずに、杏は幸希に対してさらに何等かの感情を増幅させた。
芽衣は『これ』と称した物をがさごそとリュックの中を弄り、取り出し陽平に差し出した。
「これって…………」
「……くさや、だな」
絶句した陽平に次いで朋也が補足した。
冗談で言った幸希の言動を真に受けた芽衣が持ってきたのは、くさやだった。
「これ、どうしよっかな」
「春原……これお前の部屋で焼いても良いか?」
「そんな事したら僕がラグビー部全員から袋叩きにあうよっ」
くさやはそのままならば臭いはそれ程でもないが、加熱をすると非常に臭くなる。それを知っているからこそ朋也は提案し、陽平は拒否したのだ。
事態は幸希の話で一致した。こうなっては本人不在で話を続けるのも無意味と思ったのかじれったく思ったのか、杏がみんなの前に出て口を開いた。
「とにかく、幸希に会わない事には話は進まないわっ。朋也、幸希の家って何処にあるのよ」
元を正せば杏と椋、そして朋也と陽平は幸希に会う為に行動している。それを思い出した杏は単刀直入に切り出したが、朋也の口からは望んだ答えは返ってこない。
「俺らも榊原の家がどこにあるのかはわかんねえんだ。あいつ、前からそういうのは一切話したがらないから」
「この中で一番付き合いの長い僕でさえ、榊原の“そっち方面”の事は全然知らないんだよ。ま、聞こうともしなかったんだけどね」
そう、陽平はこの集団の中でも一番幸希と知り合い友人として過ごした日数が多いのだ。元々、幸希はサッカー部に所属していた為、陽平は入学当初から知り合っていた。
杏は頼みの綱だった二人が不発に終わり、手がかりが途絶え肩を落とした。
「使えないわねあんた達」
「ひどい言いようだな」
「というか、それを僕達は美佐枝さんに聞くつもりだったろ。ねえ美佐枝さん、幸希の家って調べられない? 会いたいんだけど」
杏達は朋也達を、朋也達は美佐枝を頼っている。それならば、まだ望みは途絶えた訳ではない。
珍しく冴えた事を言った陽平の質問に、美佐枝がきょとんとした顔で目を見開いた。なんだか『なにを馬鹿な事を言っているんだこいつ』みたいな表情をしているので、陽平は疑問に思い首を傾げた。
答えは簡単に美佐枝の口からあっさりと告げられた。
「榊原なら―――いま春原の部屋に居るわよ」
静寂が降り立った。
予想だにしなかった答えに、一同が声を発するのを忘れてしまったのだ。若干一名、事情を知らないので空気を呼んで黙っていた。
後に絶叫。そして、疾走した。陽平の部屋へと。
後に残された美佐枝は嘆息し、五人の少年少女によって舞い散らばった落ち葉を集める為に、手に持った箒を使って掃きはじめた。
※
春原の部屋で寛ぐこと数時間。やる事がなくなった俺はついに飽きていた。
漫画は読んでしまったし、腹が減ったから勝手にお菓子を食ったし、春原のラジカセに糸こんにゃくを詰める作業も完了してしまった。あとやれる暇つぶしなんて、春原のパンツに練りワサビを塗りつけるぐらいしか残ってない。勿論局部に。
一週間という臨時休暇を貰った俺は、教師共の叱咤を耳栓をしてやり過ごし真っ直ぐこの部屋に舞い込んでいた。入る時美佐枝さんには会ったけど、俺がサボるのなんていつもの事なので軽いお小言しか言われなかった。
「あぁ~、暇だ」
停学に不満は無い。岡崎と有紀寧を守る為に振るったんだ、自己満足を満たせて俺は満足だ。
だけど、一週間も杏と会えないっていうのは……非常に苦痛だ!
無理に決まってる。土日の二日間会えないだけでも心不全を起こしそうになるんだ。これが三倍になるんだ、俺の心の炉心が融解してしまうかもしれない。
しかもあの家に一週間も……。考えるだけで怖気が走る。嫌い、と言うわけじゃないが、それでも嫌な気分だ。でもたまに帰らないと、どうなるかわかったもんじゃない。もしかしたら死んでしまうかも……。
高校生になって金を稼ぐことも出来るようになったけど、俺は未だに鎖に繋がれている。斜に構えて他人を見下している俺が、実はそんな奴らよりも下だと杏が知ったらどう思うだろうか。家の事以上に考えたくない事だ。
「どうしよう、マジでどうしよう。このまま春原の部屋に泊まるって手段もあるが、それは俺が負けた気がするし」
三日に一回は帰らないとマズいし、そうなったら確実に傷ついて馬鹿の春原でも気が付くかもしれない。いや、そうでなくとも疑念の種をばら蒔く行為は避けたい。
事此処に至って俺の思考回路はぐるぐると廻りショート寸前だった。
こういう時は、杏との未来ある可能性を想像するに限る。という事で、今日はどんなシチュエーションにしようか。
―――よし、どういったわけか岡崎を見限って俺に惚れた杏、という設定に……。
妄想の世界にダイブする瞬間、廊下を叩く複数の足音に気を取られ俺は閉じていた目を開いた。
地震のような地鳴りは着実にこっちに近づいている。波濤のように迫り、音が次第に大きくなってくるのが聞こえる。
なんだ? またラグビー部が美佐枝さんのパンツでも盗んだのか?
気になって俺は思わず扉に耳を当て身体を寄り添わせた。壁は薄いが、それでも確実に聞きたいという欲求だ。野次馬根性丸出しだが、これを材料に、あわよくばラグビー部を買収することが出来るかもしれないからな。
敵は少なく、味方は大いに越したもんじゃない。
音が近づいてきた。
というか、この部屋の前で途切れた。えっ、どゆこと? 春原に用があったのか?
「ふべっ……!」
その瞬間、俺の身体は後方へと吹き飛んでいた。
扉に耳を当ててたから壁しか視界に入らなかったが、多分俺はその扉が開いた勢いで吹き飛んだんだろう。その証拠に頬が痛い。でもって乱暴に開けたのか、大きな音が響いてで鼓膜も痛い。
「だ、誰だこの野郎! 俺様にこの狼藉、時代が時代なら打ち首じゃあ!」
不意を突かれて錯乱状態になった俺はわけのわからない事を言い出していた。どこの時代のお偉いさんだよ俺は。
せめて下手人の顔を見ない事には気が済まない、と思って扉側に視線を向けてみると…………そこには水色と白のストライプ天国が、あった。というか、杏のパンツだったいやっほい。
扉を蹴破ったんだろう、足を水平に上げた状態で止まっていたおかげで俺はこの世の真理を紐解いたような全能感で満たされていた。ラッキースケベは、俺にもあったんだ。
「…………桃源郷ですか?」
「…………いいえ、地の獄よ」
しかし現実。女性が赤面して照れ隠しにひっぱたく程度では済むはずがない。いや、済ませてくれるわけがないのだ、この杏が。
悪鬼のような顔をして、幽鬼のようにゆらりと身体を揺らし、両手に持った辞典が異様に禍々しく見えて俺は慄いた。現実にコンテニューは存在しないから、俺はここで終わるかもしれない。
「杏……」
「なによ」
「俺は……どんなパンツだろうと愛する自信がある」
最後なんだ。せめてこの思いを告げないわけにはいかない、そう思って一世一代の告白のつもりが、パンツに脳を犯されてパンツの事しか言えなかった。これじゃあ変態みたいだ。
「そう、さようなら」
そして、二つの衝撃が顔面に走り、穴が開くんじゃないかって程の勢いで穿たれた錯覚に陥った。避けるという選択肢が、そもそも俺には存在してなかった。
崩れ落ち、薄れゆく意識の中、ふと視界に映ったのは……投擲によって前かがみになった杏の胸元から除く……ワイシャツだった。そこはせめて、ブラチラとかを見せて欲しかった。
夢を見ている。
昔の夢だ。
俺がまだ愚か者で今と変わらず卑怯者であった頃の。
杏と出会った頃の夢を見ている。
幸希なんて名前をしている癖に、幸せなんて微塵も感じられず、希望なんてまやかしに過ぎないと思っていた頃の夢を。
そうして思い出した。
幸せも希望も、全部この杏が俺にくれたんだと。
「好きだーっ!」
夢だとわかった以上、やりたい放題だ。普段できない事をしまくってやろうではないか。そう思って俺は夢の中の杏を抱き締めた。
「きゃっ……」
抱き締められた杏は驚いて、瞬時に頬が朱に染まり、そして束の間硬直したかと思えばお返しと言わんばかりに俺を抱き締め返してきた。おお、この夢最高だな!
杏の身体は柔らかくて、それでいて暖かいのは体温が上昇しているからだろうか。この際、どうしてかいつもの杏よりも潮らしいのも、少し胸が大きく感じるのも目を瞑ろう。いつ目が覚めるのかわかったもんじゃないんだから。
背中に回した両腕をさらにきつく、それでいて苦しくならないように細心の注意を払って抱き締める。同時に、首筋に顔を当て香りを嗅いだりしてみたりする。うむ、フローラルや。
「あっ、ちょ……ま、待って…………」
夢の中の杏の身体がぴくんと跳ね、熱のこもった声を漏らした。俺も色々と漏らしそうです。
これ以上は流石に夢と言えど、マズイのでこの状態を維持するのを渋々諦めた。変態の烙印を押されたら生きていけないし。
と思って身体を離した瞬間、またも俺の身体が、主に顔面が鈍い衝撃に見舞われた。視界がブレ、杏の姿が無数の線になって、そのまま消えてしまった。もう終わりかよっ、もうちょっといいじゃねえかよ! というか顔が痛てぇ。
「―――いってぇな! ……あれっ?」
気が付けばそこは見慣れたレイアウトの部屋だった。というか春原の部屋だ。
どうやら俺は春原のベッドで寝ていたらしい。そうか、杏の辞典で気絶して、それからこのベッドに。
事態を把握するために回りを見渡せば、そこにはまず最初に、顔を真っ赤にした椋が俺のベッドに上半身を投げ出していた。そして、横を見れば悪鬼のような顔をした杏が。離れた位置で岡崎と春原、それと見覚えのない小娘が批難するようにコッチを見ていた。なんなんだまったく。
「…………おはようございます」
「おはよう、そしておやすみ」
「ちょ、ちょっと待て待て! なんでそうすぐに俺の命を刈り取ろうとするんだお前はっ」
「自分の胸に手を当てて考えてみなさい! あんたが今何をやったのか、思い出してみな」
「つっても俺、寝てたんだけど」
寝ぼけて何をやったか知らないけど、そんなに杏を怒らせる事したのか俺。
思い返してみても、何も知らない物を思い出すもクソもない。無理なものは無理なのだ。杏から視線を外して開き直っていると、ちょうど正面の椋と目が合った。
「あ、さ、さ榊原く、ん……おは、ようございま……す」
「おう、おはよう椋。風邪でも引いたのか? 顔真っ赤だぞ。春原の小汚い、異臭がわずかにするベッドでも使うか?」
「ちょっと! 僕の寝床にある事ない事言うのはやめろよっ」
「汚いのは否定しないんだな」
「陽平も朋也も黙ってなさい、今は幸希を処刑するときなんだから」
なんでそうなる。杏によって寝かせられたと思ったらまた杏によって起こされて、でまた寝かされるって、どんな無限ループだよ。
辞典を持って投擲態勢に入った杏。
その時、俺と杏の間に割って入ってきたのは……以外にも椋だった。
「だ、駄目だよお姉ちゃん、待って」
「とめないで椋、これはあんたの為でもあるのよ。今ここで幸希は滅ぼした方が……」
いつの間に俺の好感度は暴落してたんだよ。杏がここまで俺に冗談に近いかもしれないが、敵意を向けるなんて、正直もうこの場で泣きだしたいぐらいだ。なにしたんだよ、さっきまでの俺。
椋が間に入って、どうにか杏の暴挙を止めてくれているのがせめてもの救いだった。思った以上に、もしかして俺は椋に好かれてるのかもなんて自惚れが頭を過ぎるぐらいに。
「だ、抱き着かれたのはわたしなんだから、お姉ちゃんが怒る必要は、ないよっ」
「それは、姉としてっ。椋の為を思ってであって」
「へ? 抱き着いた? 俺が?」
マジで? 第三者の答えが欲しくて、岡崎にアイコンタクトを送ると、瞼を閉じて静かに首肯した。
おぉ……なるほど、あの夢は杏に見えていたけど、現実では椋だったわけか。そりゃ、杏も怒り狂うわけだ。そうとわかればやるべきことは一つだ。ここは潔く、男らしく。
「すいませんでした椋さん!」
ベッドから飛び上がり、狭いスペースの床の上に額を擦りつけて土下座した。
男に下げる頭は無いが、杏の為ならば俺はいくらでも頭を下げてやる。今回の場合、俺に百%非があるわけだし。
「さ、榊原くん……。わたしは怒ってないですから、その、頭を上げてください」
「ちょっと椋良いの? 幸希の奴、あんたを抱き締めるだけじゃ飽き足らず、匂いまで嗅いでたのよ。完全に変態の所業じゃない」
夢の中かと思ってやったことが裏目に出るなんて、神様でも思わないだろう。つくづくついてないとしか思えない。なんで普段やらないのに、いざやったらこうなるんだよ。これもマーフィーの法則って言えるのか?
床しか映らない視界からはわからないけど、後頭部がじりじりと焼けるような視線が当たっている気がして堪らない。
「うん。でも、わたしは……嫌、じゃなかったから……」
だというのに、椋の持つ独特な静謐さを秘めた声が俺を守ってくれた。
この子、天使だ。流石は杏の妹だ。
感極まって顔を挙げれば、ちょうど椋が俺を見ていて目が合った。相変わらず赤面しているが、慈愛に満ちた笑みを浮かべられて思わず、可愛いと思ってしまったのは一生墓まで黙っておこうと思う。俺は杏一筋なのだ。
一方、その杏と言えば。納得がいかないって具合の顔をしてはいるが、椋の制止が余程効いたのか大人しく辞典を何処かにやった。一回その収納術を教わってみたい。
「幸希」
「は、はいっ!」
「椋に免じて、今回は見逃してあげる。……けど、次は無いからね! わかった!?」
「イエス!」
「すいません榊原さん。わたしのせいでお姉ちゃんが」
「いいんだ、ありがとう椋」
椋は何も、寧ろ俺を救ってくれた側だ。俺が責める資格なんてありはしない。
それにしても、椋の肢体を見ていると、なるほどこれに俺はあんなにも強く抱きしめていたのか。胸は、双子の姉よりも大きいんだな。
赤面する椋と、向かい合う俺。ただ見合い続けると言うのも気まずいので、ふと視線を外して見れば、春原が三白眼で俺を睨んでいた。
横一文字に噤まれた口が開く。
「―――人の部屋でラブコメするなよ」
もっともだ。