ど健全なる世界   作:充椎十四

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そして何よりエロスが足りない

「君はあれをなんだと思う」

 

 きりりとした声に、男はずばりと答えた。

 

「異界の神の自慰行為(オナニー)さ!」

 

***

 

 思えば、想定外の要素がありうることを想定していなかった。病室に雨宮らしき男の姿がなかったこと、須崎が駆け足で病室を出て行ってしまったこと、私も事件関係者として軽い拘束を受けたこと、諸伏君が今日は本庁に行っており護衛が公安関係者ではなかったこと。

 

「コナン君、君にしか頼めないことがある。さっき部屋を出ていった人が……きっとこの施設の関係者だとは思うのだけど、一人いるんだ。その人がちょっと気になってね。私はここを離れられないから、コナン君が見てきてくれないかな」

「なんだって!? 分かった、先生ありがとう!」

 

 須崎が出ていったことに気付いていなかったらしいコナン君は、私の言葉に表情を引き締めると「ぼくトイレー」で病室を脱出した。小さい背中が今はとても頼もしく見える。お願いだコナン君、雨宮の犯行を止めてくれ。そうすれば事件が一件だけで済むんだ!

 ――だが残念ながら、ミステリが始まる前に終わることはなく。須崎は殺害されており雨宮は消えた。狂ったように泣く柚木陽子を見ながらほぼ無策でここへ乗り込んだことを悔いる。偶然に頼った事件防止計画は崩壊し、私の予想通りなら久保は雨宮と出会ってしまう。久保に監視を付けなければ……。

 このご時世、狙われるのは御筥様の信者の娘だけとは限らない。女子中学生と知り合う機会など、そこらへんにごろごろ転がっているのだから。

 

 

 

 何か没入できるものが欲しくて、小説○になろうの『姑獲鳥の夏』を読み始めた。一章一章が重く、性的な匂いに満ちていて、深い古典知識に溢れている。投稿されているのは五章までなのに読み切るのに四時間近くかかった――途中で風呂に入ったりしたからもう十一時近い。

 

 小説の舞台は第二次世界大戦から数年後の東京。だが仮想歴史モノらしく「異常性癖」や「子作りを目的としない情動による性行為」などが一般的とされている世界観だ。平行世界の話なんだなとは思ったが、こんな性的な情報や情動に溢れた時代なんて室町時代まで遡るか、ここ最近かだ。安土桃山江戸明治大正昭和平成――数百年間その姿を消していた性衝動が蘇ってからまだ十年ほどしか経ってない。

 性という名前の暴力に頭を横から殴られるような心地を味わいながら読んでいって、そしてあの四角い顔をした関西弁の男の言葉の意味が分かった。これは子供が読むものじゃない。せめて高校生にならなければ……中学生では早すぎる。

 また、あの大岡という男が何故黒い男から榎木津と呼ばれていたかの謎も氷解した。登場人物そっくりだからだ。きっと黒い男は京極堂、四角い顔の男は木場修と呼ばれている。ウジ虫やら猿やらと呼ばれている男は関口に似ているのだ。

 

 感想ページを開けば、続きを望む大量の声で溢れている。当然だ、これだけ読み応えのあるミステリが未完のままなんてミステリ界の損失と言う他ない。作者が続きを投稿しない理由は謎だが、全くもったいないにも程がある。

 グーグ○検索には考察サイトや同好会、申請制チャットルームなどがずらりと並んでいる。そのリンクの一つをタッチして開いた。『姑獲鳥の夏の作者は半月か』というブログ記事だ。

 

 ――姑獲鳥の夏が投稿されたのは十二年前。作中で提示される資料の希少性や幅広さ等から、少なくとも十五六年前に構想は粗方出来ていたと思われる。一時は国文学者の作かと思われたが、名乗り出る者はおらず作者は未だ不明。

 さてカラメル半月が性の再発見をなしたのは姑獲鳥の夏が投稿された二年後、半月は当時大学在学中で十九歳であった。彼女が作者であるとすると、姑獲鳥の夏は半月十七歳の時の作となる。構想と執筆期間を二年としても、十五歳の少女があのエロスとグロテスクに満ちた物語を考えたことになる。にわかには信じ難い仮説だ。

 だが半月の作品と姑獲鳥の夏には少なくとも三つの共通点がある。

① 宗教的基礎が希薄な同性間恋愛差別や女性蔑視の世界観

② 快楽を伴う性行為を職業とする婦人・青少年の登場と、それらを汚らわしいものとする社会常識

③ 研究対象から外されてきた日本・世界の性風俗の歴史に関する詳細な知識

 これらをただの偶然として片付けることは困難であろう。以下略――

 

 十五かそこらで姑獲鳥の夏を書けるだろうか。俺はホームズが好きだが、十五歳の時にこのクオリティの事件と謎を練り上げられたかと言えば、無理だ。作者は別の人だろう。

 だけど何故作者は名乗り出ないのだろう。こんなにすごい話を書いているのに。

 

 興奮のせいなのか、次の朝は六時半過ぎに目が覚めた。おっちゃんはまだ夢の中だし、あと一時間は起きないだろう。台所を見れば食パンが切れている。財布をつかんで階段を降り――掃き掃除をしていた安室さんと会った。

 

「おはよう、コナン君。早いね」

「おはよう安室さん。なんだか目が覚めちゃって……パンも切れてるし、買いに行こうと思って」

 

 黒の組織の幹部、赤井さんが悪魔と罵るバーボンかもしれない彼は人の良さそうな笑みを浮かべている。

 「人々を悪の道に引きずり込む原罪の悪魔」という赤井さんの言葉は、安室さんには全く当てはまらない評価だ。爽やかで親切で、誰からも好かれる愛想の良い青年だと思う。だが隠しカメラで顔と声を確認した赤井さんは安室さんがバーボンだと繰り返す。本当なのか嘘なのか――誤解の可能性もあるよな、と俺は思っている。似ている他人なんじゃないのか? 従兄弟とか、それより遠縁の親戚とか。血縁者が似るのは当然ありうる話だ。

 

「あ、そうだ安室さん。姑獲鳥の夏って小説、知ってる?」

 

 安室さんは目を剥いて俺の肩を掴んだ。

 

「どうしてその小説を知っているんだい!?」

「だってこのあいだポアロでそのオフ会したんでしょ? 梓さんが教えてくれたよ」

 

 俺がそう答えると安室さんは額を揉みながら溜息を吐いた。

 

「大人向けの本だから、コナン君にはまだ早いかな。大学生くらいになってから読むと内容がつかめるようになるから、今はまだ読まないでいて将来の楽しみにしておくと良いよ」

「うん、わかった!」

 

 安室さんと別れ、コンビニに向かう。

 

 安室さんは普通の善人だ。性欲の沼に引きずり込む悪とか鬼とかいう赤井さんの評価は間違ってる。組織のバーボンはそういう男なのかもしれないけど、安室さんは一般的な善性を持っている人だ。間違いなく人違いだろう。

 コンビニで買った食パンの袋をガサガサ言わせながら事務所に戻ると、開店前のポアロの店内で一人、安室さんが電話をしていた。表情はにこやかで善人らしい微笑みを浮かべている。

 

「やっぱ赤井さんの誤解じゃねーか」

 

 『慈母のように優しく性愛の海に連れ込む妖怪』という評価はすっかり頭の端に追いやられ、俺に気付いた安室さんと手を振り合って事務所に帰った。

 

「――それで、その裏切り者の口を割らせれば良いんですよね?」

 

 安室透はコナンの独り言を読みながら、目の下に皺のできる柔和な微笑みを浮かべた。

 

「ちょっと絞ってやれば泣き出すんですから、簡単な仕事ですよ」

 

 電話相手がクツクツと笑う声。

 

『流石、愛欲の悪魔は言うことが違うぜ』

「当然、僕ですから」

 

 称賛をさらりと受け流して目を伏せる。

 

「そうだ、見に来ますか? 観客が貴方だけというのも寂しいですし、ジンも一緒にどうです。僕のセックスショーは高いんですよ」

『行かねえよ』

「それは残念」

 

 それから二言三言交わしてから通話の切れたスマホを見下ろし、安室透は少年のようにニッと笑んだ。


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