ど健全なる世界   作:充椎十四

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 頂き物の三次創作となります。

・作者様HN

 2020/6/19にマシュマロを送った人(仮)様


・作者様からのおことわり

 本編とはまるで違うテンションの短編です。全体的に暗いです。
 登場人物は原作に登場しないオリキャラです。氏名などの固有名は意図的に伏せています。登場人物達(本人、姉、従兄)が通っていた学校の話も、調べきれた範囲ですが実際に存在しない学校構成になるように設定しています。
 以上の点を御理解の上でお読みください。


【頂き物】タコ壺の信念と、視線の話【三次】

 もしよろしければ、私の思い出話をお読み下さい。

 病床の女が、衝動のまま書き綴った記憶です。拙くて長くてつまらなくて、暗い思い出話です。

 あの頃の思い出に、成人した今も明るさを見出すことはできません。楽しさを主題に何かを綴るだけの気力も意向もありません。誰がどう見ても特異で、極端で、馬鹿馬鹿しくて、そして私の人生の中でも決定的に大きな悲しみの記憶です。

 一生涯忘れ得ない経験をするに至った、小学5年生から中学1年生の頃までの、断片的な思い出話です。

 

 他の人の深層精神のありようを『こうであった』と断言する形で微に入り細に入り記すことは、例え身内の話題であっても、私にはとても出来ないことです。人が、他人の心の内に入り込んで精神そのものを覗くことなど絶対に出来ないのですから。

 でも、当時、私自身がどういう風に感じ取ったか、私自身がどういう解釈をしたのかは、私の責任の限りで書ける事柄です。無論、それでも、厳密な意味で小学生や中学生だった頃にタイムスリップすることもまた不可能であります。この文章は、成人した私が思い出して綴ったもの。つまり『今の私』が『当時の私』を振り返って解釈した文章にしかなり得ません。

 

 その事を踏まえて書きます。『記録』と『記憶』と『推論』を、完璧に分離して書くことも私には出来ません。今から記すのは、そうしたものがどうしても不可分に入り混じった、ある一個人の思い出話です。

 

 

「そういえば、明日の夕方に、TVでさ、ものすっごく変なメイクをした人が出るらしいよ。詳しく知らないけど、何か話題になってる作家さんなんだって」

「へぇー……。どんなメイクなんだろうね」

 

 小学5年生だった頃のある日、仲の良い同じクラスの友達がフッと思い出したように教えてくれたことを覚えています。金曜日の放課後、帰宅途中の会話でした。

 休み明け月曜日の朝にはその作家さんの顔が話題になるのかなぁ、なんてことを思いながら、あいづちを打ったのも覚えています。すぐ後、自宅近くの交差点で、いつものようにその子に「さよなら」を言って別れたことも。

 

 東都郊外のとある教会。そこから道一本挟んで向かいにあった2階建ての小さな一軒家が、私の家でした。

 教会の牧師の父、7歳上の姉、そして私、合わせて3人暮らし。『教会運営元の所有物件に住まう牧師と娘2人の父子家庭』、世間的な立ち位置としてはそういう枠組みで言い切れる家族でした。

 私が帰宅した時、父が自宅にいました。普段、私の学校帰りの時間帯は教会にいることの方が多かったのですが、こういうこともたまにあるのでした。

 

「ただいまー。ねぇ、お父さん。さっき友達に教えてもらったんだけどね、明日の夕方にものすごく変なメイクした人がTVに出るんだって。気になるんだけど、明日見てもいい?」

 

 当時、土曜日の夕方はたいてい他の事をしており、何か見たい番組がある時は事前に言っておく必要がありました。日頃何か見たい番組があるわけでもなく、私がこういう風に申し出たのは珍しいことであったはずです。

 父から許可が出るものだと思っていました。何かやるべきことがあってそれで駄目だと言われる可能性はあるかもしれないけれど。

 でも父の反応は予想外でした。青くなって唇を震わせ、私の肩を掴んだのです。

 

「その人は見るな。もしこれから見てしまっても、何も聞かずにチャンネルを変えなさい!!」

 

 小学5年生の女子が両肩を鷲掴みにされながらそういう風に言われ、「はい」と言えない状況が想像できるでしょうか。驚きながらもとにかく了解しました。

 何か喋ってはいけないことを喋ってしまった気がしました。よほど見てはいけない人がTVに出るのだと悟りました。

 以前うっかり母に失礼なことを言った時に、父がこんな反応をした事はあります。しかしTVの番組についてそういう風に言われたのは初めてのことで、予想だにしないことでした。

 

 休み明けの月曜日、登校の時「お父さんが駄目だって言ったからTV見れなかったよ」とは友達に言えました。ただ、父がどう反応したのかについては、何故か姉を含めて誰にも話せませんでした。

 

 ――友達が話題に出したのはカラメル半月先生のことで、教えてもらった番組は土曜日夕方の密着インタビュー。のちに散々有名になるあのメイクが、ノーモザイクで地上波で初公開されるという点で、画期的な放送でした。

 番組制作サイドは事前にネット上で『あの先生の特殊メイクをモザイク無しで地上波初公開!!』と公言していたそうです。このためファンのコミュニティが局地的にかなり盛り上がっていた、……そういう細かな経緯を知ったのは、私が成人してからです。たぶん友達は、どこかで知って教えてくれたのでしょう。

 

 私がカラメル半月先生の存在を(間接的であれ)耳にしたのは、この出来事が一番最初のはずでした。

 

 

 母とは死別していました。

 独身時代は、近所にある私立の学校法人の事務職員だったそうです。父が属する宗教法人が母体になっている学校でした。ある時、同じ法人に属する若い信者の集まりで父と出会って結婚、ごく普通に主婦となり、長女(姉)を出産。

 そして2度目の出産で、次女(私)の誕生とほぼ同時に天に召されたのだそうです。臨月の頃、当時7歳の姉と一緒に外出中に、脳の血管に深刻な問題が発生して道端で突然倒れた、救急車で運ばれて緊急帝王切開を受けた、私が生まれるなり心臓が止まった、……と、聞いています。

 

 幼かった頃を今振り返ってみるに、母がいない家庭であるということ、それ自体による孤独は特に無かったように思います。

 確かに生きた母はいない家庭でしたが、近隣に住む父方の祖母が日常的に家に来て、色んな事を手伝いに来る家でもありました。

 母方の伯父さん一家も近所に住んでいました。夫婦と子ども(従兄)の3人連れで毎週日曜日に礼拝に来る人達で、当然に私達とも交流がありました。従兄は姉の1歳上で、私にとっては頼もしいお兄さんでしたし、特に姉にとってはお互い何でも相談できる間柄だったようです。

 通っていた学校の教職員の先生方にも、私は知られていました。母のかつての勤務先に入学したのが大きいです。入学当初の頃は『あの人が命懸けで生んだ子、もう入学する年なのか!』という反応があったとか。

 そして何より、信仰心から教会に来られる信徒の方々。私の誕生の経緯を当たり前のように御存知で、人によっては、母と私の両方を特別視する傾向が強かったように思います。

 

 総じて、私自身が意図しようがない経緯ゆえに気に掛けられているという一点で、たまに居心地の悪さを感じることはありました。

 ただ、ほぼ顔見知りの大人しかいない狭い世界の中で、私に向けられる感情は、憎しみや敵意とは本当に真逆のものでしたから、そういう意味では実に幸せな幼少期だったと思います。

 

 

 私が小学5年生の頃は、ちょうどカラメル半月先生が世に出てどんどんと知名度が上がっていった、初めの時期でした。今もそうですが、当時からあの先生の激烈なファンになる方がいる一方で、激烈に嫌う方も世の中に大勢いたのです。

 身の回りの大人は、程度の差こそあれ、皆、あの先生を嫌っている方でした。本気で『姦淫という悪徳をわざわざ復活させた淫魔』だと思っている人もいたようです。

 

 『姦淫』=『唾棄すべき悪徳』とみなす思想の宗教団体は、これまでもカラメル半月先生に対して、敵対、無視、攻撃、etc思い切りネガティブな反応を示しています。ただ、いつ頃どんな反応をしたのか、どんな見解を発表したのか、団体によって様々です。主張のトーンも団体次第で違いがあります。

 子どもの信徒にはこの先生の情報を絶対的に触らせず、極力遮断して口に出すのも禁ずるという選択も、考え方次第では有り得ました。実際にそういう風にしている宗教団体は現に存在します。

 しかし父が属する宗教法人は、そうした対応を取りませんでした。このTV番組デビューの2~3週間後くらいから、子どもを含む信徒全員に先生への批判を説き、世に溢れる淫らさの撲滅を呼び掛け、そうした『完全に健全な見解』を絶対的な正義として一貫して主張し続けたのです。

 ゆえに、否定一辺倒という目線でしたが、『カラメル半月』というペンネームと活動自体は把握しておかねばいけない環境でした。私が日頃交流していた大人の方々は、おおよそ教会や学校の関係者に限定されます。そうした環境で過ごした小学生だったことを御理解頂ければと思います。

 

 教会の礼拝の説教では、清さと正しさを強調して創作物への警戒を呼び掛ける内容がぐんと増えました。牧師として真剣に強く説教する父の姿を、私は何度も見ています。

 通っている小学校でも同じような注意を何度も受けました。信仰を理由に入学先を選んだ生徒が9割9分を占めるような私立です。指導のトーンはかなり強いものでしたが、先生に反発したり露骨に馬鹿にしたりする生徒は外形上は皆無でした。

 

 ただ、小学5年の終業式の日の下校中、いつものように『清く正しくありましょう、悪いものには触れずにいましょう』と学校で指導を受けてから帰る帰り道、前述の友達が「先生たち必死だったね」と話題に出したことがありました。

 

「熱心なのはいいことなんだよ。熱心すぎてちょっと怖い。……今言ったの、内緒だよ?」「うん」

 

 『汝姦淫するなかれ』。それまでごく当たり前の教義だったもの。この教義に反するものが、カラメル半月先生の手で世の中に溢れかえった。だからみんな必死になっている。教義を絶対的に守ることが正義なのだと、口角泡を飛ばして世の中に訴える人がいる。

 その構図が、小学生の私達の立場でもおぼろげに見えていました。

 

 

 友達は大人達の熱心さにちょっと引いていて、父はカラメル半月先生を思いっきり嫌う側。

 では、その時まだ大人ではなかった姉はどうなのか。ふと思ってその日の夕飯時に切り出したのです。

 

「カラメル半月って作家さん、お父さんもそうだけど、教会に来る人達もとっても嫌っているよね。お姉ちゃんはどう思ってるの? お姉ちゃんの意見は聞いたことないや」

 

 姉は、高校の卒業式もとうに終わっていました。第1志望校の法学部に合格して受験も終了しており、ちょうどそうしたことを尋ねる余裕が出来た時期でした。

 聞かれた姉は、茶碗に箸を置いて腕を組み、意外にも少し考え込んだのです。

 

「うーん。あの作家さんの考え方は聞く限り私には合わないみたいだけど、……父さん達みたいな嫌い方はしていないかなー」

 

 父の顔が露骨に強張りました。

 当時の私にも分かりました。父にとっては耳を疑いたい言葉だったのでしょう。父は、姉も(他の信徒の方と同様に)カラメル半月を非難するものなのだと思っていて、問い詰めたくなる寸前なのをどうにか堪えていた。

 

「えっとね。……父さんは正しい生き方の道が世の中に一本だけあって、それ以外は全部間違ってるって思ってる。信念を持つことってそういうことなんだろうね。違う?」

「そうだな! あんな誤った意見が野放しになっている現状が、聖職者として私は許せん。誤った意見を振りまいているあの悪魔もだ。お前はそう思わないのか?」

 

 いくらでも熱弁を振るえそうな勢いの父に対して、姉はとても冷静に見えました。

 

「父さんはそうなんだろうね。信念を持つことってそういう事なんだと思う。

 でもね、この国で法律を考える人達が法律を作る時って、必ずしもそういう風には考えてくれないんだと思う。扇を広げた時の扇の骨みたいに、右の端から左の端までいろんな考えがあるって思ってて、……父さんみたいな考え方も、カラメル半月みたいな考え方も、どれも、扇の骨のそれぞれ一本一本みたいに、色んな考え方の1つ程度にしか捉えてくれないんじゃないかな。

 あの作家さんは、この国の憲法を、……憲法に書いている思想や表現の自由を後ろ盾にしているらしいからね。そういう意味で、あの人の後ろ盾は法律的にはとても強いよ。性的な事を含めて『人間がどう生きるべきか』って、思想の自由にもろに関係することだもの。宗教的に見ておかしな内容でも、法律的には、世の中にある色んな色んな思想の中でも今目立っている思想、って、そういうものにしか捉えてくれないらしいから」

 

 父は苦虫を噛み潰したような表情をしていました。

 姉の言うことも別に間違ってはいないのでした。まさに法学部に入学しようとする上の娘に「法律で物を言うな」と言う訳にもいかず、宗教的な信念それ自体を否定している訳ではないから「神を侮辱するな」とも言えず、父として「生意気だ」とはみっともなくて言えず。

 ちなみに、後日、姉本人からこっそり「呟きったーの受け売り言ったんだけど、バレなかったわー」とネタ明かしされました。父がネタ元を把握していたら、即座に「ネットの受け売りで喋るな」とツッコミを入れてたことでしょう。

 ともあれ姉は喋り続けました。神経を使って喋っているのが丸分かりの話し方でした。

 

「……その上で私の好みを言うなら、あの作家さんの考え方は私には合わないよ。でも正直、あの作家さんが何しようが無関心なまま放っておけばいい、っていうのが本心かなぁ。何か目立つ主張をするってことは、誰か賛成する人の目線や、反対する人の目線だけじゃなくて、興味本位の野次馬の目線にも晒されることでしょ? カラメル半月を嫌いな人が反対するのも止めないけれど、私は野次馬でいたいかな。弁護士目指すのに集中したいし」

 

 ムスッとしたまま何も言わない父は、姉を『聖職者の娘にしては温すぎる』と感じたかもしれません。

 間違ってはいないことを言って本心を述べたつもりの姉は、父を『視野が狭くて頭が固い』と感じたかもしれません。

 言いたいことが山ほどあってもお互いに飲み込んだらしい夕飯時、辛うじて激しい言い合いは回避されました。途方もなく冷ややかな時間でした。

 

 それまで私の日常生活の中で聞く『カラメル半月』の名前は、常に強い批判と嫌悪が結びついていました。姉の意見が、嫌悪のトーンの低さという点では目立って突出していたのですから察して下さい。

 まるで子どもの魂の中に杭を打つように、大人の人達は『清く在れ』と執心していました。でも、世の中の人全員にはそれは必ずしも自明の徳目では無くて、時に『色んな思想の一つ』で切り捨てられてしまうこともあるのだということ。父が悔しがっているけれど反論不能という論理の存在が、当時の私にはとても新鮮でした。

 

 

 姉は、妹の私からみても冷静沈着で頭が良い方だったと思います。

 私達姉妹が通っていた私立学校は中学までしかなく、そこから上の進学は否が応でも生徒次第になります(生徒によっては、中学受験して別の中高一貫校に転校することもありました)。

 姉は持ち上がって進学した中学校で上位の成績を取り続け、ある時、「できれば弁護士になりたい」と公言して父を説き伏せて塾通いを開始。高校は公立の進学校に進み、そこから法学部への入学を果たした、という経歴でした。

 

 大学1年生の年にものの試しで行政書士試験を受験して、結果、合格したらしいです。姉が言うには夏から3ヶ月の集中勉強の付け焼刃で、合格したのは多分まぐれだとかどうとか。

 その時はそういうものなのだと思ったのですけれど、実は法学部生としてもそれなりに凄いことだったようです。試験の受験者は数万人。合格率は年によるけれど10%内外で、つまり数千人かは合格者します。その内10代合格者の割合は例年1%前後、人数ではおおよそ数十人。流石に『不世出の天才』と言うには大げさにすぎるでしょうが、『優秀な学生の1人』とは言えるのではないでしょうか。

 

 姉が弁護士を目指す事を、少なくとも私の目の前では父は止めませんでした(もちろん、私が知らないところで何かやりとりがあった可能性はありますが)。

 弁護士は、法律を駆使して社会的弱者を守る方向にも、強い人により強い法律の後ろ盾を与える方向にも、どちらにでもなれる職業です。姉が弁護士志望で法学部に入ったのだと聞いた信徒の方々は、前者のような弁護士を期待して、ある時までは概して肯定的でした。

 

 姉が高校3年生の頃、カラメル半月先生は華々しくTVデビューした訳ですが、以後の一貫した世間での目立ちっぷりは、姉が法学部受験を決めた頃には到底予想できない事だったと思います。

 先生が一貫して憲法上の表現の自由や思想の自由を当たり前のように強調し続けたことも、実に予想外だったと思います。

 

 

 私が小学6年生に進学し姉が大学1年生になった年も、相変わらずカラメル半月先生は新聞にもTVにも出ずっぱりで、教会の礼拝の説教でも批判の常連になっていました。

 

 ジョークグッズの大ヒットがニュースになり、ジョークグッズ大ヒットを分析した新聞記事が話題になり、その新聞記事を紹介したTV番組がネット記事になり、鋭意作成中の別のジョークグッズの作成ドキュメンタリーが深夜放送にも関わらず良い視聴率を取り、……。

 そういう風に膨らんでいく話題の数々は、第三者のポジティブな評価や興味本位の揶揄を含んだ瞬間、大人の人達の情熱でブロックされるわけですが、それでも面白がっている『だけ』の非信徒の方の存在は、私の耳にも届くわけです。

 無防備にニュースに晒されればどれほどあの特殊メイクの顔を見つけることになるのだろうかと思うような日々です。潔癖さについて信念を持つ一部の方々にとっては、忌々しかったのだと思います。

 

 カラメル半月先生の活動は、実に幅広く喧々諤々の議論を世の中に産み出し続けました。その頃の新聞の特集記事のうちの1つ、特に先生を擁護する側と非難する側両方を載せたものの中に、ある弁護士の方が寄稿した記事がありました。

 非難する側に、宗教的な観念から意見を述べた宗教者の方がおられたからだと思います。ある中年の信徒の方で、その特集記事の全面コピーを持参し、日曜日の礼拝の前に世間話として父に熱く語り出した方がいたのです。

 信徒の方がぼちぼち礼拝に来始める頃合いでした。その場で座っていた何人かの人達全員の耳に入るような声で、その方は、紙面の宗教者の方の意見を立派な意見だと褒め称えておられました。……そこまでは良かったのですが、姉にとって問題になったのはおそらくその後の発言です。

 

「しかし酷い弁護士がいるんですねー。この悪魔の問題で口出してくる弁護士は、みんな若者を堕落させようとするか、表現の自由とか言い募る奴ばっかりです。まともな態度であの悪魔を退治しようとする方々は見たことがない。

 もうここまで来ると、先生の上のお嬢さんみたいに、世間に出して若い人しかいないところで勉強させることも、弁護士を目指させることも、両方とも、自分の子を淫らな悪魔にすることと同じに見えてきますよ。法学部とかに進学させるなんてとてもとても、……例えば先生の上のお嬢さんは大丈夫でしょうか」

 

 私の横にいた姉は確実に聞いてました。姉のすぐ後ろにいた伯父夫婦もです。

 その人がどれほど本心に忠実に喋ったのか分かりません。口下手なのか、それとも口が達者なのか、分かりません。当てこすりをどれほどの割合で含めたつもりなのかもわかりません。その時の私は、正直に申し上げて『姉に聞かせるつもりで言った強引な当てこすり』だと感じました。今でも、そう思っています。

 沈黙がありました。姉に注目してはいけないのに注視してしまうような。何か喋るべきなのに喋ってはいけないような。

 壇の下でその人と向かい合って一方的に話を聞く形だった父は、私達姉妹の方をチラチラ見ながら(もしくは姉の反応を案じながら)言葉に迷っていました。私も姉の横で狼狽するより他になく、その他の方々も困惑するしかないようで、ひたすら沈黙がありました。

 

 姉は真っ青でした。

 怒っているのか悲しんでいるともとれる表情で唇を噛み締めて立ち上がり、私を押しのけたかと思うと一目散に教会の外へと飛び出していきました。

 

 従兄が、伯父さん夫婦よりも遅いタイミングで礼拝の場に入ろうとして、姉とすれ違いました。

 姉は泣きながら駆けていたそうです。従兄が呼び掛ける間もなく走り去ったのだと聞いています。次いで、迷いながらも心配して結局は追いかけてきた私とも教会の出入口でかち合い、そこで従兄は私を引き留めました。

 

「今はそっとしておいた方がいいよ。心配だろうけど、追いかけなくていい」

 

 従兄はあの場で何があったのか見ている訳ではないのに、それでもそうした方がいいのだと確信があるように感じられました。取るべき態度が分からない小学生の私の心境の中に、取り合えず与えられた解でした。言われた通りに足を止めました。

 

 私が小学6年生で姉が大学1年生の、学年末の出来事でした。

 この日以後もその発言をされた信徒の方は礼拝に参加し続けていましたが、姉と従兄は全く参加しなくなりました。

 

 

 先に述べた通り、従兄は姉の1歳上でした。この頃は姉と同じ大学の理工学部生になっていました。元々は別の大学に入学したのですが、その学部も大学も不本意すぎたため仮面浪人で大学自体を変え、一浪相当の年齢として姉と同じキャンパスの同級生になったという経緯でした。

 

 伯父さん夫婦から是非書いてほしいと依頼を受けたので、細かい事情を書いておきます。

 従兄は飛行機が好きでした。最初の受験の時には、第一志望校の入試の一週間前なのに珍しい飛行機を見に行って、帰り道で雨に打たれてびしょ濡れになり、それから何日か寝込んだそうです。入試直前で快復したものの、病み上がりで受験する羽目になって大失敗してしまい、その他の学校の入試も調子が狂ってことごとく失敗したのだといいます。

 辛うじて、滑り止めで受けた大学で教育学部の理科専攻に入学できたものの、そこはどうしても合わなかったそうで、5月の末には「仮面浪人して再受験したい」と言い出した、ということでした。

 

 亡くなり方がああいうものでしたから、世間では、一時期、従兄の事を『恋愛小説を書いてた情報学科のマニア』とする論評が流れていたらしいです。率直に申し上げて、事実に反する内容が含まれると思います。

 飛行機の話題になったらまるで話が止まらない人でした。その点でマニア気質には違いありませんが、仮面浪人の末に再入学した先は理工学部の『航空工学科』です。『情報学科』ではありません。飛行機を造る会社への就職を強く強く希望していました。

 

 大学のサークル活動では文芸部所属だったそうで、従兄本人は、他人の創作活動全般には内容を問わず寛容な方だったと聞いています。

 ただ本人が生前唯一書き上げた遺作には、当時流行していた恋愛要素は全くありませんでした。物語の舞台は、飛行中に機体が物理的におかしくなって、次から次からトラブルが発生するジャンボ旅客機。機長と副操縦士が、管制と協力して地上への帰還を懸命に目指すという筋書きのフィクションです。

 架空のドキュメンタリー番組を抜粋して論評しているという体裁で、ブラックボックスの書き起こしの引用と、発生したトラブルの再現から構成されていました。鳴り続ける操縦席内の各種ブザー音と、操縦席内の操縦者ふたりの緊迫したやり取りと、管制官との通信の描写で合わせて8割以上を占めます。書きたい内容を思い切り書いたらしいと思われるそれは、どこをどう読んでも恋愛のれの字も無い、関係者の懸命な努力によるハッピーエンドで決着させた航空小説でした。

 

 つまり『恋愛面で濃い内容の創作をする人達と交流があった』こと、『嗜好(=飛行機)に忠実に創作をしていた』こと、それはどちらも事実です。性的な内容を含む創作物に関して、教会の主張よりもより柔軟な知見を持っていたことも、おそらく事実です。潔癖さが信条であったなら、そもそもそういう創作をしている人が好きに創作していたサークルには、入っていないはずでしょうから。

 とはいえ従兄自身が自らの手で『恋愛面で濃い内容の創作を書き散らしていた』という情報は、伯父さん夫婦が知る限りは見受けられないといいます。限りなく誤報に近いのではないか、と認識されているようです。

 

 何度でも繰り返して書きます。姉にとって、そんな従兄は、何でも相談できる間柄だったようです。

 悩み事を打ち明けて相談できる相手は、妹の私ではなく、従兄でした。妹は自分が相談して頼る存在ではなく、自分が一方的に庇護し支援するだけの存在だったのです。自分が相談する時は1歳上の母方の従兄に頼ったのです。

 そうした姉妹の関係性に不満はありません。年齢差が大きいのですから極めて自然なことでしょう。姉と比べてはるかに未熟な私には、のちに明らかになる姉の内心の葛藤は、とても受け止めきれないことでした。仮に私が姉から何か相談されても、力になることは絶対に出来なかったと思います。

 しかしその親しい関係性が要因となって姉と従兄にあの悲劇が生じたことも、(父が一方的に悪者であり、姉と従兄に落ち度はないという大前提の上で)また客観的な事実のように、今は思います。

 

 

 私が小学校からそのまま中学校に持ち上がった年、姉と従兄は揃って大学2年生になりました。

 中学校では陸上部に入りました。小規模な私立中学校ゆえ部活動も全体的にこじんまりとしており、悪く言えば全校的にハングリーさが薄く、良く言えば全校的にのんびりしていました。

 そもそも何か体育活動に軸足を置きたい生徒は、部活が売りの他校に進学するなり、スポーツクラブに入るなりしていたはずです。陸上部も大きな大会に出たりする子は皆無ですが、他校と交流したりする機会も皆無とは言えず、ほどほどの熱心さでほどほどに夢中になれる部活動ではありました。私には合っていました。

 

 姉は中学生の頃常に全科目で学年トップクラスの成績だったそうですが、私の方にはそんな頭はありませんでした。国語と社会が比較的得意で、英語が並みで、他の科目は壊滅的で、陸上の短距離走が好き。ごく凡庸な中学生でした。

 姉と従兄は優秀だけれど、私はそうでないということは漠然と分かっていました。姉にとっての『法律家になること』や、従兄にとっての『飛行機関係の職に就くこと』のように、何か将来目標にしたいというものも特段無く、陸上も短距離に限っては平均よりは出来る方で、それだけでしかないという、それだけの女子だったのです。

 

 結局はあの中学校には1年生の間しか通えませんでしたが、仲良く持ち上がったクラスメイトと共に過ごした、特筆すべきこともない平凡で平和な中学1年生の記憶は、後から振り返ると貴重なものとなりました。

 

 大人になった今だから言えます。勉強も部活も平凡だからこそ、教会の教えを肯定した面は確かにありました。

 姉や従兄は勉強に才があり、それぞれやりたいことを見つけて、才能を肯定されて大学生活という居場所を見つけたように思えていました。妹の私は勉強も部活も平凡で2人のようにはなれないけれど、でも『信仰が強固であること』=無条件に良いことなのだからひとまずはそれで良い、と、そう無意識に考えていたのです。

 

 教会の礼拝に毎週参加する中学1年生の妹。全く参加しなくなった大学2年生の姉。この1年間はそうなりました。

 この年度までは、教会や学校の教えをそれなりに純粋に信じることが出来ていて、私自身その事を良いことだと信じて疑っていませんでした。

 

 

 教会や学校や父が教えるのは、『健全に清らかに生きるべきこと』、そしてもちろんそうした教えに反する『カラメル半月先生への敵意』。これらは全くブレてはいけない生き方の芯であると捉えられ、私達子どもを含めてこの教えに染まることを激しく強く当然視していました。

 併せて『結婚して子供を産む事が人としての義務であること』と、『人の繁殖は子を産むための聖なるものであって、淫らさが入る余地がないこと』も、信徒の正しい姿として絶対視され強調されていました。内部でこのような価値観が貫徹されていたことは、姉の亡くなり方を語る上で絶対に外せないことです。

 

 世の中には、『どんな宗教団体が、いつ、どのようにカラメル半月先生に対応したのか』を、学問としての比較宗教学の話として、色んな団体の見解を外側から系統立てて分析している学者の方がいます。

 父が属する宗教法人は、のちに父が起こした事件の特筆性ゆえにそうした比較の対象となり、論文の題材になりました。その学者の方の見解によると、タイミングと批判色の強さを軸にして様々な団体を分類して並べてみた時、この宗教法人の対応は、どちらかと言えば、ごく早期に強いトーンで強硬な態度を示したかなりアグレッシブな一群と言えるのではないかとのことです。

 しかし、そのような諸団体を俯瞰するような視線の、冷徹で客観的な学問上の見解そのものを、その頃の私が学ぶ事はありませんでした。

 

 先に述べた小6の時の礼拝の出来事については、私は信徒の方の発言に引いていました。ただし『信仰の熱心さゆえに姉を当てこすって泣かせた』とだけ解釈していましたし、いずれ姉も信徒の方もお互いに和解して姉は教会に復帰するものと考えていたのです。

 父に引き摺られた見解でした。あの日落ち着いた父はあの信徒の方を穏当にたしなめ、「法学部に入ったからと言って淫らだとは言えません。清らかに過ごし熱心に信仰する弁護士や法学生も実際におられます」という趣旨の話をしたのだそうです。そして礼拝の後、自宅では「お姉ちゃんが落ち着いてあの人を許す日を待とう。あの人は熱心過ぎたんだ」と、私に話したのです。

 

 身も蓋もない話ですが、この国の法律に基づき合法的に宗教法人として存在する組織が、専門職としての弁護士を全否定して、弁護士と全くの無縁のまま組織として存在し続けることは、極めて困難です。

 1つの理由として、父が述べたように、いかなる職業の方でも信仰心を持つことは有り得ることで、弁護士の方が信仰心を持って信徒になるということももちろん有り得るということ。

 また別の理由としては、宗教法人それ自体が主体となり、どこかの法律事務所と契約して弁護士の専門知を求める、という営為が、現代社会の中で普遍的に存在するということ。

 ひょっとしたら、内部用語でいうところの『淫らな創作物を創る人』ならば、信徒になることを拒絶したかもしれません。『世の中に有るべきでない職業』との判断にも説得力があったかもしれません。しかし、弁護士という、以前から存在していて有益に見える職業の存在意義を否定する見解は、宗教法人の構成員として現実を顧みる思考があれば、中々出せないことだったでしょう。

 

 しかしそうした判断の裏事情を勘ぐる思考も、その時の私にはありませんでした。教えられたことを疑うだけの視野も、自我も、反抗心も、まだその時の私には育っていませんでした。

 教え方に熱心な大人達に引くことはあっても、教義の正しさ自体は、私の心の中では当たり前の観念でした。プログラミングで動くロボットのように『かくあるべし』の信念が埋め込まれたような感があったと思います。

 そんな自分達が所属する世界が、その世界の外側の人にとってどれほど極端/穏当に見えるもののか、そうした外側からの視線の存在を知ってはいても、私の中で認識の物差しにはなっていませんでした。

 

 

 中学1年生の3月末、木曜日の夕方。家族3人が揃った夕飯時。父はご飯を食べながら姉に切り出しました。

 

「ここ1年教会に来ていないようだが、今度の日曜日には顔を出してくれないか? 酷いことを言われたのは分っている。あの人は『熱心すぎて言い過ぎてしまったから謝りたい』とずっと仰っていた」

 

 姉は無表情でした。椀をテーブルに置いて、吐露するように答えました。小さいけれど芯のある喋り方でした。

 

「父さん。あの人の言ったことは、私にとっては狭すぎるし深すぎるタコ壺の中の意見だったよ。……あの人と同じ見方には私はなれないし、あの人の意見にはついていけない」

「だが、あの人を許すことだけは出来ないものだろうか?」

 

 姉がこの質問に肯定することを、父は期待していたのかもしれません。

 あるいは否定であったとしても理解は示したかもしれません。将来は『淫らな悪魔になる』と言われることは、信徒の価値観では実に深刻な問題です。『言われたことが重大すぎて許せない』との返答だったとしたら、それはまだ父でも共感できる範囲内だったでしょう。

 

 姉は、壁に貼ってあったカレンダーを見ました。翌日の金曜日は姉の属する法律相談サークルの活動日、翌々日土曜日は私が陸上部で他校と合同の記録会。そのスケジュールを確認して言ったのです。

 

「……父さん、明後日の土曜日に、家でじっくり2人だけで話せない? 明日は大学で1日予定が埋まっているから」

「分かった」

 

 真剣な話し合いをしたいのだと思いました。父と姉だけの、私が首を突っ込むべきでない話し合いを望んでいるのだと。

 

 

 この木曜日当日の夜、姉と従兄の間で、メールでやりとりした記録が残っています。

 

『兄ちゃん、ちょっと頼まれごと良い?』

『どうした?』

『父さんと話し合いたくて、言いたい事紙にまとめたんだけどさ。読んで意味が通じるか見てくれない?』

『了解。ただし明日大学でジュース1本奢れ』

『分かった』

 

 

 土曜日。私が他の中学校に出かけて呑気にトラックを駆けているその時に、自宅で、姉と父は相対したのです。

 

 父が調書で残した姉の言葉を、そのまま転載しておきます。今回この原稿執筆にあたって、父の国選弁護人から頂いた資料の中に調書がありました。父の公判はとうに終わっており、掲載に際して法律的な問題はないはずです。

 父の目線で喋ったことですから正確でないかもしれません。ただ、伯父宅の従兄の机の中にはほぼ同趣旨の原稿がありました(警察の方が後日見つけたそうです)、姉と従兄両方の指紋も、どちらかの推敲痕もありました。姉の弁の立ち方にも違和感は感じませんから、言ったことはおおむね事実ではないかと推測しています。

 

「父さん、言う通りに生きなきゃいけない義務はあるのかな。母さんは尊敬してるし、命懸けで産まれてきたあの子とも仲は良いけれど、私は、子どもを産むことそのものには正直恐怖しか無いよ。お産の直前に脳血管やられて死んでいくことがどんなことなのか、7歳の時に目の前で見たから。 

 私には合わない道を宣伝しまくっているけれど、カラメル半月には一目置いているよ。価値観を並べて比べる対象がなければ、考え方がどんなに違うのかを知ることはできなかった。あの人がいなければ、父さん達の信念が一本道だってことにさえ気づかなかった。思想の自由も信仰の自由も、それこそ信じる教派を変える自由くらいにしか思っていなかったはずだし、無理矢理にでもこだわって子供を産んで育てようとする弁護士になってたんだと思う」

 

 姉は父を見ながら冷静に話し切ったそうです。暴れもせず声を荒げる事さえせず、事前に丁寧に添削して用意していた言葉を、冷静に。

 

「たぶん私は、男性とそういうことは全くしないままに生きて死んでいくんだよ。

 男女の交わりに子を産む意義だけ見出す生き方でも、流行りみたいに愛を大事にする生き方でも、どれかだけを選んで進まなきゃいけない義務はないもの。カラメル半月だって『やるなら自己責任だ』って言ってるもの。なら私は何もやらずに生きていくって、そう決めた。

 私が7歳の時に感じた恐怖を否定しないで。子どもを産む生き方だけ、1つの『正しい道筋』だけに私を染め上げたいんなら、父さんはわがままだ」

 

 頭に血が上がった父は、姉に殴りかかりました。

 

 

 そして姉は従兄にメールしています。

 

『助けて。父さん逆上した。殴られて部屋に逃げてる。うちに電話して。コール音で我に返らせたい』

『大丈夫かよ。電話しながらそっち行く』

『助かる』

 

 私達の家と、従兄が暮らす伯父さん宅は、徒歩5分の距離です。従兄は1人で留守番をしていた時にこのメールを受けたと思われ、誰にも報告せずにすぐさま家を出たようでした。

 

 従兄の携帯からの固定電話への発信は長く続きましたが、父は全く電話に出ませんでした。ずっと鳴り続けるコール音に、従兄は胸騒ぎを感じたことでしょう。

 うちに飛び込んで姉の部屋に一直線に走り、従兄が見つけたのは、血を流しながら虫の息で倒れる姉だった、はずです。

 

 慌てて姉を抱き起そうとした従兄の視野の外側、血まみれの刃物を持った父がいたそうです。

 従兄が家に入り込んでくる音を聞いて、とっさに部屋のドアの後ろ側に潜んだのだそうです。かがんだ姿勢の後ろから首を狙ったのだといいます(後の検証で、傷の形からも立証されました)。

 父は始終無言、従兄は襲われたことに気付かず、姉も声を出せなかったと思われます。

 

 叫ぶ声も争う音も、家の外側には漏れませんでした。ただ2人分の血だけが流れました。

 

 

 人間こうあるべきということを誰かに指示したいとは思いません。そういう風に説く資格は私にはなく、そういう地位になりたいとも思いません。しかし『当時、私はこう思った』とは書けます。『今、こう思っている』ということも書けます。

 

 どうして父はどこかで自首してくれなかったのだろうかと、後で何度も思いました。

 凶行に走る前に引き返す機会はあったはずなのです。姉を殴った時、姉の部屋の中で刺した時、そして従兄を刺した時。いずれかの機会において、悔やんで、反省し、自首することが、現代日本社会の法規範の中で生きる者として当然の事ではなかったかと思います。

 法律的な話として、心の中の信仰の形がどうあれ、日本の法律ではこうした殺害行為は単なる犯罪として処断され、社会的に排斥される行為です。人間の生命を奪う法律的な権限は、そもそも父には絶対にありません。生き方について考えが合わないにせよ、姉を刺殺したその時から、父は、法律上単なる殺人犯として断罪されるべき者でしかなかったのです。

 しかし父は自首しませんでした。遺体と血の隠蔽を行い、父の思う『間違った性観念を振りまいている人』を憎むことにしたのです。破綻した思考だと思います。

 

 宗教的にはどうでしょうか、世の中には、父がやったことに関して『淫らな我が子を糺し、悪魔を殺そうとして果たせなかった英雄』と見なす方もおられようですが、私はそのような見方に関しては絶対的に賛同できません。

 姉の言い分は、果たして『淫ら』だと言えるものでしょうか。父の振る舞いは果たして『英雄』と言えるものでしょうか。

 

 何かを信じることそのものがすなわち絶対的な悪だとは、今の私は思いません。さりとてその信仰の下に、己に合致しない考えを憎むことを、究極的には生命を奪うという行為を、更にそうした行為を絶対的正義として肯定する思想を、宗教学的には『狂信的思想』と評価されるのだといいます。そういう見方や評し方が、今の私にはしっくり来るのです。

 

 もう父を憎むことと悩むことに疲れすぎてしまいました。こうした思いについてこれ以上細かく深く書くことはしませんが、私が父の所業を許したことはこれまで一度も無かったこと、それだけは、はっきり明言させていただきたいと思います。

 

 人がどう生きるかはその人の自由です。人の振る舞いについてどう評価するのかも自由です。信仰的に敬虔な生き方であろうが、堕落した生き方であろうが、しかしそれは究極的には自己判断で自己責任でしかありません。

 人の考え方に賛同する自由も否定する自由もある一方で、無理やり賛同させたり否定させたりする権利もまた誰にも無いのだと、今はそう思います。

 

 

「おかえり、さっきお姉ちゃんが家出したぞ。カラメル半月の主張にかぶれていて私と喧嘩になった。実に全くもってけしからん作家だ!」

 

 私が帰宅して最初に聞いた言葉がこれでした。何も知らない私にはショッキングな情報でした。言ってくる父もちょっとテンションがおかしいように思えました。

 ショッキングには違いない情報でしたが、言われた事自体は腑には落ちました。姉がカラメル半月先生のことについて必ずしも教会の教えに従うような考え方でないことは、これまで書いたように私の目にも明白でしたし、父があの先生を嫌悪している事もまた明白です。

 姉があの人の肩を持てば父がそれに反発するだろうというのも、明確に想像し易い構図でした。父の顔が怒りに染まっているのも当然で、驚きつつも、大学生くらいに大きくなれば家出先の当てがあるんだろうか、どこに行ったんだろうか、……と考えた、その時です。

 父が私の肩を鷲掴みにしました。

 

「明日カラメル半月の仲間を抹殺しに行くぞ。それが我ら信徒の義務だ」

 

 言われた私のドン引き具合と混乱っぷりは、これまでで最大級のものでした。

 そしてその思考はそのまま私の表情に出ていたのでしょう、父は一瞬で怒気に染まり、私の肩を掴んでいた手のひらを襟首に掴みかえたのです。

 

 人生で初めて殴られました。あれは確かに感情任せの拳でした。少なくとも8発は受けました。

 その日のその後の出来事は、全く覚えていません。

 

 

 本来は日曜日は礼拝の日です。教会の牧師は絶対に教会にいないといけません。

 表向きは体調不良という理由で、ごく内々には家出した長女の行方を捜すという理由で、真相は父の頭と従わされた私の中に留められ、その日の礼拝に、父は欠席しました。

 

 父の運転する車に乗って、私達はピンクウェーブ本社へと移動しました。当時、ピンクウェーブ社の会社規模は、まだ東都のビル一棟の中に収まる程度でした。カラメル半月先生は、その日生放送のTV番組でコメンテーターをするということが事前に公表されており、ひょっとしたらその前に会社に寄ってそこから出勤するのではないかと思っていた、……というのは、父の供述調書にあったことです。

 

 父に与えられた鞄を持っていました。凶器が入っている鞄だけを持たされていました。

 誰も出てきませんようにと祈りながら会社の前の路上に立って暗い顔をしてひとりで待つこと約2分(防犯カメラに映っていたので、待機時間に間違いはありません)、会社の前に車が止まり、よりによってあの有名なメイクの先生本人を含む大人数人の集団が、父の予想通りにビルから出てきたのです。

 

 私は、青タンまみれの顔で泣きべそをかいている私服の中学生でした。ハタから見たら意を決して助けを求める被害者に見えたでしょう。演技しているのだか本心を言いたいのか自分自身今でも分からない叫び声で、まったく父に指示された通りにその先生方の集団に呼び掛けたのです。

 

「助けて下さい! お父さんに殺される……!!」

 

 僅か数mの距離を走り抜けて目標の集団に接触する前に、私は派手にけつまづきました。前方にスライディングするように歩道に倒れこんだ私を、車に乗る寸前のはずの皆さんが足を止めて注視していました。

 先生方にとって、真後ろの父は死角でした。こうすれば刃物を持って襲い掛からんとしている姿には気づかないだろうという、そんな企みでした。

 

 

 カラメル半月先生のメイクは、本当に本当に目立ちます。敵意を持って標的にしようとする側にとって、これ以上ない目立ち方です。だから唯一の標的として狙われて、だから助かったのです。

 

 数秒の出来事でした。

 集団の中でも真後ろではなく真ん中あたりにいた先生を刃物で狙おうとした、駆けてきた父が刺すように伸ばした利き腕は、どうしても集団の内側に入り込まざるを得ませんでした。誰かの視界に入るからこそ必然的に気づかれて、とっさに父の腕はブロックされたのです。

 熱狂的なファンを制止するという日常業務の延長線上、偶然にも気付いたのは大柄な男性のスタッフで、腕をぶつけて止めてから『刃物を持った男』という情報を認識したのだといいます。……のちに私はそう聞きました。後から考えればあの先生の警護にしては呑気だったという反省の弁も、私はその時一緒に聞きました。

 

 ともあれ、訳の分からない誰かの叫び声が重唱の形で上がって、同時に派手な格闘になりました。カラメル半月先生は慌てて車に押し込められ、路上では刃物を掴み続けたい父と、刃物を取り上げたいスタッフ数名との戦いが始まっていました。

 私は、転んだまま、その有様を目の前で見ていました。

 

 

 大勢の人が周囲にいました。

 興奮状態の叫び声の中心点となり注目が集まりまくる路上、父は流血しながら興奮状態で大暴れする、刃物を取り上げられて組み伏せられつつあるひとりの中年男性でした。

 とにかくたくさんの視線を浴びました。狙われていた当事者の集団と、その他大勢の野次馬が騒いでいました。緊迫感あふれる騒ぎの中で、私達はとにかく注視されていました。

 

――あの人の言ったことは、私にとっては狭すぎるし深すぎるタコ壺の中の意見だったよ。あの人と同じ見方には私はなれないし、あの人の意見にはついていけない。

 

 ろくに受け身を取れず膝と肘と顎を擦りむいて地べたに倒れ込んでいる私の脳内に、いないはずの姉の言葉が湧き上がって響きました。あの時自宅のテーブルで聞いた言葉を喋る人なんて誰もいないのに、勝手に思い出されたそれは、回路に電気が走るようにそのまま現実の判断に繋がりました。

 不意打ちの、天啓の如きひらめきの瞬間でした。姉にとってあの礼拝でのあの人の意見がそうであったように、私にとっても父の見方もまた同じではないか、私自身から見た父親もまた、タコ壺の中の人ではないか、と、……そう感じてしまったのです。

 

 気付くのが本当に遅すぎました。私は、この場において父と同一の信念のままに同調して共鳴できるだけの感性は持ち得なかったのです。父の振る舞いを正しいと思えるような判断力は育たなかったのです。

 初めて、父の姿を心の底からみっともないと思いました。その振る舞いを、まるでタコ壺の中の信念であるかのように外側から見つめる揶揄の視線の方が、より私には共鳴できるということに気づいてしまったのでした。そう感じてしまう自我の存在を、この時に初めて意識したのでした。

 

 脳が揺さぶられたような極めて重大な気付きでした。アスファルトの上にうつ伏せに転げたまま、ただただ激しく悶えて慟哭する事しか出来ませんでした。

 

 

 襲撃の前の日の、土曜日の段階で、父は、伯父さん夫婦に問い合わせていたそうです。

 

「うちの上の娘が冒涜的な発言のあげく家を飛び出した。衝動的に家から出て行ったように思えたが、玄関先でお宅の息子と合流していたから、事前に従兄妹同士で家出を示し合わせていたようにも思える。ふたりがどこか行く先に心当たりはないか?」

 

 伯父さん達は本気で驚いたそうです。

 ただ、父の口ぶりは21歳と20歳の同じ大学に通う従兄妹同士の家出、それも父娘の喧嘩の延長線のような説明です。父の喋り方に違和感はあってもそれは父と姉の揉め事があったゆえと感じたといいます。父娘のセンシティブな問題に従兄が口を出したとしか解釈できず、警察に通報して大事にするような判断にはまだ至らなかったそうです。

 携帯に電話をかけても繋がらないこと、伯父さん宅に何も行き先を示すものが無かったこと、どちらもそこそこの心配の材料でしたが、そう真剣には思われていなかったそうです。

 何しろ、最初の受験の前に飛行機を見に行った時だって、一旦は携帯が繋がらないことがあったらしいのです。むしろ従兄が姉を危ない場所に連れまわしてはいないかと、(2年前のように飛行機関係でニッチな場所に連れて行ったりしていないかという意味で)伯父さん達は2人を気に掛けていました。

 

 全ての真相が明らかになったのは、父が逮捕されてからです。

 警察は、事情聴取でも変わらず泣きじゃくりまくる私から、前日以降の父の有様を根気よく聞き出しました。そして姉について、ある程度の強い疑いをもって自宅に家宅捜索に入りました。

 果たして父の部屋のクローゼットから、姉のみならず従兄の亡骸もすぐさま発見されました。血だらけになった姉の部屋のカーペットや、2人分の血が付いた刃こぼれした刃物や、バッテリーを抜かれて壊れた2人の携帯電話や、返り血を浴びた父の服が、一緒くたになって押し込められていたそうです。

 

 指紋も、掌紋も、DNAも、まるで誤魔化そうとした形跡は見受けられなかったそうです。携帯の通信記録も、警察の手で簡単に復元されました。誰がどうやってどういう形で殺害に至ったのか、実に明確でした。

 探偵の人達が推理するどころではなく、完全に筋書きが見えている単純な事件です。証拠を何もかも突き付けられた父は、取り調べで大人しく自白したのだと聞きます。

 

 父は、長女と義理の甥の2名を自宅で殺害し、かつ、ピンクウェーブ本社前の路上にて次女を巻き込んでカラメル半月先生の殺害を企てたとして起訴されました。最終的には無期懲役が求刑され、その通りの判決が確定しました。

 

 

 私の方はというと、警察に確保され補導され、児童相談所に保護されましたが、家庭裁判所で何か処分を受けたわけではありませんでした。

 警察や検察の見立ては、『錯乱した牧師が長女と義理の甥を手に掛け、更に次女の目の前でカラメル半月氏を殺そうとした事件』です。父は一度も否定せず、判決もその見立てに沿いました。私が殺人未遂の従犯として糾問されることはありませんでした。

 

 私は東都を離れました。東都から遠く離れた施設で、高校を出るまでは親族も知り合いも誰もいない場所にいました、そしてその地での高卒就職に至ったのです。

 母方の親族は、従兄を殺されたために私を受け入れることは出来なかったと思います。逆に父方の親族は私が拒絶しました。

 そもそも私が自宅近辺で過ごす事自体が到底不可能な事でした。日常が壊れた感覚というか、世界が地盤からひっくり返って丸ごと崩壊したような孤独感というか辛さはあったけれど、でもあの地域で暮らし続けたならもっと大変な体験をしていたでしょう。遠くの施設に入れるという大人達の判断はそういう面で妥当であったと思います。

 

 父の判決が確定した時、私はどうしても黙っていることが出来なくて、施設の先生に相談して、弁護士さん経由でカラメル半月先生に手紙を出しました。

 私も父の指示で鞄の中に包丁を潜ませていたこと、襲撃しようとする父をどうしても止められなかったこと、私も殺人未遂の従犯で追及されるべきだったのになぜかそうはされなかったこと、そして、あの時ピンクウェーブの人達へ走るのではなくどこか遠くに逃げて通報するべきだったと思っていること、全て書いてお詫びしました。

 しばらくして先生からお返事を頂きました。文面には、逆に私への慰めと激励がありました。

 私が手紙に書いたことは先生も既に全て御存知でした。それでもなお先生にとっては、警察の見立ての通り、父は『かなりアグレッシブな団体に所属していて、おかしくなった牧師』であり、私は『父親の手駒にされて傷付いた、中学生の下の子』であったのです。父が判決を受け入れて、私自身も施設で大人しく暮らしていること両方に納得している、私に刑事責任を殊更に問う意向は特に無いとのことでした。

 先生の御恩情には、ここに書ききれない物を含めて、心から感謝しています。

 

 

 この世に適合できない父の情念に振り回された一家は、父自身を含めて結果として1人ずつこの世から消え去っていくしかないのだと思います。

 最初から母はおらず、姉は従兄と共に殺され、父は刑を全うする前に医療刑務所で一昨年没しました。いまや私自身も遠からず死ぬ運命にあります。

 先日、骨髄を病んでいることが分かりました。発見された時には難しい状態で、今は緩和ケア療法を選んで療養中です。

 

 あの一連の事件から10年と少しが経過しています。おそらく私自身があの事件について語るのは、この原稿が最初で最後になるでしょう。

 どうしてもこの思い出話を書きたかったのです。魂の内側から湧きだす衝動のままに、私が見てきたものを綴りたかったのです。この思い出を読んで頂けたのでしたら幸いに存じます。

 

 

※編集部注

 執筆者は〇月〇日に亡くなられました。この原稿は亡くなられる1月半前に当編集部に御提供頂いたものです。心より哀悼の意を表します。 編集部一同




・作者様あとがき


 『ど健全なる世界』を読んだ時、カラメル半月のカリスマ的行動に宗教界からの反発があることと、何度か殺されかけたことについて記載がありました。「では、反発や激発で一括りされている人達のコミュニティでは、ミクロの目線ではどういう葛藤が起こっただろうか」と思い至った時に、この三次創作のネタが降ってきました。
 暗さ一辺倒の作品になるだろうと思いました。本編はカラメル半月が殺される話ではないのですから、必然的に、殺しを決心する途中までの話か、殺し自体に失敗した話になるのです。信仰心が強い人の主観では書き辛く、その人達を見ていた側の目線の方が書きやすいと思いました。

 設定と筋書きを考えるのは、色々な断片を削りだしてピースにして、組み合わせて一枚のパズルに仕立て上げたような感じでした。
 信仰的な理由でカラメル半月を殺しに行くという激発に至るのならば、そういう犯罪に至るらしい経緯が必要です。まず牧師の父の造形が出来、傍観者としての娘の記述で書く、全て終わった時点からの娘の追想で一貫させることが固まりました。
 両親が揃って激発する描写は私の技量的にちょっと無理そうです、横でたしなめる大人がいない、唯一の大人の父だけが、とにかく子どもたちには信仰上『正しく』あるべきだと強く願って暴発しそうな家族構成になりました。
 その父を激発させる要因を考えて姉の設定ができました。父子家庭になった経緯と関連してトラウマに悩む姉は、また理性的で法を物差しに考える性格でなければならず、その姉を裏面で支える、マニア趣味に肯定的な従兄の設定が最後に出来ました。

 私が書きたかったのは、姉が作中で言っていたように、物語の舞台が現代日本である限り、どんな信仰を持っていようが、主観的にどんなに大切な信仰であろうが、社会的には、それ自体は他者と並列させた一本の扇の骨(あるいはタコ壺の中の信念)としか扱ってくれないのだということです。
 何かに物申したい時、信念を表明する自由は誰にもある。ただしそれを表明することは、外側から、誰かの反発や共感の視線のみならず、興味本位の野次馬の視線をも自由に受け入れることなのだ、ということ。それこそが、私が書きたかったものなのでした。

 しばらくぶりに、心から書きたいことを書き上げきれた、世界観を含めて納得がいく短編を書いた経験となりました。
 ハーメルンで当作をパスワード限定公開した時、充椎十四様に御感想を頂きました。(抜粋させて頂きます)「血が通った、肌の下に青白い血管が透けて見える作品です。まさにこのお話は被害者の手記であり、一人の少女の人生を描いた名作だと思います。」という全面的な賛辞の御言葉でした。
 そうした評価を頂けることは私にとって最大級に幸せな事です。こちらこそ本編と雰囲気がまるで違う三次創作の献呈を快く受容して頂いたこと、充椎十四様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。


2020/7/27追記
 作者様よりあとがきの補遺を頂きました。割烹に掲載させていただいております。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=243186&uid=287158
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=243187&uid=287158

2022/07/16追記
誤字脱字5箇所修正

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