冬が来た。
北西からの本格的な寒気団の到来により、辺りは冷気で満ちていた。
事務所の窓からは冬の弱々しい光が斜めに差し、その先には寒空が広がっている。
12月も半ばに差し掛かった現在、道端で見かける草木は枯れはて、秋の面影はまるで残っていなかった。
悪魔関係に初めて関わった日から3~4ヶ月程だろうか。渚は訓練学校をとっくに卒業し、正式なヤタガラスの構成員として働いていた。
配属先は、地元である東京から遠く離れた北海道の札幌である。太一とも引き離されてしまっていた。勿論、渚は地元がいいと主張したが、危うく東京都繋がりで小笠原諸島に飛ばされそうになって妥協した。どちらも気に食わないが、まだ大都市であり空港も近い札幌の方がマシであると。
同期の殆どは希望が最大限配慮された場所に配属されているだけに、渚だけが島流し染みた事をされたのは何らかの意図を感じざるを得ない。かといって、平戦闘員の身分では何もできないのであるが。
ペンを置いて、椅子の背もたれに体を預けて大きく伸びをする。
早朝から悪魔を発見し、異界を潰してきて、今、ようやくその報告書が書き終わったのだ。
情報の流出を警戒しているとかでアナログな手法を強要される上、かなり細かなところまで書くことを要求してくるコレは、渚にとっては悪魔と対峙するよりも遥かに神経を摩耗させることだった。
ここに配属されてから、一ヶ月以上。その作業は大分手慣れてきたものがあるとはいえ、生来の気性からして向かない作業である。それを嫌々ながらも終わらせたのだ。職場とはいえ伸びくらいしても罰は当たらないだろう。
しかしながら、それに目くじらを立てる者も存在する。
「渚、職場でだらしがないですよ」
書面と向き合っていた顔を上げて、向かいの机からそんなことを言ってくるのは、渚より少し年上の銀髪の少女だ。
彼女がいるだけで職場の雰囲気が引き締められるような、空気を凍らせ張りつめさせる厳格なオーラを纏っているのはカティア・レイグラフといった。
彼女は敬虔なメシア教徒であり、渚の仕事の先輩でもある。
外国人でありメシア教徒が日本の公的機関で働いていていいのだろうかとも思ったのだが、どうもそれらはこの業界ではごく普通の事のようで、問題にもされていない。
渚としては違和感を感じてしまう所であるが、こういった事や、ニュースで国同士の不和が報じられていなかったりと、人類が一致団結しているというのは本当なのだろう。
歳も近く、自分にも他人にも少々厳しすぎるという欠点を除けば、彼女は凄く面倒見のいい先輩な為、渚とも大分気心の知れた関係となっていた。
そんなカティアからの注意を何時もの小言だと聞き流し、渚は首や腕をぶらぶらと揺らしながら返事をする。
「体を解すぐらい、いいじゃん」
「いけませんよ、ナギサ。綻びは小さなことから生じます。その油断が命取りとなるのです」
「メリハリは大事だよ?」
「だからと言って、普段から油断しきっていい訳ではありません。それに渚、あなたは悪魔に操られてしまった事があるのでしょう。その時も、気を引き締めていれば何とかなったとは思いませんか?」
思いません、と即答しそうになって、思いとどまる。
渚が悪魔に関わった経緯については、つい先日、話の流れで彼女に語っていた。
確かに、耐性やレベル的に考えて、あのチャームに抵抗することはまず無理だった。
しかし、もし仮にカティアのいう通り、あの頃の渚が常在戦場の心構えであった場合、あれほどの無様は晒さなかったかもしれない。
常に気を引き締めるとか、渚が実行できる気がしないだけで、彼女の言葉には一理ある。真っ向から否定するのは駄目だろう。
「でも、こんな所でまで気を張ってたら、集中力が続かないと思う」
「集中するから駄目なんです。自然体で自分を律するのです」
「え?」
何を言っているんだこいつは、と渚は自分の顔が引きつったのを感じた。
彼女の言葉を要約すれば、四六時中、意識せずに警戒を怠らないということだろう。それか、警戒態勢を自然体にしろと。
多くの者にとっての暴論を言い放ったカティアの表情は、とても大真面目なものだった。
『自分にもできるのだから、渚にもきっとできるだろう』と、渚を期待するそんなカティアの思考が伝わってくるようだ。
自身の持っている知識から大きく乖離したメシア教。その実情を聞けそうな本場の信徒に、興味を持ってしまったのが運のつき。
中立中道を歩む者にとって、偏った思想の持ち主は、その内容の是非はどうあれ鬼門だということを、カティアに声を掛けた時の渚は忘却していた。
入信する気はないにもかかわらず、どうにも渚はカティアに気に入られてしまったらしく、こうして事ある毎に小言を溢されていた。
知り合いのいない土地の寮での一人暮らしだった為、毎日のように部屋へやってきては料理を振る舞ってくれたりするのは本当にありがたい。が、宗教のお誘いはノーサンキューであった。
しかもカティアは本当に善意から勧誘してきているようでたちが悪い。
言葉に打算が混じっていれば距離を測れるが、完全に善意で迫ってくる者を無視できるほど、渚は心を無くしてはいなかった。
「……室長にコレ、提出してくるね」
とはいえ、よく分からない事に対して真摯に対応できるほど、お人好しでもない。
渚は仕事を口実に逃げ出そうと、今しがた書いたばかりの書類を片手に席を立った。
「……その後はどうしますか?」
「ん、いつも通り夜までパトロールじゃない? あいつ等潰しても潰しても湧いて来るからねー」
「そうですか、分かりました。それでは私も準備をして待機しています」
「りょーかい。なるべく早く終わらせてくるね」
「室長は目上の方なのですから、失礼のないようにするんですよ」
はいはい、と相槌を打ちながら去っていく渚の背を見つめるカティアの蒼い瞳は、手のかかる子供を見つめるような、そんな愛情に満ちた目をしていた。
渚がこの支部にやって来てから、支部の悪魔と異界殲滅のスコアの増加速度は跳ねあがり、報告した室長が更に上から捏造を疑われるほどに、その戦果は傑出するようになっていた。
普通は、悪魔や異界を探して朝から晩まで街を巡回なんてしない。
悪魔を相手にオーバーワークをこなせば、いつミスを犯して死んでも可笑しくないからだ。
常人より遥かに才能に恵まれているとはいえ、渚も疲労しミスもする人間である。
そんな彼が自らを顧みずに実行する、まるで世のため人の為に身を粉にして悪魔を排除しているかのような振る舞いが、カティアからの渚への好印象の原因だった。
当の本人としては、初めての仕事を一緒にした先輩が、自主的にそんな普通ではないことをしていたから、それがこの業界の常識なんだと思い込んでしまっただけなのだが。
流石に今では誤解も解けているが、別にあまり負担でもないし、悪魔を殺すのは良い事だと思っているので続けている。
性格が良くて強くて仕事も出来るカティアだが、ナチュラルに自分を犠牲にしていく節もある彼女について行ける者は渚が来るまでは誰もおらず、職場では尊敬はされても敬遠されているような状態だった。
そんな状況で泣き言の一つも言わずに行動を共にしてくれる後輩が現れたら、同志だと思うのも無理はないかもしれない。
カティア・レイグラフという人間はメシア教徒で、性善説を信じる、俗にいう良い人である。
そんな人間に一度でも好感を覚えられれば、口で何と言おうと、決定的な行動をしない限りは素直じゃないとか照れ隠しだと思われ、絶対に認識は覆らない。
渚のことを立派な人徳の持ち主だと勘違いしているカティアと、そんな立派な人間ではないと面映ゆさを感じる渚。
微妙にすれ違っていながらも、二人は普通に良好な関係だと言えただろう。
▼
「クリスマス?」
「はい。その日はお暇ですか?」
年末も近づくある日の夜。
何時ものように渚の部屋へやって来たカティアは、食事と洗い物を終えて、渚に母親の如く早くお風呂に入って夜更かししないで寝る事を言い含めるように口にしながら帰り支度をし始めて、ふと思いだしたかのように言ってきた。
クリスマス。世界を救ったとメシア教に称えられる、メシアが誕生したという日。
一二月二四日から一二月二五日にその生誕祭は行われる。
本場ではどうだか知らないが、此方では家族、または親しい人物と過ごすことが多い。少なくとも日本では、前の世界との違いは感じなかった。
さて。家族、または親しい人物。見知らぬ土地で仕事三昧の日々を送ってきたのだ。そんな相手、居るはずなかった。
「残念でした、その日のナギサはわたしが予約済み。ね、ナギサ?」
「え」
もはや定位置ともいえる渚の膝の上で、我が物顔で寛ぐピクシーが、カティアへの対抗心をあらわに言った。彼女の中では勝ちを確信しているのか、その態度はどこか得意げだ。
……そういえば少し前、街を彩るイルミネーションのことをピクシーに聞かれ、クリスマスのことを説明したんだったか。
流石に会話の詳細は思い出せないが、その時確かに『クリスマスを一緒に祝う』的な約束をした記憶がある。
「……本当ですか、渚?」
ピクシーの言葉を受けて、カティアが確信してくる。
一瞬だけ、修羅場という三文字が頭を過ったが、まさかそんなことはないだろう。
恐らく彼女の提案は、『暇だったら教会に来て』とかそんなところだろう。そしてあわよくば入信させようと。恋愛感情などあるはずがない。
教会に連れて行かれるのはちょっと面倒だ。それにいい口実もある。ここは断るべきだろう。
「……うん。本当の事だよ」
「そう、ですか」
消沈したかのような口調とは裏腹に、カティアからは言いようのない威圧感を感じた。
多分、悪魔と親しくするなどとんでもない、とか思っているのだろう。
なぜか、気圧される。
ふと服が引っ張られた感触に視線を下に向ければ、ピクシーも渚と似たような感慨を抱いている様だった。
「……それでは仕方ありませんね」
カティアはそうつぶやいて、すくっと立ち上がると上着を羽織り、玄関へと向かって行く。
見惚れるような銀髪と、華奢な背中が遠ざかる。
少しばかり不意を突かれた渚は、若干慌てた様子で声を掛けた。
「ご飯、美味しかったよ。御馳走様。道中気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
渚の声に反応し、靴を履き終わったカティアは、振り返ってぺこりと一礼。そして踵を返すと「お邪魔しました」という言葉と共に、玄関の扉の先に消えて行った。
「……うーん」
「どうしたの」
「いや、なんか。……対応間違えたかなーって」
「そんなことはない。ナギサの対応は百点満点だった。悪いのはあのニンゲン」
「……そうかな?」
「間違いない」
「そうかなぁ」
機嫌良さげのピクシーの言葉に釈然としないものを感じながらも、渚はそれ以上の詮索をやめにした。
(考えても分からないし、まあいっか。明日、機嫌が悪そうだったら謝ろう)
一種の思考停止である。
▼
カティアはそれ以来、渚になにやら含む物がありそうな感じだったが、職務には支障がなかったので気にしないことにした。
そして日は流れ、結局イブの夜に渚が教会に顔を出すことは無かった。
ピクシーに七面鳥とケーキを丸ごと買わされて、その処理に四苦八苦していただけである。
明くる一二月二五日、純真無垢な子供が朝起きて枕元にプレゼントが置いてあってサンタさんが来たとはしゃいでいるだろう時間帯、クリスマスだろうが休日ではないし、ましてや冬休みでもないので渚はいつも通りの時間に自宅を出ていた。八時ちょっと前のことである。
(……なんか嫌な予感がする。……一応警戒しておこうか)
予感を感じながら気にしないでいたら、無抵抗のまま良いように操られてしまった苦い経験を思い出した渚は、COMPを操りピクシーを召喚し、意識を戦闘それへと移行した。
「……なにかあったの、ナギサ?」
人通りがあるからと、召喚された直後に外套の中に押し込まれたピクシーが、襟の内から見上げながら聞いてくる。
「なにもないよ。でも、何かありそうだから一応ね」
「そう」
小声でのやり取りは、街路の雑多な音に掻き消されて二人以外の耳には入らなかった。
根拠のない理由だったが、渚の勘は良く当たるとこれまでの経験で実感していたピクシーは、それ以上何も言わずに警戒にあたった。
特に何事もなく数分が過ぎて、何も感じられないピクシーには渚の杞憂だったのかと考え始めた頃。
渚だけが感じていた『何か良くない事が起こる』という感覚は、もはや確信の域にまで高まっていた。
――そして、崩壊の序章はやってくる。
日本時間の一二月二五日朝八時、中央ヨーロッパ時間では一二月二五日深夜〇時。魔界からの侵攻は始まった。
全世界の一〇〇万都市を対象とした、平均レベル四〇の中級悪魔による地球侵攻である。
それは、渚の住む札幌も対象となっていた。
「あれは……」
空に、黒い孔がぽっかりと開いた。
今まで感じたことのない強力な魔力の波動が孔から漏れて伝わってくる。
札幌にある巨大なサーバーでも利用しているのか、それは渚の見たどんなゲートよりもしっかりとしたつくりに感じられた。
周囲の人々も異常を見つけたのか、呆けたように空を見上げている。
漏れ出る悪魔の存在感に圧倒されて、人々には超常現象を目にした時のようなざわめきは無く、ただただ静寂が辺りを支配していた。
そして、悪魔はぬっと黒い孔から姿を現した。
鬼のような形相をした大男が和風の甲冑を身に纏い、現世での力を確かめるように手に持った槍を一振りする。
強烈な烈風に、近くにあったビルの窓が粉砕された。
ガラスが割れる甲高い音に再起動を果たしたのか、周囲の人々は悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。
遠目からでも伝わってくる強烈な存在感に恐慌を起こしているのである。
恐らく四天王の内の誰かだと思われる悪魔は、逃げ惑う人々を見て舌なめずりするように笑うと地上に降り立った。
悪魔が人の群れに飛び込んで、やることといったら一つしかない。
虐殺が始まった。
「……まずは、現状把握かな。皆と合流しよう」
「……うん、情報は大事」
飛び掛かってこられてなし崩しに戦闘が始まることを覚悟していただけに、渚は若干拍子抜けしながらも冷静にこの異常事態に対処しようとしていた。
今も犠牲になっている人達には悪いが、侵攻の規模を把握する前に勝てるかどうかも分からない強者を相手に戦闘に入るのは愚策過ぎた。
仮に悪魔の出現はここだけだとしたら、応援が来てから準備万端で攻めかかればいいし、あちこちで同様の事が起こっているのだとしたら早急に現有戦力で対処すればいい。
今のところ、強力な悪魔が一匹やってきているだけで、他の電子機器からは悪魔が湧いてくる様子は皆無である。
そんな想定など事前にしていなかった為、正確な状況を把握する為に情報収集を優先するのは正解と言えた。
(COMPは……使える。本気だったら電子機器は全部駄目にするだろう。となるとこれは本格的な侵攻ではない?)
仲間が集まっているだろう職場に人で溢れる道路を避けて、建物の屋根を飛び跳ねながら急行する。
もはや超人的な身体能力を衆目に晒すことなどお構いなしだった。
悪魔の存在が最低でもこの街に住む人間の殆どに知られた以上、超常的なモノの存在を隠し通すことは不可能であるからだ。
普段通り歩いていたら数分はかかっていた職場までの距離を、今日の渚は僅か十数秒で踏破した。
乱暴に扉を開け放って強引に屋内へと侵入する。
いつも静かな職場では、電話先に怒鳴ったりパソコンを必死で操作したりと、皆が忙しそうにしていた。
とはいえ、遠慮していては欲しいモノが手に入るまでどれだけかかるか分からない。
「状況は!?」
とりあえず、大声を出して自己主張をしてみた。
間違いなく渚の力が必要とされている状況で、無碍にはされないだろうとの判断もある。
だが、悪魔が出現してから二分と経っていない現状で、その要求は無茶振りすぎた。
渚のことには気づいた職場の人達も纏まった情報を持っておらず、皆困った顔をして顔を見合わせていた。
「――強力な悪魔がこの街に出現したことは知っていますね?」
そんな中、奥の方でパソコンに向かっていたカティアが、画面から振り返ることもなく言葉を発した。
「うん。ついでに言えば奴は今、中央区辺りで食事中だよ」
「そうですか……。同様の現象が人口の多い都市で発生しているようです。海外からの報告もあり、まだ確認は出来ていませんが恐らくは全世界規模で」
「悪魔の大量発生が確認された場所はある?」
「いえ、今のところはありません。電子機器の大半も無事のようです」
「この街の近くに同様の出来事が発生した場所は?」
「北海道では札幌だけのようです。本州にはいくつか。大陸ではうじゃうじゃと」
「なるほどね」
二人の会話に耳を傾けていた職場の人間の殆どが、あまりの規模の大きさに絶望で言葉を失っていた。
だが、もっと最悪を考えていた渚にはカティアの言葉は朗報にすら聞こえていた。
「なら、僕らは好き放題暴れてるあの悪魔をぶっ殺せばいいわけだ」
「ええ。他に応援に行くにしろ、まずはこの街のことを片づけなければいけないでしょうね」
我が意を得たりと言わんばかりに抑揚に頷いて立ち上がったカティアは、仕事道具が詰まったバッグを抱えると渚の方へと歩き出した。
それを見た渚も、踵を返して出口へと向かい始める。
「ちょ、ちょっと待て! 今から向かうつもりか!?」
電話で何やら会話をしていた上司が、二人を慌てて止めに入った。
実力はカティアにすら劣るが、指揮系統的には上に位置する上司の為、対応の為に二人は足を止めて振り返る。
もっとも、渚の顔にははっきりとうんざりしたような色が浮かんでいたが。
一方、至って冷静といったカティアは質問へと答えた。
「そのつもりですが?」
「馬鹿な。いくらなんでも我々だけであの悪魔にかなう訳がない。ここは周辺からの応援を待ってだな……」
「ん、待って。もしかしてこの周辺に僕らに匹敵するレベルの人間がいるの?」
気になる言葉を耳にして、渚は咄嗟に口を挟んだ。
不躾な言動にカティアから鋭い視線が飛んでくるが、何食わぬ顔で無視をする
「い、いや、流石にそこまでの手練れはいないが、それでも周辺の戦力を結集すれば――」
「ああ、君。ちょっと勘違いしてるみたいだね」
「……何?」
色んな意味であんまりな渚の言葉に、思わず上司の眉根が寄る。
「あの悪魔に挑むのは僕とカティアの二人だけだよ。それ以下の人はいてもいなくても変わらない。だから、皆にはいつも通り下級悪魔への警戒をしていてほしいんだけど」
「……馬鹿な」
上司は、その言葉を絞り出すように呟いた。
会話が途切れて、カティアが口を開く。
「渚、言葉遣いがなっていませんよ」
「……ごめん」
「謝る相手が違いますが……今は緊急事態です。それは後にしておきましょう。
室長、私も渚と似たような見解です。周辺から戦力を結集したとしても、あの悪魔を討伐できる確率が微かに上がる程度であまり効果的とは言えず、仮にこれが陽動だとしたら非常に危険だと思われます」
「だが……」
二人に説明されても未だに納得できない様子の室長に、渚は「この緊急事態に雑魚がごちゃごちゃとうるさい」とイラッとくるのを押さえられなかった。
「……はっきり言ってやろうか、邪魔なんだよ」
カティアに注意されたばかりの渚は、今度は上司に向かって決定的な暴言を吐き出した。
「あのレベルの悪魔だと前衛が務まるのは僕しかいないだろうから、集められた人達は必然的に全部後衛になるわけだ。で、共闘経験もないそいつ等を守りながら、僕は誤射の危険に怯えて遥か格上の悪魔と戦うの? 冗談じゃないね」
「だが、それで悪魔が斃せるのなら……」
「はっ」
室長は言葉尻を濁したが、心の中で続けた言葉は『悪魔が斃せるのなら多少の犠牲はやむを得ない』といったところだろうか。
使命感で動いているように見せつつも保身を感じさせる言動に、渚は鼻で笑って見せた。
「カティアの説明を聞いてなかったの? ここと似たような状況は世界中で起こってるわけだ。そんな中で、人類最高峰の才能を持った僕をすり潰して一匹の悪魔を仕留める? 正気とは思えないね。
……察するに君は――」
「渚!」
臆病者とでも直接的に罵りそうな渚の気配を察知して、遅まきながらもカティアは止めに入った。
だが、渚はその制止を無視する。
「……君は、恐怖でおかしくなっていると見える。あの悪魔のことは僕とカティアに任せて、ゆっくり休んでいるといいよ」
突き刺さる視線に遠慮して、考えていた言葉を若干オブラートに包みこんで告げた渚は、悠然と室内から去って行った。
カティアも渚の代わりに軽く一礼すると、後を追う。
今度は、二人を止める者は誰もいなかった。