汝平和を欲さば、悪魔に備えよ   作:せとり

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5.異界からの脱出

 手出し可能な高度へと、戦域が下りてきた。

 森へ逃げ込むようにピクシーが降下し、その後をシキガミとリリムが追いかける。

 その光景を目にした瞬間、渚は弾かれるように動き出した。

 風を切り、枝を足場にして、巨大樹の森を飛び跳ねるように移動する。

 目的はもちろん、ピクシーへの加勢である。

 

 自分では悪魔に傷を負わせるのは不可能かもしれない。

 それでも戦闘に参加すれば、状態異常の解除や、単純に的が増える効果として、一人一人の圧力の軽減にも繋がる。

 悪魔と比べたら低い身体能力に加え、武器はただの枝と、基本攻撃力は無に等しいが、様々な現象を無効化できるという能力を有している以上、完全に無視されることもないはず。

 

 あの二人を見捨てて逃げるという選択肢も存在した。

 シキガミが魅了され、これ以上の魔力供給は利敵行為と契約を絶った時、このまま逃げてしまえと思わないでもなかった。

 というか真剣に検討した部分もある。

 確かにこのまま突撃するよりは、生き残る成算は高いだろう。

 しかし仲魔を囮にして逃げるなど、とてもサマナーの行動だとは思えない。

 渚の知っているサマナーは、例えどんな状況であろうとも、仲魔たちと協力して危機を脱そうとしていた。

 過程はどうあれ、渚は仲魔を得て、サマナーとなった。

 一人で逃げるなんて、ありえない。

 

(……といっても、ゲームの中の話なんだけどね)

 

 なんだかおかしくなって、渚はくすりと笑みを漏らす。

 そして唐突に木の枝で、片膝をつくようにして衝撃を殺し、足を止めた。

 加速しきっていた身体を完全に制御しきり、音を立てず、枝も揺らすことのない華麗な急停止。

 目的地はまだまだ先、しかし障害が発生した。

 

 ごう、という音と共に訪れる局所的な突風。

 すぐ目の前、渚が移動を続けていれば未来位置だっただろう空間を、横合いから飛び出してきた茶色い毛皮の獣人が、弾丸のように過ぎ去った。

 奇襲を避けられたコボルトは、進行方向に存在した自身の十倍以上もある分厚い幹に激突するように接地して、すぐに重力に引かれて大地に足を付けた。

 追撃を警戒してか、コボルトはすぐさま渚に体を向ける。

 

「グゥルル……」

 

 奇襲を察知していながら、攻撃するそぶりも見せずに悠々と高所から見下ろす渚の姿に、舐められたと感じたのか、コボルトは怒りで毛を逆立てた。

 しかしコボルトは、威嚇する犬のように唸るだけで、飛び掛かってこようとはしない。

 奇襲を避けられ、頭上を取られたこともあって警戒しているのだろう。

 

 ――飛べない可能性大。

 感じるプレッシャーからして、レベルはそれほど高くない。

 仮にリリムを一〇、ピクシーたちを五とすれば、こいつは二~三程度。

 一対一なら時間を掛ければ倒せそう。

 それでも死の線はよく見えない。

 

 一瞬の交錯と数秒の観察で、渚は彼我の戦力差を大体把握した。

 渚に襲い掛かってきた理由は……。

 格上同士の戦いを、あわよくばハイエナしようと様子を見てたら、手頃な獲物を見つけたから襲った、って感じだろうか。

 

(ピクシー達が心配だけど、戦うか? それとも無視する?)

 

 思考が回転する。

 コボルトは唸りながらも、じりじりと後退りしていることから、無視すれば戦闘は回避できそうではある。

 しかしその場合、弱いとはいえ好戦的な悪魔を放置することになる。

 リリムとの戦闘がどんな形で終わるにせよ、消耗することは避けれない。その状態で出会えば面倒だろう。

 ならば後顧の憂いを絶つために殺す? いや、恐らく漁夫の利を狙っているのはコイツだけではないだろう。

 コボルトを一匹倒したところで、後の状況が極端に好転するとは思えない。

 

(ならさっさと援護に駆け付けた方が良い、かな?)

 

 戦闘回避に天秤が傾き、コボルトから視線を外して踵を返す。

 移動を再開しようとして――。

 不意に、天啓のような発想を得た。

 利点を探すならば、もっと別のところに視点を向けるべきだった。

 そう、例えば――。

 

(こいつをぶっ殺せば、悪魔の死について理解できるかもしれない)

 

 死が理解できないという現象は、例えるならば小学生低学年を相手に先端科学の論文を見せるような行為だ。

 記述は母国語で書かれているから、数字や文字だけは読めたとしても、内容は絶対に理解できない

 しかし内容が理解できずとも、その現象や実験の様子を見せてやれば、直感的に理解できる可能性はある。

 それが得意分野ならば、尚更だ。

 

 天才的にも思える自身の閃きに、思案の為、俯きがちとなっていた渚の口元は弧を描く。

 実験にお誂え向きの悪魔がやって来たのは僥倖だった。

 今にも飛び立ちそうだった渚の体が、コボルトへ再び向き直る。

 

「グッ……。……グゥルアアアァァアア!!」

 

 振り返った渚の顔を見て、コボルトは気圧されたかのように一歩大きく後退る。

 だが、そのまま逃げだすことは無かった。

 悪魔としての矜持が、人間から逃げ出す事を許さなかったのだ。

 寸前のところで踏み止まったコボルトは、弱さを見せた己を誤魔化すように咆哮を上げて棍棒を振りかぶり、頭上に位置する渚に向かって飛び立つように跳躍した。

 

 

 

 

 捨て鉢気味なコボルトの突撃から始まった戦闘は、両者共に有効な攻撃を与えることができずに膠着していた。

 持っていた棍棒を破壊され、徒手空拳となったコボルトが渚に襲い掛かる。

 若干細身ながらも隆起した筋肉に、獣のように敏捷な身のこなし。

 その身体から繰り出される攻撃は、渚にとって確かに脅威であったが、雷速すらも捉える目を欺くには、その動作は鈍重にすぎる。

 振るわれた右腕を潜るようにして避け、すれ違いざまに脇腹に見えた、か細い線に枝を走らせるが、失敗。

 それはすぐに消えてしまい、枝先が触れる頃にはただの毛皮となっていた。

 その攻撃は、もちろんノーダメージに終わる。

 

「グフッ」

 

 繰り替えされる渚の奇行に、コボルトが馬鹿にしたように笑う。

 戦闘中ということでそれなりに自重したのか、押し殺されたような笑い声は、それでも渚の耳に届いていた。

 

(こいつっ、全裸の癖に、むかつくっ!)

 

 邪魔だからと、コボルトの服のようなものは、渚に全て破壊されて真っ裸となっていた。

 獣の上、毛皮があるので羞恥心など感じていない様子であるが。

 そんな原始人のような輩に馬鹿にされたとあっては、中々上手く殺せずに苛立っていたことも手伝って、渚の勘気は一瞬にして沸点を超えた。

 

 すれ違いざま、そのまま距離を取ろうとしていた足を強引に止める。

 魔力を流し込み、簡易的な強化を施していた木の枝を、更に強化しようと魔力を注ぐ。

 散々吸い取られたし、使うところも見ているからこの程度は簡単だ。

 地面を抉るようにして減速していた体を反転させ、同じように足を土に埋めていたコボルトへ向かって突っ込んだ。

 ヒットアンドアウェイを徹底していた渚が自分から向かってくるのを好機と感じたのか、コボルトが牙をむき出しにして笑い、その場でどっしりと構えた。

 渚の攻撃力は大したことがないと確信して、相手から一撃を貰っても、更に良い一撃を返すことに決めたのだろう。

 

(肉を切らせて骨を断つか……。確かに有効な戦術だ)

 

 その脅威を理解して、渚の思考は急速に冷却された。

 魔眼に期待できない以上、ダメージ交換では圧倒的に不利。

 筋力や耐久が其れほど上がっていない渚にとって、正面からの殴り合いは避けるべき事柄だろう。

 

「――」

 

 一瞬の逡巡。

 今ならば仕切り直しも可能だったが、やめた。

 いつからなのか分からないが、ピクシーへの魔力供給が止まっていた。

 契約が残っている以上死んでいないとしても、生存を諦めてしまったのだろうか。

 

(早く救援に行かないと)

 

 ここで勝負を避けても余計に時間がかかるだけ。

 負傷のリスクを受け入れたコボルトと同様に、渚も覚悟を決めた。

 

 

 

 

 脳を限界まで酷使して、全力で“死”を理解する。

 頭が割れるように痛み、脳の放熱により顔が真っ赤に茹で上がり、滝のような汗が額を流れる。

 極限まで集中した結果として、知覚速度も際限なく加速する。

 周囲の木々、地面、空気、身に付けている物。理解できるモノすべてに“死の線”が浮かび上がり、脳髄が悲鳴を上げる。

 視界に映る世界も、見ただけでも鬼気が走る黒で、元の配色がよく分からぬほどに埋め尽くされていた。

 そこまでしてなお、悪魔という常識外の存在は、普段と殆ど変らずに元の姿を保っていた。

 

 まるで未知の言語で記された書物を解読しているような作業。

 目が滑り、必死に類似点を探しても見つからない。ついには理解を放棄し始める。

 悪魔にも死は確実に存在する。しかし、その内容がまるで理解できない――。

 魔眼と頭脳の性能でごり押して、全ての死を理解するような従来のこの方法では、悪魔達には対抗できない事を悟る。

 もっと効率的な方法を。

 

(解析のリソースを一点に集中すれば――)

 

 必要ないモノを意図的に省いて、指定した対象に全てのリソースを注ぎ込む。

 目を完全に見開いているのに、視界の中心に位置するモノ以外は、意識の外に追いやる。

 言葉にするのは簡単なのに、いざ、やるとなると苦戦する。

 意図的に魔眼の対象から外すのが、こんなにも難しい事だなんて思いもしなかった。

 

 目を開ければどうしても視界に入ってしまう。

 視界に入れば、条件反射的にそれがなんなのかを理解してしまう。

 かといって目を閉じようとも、そもそも目標が見据えられなくなるし、かえって気配を感じようと感覚が研ぎ澄まされ、その五感で感じたものから死の気配を感じ取ってしまう。

 どうしようもなかった。

 これは超絶技巧が必要とされる技術だ。一朝一夕で身に付くものではない。

 

 気づけば、待ち構えるコボルトとの距離はもう僅か。

 引き返すことなど、到底かなわぬ彼我の距離。

 焦りが思考を支配して。

 

(だったらもっと、押すしかない!)

 

 発想を変える。

 一朝一夕では身に付かない。ならば自ら死地に赴いて、身に付かなければ死ねばいい。

 そうだ、それでいい。

 この身は追い込まれれば追い込まれるほど応えてくれるのだ。

 頭が破裂する? 大丈夫。精神が負けなければ、身体が勝手に最適化してくれるはずだ。

 破裂するのは、限界までの最適化を完遂し、それでもなお届かずに何の打つ手もなくなった後。

 だからその時は、純粋に力が足りていなかっただけだ。潔く死ねるだろう。

 煮詰まった頭から導き出された結論は、脳筋全開の根性論だった。

 

 まず真っ先に、痛みが無くなった。

 今まで苛んでいた頭痛が消え、あまりの痛みに錯誤が発生しつつあった思考が清らかに澄み渡る。

 神経回路のあちこちがショート寸前で、それでも意識は明瞭に。

 全力が出せるようにとの配慮だろうが、身体が発する悲痛な警告も完全に無視する形となる。これで後戻りはできなくなった。

 

 そして気が付けば、視覚以外の五感が全て機能を停止していた。

 風を切る音、森の匂い、鉄の味がする口内、衣類の感触。

 一瞬前まで感じられていたそれが、今は全く感じられない。

 それでもイメージ通りに身体は動く。戦闘に支障はない。

 しかし様々な機能を停止して、それでも渚の瞳に映る獣人の姿はほとんど変わらない。

 リソースが微かに増えたとしても、注ぎ込む対象が絞れていないのだから当然ではある。

 恐らくその効果は、全ての線の色度が数十%上がったくらいじゃないだろうか。

 例え色度が五割増しになったとして、元が無きに等しいのでは意味がない。

 まあここまでは予想通りの結果、渚自身も期待してはいなかった。

 

 コールタールの海を泳いでいるような体感速度の中、更に一歩距離が縮まって。

 四肢を地面に置き、今にも飛び出しそうだったコボルトの体が、微かに沈むように震えた。

 

(来る――!)

 

 それは跳び出す前兆。

 コボルトが攻撃動作に移ったことの証左。

 コボルトが動き出せば、その二人の相対速度は生物の域を超越する。

 次に時計の長針が一つ動いたとき、勝敗は既に決しているはずだ。

 このまま当たれば、渚の敗北は必至。

 見切っているお蔭で、その気になれば回避も可能だろうが、それをしてもジリ貧である。

 

 ここからが本番。

 一秒にも満たない僅かな猶予を以ってして。

 危機に瀕した肉体が、勝手に対象を取得選択してくれる……。やると決めた以上、その願望にこの身を捧げるしかない。

 

 コボルト目掛け、力むように意識を集中させて。

 ――今が限界。これ以上は本気で命に係わる。

 生存本能が発する弱音も、覚悟を決めた渚を止めるには至らない。

 限界の更なる先へ。その一線を何の躊躇いもなく踏み越えた。

 表面張力のようにギリギリで保たれていた拮抗が破られる。

 

 ――――――。

 脳が破裂した。そう錯覚するほどの衝撃。

 四散した意識。炸裂する視界。ここは天国。いや地獄。

 死出の旅。無常の風。一巻の終わり。

 亡失。喪失。他界。往生。昇天。不帰。先途。終焉。卒去。入滅。絶命。絶息。遺失。逝去。死神。

 Boshitsu. Απ■λεια. Απεβ◆ωσε. Θ▲νατο■. Αν▼ληψη. Πεθα●νοντα◆. Κρ◆ση στη μ■χη. Τ●λο●. Doom. Πεθα▼νοντα◆. Θυσιαστε■. Zessoku. Lost. Απεβ▼ωσε. Reaper......。

 ――――――――――飛散した意識の欠片の一つが、死の一端を理解した。

 

「――」

 

 焦点の合わない瞳が回復し、意識が再構築されていく。

 何かとんでもない経験をしていたような気がする。

 渚が一瞬の自失から立ち直れば、すぐ目の前にコボルトが存在して。

 そしてその身体には、無数の線が見えた。

 別世界、その法則で生まれ育った魂。それが悪魔の――。

 

「なるほどね。それが君たちの“死”か」

 

 魔法なんかの概念よりもずっと強度が高かったから手こずった。

 とはいえ完全に理解し得た訳ではない。

 証拠に、一撃死させられそうな場所には死が見えない。

 

(なら即死圏内までダメージを与えてやればいい)

 

 ナノセカンドの判断。

 コボルトの踏み出された足を切断し、咄嗟に体を支えようとした右腕も流れるように切り払う。

 勢いに乗ったままつんのめって、縋るようにして伸ばされた左手も、次の瞬間には胴体と切り離されていた。

 

「――グァッ!?」

 

 五体の内の三つを瞬時に失い、地面に叩きつけられたコボルトが、困惑交じりの悲鳴を上げる。

 しかしその悲痛な叫びも、蒼い瞳の死神は意にも介さない。

 殺して殺して殺し続けて。

 上半身のみとなったコボルトは、這い寄る死の気配に恐怖した。

 痛みや苦しみ。生への執着。死への恐怖。とんでもない藪蛇をしてしまった後悔。

 様々な感情がコボルトの胸中で渦巻いた。

 爆発するような感情の放出を求め、無意識の内に口を開けて――。

 渚が無造作に繰り出した木の枝が、コボルトの額になんの抵抗も感じさせずに突き刺さった。

 

「ァ――」

 

 断末魔の叫びをあげる事も許されず、コボルトはあっけなく死んだ。

 それを確認し、水に浸かった枝を取り出すように、額に埋まった木の枝を、渚は然して力も籠めずに引き抜いた。

 存在の核を失ったコボルトの肉体が、世界に分解されるかのように魔力となって溶けてゆく。

 透き通った赤い魔力が発煙弾のように撒き散らさる幻想的な光景には目もくれず、渚は目を爛々と輝かせながら、大地に散らばったコボルトの死体を凝視し続ける。

 大量の魔力を浴びながら暫く経ち、やがてコボルトの体が消えかけた頃、渚は興味を失ったように踵を返した。

 

「ありがとうコボルトさん。お蔭で死について、また一つ理解できたよ」

 

 一足跳びで近場の木の枝に飛び乗って、思い出したように渚が感謝の言葉を口にした。

 その顔には穢れのない純粋な笑みが浮かんでいるが、それを向けられて、言葉通りの意味に捉えられるものは少ないだろう。

 自分で殺しておいて感謝するなど、まして心の底から感謝しているように見えるなど、狂人にしか思えないからだ。

 そんな渚の頭脳には、新たに理解した死の法則が、完全にインプットされていた。

 

 

 

 

 感覚が若干戻り、鈍痛と気怠さが渚の身体を支配する。

 コボルトのマグネタイトを吸収昇華して、魂が成長し、それに合わせて肉体も強化された。

 体に力が漲る。しかし損傷は回復していない。

 なのに疲労をそこまで感じない。アドレナリンってすごい。

 

(今日一日でだいぶ人外になったなぁ)

 

 木々の間を飛び回り、再び樹上の人となった渚が、胸中で一人ごちた。

 高速で流れる視界、感じる風圧、忍者にでもになったような感覚。その全てが人力にて齎されたものなのだから驚きだ。

 

「痛っ」

 

 痛み止めの効果が唐突に切れたように、頭痛が激しくなった。

 脳髄が全周囲から脈打つように激痛を発している。

 後遺症が残るかもしれない程の酷使の結果だ。

 この分では、魔眼の性能は一時的な低下を免れない。

 しかし悪魔の死を理解できたことは非常に大きな成果である。

 性能が下がったとしても、リリムとは戦えるだろう。

 少なくとも、コボルトを無視した場合の未来と同程度には。

 

 ――遥か前方に、力強い悪魔の気配を察知した。九分九厘リリムだろう。

 その近くに違和感を感じ、もしやと思い契約のパスを辿ってみれば、それは非常に弱ったピクシーの気配だった。

 どういう状況かは分からないが、ピクシーは未だに生きている様子。

 ほっと小さく吐息を漏らす。

 契約が繋がっているとはいえ、本当に生きているのか不安な部分もあったのだ。

 その場の気配に集中し、それ以外の気配がどこにも存在しない事を知る。

 安堵しそうになった気持ちが乱暴に引き締められた。

 

(……シキガミ。間に合わなかったか)

 

 それどころかピクシーも危険である。

 そのことに思い至り、次にやってきた足場は全力で蹴った。

 同時に、息を潜めて衣擦れや足音に気を配り、魔力の漏洩にも注意して、渚なりに精一杯の隠密をこなす。

 気配が殺せているかは甚だ疑問であるが、無造作に接近するよりはマシだろう。

 

 

 見えてきた。

 地に墜ちたピクシーが、リリムに足蹴にされている。

 幸いにもこちらに気付いた様子はない。

 ならば奇襲あるのみ。

 何時だって苦しめられた、悪魔直伝のバックアタックをくらえ!

 

 リリムの後方に回り込み、地面に倒れた妖精を踏みつぶそうと足を振り上げた瞬間にタイミングを合わせて強襲する。

 溢れ出る魔力、纏わりつく呪い、霊的装甲、それらに覆われたリリムの死。

 狙える線が多すぎて目移りする。

 

(やはり即死は狙えない。なら基本はさっきと同じ!)

 

 リリムの背中に走る無数の線の一つを目標に枝を振るい、鋭いエオルス音が辺りに響く。

 霊的装甲を剥いでやる。一部を殺すにとどまったが、電撃無効は剥がれ落ちたのを超常的な視点により知覚する。

 コンディションが最高だったら全属性を弱点にしてやることも出来ただろうが、その場合はまどろっこしい事をせずに即死させているだろうから比較に意味はないだろう。

 

「――!?」

 

 首だけで振り返ったリリムの驚いた視線。

 しかし驚愕は一瞬。

 渚のことを視認して、すぐに気を取り直した夜魔が、うざったい羽虫でも払うかのように振り向きざまに腕を振るう。

 リリムの死角、背中側を通り抜けようとしていた渚の背後に、リリムの細腕が迫りくる。

 ――速い。回避が間に合わない。

 本能が発する警鐘により、渚はその脅威を瞬時に判断した。

 咄嗟に盾とした木の枝は容易に砕かれ、背中側の左脇腹に衝撃、それは地面に叩きつけられるような角度だった。

 

(――まずっ)

 

 大地に転がされれば、今も地面に蹲るピクシーのようになってしまうのは明白だ。

 渚は被害が増えるのも厭わずに、衝撃に逆らうように地面を蹴って、そのベクトルを無理やり上方向へと変換する。

 ――ボールのように弾き飛ばされた体。

 体内からも何かが砕ける音。

 木の枝の粉砕音を聞き間違えたのだと思いたいが、恐らく肋骨が何本か逝った。

 空中で何とか体勢を立て直し、木の幹に着地。追撃を警戒して立体機動を開始する。

 だが、これだけで済んだのは幸いだった。

 攻撃阻害の呪いが残っていなければ、あの一撃は背骨まで達していただろう。

 存在強度の差、魂の階梯の差。つまりレベル差というのは恐ろしい。

 痛覚が遮断されているお蔭で、行動には全く支障がない。

 物理的に行動不能にされないかぎり、今の渚は死ぬまで行動し続けることが可能なのだ。

 

 激しく動いているにも関わらず、リリムから途切れることなく視線を向けられている現状について考える。

 此方から仕掛けるのは難しい。

 上手く強襲して正面からの奇襲に成功しても、精々が先程の焼き直しになりそうだ。

 コボルト相手のようにはいきそうにない。

 とはいえこの状況を打破する為の布石は既に打たれている。

 ピクシーの復帰が待ち遠しい……。

 

(うん?)

 

 逸るように視線を向けた先で、呆然とした様子のピクシーが何事かを喋ったが、まったく聞き取れなかった。

 表情からして、何か意味のある指示という訳でもないだろう。……とりあえず笑って誤魔化そう。

 

「へぇ。アナタ、生きていたのね。……それにまあ。おいしそうになっちゃって。期待以上だわ」

 

 好色と食欲が入り混じった視線。

 渚を屈服させた後でも思い描いているのか、リリムが自分の想像に舌なめずりする。

 しかし慢心していても、流石に戦闘経験豊富な悪魔。リリムはこの状況に於ける最善手を選択し、宙に浮かんだ。

 それは渚にとっては最悪の一手。

 

「ちょ、待った!」

「ふふ、捕まえてごらんなさい?」

 

 渚が網を張っていた周辺を避けて、リリムが頭上に躍り出る。

 意図を察知した渚がすかさず追いかけるが、リリムの上昇速度は木々を足場に駆け上がる渚の比ではない。

 空に逃げられたら大変なことになる――。

 

「ピクシー! ジオを!」

「――?」

 

 頭に疑問符を浮かべながらも、指示に従ってくれたピクシーの電撃が上昇を続けるリリムへと放たれた。

 

「はっ、馬鹿ね。私に電撃なんて――。ガァ――!?」

「えっ」

 

 私の耐性も知らないのかと、小馬鹿にした笑みを浮かべていたリリムが、雷に貫かれて悶絶する。ついでに術者であるピクシーも驚いている。

 本来ならば効かない筈の攻撃が効いたのだから当然だ。

 二人とも、渚が何かをした事には気づいても、その“何か”の詳細には理解が及ばなかった様子である。

 

 放たれたピクシーのジオは速射であり、威力はそれほど無かったが、全く備えていなかった予想外のダメージに、リリムの動きは停止した。

 正確に言えば、今もリリムの体は慣性に従い上昇を続けている。しかしその速度は、渚にとっては動いていないも同然である。

 瞬時に肉薄し、リリムに砕かれて包丁並みに短くなってしまった枝を振りかざす。

 今度は狙いを迷う必要はない。

 すれ違いざまに飛行術式を無効化し、ダメージにより比較的濃くなっていた腕の線を切断、白くて綺麗な細腕が宙を舞う。

 

「あぁっ、私の腕が! 人間、貴様ァア!!」

 

 憤怒と苦痛をない交ぜにした顔のリリムが、落ちながらも報復しようと、魔力を噴出し始める。

 魔法の前兆。かなり本気。照準は渚。変換された魔力がバチバチと音を鳴らす。至近距離からのジオ――。

 それだけの情報で、咄嗟に逃げようとした身体を理性が律した。

 一度この足場を蹴ってしまえば、もう決して行動の変更を行えない。

 数瞬行動が遅れれば、それだけで避けられるものも避けられなくなるだろう。

 しかしそれがどうしたと、渚はパーティー戦での最善を求めて視野を広げると、渚を援護しようと、地上で再びジオの準備をするピクシーの姿が見えた。

 ――勝利への道筋が、一瞬にして明瞭になったように感じられた。

 しかし魔力切れが近いのか、その魔力の充填は遅々として進んでいない。

 

(変な遠慮なんかしないで搾り取りなよ!!)

 

 ピクシーは戦闘が再開してからも、渚から全く魔力を吸い取っていなかった。

 なのに魔力不足により戦線離脱しかけていたわけで、通りで気付けなかったわけだ。

 邪魔をしないようにとのピクシーなりの配慮だったのだろうが、危うく勝機を逸するところであった。

 そんなピクシーを不甲斐なく思いながら、渚は自身の体内でかき集めた魔力を、パスを通して強引に送りつける。

 目が霞み、生命力が一気に無くなった感覚。また一歩、死が近づいた。

 

『頼んだ』

 

 そう強く思っての魔力供給。

 その願いと共に、全力で撃つのに十分な魔力を受け取って、ピクシーは何かを堪えるように頷いた。

 

『任せて、サマナー』

 

 決意を宿した瞳を向けられて、渚にもその覚悟は伝わった。

 すかすかだった術式に、魔力を流し込み始めるピクシー。それは徐々に帯電し始める。

 少しだけ、ディアを掛けられたらどうしようかと思っていたが、無事に意図は伝わった様子である。

 

(ほらほら、下から脅威が迫っているぞ? こっちばっかり向いてて平気かなー?)

 

 思いつく限りの最善の布陣を完成させて、上機嫌な渚が楽しそうにリリムを眺め、その瞬間を待つ。

 焦りに負けて中途半端なジオを放つか、眼下を確認しようと渚から意識を逸らすか。どっちに転んでもおいしかった。

 しかし敵もさる者、そう簡単には引っかからない。

 一瞬の間に幾度となく繰り広げられる心理戦。

 充填されつつある魔力は気になっても、目の前にある脅威を前に、そう簡単に地上の脅威の程を確認できず。

 かといって攻撃しようにも、まるで恐怖を感じていない様子の渚の姿に躊躇して。

 視線を用いたフェイントにも全く反応しない渚に焦れてしまったのか、膨れ上がる魔力の恐怖に屈したのか、向けられていたリリムの意識が逸れた――。

 それが瞬時に本物の隙だと断定した渚は、限界まで折り曲げていた足を解放させて、リリムに向かって弓矢のように飛び出した。

 レスポンスが遅れて、リリムが咄嗟に身をよじる

 しかしその反応は遅すぎる上、――そもそも狙っているのは身体ではない。

 

 今度の交錯は、両者共に無傷だった。

 しかし――リリムの術式で縛られていた魔力が、霧散した。

 戦車が大砲を破壊されたかのような、主要攻撃手段の一時的な喪失。

 今のリリムは、まな板の鯉も同然だった。

 引き攣った表情を浮かべた悪魔を、地上から放たれた雷が撃ち貫いた。

 

 ――着弾の光景を見届けるよりも早く、渚は当ったと想定して既に行動していた。

 リリムの左胸部に死の線が重なり合い、点のようになっている。

 

(さようなら――)

 

 レオタードを押し上げる膨らみの下から、心臓を穿つように繰り出された枝は僅かな抵抗すらなく、すんなりと根元まで突き刺さった。

 一刺しで死に至らしめる、確かな手応え。

 びくんと震え、呆然と目を見開くリリムの姿。

 

「私が……死ぬ? 人間如きに、殺されて……?」

 

 力が入らない様子で、渚にしなだれかかってくるが、無造作に振り払う。

 

「これ、が……」

 

 死――。掠れる声で呟いて、リリムは動かなくなった。

 同時、リリムの死体は膨大なマグネタイトとなって消失する。

 淡く光る暗い緑色のマグネタイトが、物理的な圧力を感じさせるほどに発生した。リリムの存在全てが自然に帰ろうと、魔力に変換されているのだ。

 その幻想的な光景を、地面に着地して倒れ込んでしまった渚は、仰向けのまま見やった。

 雪のように魔力が降り注ぐ中、木の葉や土が入り混じる濃厚な森の匂いが鼻をついた。

 

「――あ、くぁ……」

 

 喘ぐようにしてうめく。

 戦闘態勢が解除され、どっと疲れが押し寄せてきた。

 全身が信じられない程に痛み、しかし尋常ではない怠さにより身じろぎする事さえ億劫だ。

 しかし渚は苦しげにしながらも、その表情には笑みが浮かんでいた。

 胸中には狂おしいほどの達成感と充足感が麻薬のように広がっている。

 動く元気があったとしたら、飛び上がらんばかりに喜んでいた事だろう。

 

(そうだ、ハイエナの警戒……。あー、なんかもうどうだっていいや。来るならこーい。餌になってやる)

「サマナー! 無事!?」

 

 アホな思考を遮るようにして、ピクシーがよろよろと浮遊してやってくる。

 近くでよく見れば、その体は傷だらけだ。

 上辺だけなら渚の方が身綺麗かもしれない。

 

「大丈夫だ……問題ない」

「……少し我慢して。今から人間界に脱出する」

 

 ピクシーの真剣な表情には気づいていたが、それでも言ってみたかった言葉が言えて満足です。

 ネタなど知らないピクシーは言葉通りに受け取って、渚の死人のような顔色と、ぐったりとした様子を見て強がりだと判断した。

 しかし漁夫の利を得にハイエナに来ていた悪魔達がにわかに騒ぎ始めた今、その言葉に甘えるべきだとピクシーは考えた。

 

「……? そんな……便利な、ものが……?」

 

 途切れ途切れに、渚が言葉を発する。

 掠れてもいるその声は、まるで危篤患者といった有様だった。

 脳内物質の効果が切れ始め、ハイになっていたテンションが下向を始めたのだ。

 それと入れ替わるように、とてつもない睡魔が渚を襲い始めていた。

 

「……悪魔なら、誰だって使える。……黙っていて、ごめんなさい」

 

 懺悔するように言って、仕事に逃げるようにピクシーはその魔法の構築に取り掛かった。

 魔眼を発動していない為に直には見えないが、今も緻密な術式を編んでいるのだろう。

 確かに発動しつつあるその気配は、この異界に来た時の感覚と似ているような。

 

「いや……いいよ。僕も、色々嘘ついたから……お互い様さ」

「サマナー……」

 

 確かに、出会ったその時にでも教えてもらえれば、こんな修羅場を潜らずに済んだだろう。

 しかしifの話をしても仕方がない。

 眠気の強い頭から導き出された回答は、偽らざる本音だった。

 無理して笑って見せれば、ピクシーは複雑そうな表情を見せる。

 ……今の頭では、その本心を見抜けそうにない。

 だからだろうか、こんな頓珍漢なことを言いだしたのは。

 

「そう、いえば。自己紹介が、まだだったね……。僕、霜月渚……。今後とも……よろしく」

「――」

 

 お約束とも言っていいアレをしていなかったことに気が付いた渚は、唐突に自己紹介を始めた。

 

「――うん。こちらこそよろしく、ナギサ」

 

 どんな風に受け取ったのか、ピクシーは花のような笑みを浮かべていた。

 あれ? と感じつつも、渚も彼女の嬉しげな顔に釣られて、思わず笑い返していた。

 

 視界が白く染まる。

 魔法が完成し、転移が始まったのだ。

 光と眠気に負けて、渚は目を閉じた。


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