CLANNAD~終わりなき坂道~   作:琥珀兎

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第十回:本当に欲しいもの

 図書室の隅、窓から差し込む陽光の下に佇んでいた女は自分の名前を“ことみ”と自己紹介をして黙ったままだった。

 唐突過ぎてついていけない俺は返答に困り、というか何を言ってもまともな答えが返ってきそうな気がしないから、ことみとやらの相手は岡崎に任せる事にして沈黙を守っていた。

 

「あーっと、それがあんたの名前か。俺は岡崎朋也、D組だ、よろしくな」

「……おかざき……ともや。……ともや、くん」

 

 流石は天然女ったらしの称号を恣にしている男だ。この天然素材で出来てそうな女を相手に、物怖じした様子もなく会話を成立させてやがる。これか? これが杏の心をゲットした秘訣なのか?

 ことみ……恐らくは名前の方だが、おいそれと俺がその名前で呼ぶのは主義に反するので、心の中でのみそう呼称することにしよう。とにかく、ことみは岡崎の事が琴線に触れたのか、いきなり名前+くん呼びで噛み締めるように呟いてほっこりとした顔をしている。

 なんか、俺って邪魔なんじゃねーか。どう見たって彼女の瞳には俺が見えていない。

 

「ああ、まぁ呼び方は好きにしてくれ。それとこいつが同じクラスの―――」

「―――悪いな岡崎。俺は腹が減ったから飯でも食いに行ってくるわ、じゃあな。それと岡崎……昼休みを忘れんなよ?」

「おいちょっと、榊原っ」

 

 図書室から去ろうとする俺を、岡崎が引き止めようとするが、無視した。

 腹が減っているのは事実だし、ことみの存在に驚いて眠気も何処かに行ってしまった。せっかくだからこのまま資料室で飯にありつく事にしよう。今日は使わないとさっき決めたばかりなのに、掌を返した意思の弱さをツッコまれたら痛いが、しょうがない。他に快適な場所が思いつかないのだから。

 廊下に繋がっている扉に手を掛け、一歩を踏み出した。岡崎も俺の人格を知っているので、一言制止の言葉を掛けただけでそれ以上関わってくることは無かった。そういう気遣いが出来るから杏はあいつを好きになったんだろうか。彼女の心を知らない俺には、それは永遠に理解できない数式のように思えた。

 図書室から資料室へと移動するには、同じ学校内だからそれほど時間を必要としないが、面倒を嫌う俺には多少キツイ。だけど、教師の姿も、生徒の姿も見当たらない廊下で自問自答しながら歩いている内にあっという間に着いていた。

 資料室も有紀寧が居ない時はいつも鍵が掛かっているから、当然今も鍵はかかっているんだろう。だけど俺は予め前から有紀寧に合鍵を貰っているので問題ない。懐から取り出した鍵を、取っ手の直ぐ上に着いている鍵穴に挿入し、鍵を半回転させる。ガチャっと錠の音がして取っ手に手を掛け引いた。

 

「……あれ?」

 

 開かない。

 おかしいな、鍵は間違ってないし確かに錠の音は聞こえていた。……そうなると、考えられる可能性は。

 答えが出る前にもう一度錠の音がして扉が独りでに動いた。

 

「あっやはり幸希さんでしたか。どうぞ、入ってください」

「有紀寧、どうしてお前が」

 

 今は授業中の筈だ。俺がおかしくなったんじゃなければその筈。だから有紀寧がこの時間、ここに居るのはおかしい。

 でも、今の俺には好都合だった。とにかく誰かと話したい気分ではあったし、昼休みまでの時間潰しが出来るのはありがたい。面と向かって有紀寧に感謝をするのもおかしな話なので、とりあえず彼女の言葉に従い中に入った。

 相変わらず、前の雨の日に来た時と変わらない、暖かな空間が出来上がっていた。有紀寧が居ない時に何度かここで惰眠を貪っていたが、その時ここは有紀寧が居る時とは違って、どうしてか物寂しく感じた。

 人が一人減っただけなのに、棚の本たちは薄暗く影に覆われていて、やかんの湯が沸く音もしないってのは寂しいんだな、と柄にもなく思ってしまったのを思い出した。

 らしくない考えは自分を鈍らせるだけだ。憑りつかれる前に振り払うように軽く頭を横に振り、いつもの席へと座った。俺が座ったのを確認して有紀寧が座る。年下のクセに、俺よりも大人な仕草をしやがる。体型は子供なのに。

 

「では、今日は何に致しましょうか? 食事ですか? それとも、また何かおまじないでもやってみますか?」

「有紀寧のまじないは凄い効果だったが、今回は、そうだな……とりあえずコーヒーでもくれホットで」

「はい。少々お待ちくださいね」

 

 腹は減っていた。けど、それはこの後に待ち構えている昼食の為に残しておこう。

 コーヒーを淹れる準備をテキパキとこなす有紀寧の後ろ姿を永めなら、杏がこんな感じで俺にコーヒーを入れてくれないかなー、なんて今俺に作ってくれている彼女に失礼な事を考えながら、壁にかかったアナログ時計を見上げた。

 もうすぐ三時間目の授業も終わる。そしたら、ここで風子をある方法で召喚し、誘い、戦いに挑めばいい。古河と風子というイレギュラーを投入したことによってどう転ぶかは分からない。が、少なくともただ杏に言われたままに岡崎を進呈するよりはマシだろう。

 惚れた女の為なら何でもやるのが俺の良い所だと自負しているが、それは彼女に好かれたい、幸福であって欲しいって欲望があるからだ。確かに岡崎を渡せば、非常にシャクだが杏は喜ぶだろう。だが、それで彼女は幸福であるかは確定されない。岡崎が必ずしも杏にとって嬉しい行動をつねにしてくれるわけがない。それは、誰を相手してもそうだろう。

 だから俺は従わない。好かれるために、好いた相手とのセッティングなんて死んでも嫌だ。独りよがりだと言いたきゃ言えば良い。男ってのは自分勝手で、馬鹿なんだ。なら俺はそれを盾に振りかざすだけ。

 

 もし、そんな信念が砕ける時が来たら……。

 砕けた信念と同じように、俺の恋も儚く砕け散るだろう。そうなったら、負け犬としての役割を全うして杏の幸福を願うだけだ。

 弱気になってテーブルの木目を特に意味もなく見つめていたら、間を遮って湯気が立ったコーヒーが差し出された。見上げれば、風子と同じくらい子供体型のクセに、母のような笑みを浮かべて有紀寧が隣に佇んでいた。

 

「お待たせしました。暖かいうちにどうぞ召し上がってください」

「……おう、あんがとな。いただきます」

 

 慈愛ってのが形を得たら、きっと有紀寧にそっくりになるんだろうな。

 コーヒーは淹れたてなだけあって熱かった。けど、腑抜けた俺の脳みそにはちょうどいいだろう。不思議と、心身が安らいだような気がした。

 

「美味いな、相変わらず」

「ありがとうございます。でも、それはきっと、幸希さんが疲れていらっしゃるからだと思います」

「疲れてる? 俺が?」

「はい、実はこのコーヒーを淹れる前に、ちょっとしたおまじないをかけたんです」

 

 おまじないって、一体どんな内容のおまじないをかけたんだろう。前回は対象の下半身の衣服がずり落ちてしまう、というなんともピンポイントなおまじないを春原を実験相手に確かめてみた。

 やってみたいと有紀寧に言ったとき、女性には決して使ってはいけません、と強く言われたので仕方なく春原にしたが、効果は覿面だった。男の友情を深める為とか言って春原をトイレに誘い、その入り口近くで試してみたら、奴はずり落ちたズボンに引っかかって隣の女子トイレへと転がっていたのが最高に面白かった。あの時は馬鹿になるほど笑った。

 半信半疑だったおまじないが、確信に変わった瞬間はあの時だった。そんな成功率の高いおまじないを、しかも妙なものばかりのラインナップがあった中から、いったい有紀寧は何を俺にかけたんだ。

 

「ち、ちなみに、そのおまじないがどんな効果なのか訊いても良いか?」

 

 恐る恐る強張った声で微笑みを絶やさない有紀寧に訊いてみる。嘘が吐けなくなるおまじないとかだったら死ねる。杏を前にしたらセクハラどころか、言葉巧みに彼女を蹂躙しつくしてしまう可能性大である。

 

「はい。そのコーヒーには“心身疲労した人を癒すおまじない”がかかっています。だから、それを飲んだ後の幸希さんは、とても落ち着いた表情をしていたので成功したようですね」

「なるほど、それで……」

 

 道理でなんだかほっこりした気分になったわけだ。安らぎを感じたのは錯覚ではなかったてことか。

 コーヒーで熱くなった喉で熱い息を吐き一息つく。春原の部屋以外では、この資料室はなるほど、確かに俺の癒しだろう。それは例え、おまじないを使わなくたって変わらない。

 ここに通えるのも後一年を切ってしまったが、それまでは精々ここを守るために尽力しようと思った。

 再び、一口目よりは温くなったコーヒーに口を付け流し込んだ時「あっ……」と、有紀寧が何かを思い出したように口を開いた。

 

「忘れていました。そういえば、そのコーヒーにはもう一つおまじないをかけてしまったんでした」

「……すっげー嫌な予感がわんさかするんだけど、それって、なに?」

「それは、その……実は」

 

 正直言いたくはない言葉を言ってしまい、有紀寧は言いにくそうに開いた口元に手を当て、不安そうに下がる眉を見て俺は確信した。

 絶対にロクなおまじないじゃない、と。

 

「ロクなまじないじゃないのはわかった。大丈夫だ有紀寧。何があろうと、俺はお前を責めたりはしないから」

 

 こんな出来た後輩を虐めるなんてこと、杏に命令されても絶対にしない。というか、またも心に仕舞っておこうとした言葉が出てしまった。建前でも取られたか?

 親に怒られる前の動揺した子供みたいになっている有紀寧は、俺の言葉でどうやら余裕を取り戻してくれたのか、ハッと吃驚した後、安堵の表情がそこにはあった。

 

「幸希さんにそう言って頂けると、嬉しいです。ありがとうございます」

「や、礼を言われる筋合いはないぞ。逆に、それはコッチの台詞だろどっちかって言うと」

「……? そう、でしょうか?」

「そうでしょうね」

 

 同じように返答したのを切っ掛けに、有紀寧は吹き出すように小さく息を吐いて、小さな口を閉じたまま笑った。

 笑いってのは伝染するもので、彼女の控えめな笑いと一緒に、豪快に俺は笑った。

 

「ファーハハハハハッ!」

「ふふっ、実はそのおまじないというは“素直になる”ってものなんです」

「ファーハハハ…………ハッ?」

「“心身疲労した人を癒すおまじない”と発動条件がそっくりで、どうやら両方効いてしまったようです」

「だからさっきから俺は本音ばかりポンポン出てきてしまうわけだ。こりゃマズイ。この状態で外に出たら俺は五秒で捕まる自信があるぞ」

 

 嗚呼、悪い予感ってのはつくづく当たるように出来ているんだな。これをマーフィーの法則と言っても言うのだろうか、ちょっと違うか。

 このままじゃ俺は変態王子になってしまうってのに、有紀寧はそんな俺の心情を知ってか知らずか、でも……と話を続ける。

 

「お陰で幸希さんの素直な言葉が聞けました。わたしをそんなにも信頼してくれて、いまとても嬉しい気持ちでいっぱいです」

「こんな人間でもよかったら、存分に尊敬しても良いんだぜ。でもまあ、俺に惚れるなよ? 既に俺には心に決めた愛しの女神様が居るからな」

 

 あああああぁぁぁーーー!! やめろ! それを言うなよこの間抜けな口め!

 母親にも言ったことない秘密を此処でサラッとバラしてんじゃねえよ。しかも自惚れた事まで言って、こんな時に限って悪い癖が出てしまった。

 

「そうですか、幸希さんにはもうお好きな女性が居るんですね。少し残念です」

「まあな。そりゃもう可愛くて、愛しくて、彼女のためなら死ねるね」

「……そのお方の、お名前を訊いても良いですか?」

 

 何をそんなにも訊くのか、有紀寧は微笑みを携えながらもその眼差しは真剣そのもので、俺にはそれがどうしてなのか全然わからない。

 杏の事を聞いてどうするのか。そも、何故彼女は俺の好きな女について訊いてくるのだろうか。女子というのは恋の話になると人格が変わるって雑誌に書いてあったのは本当の事だったのか、なんだかもう、いろんな仮説と結論に反論が生まれてわけが分からなくてってきた。

 言うわけにはいかない。そう思って口を無理やり両手で閉ざそうとしたが、俺の両腕は命令を聞いてくれない。まるで違う人の腕が付いているようだった。歯がゆく思っていると、愚かな口は開いてしまった。

 

「―――悪いが言えない」

「……そうですよね。申し訳ありませんでした、こんな無理やりな形をとってしまって」

 

 どんな奇跡か、杏の名前が吐き出されることは無かった。

 申し訳なさそうに沈痛な面持ちで頭を下げた有紀寧を見ながら、しばらく俺はどうして言わなくてすんだのか考えてみたが、答えは出ず仕舞いだった。

 

「良いよ別に、なにも悪いことなんて無い。ただ、これだけは言うわけにはいかないんだスマンな有紀寧」

「いいえ……わたしが悪かったのです。ご気分を悪くさせてすみませんでした」

 

 参ったな。根っからの善人が罪悪感に苛まれるとこうも頑固になるのか。

 意気消沈という言葉がしっくりくるほど有紀寧は自身を罰するような暗い表情をしている。そんなに落ち込むなら初めからしなければいいのに、とは思わない。

 誰だって間違いは犯すんだ。好奇心や、安易な判断、思慮の欠けた発言など様々な理由から過ちへと変化していく。有紀寧が悪と言うなら、数えきれないほどの罪科を積み重ねてきた俺は今頃死罪を迎えていなければおかしい。

 

「いんや、気分は最高に良いぞ。だから、どうしても自分を許せないんだったら、一つ俺からの頼みを聞いてくれないか?」

「なんでしょう? わたしに出来る事なら何でも言ってください」

「相談したい事が、あるんだ」

 

 “素直になる”というおまじないはまだ有効らしい。普通なら言いづらい事を、この口はすらすらと並べてくれる。

 

「自分を振り向いてくれない人を振り向かせるには、どうすればいい?」

 

 岡崎の方へ向いている杏を、どうすれば俺の方へ向いてくれるか。

 一つの弱音が、ここにはあった。

 杏の事は、一度も誰にも相談をしたことはなかったのに、素直になった俺はよりにもよって年下の少女に吐露していた。

 

「どうしたら、振り向いてくれるか……ですか。それは、難しい問題です」

 

 他人の色恋に真剣な表情で考える有紀寧。その表情を見て、なんて自分勝手な相談を持ちかけてしまったんだろう、と自分を恥じる。

 この相談には明確な答えが用意されていない。

 事情を伏せ、相手の情報も無く、独りよがりの人間の我儘に、どうして正答が得られようか。

 吐き出した後になって気づくなんて。

 

「悪い有紀寧、この相談は無かったこと―――」

「―――わたしなら、相手が笑顔でいられるように努力します」

 

 なのに、誠実な彼女は自分にとっての一番を俺に提示してくれた。

 眠たげにも見えるたれ目には、確かな光が灯っていた。

 ならきっと、それは彼女にとっての正答で、こうあって欲しいという彼女の願望なんだろう。

 難しく考えてもしょうがない。元々、俺がやれるのなんてそれぐらいなんだ。なら、そうしよう。

 

「笑顔、か。当たり前だけど、一番大事だよな……確かに」

「はい。わたしは、わたしが大切に思う方の笑顔を望みます。ですから、その方が笑顔になるよう努力します」

 

 そう言い切った彼女の表情には、もうさっきのような翳りはうかがえない。

 一つ重荷を降ろして軽くなった時、授業終了を知らせるチャイムが学校内に鳴り響いていた。タイミングはバッチリだ。

 すっかり冷めた残りのコーヒーを一気に流し込む。砂糖もミルクも入れていない、そのままの味が喉を通り独特の苦みが脳を活性化させる。

 ポケットをまさぐり、小銭で二百円をコーヒー代として有紀寧に手渡し、席を立つ。

 

「ありがとな、お陰で色々と軽くなったわ。“同じ”コーヒーをまた今度、飲みに来ても良いか?」

「はい、いつでも来るのをお待ちしてます」

 

 さて、まずは岡崎に会いに図書室へと戻るか。

 扉まで付き添い、見送ってくれた有紀寧に別れを告げ、足早に図書室へと向かう。授業が終わり休み時間になったせいか、廊下にはさっきとは打って変わって人が沢山教室から出ていた。

 生徒の群を、糸を縫うようにすり抜け図書室に到達。鍵が掛かってないかの確認もせずに扉を開けた。あれから岡崎が移動をしていなかったらここにいる筈。

 だが、そう簡単には物事は進まなかった。

 

「……いない、な」

 

 室内に岡崎らしき人はおろか、人自体が居なかった。いや、一人だけ隅の窓付近に居た。

 出て行く前と同じ位置で彼女は、ずっと小難しそうな装丁の本を読んでいる。視線が腰辺りにある本へ向いているせいで、若干ここから見ると猫背みたいになっていて、孤高な姿と相まって本当に猫のように思えた。けど、岡崎と話している時の彼女は犬っぽかった。

 岡崎がここに居ないという事は、教室だろうか。そろそろ春原も登校してくる時間だ。

 俺はハサミを持ち始めたことみを視線から外し、図書室を後にした。

 

 

 ※

 

 

 幸希が去り、一人になった資料室。

 彼が飲み干したコーヒーのカップを洗う有紀寧の表情にはさっきまでの笑顔はない。

 

「……ごめんなさい、幸希さん」

 

 ここにはもう居ない人に、人知れず謝り、カップを洗い流す。

 何についての謝罪なのか、有紀寧は最後まで本人にいう事が出来なかった。

 幸希に出したおまじないをかけたコーヒーは、始めから手違いでも失敗でもなく、意図して二つのおまじないをかけていた。それは、どうしても訊きたい事があったから。

 有紀寧には兄が一人居た。名前を宮沢和人と言い、お世辞にも社会的には真っ当と言えない人物であった。毎日のように夜遅くまで友人と遊び、酷い時は帰ってこない日なんてのもしょっちゅうあった。だが、有紀寧にとっては大事な家族だった。

 今はもう亡くなってしまった兄に良く似た幸希を、有紀寧はどうしても放っておけなかった。容姿が似ているわけではないのに、どうして彼を兄と錯覚するほど似ていると思ってしまうのか。それは幸希の為人に因があった。

 兄と似た所が多い幸希を心配するあまりにしてしまった過ち。何故そんな事をしたのか、それは、

 

「どうして、いつもここにいらっしゃると……泣きそうな顔をするのですか?」

 

 有紀寧にはわからなかった。どうして幸希があんな顔をするのか。何が彼をそこまで追い詰めているのか。

 もしかして自分がいけないのか、とも思った時があったが、それなら此処に始めから来なければいいのだ。未だ彼が通い詰める事からそれは考えられない。なら、どうしてなのか。

 それを訊くために、有紀寧はコーヒーに一服盛った。素直になれば、シェルターのような心の防壁を取り払えば、きっとその理由を知ることが出来ると思った。けど、話の流れで有紀寧は幸希の想い人の存在を知り、ついそっちを優先してしまった。

 降って湧いた好奇心のせいで出来なかったことを今更にして悔やむ。

 中でも一番訊きたかったのは、幸希の身体にある傷の事。これは好奇心ではなく、有紀寧の信念を通す為にも必要だった。

 

「大切だから……笑顔でいて欲しい」

 

 独りよがりな願望だとは承知している。

 だが幸希を笑顔にするには、傷の原因を知る必要があると有紀寧はあたりを付けていた。

 資料室に来るようになってから、幸希に会ってから、有紀寧は一度だって傷の無い幸希を見た事は無かった。他の生徒はそれを『喧嘩の末の傷』と吐き捨てるが、それは違うと彼女の感が激しく否定していた。

 これまで兄の友人が喧嘩で作る傷を手当してきた自分だからわかる。

 あれは絶対に喧嘩で出来たモノではないと。

 人の気配が薄くなった資料室に、新たな客人が窓から現れ、有紀寧は対応に向かった。

 カップの汚れは、綺麗に落ちていた。

 

 

 ※

 

 

 三年D組のクラス委員長である藤林椋は、二時間目以降姿をくらました幸希の事が気になってしょうがなかった。

 最近は双子の姉である藤林杏の言いつけを守って、毎日ちゃんと遅刻する事なく登校していたのに、それ以外の学校生活が改善されることは無かった。というのも、幸希が杏からされた厳命は“遅刻をして椋を心配させるな”という事で、決して真面目に授業に取り組みなさいとか、心を入れ替えて学校生活を送りなさいとは言われていない。屁理屈のようだが、実際そうである。幸希はこれを言われていないから、と遅刻をしない以外ではいつも通りの生活を守っていた。ある意味、規則的な生活を。

 しかし、椋としては心配の種が一つ減ったに過ぎなかった。遅刻がなくなったのは当然喜ばしい限りだが、授業にも休み時間にもあまり教室に顔を出さないのでは、同じクラスという恩恵を得ている気がしないのだ。

 これならまだ、幸希に物怖じしないでずかずかと踏み込んでくる杏の方が幸希との距離が近い。椋にはその姉の立場が、とてつもなく羨ましかった。

 

「……はぁ」

 

 本来なら自分の方が近い立場に居られるはずなのに、叶わない夢となってしまった現実に溜息もつきたくなる。

 三時間目の授業も終わり、残す一時間で待望の第二回昼食会が待っているというのに。それについての話を振って、少しでも仲良くなろうと密かに企んでいた椋の作戦も、相手が居ないのでは果たせない。

 模範的な学生としての評価をなげうてば、幸希に今すぐにでも会いには行けるだろう。だが、根本からしてそういった大胆な行動をとれない性格の椋には、土台無理な話だった。

 

 ―――積極性が欲しい。

 

 誰に願うわけでもなく頭の中で思い浮かべた時、教室の開けっ放しになった扉を叩きつける音が聞こえた。

 瞬時にそれが“誰”によって出された音か思い当たった椋は、機敏に視線を向けた。

 

「椋ーっ、ちょっといいかしら!」

「お姉ちゃん?」

 

 予感した通り、積極性を持つ姉がやってきた。だけど、椋は杏を見て言いようのない不安を覚えた。

 自慢ではないが、椋は杏に愛されている。それは誰もが周知の事実で、覆しようのない真実だ。そんな杏が、妹を呼ぶのに今にも爆発しそうなくらいの憤怒に満ちた表情をするだろうか。ありえない事が今ここにありえてしまった。

 怒りで若干鼻息が荒くなっている杏は、ずかずかと大股で椋の座る机まで進んだ。途中、杏の形相を見て慄いた男子生徒が小さな悲鳴を漏らしたのを、椋は聞き逃さなかった。

 机まで着いた瞬間、杏は回りの目などお構いなしに大きく頭上に上げた両手を思いっきり音を立てて机に叩きつけた。

 

「幸希の奴が何処に行ったのか知らないっ!?」

「きゃっ……えっ? さ、榊原……くん? し、知らない、けど」

 

 肝を震わせるような打撃音は、周囲の人以上に、中心に居た椋を何よりも驚かせた。

 音の衝撃で数秒放心したのち、ようやく杏が言っていることがおかしい事に気が付いた。

 

「待ってお姉ちゃん。どうしてお姉ちゃんが榊原くんの居場所を訪ねて来るの?」

 

 三時間目の授業が終わったばかりのこの時間。杏が幸希関連の話題を出すには、今日という時間では殆どありえない。何故なら、彼女がここまで怒りを露わにする理由が、椋が知る限りないからだ。

 杏の怒りがもし昨日からのものなら、その時点で椋は気が付く自信がある。けど、昨日の時点では、彼女はなんら変化なかった。ということは、原因は今日しかありえない。

 だがここで椋に疑問を抱かせた矛盾が生じる。少なくとも、今日の二時間目が終わるまでの間、椋はずっと幸希を見ていた。自慢できることではないが、暇さえあれば盗み見していたので間違いない。朝登校してきてから、二時間目が終わるまで幸希は教室を出ていない。

 杏を怒らせるのは不可能なのだ。仮説として、登校時に杏と出会い何かがあったというのも考えたが、杏はバイク通学をしており、しかも遅刻ギリギリが良くある。殊勝にも朝早く登校する幸希とは時間が合わないのだ。

 ありうる可能性は論理で潰し尽くし、残った矛盾の答えを言わんと杏が口を開く。

 

「さっき授業が終わって少ししたら、クラスの子から手紙を渡されたのよ。それが……あーもう! いま思い出してもむしゃくしゃする! ホントに幸希が何処にいるのか知らないの!?」

「本当に私も知らないよぉ。それで、手紙は……もしかして榊原くんからだったの?」

 

 怒りで喚き散らす杏を宥め、椋は話を進めるよう促した。

 

「そうよ幸希よっ。あいつ、手紙なんて回りくどい事しといて『今日は急用が出来たからスマンが行けない。岡崎は来るから安心しろ』とか書いてよこしやがったのよ!」

「――――え?」

 

 思いもよらない事実に椋は瞠若した。

 どうして幸希は来れないのか。何故それを杏にだけ伝えたのか、自分ではなく。

 

「…………っ」

 

 何かを言おうとして、しかしそれは始業のチャイムによって何もかも遮られた。

 

「もう、休み時間短過ぎよ。とにかく、幸希を見かけたらあたしにすぐ知らせてちょうだい。それじゃあね」

「う、うん……わかった」

 

 手に持った幸希からの手紙を椋の机に置いて、杏は来た時と同じように大股で教室を出て行った。

 同時に、反対側の扉から遅刻の陽平が姿を現した。眠たげに欠伸を漏らし、教室内の空気を疑問に思いながら席に着いた。そしてすぐさま肩にかけた鞄を枕替わりに寝始めてしまった。

 ざわめきは教師が来たことですぐに鎮静化した。

 椋も周りの人同様すぐに授業の準備を始めたが、机に置いてある手紙が目に入り集中出来なかった。

 どうして幸希は来れなくなってしまったのか。杏を見て感じた不安が的中し、今はとにかく幸希の姿を一目見たかった。そうすれば安心出来ると、そう言い聞かせて授業に臨んだ。

 

 結果として、不安は終わっておらず、最悪の形で実現してしまった。

 

 楽しみだった昼食を前にした授業も半分を超えた頃、妙に教室外の空気が騒がしいのを椋は感じた。

 授業中にも拘らずやけに廊下を叩く足音が鳴り、教師の切羽詰まった会話のようなものまで聞こえてきた。ざわめきはこの教室内にも伝播した。

 

「授業中失礼します。少し、時間良いですか先生」

 

 突如開け放たれた教室の扉から飛び込んできた教師は、授業をしていた椋達の教師に声掛けし、他の人に聞こえないように小さく耳打ちしていた。話している内容がなんなのか、椋の座っている位置からは聞こえなかった。

 しかし、それが如何な内容かは大まかに想像出来た。現に耳打ちされた教師は顔を青く染め、生徒達に自習を伝えると足早に教室を去って行ったから。

 いきなりの自習に生徒達は何があったのか口々に言い合い、想像は膨らんでいく。

 騒ぎはあっという間に広がり、その騒々しさに陽平は目を覚ました。

 

「ん~、何なんだ一体。うるさいなぁー、僕寝てないんだから静かにしてよね……」

 

 が、目覚めが悪く、文句を言って再び顔を伏せてしまった。

 もう椋の中で巣食う不安の種は取り返しがつかないぐらいに成長していた。

 三時間目から姿を見せない幸希、そして、突然の不参加。それだけでも椋の心臓は張り裂けそうだったのに、追い打ちにこの事態。こうも偶然が連続してしまうと、これも幸希が関係しているのではと邪推してしまう。

 

 ―――積極性が欲しい。

 

 再び椋は願う。今の自分ではクラスのざわめきを控えめに抑える事しか出来ないのだから。

 姉のような、傍目を気にしない堂々とした態度と、それを支える強靭な心が欲しい。そう願っている内に、三度目の来訪を告げる扉が開いた。

 一度目は杏と陽平。二度目は教師。そして三度目は―――。

 

「―――岡崎くんっ」

 

 教室に現れた朋也は、そこだけ明かりがさしていないのではと思う程に暗い表情をしており、眉間に大きなクレバスを作っていた。

 何かを知っていると確信できる表情の朋也に、椋は駆け寄った。

 

「あ、あの、岡崎くん……その、榊原くんがどこに居るのか……知りませんか?」

「……あいつなら」

 

 絶望に浸かったような面持ちの朋也は、底冷えするほど低い声でその事実を、椋にだけ聞こえる音量で口にした。

 それは、幸希の晴れやかな笑顔を心待ちにしていた椋には、残酷な仕打ちだった。

 

「他校の連中と、資料室付近の校舎外で喧嘩をして……そのまま、停学になった」

 

 ―――積極性が、欲しかった。


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