この街に住んで十数年。
楽しことや嬉しいことなんてのは掃いて捨てる程転がっているが、同じぐらい辛いことや悲しいことも溢れている。
世の中っていうのはそう言った幸福と不幸のさじ加減まで平等なのかと聞かれたら、俺は間違いなく「そんな事はない」と言い切れるだろう。
一方的な不幸ってのはやっぱり存在していて、それは唐突に降り注ぐ雨のように心に打ち付けてくるんだ。
―――ならば幸福とは?
問われたところで模範解答なんてもんは無くて、俺には答えることは出来ない。
広大な世界に人という種は際限なく増えては減っていくのを繰り返しているのだ。一人一人の幸福の定義なんてみんな違っていて、だからこそ他人同士は寄り添いあうんだろう。
人は一人で生きていく事は確かに出来るだろう。
でも、それはただ生きているだけに過ぎない。
朝起きて、飯を食って、クソをして、また飯を食って、たまに風呂に入らなかったりして、またクソをして寝る。
他人を排他して孤独に生きる。成し遂げてる者はそれを孤高と言い張るんだろうけど、俺からしたらそんなのただの強がりだ。持ってないって事に対して虚勢を張っているに過ぎない。
結局の所、何が言いたいのかと言うと。
人生なんてのは、死ぬ間際になってからやっと考えるようなもんで、俺みたいな青臭いガキが偉そうに高説を垂れても意味がないって事だ。
「ギャアァァァアアアアーーー!!」
カエルが人間の言葉を発することが出来たなら、踏み潰されて死ぬ間際はこんな断末魔を上げるんだろう。
目が覚めて耳に聞こえてきた声は、俺の寝起きの悪さをさらに増長させるものだった。
横になっていた炬燵から、蝸牛からナメクジへと退化するようにもぞもぞと収まていた体を這いずり出す。怠惰な姿と思えばそうだろう間違いない。
「ヒィィィィーー!」
俺を目覚めさせた不快な鳴き声がまたも鳴り響いてきた。
どうやらこの発生源は廊下かららしい。他にもドタドタと大人数の乱暴な足音が床を踏み鳴らしていたりする。
いい加減不愉快だから外に出て注意でもすることにするか。
小さなワンルームの部屋から出て廊下での騒ぎに目を向ける。
「なーにやってんだよお前ら……?」
見ればウチの高校のラグビー部が数人で一人の男をもみくちゃにしていた。
誤解があると困るので詳しく説明しよう。ラグビー部の奴らはユニフォームを来ていない男をボールに見立てて、スクラムしたり後方にパスをしたりしていた。人一人をこんなにホイホイ投げることが出来るこいつらは、きっと全国まで行っていい試合をしてくるに違いない。将来有望である。
しみじみと公開処刑のような玉遊びを眺めていたら、ボールと目が合ってしまった。
「さ、榊原ぁ! 見てないで助けてくれよ!」
「え? お前、これ一緒に遊んでるだけじゃないのか?」
「んなわけないでしょ! どう見てもリンチされてるじゃん僕!」
なんとボール役の奴は口が聞けたのだ。驚きである。
きっと俺を眠りから開放した不届き者はこいつだろう。そうに決まっている。
「お前のせいで折角いい心地で寝てたのに、目が覚めちまったじゃないか。罰としてそのままボールになってろバカ原」
「アンタ血も涙もないッスねぇ!」
ボール改めバカ原こと『春原陽平』は涙を流しながら悲愴な表情で俺に恨み言を言ってきた。失礼な、俺だって怪我をすれば血を流すし、玉ねぎの微塵切りをすれば涙も流す。人を鋼鉄超人みたいに言いやがって。
俺の介入によって一時止まっていたラグビー部の遊びは、背を向けて部屋に戻った事で再開された。
情けない断末魔が再び廊下に響き渡ったが、心配はないだろう。あれで春原って男はかなり頑丈に出来てるし、ここの寮母である美佐枝さんが騒音に耐えかねて殴り込んでくるだろう。
部屋―――春原の部屋に戻った俺は、炬燵から急に出た事で冷えた体を温め直すべくまた炬燵に戻ってぬくぬくだらける事にした。
廊下では相変わらず春原が引き攣った声をリズムよく上げている。
「岡崎ぃー! 見てないで助けてくれよ! 榊原は酷い奴だ!」
「面倒なんで断わる」
「ううぇー!?」
炬燵の中に深く身を沈めて、肩まで毛布を被ってテーブルに突っ伏していたら、新たな来客があったのだろう。
再度SOSを要請した春原の救助はやっぱりなされることはなかった。分かってることだが、つくづく不幸がよく似合う男だな。
ぬるま湯のような空間で怠けていると、またも廊下で「トラーイ!!」って決め台詞が聞こえた途端女性の怒号が飛んできた。
「あんた達! いい加減にしなさーい!」
この声は寮母の美佐枝さんだな。相変わらず快活なお方だ。
現場に居ないから分からないけど、美佐枝さんの声が聞こえた瞬間に男達の逃げるような足音が聞こえてきたので、きっと蜘蛛の子を散らすように逃げていったのだろう。
騒がしいバカ騒ぎは嫌いじゃないし、むしろ積極的に場を荒らすのが得意なんだが今は寝起きって事もあって正直動くだけでも面倒だ。
この季節、涼しいかったり暖かかったりとわけの分からん気候だから貝のように殻に篭るのが一番だ。
「嗚呼、なんとも心地よいだらけ日和なんだ」
「勝手に人ん家でくつろがないでくれますかねぇ!」
「よお榊原、相変わらず緩みきった顔してんな」
至福の時に浸っていたら部屋の扉が開いて、家主……というのは精神的に忌避したい春原と、その共通の友人である岡崎が入ってきた。
常時緩みきっている俺にとっては岡崎の言葉は褒め言葉に近い。よってこれは罵倒ではなく、緩んだ表情を崩さずに二人を迎え入れる。
「俺が引き締まった顔をした時……それは世界の終わりが来た時だ」
「今ここで春原の世界を終わらせたらその顔見れるか?」
「ちょっと! 勝手に人の命を差し出すような真似しないでよ!」
「まあ中に入れよ、小さくて汚い場所だけど……ま、ゆっくりして行ってくれや」
「僕の部屋だよ!」
いつものようにくだらない会話を繰り広げる。
俺達三人はとある事をきっかけに知り合うようになった友人である。
それが何か、と言えば色々と紆余曲折あった末のこの関係なので、説明するには少々時間がかかってしまう。
俺達はこの街、あの学校では爪弾きにされている厄介者だ。だからこうやって似た者同士でよりあって弱さを補っている……のかもしれない。
小さめな炬燵に男が三人寄り合うというこの状況は、なんともおぞましい事か。
「おい春原、狭いからそのボトム・リムをパージしてくれない?」
「僕の体はVな機動戦士じゃないよ!」
「初めましてだな、ガ○ダム!!」
横になっていた春原が飛び起きで反応する。流石は春原だ、多少の無茶なボケにも突っ込んでくれる。そして岡崎。お前のそれはちょっとキャラと違うだろ。
「それにしても、今日はまた派手にやられたなバカ原。今回は何が原因だ?」
「僕が部屋でボンバヘッを聴いてたら、いきなり怒鳴り込んできたんだよ。くそーラグビー部め」
「文句言うなら相手に聞こえるように言えよ。……クソー! ラグビー部め!!」
「ちょっとー!」
『今の言った奴誰だー!!?』
ドンッ、と壁を叩いた大きな音がしてきた。
口の横に手を当ててメガホン替わりに叫んだ岡崎は、春原の扱いにかけてこいつ以上の逸材は居ないかもしれない。
「ヒィィィィ!」
ラグビー部の怒声に怯えて体を震わせている春原が、てに持っていたポテ○ングを岡崎に突きつける。
「お願いだから余計な事しないでくれる!?」
「なんだよお前、ビビってんのか?」
芋菓子を突きつけた所で脅しの材料にはなりはしない。
岡崎は怯むことなく怯える春原をいじくり倒す。
この二人の漫才は見てて面白い。ぞんざいな物言いをしながらも優しさが潜んでいるのを俺は知っているから、こう、一人で居る時の陰鬱な気持ちが吹き飛んでいい心地になるんだ。
炬燵に潜りながら二人のやり取りを眺める。
―――この街には、なんでもないものが沢山転がっている。
夜も深くなりいつまでも春原の住む学生寮に居るのも嫌になったので、岡崎と二人で外に出た。
夜風は冷たく吹き荒び道行く人達の肌に刺さる。
都会から見たら田舎なこの街では空に満天の星が輝いて、こんな夜も悪くはないな、と思わせる時が多々あったりする。
「それじゃあ俺はこっちだから」
いつもの分かれ道に差し掛かった時、岡崎は自分の家がある方向を指差してそう言った。
その表情は少し翳りが指していて、家に帰るのが嫌なのだろうという思いがふと脳裏によぎった。
「あいよ、じゃあまた明日の昼頃に学校で」
「おう、じゃあな」
複雑な家庭環境にいることを知ってはいるが、俺が岡崎に出来ることなんて本当にごく僅かで頼りない。
だからせめて友人として何でもないように、俺は気にしてないような素振りで小さくなっていく背中を見送る。
誰だって人には知られたくない、指摘されたくない事実や過去があるんだ。それが後ろめたいものであればより一層傷は深い。
岡崎を見送った俺は、帰りたくもない自分の家に向かって足を進める。
その足取りは重く、足輪で拘束でもされているようだ。
夜遅くまで春原の部屋に入り浸るのは、家に帰りたくないからだ。それは俺も岡崎と同じ理由だ。ただ少し違うのは、俺が帰らないとあの人は死んでしまうから。
一人で生きることが出来ないあの人を、俺は死ぬまで面倒を見なくてはいけない。それは俺がこの世に生まれてきた瞬間に植えつけられた呪いのような物で、存在理由と言ってもいい代物だ。
しばらく歩くと二階建ての古アパートに着いた。
築何十年なのかも分からないボロいアパートが俺の住む家。ここに家族が一人一緒に住んでいる。
「ただいま帰りました……」
錆び付いた扉を金属が軋む音を立てながらに開いて中に入る。
これから数時間。
俺にとって何よりも辛い時間が始まる―――。
「結局さあ、榊原ってなんでいつも傷だらけなのさ?」
「男は敷居を跨げば七人の敵あり……って言うだろ。俺にはその三倍はいるんだよ」
「マジで!?」
学校内での昼下がり、さっき起きた春原に質問された俺は適当なことを言って煙に巻いた。
岡崎はさっき飯を食いにどっかへ出かけてしまった。
昼休みだというのに俺は春原の相手をなんでしているのか。
馬鹿らしく思って椅子に座ったまま窓枠に背中を預け、開けっ放しの窓から上体を出してみる。自然と上を向く形になって、太陽の日差しが眼球に突き刺さった。が、ここでへこたれる俺ではない。
眩しくて目を開けてらんないので瞼を閉じて目を細くし難を逃れる。
ふと、誰かの近づいてくる足跡が聞こえてくる。
「あ、あの榊原くん」
「んあ……?」
誰だろう。この学校で俺に話しかけてくる奴なんてのは滅多に居ない。
俺こと『榊原
体を起こして元の体勢に戻ると視界に入ったのは一人の少女だった。なる程、こいつだったら話しかけてくるだろうな。
「どうしたんだ藤林妹? トイレの場所でも分かんないのか?」
「え? あ、あの……違います……」
「うわー、ここまでナチュラルにセクハラする奴、僕初めて見たよ。ちょっと引くね」
お茶目なジョークに戸惑って顔を赤くし俯いたこの少女は『藤林椋』と言って、クラスで委員長なんて面倒な事を引き受けている生贄さんだ。
机に突っ伏したまま春原がこっちを向いてなんか失礼な事を言ってるけど、この際無視する。後でラグビー部員にある事無い事言いふらして制裁してもらおう。
「冗談は置いといて、なんか用でもあんのか?」
「あれ? 僕のこと無視? ねぇ」
「榊原くん……今日も遅刻です」
「そうだな、それが?」
「ちょっと榊原、聞こえてる……? もういいよ……」
「私、クラス委員長なので、そういうのは注意したほうがいいのかと思って」
おどおどしながら歯切れ悪く言ってはいるが、度胸はあるんだな。もしかして姉譲りなのか?
顔を赤くしながらも時折こっちを盗み見て様子を伺っている姿は、クラスの男子にさりげなく人気があるいい証拠になっている。実際、遠巻きに藤林妹の事を見ている奴が今だって居る。
しかし遅刻……かぁ、確かに多いけどしたくてしてるわけじゃあないんだよな。
「そっか、わざわざご苦労様。今後、出来れば遅刻はしないよう前向きに検討するよ」
「あ、あの……ちゃんと学校には来てくださいね?」
「わかったわかった、来るよ」
「それじゃあ、明日遅刻しないか占いで見てみましょう」
どうして占いになる。
藤林妹がポケットから取り出したのは普通の市販で打っているトランプだった。
たどたどしい手つきでトランプをシャッフルしている藤林妹を眺める。と、失敗してトランプを床に落としてしまった。
「あーあ、待ってろ今拾って……」
床に散らばったトランプを拾おうと椅子に座ったまま身を屈めて腕を伸ばした。
その時頭上より藤林妹の声が降ってきた。
「榊原くん、明日入院します……」
「おい……!」
どういう事だ?
今ので何を占ったんだよ。遅刻をするかしないかの占いじゃなかったのか。それがなんで入院なんて結果を生み出すんだ。
「なんで遅刻じゃなくて入院になるんだよ?」
「明日は登校中に素敵な女性と衝突して、色々あって……入院しちゃうって出てます。榊原君、気をつけてくださいね」
「そんな物騒なこと言われたのはお前が初めてだよ……」
今までいろんな奴に恨まれて絡まれたり襲われたりしてきたけど、入院するほどの危機に陥ったことは一度もなかった。
もしかしたら……この占いが的中するなんてことは。いやありえないだろう、そんなのはオカルトの領域だ。
現実ってのにはそんな不思議展開なんてものは起きない。幽霊の正体は枯れ尾花だし、UFOはプラズマ発光現象の見間違いだ。夢を見るのは子供の頃に卒業するのだ。
なんてオカルト好きの人達を敵に回すような事を考えていると、床に散らばったトランプを拾い終わった藤林妹が、風邪でも引いているのだろうか顔を赤くしながら口を開いた。
「榊原君……!」
「うおっ、な、なんだ?」
彼女からはおよそらしからぬ大きな声量に驚いて素っ頓狂な返事を返す。
振り絞るようなその声は何かを訴えようとしていて、なんだか必死なようにも聞こえた。その証拠に彼女の透き通るような瞳はうっすらと潤んでおり、言わんとしている事の重要性を物語っていた。
「も、もしよかったら明日……い、いっしょ……一緒に―――!」
「―――コラーーー!!」
直後。藤林妹の言葉を遮る様にして聞こえてきたのは、空気を切り裂くような凛とした怒声だった。
いったい何が起きたのだろう、と思って声の聞こえてきた方を見ると、眼前に物凄い勢いで何かが飛来してきた。
「んなっ……!? あぶなっ!!」
殆ど反射的に顔を横に振って飛んできた物を回避する。
顔の横を通り過ぎる時耳元で暴風のような風圧と音が聞こえて、思わず俺は背中から冷や汗を流した。
俺はいつの間に殺し屋に狙われるようになったんだ、と理不尽な暴挙に怒りを覚えて飛んできた方向を睨む。
「あんた、何あたしの妹を虐めてんのよ!?」
―――そいつは、深緑の合間にある小川の流水のように、煌びやかな長髪をたなびかせていた。
「幸希っ! 椋があたしの妹だって知ってて泣かすなんて、いい度胸してんじゃない!」
藤林妹と同じ顔をして、いや若干目が強気な正確を表すように釣り上がっているが殆ど同じな顔が、瞳が俺を捉えている。
怒気の孕んだ彼女の声は藤林妹を自分の妹と主張して俺とその妹がいる方へと、威圧感のある強い足取りで近づいてきた。
彼女の名前を……俺は知っている。
「―――杏!? なんちゅーモンを投げてくれるんだ! 危うく頭部と胴体がお別れするところだったじゃないか!」
「自業自得よ。あんたが椋を虐めるからでしょ」
そう言って妹の横に並び立って腕を組み仁王立ちする姉。
彼女の名前は『藤林杏』
苗字と言動から分かるように、杏の横で驚いた表情をしている藤林妹の双子の姉である。
「はぁ? なんで俺が藤林妹を虐めなくちゃいけないんだよ」
「なんでって、現に今椋は泣いて―――」
「お、お姉ちゃん! 違うよ、誤解だよ。榊原君は何もしてないよ。それに、な、泣いてないよっ」
泣いている、と言おうとした杏を遮るようにして藤林妹が身を乗り出してきた。目にはやはりまだ涙の後が残っているが、彼女が違うと言っているのだ。信じてもらいたい。
割り込むように入ってきた藤林妹を見て杏がきょとんとした表情をする。誤解が解けたのだろうか。
状況を理解するために俺と藤林妹の顔を交互に見て、一時考えるように首を傾げた。
「あれ? もしかして、勘違い……だったりする?」
「ああ勘違いだ。短絡的すぎるぞお前」
「あ、あははー、ちょっと早とちりしちゃたみたい。ごめんねー幸希」
「早とちりで殺人未遂されちゃたまったもんじゃねえよ……」
乾いた笑い声を上げながら頭を掻く杏だが、全然誤魔化せてない。むしろ俺じゃなかったら悪化してるところだ。
でも、自然とそのわざとらしい笑顔に目が留まってしまう。
紫陽花のような色の長髪に、すらりとしたラインの顔と、控えめながらも可愛らしい口元。スッとした鼻のラインと、その両端に添えられた快活そうな双眸。
俺は―――この少女に一年前から恋をしている。
出会いこそ平凡なものだったが、今でも瞳を閉じれば鮮明にその情景を思い起こすことが出来る。
同じクラスだった杏は、今の妹と同じようによく話しかけてきた。
当時、春原とは知り合いだったもののまだ岡崎とは出会ってなかった頃、俺は今より少し荒れていた。尖ったナイフのように近づくもの皆傷つけていた時期だ。思い出すだけで恥ずかしいが、それも杏のお陰で今ではいい思い出となっている。
クラスでも一際浮いた存在だった俺はよく人目のつかない屋上でサボっていた。
空を見上げて流れる雲を眺めながら、痛む体を労わっていた時に杏は来たのだ。思えば、あれがなかったら俺は今も屋上で一人腐っているか、学校を辞めて働いていたかもしれない。
頭上に立った杏は俺を見下ろして、ムッと山のような形の口を開いてこう言ったんだ。
『ここは立ち入り禁止なんだから、さっさと出なさい!』
って言って有無も言わさず俺を引きずって行ったんだよな。
懐かしくも恥ずかしい思い出だ。
それ以降、何でか俺を気にかけてよく話すようになっていた。
嫌々ながらも話しているうちに、岡崎と知り合って心に余裕が出来た頃、気がつけば俺はあいつの事を好きになっていた。
目の前でふんぞり返っている杏は、ジッと眺めている俺を見て訝しんだ表情を浮かべる。
「なによ、誤ったんだからもう良いでしょ。大体、椋と何してたのよ?」
「何って……トランプ占い?」
藤林妹の方を見てそう答えた。それ以外に言いようがなかった。
俺の答えを聞くと杏は自体を把握したらしく、愉快そうに笑い出して俺の肩をバンバンと叩きだした。痛ぇよ、でも許そう。
「で? 占いの結果はどうだったの?」
「藤林妹によれば、明日俺は素敵な女性と衝突して入院するらしい」
「あっははは! なにそれ、凄いあんたにお似合いね」
失礼な。入院がお似合いなんてのは病弱キャラだけだろ。俺のどこが病弱に見えるんだ……あ、でも毎回傷だらけだからそう思われても仕方ないか。
馬鹿笑いする杏をおろおろとしながら宥めようと、藤林妹は差し出そうとした両の手を中空で右に左に行き来させてはどうしようかと悩んでいる仕草をしている。
「お、お姉ちゃんそんなこと言ったら駄目だよぉ。榊原君が可哀想だよ……それに占いだから、まだ当たるとは決まってないし」
「何言ってんのよ椋、あんたの占いは殆ど当たるじゃない。ま、もし入院したら椋をお見舞いに行かせてあげるから、楽しみに待ってなさいな」
「そこは杏じゃないのかよ。勝手に藤林妹の予定を決めんなよ、可哀想だろ俺なんかの見舞なんて。まだそうだとは決まってないけどな」
他人事のように言う杏に文句を言って、あわよくば本当に入院した時の可能性を臭わしてみると、何故か藤林妹の表情が翳りを見せた。
まさか、こんな俺でも人に拒否されたことに傷ついてしまったのだろうか。いや、都合のいい思い込みもいい所だな。そんな事はありえない。クラス一の嫌われ者の俺にそんな事を思う権利なんてのはありはしないのだから。
卑屈な俺の思考なんて知らない杏は、浮かない顔をする椋を見てまたも少し眉が釣り上がる。
「ねえ幸希、あんた何であたしの事は『杏』って呼ぶのに、椋の事は『藤林妹』なんてまどろっこしい他人行儀な呼び方すんの?」
「他人行儀って、藤林妹とは知り合ってまだ日が浅いし、それに俺は滅多に人を名前で呼び捨てなんかしないんだ」
それだから杏の事は呼び捨てにするんだけどな。でもこの女、俺の好意を一切気がついてないからな……。
逆に、藤林妹は何かに気付いたのかハッとして俺を見る。
もしかしたら分かったのかもしれない。でも、当の本人はそんなことには気がつかずに絶えず俺を咎めるような目つきで見ている。
「あんたの持論なんかあって無いようなもんでしょ? いいから、これからはちゃんと『椋』って呼びなさい! もう『藤林妹』って呼び方禁止!」
「そ、そんな無理やり……榊原君……むり、しなくて良いからね……?」
「いや、言ってることは無理やりだけど、良いのか? 俺が呼び捨てなんかして」
問題はそれである。
惚れた女の言うことだからと何でも快諾するほど俺は簡単な人間ではない。ちゃんと相手方の同意が無いかぎりその命令を受けるのはありえない。
見れば藤林妹は頬を染めながらも、なんとも感情の読めない複雑な表情をしている。これは、葛藤と言っていいのだろうか。
「わ、私は……さか、榊原君が、良いなら……そう、呼んで欲しい…………な」
掠れるような声。
この言葉を言うのにどれだけの勇気を消耗したんだろう。既に憔悴したような顔をしている。
ここまで言われて「ゴメン無理」なんて残忍な事は言えない。杏も見ているんだ、下手したらただでさえあるかどうか分からない俺への高感度が暴落してしまうかもしれない。
だから―――
「……分かった。それじゃあ今日から椋って呼ばせてもらうよ」
「…………はいっ!」
嬉しそうに、紫陽花の花が咲いたような笑顔を浮かべる。
姉と同じ顔をしているせいか、不覚にもその表情に心を乱された。
杏だったら俺には見せてはくれない表情。
俺ではない人に見せる表情……。
その事実を思い出して、俺の心は暗闇につかまれたような寒気を覚えた。
俺の心情など分からない能天気な女は、それまた何も考えずに聞きたくも無い言葉を訊ねてきた。
「そういえば、春原はここで馬鹿みたいに寝てるけど……その、朋也はどうしたの? いつもあんたら一緒にいるでしょ?」
そわそわと、本人はさりげなく言ってるつもりなんだろうけどわざとらしく聞いてきた。
嗚呼、これだからこの世界は不幸なんだ。不平等に降り注いで俺を闇に突き落としてくれる。
もう杏がどんな顔をしているかなんて、見なくても分かっている。どうせ恋する乙女のように、とんでもなく可愛らしい表情をしているんだろう。俺には一切見せたことの無い顔を。
いつ聞いても慣れない。
まるで地面が一瞬で消失したみたいに、足元から脳天にかけて浮遊感と落下する時特有の内臓がせり上がる気持ち悪さがこみ上げてくる。
それから俺はどんな返答をしたのか覚えてない。
ただ、後から俺に無視されてふてくされて寝てた春原曰く、死人のような顔をしていたらしい。
「委員長が心配そうにしてたぞ」とは春原談。でもきっと、杏には気分が悪くなったとしか思われてないんだろう。
物語の主人公になってみたい。
何の不自由の無い頭の悪そうなラブコメの主人公になりたい。
あいつらは特に何をしなくてもヒロインに思いを寄せられて、しかもそれに気がつかない。そんな残酷な仕打ちをしても、決してヒロインは主人公のことを嫌わず積極的にアプローチをするんだ。物語が最終話になっても決着のつかないハーレム展開に、彼女達はどんな思いを抱くのだろうか。
叶う事の無い絶望なのか、それとも作者のかけた呪縛に囚われたまま主人公を思い続けるんだろうか。
俺が主人公なら全員をもれなく余すことなく恋人にするのに。
でも、それは物語だから許される事。
現実には時間があって、年を重ねれば世間体ってもんがのしかかってくる。結婚出来るのは絶対に一人だけ。その相手にすら相手にされなかったら、後は孤独に、孤高だと言い張って強がるしかない。
なんて不平。
ジクジクと痛む体に鞭打ちながら歩く道がやけに長い。
気分転換に向かった中庭にはいつになったら到着するんだろう。
情けない奴だ。男相手なら喧嘩で負けることなんて無いんだろうけど、女にはそんな力関係は通用しない。強い男が好き、抱いてっ、なんて言って惚れてくれるなら安いもんだ。
ありえない夢想をしながら、一歩一歩着実に歩を進めていくと、ようやく目的の中庭に到着した。
校舎を挟んだ間にあるこの空間は、両サイドの圧迫がありながらも開けた空間を演出しており、杏に屋上を禁止された俺のお気に入りのスポットになっている。
特に、中央付近にある大木を中心に囲うような円形のベンチが気に入っている。あそこは頭上の木が太陽を遮ってちょうどいい感じに日陰を作ってくれるので、眩しさに煩わされることなく横になれる。
早速寝転がろうとベンチに近づくと、二つの人影を見つけた。
それは仲良さそうに寄り添っており、俺から見たら恋人同士にも見えた。くそ、滅べよ。
どうせ一睨みすれば逃げていくだろう、と思ってそっち側に回って相手を確認しようとしたら、
「それじゃあ、まずは演劇部の部室にでも行ってみろよ」
なんて聞き覚えのある男の声が聞こえた。
その男は―――
「岡崎……?」
「あれっ、こんな所でどうしたんだ榊原?」
間抜けながらもちょっときつめな整った顔立ちをしていて、その横には、
「お知り合いですか、岡崎さん?」
なんか小動物っぽい少女と一緒に座っていた。
この時、俺はある考えを思いつく。
それは、この少女―――古川渚と岡崎をくっつけてしまおうという。
杏の気持ちを踏みにじる悪魔のような悪手だった。