「おい、ガキ。月並みで悪いがこいつの命が惜しければ、下手な真似をしないで言うことを聞いてもらうぜ」
「っ……!」
……今まで生きてきて、いくらかそれなりのピンチを乗り切ってきた自覚はあるものの。
正直、こんな唐突に絶体絶命の危機に立たされるってのは初めてなんじゃなかろうか。
何が不味いって、危ないのが俺だけじゃないってのが一番不味い。自分を落ち着かせる意味でも、俺は突如現れた敵と向かい合いながら、ことここにいたった経緯を思い出していた。
――――といっても、その内容自体は対して中身がない。
柳韻さんと別れ、改めて箒に親父がここに来ていることを伝えようと、慎重に先程箒を見かけた校舎に足を踏み入れた途端、
『なっ……『ISスクール』が起動を……!? っ、二秒後に『
「お、おい白煉! いきなり何……!」
白煉からいきなり警告が入った。何やら覚えのない単語も飛び出して取り敢えず説明を求めたかったものの、その声色からのっぴきならない事態であるのは推測出来たので、取り敢えずは白式の緊急展開に備えて身構えるが、
「あれ……?」
『……!』
展開されたのは待機形態をつけていた右腕のガントレットの部分のみ。こちらからもいつも展開するときと同じように念を送ってみるが、いくら頑張ってもそれ以上の変化はない。
……それに展開しない白式に気をとられて注意していなかったが、気づけば周囲の様子もおかしい。先程まで人で溢れていた昇降口は今や廊下の奥まで見渡せるほどで、本当に瞬く間に人の影が消え失せた。見ている景観もいつもと同じようで何処となく色彩に違和感があり、時々空間が歪むようにぶれ、その度に緑色のノイズが走ってその箇所が修正されている。
まるで神隠しにでも遭ってしまったかの如く、気づけば俺はこの『異界』に迷い込んでいた。
『……『量子空間』に閉じ込められました。オーダーの実行者の解除命令が出ない限り出ることは出来ず、ここにいる間は実行者が設定したルールに縛られることになります。『条件』を解析しますので、終了までは慎重に行動をお願いします』
「? ……よくわかんないけど、ISが展開出来ないのもその『ルールに縛られてる』ってことなのか? ……これも更識先輩の悪巧みってことはないか?」
『この機能は使用権限を与えられている人物が非常に限られています。生徒会長とはいえ、彼女にそれがあるようには思えません。まして学園祭の一行事に使用するなど……何にせよISの完全展開を封じられたことといい、あまり楽観できる状況でないことは確かです』
まあ仮にあの人の悪巧みだとしても楽観なんて出来ないが……それ『以下』の事態を想定しておいた方がいいってことか。やれやれ、どうしてこうも何かイベントがあるにつけてこうも厄介ごとに巻き込まれるのかね。
なんて内心ぼやきながら、白煉の解析が終わるのを待っていると、廊下の奥から足音が聞こえたので、様子を見に行ったところ……
――――事態は、冒頭に巻き戻るわけだ。
『――――マスター。言っても無駄かもしれませんが言っておきます。落ち着いてください』
……声が思いっきり裏返ってる時点で語るに落ちてるぜ、白煉。
まあこの相棒の憎まれ口は今に始まったことじゃないし、今回は割りと本気で有難かった。こいつが冷静さを欠いてるお陰で、こっちはのっけからブチ切れずに済んだ。といっても、状況は最悪がとても悪いになったくらいのものだが。
――――長い茶髪を無造作に伸ばした黒ずくめのライダースーツの女が、気を失った簪の首に腕を回し、もう片方の手で簪のこめかみに拳銃を突きつけた状態でこちらと対峙している。その台詞からもどうやら人質のつもりらしい……ふざけやがって。
「布仏を放せよクソブス」
「ヒュウ。知り合いかよ、こいつぁツキが回ってきたなァオイ。たまにゃあ拾いモンの一つもしてみるもんだ」
改めて状況を確認して思わず口から出た俺の言葉を聴いて、嬉しそうに口元を歪ませながら口笛を吹く女。
っ、しくじった……! くそ、白煉から念を押されてたにも拘らず早々に墓穴を掘った。やっぱりこういう腹芸は俺の本分じゃない、今は何とか簪を無事に救出することだけ考えるべきだ。
「そう怖ェ顔すんなよ……こちとらとって喰おうってわけじゃない。この『荷物』もテメエがいい子にしてりゃあ無傷で返してやらぁ。だから、まずはお話しようぜ、織斑一夏クンよォ」
「……何が目当てだ?」
「話が早ぇガキは嫌いじゃねぇぜ……テメエの『IS』をこっちに渡して貰おうか」
「……!」
まだ若干血の上った頭のお陰でその敵の言葉に一瞬動揺しかけるが、すぐに平静を取り繕う。この手の輩と正面から出くわすのは初だが、それらしい存在がいるのは以前から千冬姉から聞いてはいたし、そういう奴らがこっちに要求してくるものとしては一番予想できる範囲のものだ。
だからこそ、対策の一つや二つは考えていたが……まさか、こんなに早くお披露目することになるとはな。正直、まだ練習不足だし不安はあるが……
――――いけるな?
『はい。お任せください』
部分展開は出来ている。ISがある以上パワーアシストはあるし、なによりこの頼りになる相棒との意思疎通が一瞬かつノーモーションで行える……不安要素を埋めるだけの『助け』はある。なんとか……いや、絶対に上手くいかせる。
「……わかった。でも簪を離すのが先だ」
「テメエ……自分がどういう立場なのかわかってんのかよ、オイ?」
俺の返事が気に食わなかったらしく、引き金にかけた指の圧を強めながら凄む女……とっさに飛び出しそうになるが、堪える。焦った方が負ける。
「わかってないのはアンタの方だろ? 確かに本調子じゃないが、ISは使えるんだ。こっちはやろうと思えばアンタなんて三秒で捻れるんだぜ?」
「オイオイ、このメスガキは見殺しか? 冷てぇな、知り合いじゃねェのかよ?」
「確かに知ってる娘だけどな、流石に自分の命と天秤にはかけらんないっての……撃ちたきゃ撃てよ。それと同時に、アンタの首を貰うが」
「…………」
敵の視線が強まる……ここで逆上されて撃たれるのが一番不味いが、相手もこちらの出方を注視しだした。ハッタリは取り敢えず成功と見ていいかもしれない。後はどのタイミングで仕掛けるか……
「ハハ、クハハハハハハハハハハハッ!!」
「っ……何が可笑しい!?」
機会を伺っていたところで、敵がいきなりさもおかしいといった様子で爆笑しだした。
思わず呆気にとられそうになるが、なんとか気を取り直し先程までのの声で敵を問いただす。
「三文芝居はよせよぉ、サンピン。あんまりにミジメすぎて笑いがでらぁ……視線が常に人質に向かってる癖にそんな悪ぶって見せたって説得力ねぇよ、そんなんじゃ今時ガキだって騙せねぇぞ。あぁ悪い、ガキだったな」
「っ……!」
「だが……まぁいいさ。テメエのその涙ぐましいガンバリに免じて言うとおりにしてやるよ……そぉら、大事な荷物だ。落とすなよ?」
「なっ……!?」
敵の反応にやっぱ俺に腹芸はダメか、と改めて反省したところで……またしても、敵は思いもよらない行動をとった。
今まで人質にとっていた簪の背中をいきなりドンと突き飛ばし、こちらによこしてきたのだ。倒れそうになる簪を慌てて走り寄って抱きとめ、その温かさから気を失っているだけであることを改めて確認して、思わず安堵の息を吐いた。
『良かった……』
白煉も姿形こそ見えないが多分声からして同じ反応だろう。いつもだったらからかいの一言でも投げてるところだが、生憎今はそれどころじゃない。
「なんのつもりだ……?」
「なァに、楽を出来るに越したことはねェと思ったんだが、気が変わってな。オイガキ、さっきテメエ、私なんぞその気になれば三秒で捻れるつってくれたよな」
……言った、が。あのハッタリには、こいつは引っ掛からなかった筈、では。
「つまらねぇ一人芝居だろうとよ、これでテメエからISだけ掻っ攫って逃げてみろ。私は私を舐めてくれたクソガキに落とし前もつけさせずにケツ捲った情けねぇ女になっちまうだろうがよ……我慢ならねェだろう? そういうの」
「……知るかよ。人質使ってガキ相手にタカろうとた性根の腐った奴が今更何言ってんだ」
「クハハッ! 言ってくれるじゃねぇかクソガキ! 全くもってその通りだぁ!! だがま、それでも腐れた奴にはド腐れなりに譲っちゃならねェ一線ってのがあってな。要するにテメエはそこに触れちまったって訳だ、なァガキ――――!」
「っ……!」
敵が持っていた拳銃を投げ捨てて踏み込んでくる……それも速い! パワーアシスト、見える部分に装甲がないので確証がなかったが、敵もIS乗りだったということだ……!
「……白煉!」
『ご随意に。こちらで合わせます!』
給仕服のポケットにしまっていた指貫手袋を指先を引っ掛ける要領で引き抜き、宙に飛び出したそれを口で咥えながら白煉に合図。
同時に一回りミニマムサイズになった雪平が瞬時に展開、咥えた手袋に右手を突っ込んで指を通し、そのまま落ちてくる雪平を空中でキャッチ。落ちてきた時のスピードを殺さないまま指先で向きを変え、突っ込んでくる敵に突き込む。
「シッ……!」
後出しにしては我ながら上手くやったと思うが、敵も刀の腹を手の甲で弾くことで微妙に軌道をずらして対応してみせた……いつかの鈴を思わせる動きだ、あいつよりも動き自体は荒いが、体幹を中心に全体的に鍛え抜かれた筋肉から引き出される膂力をISのパワーアシストが下支えし精度の不足分を力尽くで修正してくる。
……基本的に技能中心の戦いになった今までのISバトルとは根本的に違う戦いだ、いつもの感覚でいくと苦戦は必至かもしれない……だがそれも、ちゃんと戦えばの話だが。
――――簪を取り戻した以上、こんな戦闘用筋肉女と真っ向からやりあう理由なんぞこっちにはない。白煉の分析が確かなら今のこの場所には俺たちしかいないらしいし、少なくとも簪の安全を確保できるまでは……
「とことん逃げに徹させて貰う……!」
「……何ぃ!?」
よし、成功……ここ最近の『傍から見れば痛い子』式トレーニングが功を奏し、手袋から発生したPICの不可視の糸が迫る敵の拳を絡めとった。『雪蜘蛛』はまだ強度的にはISを完全に拘束できる程のものではないが、束ねれば高速移動中の白式の重量を支えきるだけの強度はあり、当然そんなものが絡まれば動くのには不自由する。
刀を弾いたまま俺の顔面を捉えようとした拳が俺の腕に引かれる形で逆方向からの力によって引き戻され、敵の表情が一瞬困惑に染まる。だが、
「しゃらくせえぇッ!!」
『それ』がどういうものなのかをこの一瞬で見抜いたのか、敵は絡まった糸を振り払うように腕を大きく振り上げ拘束を解除する。
だがそれも予想の範囲内、だ。
「ぐっ、がっ……!?」
同時に真後ろに吹き飛ぶ敵……敵の腕に絡ませた糸を自分の足にも絡ませておいたのだ。敵が拘束を解除した時の馬鹿力をそのまま利用させて貰う形で放った蹴りは爪先が綺麗に敵の顎を捉えた。
ISを完全展開できないのが仇になったな。絶対防御があるとはいえ、あの馬鹿力で脳をシェイクされてはしばらく動けまい。なんにせよ、撤退するなら今だろう。蹲る敵とそのまますれ違う形で、簪を抱えたまま走り出す。
「白煉、ナビ! 布仏を匿える場所!!」
『この環境においてその条件を絶対満たせる場所の特定は難しいですが……何とかしましょう。今、ポイントを表示――――マスター!』
「……!」
白煉の警告にやや遅れる形で白式の接敵アラートが点灯する……新手、だと? それも……
「……上か!?」
とっさに飛び退いたところを黒光りする刃が天井ごと薙ぎ払っていき、最終的にガチン、っと鋭い金属音を響かせながら止まる……これは、鋏、か?
――――!
唐突なことにこちらが意識を奪われている間に、再び挟み込む動きで二本の刃が振るわれる。その一撃で天井は完全に抉り取られ、開いた穴から刃の持ち主が音もなく目の前に舞い降りた。
「っ……!」
その異様な姿に、思わず息を飲む。
……現れたのは機械で形作られた、まごう事なき巨大な『蟲』だった。一見機械とは思えない程滑らかな構造で繊細な動きをする八本の肢に、頭部に同じ数だけ存在し微かに赤い光を放つカメラアイ、そして先程見た、鋭い鋏を思わせる形の牙……そんな機械仕掛けの『蜘蛛』が、ガチガチと牙を鳴らしながら威嚇するように、こちらの行く手に立ちふさがっている。
ディティールもやけに細かいところまで凝っており、少し遠目から見れば本物の巨大蜘蛛にも見えかねない。虫が苦手な人が見れば下手すれば失神しそうな異容だ……俺は小学生時代に色々と悪戯という名の洗礼を受けているので大丈夫だが。どうしてあれくらいの歳頃のガキというのはやたらと虫に執着するのか。
――――キキキキキィ……
あっ、こいつ動くとすげえ嫌な音するぞ……俺やっぱこいつダメだ。
「ギ……!」
蝿叩きの要領で飛び掛ってきたデカい蜘蛛に雪平を叩きつける。我ながら滅茶苦茶な太刀筋だったが幼少期のトラウマを刺激されたせいで思った以上に力が出たのか、刃が直撃した蜘蛛は横に派手に吹き飛び壁に叩きつけられひっくり返った。
……手応えからして多分絶対防御が発動していた。ブルーティアーズのビットの発展型みたいな奴かと思ったが、こいつはこれ単体で一機のISのようだ……厄介な。とてもじゃないが人が乗ってる感じじゃないし、以前ここを襲撃してきた無人機と同じ類なんだろうか。
『……先程の対応も含めて色々言いたいことはありますが、取り敢えずは退避が最優先です。マスター、敵が体勢を立て直す前に、早く』
「ああ、わかってる」
つい条件反射的に剣を振るってしまったが、結果的に道は開けた。兎に角今はこの場から一刻も早く逃げ、簪の安全を確保しなくちゃならない。
「参ったな……」
白煉の話から想定はしていた筈だったんだが、実際に外部に助けを求められない状況に追い込まれたということを自分の目と耳で改めて実感するとなんというか少し色々と精神にくるものがある。
「オラァ! 出て来いガキィ! どこにいんのかはわかってんだぞコラァ!! 三秒で捻ってみせてくれよぉ!!!」
「うるせぇ! あの発言は取り消すから許してください!!」
さらに言えば、あのクソマッソォ女色んな意味でしつこい……厄介なことに、何故かあいつのISはあの蜘蛛型の無人機も含め、白式のコアネットワークのサーチで捉えられないのだ。その癖、向こうは正確とは言えずともこちらの場所を把握できているきらいがあり、校舎内のどこに逃げてもどちらかが常に追ってくる。今は白煉の予測と白式の接敵アラートのお陰で不意打ちをうけることは免れているものの、敵のマークを外すことは出来ていない。
校舎の外に逃げることも当然考えたが、叶わなかった……外の景色自体は今も見えてはいるが、この空間内では全部ハリボテだ。一回雪平で壁を破壊もしてみたが、直後に緑色のノイズが走って全てを修復してしまう。白煉が言うにはこの世界はこの『空間』だけで完全に完結している状態で、一度閉じ込められた以上はこれを作った張本人の解除の意思か、若しくは相当な『例外』でもない限り中から脱出は難しいらしい。
……なんにせよ、このままでは簪を避難させることが出来ない。パワーアシストのお陰で抱えている簪は羽毛のように軽く、抱えて走っても殆ど消耗はないが、敵に水面下で追われている現状何時までも手が塞がっている状態ではいざというとき困るかもしれない。なんとかならないか……
『現状ネットワークの回線を一方的にジャミングする方法は確立されていませんし、もしそれであるなら福音の時のように何かしらの手がかりが掴めるものです。こちらからネットワークでのサーチが全く利かないということは、向こうも同じ状況であることが推測されます。敵機の索敵方法を割り出せば、彼女を隠せる程度の時間は稼げると思いますが……』
「ネットワーク以外の、索敵方……?」
白煉の言葉を頭の中で反芻し……直後に敵の無人機の、あの姿を思い出した。
「そういや前にテレビの特番かなんかで見たんだけど……地上で狩りをするタイプの蜘蛛って、地面や壁から肢に伝わる振動を感知して獲物の場所を知ってるって言ってた気がしたな」
『マスター……確かに敵機は蜘蛛型の無人機ですが、あれはあくまでISで、あって――――』
俺の言葉を聞いた白煉は最初こそ呆れた様子だったが、すぐに言葉に詰まった様子で一旦黙り込んだ後、
『まさか、『アニムス』……? 元の機体の原型こそ全くないので気がつきませんでしたが、あれがかつてアメリカから鹵獲された、かの国の現在の第三世代機の雛形になった第二世代機の一つ、だったとしたなら……』
「……白煉?」
『……マスター。成功するかは少し賭けになる部分もありますが、あの無人機を撹乱できるかもしれません。『雪蜘蛛』、先程の要領でまた使用できそうですか?』
「……ああ! 任せとけ」
いつもの頼りになる、相棒の声でこちらに作戦を提案してきてくれる。まあ俺もさっきのは完全に思いつきで言ったのだが、今回は役に立てたようだ。
よし……方針も決まったなら、後は動くだけ、だ……?
「…………」
今、抱えてる簪の瞼が少し、動いた……いや、もう抱えてる腕から伝わってくる鼓動からもう、意識があることはなんとなく察してはいたが。
なのに、こうして意固地に意識を失った振りをするのはなんでだ? ……振り返って思い出すのは、さっき一瞬瞼を開けたときに見えた瞳に宿った彼女の感情。ほんの少しの安堵の気持ちと……それに勝る、大きな猜疑心だ。
「布仏。もしかして、さっきあの女と俺が話してるの、聞いてたか?」
「……!」
俺の問いに抱えた簪の体が僅かにビクンと動き、少しだけ震え始める……やっちまったかな。これは今まで積み上げてきたものを全部落っことしちまったかもしれない。だが……
「……全部、信じてくれなくてもいい。俺自身、自分が卑怯な奴だって自覚あるし、実際お前に隠してることだってある。でも、俺は――――」
そこまで言葉にして、詰まる。ああくそ、もうとっくにわかってるけど、一度誓いを破った俺が口にするには重すぎる言葉だ。でも、にげたりしない……進むって、決めたから。
「俺は……お前を守るよ。そうするって決めた。だからそれだけは……今だけでいいから、信じていてくれ」
「…………」
なんとか言い切ると、簪の震えが止まった。そしてゆっくり瞼を開けると、涙に濡れた、震える瞳で俺を見上げてくる。
そして……視線だけで、俺に聞いてくる。どうして? と。
……ったく。こんなやりとり、前もしたような気がするな。なんでこう、俺の周りには態々言ってやらねばわからない奴らが多いのか。こっ恥ずかしいんでいい加減勘弁して欲しいんだが。
「お前はさ、大したことじゃないって思ってるかもしれないけど……俺にとっては大切なものを、お前は先に守ってくれたろ? 嬉しかったんだ、とても」
「……?」
俺の答えを聞いても、きょとんとして不思議そうにするだけの簪……やっぱりわからない、か。でも、お前がそういう奴だからこそ。俺がここで踏ん張れる理由になる。
「はは、いいんだ。わかんなけりゃ、お前がいなくなったら泣く奴がいるってことだけ覚えといてくれりゃいい……そう思えばさ、少なくともここで諦めちまおうなんて、簡単には思えないだろ?」
「…………」
「おし……後ちょっとだけ、大人しく掴まっててくれ。あいつらを撒けるなら、隠れる場所に心当たりはあるんだ」
今度はわかったくれたのか、こっちを見上げながら一度だけコクンと頷いてくれる簪。そんな簪を見て少し笑いながら彼女の頭を軽く掌で二、三回ポンポンと叩くと、今度こそ意を決して走り出した。
『マスター』
「なんだよ? 作戦の概要はもう、大体頭に入ってるぞ?」
『……私は泣きませんから』
「…………わかってるっての。泣かしゃしねえよ、そのためにこれからあのクモ女に一泡吹かせるんだろ?」
……相変わらず素直じゃない相棒と、ISを通してそんな言葉を交わしながら。
「……何ぃ!? 反応が複数だぁ……? あのメスガキの方が目を覚まして分散したってことか……? いや……」
――――キキキキキィ……
「……仕方ねぇ。別々に当たってくぞ。どの道あのガキは袋のネズミだ、ここの外には逃げられやしねえ」
――――遠くから微かに声が聞こえる……それも、徐々に遠ざかっている。アラートの表示も次第に薄くっていく、どうやら賭けに俺たちは勝った。
俺は今、『雪蜘蛛』の糸を廊下から五、六センチくらいの位置に真っ直ぐに伸ばし、その上を歩いている。その糸は今まで通ってきた場所の何箇所かに手袋をつけた右手で触れることで、該当の場所に『繋げて』ある……これで移動の際の振動は糸を通してその場所に伝わり、かつ俺の位置からは振動が検出されずに、敵を欺くことが出来るわけだ。
……いやしかし、本当マジでリアル蜘蛛と同じ方法でこっちの場所を特定しているとは思わなかった。ISってホントなんなんだ。
「……っ」
ああでも、この誤魔化しもそう長くはもちそうにない。これだけ広範囲にわたって糸を張るのは今回が初めてだが、流石にイメージの維持がキツイ。ちょっと気を抜くと今立っている場所の力場のイメージにも綻びが出そうになり、集中を維持するために走ることすら出来ない。失敗は絶対に許されず、緊張感から視界はチカチカし、全身から脂汗が吹き出る。
こんな状況で襲われれば漏れなく一撃だろう。これより広範囲のイメージを形にして尚毅然とした態度を崩さなかった腕の中の少女との差を、改めて痛感せざるを得ない。
いっそのこと、簪も一緒に戦ってくれればとも思わなかったでもないが……あんなことを言った手前今更頼るのもあれな上に、なにより簪にあの敵のことをそれとなく尋ねると酷く怯えたのだ。話すだけでもそんな状態になってしまうような敵の前に彼女を出すのは、いくら彼女に戦う力があったとしても躊躇われた。やはり、当初の予定通り簪は可能な限り安全なところに隠すことにする。
『……!! っぁ……! ぅ……!!』
『わ、わかった! 悪かった! 悪かったから落ち着け! もう大丈夫、大丈夫だから!!』
……まあ、その後でやるべきことも増えた。先程の簪の怯え方は尋常じゃなかった。あのクソムシブスには、いったい簪にどんなお痛をしでかしてくれたのかを吐かせた上で相応の報いを受けて貰わねばなるまい。
そんな感じで内心闘志を燃やしているうちに、やっとこさ目的の場所にたどり着いた。
……生徒会室。正直あまりいい思い出がない場所だが、その元凶である部屋の主は今は当然留守にしていて無人だ。用があるのはこの部屋であって、この部屋ではない場所。
『ここは向こうからの音は聞こえるけど、こっちからの音はぜーんぶ聞こえないようになってるんだよ』
……状況的に余裕がなくて俺はすっかり流してしまったのほほんさんの言葉を、白煉はしっかり覚えてくれていた。
音というのは、実質的には『空気の振動』だ。それを通さないということは、ここの隠し部屋は内部からの振動を外に漏らさない性質があるってことで……つまり敵の索敵から逃れられる可能性が、現状では一番高い場所だってことだ。
のほほんさんの見よう見まねで、隠し扉の入口を叩く。少し不安だったものの直後に壁が翻り、あの時と違い心の準備が出来ていた俺は、簪と繋いでいた手を出来るだけ優しく振りほどくと、自分だけ一歩引いてその場から逃れた。
「……!」
逆にあの時の俺のように反応の遅れた簪は、為す術なく壁の向こうに消える……最後に簪は、信じられないものを見るような目をこちらに向けていた。
……無理もない。簪には事前に『安全なところがあるから一緒に隠れていよう』ってことで話を合わせていた。結果的には、俺はあいつを騙したことになる。
「言ったろ、俺は卑怯な奴だって……ごめんな、布仏。俺、家の姉貴みたいに何でも出来ないし、すげえ強いわけでもないから……こんなやり方でしか、お前を守れないんだ」
こっちの声は向こうには聞こえるみたいだし、最後に謝っておく……許してはもらえないかもしれないが、その時は仕方がない。ことが済んだら、所長にも謝りにいこう。
『マスター……』
「……いいんだ。早く行くぞ、白煉。俺の貧弱なイメージが維持できてるうちに、あいつらを出来るだけここから遠ざける仕事がまだ残ってる」
『……了解です。では一刻も早くこの場から退避を……!』
「……ぐっ!!」
後のことはともかく、取り敢えず為すべきことを一つ終えた。後はここから去りつつ白煉と今後のことを話し合おうとしたところで、異変は起きた。
――――頭の中でブツンという音が響いたのを最後に、急に今まで展開した『雪蜘蛛』の維持が出来なくなったのだ。体勢が崩れ、床に落ちるギリギリのところで、何とか再度糸の張りなおしが間に合う。
……何が起きたのかも同時に悟る。恐らく、今まで張ってきた雪蜘蛛の糸を何処かで『切られた』。その場を見ていないためとっさにイメージの修正も出来ず、顕現した力場が俺のイメージから外れていき、張った糸が連鎖的に崩壊を起こしたのだろう。だが、雪蜘蛛の糸は使用者である俺以外には視認できない筈……流石にあれから時間も経ったし、振動の発生源からこっちのタネを割られたか。なら、最初の奇襲の時と合わせて既に雪蜘蛛がどういうものかはある程度把握されてしまっていると見たほうが良さそうだ。
『イメージインターフェイス使用の反動を受けましたか……マスター、体調に問題はなさそうですか? 特に頭痛がしたりはしていませんか?』
「少しするけど大丈夫だ……急いだほうがいいな」
これで簪を先に発見されてしまうようでは今までの苦労が全部水泡に帰す。せめてもう少し生徒会室から離れてからこっちの居場所を奴らにアピールできれば……!
『っ……下です!』
「なっ……!」
白煉の警告と同時に横に跳び退く……が、今度の敵の攻撃は正直予想を超えていた。
赤い火花を迸らせながら、突如『何か』によって床と天井が同時に薙ぎ払われたのだ。退避先として準備していた糸も断ち切られて消え、足場を失くした俺は、為す術なく眼下の闇の中に落ちていくことしか、出来なかった。
アラクネ:国際テロ組織とされる『亡国機業』の手によって鹵獲された、元米国の第二世代機。亡国機業の改造によってフレームは最早かつての原型を留めていないものの、第三世代機開発のベースになるシステムを運用するために構築された機体構成はそのまま維持されている。
米国の第三世代機はそれぞれ一つ他のISでは再現できない専用兵装を保有しているのが特徴であり、完全ではないものの本機も他シリーズにおけるそれを搭載している。しかしこの武装はその性質の特殊性故にISが本来持つ自己修復機能による武装の修復・補充によって補填することが出来ず、本機は武装を生成する素材を確保し武装を維持するために定期的に有機物を摂取する。
即ち。本ISは、機械の体を持ちながら『食事』を必要とする。