Cross Ballade(けいおん!×School Daysシリーズ)   作:SPIRIT

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唯たちと一緒に食事を楽しんでいた誠の前に現れたのは、にっくき父、沢越止(さわごえとまる)。



第10話『岐路』

「なあ! ムギに何があったんだよ!!」

 世界を壁にぶつけて、律は問い詰めた。

 根負けしたような表情で、世界は口を開き始めた。

「実は……ムギさんが桂さんに、何かしようとしてるみたいなんです……」

「え……?」

 皆、唖然。

 言葉の体が凍る。世界は続ける。

「一応まだ計画の段階。それにあの人が言い出したことではなくて、どうも……七海に何かされたらしくて……」

「甘露寺さん……?」

 言葉が顔をしかめる。実を言うとある程度予想はついていた。

「知り合いか?」

「はい。中学生からの同級生でしたけど、そのころから意地悪でした……」

 澪の問いかけに、言葉は低い声で答える。

「私も」唯は世界に、「以前貴方とマコちゃんが付き合ってた時、マコちゃんにもう付きまとうなって、あの人に言われたことがあった」

「……」

 世界は唯を見て、やや後ろめたげな表情になる。話を続ける。

「それに……秋山さんもターゲットになってるらしくて……」

 凍りつく放課後ティータイム一同。

「え……」

「やっぱり」律の表情が険しくなる。「たぶん、澪が桂をかばっていることがばれたんだな」

「……」

 図星かもしれない。澪は声も出せない。

 誠は何も答えないまま、世界の瞳を見る。

 彼女は、思わず目をそらした。

 ガララ、ガチャッ。

 玄関の鍵が解除される音。

「あ、とりあえず母さんが帰ってきたみたいだから、ちょっと行くよ」

 声だけかけて誠は、玄関の方へ急いだ。

 

 

 黒い、重いドアが開く音。

 玄関にいたのは、案の定、母。

 母に連れ添っている男の顔を見て、急に誠の背に、寒気が走った。

 肩までかかる長髪、筋骨隆々。

 だがその目は、どす黒く濁っているように見えた。

 沢越止であった。

「親父……?」

「久しぶりだな」

 ニヤッと気味の悪い笑顔を、父は浮かべる。横で母は、後ろめたい顔つき。

「何だよその目は」止はすぐに気分を悪くして、「いたるを連れ戻したら、すぐ帰るからさ」

「マコちゃーん、どしたのー」

 廊下から、唯の声。

「あ、唯ちゃん、ちょっと……」

 誠が止めるのも聞かず、唯は彼の隣に来てしまう。

「……」

 止の目が、かすかに唯に向く。

「君、なかなかかわいいじゃんか」

 思わぬ止の声。

「え……」

 戸惑う唯の前に、

「萌子なんかより、ずっと……」

 止は、両手を広げて急に近寄って、唯に触れようとした。

 

 ばっ!!

 誠が止の手を払いのけ、仁王立ちになって、彼女を守るように立ちはだかる。

「何のつもりだ……?」

「こっちのセリフだ」

 睨みあう、親子の目と目。

「……あんたのすることはよくわかってる……。また同じことをするつもりか……」

「うるさいな……」

 詰る誠と、はぐらかす止。

 しばらく、沈黙。

 その中で誠の母は、息子の目の変わりようを冷徹に見ていた。

(あの子……)

「唯、どうした!?」

 律・澪・世界・言葉・憂・いたるが玄関にやってきた。

「! おとーさん……!!」

 いたるの顔が、恐怖と嫌悪の表情に変わった。

「いたる、迎えに来てやったぞ」

 いやがるいたるの手をぐいと引っ張り、止は自分の隣に引き寄せる。

「いたる……」

 思わず誠は、いたるを気にして唯から離れてしまう。

 唯はふと、慣れない感触にぞくっとなった。

「あ……」

 止の手が、唯の太ももをさすっている。

「く、貴方……!!」

 憂が出るより早く、誠が止の手を弾き飛ばす。

「手を出すんじゃないよ……!!」

 彼の声は、自分でも信じられないぐらい、荒い。

 鋭い目から出る威圧が周りに広がる……。

 逃げ出そうとする澪を、律は驚愕と焦燥の表情のまま抑えた。

 止は、誠の手を乱暴に払いのけ、

「いつまでそんなことを言ってられるかな?」

 嫌がるいたるの手を引いて、さっさと踵を返す。

 一瞬、その濁った目が、ちらりと唯を見た。

 それを感じ取り、誠は唯を守るように、さらに体を密着させる。

 それに気づいたときには、唯の鼓動はトクトクと速くなっていた。

 さりげなく、彼の腕に自分の腕を回す。

 ぬくもりが自分に、伝わってくる。

 それに気を取られ、言葉の嫉妬でいっぱいの眼光も、世界の悲しげな表情にも、気づかなかった。

 もちろん、「おにーちゃんと、はなれたくないー!」という、いたるの泣き声にも。

 

 

 皆皆気を取り直し、明かりがぼんやりとともるリビングで、手前勝手に座る。

「何、あの人……?」つややかな檜のテーブルに座った唯は、さっぱり状況が分からない。「マコちゃんの知り合い……?」

「沢越止。私の元夫」

 唯の斜向かいに座った誠の母は、冷めた声でため息をついた。

「止……?」

 ソファーに座った世界がふと、思案顔になる。

「おばさんの旦那さんってことは……」

「伊藤の親父さんか……」

「はい……」唯の隣にいる誠の表情は、暗い。「でも浮気症で、しかもやたら外で子供を作ることに熱心で……。ほとんどごろつき同然ですよ」

 ぎろっとソファーから、梓の冷たい視線。

 二股も三股もかけたあんたが言うな、という目つきである。

「私も口説かれて、ついつい結婚しちゃったけど……あんな人とは思わなかった」

 乾いた目で、天井を見上げる母。

「まあよ」立っている律が間に入り、「唯を変な目で見てやがったけど、唯がひとりっきりじゃなくて良かったぜ。持つべきものはダチだよな」

「自分で言うか」隣で澪は呆れて、「まあ、とりあえず良かったですよ」

「そうね。不快な思いをさせて、ごめんなさいね」

 誠の母は、落ち着いた声で言う。

「そう言えば貴方達は、どうしてうちに来たの?」

「「あの「ですね」、実はこの憂「さん」が……」」

 言葉と唯の声が重なった。

 誠はそれを抑えて、端的にこう答える。

「今日の学祭の時、いろいろあって、桜ケ丘軽音部の人たちと仲良くなってね、皆で食事を取ろうということになったんだ」

「そうなの」母は半信半疑の状態になりつつも、唯の方を向いて、「ああ、貴方が誠の言ってた、平沢さんね」

「え……? なんで分かるんですか……?」

「驚かなくてもいいじゃない。ぽーっとしてる感じで分かるわよ。成程、誠が特別な思いを抱いてるというわけね」

「い、いや、そういうわけじゃないよ、母さん……」

 顔を赤らめて誤魔化す誠。

「ただの友達です」

 ぶっきらぼうに答える言葉。

 2人を見て、母はくすくすと笑った。

 すると誠の携帯から、音のしない振動。

「ちょっと電話みたいなんで、行ってきますね」

「あ、ちょっと……」

 自分の部屋に行く誠を、澪は気になるといった表情で、見ていた。

 

 

 小ぢんまりとしているが、整理整頓されている自分の部屋。

 青いベッドに座り、誠は携帯の通話ボタンを押す。

「はい、伊藤ですけど」

「あ、誠。俺だ。泰介だ!! 実は大変なんだよ!!」

 親友の、いつものハイテンションな声である。

「……大変って何だ? ガチャガチャでベジータのフィギュアが当たったなんて言わせないぞ」

「馬鹿、ドラゴンボールの話じゃない!! まあ、うちにハチャメチャが押し寄せてきてるのは確かなんだけど」

「それはこっちもだよ。大体お前はたいていのことにはHEAD-CHA-LAって言ってなかったか?」

「それがそうはいかんのよ。実は放課後ティータイムのさわ子先生を、うちに連れてきてしまったんだ!!」

「ええっ!?」思わず面喰ってしまった。「ど、どうして……?」

「さあ……」電話の奥の声が、自信なさげになる。「喫茶店の掃除を終えて廊下に出たら、さわちゃんがふらふらしながらやってきたんだよ。なんだか服が乱れてたから、アレの後なんだとは思うけれど」

「……なるほど」誠は苦笑いしながら、「見事、弱みに付け込んでお持ち帰り、といったところか。でもよかったじゃねえか。大好きなさわちゃんを手に入れることができてさ」

「よくねえよ……。今は姉ちゃんに取られて、どうする事も出来ねえし」

「シスコンだしなお前は。ベジータのフィギュアも、全部取られてもどうすることもできなかったって言ってたしな」

 冗談半分に言って、自分の気持ちを和ませる。

「冷やかすなよお……」

「あははは……」

「まあ、さわちゃんの奴、『止さん、よすぎる』って呟いてばっかりなんだけどよ……」

 穏やかになりかけた誠だったが、『止さん』と聞いて、急に背筋に悪寒が走った。

 右こぶしに、力が入り、ガタガタ震えだしていく……。

「そう言えば誠、お前の親父の名前も『止』なんだっけ。

止って、俺が赤ん坊の時に家にいた父ちゃんの名前だって、姉ちゃんから聞かされたことがあるんだけど、これって偶然かなあ」

 泰介の言葉も、全く耳に入らず、

「悪い……泰介……ちょっと気分が悪くなったんで……切るな……」

「ちょっと待て! 質問に答え……!!」

 一方的に切断ボタンを押した。

 上がっていく息と、湧き上がる怒り……。

 どうすることもできない。

「親父の野郎おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

どおおおんっ!!

 力任せに、壁を叩いた。

 それでもムシャクシャが収まらず、また拳に力を入れると、びりっと壁が破れる。

「親父め……俺はあんたとは違う……唯ちゃんはあんたなんかに渡さない……」

 震える声で……。

 外に、聞いている人間がいるとも知らぬまま……。

 

 

「伊藤……」

 澪は、誠の部屋の茶色いドアの前で、耳をそばだてて聞いていた。

 いつもの彼女なら、怖がって逃げだすはずなのだが、なぜか恐怖はなく、代わりに悲しさと重い気持ちでいっぱいになっていた。

「秋山さん」

 言葉が、そばに来る。

「桂……。伊藤、つらそうだなと思って……どうも沢越止が、何かしたらしいんだ」

「そうですか……。私も誠君に、家族のことについて聞いたことがありましたけど、お父さんのことは、話したくなさそうでした。

その理由が、分かる気がします」誠の部屋のドアを見ながら、言葉は言う。「秋山さん達で、平沢さんを守ってやったらどうですか? 交代で平沢さんの家にいて、様子を見るとか」

 何だか他人事のようなアドバイス。まあ桂は、彼とのデートがあるから、しょうがないか。

「文字通り隔離ということか……。だけど明日は学祭最終日だし、唯は伊藤が好きだしな。本人が納得するといいんだけど」

 むすっとなった言葉。澪の中に焦りが広がる。

「……誠君の彼女は、私です」低い声で言葉は答え、「まあ、今夜は誠くんちに泊るつもりですよ。2人きりになったところで……」

 急に顔を赤らめた。

「……いや、その先は話さなくていいから。察しはつくし」澪も頬を染めて、「そのまま、外に出ないほうがいいかもしれないな。甘露寺達も狙ってるって話だしな……」

「もちろん、そのつもりです。平沢さんだって近づけたくないですし」

 急に言葉は、ニッコリした。

 澪は、その顔をみて、さらに気持ちが重くなり、唯のことを思い浮かべながら、

「少なくとも、伊藤がどちらを選んでも、あいつの気持ちを大事にしてくれ。

あいつが親父のことで、どれだけ苦しんでいるかも、分かってくれ……」

 

 

「止は浮気性なうえに、相手を妊娠させることに異様な執着を抱いているから……」

 皆、どん引き。

 母もさすがに、顔を赤らめているようだ。

「オイオイ、んなヤリチンに、あんたもなぜ引っかかったんすかねえ」

 腕枕をしながら、律は呆れた表情で問いかける。

 母は苦笑いしながら、

「誰にでもあるでしょう? 不良が雨の中子犬を拾ってるのを見て、惹かれるパターンは」

「私も……小さいころあった気がする」

 唯は、思わず遠い目をしてしまう。

「おいおい……唯まで同調すんなよ。まあプロセスはおいといて、私たちが唯を守るつもりだからさ。警察(サツ)にも言っておこうかねえ」

「……無理」きっぱりとした母の答え。「あの男には、警察にコネがあるし」

「うわっちゃー……」

 こめかみを押さえながら、ぼやく律。

「まさか……!」

 小声だが世界の声がしたので、唯はちらりと見る。

 世界は、何かを思い出したらしく、目をぐっと見開いていた。

「……西園寺さん……?」

 唯は、気になった。

 

 

 目薬をさして平静を装い、誠は唯達を送ることにした。

 食事を終えて、放課後ティータイムと憂・世界は、外の入口近くまで行く。

 誠と母、それに言葉と心が、それを見送る形である。

「ほんと、ご馳走様でした」

 澪が誠に、声をかけた。

「いやいや……不快な思いをさせて、申し訳なかったです……」

 誠はにこっと笑う。

「ううん、こちらこそ、憂にまでご馳走してくれて、ありがとう。ほら、憂も頭下げて」

 包丁はユニパックに入れたまま、唯が回収し、持ち帰ることにしていた。

 憂は姉の隣で、頭を下げさせられ、

「……ゴチソウサマデシタ……」

 多少棒読みに、言う。

「心こもってないなあ」

 ごねる唯の携帯から、メールの着信音が流れる。メッセージを見てみる。

「唯ちゃん?」

「お父さんからだよ。『今日は早めに帰るから、ご飯一緒に食べよう』だって」

「唯の両親は、ラブラブ夫婦だもんな」

 律の話を聞いて、胸がチクリと痛んだが、誠は、

「いいお父さんだね」

 と、無理に笑顔を作る。

「普通だよ」

 唯はにっこりと答え、父親にメールをする。

 部長の律が前に進み出て、

「唯のことは気にすんな。あたしらであの止って野郎から、唯を守るからさ。それと、澪、桂」

「ん?」「はい?」

「お前達はずっと家にいたほうがいいかもしれない。すでに甘露寺たちから目えつけられてるみてえだし」

「ごめんなさい……」

 冷静な表情の律の隣で、世界は頭を下げた。

「私は嫌です!」言葉は首を横に振り、「私は……誠君と一緒に、いたいですから!」

「言葉……」

 唯と世界の目の前で、誠の腕に抱きつく。

「ちょ……桂さん……!」

 不快に言う唯だが、何故か世界は無言で、目をそむけている。

「マコちゃんっ!」

 唯は耐え切れず、誠の目を見据えて、大声を上げた。

「……唯ちゃん……」

「私、やっぱりマコちゃんのこと、好きだから!

憂のしたことも含めて、マコちゃんに償いをしたいの……!!」

 心の底から、絞り出すように言っていた。

 誠は、哀しげな微笑みを浮かべ、

「償いたいのは、俺の方だよ。

親父のしようとしていることも含めて」

 言葉の抱きついていない側の手を、差し伸べる。

 唯はそれを、包み込むように両手で握った。

 その中で、不安な表情の澪と、不満げな言葉を察知し、律はきょろきょろと目玉を動かす。

「ん? 西園寺、怒らないの?」

 腕枕をしている律が、世界に問う。

「……田井中さんも、言ってたじゃないですか。望み薄だって」世界の憮然とした声。背を向ける。「私、少し街をぶらついてから帰ります」

「世界……」

 誠は不安と疑問に満ちた表情。

「……もう、桂さんでも平沢さんでも誰でもいいけど、楽しんできなさいね……」

 憮然とした顔、憮然とした声で、世界は誠に声をかけると、そのまま速足で去って行った。

 …………。

 皆、沈黙。

「世界……どうしたんだ……」

「つーかね」律がお手上げのポーズで、「なーんでお前ら、そんなに伊藤にこだわるんだよ」

「私は……」言葉は、「誠君がいないと、またひとりぼっちになってしまうんです」

「はー?」

「私、ずっとクラスで、友達いなくて、いじめられてるというか……孤立してて……」

 言葉は続ける。

「でも、誠君に会えて……はじめて……1人じゃないって、こんなにいいことなんだって、嬉しいことなんだって、教えてもらえた気がするんです」

「1人、か……」

 つぶやく澪。

「誠君といると、ドキドキするんですけど……それだけじゃなくて、嬉しいというか……温かい気持ちになるんです。

もし、誠君に嫌われたりしたら……また、元のさびしい私に戻っちゃう。ううん、もっとですよね」

「……」

 皆、視線を言葉に集中させる。

「2人でいることの楽しさを知っちゃったから、もし1人になったら、きっと……もっとつらいです。

つらくて、きっと死んじゃうかもしれないです……。

私にとって、誠君は自分の命と同じくらい大切な存在です……」

「言葉……」

 複雑な思いで、誠は言葉のうつむいた視線を見る。

「私は……いや、私達は、桂の友達だよ」

 澪が、不安と微笑みが半々の表情で、でも言葉の目をまっすぐ見て、答えた。

「秋山さん……」

「唯だって、伊藤のことで妥協できないだけで、貴方に悪い感情を持ってるわけじゃないし」

「……」

「でなければあの時、貴方のために泣くことはなかっただろう」

「……」

 唯も、思い出していた。

 あの時、本当に桂さんを案じていたと。

 屋上で、桂さんが澪ちゃんの隣で、元気そうでいた時は、本当にうれしかったと。

 思わず涙ぐみ、この人の豊満な胸の中で泣いていたこと……。

「ま、そう言うことにしとくわ」

「私も、貴方のことが嫌いなわけじゃないし」

 律があきらめたような口調で、梓がため息をつきながら、澪に同調する。

「貴方には、どうしてもあきらめられないワケがあるのですか、平沢さん?」

「……」

 言葉に問われても、唯は反論できなかった。

 確かに、自分にはそれほど、背負い込んでいるものなんて、ないんだ。

「桂さん……」唯はひきつった笑いを彼女に向け、「それなら、あまりマコちゃんにべたつくのもよくないんじゃない? マコちゃん嫌がると思うし……」

「それはこちらのセリフです」

 そっけない答え。引き寄せた腕も、放そうとしない。

 唯の胸が、誠の心が、痛くなる。

「ほら、唯先輩、行きますよ!!」

「あ……。じゃあお休み、マコちゃん」

 梓に腕を引っ張られ、唯は誠と別れた。

「おやすみなさい」

 彼は笑顔で、答える。

 澪が彼を、心配げな目で見ていることに、唯は一瞬、感づいた。

 そして、自分に向けられた、誠の複雑な視線も。

 

 

 唯達が去って、マンションは静かになる。

 虫の音が、聞こえ始めた。

「誠君……。今日は誠君のおうちに泊まっていいですか?」

「え……無断外泊はまずくないか?」

「大丈夫です。お父さんもお母さんも仕事でいないし、このまま明日も、ずーっと誠君と一緒に過ごしたいですから。学祭はさぼっても大丈夫でしょう」

「……そうなるか……」

 泰介に怒られそうなんだが。

 ともあれ、正直、言葉と一緒に昼まで寝過ごすのも悪くないかもしれない。

 その時、アメ車のように大きい、黒いベンツの車が、誠のマンションの前で停車する。

「うわっちゃー……うちの車だ……」

 言葉の隣で、心が頭をかきながら苦笑い。

「何でここが分かったんだろう……」

「実はお父さんに、今日は誠くんちで食事を取るって言ってたんだよね……。お父さんもお母さんも、今日は仕事で帰れないって言ってたけど、まさか早く終わるなんて……」

 残念な表情の心。言葉もがっかりした表情である。

 彼は、無言でいた。

 言葉も、唯ちゃんも、危機に陥っている。

 なのに自分は……何もできずにいる。

「しょうがないですね。明日早く起きて、学祭に行くことにします。本当はずっと誠君と一緒に過ごしたいんですけど。8時に校庭で、待っていますね」

 なんとなく、言葉との約束を守れるかわからなくて、誠は、

「……行けたらね……約束はできないけど……」

とだけ、答えた。

「誠君……」疑心的な、心の目。「もしかして、平沢さんって人に未練がある? お姉ちゃん、こんなに一生懸命なのに」

「それは、その……」

 答えられない。

「ま、あんな妹さんがいるから、愛想尽かしてるよね。それにお姉ちゃん、平沢さんと今のうちに差をつけたいと言ってたし」

「ちょ……心……!!」

 歯に衣着せぬ心を、言葉はリンゴのような顔で叱る。

「もう少し、考えてみるから、じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい……」

 言葉と心は、笑顔で挨拶をして帰っていく。

 約束は出来ないというのは、本当である。

 唯のことも、気になっているから。

「あ……」後ろ姿の言葉に、彼は声をかけた。「もしつらくなったら、秋山さんに相談した方がいいと思うよ」

「え……?」

 振り向いた彼女の表情は、怪訝。

「屋上に行った時、秋山さんと言葉、とってもいい雰囲気だったしさ」

 にっこりと、誠は懸命に笑顔を作った。

 が、なぜか言葉の表情が、曇り……そのまま背を向けて、歩きだした。

「やはり、容赦しないほうがいいわね……」

 言葉の呟きは、彼には聞こえなかった。

 

 

「あ! 財布落としちゃった」

 原巳浜駅の階段で、唯はあわてて引き返す。

「馬鹿! なにやってんだよ!!」

「もうすぐ次の電車来るぞ!!」

 文句を言う律と澪を無視しながら、唯は階段を駆け降りて改札口へ向かう。

 3つの自動改札の右隣に、白い改札窓があり、そこで1人の少女が駅員に、何かを手渡している。

 唯はその少女に、目が止った。

「西園寺さん……あ!」

 世界の手元にあるのは、まぎれもなく自分の財布。

「ちょっとそれ、私の財布!!」唯は改札口まで走って行って「ごめんなさい! その財布私のです!! ありがとうございます!!」

 笑って駅員から、財布を受け取った。

「よかった」世界は安堵の表情。「ほんとに……いい笑顔してますね……平沢さん」

「ほんと! ダブルでありがとう!!」

 唯の頬は、さらに緩んだ。

 それを見た世界の顔が、急に沈む。

「今まで、気づかなかったなんて……私って、ばかよね」

「え……」

 唯は、わけがわからない。

 世界はうつむき、静かな口調で話し始めた。

「誠のことが好きで、誠と他の女の子が付き合うのを横目で見ながら、歯がゆい思いして、挙句内緒で手を出した。

貴方は、私と同じだったのに……」

「西園寺さん……」

「なのに、貴方と誠が浮気してると思いこんで、貴方をあいつに近づけないようにして、あいつの気持ちを踏みにじって……」

 ぶつぶつと呟きながら、彼女は顔を上げる。

 涙がにじんでいた。

「おねがい、誠のそばにいてやってください……」

「え、でも……」唯は、戸惑った。「貴方だって、マコちゃんのことが好きなんでしょ。

それに、そんなことをしたら、桂さんが……」

「そうだよ。私も、まだあいつをあきらめてない……」

「だったら!」

「でも……あいつのことを嫌いって言っちゃったし……もう無理だと思う……。

だから、代わりに貴方が願いをかなえてほしい! 桂さんに勝ってほしいんです!!」

「西園寺……さん……」

「今、誠はつらい思いをしてるの……。

貴方の笑顔が、一番いい薬だと思う。

貴方がそばにいて、笑ってくれれば、いつでも一緒に笑えると思う。

そして、その笑顔を見られたら……きっと私も、笑えるかな、と思って……」

「……」

「約束……してくれますか……?」

「……うん……」

 誠に近づける嬉しさと、後ろめたさを半々に持つ形で、唯は、答えた。

「じゃあね」

 世界はぼそりと言って、唯と別れる。

 唯も急いでプラットホームへ戻ろうとすると、そばに梓がいた。

「あずにゃん!」

「唯先輩が遅いから、思わず来ちゃいましたけど……」と、梓。「西園寺! 貴方はそれでいいの!?」

 呼び止められる、後ろ姿の世界。

 振り向いたその顔には、涙がいっぱい溜っていた。

「だって……どのみち……私と沢越止のことを考えれば……私は……誠の彼女には……」

 ぐすりぐすりと泣きながら、世界は闇の中へ飛び出していく。

「西園寺さん!!」

 追おうとする唯だが、梓に止められる。

「今は、そっとしておきましょう」

 

 

 何とか、電車に間に合った。

「危なかったねー!!」

 何もなかったような笑顔を見せる唯。

「唯……」律は沈痛な面持ちで、「お前は、家にいたほうがいいかもな……」

「え、なんで?」

「お前自分の状況、分かってるのか!? あの変態から目えつけられてるんだぞ!!」

「分かってるよ……でも……このままマコちゃんに会えないなんて……」

「てん何とかムギに、奴の逮捕状を出させるようにできるといいんだけどな」

「何でムギ先輩に頼むんです?」

 梓が話に入ってきた。

「ムギの家族ならきっと、サツともつながりがあるだろうと思うから。

どうもおばさんの話じゃ、あいつはサツにもコネがあるらしくって、見逃してもらう形で無作為に女性を襲って妊娠させていたらしい……」

「うわあ……どうすんですかあ……」

 梓は声を震わせる。

「ムギのコネが、奴のコネを上回るといいんだが」

「だが、」澪は心配げに、「そうなると伊藤も、『犯罪者の息子』のレッテル貼りをされることになるな……」

「澪、人より自分の心配だろ。おめえ甘露寺から睨まれてんだぞ」

「分かってる……。でも、伊藤のことも気になるから。桂がどう思うか」

「私は関係ないよ!」唯は首を振って、「マコちゃんがどんなお父さんを持とうと、マコちゃんはマコちゃんだから!!」

「唯、お前はそれでいいのかもしれないけど……」

 澪はたしなめる。

 その時、律の携帯から、音のしない振動がした。

 開いてみる。

「……西園寺の奴……」

「律?」

「いや、なんでもない」律は首を振って、「後は澪だな。幸い私の知り合いに、澪ファンクラブの人がいるから、ちょっと相談してみることにするよ」

「律……」澪は安堵の表情を浮かべ、「ありがとな……いつもふざけてばかりいると思ったけど、優しいんだな……」

「バーカ、あたしはいつもマジだよ!」

 破顔一笑ではっはっはと笑う。

「西園寺……」梓は悲しい顔で去っていった世界を、ずっと気にしている。

「清浦に連絡した方が、いいかも……」

 

 

 ようやく、解放された。

 ムギは虚脱したようにフラフラしながら、家路についていた。

 夜の電燈が、付いたり消えたりしている。

 左手には、人一人いない公園が、ぼんやりとした明かりに照らされている。

 甘露寺さんのあの目、あれは、本気だ。

 肉食獣の目に怖じ気づき、澪ちゃんの家まで教えてしまった。

 子分たちもそろって、澪ちゃんに猛攻を加えることだろう……。

 自分のせいで、澪ちゃんは……。

「ムギさん!」

 背後から声をかけられ、びくっとなった。

 振り向くと、刹那。

 いつもの紙を貼ったような無表情で、そこにいる。

「やっぱり、友達を裏切った気分でいます?」

 何でこんな時に、人の心をえぐるようなことを言ってくるのか。

 耐え切れなくなった。

「もう……どうしようもないじゃないですか……。ぐすっ……。

甘露寺さんがあんな人だったなんて……ううっ……!」

 目がどうしようもなくなり、自分で気がついたときには、崩れた顔を手で埋めてしまっていた。

ぐすっ……ぐすっ……。

 泣き崩れてその場にしゃがみこむ。

 右肩に、暖かい感触。

 刹那の手。

「こっちに行きませんか? こちらも、話したいことがあります」

 

 

 夜の深い闇の中で、リーリリーリと、鈴虫の鳴き声だけが聞こえる。

 子供遊具用の、穴だらけの青いドームの上で、ムギと刹那は、並んで座った。

 ずっとすすり泣くムギ。

 刹那は、ムギの腰のほうに手をまわしていた。

 半刻程して、ようやくムギは、泣きやめた。

「清浦さんは……」励ましているようで、相変わらず無表情の刹那が憎くなり、「どうして、甘露寺さんを止めようとしないんですか?」

「できるわけないよ。矛先が私にいくのも嫌だし」

 考えてみれば、そうか……。

「それもそうですね……。でも、明日は榊野の門に来てくれって、甘露寺さんに言われちゃいましたし……」

「伊藤と連れを、そこで待つ、ということですね……。世界ならともかく、桂さんや平沢さんが連れなら、止めると」

「そう言うことです……」

 消えそうな声のムギに対して、刹那の言った言葉は、意外なものだった。

「いっそ、熱心になればいいじゃないですか」

「な……! 私はそんなことは……!!」

「そうじゃなくて、七海より先に捕えて、彼女が知らない間に見逃す、とか」

「そうですか……?」

 表面的には迎合するが、魂まで売らない、ということだろう。

 理解した時、ムギの頭の中で、何かがひらめく……。

「ちょっとお父様に連絡してみます。SP100人、いや、1000人動員できるかどうか」

「は……?」唖然となる刹那。「SPって……」

「ありがとう、清浦さん。突破口が見つかりました」

 そう言ってムギは携帯を取る。

 律から、無数のメールが来ていた。

 横で刹那も、自分の携帯を見てみる。

「…世界が伊藤を、あきらめた……!?」

「え……? どうして……?」

「分からない。中野から聞いたんだけど」

「そう……。となると甘露寺さんも、桂さんを狙う必要がなくならない……?」

「いや、七海は嫌いな相手には攻撃的だから。

ムギさんもSPがどうのこうの言ってるけど、できる限りの準備はした方がいいかもしれない」

「……」

 すっかり、ムギは怒りと失望、やるせなさでいっぱいになっていた。

 

 

 夜の闇の中、街のイルミネーションと駅のプラットホームが、ぎらつく光を放つ。

 桜ケ丘駅で放課後ティータイムは、電車を降りる。

 プラットホームのベンチで、ムギが待っていた。

 律は思わず駆け寄って、肩をつかみ、

「ムギ……大丈夫なのか……?」

「え……?」

「西園寺から聞いた……。

甘露寺に脅されて、桂になにかすることになったって……」

「……西園寺さん、言っちゃったんですか……」

 くすくすと笑うムギを、皆は唖然とした表情で見る。

「目が赤いぞ」

 と、澪。

 確かに、ムギは目を泣き腫らしていたが、そのことには触れず、

「私、実はそれで、SPを動員することにしたの。私個人の頼みでも、100人は動員できるから」

「……SP……100人……」

 ムギの家は、どれだけ金持ちなんだ。

「待て……」ずいっと澪が進み出て、「まさか、本当にあの子に危害を加えるつもりなんじゃ……!!」

「まさか。甘露寺さんの配下をうまく煙に巻く作戦ですよ」

 みな、安堵のため息。

「まあ、桂は気に食わねえけど、いくらなんでも甘露寺の行為はなあ……」律はまた1つため息をついて、「それともう1つ頼みがあってな。沢越止って知ってるか?」

「沢越止、ですか……?」

 ムギは、よく知っているような顔をする。

「知ってるのか」

「ええ、少し前にうちの会社の専務が2人ほど、あの人に手籠めにされてて……」目に憤りの炎がある。「あの人の逮捕状を出すよう、お父様に頼んでいたのよ。警察庁長官と親友だし……」

 皆皆茫然とする。どれだけトップオブトップとコネがあるんだ。

「出すんだね……」

 澪の目は、どこか悲しげ。

「明日SPも動員するから、彼らに沢越止の勾留もお願いするつもりよ」

「そーかそーか。唯があいつのストライクゾーンに入っちまったみたいなんで、重点的に守ってくれよな」

 律はドヤ顔で、うんうんとうなずく。

 とりあえず、これなら大丈夫だろう。

「私は反対だな」澪がうつむき加減に言う。「伊藤がどう思うか。沢越止は伊藤の親父さんだし」

「そうですか……?」

「おいおい、伊藤だって親父のこと嫌いだろ」律が呆れ気味に言う。「それに今は、唯がピンチなんだからさ」

「だが……。そのことが公になれば、伊藤も肩身が狭くなるだろう。何とか極秘で逮捕……とかできないのか?」

「それは……無理ですよ」

 ムギは困った顔で答えた。

「そんな……」

「そう言えば」ムギはちょっと、話題を変えた。「西園寺さんが、伊藤さんのことをあきらめたそうですね」

「そうなのか?」

 澪は思わず、面喰った表情。

「清浦さんから、聞きました」

「清浦には、私が教えましたよ。西園寺は自分の思いを、唯先輩に託してましたが」梓は冷めた表情で、「何かわけがあるんだと思って」

「……西園寺が、唯に……。とりあえず、桂にも伝えておくか……」

 澪は、言葉に電話をし始めた。

 律はすでに、携帯に耳を当てて、

「くそ、さわちゃんにも和にも連絡が取れないとは……」

 低い声で愚痴る。

「唯先輩は、ずっと家にいたほうがいいですね」梓は、「沢越止が逮捕されるまで」

「そう……」

 しょぼくれる唯。

 律も近づいて、

「もう伊藤には、近づかないほうがいいと思うぜ」

 彼女には珍しい、真剣な表情。

「そ、そんな……」唯は懊悩を隠しきれず、「あ、だって、西園寺さんからも……」

「西園寺は、ああいってたけどな。」律は世界のことをわかっているらしい。「あの止って変態もいることだし、伊藤だって、その悪影響を受けているとも限らん」

「そんなことないよ! マコちゃんはマコちゃんだよ!!」

「だめだぜ! とりあえず明日は、ずっと家にいたほうがいい。あたしらも外を見張ってるから!!」

「いやだよ!!」

「わからずやっ!!!」

 横から、皆がぎょっとする程の怒鳴り声。

 梓である。

「みんな唯先輩のことを心配してるんですよ!! なのにいっつもいっつも唯先輩は無視して……もう面倒見切れません!!」

「あずにゃん……わかってよお……」

「分かりません! もう唯先輩なんか、知りません!!」

 上ずった声で懇願する唯を、怒鳴るだけ怒鳴ると、梓はかかとを返し、他の軽音メンバーを無視して、夜の街へとあるきだす。

「お、おい梓、せめて唯んちの門番だけはしてくれよ!」

「知りません! もう何にもしてあげません!!」

 あわてて声をかける律だが、梓はもう堪忍袋の緒が切れたらしく、ぶっきらぼうに答えてしまった。

「梓ちゃん……」

 ムギの表情には、鬱の気がありありと出ていた。

 唯は……。

 梓のことも、他の皆のことも、頭の中に入ってなかった。

『償いたいのは、俺の方だよ。親父のしようとしていることも含めて。』

『誠のそばにいてやってください。

貴方がそばにいて、笑ってくれれば、いつでも一緒に笑えると思う。』

 誠と世界の言が、彼女の頭の中でリピートを繰り返す。

 続いて、誠のさびしげな表情、世界の哀願に満ちた目が、瞳の奥で思いだされる。

「マコちゃん……」

 ポケットにある、休憩所でくすねてきた物の手触りを、思わず、探っていた。

 

 

 唯達の会話が気になりながらも、少し離れたプラットホームの黒い席に座り、澪は言葉に電話をした。

「西園寺さんが、誠君をあきらめた……?」

 電話の中の言葉の声は、驚きと興ざめとがまじりあっている。

「ああ。唯を応援するそうだけど。多分、沢越止に絡んでいることだと思うが、まあそれは脇におこう」澪は、誰にも聞こえないように、「貴方か唯のどっちかが、伊藤の彼女になるな。さっきも言ったけれど、唯は貴方に敵意はないから、お手柔らかにやってくれ」

「……正直、私にはありましたね。まだあの人を、許しているわけじゃないんです」

 乾いた声だ。

 本当に頑固な人だ。

「……まあ、今晩は伊藤んちに泊まるんだろ。ゆっくり楽しみなよ」

「それが」乾いた声が低くなり、「うちの両親が予定より早く帰ってきてしまって……。うちには門限もあるから、家で怒られちゃいましたよ……」

「そうか、それは残念だな……」

 とりあえず言ったが、どっちに転んでも、澪の不安は収まらないだろう。

「もし、誠君が私を捨てるなら、私……自殺します。」

「え……!」

 そんな極端な。

「だって、誠君がいなくなったら、私には何も残らないんです」

「そんな……。私達、いや、私がいるって言ったじゃないか!」

「私に親切にしたせいで、いじめの矛先が貴方に向いても?」

 澪の不安が、恐怖に変わった。

「……それは……。でも、律だって必死に対策を考えてくれてるんだし……」

「『やっぱり怖い』という声ですけれど」

「そう……か……。

でも……。私だって、伊藤の代わりに、貴方の力になりたいって思ってる」

「……」

「何とか律に、桂のこともどうにかできるように頼んでみるから。」

「……」

 耳にあてた受話器は、無言だった。

 

「ったくよお! 有意義どころかサイッッッッッアクの思い出になりそうだぜ、今回は!!」

 律が誰にともなく、愚痴った。

「私も同感……。」

 ムギも呟いて、うつむいてしまった。

 自分のせいかな。

 唯はひとかけらの思いを、すくい取るように感じ取った。

「まあ、それはおこう。後1日あるんだし」澪がこちらへと戻ってくる。「沢越止はとりあえずの対策ができるなら、いいんじゃないかな。唯は私達や、伊藤が守ればそれでいいことだし」

「そうかあ?」

「唯」澪は話を、唯に振った。「明日は自由行動だから、伊藤のところに行っていい」

「ほんと!?」

 思わず唯は、目を輝かせてしまう。

「でもね、伊藤がだれを選んでも、お前と過ごすのを拒んでも、伊藤の気持ちを大事にしてくれ」

 澪らしい、優等生の答え。唯は気持ちがしぼんでしまった。

 それでも、「うん……」と力なく答える。

「でも……甘露寺さんは、伊藤さんは優柔不断のカイショウナシって言ってたし……」

 ムギが諌めてきた。

「ううん」澪は首を振って、「伊藤は、そんなに弱くないよ。あの言葉が真実ならば……」

「あの言葉?」

「……何でもない」

 そう言って澪は、半分悲しさが混じった微笑を浮かべた。

「おいおい、やけに伊藤をかばうよな」

 律が冷やかし半分に言う。

「私はまだ、澪ちゃんの言葉、信じられないわ」

 ムギの瞳には、潤みが入っている。

「いや、信じなくていいよ。ただ……後1日だし、しっかりとやらなきゃと思ってさ。それに伊藤は、桂がほれ込む人だから、信じてやっても悪くないと思って」

 澪は、自虐的な表情になりながらも、前向きな口調。

「澪にとっては」律がシニカルな笑みを浮かべ、「桂に会えたのが何より良き思い出なんですかねえ。ま、それもいいけど」

「だーから違うよ」

 顔を赤らめてムキになる澪を、唯は痛む心で見て……。

 誠の笑顔を思い浮かべ、気持ちを新たにすることにした。

 そうだ。

 自分にとっても、マコちゃんに会えたことが、1番の良い思い出なんだ。

 だから、明日は行こう。

 マコちゃんのもとへ。

 一方、澪はしばらく、考え込んだ後……。

「じゃあ、また明日」

 もと来た道を、引き返した。

 

 

 入浴を済ませた後、誠は自分の部屋でうずくまり、ひびの入った白い壁を見つめながら、物思いに沈んでいた。

「何であんな奴が、親父なんだろうな……。あんなクソ親父のせいで、唯ちゃんにも、軽音部の人たちにも迷惑かけて……」

 怒りのあまりぶつけた拳は、よほど強かったものとみられる。

「誠―、入っていい?」

「あ、はい」

 母が、彼の部屋に入ってきた。

「ん? 何やってんのよ、壁に穴開けて! 修理代何千万とかかるのよ!」

 母は誠の隣に、どさりと腰掛けながら文句を垂れる。

「ごめん、でも……桜ケ丘の先生が、バカ親父に襲われたと泰介から聞いて……ゆるせなくて……」

「そう……」母も彼の気持ちが分かるのか、怒りを鎮める。「そういえば、貴方の机を掃除してたんだけど、机の中から、無数の避妊器具が見つかって……」

「なっ!?」ぽっと顔を赤らめ、「何で知ってるんだよ!!」

「……血は、争えないのかしらね……」

 母はため息をついた。

「……言うなよ……!!」

「……ごめんなさい……。でも相手がどうなるか、分かってる……?」

「わかってる……。何であんな奴が親父なんだろうな……母さんを捨てて、軽音部の先生を襲って、そのくせ性欲だけは俺に植え付けて……」

 心からの本音。

「私も、今となっては何であんな男を好きになったのかと思うけどね……まあ、そういう思いがあるならば、やはりあの男とは違うでしょ。幸い相手が妊娠してないとすれば、まだ時間があるわ」

 誠は落ち着きを取り戻し、

「後2人……。後2人なんだ……」

「……。そういえば、1人減ってない? 以前私に話したのは、世界ちゃんと言葉さんと唯ちゃんの3人だったような……」

「あ、そういえば……」1人減ったことを、今まで気が付かなかった自分に驚いていた。「誰が消えたのか、それはちょっと言えないけど」

 本音である。

「もちろん、無理に言う必要はないけどね。貴方もちょっとずつ進歩してると思うなあ」

「でも、少なくとも今は、親父に目をつけられている唯ちゃんを守りたいんだ。

別に唯ちゃんが1番好き……というわけじゃなくて……親父の手で人生狂わされたら……つらいなと思うし」

 それを聞いて母は、じっと彼の目を見つめた。

「……?」

「それだけあの、唯ちゃんのことを気にかけてるってことは、唯ちゃんへの思いが強いわけじゃない?

ヒント、母さんにはつかめてきたな」

「い、いや、そういうわけじゃない!! ぶっちゃけ、恋とは違うような、気もするんだ……」

 目をぱちくりして、母は、

「はー? ……ま、今晩じっくり考えなさい。私も明日、早いから」母は部屋を出ていく。「あ、お風呂入った後悪いんだけど、ゴミ捨ててきてくれない?」

「あ、大丈夫……そして、ありがとう」

 誠は、心から微笑んで答えた。

 

 

 マンションのゴミ捨て場は、入口から少し外れたところにある。

 秋の夜空の中、ほんのひと囲いの屋根付きの仕切りの中で、1つの電燈がともり、そこに何匹かの蛾がたかっている。

 その中で、誠は両手に透明なごみ袋を持って、端っこに放り投げた。

「伊藤……」

 聞き覚えのある声が、耳に入った。

 振り向くと、澪。

「……秋山さん」

 思わず彼は、答える。

 ゆっくりとゴミ捨て場から出ていくと、マンションの灯りが、澪の真剣な顔を照らしていた。

 2人の横で、マンションの煉瓦が、2人をにらむかのように立っている。

 誠が目を合わせると、澪は一瞬顔を赤らめ、そっと目を背けた。

「……」

 彼女は再び真剣な顔になり、口を開いた。

「伊藤、頼みがある」

「え……」

「貴方が、辛いのは」澪の目に、憐みの表情が混じった。「貴方が辛いのは、とても分かる。

唯や桂や西園寺の板挟みで苦しんでいたということ。

あんな父親を持っていること。

父親のようになりたくないということ。

でもね、貴方の優柔不断のせいで、唯や桂がとても傷ついたというのには、気づいてほしいんだ」

「……それは、分かってました。」

「……そうか。ならいいんだ。でもこれだけは頼みたい。

唯と桂には、傷つけたことを一度、謝ってほしい」

「……謝る……」

「私は、貴方に悪意はなかったと信じたい。そして、唯にも桂にも、誠実な思い一筋だったということも」

 誠は暗い顔でうつむき、ボソリとつぶやいた。胃が痛かった。

「ねえ、俺って、生まれない方が良かったですか……? 親父から異常性欲を植えつけられた挙句、唯ちゃんも言葉も世界も傷つけて……」

 澪も思わず、黙ってしまった。

 薄暗い明かりの中で、鈴虫の声だけが響く。

 電灯に集る蛾は、ぐるぐると明かりを回っていく。

 やがて、澪がほほ笑みを浮かべて口を開いた。

「いや伊藤、貴方は生まれてきてよかったんだ。死んでいいわけがない。貴方が死んだら、唯も桂も悲しむ。

貴方だけじゃないよ。生まれてきた人間の中で、死んだほうがいい人間なんて、1人もいない」

「秋山さん……」

 誠の心のうちの氷が、溶け始めていた。

「人間が生きている限りは、必ず過ちを犯す。多分伊藤も私も、これから星の数ほど間違いを犯すと思うんだ。

でも間違えたら、その都度気づいて、反省して、そこからやり直せばいいと思うんだ。

そうやって人は大人になっていく。チェリー卒業とかそういうのじゃなくて」

「でも、俺はさんざ迷って、今も好きな人を誰か選べなくて……」

「伊藤、貴方の選ぶ人だ。どちらでもいいんだよ」うつむいた彼の顔を覗き込むように、澪はシリアスな眼差しを向け、重ねて言った。「でも、これだけは頼む。2人には、謝ってくれ」

 少し時間が流れた後……誠は顔を上げ、口を引き結んで、言った。

「わかりました」

「ありがとう。これだけが言いたかった」

 澪は満面の笑みを浮かべ、そのまま踵を返して、外の闇の中へ消えていった。

 

 

 澪と別れた後、部屋に戻り明かりを消して、布団にくるまる誠。

 仰向けになると、黒く輝く蛍光灯が、天井に浮かんでいる。

 振り子のように動くひもを見ながら、彼は物思いにふけっていた。

 いち早く心配したのは、唯ちゃんのことだった。

 バカ親父に狙われたということもあるんだろうけど……。

 母を捨て、唯ちゃんの先生を襲い、そして、自分に呪われた血を押しつけた、恨み骨髄の男。

 もちろん、それもあるが……。

 真っ先に心配するのは、唯ちゃんということに、いつの間にやらなってきている。

 言葉も甘露寺たちに狙われているというのだから、心配だけど……。

 なおかつ先に、唯ちゃんが浮かんだ。

 大きな存在になったのは確かだけど……

 恋心とは、違う気がする。

 結婚したいとかそういうのではなくて、

 ただ……そばにいて……

 自分を笑顔にしてほしいような……。

 その笑顔を汚すものは、許さないというか……。

 2人とも、大丈夫だといいんだけどなあ。

 …………

 あれこれ考えるうちに、気の遠くなるような睡魔が襲い始めた。

 

 

 

続く

 




てなわけで、誰も待っていないけれど、誠の父・沢越止の登場回です。
沢越止はSchoolDaysのキャラではないけど、姉妹作の『Summer ラディッシュへようこそ』『Summerバケーションへようこそ』の主人公です。
裕福な医師の家の実家に生まれ、海の家のオーナーになります。
が、性格は悪く、女を軽く見る上に性欲が強く、相手を妊娠させることに異様な執着を抱いていたため、ラストで去勢されるそうな。
この物語の最大の敵役にしてジョーカー的存在の登場で、誠の決断と唯との恋愛に次なる展開が待っています。
というわけで学祭1日目終了、2日目、最終決戦の始まりです。

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