Cross Ballade(けいおん!×School Daysシリーズ)   作:SPIRIT

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世界が警戒し、友達と一緒に誠を監視し始めた結果、誠と唯は会えなくなってしまった。
その不満は誠にも唯にもたまっていき、そして…。
というわけで、それぞれが動き始めます。


第5話『迷走』

「伊藤君!」

 コンビニ近くで誠を見かけ、唯は駈け出した。

 しかし目の前で、世界が先に誠の腕に飛びつく。

「あ…………」

「これで、わかったでしょう?」

 唯の前に、短髪でボーイッシュ、長身の女子学生が現れる。

 唯はその子が、以前ムギの言っていた甘露寺七海であることに、すぐ気付いた。

「伊藤には、すでに西園寺世界っていう彼女がいるんですよ。無礼だとは思いますけど、貴方みたいなのにウロチョロされると、困るんですよね」

「そ、そ、それは……。で、でも……」

 見下ろされるような鋭い眼光に、唯はたじろいだ。

「伊藤に近づかないでくださいな」

 低い、ドスの効いた七海の声である。

 とても近づくのは無理。

 唯はそう感じて、すごすごと七海から離れた。

「あ……。別に落ち込まなくていいですよ。

伊藤にちょっかい出さなければそれでいいんですから。放課後ティータイムの演奏、楽しみにしてるって、世界言ってましたし」

 七海は唯に同情したのか、うって変わってねぎらいの言葉をかける。

 しかし、唯の耳に届くことはなかった。

 

 

「光、そっちのほうはどうだ?」

 七海は、同じく世界と誠を見張っていた光に声をかけた。

「桂が来たわよ」

 光は、ツインテールをイカリングのように留めた独特の髪を気にしつつ、答えた。

「案の定、来たか」

「あいつ、全然読めてないわね、今の状況。『西園寺さんは誠君の彼女ではないです。誠君の彼女は私です。』なんて言ってるし」

「ったく……まあ、中学時代からムカつく奴だったけどさ、桂の奴」

「しっかし、世界の頼みとはいえ、何で私が伊藤のお守をしないといけないのかしら」

 光がため息をつくと、七海はニッコリ笑顔を浮かべ、

「何言ってんだよ。世界がそれで幸せならば、それでいいじゃないか」

「そう……」光はいささか不満げの様子で、「平沢って子のほうは、来た?」

「来たよ。私が止めに入ったら、すぐにがっくりして行っちゃったけど。さすがにちょっと可哀そうだったな」

 

 

 誠は、刹那の視線を感じ取った。

「……」

「どうしたの、誠?」

 世界が気づいて、眉をひそめる。

「いや……清浦も、甘露寺も、黒田も、さっきから俺たちにまとわりついて、なにやってるのやら……」

「私たちの仲が気になるんでしょう。みんな友達思いだから」

 素知らぬ顔で世界は答える。実を言うと彼女自身が頼んだのだが。

 唯や言葉が、誠に近づかないようにと。

「あれから見かけなくなったな……。言葉も、平沢さんも」

 世界は疑惑の目を彼に向け、

「……誠の彼女、私じゃないの?」

「え……? あ、ああ。」

「あの2人がいると、不安になるの」

「そ、そうか……ごめん…………」

 例のコンビニにつくと、いつもの光景が見える。

 右手に雑誌や漫画がおいてあって、左手に豆板醤チキンやポテトの入ったヒーターが置かれていて……。

 でも、どこか物足りなく感じるようになったのは、なぜだろう。

 誠は世界から離れ、漫画雑誌を読んでみる。

 いつもこうして読んでいると、

「伊藤くーん!」

 平沢さんの声が聞こえてきていた。

 世界が言葉や平沢さんを警戒するようになってから、そういうことが全くなくなってしまった。

 俺の彼女は世界。

 それは分かっている。

 でも、どこか物足りない。平沢さんに会えなくなってからは特に。

 

 

 自分が榊野学園に入学して、このコンビニに通うようになってから、たまに見かけるようになったな。

 世界や泰介とつるんでいるとき、あの子もよくコンビニにいて、よく漫画を読んでいた。

 ギターケースを肩にかけて、友達や後輩と笑っていたものだった。

 理由はわからないけど、いつの間にやら、それが気になっていて・・・。

 こうして漫画を読んでいると、また

「伊藤くーん!」

 と呼んでくれるような気がした。

 

 

「誠!!」

 はきはきした声で、誠は我に帰る。

「わ! あー、びっくりした、世界か……」

「びっくりしたはないでしょ。」

 世界は疑り深い目でにらむ。

「いや、夢中になってたから……すまん。でもいい時期なんだぜ、『ワンピース』。人魚島で麦わら一味が集結して、元・七武海のジンベエと一緒に悪党どもに大反撃ということになって……」

 ごまかして漫画の話をする。世界はきょとんとしながらも、表情を和らげ、

「そういえばそうね。いいところいってるかも」

「『ナルト』はどうなってるかな。世界は好きなんだろ」

「まあね。ナルトとサスケが敵城侵入のあたりまでいったかな。火影になることを目前に控えて。」

「そう言えば、言葉は『銀魂』が好きだそうだな……」

 お互いにくすくす笑いあって、

「私もちょっとびっくりしたなあ…あんな清楚な子が金魂ねえ……」

「SF時代劇なんて言ってる割に、下ネタばかりが多いからなあ、あの漫画……」

 けたけた笑う誠だが、なぜか、心の奥底から笑えなかった。

 携帯が気になった。

 世界の頼みで、言葉と唯の携帯が着信拒否になっている。

 平沢さんとは一度として、メール交換も電話もできなかったな……。

 なんでこうなるのやら……。

 

 

 そんな日々が、一週間ほど続いた。

 今日も、学校の勉強も学祭の会議も耳に入らず、誠は帰宅した。

 世界もついていっている。

「最近だけど、いつもボーっとしてるね、誠……」

「まさか、そんなことねえよ」

 誠は懸命にはぐらかす。

「誰かほかの女の子のこと、考えたりしてない? 桂さんや、平沢さんとか……」

「それはっ……!」

 図星であった。

「やっぱり! 誠、あの二人のことが!!」

「……それは……」

 そんなに、独占したいのだろうか、自分を。

「だから私には、嫌そうな顔をしてるんだ」

「違う! 俺は!……俺は……」

 理由は分からないが、焦りと、苛立ちがいつの間にやらグツグツ湧き上っていた。

「私はただ、誠のえっちの相手でしかないというの!?」

「そんなわけない!!」

 声をいつの間にやら荒げていた。

 そんなに自分が他の人を気にするのが、いやだというのか?

 自分だって迷ってるのに?

「わかったよ!! そんなにおまえが俺を独占したいのならっ……!!」

 このっ…!

 怒りで何も分からなくなっていた。

 勢いのままに、世界を押し倒していた。

「ちょ…ちょっと、やめてよ! 嫌!!」

「うるさいっ!!」

 バタバタ暴れ出す世界の手足も、やがて緩慢になってゆく。

 

 

 なんであんなことをしたのか。

 言葉や平沢さんに近付けなくなってイライラしていたのは確か。

 でも…でもなんで世界に八つ当たりしてしまったのか…。

 苛立ちのままに、事を7回ほど済ませ、やっと気が済んだ。

 眼に涙をにじませ、ふらりふらりと帰っていく世界の姿が目に浮かんだ。

「伊藤!」

 教室に入って最初に、光にどやされた。

「なんで世界に暴力振るうのよ!!」光に肩を掴まれて詰め寄られる。「世界今日、具合が悪いって休んでいるのよ!!」

「それは…悪いと思っているけど……」

 言い訳など、できるわけがなかった。

「伊藤、最近笑わなくなったね」

 誠の目を見つめ、隣にいた刹那は怒りというより、心配そうな声で言った。

「な、何言ってんだよ清浦、ほら、こうやって笑顔なんて簡単に……」

 ごまかすために、誠は口角をあげるが、心に空洞があって上手く上げられない。

「……笑えてない。目も笑ってない」素早く刹那は悟り、「私達が、桂さんや平沢さんを見はるようになってから、だよね」

「だ、だから違う!!」

 ごまかしても、刹那は既に多くを読み取ったようだ。

 怒り心頭の光の表情。刹那は思案顔になっていた。

「とにかく、学校終わったら、お見舞いに行くから」

 二人の顔から眼をそむけ、急いでトイレに向かった。

 トイレで一人になってから、錆びつきくすんだタイルに向かって、誠は拳をたたいた。

「くそ! くそ! くそーっ!!」

 

 

 昼の委員会活動。

 学級委員たちが向い合せに座り、弁当を食べながら学祭のテーマについて話し合っている。

 どしゃっ!

 急に大きな音がしたので、言葉はそちらを向く。

 自分のすぐそばで、パン屑が散らばっていた。

「桂さーん、パン屑がこぼれてるんだけどー」

 言葉は4人の女子学生に取り囲まれた。

「え? で、でも…私は今日は、和食ですし…」

「つべこべ言わないの! あんたの周りにこぼれてるんだから、あんたがひっくり返したんでしょ?」

 意図的にちぎってこぼしたかのような、無数のパン屑の前に突き飛ばされる。

 4人の剣幕に根負けし、言葉は黙ってパン屑を拾い始めた。

 そんな彼女を、その場に居合わせた刹那はじっと見つめ…。

 

 

 言葉を無視して、4人は再び学祭の話し合いを始めた。

「手伝おうか?」

 かがんでパン屑を拾う言葉に声がかかる。

 そちらのほうを向くと、刹那がいた。

「いいんですか? ……ありがとうございます」

 言葉は頭を下げた。

 刹那は何も言わず、言葉の隣でパン屑を拾い始めた。

「ねえ」

「何ですか?」

「伊藤のことなんだけど……」

 話題にされたくない話。眉をひそめ、言葉は刹那を見つめる。

「私も世界の幼馴染だから、正直、貴方が伊藤にちょっかいをかけるのは嫌」

「ちょっかいなんかじゃありません。寝とったのは西園寺さんのほうでしょう?」

 息巻く言葉に、刹那は直接は答えず、

「でも、伊藤以外に頼れる人間がいるなら、頼ったほうがいいと思う。例えば、先生とか、家族とか」

「頼れる人間……」

「私が言えることはこれくらいだよ」

「……とはいっても、私の両親は共働きだし。聞いてくれるかどうか……」

 それは本音であった。

 両親は大きな会社の社長と重役だが、共働きで忙しく、とても自分の悩みなんて聞いてやれるひまなどないのだ。

 妹はまだ純真で、男女の愛憎なんかわかりっこない。

 ならば……。

 まだあの人の腹の中は、わからないが……。

「私がアドバイスできるのは、これだけ」

 刹那はそれ以上何もいわず、パン屑と格闘を始めた。

 

 

 刹那が去った後、言葉は携帯電話の電話帳を開いてみる。

 そこには、桜ケ丘の秋山澪のアドレスが登録されていた。

 あの人、何で自分に親切にしてくれたんだろう…。

 ともあれ、もう自分だけでは誠に近づけないかもしれない…。

 ………

 言葉は、新規メール作成のボタンを押した。

 

 

 誠に近づけなくなってからというもの、唯のやる気は一気にダウンした。

 ひどく朝寝坊をして、1時間目の途中から教室に入る。先生の小言を聞き流して机に座り、あくびと居眠りばかりして授業に臨む。軽音部でも、いつもの、いや、いつもよりひどくのろのろして不機嫌に、ムギの紅茶と菓子を食べる。

「……唯先輩、あの時のやる気はどうしたんですか……」

 ギターをとった梓が、声をかける。

「何の話?」

 机に突っ伏しながら、低―いこえで唯は答えた。

「あれだけやる気満々だったじゃないですか。一生懸命に練習して、ライブに備えるんじゃなかったんですか?」

「もうどーでもいいよ……テキトーにやるから、私」

「お願いですから、恋のことよりライブのこと考えてくださいよ……みんなが大恥かいちゃうんですから。まったく、唯先輩も律先輩も、ライブより恋愛のナンパの考えていて困ったもんですよ……」

「おいー」律が文句をあげて、「私だって少しはライブのこと考えているんだぜ、トークとかさあ」

「トークはあくまでも箸休めでしょうが」

「はあ……」澪はため息をつきながら、「気持ちはわかるけどさ、今はライブのことを考えようぜ、唯。伊藤って奴とは、学祭の日にきっと会えるだろうしさ」

 嫌な予感が的中したか。澪は心の底から思った。

「だって……見張られてるんだよ……近づけないんだよ……。電話とメールだって、通じないんだよ……」

「まあ、そのうち伊藤が1人になることもあるだろ。その時に近づけばいいじゃん」

 言ってから、ふと思った。

 桂は? 伊藤に近づけているのか?

「唯ちゃん」続いてムギが声をかけてきた。「ねえ、もう少し頑張れない? 榊野の学祭が終わったら、みんなでケーキバイキングに行きましょうよ」

「ケーキバイキング!?」

 皆の目が、一瞬輝いた。

 唯を除いて。

「でも、いつにします? 榊野学祭当日は休日だから、今の時期だともう予約いっぱいだと思うけど……」

 と、梓。

「だいじょうぶ、私のお父さんに頼めば何とかしてくれるから。終わったらすぐバイキングに行きましょう」

 ムギは大企業の社長の娘で、様々なホテルや店にコネがある。これまでも、唯のギターを購入する時、修理する時、彼女の力で値段を大きくおまけしてもらっていた。

「……しかしね、ムギの力も今更ながら凄いもんだなあ」

 唖然としつつ、澪は答える。

 唯は……。

 今日のムギのケーキとお茶も、喉を通らなかった。

 なぜ誠に電話しても、メールしても、通じないのか。

 正直このことが、ケーキ以上に大きなものとして自分の頭の中に存在するのは、信じられなかった。

「ひょっとしたら榊野学祭、去年以上に有意義な思い出になると思うわよ。甘露寺さんに会って、ケーキを食べ放題で…」

 甘露寺、と聞いて、もはや唯は耐え切れなくなり、

「……ごめん、帰る」

「え?ちょっと、唯、まだ練習の途中なんだよ」

「やる気にならないんだよ」

 唖然とする周りを無視して、唯は音楽室を後にした。

 

 

「唯先輩……困ったものですよ」

 唯の去った音楽室で、梓は一人、愚痴る。

「恋は盲目、だからね」

 ムギが苦笑いを浮かべながら、食器を回収していく。

 太陽は西に傾き、雲が空の多くを覆い隠していた。

「……初めてだな」

 澪の言葉に、皆はそちらを向く。

「唯の奴、伊藤と親しくなってから、いつもより思いっきり笑うようになって、そして今は、思いっきり不機嫌になってる……」

「澪、どういうことだ?」

「波がついてきたってことだよ。いつもダラダラしていたいつものあいつじゃない」

「それに」口を挟んできたのは、さわ子。「苦しみは魂を強くさせるからねえ。恋愛をすると、時々すごく苦しんで、時々すごいハイテンションになるものよ。それを繰り返して人は大人になっていくもの」

「おいおい」律はあきれ果て、「さわちゃんは101回振られている割に大人っぽくねえだろ。顧問のくせに全然仕切らないし、やたらと部員にコスプレ衣装着せたがるし」

「ほっといてよ」

「まあ、そんなことはどうでもいいな。どうにか、ベストなコンセプトで学祭に臨めるといいんだがな……」

 澪は廊下を見ながら、つぶやいた。

「唯の奴、最近は遅刻ばっかりだしよ。恋の病ってこええもんだよ」

 律は頬杖をつきながら、クッキーをかじる。

「……まあ、お前と同じで、もともと真面目でないけどな。……いてて」

「どういう意味だ、こら」

 澪の耳を引っ張りながら、律はなじった。

「冗談だ、冗談」

 その時澪のポケットの中から、音のしない振動が伝わってきた。

 メールを開いてみる。

 差出人を見て、澪は目を見張った。

「桂……?」

「桂って」律が横からメールを覗き込みながら、「以前唯に絡んできた、あいつ?」

「ああ。しっかし、『初めてメールいたします。桂言葉です。この間はありがとうございました。』なんて、ずいぶん礼儀正しいなあ」

「ちょっと正しすぎる気もするけどな。高校生とは思えん」

「まあ、いいじゃんか」澪はメールに目を通しながら、「清楚なお嬢さんなんだよ。私らと違ってさ」

「おいおい、『私ら』ってなあ…」

「『今までのいきさつ、すべて説明します。』って……」

 澪は目で言葉のメールを追っていく。律も横から携帯画面を見つめる。

 登下校の電車で、誠と一緒に居合わせることが多かったこと。

 世界の紹介で、誠と付き合うようになったこと。

 そして、言葉の異性恐怖症によるすれ違い。

 その間に、世界が誠と関係を持ち、そのまま彼女になってしまったこと……。

 返してといわれても断られてしまったこと……。

 詳しく書かれていた。

「……しかしね」律が苦笑いを浮かべながら「『西園寺さんが誠君に突かれて……』って、どんだけ生々しいこと書いてんだこいつ」

 澪も顔を赤らめ、

「それだけ印象が深いってことだね。まあ、そんなところを見てしまえば、疑心暗鬼になるのも無理ないけどな」

 澪はすぐに、新規メール作成のボタンを押した。

「あの……澪先輩」梓が不安げな表情で机を乗り出す。「あんまり深く関わると、面倒なことになると思いますよ」

「そうよ、澪ちゃん。よく言うじゃない。『人の恋路を邪魔する奴は、馬にけられてなんとやら』って」

 ムギも懸念の表情であるが、澪は無視して、次のような返信をした。

『好きだった恋人をとられて、すごいショックだったんだね。友人と話してもうまくいかなかったのか。思い切って、恋人に直接会ってみたらどうだ。本人から直接思いを聞くといいよ』

 太陽の半分が雲に隠れる。

「そういえば澪、桂のことになると目の色が変わるな……」

 夢中でメールを入力する澪を見つめながら、律は独りごちた。

 

 

 音楽室を飛び出し、トイレに入りこみ、唯は携帯電話を取り、誠に電話をしてみる。

『おかけになった電話番号は、電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』

 そのメッセージが、また届いた。

 三回繰り返した。

 何回やっても同じだった。

「どうして……どうしてなのよ……マコちゃん………!」

 気がつくと一心不乱に走り出していた。

 いつ校内を出たのかも、いつ校門を出たのかも、分からなかった。

 

 

気がついたら、既に家の玄関にいた。

 無言で入っていく唯に、

「お姉ちゃん…?」

 憂の声がかかる。

 憂はリビングで、何か紙に書いていたようだ。

「憂……。今日は、早いね」

 憂もなぜか元気がなく、目がうつろになっている。

「お姉ちゃんこそ。部活はどうしたの?」

「ごめん……。やる気にならない」

「え、何故……?」

 唖然とする憂に、唯は答えた。

「マコちゃんに会えない…マコちゃんが、私に返事してくれない…。

もうやる気、出ないよ」

 その後、一気に階段を駆け上がって自分の部屋に入り、ベッドの上に突っ伏した。

「……やっぱりお姉ちゃんには、伊藤さんが私以上に大切な人なんだね」

 ドア越しに呟く憂の声も、聞こえなかった。

 顔を伏せているため、何も見えなかったが、誠の笑顔が視界によぎっていた。

 

 

「唯―! ごはんよー!!」

 母の声で、唯は我に返った。

 窓を見ると、日はもうとっくに暮れ、にび色の雲が空全体を覆う中で、傘を被った満月が顔をのぞかせていた。

 うつ伏せになっている間に、寝てしまったらしい。

 蒲団が少し濡れているのが気になった。

 一つあくびをしてから、唯は部屋を出た。

「あれ、お母さん、早いね」

「仕事が早く終わってね。今日はお父さんも来てるわよ」

「本当に?」

 唯の両親が仕事から帰って来て、今日は家族4人で夕食ということに。久々に家族だんらんができそうだ。

 唯も気分転換にと思い、部屋着に着替えて、テーブルに座る。

「おえっ!」

「ま、まずい……」

 しかし、その日の料理は、これまでにない位まずかった。

 唯だけではなく、両親までもがそう感じた……。

「……え……そう……?」

 晩御飯を作った憂が、ぼんやりした表情で、ぼそりと答える。

「憂……砂糖と塩、間違えてる……」

 渋い顔をして、唯が言った。

 ぼんやりした表情でかたまった憂だったが、やがて、

「ご、ごめんなさい! ……ごめんなさい……作り直すわ」

 あわてて台所へ戻る。

「どうしちゃったのかしら、憂……いつもはこんな失敗しないのに」

 不思議がる母の隣で、唯は憂を見つめて、言った。

「そう言えば憂、少し痩せたね……」

 ふと、憂のポケットから、小さな紙切れがはらりと落ちる。

 唯はさっと拾って、中身を見て思わず……

 息をのんだ。

 そこには

『伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね伊藤死ね』

 と、百辺ほど繰り返し書かれていた。

 

 

 無数の白い電燈が、ぼんやりと道を照らし、そこに秋雨が入りこんでいる。

 その横にある、年季の入った安アパート。

 そこが世界の家である。

 ぼんやりした思いを抱えつつ、誠はその前に来ていた。

「伊藤、何しに来た?」

 七海が、アパートの前にいる。刹那もいる。

「何って、世界のお見舞いだよ」

「いまさら謝っても、許してくれないとは思うけどな」

「……わかってるよ……」

 ゆっくりとアパートに入る。

 整理されている世界の家。彼女の部屋は玄関からすぐ右手。

 

 ノックをし、

「誠だ。あけてくれ」

「帰ってよ…」

「分かってる……昨日は俺が悪かった。世界の言葉に、つい腹を立ててしまって」

「もういいよ……ホント、帰ってってば……あの、ホント、桂さんのところにでも、平沢さんのところにでも、好きなところ行きなよ……」

「行けないよ…。俺は、世界が好きだから……」

 入れないのは理解していた。

 ドア越しに会話を続ける。

「ただ……」誠は、少し黙ってから、口を開いた。「俺にも、ずっと忘れられない気持ちがあるんだ。消したいとは思ってるんだよ……。その気持ち、わかってくれないか?」

「……わからないよ……」

「忘れたいとは思ってる。でも、忘れられない……」本当は忘れたくない。忘れるべきことなのに。「世界だけを見ていたいとは、思っているけど……」

「……」

 あんなことをして、許してもらえないとは、分かっていた。でも、世界が一番好き、なはず。けれども、言葉や唯のことも、忘れられない。

「手土産、おいていくよ。ババロア。お前の好物なんだろ。世界の母さんと一緒に食べてくれ」

 手に提げてきた、おしゃれな黄色い鞄を一つおいて、誠は家を後にした。

 

 

 世界は部屋を出て、玄関を見てみた。

 そこには、誠が置いて行ったババロアの折詰がある。

 帰りにデパートで買ってきたものと思われる。包装を破り、一つ食べてみた。

「……おいしい……」

 それでも、誠の手作りのババロアには、劣る気がした。

 

 

 雨の中を去っていく誠を見ながら、刹那は呟くように言った。

「七海」

「ん?」

 刹那は、頭を少し下げて答える。

「私たちが桂さんや、平沢さんをマークするようになってから、伊藤、結構暗くなってる」

「おいおい、伊藤は世界の彼氏なんだぜ。他の子に目移りするあいつが悪いんだろうが」

 刹那は、七海に直接答えず、

「これは私個人の意見だから、七海は七海のやり方でやればいい。

ただ私、思うんだ。

桂さんや平沢さんを力づくで遠ざけても、伊藤の心は乱れるだけ。世界も不幸になってしまう。

伊藤自身が、最終的には好きな人を一人決めなきゃいけない気がするんだ」

 七海も思案顔になる。

「とはいえ、あのカイショウナシじゃあねえ……」

「それでも、伊藤の結論を待つしかないよ」

「だけどよ、もし桂や平沢さんを選んだとしたら?」

「伊藤が世界ではなく、あの二人のどちらかを選ぶのなら、仕方がないよ」

 

 

 マンションの周りには、いくつもの曲がりくねった電燈が、雨に打たれながらも、ぎらつく光を照らしている。

 誠はボーっとして蝙蝠傘の滴を落とし、マンションのエレベーターに乗った。

 雨がよく降る。

 泰介からも、最近暗くなったといわれるけど、それは満たされない思いがあるから。

 でもそれは、満たしてはいけない。

 しかし……そのことで、世界を深く傷つけてしまって……。

 言葉……はともかく、平沢さんのことは、忘れた方がいいのではなかろうか、でも……。

「誠君!」

 ぎょっとして顔を上げると、家の入口に言葉がいる。

「言葉……」

「えへへへ、来ちゃいました」

「どうして……」

「教員室で、3組の名簿を見て、住所を調べて」

 ほほえみを浮かべながら言葉は答えた。

「誠君の家、お母さんの帰りが遅いんですか?」

「ああ」

「うちと一緒です。うちも、帰りが遅かったり、帰ってこなかったり…。仕事ばっかりですよ」

 まさか自分の家に言葉が来るとは。

 ひょっとしたら、何度も電話やメールをしているのに自分が応じないから、怒っているのかもしれない。

「あの……誠君?」

「何?」

「あがっていって、いいですか……?」

「え……?」

「誠君の家に、来たかったんです」

「……」

 わざわざここまで来てくれたのに、追い返すわけにもいかなかった。電話やメールのことも、断れなかった自分がいけないのだから。

「……結構、部屋散らかってるけど、それでもいいなら」

「いえ。……では、お邪魔します……」

 

 

 誠は母との二人暮らしだが、母が看護師の仕事で帰りが遅かったり、夜勤で帰ってこなかったりしている。

 そのため、彼はほとんど独り暮らしに近い生活を送っていた。

 どちらかと言うと整理整頓は苦手なほうだが、誰が来ても恥ずかしくないように、休日には必ず掃除をする。

「きれいなところですね……」

 リビングで古い黒いソファーに座り、言葉はつぶやく。

「言葉のおうちと比べられると、厳しいけどね」

 誠はティーバックで紅茶を作り、紅茶を差し出した。

「はあ……おいしい」

「ふつうのお茶だよ」

「なんだか、思い出します」言葉はふと、遠い目をする。「屋上で食べたご飯、三人で仲良くご飯食べて、三人で笑って、三人で話して……」

 世界の仲介で、言葉と知り合ったころ。

 上手く話せない二人を世界がサポートし、何とか話を盛り上げていた。

 言葉とすれ違うこともなく、世界とも関係を持たなかった頃の話である。

「あの頃はよかったね、何もなく……」

「ねえ、私、レモネード持ってきたのを覚えていますか?」

「ああ、あれはおいしかったな」

「はい、あの時のレモネード、すごく温かかったです……。ほんとよかった……、最近、電話もメールも通じなくて……。ほんと怖かった……」

 誠は胸を突かれた。

 世界の強引な口調があったとはいえ、流されるままに着信拒否にしてしまったこと。世界には悪いとは思うものの、自分自身、それでは不満だったのを引きずっていたこと。

 やはり自分は、駄目だなと思った。

 紅茶を一口飲むと、言葉は真顔で誠を見つめ、

「誠君、逃げてるから……」

「逃げてる?」

「私が、やだって拒絶してから、ずっと……。だから、連れ戻しに来たんです」

「連れ戻しに、来た……?」

 言葉はそこで、顔を近づけ、

「誠君……私のこと、好きですか……?」

「へ?」

 誠はぽっと顔を赤らめた。

「いや、ずいぶん単刀直入な……どうして、んなことを」

「いいから答えてください」

 真剣な言葉のまなざしに、誠はつぶやくように、

「……好きだよ。でも、俺は……俺には……」

 言葉は、誠が次のセリフを言うのより早く、

「西園寺さんや、平沢さんとのことは許してあげます」

「え……」

「西園寺さんにされても、平沢さんに強引に引っ張られても……たとえあの二人が、誠君を返してくれなくても……」

「そうじゃなくて……俺は……」

「私も分かっています。西園寺さんや、平沢さんの気持ちも。二人を誠君が、気にしているということも」

「言葉……」

「だけど、私のほうがもっと好きですから。もっと、誠君になんでもしてあげられますから。……そのかわり、私のお願い、受け入れてくれますか?」

「お願い? 構わないけど」

「その……あの……」

 言葉は、顔を真っ赤にして、手を組む。

 と、突然、彼女がずいっと近づき、

「え……わ!」

 気がつくと誠は、黒いソファーの上に押し倒されていた。

 きゃしゃな体のどこに、こんな強い力があるのか。

「私の全て……受け入れてください。私もう、拒まないですから……怖がらないですから……」

 潤んだ目で言葉は、誠を見つめた。

「言葉……!?」

「だから……だから……」誠の肩をつかむ言葉の両手に、力が入る。「私と、本当の恋人になってください……」

「言葉……」

 胸がドキドキする。思わず言葉の頬に、右手を当てる。

「誠君……」

 思わず誠は、火照った顔を自覚しつつ、目を閉じ、言葉に顔を近づける。

 雨の降る音に木枯らしが加わり、ピオーと音がし始めた。

 

 

 その時、金属がこすれあう音が、ガララ、ガチャッと鳴った。

 誠はすぐに、母が帰ってきたものと察する。

 その勘が正しい証拠に「誠―、帰ってるのー?」と、玄関から間延びした声。

「母さんだ!」

 思わず自分の上に馬乗りになっている言葉を突き飛ばし、乱れた服を整えなおした。

 言葉も顔を赤らめて彼から離れ、制服を着直す。

「誠、帰ってるなら返事しなさい……あら、お友達? 何という名前?」

 リビングに母が、顔だけのぞかせる。

「あ、俺の友達の」恋人、というには余りに恥ずかしかった。「桂言葉。しかし母さん、今日は早いな」

「彼女です」言葉が誠の声を遮るようにいい。「はじめまして、桂言葉です。勝手にお邪魔して申し訳ありません」

 頭を下げた。

「あらら、誠の母です。息子が大変お世話になってます」

「はい」

 二人とも以心伝心で気が合うと感じたらしい。たがいに満面の笑顔を浮かべている。

 ようやく誠も、心から頬が緩んだ。

「誠も隅におけないのね」母はニヤニヤしながら、「今日は本部から助っ人が来てくれてね、婦長もお母さんを気遣ってくれて、早めに帰れたのよ。そうだ、せっかくだから言葉さん、何か食べていかない?」

「あ……。ありがとうございます」

「母さん、俺も手伝おうか?」

 誠が腰を浮かせるが、

「いいのいいの。いつも誠には自炊させて申し訳ないと思ってたから。言葉さんとおしゃべりしてなさい」

 母は、奥の台所へ急いだ。

 再び、誠と言葉は2人きりになった。ソファーで隣り合わせに座っている。

「誠君…ありがとうございます」

「え?」

「誠君の本音、聞けましたから…。でも、誠君、西園寺さんや平沢さんに誘惑されて、いまどうかしてます」

「どう…なんなんだろうな…」

 正直、あの2人も好きなのである。

「やっぱり、勇気を出して来た甲斐はありました」

 言葉は携帯を取り出し、受信メールを開いた。

 誠はこっそりと、彼女のメールを横から見る。

 どうやら言葉は、この人の励ましでここに来たようであった。

 送信者は、秋山澪。

 知らない人である。

 

 

 3人で夕食を済ませた後、言葉を車で送り、誠と母は、帰途へ着いた。

 助手席に座っている誠は、下から上へと過ぎ去っていく電燈をぼんやりと眺める。

 ワイパーが激しく動いている。

「それにしても、貴方も隅におけないわねえ。あんなかわいい子を彼女にしていたなんて。

きっといいお嫁さんになるわよ。言葉さん」

 車を運転している母が、あっけらかんとした表情で話しかけてきた。

「……彼女、というわけじゃ、ないんだ……」

 重い声で、誠は答えた。

「そうかなあ、仲よさそうだったんだけど……」

「ち、違うんだ」誠は首を振って、言った。「嫌いではないし、気になってはいるんだけど」

「……どういうこと?」

「もともと俺が好きだったのは、違う人だったんだ。

だけど、二学期になってから、その人の紹介で、言葉と知り合った。言葉も嫌いではなかったし、もともと憧れていた子だったんだ」

「そう……」

「でも……でも、好きな人をあきらめることができなくて、その人のアタックを気が付いたら受け入れていて……。自分も、思いを告げていた」

「でも……貴方は言葉さんも好きなんでしょ?」

「そうだよ……。でも…その人はそれ以上に好きな人でもあるし、けど…最近はそうでもないんだ…」

 母は妙な顔になった。要領を得ない答え方に戸惑っているのだろう。

「俺の気になる人は、もう一人いて……」誠は左手にある川を見つめながら、別の人の話をする。「その人は桜ケ丘高校の人で、軽音部をやっているんだ。

少し前に、あの人に、ちょっと強引に誘われて、一緒に登下校したり、喫茶店に行ったりしてた。

ちょっと天然だけど、すっごく笑顔が魅力的で、それにすごい癒されて…。

それは、さっき話した子や、言葉にはないもので…。

強引に誘われても気にしなくなったし、もっとそばにいてほしいと、思うようになっちゃって……。

最近なかなか会えなくなって、なんか俺、どうかしちゃったよ」

「………」

「正直、だれが好きなのか、もう分からないんだ。

誰が俺にとっての『1番』なのか……」

 

 

 しばらくお互いに、何も言わなかった。

 母も、何も言えなかったのかもしれない。

 車は、水かさの増した川を横切り、マンションやファミレスの林立する街並みを通過していく。

 夜空には何もない。月も見えない。

「くわしいことは母さん、よくわからないけれど」母がやっと口を開いた。「じっくり決めていけばいいんじゃないの? まだ貴方は子供なんだし。時間はたっぷりあるんだし」

「でも、学祭まで、もうあまり時間がないから」

「学祭にこだわらなくてもいいじゃない。貴方の思い通りにすればいいことよ。マイペースで、じっくり頭と心で考えて、3人の中から1人選べば」

「マイペースか……。そうだな……」

 ふと誠は、車のサイドブレーキの隣にある母のかばんに、一枚の写真があるのを見つけた。

「母さん、それは……」

 自分が幼いころに撮ったと思われる、家族4人の写真。

 父と、母と、妹と、自分。

 なぜか父の顔が見えないように、トリミングが施してある。

 おもわずくっくっ笑って、

「親父の顔、わざわざ消したのか」

「ええ……」陰った表情で、母は答えた。「最近、また外で子を作ったって噂よ…」

「そうか。……ま、今となってはどうでもいいけどな…」

「いたるは気になるけどね」母は気丈な表情にもどし、「今も仕事の帰りに、お土産買ったりしてるけどね。いつも聞かれるわよ。『おにーちゃんはげんきー?』とか、『いつおにーちゃんのはんばーぐたべれるー?』とか」

「ははは、頼りにされて、うれしいような大変なような」

 誠は笑いながらも、すぐに表情を曇らせ、

「なあ母さん……俺も、親父と同じなのかな」

「え…?」

「俺もなんだかんだで、二股も三股もかけてる。言葉や、世界や、平沢さんを傷つけていて……」

 また、しばらく沈黙が流れた。

 車は、誠のマンションの駐車場にたどりついていた。

 車のタイヤが水たまりをけり上げる。

「……大丈夫、あなたはあの人と違って、相手を思いやれる優しい心があるから」

 そういわれると、胸がきりきりする気がした。

 いままで、自分は父と同じだと思っていたから……。

「思いやれる、優しい心、ね…」気がつくと目が熱くなり、鼻汁のグスグスいう音が聞こえていた。「あれだけ、人を傷つけているのに……。でも、ありがとう、母さん」

 携帯の電話帳を開く。

「言葉……。平沢さん……」

2人にかけていた、着信拒否を解除した。

 

 

 秋の天気は変わりやすい。

 その翌日、残暑とでもいうべき30℃の暑さと、快晴が戻ってきた。

「あ、マコちゃん!!」

 唯は軽音部の部室で、高い声をあげた。思わず周りがそちらを向く。

 唯の携帯に、誠からお詫びのメールが届いたのだ。

『平沢さん、メールの返事が遅れてすみません。

ちょっと携帯の調子が悪くてね。

俺は学祭の準備、頑張っています。

桜ケ丘のみんなや、平沢さんをしっかりでむかえたいし』

「ばんざーい!! 嫌われていなかったんだ!」

 両手をあげて喜ぶ唯。

 そんな彼女を、澪は目を細め、ただし心の一部に妙なしこりを抱えながら見つめていた。

 ふと、携帯から音のない振動が届く。メールが来たようだ。

 開いてみる。

「桂……。伊藤に会えたのか」

 澪の表情が、和らいだ。

『秋山さんに励まされて、勇気百倍になりました。

誠君も、私のこと好きだって言ってくれて……。

私、もう一度やり直してみようと思います。そして学祭で、いい思い出を作りたいです』

「桂……」

「でもよ」横から律が首を突っ込んでくる、「西園寺って奴や、唯のことはそいつ、なんて言ってたんだ?」

「いや……何も言ってない。となると、伊藤が一番好きな奴って、分からないな……」

 唯は、その事には気にも留めず、

「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」

 と三唱を繰り返す。

「澪先輩も、あの桂って人に会ってから、なんだか変わっちゃいましたね…」

 梓が横眼で見ながら、つぶやく。

「桂って奴が結構、澪の好みに合ってるんだろう。

これも一種の『恋』なんだろうさ。

好きな人に尽くすのは悪くないと思うぜ」

「恋っていうわけじゃないけどさ、というか私はレズじゃないぞ」澪は律を小突きながら、「でも、何となくほっとけない、助けたいようなはかなさが、何となく感じられたんだ」

 澪はそう言うと、練習のためベースを取り出す。

 唯もやる気が戻り、ギターでドレミファソラシドと弾いている。

 

 

「ま、あんなところだな。黙って見守るしかないな」

 律は呆れて肩をすくめる。

「ですけどね、ひっじょーに込み入ったところに二人とも、入っている気がするんですよ。

正直もう、あいつらとは関わりたくないですよ! 伊藤って奴とも、桂って人とも、他のみんなとも!!

どんどんややこしくなるばかりじゃないですか!!」

「……まあ、私たちはそれでもいいかもしれないけどね、

唯や澪はそうはいくまい。本気であいつらが気にかかるみたいだから」ため息をつきながら、律は言った。「まあとりあえず、あたしらはあたしらで頑張ろうぜ。

ライブを済ませてさ、逆ナンパをしてさ、うちらにふさわしい彼氏を作ってさ、チェリーを卒業してさ、キャンプファイヤーで踊ってさ。

いい思い出を作ろうぜ」

「そうね、学祭の後にはケーキバイキングもあるし。みんなでたくさん食べましょう」

 ムギもうなずく。

「ま、以前にも言ったよね。苦しみが人を成長させるって。私もできる限りあなたたちのサポートはするから、楽しんできなさい」

 さわ子も腕組みをしながら、穏やかに言った。

 梓は一人、呟いた。

「もう地獄めぐりの気分……私たち、ただで帰れないかも……」

 

 

そして、学祭の日……

 

 

 

続く

 




これから学祭に入り、平沢唯と伊藤誠、周りの人達の関係は佳境を迎えます。
とはいえ、唯も誠もちょっと勝手だなあ。
ここからぐっとそれぞれの目的に向かってぐっと立ちますけどね。

澪と言葉ら、周りの人達の人間関係にも注目です。

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