「聞きたまえ、榎木津」
男は苛立ちを隠さぬ声音で言った。
「あの男が我々に言わなかったことがある。会場だった店についてだ」
***
私には柚木加菜子を誘拐する理由がない。元々招かれた立場であり、訪問の日程を決めたのは美馬坂教授、今日初めて病室に入った。そして私はむしろ誘拐されて身代金を請求される方であって、他人を誘拐する必要性が全くない。
「快盗KIDならサイン付きの予告状があるはずだが――まるでKIDの奇術だ。少女一人が煙のように姿を消してしまった」
目暮警部の言葉に毛利探偵が「全くですな!」と大声で頷いた。
加菜子ちゃんの人間消失マジックと死体で見つかった須崎という事件の連続にざわつく警察にちょっと不安を覚えつつ、夢見がちな夢想を語る頼子ちゃんを見やる。加菜子ちゃんは天女に生まれ変わったのだ、云々。そんな混沌とした室内に、私の声は思いがけず大きく響いた。
「この世に不思議なことなど何もないのだよ」
コナン君が目を大きく見開いて私を振り返った。そんなじろじろ見ないでよ照れるだろ。
持ってきてもらって座ってたパイプ椅子から立つ。
「美馬坂教授、貴方の理想――貴方の研究は素晴らしい。貴方の研究の一層の深化、発展のため私が出来ることは何でもしよう」
「――有難い」
「ですが」
このおっさん狂ってるんだよな。
「私にとっての『生きる』とは、自分の意思をある程度自由に世間に発露できること、だと思っています。ただ血液が流れているだけの肉体に意思の発露はない。――柚木陽子さん、貴方は一度、教授としっかり話し合った方が良い。私たちは同じ単語を使ってコミュニケーションしているけど、同じ単語が同じ概念を意味しているとは限らない」
「何を……」
少し血の気が引いた唇をはくはくとさせる美馬坂教授を後目に柚木陽子さんを見れば、彼女も顔色を悪くしながらコクリと頷いた。
久保竣公から電話があったのは十一時前のことだった。今日の昼過ぎに伺う予定だったが急用のため行けなくなった、もし可能なら今晩どこか店で食べながらというのはどうだろうか、と。
小説のため名探偵と名高いおっちゃんを取材したいという話だそうで、守秘義務に反する話をするわけでなし、子連れで構わなければと返したおっちゃんに久保は「全く構いません」と返したようだ。今晩の晩飯は二駅先の海鮮呑み屋で食べることが決まった。
駅前の店で合流した久保はいかにも神経質そうな造作の男で、かっちりした格好の中に鑑識がしているような柔らかい素材の白手袋がぼんやりと浮いている。――手袋のへこみ具合からして何本か指がないようだ。
「貴方が毛利探偵!?――いえ、失礼。もっと取っつきづらい慇懃な方を想像していたものですから」
その言葉におっちゃんはハハハと笑う。
「探偵は依頼人に寄り添うものですからな。不愛想では務まりませんよ」
まずは一杯とジョッキをぶつけ、飲みながら探偵のいろはを語るおっちゃんとメモを取る久保。三色海鮮丼Aセット――ネギトロ、イクラ、サーモンの三色丼とみそ汁にお浸しのセットだ。ちなみにCセットまであった――を食べながら、おっちゃんの自慢話に内心突っ込みを入れまくる。よくまあここまで自慢話を続けられるもんだぜ。
呑み放題の制限時間、一時間半が過ぎる頃にはおっちゃんの呂律はふにゃふにゃになり久保の目は酔いで据わっていた。よたよたと店を出たところで「貴重なお話を聞かせて頂きました」なんてお世辞にしか聞こえない挨拶をして別れ、歩いて二分の駅で電車に乗り――その列車で、人身事故が起きた。
被害者の名前は柚木加菜子、その場に居合わせた被害者の友人は楠本頼子。楠本頼子は嵐のように泣きじゃくり会話が成り立たなかったが、おっちゃんは現場を警察に引き継ぐ際に彼女へ名刺を渡していた。何かあったらうちに来なさいと。
「可哀想になぁ、友達の自殺を見ちまうなんてよ」
――その認識が誤りだったと分かったのはそれからおよそ二週間後、ポアロに飛び込んできた楠本頼子は言った。「加菜子を突き落とした犯人がいる」と。
ちょうどそのころは御筥様の調査が暗礁に乗り上げていた。御筥様の教主である寺田兵衛は実直な男で、俺の目から見ても詐欺をしている風には見えない。詐欺師とはそういうものだと言ってしまえばその通りだが……ありふれた善人で、狂信的に筥の力を信じている。理性的で理論的な説得はことごとく押し切られて仕舞いだ。力強い声で「帰られよ!」と繰り返されてしまえば帰る他ない。おっちゃんは御筥様の調査に嫌気が差していた。そんな時に飛び込んできた、全く目先の違う事件だ。おっちゃんがそれに飛びつかないはずがなかった。
楠本頼子の願いにより、事務所の皆で柚木加菜子の入院する美馬坂近代医学研究所へ行った。まさかそこで半月先生に出会うことも、誘拐事件が起きることも、殺人事件が誘拐とほぼ同時に起きることも……予想だにしていなかったんだが。
「そうだ、柚木さん。事件とは全く関係ないんですが、お宅の隣の方ってもしかして、平野さんってお名前ではないですか?」
事件とは関係ないと言いながら、どこか固く切実な声音の半月先生に、柚木陽子はきょとんと目を瞬かせる。
「いえ、うちは端の部屋ですので……隣は片方しかありませんが、河野さんとおっしゃる方です」
なら良かったと答えた半月先生の表情は、こんな場なのに安堵に満ちている。
「『くも』はないんだ」
その独り言は何か凄く重くて、質問を許さない雰囲気を漂わせていた。
魍魎の匣のざっくりとした説明を活動報告(19.9.23)に載せております。