「ああ」
一夏は目が覚めた。カーテンの隙間からは陽が漏れ、薄暗い部屋に光の道を作っている。
服はパンツだけを着ており、気だるそうに右膝を曲げてベッドの上に座っている。
曲げた右膝の上に右腕を乗せて僅かに前傾姿勢になる。
何を考えるわけでも無く、たたひたすらに視線の先にある壁を見続けている。
何分間見続けていたのだろうか、簡単に時間なんか忘れてしまっていた。
「今日は……何だろうな」
髪をかきあげなから一夏は首を傾げた。
一夏は今日、上司であるスコールからの休暇を取ることを命令された。理由は簡単でここ最近の一夏は休んでおらず黒零による無茶な機動のせいで身体に負荷がかかりすぎているらしい。
朝の訓練は行っても良いが、それも軽く済ませるようにと釘を刺されてある。
起きてもやることがない。事務仕事も昨日のうちに全てを終えてしまっているため、今日は何も仕事がない。
何をするべきか。
気まぐれに散歩でもしてみるか。
イメージチェンジのために散髪をするか。
綺麗に整理された部屋ではあるが、もう少し綺麗に掃除してみるか。
図書館で本でも読むか。
上手い物をひたすらに食い続けるか。
考えれば考えるほど、アイデアが出てしまう。
こうも沢山アイデアが出てしまったら、結局何もしないということに落ち着いてしまうのかもしれない。
「あれ一夏、起きたの?」
隣で寝ていたティファニアが目を覚まして声をかけてきた。
彼女も一夏と同じように服を着ていない……わけでは無く、下着だけを着用している。
別に何かしたわけではない。
ただ単にティファニアが一夏の部屋にやってきて一緒に眠っただけだ。
こういった事はティファニアにはよくあることだった。
何故、どうして、何が、そんな事を一夏は聞く気はなかった。ただ彼女が満足すればそれで良いと思っている。
ただ一言だけ、ティファニアは安心するからとだけ一夏に言ったことがある。
それ以上は何も聞かなかった。
「ああ、今さっきな。俺は起きるけど、お前はどうする?」
「私はもう少しここで暖かさ感じてる。ゆっくりと行くから先に行ってて」
寝ぼけ眼でティファニアは返事をした。一夏はティファニアの頬を軽く撫でてからベッドから起き上がった。
ゴキリゴキリと己の首の骨を鳴らしながら、一夏は服に着替えて行く。
亡国機業の制服に腕を通してボタンを閉め終わると、一夏はアリサから貰ったネックレスをした。
そして最後に一夏はお守り代わりの指輪を右手の親指にはめた。
朝の訓練を終えて、食堂と喫茶店でいつものように朝食を済ませた後、ゼロはモノクローム・アバターに与えられた部屋では無くリリスのいる部屋にやってきた。
「調子はどうだい?」
備え付けられてるソファーに座るやいなや、一夏以外は誰もいないにもかかわらず声が響いた。
「どうもこうもない。いつも通りだ」
「……んん、それならば何故この部屋にきた?黒零の整備なら完璧にしてあるぞ」
執務机におかれてあるモニターにリリスが現れた。
「その黒零についてだ」
モニターの中でリリスが身構えた。
黒零に関してリリスは細心の注意で管理を行っている。戦闘に関するデータや一夏自身のメディカルデータを事細かく調べ、篠ノ之束にそのデータを送ったりもしている。
「多分だけど、そろそろ進化する」
その言葉の意味はリリスもわかっている。
「……予想よりも早いね。八月前に1.5形態に進化したばかりだというのに」
「いや、寧ろ遅いくらいだ。俺個人の予測としてはこの時期には進化していたはずなのだが、1.5形態になって微調整が必要になったのだろう。アレは予想外の進化だからな」
1.5形態なるものは元々存在しなかった。亡国機業の面々にとっても篠ノ之束にとっても、この進化は完全にイレギュラーなものであった。
「篠ノ之束にこの事を伝えておくか?」
「勿論、お願いします。今日はそのために来たのですから」
それから暫くは一夏はこの部屋で時間を潰した。
「何をしようか?」
ベンチに体重を預けながら、一夏は缶コーヒーを一口飲んだ。
一夏は普段からコーヒーを飲んでいるのだが、今日は珍しくブラックコーヒーではなく、甘めの砂糖の多いコーヒーを飲んでいる。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「んん?何もしてないんだよ」
気づいたら目の前には制服姿のマドカがいた。
「お兄ちゃん、仕事がないとそんな感じなの?」
「そうみたいだな。休日はあったが、こんなに酷くはなかった。いきなり休みを与えられると、つくづく自分がつまらない人間だと思わされる」
「趣味でも持ったら?」
一夏の隣にマドカはそっと座った。
「趣味かぁ、そういえば考えたことなかったな。まともな学生生活でも送ってたら、趣味の一つでも持ってたんだろうけどなあ」
「私たち二人とも小学校卒業してないもんね。でも兄さんはかなり特技持ってなかった?」
「ああ、そうだな。スコールに色々仕込まれたからな」
一夏はこの数年間でスコールによって仕込まれた技量の数々を思い出した。それらは特に戦闘に関して役に立つという物では無く、どちらかというと私生活や癒しと言った部分で役に立つ物ばかりだ。
例えばエステ、オイルマッサージ、整体、ネイルなどなど、それらを一夏は短時間で学び、プロと遜色の無いレベルまで向上させてきた。
今日も夜にスコールにマッサージをすることになっている。
その他にも事務仕事についても入団当初から教え込まれた。
今となっては書類の処理速度は並の会社員のソレを超える。就職すれば即戦力を狙える。
「それは趣味じゃないの?」
「……いや、どちらかといえば仕事に近い感覚だったな」
チビチビと飲んでいた缶コーヒーは空になってしまった。
「こんなにもゆっくりとしたのはいつ以来かな。何もせず、一日中空を眺めても怒られない。なんか嫌になってきそう」
「休みの日なんだし、ゆっくりした方が良いよ。副隊長になりたての頃、過労で倒れたでしょ」
「そういえばそうだったな」
今になって一夏は思い出した。
確かに一夏はモノクローム・アバターの副隊長に任命された当時は張り切りすぎてしまい、訓練も仕事も倍の数をこなそうとして、結果としてある日ぶっ倒れてしまった。
その時はスコールとシルヴィアの二人にこっ酷く叱られた。
「こんなことしてたらシルヴィアさんに怒られちまうな」
親指を空に掲げる。銀の指輪が陽の光にきらめいた。
「……そうね、シルヴィアさんに怒られるよね」
「お前は何もしないのか?」
「このままいさせて。私もゆっくりしたくなっちゃった」
「それで今日一日、休んでみてどう思った?」
夜、スコールの私室に呼び出された一夏は彼女にマッサージを行っていた。
マッサージと言っても子供が大人にお小遣いをもらうためにするような簡単なものではなく、道具から本格的なプロ顔負けのものである。
亡国機業にいるマッサージ店を経営している女性の技術をスコールが面白半分で一夏に教え込んだのだが、予想以上に一夏に才能があったらしく、今となっては一流の人間と顔を並べられるほどである。
その他にも様々な技術を織り交ぜたマッサージを一夏は特技としている。
スコールもこうして頻繁に一夏にマッサージをしてもらうことを楽しみの一つにしている。
「どうと言われてもな。久しぶりに織斑…………いや、一夏として過ごせた気がした。ゼロという存在ではなく、一夏としてな」
一夏は今日、久しぶりに張り巡らせた気を緩めた。
「でもなあ、一夏として過ごすのは今は無理だとわかったよ。どれだけ落ち着いて過ごしても、身体が『ゼロ』として過ごすのを好んでいる気がするんだよ」
「……」
一夏の独白をスコールは黙って聞き続ける。
「もしこれが『一夏』ならば、今日のような甘い一日を享受することができたのだと思う。でも今の俺はやっぱり『ゼロ』なんだよ。少なくとも、俺が俺の全てと蹴りをつけるまではな」
「大切な人と共にいればその気も変わるわよ……私は貴方をこの世界に誘ったのは良かったことなのかしら」
それはスコールが一夏に対して始めて見せた迷い。
スコールは少なくとも団員たちの前では決して迷いも弱さも見せなかった。
だからこそ、一夏は僅かに驚きはしたが直ぐに平静になった。
「俺は貴方に感謝しています。あなたがいなければ俺は何もできないまま、自分自身の事も録にわからないまま、戦う事になっていたと思います。それに、貴方が俺を鍛えてくれたおかげで俺は力を手にしました」
スコールの素肌に優しく触れながら、一夏は力強く宣言した。
「自分自身のための力。敵を屠る力を手に入れました」
「そう言ってもらえると、私も楽になるわ」
時計が日付が変わるのを知らせた。
今日が終わった。だから今日が始まる。
「休暇は終了。これからは『一夏』ではなく、また『ゼロ』として過ごす」
スコールからは顔が見えないが、明らかに一夏の目つきが変わった。それだけではなく、纏うオーラのような物まで変わっている気がする。
「気が早いんじゃないかしら」
「こっちの方が落ち着く」
「そう、難儀なものね。なら早速次の任務を与えるわ」
そう言うとスコールは何処からか一枚のチケットを取り出すとソレをゼロに手渡した。
「IS学園のキャノン・ボール・ファストの観戦チケット……しかも特別招待席」
「それね、貰ったのよ。ほら、
「成る程、あの爺がね」
ゼロは頭の中で亡国機業総帥、轡木十蔵の事を思い出す。確かにあの爺ならそんな事を言いかねないと、ゼロは思った。
「任務よ、私とデートでもしましょう」
「ああ、それは面白そうだ…………」