私とアストレアが再び出会えたのは、目の前で静かに漂う白き竜のおかげだった。
そしてその理由を明かしてみれば、一縷の望みに賭けてそれを信じ、全力を注いだ彼の覚悟が伝わってきた。
終わりゆく己の身を鑑みない、あまりにも危うく、だからこそ切実な賭け。
それを見事に勝ち取った彼に、残された道がもう決まってしまっているのは、どうしようもない事実だった。
「……だから、アストレアのお父さんとはもう会えない。この場所が、最後なんだ」
「……じゃア、とうさんハ……」
「――うん。今はまだ頑張ってるみたいだけど……もう時間はあまりないかも」
その場であまり動かず、自分から話しかけることをしないのも、今まさに自分が消えゆこうとしているのを必死に防いでいるからなのかもしれない。
そして、私の言葉を聞いていた彼が返したのは、重々しい肯定だった。すなわち、自分に残された時間がほとんどないことを自覚しているのだ。
「――っ、とうサン!」
そのことに大きく顔を歪めたアストレアは、泣きそうな表情のまま彼の鼻先に顔を埋めた。
「どうしテ……どうしてだまっテた!? どうしてそんなコトをした! わたシはもっと、たくサん! いっしょにいたかっタのに……!」
投げかけられるのは、今まであえて自身に悟られないように振る舞った彼を非難する言葉と、もう遅い後悔と彼への思いがないまぜになった悲痛な声だ。
それは今まで彼と幾年もの間過ごしてきたアストレアにとって、どれだけ酷な事実なのかを痛切に伝えてきた。
「オ前ガソレヲ知レバ、一人デ彼ラ二立チ向カッタダロウ。……ココハ、安全ナ場所デハナクナル」
「――っ、わたシは、ここかラでていかないトいけないノか? もう、とうサンがいたばしょ二かえれないのか?」
「ソウダ。オ前ヲ殺ス訳ニハイカナイ」
少女はぐっと口をつぐんだ。
そこに別れを拒む台詞がないのは、彼女がとても聡いからなのだろう。今はそれが仇となって、あまりにも唐突な別れに対して彼女を強引に向き合わせているのだ。
しかし、ここで現実を拒んでもっと悲惨なことになるよりは余程いいと私は思っていた。
彼から告げられた残り時間は、本当に残り僅かだった。消えゆく寸前と言ってもいい。
その時間がもう伸ばしようのないものなら、その間に出来る限り彼と話して、気持ちを交換し合うべきだ。
私はそっと竜から手を放して、二人を見守ることにした。
「とうさんガいなくなっタら……わたしはどうすれバいい? もうひとリにはなれナイ。なりたクない。とうさんガいないここは、きっト、とてもさみしイよ……」
「アストレア。オマエハ強クナッタ」
「ううん、ちガう。わたしはとうさんのためナラつよくなれた。とうさんガほめてくレるからがんばれタ。わたしハ、とうさんガいないとつよくなレない……」
「……オマエハ」
アストレアの言葉を、しかし彼は途中で切り上げた。
「――ッ、ハイ。とうさん」
「オマエハ、強イ。我二会エナクテモ生キテイケル」
「――でも!」
「ナゼナラ、コノ王ノ子ダカラダ」
今後のことに不安を駆られているのだろう、涙声で反論しようとする少女に対して、彼はそう断言した。
その声には有無を言わせない響きがあり、少女の口をぐっと結ばせる。
「我ハ、コノ森ノ王ダ。ソシテ、我ノ娘ハ既二一人デ森二住ム者二立チ向イ、勝利シタ」
「――アストレア。勝利ヲ誇レ。我ガ娘デアルコトヲ誇レ。我ノ子ハ誰ニモ屈シナイ。己ノ意志ヲ折ラヌ者二ノミ、我ガ名ハ与エラレル」
「とうさんノ……なまえ……?」
「我ハ、我トシカ言エヌ。――ソナタ」
「――ん、私?」
「人ハ、我ヲ何ト呼ブカ」
問われたのは、私たち狩人が彼を何と呼んでいるかだった。
我は、我としか言えぬ、というのは言葉の通りなのだろう。王であると同時に孤独者でもあった彼に、名前というものは生涯不必要なものだったのだ。だから、アストレアにも父さん、と代名詞で呼ばせている。
しかし、彼らの一族の名前をこの海域で知らぬ者は誰一人としていない。
「ラギアクルス。貴方はその中でも希少な亜種と呼ばれてる存在みたい。二つ名は『双界の覇者』。海と陸を統べるもの、という意味であなたに相応しいと私は思うな」
この二つ名はまさに彼のためだけにあるのではないかと私は思っていた。
物理的な強さはともかく、賢さも他の竜とは比較にならないほどのものがあるのだ。海中はもちろんのこと、陸上でさえ彼に私が勝てるとは思えなかった。
そんな私の感慨深げな言葉に、彼はふと考え込んでから言った。
「ナラバ、人間ガ我二与エタソノ名ヲ、オ前二託ス。――ラギア=アストレア」
海竜の名を引き継ぐもの。
無骨な名だ。しかしその言葉には、少女に対する万感の思いに溢れていた。
今の一言に隠された想いの深さを、私はとても与り知ることはできないだろう。
ラギア、と少女は口の中でその言葉を転がした。彼から授かったそれを心に刻み込むように目をつむる。
そして、自分に取りついている弱気を取り払うかのように首を振って、思いつめたような表情で再び彼に向き合った。
「わたしハ、とうさんノこども……。それを、なまえにしてモいい?」
「当然ノコト」
揺るがない彼のその意志に、アストレアは感じ入るものがあったようだった。
少しだけ瞑目し、大きく息を吐く。そして、再び目を開けたとき、その瞳には光が戻ってきていた。
「わかっタ。とうサンのくれたなまエはたいせつにする。――でも、わたしハこれからドウしたらいい?」
その一言に、私はさわっと肌が僅かに騒めくのを感じた。
さっきまでの彼女と、今目の前にいる彼女を雰囲気的に上手くつなげることができなかったのだ。
――速い。状況の理解と把握。そして、決心が。どうしようもなく。
この精神的にも人並み外れた適応力というか、割り切る心というのも、自然の中で彼が教えたことの一つなのだろうか。
「わたしハとうさんのこどもダ。とうさんガわたしにいきてテほしいなら、わたしハがんばっていきル。
……デモ、あんしんしテねられるばしょがここいがい二わからなイ……」
落ち着いて眠れる場所が欲しいと、少女はそう言った。
その問いに対して、彼はその言葉を待っていたかのように唸って、私の方を見た。
少しの間の視線の交錯を経て、私もまた、彼に向けて頷き返す。
それを見てアストレアははっという顔をして、私と彼に落ち着きなく目を向けた。――どうやら勘付いたようだ。
「ソナタが――?」
「うん。君の信頼に適うかは分からないけど……いろいろと凄い竜のお願いだし、どうだろう?」
先程の話の裏で、私は竜にあるお願いを受けていた。
『我ガ消エタ後モアストレアガ孤独二ナラナイヨウニ見守ッテモラエナイカ』と。
それはお願いというよりむしろ遺言の類いのものであったが、そのことについて考えると悲しくなってしまうので内容だけを摘み取るようにしている。私はソナタほどに、心を強く持てる自信がなかった。
私のその言葉に、少女は少しだけ俯き、しばらくして落ち着かなさげに竜を見た。
しかし、その向けられた戸惑いの浮かぶ青い瞳に竜は応えを返さない。決断は自分でしろ。ということなのだろうか。
アストレアは今まで十年近く意思疎通のできる相手が彼だけだったのだ。正直、私と話すのも最初は恐れすら抱いていたのでないかと思う。
彼以外の人に信頼を預けるのは、まだ難しいのだろう。でも、私自身はやっぱり肯定の言葉を待っていた。
「――ソナタは、わたしをたすけテくれた。ソレも、このことをしっテいたからか?」
「いや、あのときはまだ何も知らなかった。ただ、貴方とこの場所を守らないといけないなって。それだけだったよ」
「……わたしハそなたノがわからない。けんをとりもどシにきただけだト、そうおもっテた。どうして、わたシをてつだってクれた?」
しばらく言葉を選ぶように口をもごもごさせていた彼女が口にしたのは、そんな質問だった。
わたしもそのことはいつか聞かれるだろうと思っていた。そして、返す答えも既に決まっている。
「アストレアがさ、初めて会ったとき、私を助けてくれたよね?」
「デも、それはわたしガそなたをキズつけてしまったかラ……」
「ううん、それでも、あなたはやっぱり私を助けてくれたよ。あのときの言葉に耳を傾けてもらってなかったら、私は死んでしまっていたんだ。
ここに剣を取り戻しに来たのは間違いじゃない。でもさ、わたしはまたここに来てから最初にあなたと話したかったって言ったよね
――そのときあなたは、私もだって言ってくれた」
「……」
「アストレアを助けた理由はそれかな。もっとも、私はそれよりも前からあなたが気になってたから自分勝手に助けに行ったと思うけどね?」
アストレアは私が恨みや怒りの感情を持ってここに訪れると思っていたのだろう。でも、そう判断しきるには最初に出会ったときの別れ方があまりにも不可解すぎたのだと思う。
つまりその時点で、私とアストレアには通じ合う部分があったんじゃないかな、というのは私の勝手な願望だ。
「…………わたしハまだ、ソナタのことがわからナイ」
私の言葉の後、アストレアは黙考を重ねた後にようやく口を開いた。
私の方をしっかりと見つめているその目には、悲しみの涙を湛えた光と決意の光が舞っている。
「でも、わたしはソナタにたすけラレて、そのつよさモしった。――ソナタといっしょなラ、ソナタがいっしょでいいトいってくれるなら、わたしはここをでテいける
とうさん。とうさんトここでおわかれなラ、わたしハそうしたい」
彼が示した、私と共に歩むことを選ぶと。
まだまだ拙い人の言葉だが、一語一語はっきりと。少女は自分のこれから生きる道を宣言した。
彼の願いはここで叶った。
骸になってなお幾年も抱えてきた苦悩を、ここでやっと降ろすことができたのだ。
少女の言葉に、竜は相変わらずの無表情だが満足げな感情を伝えてきていた。
私も、このときは純粋に嬉しいと思った。彼にその役目を頼まれたとはいえ、内心ではやっぱり目の前の銀髪の少女とこれからも一緒にいたいという気持ちの方が大きかったから。
きっとこのさきいろいろ、本当にたくさんの事が起こると、そんな考えに浸ってしまいそうになっていた。
しかし、その後に竜がとった行動の変化に、すぅっと身体の芯が冷めた。
竜がふいに私たちから意識を外したのだ。なんも前触れもなく、彼から伝わる感情の波が一気に弱まった。
少女もそのことに気付いたらしく、「とうさん……!」と竜に向かって呼びかける。しかし彼はそれに応えることなく、やんわりと少女を振り払った。
(……ああ、そうか)
今まで散々聞かされてきた、彼の意識がもう持たないという時間制限。
それは、彼の最後の希望が繋がれた瞬間に切れてしまうほど、切羽詰まったものだったらしい。
同時に、周りの幻想的な光景も泡のように霧散していく。蒼い色彩はあやふやになり、深海の方へと溶けていった。
そして頭上から差し込んできた光が奔流となって彼方へと消えていったとき、私とアストレアは最初に飛び込んだ闇の中に再び佇んでいた。
ただ、彼は光の塊にはならず、その身を闇に喰わせながらもそのままその場に留まっていた。
『ソナタ、アストレア。ココニイルカ』
そして、最初と変わらぬ荘厳な声でそう呟いた。
ここに、とアストレアが声をかけるが、それすらも聞こえていないらしい。こちらへと振り向くことはなかった。
『我ハココカラ去ル。オ前タチハ、共二去レ』
それは本当の意味での遺言だった。これが、最後なのだ。
アストレアが嗚咽をあげる。今度はそれを隠すこともしない。
『アストレア。泣クナ。我ノ凱旋二悲シミハ要ラヌ』
それを察していたのか、彼はそう言った。ただ、今はその言葉もあまり意味をなさないようだった。
『我ハコノ身ヲ離レ、オ前ヲ守ルコトハデキナクナル。会ウコトモデキナイ。
ダガ、消エル訳デハナイ――我ハ、
そして、彼のその言葉で、わたしはまた一つの真実を見つけた。
おとぎ話は、事実だという確かな真実を。
彼が言う、ヒノという人物。
恐らく、彼の心の根幹に根付いている少女だ。それはもしかしたら、彼とアストレアの繋がりよりも強いものだったのかもしれない。
そのヒノという人に出会ったおかげで、今の彼はいるのだろう。
彼女こそが彼に人の感情と人の言葉を教え、彼に種族を超えた慈しみまで与えたのだ。
私はそれを知っているが、アストレアはそのことを知らないのかもしれない。いや、恐らく知らないはずだ。
『我ト別レテモ、強ク生キヨ。アストレア。我ノ子デアルコトヲ誇レ』
既に、竜の声は遠い。
彼の体は闇に紛れ、その姿は刻々と見えなくなっている。
それは、私たちもまた現実の世界へ引き戻されようとしていることを表していた。
『我ノ子ヲ頼ム。ソナタ。オ前ハ我二匹敵スルソノ強サヲ誇レ』
アストレアは目から大粒の涙を零しながらも俯かずにしっかりと前を見つめている。
別れ際にみっともない姿を見せるなという彼の言いつけを健気に守っていた。
『――――――――』
そして最後に彼が口にした言葉は、闇に飲まれ聞くことは叶わなかった。
意識だけの世界から現実の身体へと感覚が引き戻されていく。自分が「自分」を取り戻す。
背後から暖かい光が包み込み、世界を覆っていく中で。
「ううん、私は絶対にあなたには敵わないよ……」
私の頬にも、一筋の涙が伝っていた。
次回最終回……のはず(説得力皆無)
今回は特に回収した伏線はないですね。