天才兎に捧ぐファレノプシス   作:駄文書きの道化

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Interlude “アイのカタチ”

 一夏は息を整える。心をただ静かに。慌てる事はない。怯える事もない。

 相手に合わせて自らの位置を変える。足取りもまた静かに、確実に床を踏みしめる。意識を集中させていけば雑音も耳に入らない。自分の息遣いと心音、そして相手の呼吸。それだけがクリアになって耳に届くだけ。

 視界に映る景色もまた同じく。動いている相手と、相手に剣先を向けている竹刀だけを見る。ぼやけて歪んでいく景色の中、動いている相手がはっきりと見える。

 相手の呼吸を計る。リズムを取るように一定に吐いている呼吸を聞き分ける。そして、リズムが崩れるその一瞬。その一瞬を待ち侘びていた一夏は目を見開いて一歩を踏み込んだ。

 

 

「――めぇぇええええんっ!!」

 

 

 竹刀の打つ音が高らかに響き渡り、クリアな世界を終わらせた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「やったぜ! 織斑! 優勝だってよ!? まさか俺達団体戦で優勝って、なぁ!?」

「いてぇよ! やめろって、皆で頑張った結果だって!」

 

 

 一夏は現在、剣道部として最後となる大会に臨んでいた。一時期、死んだ屍のようになっていた一夏。しかし復帰後は変わらず、部活で活躍を続けていた。

 一夏が頭角を現して実力を発揮し出すと、負けじと周りの部員達も努力した。その理由が女の子にやたらとモテる一夏を倒したい、という願いと、織斑に勝てればモテるかもしれない、という願いから来るものなのだから、不純も良いところではあるが。

 だがそれも最後が近づいていくにつれて、そんな不純な気持ちも無くなっていった。最後だからこそ有終の美を飾りたい。そう思う気持ちは誰もが一緒だった。

 そんな皆が勝ち取った団体戦での優勝という結果。これ以上にないぐらい最高の結果だった。

 後、残すのは表彰式ぐらいだろう。大会ももう終盤だ。そんな時だ。部員の一人が思い出したように呟きを零した。

 

 

「そういやさ、さっき女子の個人戦でめっちゃ凄い強い女子いたよな」

「ん? そんな奴いたのか?」

「あぁ。……あ、ほら! あの子」

 

 

 指で示された方を見て一夏は視線を向けた。そして目に映した姿に一夏は記憶が刺激された。

 黒髪はポニーテールに纏められていて、剣道着を着る姿は見事に様になっている。見えた横顔は、“記憶”よりもずっと大人びていた。

 

 

「……悪い、ちょっと行ってくるわ。荷物、頼む!」

「は? お、おい? 一夏?」

「知り合いかもしれない!」

 

 

 “彼女”は廊下を曲がろうとしている。このままでは見失ってしまうと一夏は走るスピードを上げた。

 角を曲がれば“彼女”の背が見えた。一夏は呼び止めるようにその背に声を投げかけた。

 

 

「箒!」

 

 

 一夏の声に“彼女”は足を止める。そして弾かれたように後ろへと振り向いた。

 ポニーテールが振り向いた勢いで流れ、一夏へと向けられた顔は驚愕の色に染まっている。信じられない、という表情を浮かべる姿に一夏は笑みを浮かべた。

 

 

「良かった。人違いかとだと思ったぜ。――久しぶりだな、箒」

「……一夏……?」

「忘れたか? 一緒に道場で――」

「……一夏?」

「……おい? 箒?」

 

 

 呆けたようにただ一夏の名を呟く箒に一夏は眉を寄せた。

 

 

「……何故、ここに?」

「そりゃあ剣道部だからな」

「そう、なのか」

「おう。団体戦1位だぜ。見てなかったのかよ?」

「丁度私が試合していた頃だろう……。そうか。お前も剣道を続けていたのか」

 

 

 良かった、と。花が咲くように箒は笑った。心の底から嬉しそうに、目を細めて再会を喜ぶ姿に一夏は思わずドキリ、とさせられた。

 綺麗になった、と。記憶の中で子供でしかなかった箒の姿が、今の印象に塗り替えられていく。

 

 

「……綺麗になったな」

「なぁ!? ……っ、そ、そうか?」

「あぁ。その、吃驚した」

 

 

 こんなにも変わってしまうものなのか、と一夏は驚いていた。一夏に褒められた箒はどこか落ち着かないように一夏の言葉を反芻させていた。

 

 

「い、一夏!」

「お、おう?」

「私はまだ次の試合まで時間があるんだ。……少し、話せるか?」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 篠ノ之 箒の心は浮ついていた。その理由は思わぬ再会をしてしまった為だ。今、箒の隣には一夏が座っている。

 織斑 一夏は箒の幼馴染みであり、一番仲が良かった友だった。そして……自分の初恋の人だった。

 別れるまでは共に剣を振るっていた。箒は自分も認める程に不器用な人間だ。人との付き合いも苦手であれば、着飾るよりも竹刀を振るっている方が好きだ。

 だからこそ友に恵まれなかった箒にとって、一夏は誰よりも近しい存在であり、心惹かれた。彼は優しく、そして強かったから。

 だが、彼とは唐突に別れてしまう事となる。別れる経緯に色々と理由があるのだが、今は良いだろう。箒は一夏と再会出来た事が奇跡のように思えていたから。だから今はそれで良い、と。

 

 

「一夏は元気にしていたか?」

「ん? まぁな。っていうか、今更聞く事か?」

「気になるだろう。お前と別れて5年か。早いものだな」

「あぁ、もうそんなに経つのか」

 

 

 箒の呟きに一夏が頷く。もうそんなに経つのか、と振り返ってみれば本当に長い時間のようにも思え、あっという間の短い時間だったような気もする。

 箒にとっては色彩を欠いた生活だった。唐突に引き離される事となり、激変した環境は箒から世界の色を容易く奪っていた。くすんでさえ見える灰色の世界は、ただ退屈だった。

 

 

「箒こそ、なんか大変だっただろ?」

「まぁな……。だがもう慣れた。慣れてしまった」

 

 

 辛くなかったなんて言えない。むしろ辛いことばかりで、だからこそ辛い事には慣れてしまった。何も感じない事を覚えてしまった。だからといって痛みが無くなる訳でもなく、箒はただ苛まれ続ける日々を送っていた。

 

 

「一夏はどうなんだ? 何か変わった事とかあったか?」

「……あぁ、あったな」

「……一夏?」

「なぁ、箒」

 

 

 一夏は態勢を変え、箒を正面から見据えるように見た。一夏の浮かべている表情はとても真剣な表情で思わず箒が戸惑ってしまう程だった。

 

 

「……お前さ、彼氏とか出来たか?」

「は? ……いや、いないぞ!? お前はいきなり何を聞くんだ!?」

「そ、そうか……。そうか……」

「……なんでお前は肩を落としているんだ?」

 

 

 一夏の質問が予想外で困惑してしまったが、並々ならぬ一夏の様子に心配になった。肩を落とし、深々と溜息を吐く様は明らかに落胆されていた。

 彼氏がいない事に落胆した? まったくもってわからない。何故一夏が落ち込んでしまうのか、わからないまま箒はただ一夏の言葉を待った。

 一夏は眉を寄せながら悩んでいた。こんな顔を浮かべるようになっていたのか、と軽い驚きと共に箒は一夏を見つめる。

 

 

「……箒は、好きな奴とかいないの?」

「な、何なんだ、さっきからお前の質問は!? な、何故そんな事を聞く?」

「俺さ、告白されたんだよ」

 

 

 箒は息を呑んで固まった。

 誰が告白された? 一夏が? 誰かに? その事実が浸透してくると箒の背筋に冷たいものが走った。一瞬、震えそうになった身体を押さえつけて箒は笑みを浮かべた。

 

 

「……そう、か。お前も、見ない内に色恋沙汰の話をするようになったのか」

「……返事はしてないんだけどな」

「何!? お前、告白されたのに無視をしたのか!?」

 

 

 それは聞き捨てならん、と箒は一夏に向き直った。告白されていた、という事実はショックだったが、それでも告白の返事をしないのは男らしくない、と咎めようとすると一夏は力なく首を振った。

 やはりおかしい、と箒は眉を寄せた。昔の一夏は言ってしまえばもっと脳天気だった。悩んでいる姿など見たことが無く、許せない事があれば許せないと良い、真っ直ぐに向かっていく。そんな一夏が迷っている姿を見せているのに箒はただ困惑する事しか出来ない。

 

 

「違うんだ。……わからないんだ」

「わからない?」

「そいつってさ。箒が転校していった後に転校してきてんだ。凄い良い奴なんだ。普通に可愛い奴だな、って思える奴さ。実際、人気はあったりもしたらしくてさ」

「……そう、なのか。じゃあお前は少なからず良い奴だと思っていたんだな?」

「あぁ。そうさ。胸を張って大事な友達って言える。……そいつから告白されてからさ、俺ずっと考えてるんだけどさ。わからないんだ」

「……? 一体何がだ?」

「人を好きになるのはわかる。良い奴だな、って思った奴はきっと好きなんだと思うし。だけど……なんて言うんだろうな」

 

 

 一夏は頭を抱えるように手を乗せて髪をかき混ぜる。視線を俯かせながら言葉を探しているが、見つからないまま唸っている。

 

 

「……彼氏になるとか、彼女になってもらうとか実感がなさ過ぎて、感情が沸かないんだ」

「感情が沸かない?」

「……あー、その。キスしたいとか全然思わない、とか。恋人になるんだろ? だったらデートとかさ、その、本当に仲が良かったら結婚とかするんだろ? ――全然わかんないんだ」

「……一夏?」

「考えようとすると頭が真っ白になって、そこから先に進まないんだ。誰から何を聞いても」

 

 

 ようやく上げた一夏の顔は眉間こそ寄せられていたものの、まったくの無表情だった。思わず箒はぞっ、と背筋に怖気が走るのを感じた。

 一夏の表情を見て箒はこう思った。抜け落ちている、と。まるでパーツを無くしてしまったかのようだ。箒に見られたまま、一夏はただ言葉を続ける。

 

 

「付き合ってみたい、とか。女の子に触れたい、とか。思わないんだ」

「……その、一夏。……お、男に興味があるという訳ではないよな?」

「それはねぇよ! やめてくれよ!! 皆そう言うんだぜ!? お陰で暫く引かれたわ!!」

 

 

 思い出したくない! と一夏は別の意味で頭を抱えてしまった。何か嫌な記憶でも掘り起こしてしまったのだろうか。ひたすら、ホモじゃない、ホモじゃない! と呟き続ける一夏に箒はなんだか申し訳ない気分になった。

 

 

「じ、実際女の子にドキドキはするんだぞ! その、その……そういう、本とかにはな?」

「わ、私の前でお前は何を言っているんだ!?」

「わ、悪い!」

「デリカシーを弁えろ! そういう所は相変わらずだな!」

 

 

 互いに息を荒らげて肩で呼吸する。ここが人通りの少ない場所で良かった、と箒は心底安堵した。ヘタに女子にでも聞かれようものなら一夏は当然、自分まで妙な烙印を押されかねない。

 とりあえず呼吸を落ち着ける二人。呼吸を落ち着かせて、手元にあった飲み物を喉に通して気を落ち着かせる。

 

 

「……とにかく、お前は恋人になる、という事にまったくの実感が無くて戸惑っている、と?」

「そうなんだよ。……なんか、怖くなるんだ」

「怖い?」

「だって何もわからないんだ。好きになって貰っても、俺はそれに何も返してやれない」

 

 

 好きになって貰ってるのに、と一夏は呟く。

 その呟きを耳にした箒は目を見開いて、そして納得した。そして同時に呆れ果てた。

 

 

「馬鹿者」

「え?」

「何故返す必要がある?」

「だって……」

「好きになるのは人の勝手だ。それをいちいち重く受け止めすぎるな。だから思考が止まるんだ」

「でも……!」

「義理堅いのは良いが、無理な事はしなくて良いんだぞ? お前はきっとお前を好きになった子の気持ちに誠実に向き合わなきゃ、等と思っているんだろ?」

「……なんでわかるんだ?」

「子供の頃から一緒だったんだ。お前の事など手に取るようにわかる。お前は真面目すぎるんだよ」

 

 

 一夏も人をからかったりすれば、茶化したりもする。そんな子供っぽい一面もある。馬鹿で間抜けめ、と思う事もある。どこか抜けたこの男に苛々させられた事など、数えても数え切れない。

 だけど一夏は一本これだと決めた事は筋を通すのだ。やると決めた事は絶対にやり遂げる。それが一夏の長所だと箒は知っている。だが、今はそれが仇となっている。

 

 

「確かに好きになったら好きになって欲しい、って思うさ。相手に特別に見られたい、思って欲しい。そう思うのは当然だ。けど、それが全てじゃない」

「……そういうもんなのか?」

「好きになったらもう理屈じゃないんだ。そいつが好きだから。だから一緒に居たいって思うし、キ、キスだってされたいと思うさ。結婚まで考えてくれるなら本当に幸せかもしれない。だからお前は間違ってないんだが、な」

「……だったら、なんで俺は馬鹿なんだよ」

「お前が苦しんでどうするんだ? 好きになったらお前を苦しめなきゃいけないのか? ――それなら私はお前を好きにならない」

 

 

 箒は真っ直ぐに一夏を見据えて言う。一夏は箒に向けて驚いたような表情を向けている。だが、箒はただ思うままに言葉を紡ぐ。

 

 

「好きなんだ。なのに苦しめているなら諦める。それがその人の幸せなら諦められる」

「そんなの……悲しいじゃないか」

「報われるばかりが恋愛じゃないさ。好きになってもどうしても離れなければならない事がある。そんな時は言いたくなくなるさ。もしも相手が思ってくれたら自分も辛いし、相手に辛い思いをさせるからな」

 

 

 箒の言葉で一夏の脳裏には鈴音の姿が蘇る。一夏には言いたくなかったと叫んだ姿が。告白のやり直しを約束しようとして後悔していくように言葉を無くす姿が。浮かんでは消え、一夏の心にすとん、と落ちていく。

 傷つけたくなかったから。当然、鈴音も悲しかっただろう。だけどもし想いが通じ合ってしまえば、残酷なまでの別れが待っている。だから言えなかった。だから言いたくなかった。

 お前もそうだったのか? とここに居ない鈴音に一夏は問いかけたかった。

 

 

「好きになったらどうしようもない。けど、だから諦められるんだ。その人が大事だから。お前に告白してくれた子は何か言っていなかったか?」

「……俺は、待ってるって言ったんだ。そいつは日本から離れていなくなるから。だけど待ってる、って。でも鈴は待たなくて良い、って。ただ忘れないで、って」

「……そうか。だったらその子はお前の事が好きだったんだろう」

「……そう、なのかな」

「あぁ。本気でお前の事が好きだったんだ。お前が好きだったから、お前を傷つけたくなくてそう言ったんだ。自分が原因でお前の幸せを潰したくないから。だけどそれでも……お前に忘れられたくなかったんだ。お前が好きな女の子がいるんだぞ、と」

 

 

 はぁ、と溜息を吐いて、箒は目を閉じた。

 

 

「悔しいな」

「え?」

「……すまない。一夏」

 

 

 箒は、きゅっ、と唇を一文字に結んで一夏と向き直る。既視感を覚える光景。箒の表情が何故か、鈴音の表情と被った。

 

 

「私も、お前が好きだったんだ」

「……――」

 

 

 呼吸が止まった。文字通り息が出来なくて苦しくなる。箒しか見えなくなって、ようやく吐き出した息は震えていた。

 そんな一夏に申し訳なさそうに、それでもどこか満足げに笑みを浮かべている箒の目尻には涙が浮いている。

 

 

「すまない、な。でも悔しかったんだ。私だって、私だってお前の事が好きだった。だからその子は羨ましいなぁ。私が言えなかった間に言ってしまうんだ。ずるいって思ってしまったんだ。ふふ、なんだ。結構、簡単に言ってしまえるものなんだな」

 

 

 言葉を失う一夏に箒は立ち上がって背を向けた。その背中が震えている事に気付きながらも、一夏は何も言えない。

 

 

「すまない。本当に自分勝手な奴で済まない」

「箒?」

「もう時間だから。そして、きっとこれが最後だから」

「最後!? なんで……!?」

「私は要人保護プログラムで保護されているからな。……だからきっともう会えない。連絡先なんかも言えない。だから今日は一瞬の奇跡だ。すまないが最後の我が儘だと思って聞いてくれ」

「ま、待てよ、箒ッ!」

「幸せになってくれ、一夏。私も、その子もきっとそう望んでる。――大好きだったよ、一夏。だから……頼むから追いかけて来ないでくれ。お前に今の顔を見られたくないから」

 

 

 僅かに顔を後ろに向けて、けれど髪が邪魔で箒の顔が見えない。紡がれた言葉に動きを止めて、走り去っていく箒の姿を見送る事しか出来ない。

 また、伸ばした手は宙を切る。力なく落とした手を強く握りしめて一夏は歯を噛みしめた。握った拳を太ももに叩き付けて一夏は俯く。

 

 

「なんだよ、それ。……なんだよ、それっ!」

 

 

 一夏には、わからない。

 鈴音も、箒も。好きになってくれたのに、それに好きだって返せなくて、それでも断る事も出来ない自分にどうして幸せなんか願うんだ。泣いてしまうのにどうして行ってしまうんだ。

 どっちの手も取れないで、見送ることしか出来ない自分があまりにも惨めだった。自分に叩き付けた拳の痛みは、心の淀みを何も晴らしてはくれなかった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 箒の言った通り、大会が終わってしまえば一夏に箒の足取りを追う術など無かった。

 思えば箒と同じ学校の生徒に聞くとか、もしかしたらそうすれば追えたかもしれない。でも結果的に追いかけなかったのは一夏なのだ。

 それから一夏は塞ぎ込んだ。情けなくて、どうしようもないぐらいに悔しくて。はっきり答えを出せない自分が憎くて。

 そんな時だった。千冬が酌をしろ、と一夏を誘ったのは。珍しい事だった。千冬は酒を飲む時に一夏を同席はさせない。子供が酒に近づくな、と何度も怒られた記憶がある。

 だったら自分で片付けろよ、と反論した記憶は懐かしい限りだ。今はもう酒の缶を片付ける事に何も言われない。

 

 

「……二兎追う者は一兎も得ず、と聞いたことがあるか?」

「……知ってるよ」

 

 

 ビールを口にし、息を溜めて吐き出す。そんな様をぼんやりと見つめていた一夏は、唐突に千冬が振った話題に不機嫌になりながら返す。

 一夏の反応に千冬はビールを置いて一夏と正面から向き合った。眉を寄せている姿は、どこか申し訳なさそうだった。

 

 

「きっとお前のその不器用な恋愛観は私の所為だと思うんだ」

「何で千冬姉が悪いんだよ」

「私がそういう風に育ててしまった。お前は真面目だ。素直で、芯があって筋を通す事が出来る。たまに頑固な時はあるが、それでも充分お前の美徳だと思ってる。だが、少し真面目すぎる」

「それ、箒にも言われた……」

「ほぅ? そうか。あいつも成長したな。……一夏、聞いてくれないか?」

「何だよ」

「もう、私を守ろうとしないでくれ」

 

 

 がつん、と。一夏は鈍器で頭を殴られたような衝撃を感じた。

 勢いよく顔を上げて千冬を見る。信じられない気持ちでいっぱいだった。何故、千冬がそんな事を言うのかわからなかった。まるで拒絶されたようだった。

 

 

「もう良いんだ。一夏。ありがとう。私はずっとお前に助けられてきたんだ」

「そんな! 俺は、俺はずっと千冬姉に助けて貰ってきた! ずっと、ずっとだ!」

「あぁ。私の努力がそう言って貰えれば嬉しい。でももう充分なんだ」

「充分なんかじゃないだろ!? 俺は、俺は千冬姉にまだ何も返せてない!!」

「それだ」

「え?」

「返す、というのを止めろ。お前の身を削ってるだろ? なぁ、一夏。どうして私を悲しませる? 私はお前に幸せになって欲しいのに」

「俺だって同じだ! 千冬姉に幸せになって貰いたい! ここまで育てて貰ったんだ! 俺は、千冬姉がいなかったらここにいないから!!」

「そうだな。私も同じだ。お前がいなかったら今の私はここにいない。だからな、一夏。お互いにもうやめよう」

 

 

 やめよう、と。繰り返すように千冬は一夏を窘めるように告げた。どこまでも優しい微笑みを浮かべて、一夏を見つめながら千冬は続ける。

 

 

「もう私は幸せだ。あとは自分の足で歩いていくよ。お前に背を押される必要はないんだ」

「そんな!」

「だから自分の幸せについて考えてみろ。一夏、私はお前より年を食っているんだ。普通に生きていれば私が先に死ぬ。私が死ぬまで私の世話をするつもりか? それは私が嫌だ。お前に何も与えてやれないじゃないか」

 

 

 千冬の言葉に一夏は胸が詰まる想いでいっぱいだった。言葉を出してしまえば震えそうだった。嫌だ、聞きたくない、と言うように何度も首を左右に振る。

 千冬はそんな一夏の様子に苦笑をして席を立った。横から抱きしめるように一夏の頭を抱える。一夏の頭を優しく労るように撫でながら、囁くように言う。

 

 

「――ありがとう。こんなに私を愛してくれて。だからもう良いんだ。本当にありがとう」

 

 

 もう充分すぎる程に愛して貰った。けれど一生付き添って歩いてはいけない。そう、お互いに。千冬は悟ったのだ。もう一夏は自分の手を離れても歩いていける、と。だから自分に縛られて欲しくないと。

 救ってやりたかった。手を引いてあげたかった。だけど彼はいつの間に立ち上がって歩き出していた。誰かに背を押されていた。だから、もう自分の手は要らない。

 

 

「俺ッ……! まだ……何も……!!」

「何度言わせるつもりだ、馬鹿者。……孫ではないが、せめて姪か甥の姿でも見せてみせろ。……あぁ、なんだ。これでは私が一生独り身みたいじゃないか。まったく、本当にどうすれば良いというのだ。いつまでも手を焼かせるな」

 

 

 本当は、一生焼いたって後悔はない。千冬は心の底から思っている。

 わかっているからこそ、千冬は一夏を突き放す。ただ、一夏の為を思って。

 

 

「私は世界最強だぞ? 強いんだぞ? わかっているのか?」

「ズボラな癖に……!」

「あぁ。そうだな。なら料理でも覚えよう。洗濯も出来るようになろう。お前がいなくても一人で出来るんだぞ、って言って見せてやるさ」

「俺が……やらなきゃ出来ない癖に……!」

「そうだな。本当に、本当にすまなかったな。お前を縛り付けてしまったな」

「そんな訳ない!」

「いい加減にしろ。駄々っ子かお前は。もう15にもなるんだろ? 昔だったら大人の仲間入りだ。恥ずかしい面を晒していたら私が恥ずかしいじゃないか」

 

 

 千冬は一夏を抱きしめていた手を離し、ぽんぽん、と頭を撫でるよう叩いてやる。涙でぐしゃぐしゃに崩れた一夏の顔を見て、仕方ない、と言うように微笑む。

 一夏はもう何も言えない。何を言っても、もう姉はきっとわかってくれない。お互いによく似ているからわかってしまう。

 認めたくない。一生をかけても返せない恩を貰ってる。でも、もういらないって言ってる。それでも恩を返そうとする事が我が儘だと言われるなら、我が儘はもう言えない。

 

 

「……千冬姉」

「なんだ?」

「ありがとう……!!」

 

 

 だからきっとこれが最後。別れる訳ではない。離れる訳でもない。でも確かな決別をここでする。

 互いに想い、互いを守ろうとして、互いが見えなかった姉弟はようやく視線を合わせた。互いに見せた顔が涙に濡れてぐしゃぐしゃになっているものだから、二人は顔を見合わせて言い合った。

 

 

 

「ひでぇ顔、千冬姉」

「お前もな、一夏」


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