天才兎に捧ぐファレノプシス   作:駄文書きの道化

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「……ぅ……?」

 

 

 うっすらと開いた目に光が差し込み、呻き声を上げてエムは目を閉じた。なんとか光に慣れた瞳で景色を映すと見慣れない天井が見えた。寝起きでぼやけた頭はまだ正常に動いていないのか、ぼんやりと天井を見上げる。

 自分はどうなったのか、とエムは記憶を掘り起こそうとする。だがエムが全てを思い出す前にエムの顔を覗き込むように誰かが顔を見せた。

 

 

「あ、気が付いた?」

「――」

 

 

 目した顔。それがどことなく“自分と似ている”。その事実が一気にエムの意識を覚醒させた。エムは勢いよく身体を起こして自分の顔を覗き込んできた少年へと掴みかかった。

 

 

「ハル・クロニクル……ッ!!」

 

 

 憎悪すら篭めてエムはハルの首に手をかけようと伸ばす。だが、ハルもまたエムの反応を予想していたのか、手を掴んでベッドに押し倒すように抑え付ける。藻掻こうとするエムだったが、ハルの拘束が強くて逃れる事が出来ない。

 エムを必死に押さえ込みながらハルはエムを見つめた。どこか辛そうな表情で、だが覚悟を決めたようにハルはエムを見た。

 

 

「……エム、で良いかな? 暴れないで欲しい。君の体内のナノマシンが機能停止してても、まだ何かあるかわからないんだ」

「何だと……!? ここはどこだ!? 何故貴様がここにいる!? 私をどうするつもりだ!?」

「それを聞きたかったら大人しくしてくれ……。ISが無い君が、ISを持つ僕に勝てる訳がないだろう?」

 

 

 ハルの強い眼差しを受け、エムは苦々しそうに歯を噛みしめる。舌打ちを零し、身体の力を抜く。抵抗が緩んだ事からか、ほっ、と安堵の息を吐いてエムの拘束を解く。

 ベッドに腰掛けるようにしてハルはエムを見つめた。エムは上半身を起こしてハルを睨み付けている。揺るがない敵意と瞳の奥で燃える憎悪の炎が見えている。ハルは眉を寄せながらも、息を整える。

 

 

「ここは高天原。僕たちの船。その医務室だ。ロップイヤーズの事は知っているだろ?」

「ここが……!? ……何故、ここに私が?」

「スコールって奴が君を僕等に引き渡したんだ。もう君を縛るものは何もないよ、エム。君の体内のナノマシンもスコールが処置してくれていたみたいだ。亡国機業から君は解放された。……君の事はスコールから渡された情報から全て窺ってる。僕の成功作である君の事を」

 

 

 成功作、という言葉にエムがハルを睨み付ける。もしも視線だけで人が殺せるならハルはもう何十回も殺されている事だろう。それでも真っ向からエムと向かい合い、エムから視線を逸らす事はしない。

 

 

「……そうだよ。お前のコードは忘れたがな、知っているよ。失敗作」

「君はMだからね。僕は……何だったかな? データでも掘り出せばわかると思うけど。ただ僕の方が先に造られたんじゃないかなって思うよ?」

「そんな事はどうでも良い!! 私は憎い。私のオリジナルである姉さんが憎い!! 姉さんが寵愛する織斑一夏が憎い!! だが、何よりも貴様が憎い……ッ!!」

 

 

 ハルの胸ぐらを掴みあげるようにエムは手を伸ばす。ハルは今度は抵抗しない。エムに胸ぐらを持ち上げられ、そのまま押し倒される。エムはハルに馬乗りになりながらハルを睨み付ける。

 今にも歯を砕かんばかりに歯を噛みしめ、憎悪に燃える瞳でハルを見下ろしている。

 

 

「何故、失敗作のお前が、自分だけの名前を貰って! 平穏な生活を享受する事が出来ている!? 私は、自分の名も無く、ただ道具として扱われた!! 何故だ!? 失敗作である筈の貴様がッ!! 姉さんの妹にもなれなかった貴様がッ!! 何故、貴様だけが恵まれる!? 何故貴様だけが愛されているッ!?」

 

 

 エムにとってハルとは認められない存在だ。認めてしまえばエムの存在の根幹が全て崩れてしまう。織斑 千冬のクローンとして生まれ、ISを扱う為の道具として扱われ続けてきた。人間としての扱いなど望める筈もない。

 なのに成功作とされた自分を差し置いて、失敗作で破棄された筈のハルが幸せを謳歌している。オリジナルである千冬がいるIS学園の生徒として迎えられている。それは理不尽なのではないか、と。エムの叫びにハルは悲痛そうに表情を歪める。

 

 

「……そうだね。僕は恵まれてるよ」

「……ッ!!」

「憎むのも道理だ。僕は君の欲しかったものをきっと全部手に入れている。――だから、君に手を差し伸べたいんだ、エム」

「施しのつもりか……!? 自分が恵まれてるからか!? ハハッ、良い身分だなッ!! 圧倒的な優位に立って私を見下して!! さぞ愉快だろうよ!!」

「……愉快なんかじゃないよ」

「巫山戯るなッ!! じゃあ、何故!? 何故私を救った!?」

「兄妹を助けようとして、何が悪い?」

 

 

 そっと、ハルはエムの頬に手を添えた。労るようにエムの頬を優しげに撫でる。エムは唖然としてハルを見た。

 

 

「……兄妹? 私と、お前が?」

「そういうもんでしょ? 僕等の関係って」

「馬鹿馬鹿しい!! 貴様は失敗作で、私が成功作だ!! ただそれだけだ!! 兄妹などという関係などではない!!」

「じゃあ何で君は千冬の事を姉って呼ぶんだ?」

「ッ……!?」

「……本当は、憧れてるんだろ? わかるよ。わかるんだよ、エム。僕だって“普通”に憧れたんだから」

「うるさい……!」

「……勿論、君が嫌なら遠慮するけどさ」

「うるさい……!!」

「それでも、助けたかったんだ。それだけなんだ」

「うるさい、黙れぇっ!!」

 

 

 ハルの手を払ってエムはハルの首に手をかけた。涙を零した瞳は困惑に揺れていた。憎悪に滾っていた瞳は潤んでいた。こぼれ落ちた滴はエムの頬を伝っていく。ハルの言葉を受け入れられない自分と、図星を突かれた自分がせめぎ合う。

 震えた手には力は入っていない。それでもハルの首を絞めようとする手は少しずつ、少しずつ力を込めていく。ハルが苦しげに眉を寄せてエムの手を掴む。

 

 

「エム……ッ!」

「その名で私を呼ぶなぁッ!! 私を惑わすなッ!! 死ねッ!! 死んでくれよ!! お前が私を狂わす!! お前の所為で全てが狂った!! お前が悪いんだ!! お前が悪いんだぁッ!!」

「――じゃあ、君は何て呼ばれたいんだ!?」

 

 

 エムの手を強く握りしめながらハルは叫ぶ。ハルの叫びにエムが怯むように身を震わせる。

 

 

「自分の名前が欲しいなら勝手に名乗れば良いんだよ。もう良いんだ。君を縛るものなんて何一つ無い。自由にして良いんだ。それで殺されてくれなんて叶えられないけど、君が幸せになる事を僕は願ってるし、望んでる。それが施しだって言うなら……幾らでも施してあげたい。そうしなきゃ伝わらないって言うなら何度だって言うよ」

「何をッ!?」

「――君を助けたいんだよ……! ただ、それだけなんだ……!」

 

 

 伝わってくれよ、とハルはただ叫ぶ。強く叫んだ事で息が荒れる事も気にせずに。苦しげに細められた瞳がエムを見据える。怖じ気づくようにエムは表情を歪ませる。

 ハルの首に添えていた手が震える。感情が暴走している。身体が震え、エムは首を振る。歯を強く噛みしめてハルを睨み付ける。

 

 

「ッ……なんだ、これは……! なんなんだ、これは! お前が憎いんだ! お前を殺したいんだ! なのにお前の言葉が私を惑わす! 助けたいだと!? そんな、そんな言葉が信じられるか!! 信じられるものか……!! 消えろ、消えろ……!!」

「……ッ」

「なんで力が入らない……!? なんで……ッ……!?」

 

 

 震える手に力は籠もらない。必死に手に力を込めようとしても上手くいかない。それが信じられない、という思いでエムは自分の手を見つめた。呼吸を荒くして、髪を振り乱すように頭を振りながら。

 力が緩んだ隙だった。ハルはエムの両手を首から離して勢いよく上半身を起こす。逆に倒れそうになったエムの身体に手を伸ばして強く抱きしめる。

 

 

「な……!? は、離せッ! 離せぇっ!!」

「離すもんか……!」

「離せぇっ! 離せ……! は、離せ……よぉ……!」

 

 

 エムは藻掻いていたが、ゆっくりと力を失ってハルの背に爪立てるように手を置く。それでもハルはエムを離さない。強く、強く、少し苦しい思いをさせるぐらいに。

 エムは嫌だ、と言うように首を振り続ける。例え力が入らなくても抵抗の意思は揺るがない。藻掻くエムにハルは表情を歪めながら語りかける。

 

 

「ねぇ? 聞いてくれないかな?」

「いやだ……!」

「お願いだ。君に伝えたい事があるんだ」

「聞きたくない……!」

「そんなに僕が憎いか?」

「憎いさ! なんでも持ってるお前が! これ見よがしに私に見せつけて来るお前が! 私を救うだなんて言う傲慢なお前が! 私には、何も無いのにィッ!!」

 

 

 エムが叫んだ瞬間だった。医務室のドアが開く。思わずハルとエムの視線が扉へと向く。するとそこに顔を出したのはエムと瓜二つな姿、織斑 千冬がそこに立っていた。

 思わず場の空気が固まる。エムは信じられない、と言うような表情で千冬を見つめ、千冬は僅かに困惑したように眉を寄せる。ハルは千冬の姿を確認すれば表情を緩めた。

 

 

「……む」

「……ぁ」

「……千冬、遅い」

「これでも急いだ方だ。現に一夏は置いてきた。……ところで、これは私が邪魔な雰囲気か? ハル?」

「むしろ必要だって。この分からず屋に教えてやってよ、僕じゃ嫌だとさ」

 

 

 エムの身体を離してハルは立ち上がる。どこか唇を尖らせて不満そうに、だがどこか安堵したように千冬を見る。千冬はハルが立ち上がったのを見て、ベッドへと歩み寄って呆然と自分を見つめるエムを見た。

 

 

「……ふむ」

「……ぁ」

「そっくりだな。まるで昔の私を見ているようだ。……だが、どうした? そんな迷子のような顔をして」

 

 

 くしゃり、と。エムの髪を撫でて千冬は問うた。自然とエムの髪を撫でている様には警戒の色は無く、ただ面白そうにエムを見ている。

 エムは千冬の手に驚いたように顔を上げた。どこか信じられないと言うように呆然と千冬の顔を見上げている。

 

 

「……迷惑をかけたな。私の所為で要らん苦労を強いたようだ。すまない」

「……ッ……! わ、私は……私はッ! 貴方が、貴方が憎いッ!!」

 

 

 千冬の言葉にエムは身を震わせて千冬の手を払った。先ほどのハルと相対した時のように身体を震わせながら千冬を睨み付けている。

 

 

「貴方が憎いんだ! 貴方を殺したい……! 私の存在を認めさせたい……!」

「……そうか。殺されるのは勘弁願おう。やるべき事がたくさん残っているのでな。それに存在を認めろと? 不思議な事を言う。お前はここにいるだろう? 認めるも何もない。だから、そんなに怯える事はない。自分と良く似た顔に人間は3人いるという。お前は2人目になっただけだ」

 

 

 エムの叫びに千冬はまるで何でもない、と言うように反応を返した。余りにも強かで不貞不貞しい返答にエムは目を見開いて千冬を見た。理解が出来ない、と言うように千冬を困惑の瞳で見つめる。

 

 

「どうした?」

「なんで……! なんで憎いって言ってるのにそんな平然としてられるんだ!? 私は殺したいんだ!! 憎いんだ!!」

「それでも殺そうとしていないだろう? ハルに何を言われたのかは知らんが、大体は予想が出来る。だから認めてやる。お前がここにいる事を。流石に殺されてはやれんが、それ以外で叶えられる願いがあるなら、可能な限り聞いてやろう」

 

 

 千冬は先ほど振り払われた手で再度、エムの頭を撫でた。再び頭を撫でる千冬の手の感触にエムは身を竦ませるように震えた。唇を震わせて、涙が浮かぶ瞳で千冬を見つめている。信じられない、とただ訴えるように。

 

 

「……わ、私、は……」

「何だ?」

「……私、は……!」

「ゆっくりでいいぞ。聞いてやるから、ゆっくりで良い」

「ッ……!! 私はッ!! 私は……!!」

 

 

 何度も私、と繰り返しながらエムはしゃくりを上げるように喉を引き攣らせた。言葉が出ない。感情が暴走して、身体の制御が出来ない。ただ溢れてくる涙を零しながら千冬を見上げる事しか出来ない。

 千冬はただエムの言葉を待っていた。それはまるで揺るがぬ大木のようで、安心感を覚えさせてくれる姿だった。エムは頭を撫でていた千冬の手に、己の手を重ねるように伸ばす。千冬はエムの手に気付いて、エムの手をしっかりと握りしめる。

 

 

「……ぁ……」

「……どうした?」

「……ッ! ……わ、私は……! あなたを……姉さんって、呼んで良いですか……? 私を、受け入れて、くれますか……!?」

 

 

 ようやく吐き出された言葉に千冬は困ったような笑みを浮かべる。伸ばされた手にエムは目を閉じた。そして気付けば、千冬に抱きしめられていた。

 千冬の手がエムの背中をリズムをつけて叩く。心臓と同じリズムは背を叩く手は溶け込むようにエムに伝わる。

 

 

「好きに呼べ。別に……手間のかかる妹が一人増えたぐらいだ。今更気にはせんよ」

「……いい、んですか?」

「お前は私の言葉が聞こえないのか? 私は同じ事を二度言うのは嫌いだ」

「……ッ、はい……! 聞こえ、ました……!」

「そうか。なら……良い子だ」

 

 

 千冬の言葉にエムは限界まで目を見開く。それが段々と細められ、エムは千冬に縋り付くように抱きつきながら泣き声を上げた。まるで赤子のように、人の目を憚らずに。開いていられないとばかりに固く目を閉じて、喉の奥から絞り出すような声を上げて泣く。

 そんなエムを千冬はただ黙って抱きしめた。仕方ない、と言うように笑いながら。そしてちらり、とハルへと視線を向ける。ハルは小さく頷いて、部屋を後にする為に入り口へと向かう。

 

 

「……あれ?」

「……よう」

 

 

 ハルが部屋から出ると、そこには一夏がいた。壁によりかかったもたれかかっている。どこか居心地が悪そうにしている姿にハルは思わず苦笑した。

 

 

「……出遅れたね?」

「元々、俺がかけられる言葉なんてねぇよ。……ただ」

「ただ?」

「……それでも受け入れてやるぐらいは、出来るから。待ってるんだよ」

 

 

 そっぽ向いて言う一夏。どこか恥ずかしげな姿にハルは笑みを浮かべて一夏の肩を軽く叩いた。肩を叩かれれば、一夏は一瞬だけハルへと視線を向けたが、やはり視線をハルに向けず、そっぽを向くのであった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 星が瞬く空、その空をハルは見上げていた。夜風が吹き荒ぶ場所は高天原の外だ。ハルは何をする訳でもなく、空を見上げてぼんやりとしていた。エムの事は千冬と一夏に任せた。自分の言いたい事は既に言い切っている。後は彼女次第だろう、と。

 すると光が瞬く。ハルのロケットペンダントが光り輝いて、雛菊が姿を現す。雛菊はハルと並ぶように立って、一緒に空を眺めるように視線を上げた。

 

 

「……ハル?」

「雛菊? どうしたの?」

「ハルは、あの子が気になるの?」

 

 

 あの子、というのはエムの事だろう。雛菊がじぃっ、と視線を向けてくるのを感じてハルは視線を雛菊へと落とした。案の定、雛菊が見上げてくる姿を見て、ハルは口元に小さく笑みを浮かべた。

 

 

「そりゃ気になるよ。僕と同じだから」

「違うよ。あの子は……ハルと違うよ」

「そうなの? 同じクローンなのに」

「あの子はあの子がある。……ハルは、もっと希薄だった」

 

 

 希薄、という言葉にハルは目を瞬かせた。雛菊はどこか不安げにハルを見ている。

 

 

「今は違うよ? でも……人と触れ合うようになって、雛菊はわかった。ハルは誰よりも私達に近かった。千冬に間違えるぐらいにハルは希薄だった」

「……人間じゃないみたいに?」

 

 

 こくり、と雛菊は頷いた。雛菊はハルの言葉を否定しなかった。ハルもわかっていたように雛菊の言葉を受け止める。

 

 

「皆、自分の色があるの。色んな色がいっぱい混ざり合ってその人になるの。だから人は人であっても同じじゃない。似ている色、違う色、新しい色、知っている色、人間は色んな色を持ってて、絶えず変化してる。……でもハルは違った」

「……そうかもね」

「ハルも色を持ち始めたよ。色んな色が見えてる。一番大きいのは、母への思いでいっぱいだけど」

 

 

 雛菊はハルに手を伸ばす。ハルの下げられていた手を握って雛菊はハルに告げた。

 

 

「大丈夫だよ、ハル。私の色は貴方が教えてくれた色。貴方が見える私は貴方。私は私でも、貴方でもあるの。だから……大丈夫だよ、ハル」

「……雛菊、僕は」

「ここにいて、ハルは人らしく笑えてる。うぅん……貴方は人だよ、ハル。誰かを愛して、誰かの為に泣いて、誰かの為に怒れて、誰かと一緒に笑えてる。だから間違いなくハルは人だよ。例え、敵であれば容赦なく斬り捨ててしまっても、それが人でない証明にはならない」

 

 

 核心を突かれたハルは表情を歪めた。亡国機業の拠点に潜入し、ハルは半ば躊躇いなく人を蹴散らした。EOSを纏った人ですらただの障害物と見なしたと自覚がある。

 それがどこか怖かった。いや、恐怖はいつだってどこかで感じていたのかも知れない。ただ今回の件と、束の件で自覚してしまっただけ。

 

 

「……雛菊。聞いて良い?」

「なに?」

「僕はこれからも束を愛する事が出来るのかな? いつか……愛する振りをして束を壊してしまいそうなんだ」

 

 

 あの日の夜、束を抱いた夜を思い出す。正直、得難い思いでいっぱいだった。だが同時に恐ろしくなったのだ。

 あまり思い出せば狂ってしまいそうで、ハルは左右に首を振って記憶を思い出すのを止める。片手で顔を覆うように隠して、重たい息を吐き出す。

 愛する者と、愛せない者との境界線がハッキリしていて、愛せない者にはとことん愛がない。まるで路傍の小石のように、踏みつけたとして何の罪悪感を得る事が出来ない。

 そして逆に、愛する人はどうしても手に収めておきたいと言う欲求がある。束の為に尽くして生きて、それが幸せだと思っていた。それは違うと気付いた。自分も束を愛する事で幸せだった。愛される事が幸せだった。だからこそ束が愛おしい。――時折、壊してしまいたくなる程。

 

 

「……愛おしいから、壊すの?」

「失うぐらいなら、せめて自分の手で。……雛菊にはわからないかな」

「わからない。愛おしいなら守りたい。なのに……壊したいというハルがわからない」

「不安なんだ。束の心が僕から離れてしまうのが。そんな事無い、そんな事を思うぐらいなら近づけるように努力すれば良い。……でも、報われる事を望んだら壊してしまいたくなるんだ。束には夢があるから。その夢も大事なものなのにさ」

 

 

 夢を追う束の姿が好きで、叶って欲しくて努力してきた。だがその裏にある思いが応援だけではなかった事を自覚した瞬間、少しずつ狂い始めて来た。

 その揺らぎが人間なのだから、と言われればそうなのかもしれない。その揺れ幅がどうしようもなく大きく無ければ、それで良かった筈なのに。

 

 

「極端なのは自覚してるんだ」

「だから何も望みたくない?」

「それでも望んでいる自分がいるんだ」

「だってそれはハルの望み」

「でも、叶って欲しくない望み」

「でも望みを知ってしまったら戻れない」

「だから僕は自分が怖い」

「怖いけど離れられない?」

「失うぐらいなら、全てを壊してでも」

 

 

 口にして自覚する。うっすらと汗が浮かび上がってくる。それは自分の心の奥底にある際限ない黒い欲望だ。刹那的な、一瞬の悦楽を求めている。そんな自分がいる事がどうしようもなく恐ろしい。

 いつかこの思いが表に出てきてしまった時、気付けば愛おしい者が全て壊れてしまうんじゃないかと、それがただひたすらに恐ろしいのだと、ハルは唇を噛んだ。

 雛菊はそんなハルを見て、ハルの手を引いた。せがむように両手を伸ばす雛菊にハルは雛菊に手を伸ばして抱き上げる。腕の中に収まった雛菊はハルの目を真っ直ぐに見つめた。

 

 

「狂うのが怖い? ハル」

「怖いさ。束を壊してしまいそうだからね」

「そっか。……でも、良いんだよ?」

「……雛菊?」

 

 

 うっすらと雛菊は笑みを浮かべた。どこまでも優しく、どこまでも穏やかに。

 

 

 

「――その時は、一緒に狂ってあげるから」

 

 

 

 天使のような微笑みで、狂気を口にした。ハルは呆気取られたように雛菊を見る。

 雛菊はただ微笑みながらハルに唇を寄せる。ハルの頬に口付けて囁くように雛菊は言う。

 

 

「一人にしないよ、ハル。絶対に……例え、母を壊しても」

「……雛菊?」

「だって――それが愛なんだよね?」

 

 

 だから、と雛菊は一度目を伏せる。どこか困ったような笑みに変えて雛菊は言う。

 

 

「私が、怖い?」

「……怖かった」

「うん……。だから忘れないで。私がハルを繋ぎ止める楔になるから。でも、もしも貴方が壊れる時が来たら、一緒に壊れてあげる」

「雛菊……」

「それが、私の愛し方だから。ハルが教えてくれた。だから私はハルを愛するよ」

 

 

 それはハルへの肯定。例えどんな狂気に侵されようとも、それが愛ならば愛して見せよう。そしてそれを恐怖するならば、繋ぎ止める楔となれるなら幾らでも狂気を晒そう、と。雛菊はただ笑う。

 そんな雛菊をハルは強く抱きしめた。震えは消えていた。ただ愛おしげに雛菊を撫でる。申し訳なさそうに表情を歪めて、ただ縋るように。

 

 

「……ごめん、雛菊」

「良いよ」

「ありがとう。絶対に、君を狂わせないよ」

「私も、だよ。ハル。――約束だよ?」

 

 

 雛菊が唇を寄せる。ハルの唇へと寄せられた熱は人肌のものとは違う。触れ合うだけのキスを残して、雛菊はそっと微笑んで待機形態へと姿を戻した。ロケットペンダントへと戻った雛菊がハルの胸元で揺れる。

 暫し、ハルはその場に立ち竦んでしまった。そして顔を上げると、歩み寄ってくる人影に気付いた。ハルはその人影を見て、ふっ、と和らいだ笑みを浮かべた。

 

 

「……束」

「やぁ。……こんな時間までここで何をしてたの?」

「……雛菊に人生相談、かな?」

「人生相談?」

 

 

 距離を詰めた束が並ぶように立つ。星は未だ瞬いている。月が柔らかい光を放ち、空を照らしている。ハルはぼんやりと視線を向けていたが、ふと、束へと視線を向けた。

 束の髪を夜風が揺らす。月明かりに照らされた束は美しかった。思い焦がれるように空に視線を向ける束の姿にハルは目を奪われる。思いが入り乱れる。伸ばしかけた手が震えて、結局伸ばせないまま。

 

 

「ハルは、さ」

「……?」

「本当に極端だよね。傍にいてくれるのに、一度離れたら遠くに行っちゃう」

「……そうかな?」

「そうだよ。……ちょっと期待したのにな?」

 

 

 目を細めて妖艶に笑む束に目を奪われる。それが何を意味するのか理解して、ハルは顔を赤くして束から視線を逸らした。腕を絡めるようにして取られる。押しつけられた柔らかい感触が嫌でもあの夜を思い出させて、ハルは身を硬直させた。

 

 

「……怖いの? 私を傷つけて、雁字搦めにしてしまうのが」

「……ッ」

「ハルはわかりやすいなぁ。……そしてお馬鹿さんだよ?」

「え?」

「それは私が一度通った道だよ? それをハルが止めてくれたのに、どうして今度はハルが悩んじゃってるかな? 束さんには不思議で仕様がないよ? それとも……ようやく、それだけ本気で愛してくれるようになったのかな?」

 

 

 ハルに顔を寄せて束は微笑む。心底嬉しそうに笑って、ハルの頬に手を添えた。

 

 

「ねぇ? ハル。ハルの夢を教えてよ」

「僕の夢?」

「ハルは私の夢を一緒に見てくれた。でも、それはハル自身の夢じゃないよね?」

「そう、かな? それは僕の夢だよ」

「私と一緒にいてくれる為の、ね。だから……ねぇ、ハル。私にハルの夢を頂戴? ハルと一緒にいる為の夢を」

 

 

 腕を絡めていた手を離し、ハルに抱きつきながら束はハルを見る。束に抱きつかれるままだったハルだったが、束の言葉にゆっくりと瞳を伏せて、束を抱きしめるように手を伸ばす。

 腕に抱え込んだ束を離さないように。そのまま閉じこめてしまうようにハルはきつく束を抱きしめる。

 

 

「……凄い我が儘な夢だよ?」

「うん」

「束が欲しいんだ。束に愛して貰いたい。束にずっと見て欲しい。……ずっと、閉じこめていたいぐらいに愛してる」

「……うーん、重たいなぁ。ハルの愛は重たいよ」

「……ごめん」

「良いよ。そうしたのはきっと私だから。私もそうしてハルを縛ったから。だからきっとお相子なんだよ。だからハル? ちゃんと言うよ? 私は、その願いを全部は叶えてあげられない。ずっとは無理。でもね? ――言ってくれて良いんだよ。それでも全部、受け止めるから」

 

 

 好きにして良いんだよ? と。囁くように呟かれた言葉に、ハルは諦めたように束の首下に顔を埋めた。そうしなければ真っ赤になった顔を見られてしまう事が間違いなかったから。

 そんなハルを愛おしげに束は抱きしめる。何度も、何度も。あやすようにハルの背中を撫でながら。

 

 

「……束」

「なぁに?」

「何度離れても、君を捕まえに行くよ」

「ふふっ、好きにどうぞ。捕まえてみてよ、私を、さ? 狼さん?」

「……僕が狼なら、束は挑発的な兎だよね」

「べぇ、だ。私はね? 我が儘なんだよ、ハル。だから……求めて欲しいんだよ。束さんは」

「……そう。じゃあ、一生追い続けるよ。ずっと、ずっと。何度逃げられても、何度だって捕まえて見せるから」

「一生、誓ってくれる?」

「一生、誓うよ。君の傍にいる為に」

 

 

 舌を見せるように笑む束に、ふて腐れたようにハルは唇を尖らせた。顔の赤みは引かない。それでも束と真っ正面に視線を合わせて向かい合う。

 二人の距離がゼロになる。満点の星が輝く空の下、重なった影。見守っていた星が1つ、空に軌跡を描いて落ちた。




「ハルを守るよ。これからもずっと。母との約束。ハルとの約束。約束が私の全て。私は……守るよ」 by雛菊

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